10月の水月塾本部稽古~柳剛流剣術目録巻拝受、甲陽水月流/(武術・武道)
- 2017/10/16(Mon) -
 昨日は午後から、国際水月塾武術協会本部にて稽古。

 冒頭に師より、古式の作法に則って神前にて、柳剛流剣術目録の印可を賜る。

 合わせて伝書に記載の、

 「花もみじ冬の白雪見しことも
             思えばくやし色にめでけり」

 という武道歌をしたためた直筆の書をいただき、「この道歌の意味を、能々吟味すべし」とのお言葉をいただいた。

 今後もさらに柳剛流の「術」の研鑽、門下への指導、事跡研究に励まねばならぬと、決意を新たにした次第である。

1710_目録



 その後は、甲陽水月流柔術の稽古。

 本部門下のB氏とともに、師より奥伝逆投げ、太刀取りなどを指導していただく。柔の稽古がみっちりできるのも、本部稽古の大きな楽しみだ。


 稽古後はいつものように、師に同道させていただき小宴。

 夜8時、ほろ酔い気分で武州への帰路についた。

 (了)
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求めよ、さらば与えられん/(柳剛流)
- 2017/10/15(Sun) -
 昨日は久々に、当庵にて柳剛流を稽古する主要メンバーがそろって稽古に励んだ。

 「主要メンバーがそろって・・・」などと書くと、なにやら大層な員数のように感じられるが、そこはそれ、お江戸から電車で約1時間と、都から遠く離れた中山道の鄙びた稽古場である。

 実際のところは、現在、当庵で柳剛流を稽古しているのは私を含めてわずか5人であり、本日集まったのはそのうちの4名。

 よく言えば「少数精鋭」、ありていに言えば「小ぢんまり」としたものだ。

 とはいえ、そもそも現在、全国で柳剛流の剣術や居合、長刀(なぎなた)を稽古している人は、最大限に数えても25~26人、実際には継続的・定期的かつ柳剛流剣術等を専門的に稽古してる人数は10名前後しかいないと思われ、そのうちの約4割を占めるであろう我ら4人は、(いささか気負い過ぎではあるけれど)、流儀の未来を担う貴重な修行人であると自負している。



 本日の稽古では、居合の1本目「向一文字」、剣術の「右剣」と「左剣」、そして長刀をじっくりと稽古した。

 当庵の場合幸いなことに、柳剛流を学ぶ者全員が、武術・武道の有段者であり、しかも4名の門下中3名が何らかの流儀の5段以上という師範クラスなので、繊細な「術」の指導がどんどんできるのがありがたい。

 これがまったくの武術・武道の初心者に対してであれば、それこそ着座の仕方などの基本的な礼法、袴の付け方などの着装、木太刀の持ち方や握り方といった基本的な武具の扱い、さらに歩き方といった基本的な立ち居ふるまいなど、流儀の稽古以前のことから指導をしなければならず、「術」の稽古に入る以前の学びで、かなりの時間を要してしまうことになる。

 むろん、当庵では入門の条件に武術・武道の経験の有無は問うていないので、まったくの未経験者・初心者でも、希望すれば丁寧に指導をすることは言うまでもない。

 しかし、それにしても、座り方や立ち方、立礼・座礼などから指導するのは、教える側も教わる側も、なかなかたいへんだろうなあと思う。

 そういえば数年前、武術・武道の未経験者が入門したのだけれど、立礼と座礼の真・行・草から指導したら、その1回で辞めてしまった・・・・・・(苦笑)。

 またこれは外国人に多いのだけれど、正座ができない人、あるいは足首や足尖が硬いことから折敷の姿勢がとれないという人がいる。

 柳剛流の居合では、正座から抜き付け、折敷の姿勢で飛び違いながら受けや斬撃を行うので、正座や折敷の姿勢がとれないと、そもそも居合を稽古することができない。

 そして、居合は切紙で学ぶことになっているので、これができないと次の目録の業、そしてさらに上の免許の業に進むことができないのである。

 ゆえに、正座や折敷がとれない人には、できるようになるための訓練法やストレッチなどを指導するのだけれど、これらについては身体的な問題なので、なかなかおいそれとできるようにならないのが悩ましいところだ。

171014_柳剛流居合
▲柳剛流居合では、折敷いた姿勢のまま飛び違いつつ斬撃を行う



 とはいえ、「求めよ、さらば与えられん」ということで、指導する側も学ぶ側も根気よく励むことが大切であり、できる人にもできない人にも、丁寧に指導していきたいと心掛けている。

 (了)
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稽古着の仕立て直し/(身辺雑記)
- 2017/10/14(Sat) -
 柔術の稽古着と空手着を新調した。

 それにしても、武道関係の稽古着のサイズ表示というのは、まったく統一された規格がなく実に分かりにくい。今回も柔道着は3号だが、空手着は4号である。着る人間は同一だというのに。

 空手着は、注文したサイズでほぼそのまま(下衣が少し長いのだが)着ることができるのだが、柔術稽古用の柔道着に関しては袖がひどく長く、一方で身幅がやや狭いという、まさに帯に短し襷に長し状態である。

 もっとも袖の長さに関しては、もともと現在の一般的な柔道着では、古流柔術の稽古着としてはあまりに長すぎるため、最初から購入後に地元の業者に頼んで短く仕立て直してもらうつもりだったのだが、身幅が狭いのはどうしようもない。

 普段和服で生活をしていることもあり、稽古着とはいえ身幅が合わず胸元が開いてしまうのは、カッコ悪くて非常に不本意なのであるが、稽古着とはいえ1着で何千円もするのだから、そうそうポンポンと買い替えるわけにもいかぬ。

 ま、もう少しダイエットしろということか・・・・・・。

 そして先日、袖詰めのため業者に仕立て直しに出したところ、仕上がりまで1か月ほどかかるとのこと。

 たかが柔道着の袖詰めに、ずいぶん時間がかかるなあと思うのが、自分ではできないのでしかたがない。

 結局、新しい柔術の稽古着に袖を通すのは、来月になりそうである。

 こうなったらミシンでも買って、裁縫の稽古でもするかね(笑)。


 (おしまい)
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彰義隊と柳剛流/(柳剛流)
- 2017/10/12(Thu) -
 小説『大菩薩峠』の作者として有名な中里介山の著書に、『日本武術神妙記』がある。

 これは古今の典籍から、日本の剣豪や武術家のエピソードを取りまとめたもので、「昭和の剣豪小説家たちのバイブルとなった名著」(角川ソフィア文庫 裏表紙の惹句より)だそうな。

 残念なことに、本書では柳剛流に関する記述はないのだけれど、流祖・岡田惣右衛門や二代・一條左馬輔、江戸府内における柳剛流の大家・岡田十内、武州系柳剛流の最大師範家であった岡安英斎、地元角田はもとより岡田十内の元でも腕を磨いた仙台藩角田伝4代・泉冨次など、歴代の柳剛流大師範たちと同じ時代を生きた剣客の事跡の数々はたいへんに興味深い。

 そんな逸話のひとつに、次のようなものがある。

彰義隊と薩兵

 明治戊辰の頃彰義隊の武士が十二三名、薩摩の兵十五六名と街上に出会って、互いに剣を抜いて闘ったが暫くして彰義隊の方が三人まで薩兵の為に斬られてしまった。
 この彰義隊は何れも錚々たる剣術の使い手であったが、まず斯くの如き敗勢に陥ったのを見て隊長はどうも不思議だ、こんな筈はないと改めて自分の隊の姿勢を見直すと何れもいずれも正眼の形を離れて両腕を上にあげていたから、
「小手を下に」と大声で号令をかけて姿勢を直し、改めて太刀を合わせたので忽ちにして薩摩の兵を斬り尽くしたということである。 (剣道極意)




 このエピソードは、柳剛流を修行する者として、たいへんに示唆に富んだものだ。

 柳剛流剣術における「備之伝」や「備十五ヶ条フセギ秘伝」は、構え=術であるという流儀の教えであり、鍛錬法であるが、彰義隊の実戦におけるこの逸話は、「なるほど、備之伝や備十五ヶ条フセギ秘伝の示す術理とは、こういうことなのか!」と、思わず膝を打つものであった。

171012_柳剛流構え
▲柳剛流剣術(打太刀:小佐野淳師 仕太刀:瀬沼健司) 打太刀の晴眼、仕太刀の上段による残心



 ところで幕末の動乱時に上野の山で官軍を相手に気を吐いた彰義隊といえば、柳剛流とたいへんゆかりが深いことはあまり知られていない。

 当時、江戸府内で1200人以上の門人を誇った武州系の柳剛流大家・岡田十内は、「自分の門人は彰義隊側に300人、官軍の側にも200人いる」と述べ、彰義隊と官軍との紛争に大いに心を痛めたという(『雑誌并見聞録』より)。

 十内の述べている通り、彰義隊には幹部クラスから平隊士まで、たいへん多くの柳剛流剣士がいたことが、数多くの史料から明らかになっている。

 たとえばその筆頭は、彰義隊頭取で陸軍調役並。岡田十内門下で親子二代にわたって柳剛流を学んだ伴門五郎。

 幕府遊撃隊肝煎・撃剣教授として、鳥羽伏見の戦いから旧幕府軍に参加。彰義隊と官軍が激突した上野戦争では、最大の激戦地であった黒門の戦いで官軍の兵十六名を斬り伏せ、後の西南戦争では警視庁抜刀隊の一員として再び戦塵にまみえた、柳剛流屈指の実戦派・小川重助。

 彰義隊八番隊長で、その後函館まで転戦し最後まで官軍と戦い続けた寺沢正明。

 頭取で第二黒隊長となった、浅草・宗恩寺住職の織田主膳。

 本営詰組頭・第三白隊副隊長で、函館まで従軍した秋元寅之助。

 第二青隊伍長で、やはり函館まで戦い続けた加藤作太郎。

 第二黒隊副長、第十一番隊副長の本橋伊三郎。

 第一青隊伍長・鈴木蔓太郎。

 小川重助の元で戦い、明治には埼玉県志木市で柳剛流の道場「養気館」を設立、門人600名を誇ったという稲田八郎。

 彰義隊支援部隊に参加した中田範雄。

 安政2(1855)年より岡田十内門下となった、第一黄隊士・石上亥六。

 文久元(1861)年より岡田十内門下となった、第一青隊士・阿武野富太郎。

 文久3(1863)年より岡田十内門下となった、柴山仁太郎。

 岡田十内門下で上野戦争に参加。敗走後も函館まで転戦し、維新後は実業界で成功した永倉秀明。

 十内の弟子とよく間違われるが、正しくは松田源吾門下の柳剛流剣士である、彰義隊十一番隊長の横山(加藤)光造。

 そのほかにも数多くの柳剛流剣士たちが、彰義隊士として上野戦争に参加している。



 これら、彰義隊に参加した柳剛流剣士たちの事跡は、

・柳剛流研究の原典資料である、小林雅助著/明治40(1907)年発行の『雑誌并見聞録』
・彰義隊研究の一次史料である明治44(1911)年発行の『彰義隊戦史』
・彰義隊の生き残りである寺沢正明の回顧録『幕末秘録』
・『戸田市史・通史編上』
・『新修・蕨市史』
・研究誌『彰義隊の主唱者伴門五郎』
・埼玉県・三学院内の頌徳碑『伴門五郎之碑』
・岡田十内の門人帳である『神文帳』
・彰義隊士であった小川興郷の調査による『彰義隊士名簿』

 など、公開されているさまざまな史料に記されており、さらにそれらを網羅した研究成果は、関東近辺の柳剛流研究の第一人者である、辻淳先生のご労作である『戸田剣術古武道史』に、たいへん詳しくまとめられている。

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▲柳剛流と彰義隊との関係を調査する検証史料の原典である『雑誌并見聞録』の翻刻



 彰義隊と柳剛流との関係について、私は身を入れて調査をしたというわけではなく、武州系の柳剛流に関する全般的な調査やフィールドワークの中で、いくつか目にしたという程度だ。

 いずれは彰義隊と柳剛流に関する事跡についても、きちんとした調査に取り組みたいとは思っているのだけれど、何しろ自分自身の柳剛流の実技研鑽と門人への指導、そして糊口をしのぐ売文稼業で手いっぱいであり、事跡研究や歴史的な考証については、どうしても後手に回ってしまうのは、いたしかたがないかと思っている。

 それでも流儀に関する歴史的事実については、できるだけエビデンス(根拠)に基づいた記述や発言を行い、出典や引用先を明らかにし、間違いがあればすみやかに訂正するよう心掛けている。

 なぜなら古流武術において、流儀の伝系や事跡に関する誤りを放置し、あるいは私利私欲のために捏造や詐称を行うようなことは、時には戦いで尊い命を散らした流祖以来の無数の先人方はもとより、今現在、流儀の稽古に汗を流す真面目な門人たち、そしてまだ見ぬ未来の修行者と、過去から現在そして未来に至るまで、その流儀に関わる全ての人に対する、最大の侮辱であり冒涜なのだから。

 (了)
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野天稽古/(柳剛流)
- 2017/10/07(Sat) -
 昨夜、そろそろ稽古をしようかと思うと、折悪く雨が降ってきた。

 ひと降りごとに秋を深めるこの季節の雨は、残暑に疲れた体と心にはたいへん心地よいのだが、外で稽古ができなくなるのが難点だ。

 翠月庵の定例稽古にしても、自宅での稽古でも、私の場合、稽古は基本的に屋外で行うことが多い。

 屋内での稽古は、月1回の水月塾本部での稽古と、不定期に行っている埼玉県立武道館での稽古、そして当夜のように雨やあるいは時間が深夜になってしまったときに自室で行う稽古のみである。



 以前、武州における柳剛流の有力師範家のひとつであったF家を訪ねた際、江戸時代の稽古場の様子に関してお話しを伺うことができた。

 同家の中庭には、かつて間口3間、奥行き8間の稽古場があった。

 稽古場の真ん中には座敷が設えられて二分されており、実際に普段の稽古で使われていたのは3間×3間半程度の部分であったという。

 この広さでは、何人もの門人が同時に稽古をすることはできず、多くは広々とした中庭で木太刀や撓を振るっていたのではないかと、当代の御当主が話してくれた。

 思うにこのF師範家だけではなく、江戸末期から明治にかけて、武州各地で教線を張っていた多くの柳剛流師範家では、このように野天での稽古が主流であったのだろう。

 そういう意味で我が翠月庵は、柳剛流の伝統を墨守した由緒正しい野天稽古を今も継承しているということになる(苦笑)。

1702_柳剛流稽古



 野天稽古の良いところは、不整地での運足に習熟できることだ。

 野外ではちょっとした小石ひとつ、地面の傾斜や濡れ具合などで、足をとられて気をそらされたり、運足が乱れてしまうことが少なくないが、こうした経験は板の間の道場稽古だけでは得難いものだろう。

 また、よく口伝で伝えられる、「日光を背にしろ」だとか「風上に立て」、「ぬかるみでは卒爾に斬りかかるな」などという教えは、屋内での稽古しかしていないと「なるほどねえ・・・」くらいの感想しか持たないだろうが、普段から野外で稽古をしていると、実に切実かつ重要な教えであることが分かる。

 たとえば、西日の真逆光の方向に向かって手裏剣を打ったり刀を振るうと、的や相手の姿がたいへん見にくいことが体で実感できる。

 また、季節の移り変わりをしみじみと感じることができるのも、野天稽古の魅力だ。

 この季節、ひとりで柳剛流の備之伝の稽古などをしていると、木太刀の先に赤トンボがとまったりすることもあった。

 青眼に構えた柳剛流の長大な木太刀の剣先に、ふわりとトンボがとまったときには、なにやら自分が時代小説の登場人物になったような気分であった。

 しかし一昨年頃から、稽古場周辺のトンボの数が激減してしまい、こういう風情のある瞬間が見られなくなってしまったのは、まことに残念である。



 往時、江戸府内にある柳剛流の教場では、加賀藩士や津藩士などを中心とした武士たちが主な門人であったが、一方で武州各地に点在した柳剛流の各有力師範家では、たくさんの農民たちが柳剛流の剣を学び、野天の稽古場で木太刀や撓を振るっていたという。

 蒼穹が広がる秋空の下で柳剛流の稽古に励みながら、そんな遠い時代の風景に想いを馳せられるのも、古流を稽古する喜びのひとつである。

 (了)
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追想/(身辺雑記)
- 2017/10/06(Fri) -
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 世の中には「新しもの好き」というのがいて、新しいものであれば何はともあれ使ってみたい、所有してみたいというタイプがいる。

 一方で、同じく世の中には「懐古趣味」というものもあり、古いものを珍重し、ことさら懐かしがるタイプもいる。

 テレビ電話を使った遠隔取材など当たり前で、スマホがないと契約先の会社に外部スタッフ登録すらできないという21世紀の今、刀を振り回したり手裏剣を打ったり、野天にゴザを敷いて柔の稽古をしたり、和服を着て生活をしながら、居室のテレビはいまだにブラウン管で、就寝前に飯茶碗と兼用の井戸(風)茶碗で抹茶をたてて飲むことが何よりも楽しみであり、池波正太郎とスティーブン・キングと東直己の小説が読めれば、何ならテレビもなくていいや。あっ、でも時代劇専門チャンネルが見られなくなるのは、ちょっと寂しいなあ・・・・・・などと思っている私は、新しもの好きではなく、懐古趣味の人間であることは間違いない。



 「この世に生き残る生き物は、最も力の強いものか? そうではない。最も頭のいいものか? そうでもない。それは、変化に対応できる生き物だ」

 という警句めいた文句がダーウィンの言葉であるというのは、グルコサミンを飲むと膝が良くなるという話しと同じくらい真っ赤な嘘、デマなのだけれど、二流のビジネス書や自己啓発本などではいまだによく、このフレーズが使われている。 

 「だから変化に対応しなさい!」というのは、なにかとても強迫的な資本主義、消費社会からの押し付けのようで、うんざりすることしきりである。

 世の中には、「好んで変化したい人」「不承不承ながらも変化できる人」「望んでも変化できない人」のほかに、「自主的に好んで、できるだけ変化したくない人」というのもいるわけで、私は間違いなく「好んで変化したくない」部類の人間だ。

 つうかそもそも、「無理に変化して生き残りたくもないしな・・・・・・」という気分も多々ある、特に最近は。



 近頃はBSで1970年代前半のホームドラマなどを見ながら泥酔し、「嗚呼、あの頃に還りたい・・・」などとしみじみ思うことが少なくない。

 想えばあの時代、スマホもタブレットもパソコンも、アマゾンも楽天も、ビットコインや電気自動車も、シャワートイレもサイクロン式掃除機も何も無かったが、世の中はしっかりと機能し、それなりにうまく回っていたわけだ。

 できることなら、パソコンも携帯電話もない生活をしたいのであるが(スマホもタブレットも持っていない)、仕事がらそういうわけにもいかず、やむなく最低限のIT環境を受け入れ、使っている。

 理想は晩年の放哉のような、独座観念、静謐無言の生活なのだが、そのためには億単位の資産を得るか、あるいは腹をくくって乞食になるしかないのだろうが、私にはそのどちらもできそうにない。

 なにしろ今後、億単位の資産ができるような稼ぎがあるとは到底思えないし、一方で私は一晩髪を洗わないと頭がかゆくなって気が狂いそうになるので、毎日風呂に入れない乞食生活は到底無理だからだ。

 このため結局は、デスクトップパソコンのキーボードをカタカタと叩きながら、1文字5円や10円といったちんまりとした売文稼業で糊口をしのぎ、ときにはこうした1円にもならない駄文を書き散らして、差し迫った締め切りやクライアントの無理難題から現実逃避をしつつ、街の片隅で静かに生きてゆくしかないのであろう。



 ようするに何が言いたいかというと、「変化を強要される社会」で生きていくにはほとほとくたびれているのだが、さりとてことさら世をはかなんで死にたいわけでもなし。

 晩酌の折り、ほろ酔い加減で足りなくなった紙パックの「月桂冠 糖質ゼロ」を買いに行った近所のスーパーで、すれ違った小学生が英語教育早期化の影響か、ネイティブ顔負けの口跡で母親に「Oh! Apple」とか「here we go!」とか言っているのを小耳にはさむと、「けっ、墾田永年私財法とか、もののあはれとか、校倉造りとか、池泉回遊式庭園とか言ってみろってんだ」、とか思うのである・・・・・・。

 ま、私も由緒正しい「旧時代への追想に生きる、頑迷なクソジジイ」への階段を、一歩ずつ確実に登っているということか。

 南無八幡大菩薩。





 (おしまい)
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秘伝ノ長刀ヲ伝授ノ上ハ、諸流剣術多シト雖モ負クルコト、コレ有ルマジク候/(柳剛流)
- 2017/10/05(Thu) -
1710_松代演武_柳剛流長刀
▲柳剛流長刀 「左首巻」(打太刀:小佐野淳師 仕太刀:瀬沼健司)



 つい最近まで、残暑の厳しさにげんなりしていたのが、さすがに中秋の名月も過ぎて、灼熱地獄の武州・中山道もすっかり秋めいてきた。

 武芸の稽古にはうってつけの季節だけに、過酷な生業の合間を縫って、太刀をとり長刀を振るう。

 すでに何度かここで触れてきたように、柳剛流の長刀は免許秘伝の奥義であり、流祖・岡田惣右衛門は、

 「秘伝ノ長刀ヲ伝授ノ上ハ、諸流剣術多シト雖モ負クルコト、コレ有ルマジク候」


 と、記している。

 もっとも、剣術に比べて間合で圧倒的に有利な長刀だけに、「負けることなし」というのは、ある意味で言わずもがなであろうが、このように断言する文言に、流祖の「術」に込めた強い想いが感じられる。

 今から200年以上も前、流祖が心血を注いで編み出した長刀の「術」を受け継ぎ、流祖生誕の地であるここ武州にて日々それを鍛錬し、志ある門下にそれを伝えられるというのは、市井のいち武術・武道人である自分としてはたいへんに誇らしく、また責任の重さを痛感する。


 現在 武術伝習所 翠月庵/国際水月塾武術協会埼玉支部では、当庵筆頭で手裏剣術師範代を務めているY氏と、剣術指南処 幽玄会代表で夢想神伝流組太刀免許皆伝のU氏の2名が、柳剛流長刀の習得に熱心に励んでいる。

 (了)
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早朝、柳剛流居合を抜く前に、全日本剣道連盟居合についてつらつらと考える/(武術・武道)
- 2017/10/04(Wed) -
 若い頃・・・というか、わりあい最近まで、人いちばい寝つきがよく、しかも一度寝てしまえば、起きるべき時間までは、完全に熟睡することができた。

 ところが、ここ半年ほど寝つきが実に悪く、しかもひとたび寝ついても3~4時間ほどで一度目覚めてしまい、おまけに夢に死んだ人ばかりがたびたび登場するので(別に呪われたり、祟られたりしているわけではない。単なる追憶であり、むしろ夢見は懐かしく甘美だ・・・)眠りが浅い。

 昨晩も午後10時くらいには泥酔して寝てしまったのであるが、午前3時くらいに目覚めてしまい、その後も眠れず。しかたなく机について、朝の4時から仕事関連のメールを書いたりしている。

 そして今、午前5時。

 今日、原稿を書き始めるのは9時ごろからの予定なのだが、これからもう1度寝なおす気分でもない。しかたがないので、こんなところで駄文を書き、さらに仕事前に少し稽古でもしようかと思っている。

 こうした寝つきの悪さや眠りの浅さについて、知人の医療関係者に聞いたところ、「そりゃああんた、加齢だよ」と言われてしまった・・・・・・。

 歳はとりたくないものだ。



 全日本剣道連盟居合の8段審査で、古流の実技が撤廃されるのだという。

 同審査といえば、受審者と審査員との間の不適切な金銭授受がこの春に明らかとなったことも記憶に新しい。

 私は12歳のみぎり、八光流柔術伊豆道場の石津謙二先生に鹿島新流抜刀術を手ほどきしていただいて以来、36年ほど剣術や居合・抜刀術の稽古をしているけれど、全剣連の制定居合を学んだことは生涯で一度も無く、今後も無い。

 ゆえに、今回の8段審査での古流の実技撤廃についてとやかく言う立場でもないけれど、いささかの感慨はある。

 制定居合はすでに「全剣連流」として、独自の思想・理念・実体、そして権威・権益によって成立しているのであろうから、審査においての古流の実技撤廃というのは、ある意味で「成るべくして、なった」ことなのであろう。

 しかし、手元にある居合関連の古い書籍などを紐解くと、そもそも全剣連の制定居合というのは、古流居合への入門用として、諸流の技術・礼法の折衷により作られたものだという。

 およそ半世紀前に制定居合を取りまとめられた古流の諸先生方は、今回の出来事について、草場の陰でどのように想うのであろうか・・・・・・?

 そんなことをつらつらと考えつつ、これからしばし柳剛流居合を抜くこととしよう。

 流祖・岡田惣右衛門以来の、柳剛流歴代師範方に想いを馳せながら。

1710_柳剛流居合
▲柳剛流居合 「後詰」


 ■参考文献
 『居合各流範士校閲 居合道読本』西内雅 編著/おりじん書房(1975年)

 (了)
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演武を終えて、柳剛流を想う/(柳剛流)
- 2017/09/30(Sat) -
 先の週末に行われた松代での演武も無事終了し、翠月庵として、年度内の武術関連の行事は、年末の手裏剣術講習会以外、すべて滞りなく済んだことになる。

 このため、来年春の苗木城武術演武会まで半年以上の間、公式な演武などはない。



 今年は、4月の苗木城武術演武会を手始めに、5月に行われた水月塾主催諏訪明神社奉納演武会と松代藩文武学校武道会春の武術武芸会、そして先の同武道会秋の武術武芸会と、合計4回、柳剛流の演武を行った。

 なかでも水月塾主催の演武会と松代での2回の演武では、史上初めて柳剛流免許秘伝の長刀が公開され、流儀の歴史上、画期的な出来事となった。

 個人的には、春の松代での演武において、剣術の「左剣」の形、そして全般的に間合について課題を感じたのだが、それらについても今回の演武では改善できたと思う。

1709_柳剛流剣術「中合剣」
▲柳剛流剣術 「中合剣」(打太刀:小佐野淳師 仕太刀:瀬沼健司)



 「古流武術の稽古者にとって、演武は真剣勝負の場である」

 という考えから、今回の松代での演武についても、自分なりに技術的・精神的に集中し、数か月前から十分に心身を調えた上で臨んだ。

 このため今週は軽いバーンアウト状態で、演武が終わってから今日までの6日間、まったく木太刀を手にとっていない。

 その分、秋の夜長に、柳剛流関連の書籍や資料、伝書類などにゆっくりと目を通し、流儀のこれまでとこれからに想いを巡らせた。



 21世紀もすでに20年近くが過ぎた今、柳剛流を稽古する我々の使命は大きく3つある。

 一つは、流祖以来200年以上にわたって伝えられた柳剛流という無形の文化を、次の代に正しく、そして余すことなく伝えること。

 一つは、流儀の「業」=「術」を形骸化させることなく、武技としてあるべきレベルにまで磨き上げること。

 一つは、流儀の事跡を広く調査し、正しい伝承の歴史を後世に伝えていくこと。


  
 私のような浅学菲才、泥酔無頼の輩には、この3つの使命をすべて完璧に行うというのはいささか荷が重い。

 しかしながら、流祖・岡田惣右衛門が編み出した柳剛流という素晴らしい「術」が、この先も絶えることなく50年後、100年後にも伝えられているよう、微力ながらも力を尽くしていきたいと改めて思う。

 (了)
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第23回松代藩文武学校武道会 秋の武術武芸会/(柳剛流)
- 2017/09/26(Tue) -
 先の週末は、長野市松代町にある松代藩文武学校にて、松代藩文武学校武道会主催による「第23回松代藩文武学校武道会 秋の武術武芸会」が行われた。

 午前中は松代藩文武学校武道会所属の各流儀の門下生の演武、午後は各流派の師範演武ということで、私は国際水月塾武術協会の一員として午後の師範演武に参加。小佐野淳先生に打太刀をとっていただき、仙台藩角田伝柳剛流の演武を行った。



 前回、春の演武会では長刀をメインとして演武を行ったのだが、今回は師と相談の上、剣術を中心とした演武を披露した。

 まずは柳剛流剣術として、「右剣」「左剣」「晴眼右足頭(刀)」「晴眼左足頭(刀)」「中合剣」の5本の形を披露。

1709_松代演武_柳剛流剣術
▲柳剛流剣術


 続いて柳剛流長刀として、「左首巻」「上段右足」「切上」の3本の形を披露した。

1709_松代演武_柳剛流長刀
▲柳剛流長刀


  前回同様、多くの他流の先生方やその門下の皆さんの前で、柳剛流を披露することは、誇らしくも緊張感のあるひと時であった。

 個人的には、 前回、春の演武での反省点を踏まえて、それらの課題を改善した演武ができたと思う。

1709_松代演武会_集合
▲今回の演武会に参加した、小佐野淳師以下、国際水月塾武術協会一門



 演武会終了後は、地元居酒屋での小宴。

 地酒を酌み交わしながら、信州の夜がふけていった。



 翌日は、演武会の会場であった松代藩文武学校の槍術所にて、水月塾の特別稽古が行われた。

 私は、師より水月塾制定の日本柔術(甲陽水月流)のご指導をいただく。

 前日の演武会では、師と関西支部長のY師範による芸術的ともいえる、見事な柔術の「段取」が披露された。

 そこでこの日の稽古では、段取を師よりご教授いただいたのであるが、そもそも私は基本的な柔術の業そのものが十分にできていないこともあり、稽古前半は業の手直しで師を煩わせてしまった。

 それでもなんとか、稽古後半では初伝逆取の段取を半分まで、ご指導いただくことができた。

 とはいえ、なにしろ手順を追うだけでいっぱいいっぱいであり、甲陽水月流習得への道のりは相当に厳しいなと、その難しさを実感した次第である。

 また、この日の稽古では、柔術における拍子や位どり、あるいは作りや崩しの重要性について、師より厳しくご教授をいただくことができた。

 こと剣に関しては、こうした心法や口伝についての理解や経験、実感は人並みにはあるつもりであるが、柔(やわら)については我ながら未熟な点が多く、自身の課題の多さを実感する稽古であった。



 こうして武術三昧の充実した2日間は、あっという間に終了。

 新幹線で信州の地酒に酔いながら、武州への帰路についた。

 (了)
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