流祖の故郷、幸手にて/(柳剛流)
- 2017/11/18(Sat) -
 祥月命日である旧暦9月24日(新暦10月25日)からはずいぶん日が過ぎてしまったが、本日ようやく時間をとることができ、流祖の墓参のため幸手に向かった。

 流祖のご実家であるA家の方にご挨拶の上、墓前に線香を手向けて手を合わせ、柳剛流のさらなる練磨、伝承と普及を改めて誓う。

 その後、A家でお茶をいただきながら、流儀の近況などを報告させていただき、帰路についた。

 その際、「早い時期に収穫したものなので、ひと月ほどはもちますから、冬至の柚子湯にどうぞ」と、庭で採れた柚子をいただいた。

 流祖のご実家で育った柚子で、冬至の柚子湯をいただく。

 柳剛流を修行する者として、これほど名誉なことはない。

 これからも日々、倦まず弛まず柳剛流の稽古に励み、一人でも多くの志ある門人に流祖伝来の「術」を伝え、50年後、100年後も、柳剛流が日本のどこかで稽古されているように、最善を尽くしていこうと思う。


柳剛流  岡田惣右衛門奇良

東武の人なり。始めに心形刀流を習い、後に諸州で修行、而して脚を撃つことの妙を得る。潜して柳剛流という。文政九戌年九月死す。門人多し。~『新撰武術流祖録』より~




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▲ご実家の方々に大切に守られている、柳剛流祖・岡田惣右衛門尉源奇良の墓

 (了)
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形の意味/(柳剛流)
- 2017/11/17(Fri) -
 先日の空手道の稽古にて。

 師範から仰せつかり、有級の方々にバッサイ(大)の形を指導する。

 皆さんすでにかなりの期間、バッサイの形の稽古をしているはずなのだが、何しろ週1回のしかも集団指導での稽古なので、残念ながらアラが目立つ。

 なにより、分解(形に表現された技の使い方)の意味を十分に理解していないので、形における一挙手一投足が、武技の体をなしていない・・・・・・。

 そこで途中からは、分解を中心に指導する。

 手刀受けの意味と使い方、掛け手の意味と使い方、突き受けの意味と使い方など、1つ1つの動きの基本的な意味と使い方を解説。

 中でもバッサイ大の特長的な技である、掛け手での一本取りからの関節蹴りについては丁寧に、応用も含めて解説したのは、いささか自分の趣味に走りすぎたきらいもあるかもしれない。

 応用の解説をしていくうちに、なんだかだんだん柔の技みたいになってしまったのは・・・・・・ま、流れ武芸者ゆえの暴走である。



 武芸の稽古では、あまり理屈優先になると、エセ評論家のような者を量産することになりかねないので注意が必要だけれど、一方で大人、特に中高年の人への指導では、その動作や動きの意味と使い方を適宜明確に解説・指導していかないと、当人たちのモチベーションも上がらないのではなかろうか?

 特に空手の形のように、極限まで「記号化」された動きの場合、稽古する者にいわゆる「観の目」がないと、動作の意味に思いが至らず、本当に単なる体操になってしまう。

 これは古流武術の稽古でも同じだ。

 若くてイキの良い青年に対しては、「がたがた言わずに、右剣と左剣の形を100万回繰り返せ!」とか、「あれやこれや考えるヒマが有ったら、居合の向一文字を千回抜け!」的な指導でもよいだろう。

 こうした問答無用の過酷な稽古は、武術・武道人にとって、いずれかの時点で必ず1度は経験しておくべきことであるし、適切に行われれば、その効果も非常に大きい。

(逆に言えば、この手の稽古は適切に行われないと、単なるシゴキやイジメ、スリコミや洗脳の道具に堕してしまうので注意が必要である)。

 しかし一般的には、ある程度理屈の分かる中高年の稽古者や、すでに武芸の素養のある人に対しては、個別の技、運足や体捌き、運刀、そして形の原理や意味、使い方について、流儀の掟が許す範囲でできるだけ分かりやすく解説することが、指導する上で重要なのだと思う。



 柳剛流で考えれば、なぜ初学者は、最初に剣術の「右剣」と「左剣」の形を学ぶのか?

 指導する者は、その意味と目的、効果や効用について、弟子に明確に説明できなければならない。

 なぜ、柳剛流では脚を斬るのか?

 なぜ、飛び違いながら斬るのか?

 なぜ、「右剣」と「左剣」の次に居合を学ぶのか?

 なぜ、目録で学ぶ「柳剛刀」6本の形を当流極意というのか?

 なぜ、免許秘伝が長刀(なぎなた)なのか? 

 柳剛流を指導する者は、これらにすべてについて、その意味と目的、効果や効用について、弟子に問われれば明確に分かりやすく答えることができ、しかも当然ながらそれらの業について、武技として十分に実践できなければならない。

 その上で己も弟子も、これらの鍛錬の涯てに、万古不易の「天地の道理」を見いだす。

 武術を稽古し、それを人に教え、次代に伝えるという行為の真面目とは、そういうものではないだろうか?


 ~花紅葉冬のしら雪時しそと
           思えばくやしいろにめてけり~(柳剛流 武道歌)



 (了)
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柳剛流の特徴~山本邦夫教授の論考から(その4)/(柳剛流)
- 2017/11/16(Thu) -
 山本論文において、3つめの柳剛流の特徴として挙げられているのが、「かわった用具」だ。

 ここで山本教授は、柳剛流の木太刀、太刀、そして脛当について記している。

 まず木太刀については、以下のような記述がみられる。

 幕末にいたるまでの剣術のどの流派の木刀も「直刀」が多かったが、柳剛流のそれも同様である。



 これについて、幕末から明治にかけて制作され、実際に稽古で使用された柳剛流の木太刀で、現在まで伝わっていることが確認されているのは、私の知る限り武州・日光御成道沿いに教線を張った師範家である深井師範家伝来のものと、紀州藩田丸伝の5代である村林師範家伝来のもののみだ。

 このうち村林家伝来の柳剛流の木太刀は、長さ106cm(3尺4寸9分)、反り1.5cm(約5分)と、現在の剣道形で使われる普及型の木刀とそれほど変わらない寸法である。

 これに対して深井家伝来の木太刀は、最も短いもので129センチ(4尺2寸5分)、最も長いもので134センチ(4尺4寸2分)と、刀に写せば3尺刀にあたる長大な長木刀で、反りのない直刀である。

 山本論文で指摘されている柳剛流の「直刀」の木太刀は、深井家伝来のものを指していることは間違いないだろう。

 これは、山本教授が実際に深井家を訪れて、「伝書の調査と合わせて、長木刀を実見していった」という、現在の深井家御当主の証言からも明らかである。

木太刀2
▲日光御成道沿いで、幕末から明治そして大正まで、3代に渡って柳剛流を伝えた深井師範家に伝来する柳剛流の木太刀。この木太刀の寸法を真剣に置き換えると、茎が1尺、刃長が3尺2~4寸程度となる



 さて山本論文の問題は、この木太刀の後の記述、太刀に対しての部分である。

 しかし、太刀は、非常に変わっている。(中略)柳剛流では、薙刀の利点を刀法に取り入れた関係上、使用する太刀は3尺(約90センチメートル)以上という長いもので、普通よりも約20センチメートルも長かった。その上さらに切先3寸(約9センチメートル)のミネの部分にも刃がついていた。即ち諸刃である。これは脛を払い相手にかわされたら、そのまま返す刀のミネの部分の刃で切るという実用主義にのっとったものであった。



 まず、柳剛流の剣客が実際に佩用していた刀については、現在、出所が明らかなものは2つある。

 1つは、武州系を代表する柳剛流の剣客である岡田十内佩用のもので、刃長が93.5センチメートル(3尺8分)、切先が諸刃となっている。

 もう1口は、仙台藩角田伝の佐藤彌一郎師範佩用のもので、刃長は96センチメートル(3尺1寸6分)、切先は一般的な小切先である。

 このように現状では、わずか2口しか柳剛流の剣客が差料とした実物の刀は確認されていないのだが、そのいずれもがいわゆる3尺刀であるというのは、上記の深井家伝来の長木刀の寸法を考えても、たいへんに興味深い。

 一方で切先については、岡田十内の佩刀は山本論文にあるような諸刃の切先だが、佐藤彌一郎師範の佩刀は一般的な切先であり、私としては岡田十内の佩刀の形状のみを根拠に、「諸刃の切先の刀が、柳剛流の特徴である」と断言するのは、いささか勇み足ではないかと思う。

 ましてや、「脛を払い相手にかわされたら、そのまま返す刀のミネの部分の刃で切るという実用主義にのっとったものであった」との一文にいたっては、

1)仙台藩角田伝の柳剛流剣術や柳剛流居合の形=業には、そのような技は存在しない。
2)日本刀の構造上、峰部分での打突は刀に少なからぬ負担がかかるので、一般的にはほとんど用いられない。
3)運刀上、もし脚斬りがかわされた場合でも、わざわざ峰部分に刃を付けておいて斬る必要はなく、またそのような運刀は不自然であり非合理的である。脚斬りがかわされた場合、手首を返して普通の刃の部分を使って斬る方が、はるかに合理的である。
4)そもそも柳剛流剣術には、脚斬りをかわされた場合に対処するための形=業が存在しており、わざわざ諸刃の太刀という特殊な武具をあつらえて、それに特化した運刀上不合理な業を稽古する必要がない

 という4点からも、非常に信憑性の低いものだと考えられる。

 おそらく山本教授は、柳剛流の実技をまったく知らない状態で、岡田十内佩用の刀の諸刃の切先を見て、このような「推論」をしたのではないだろうか。

 そうでなければ、同教授はどのような史料や調査結果に基づいて、諸刃の切先を使った技法についての知見を得たのであろうか?

 この、諸刃の切先とそれを使った技という信憑性の低い話は、柳剛流の特徴として割合広く知られているものであるが、柳剛流の実技を伝承する者として、その間違いの可能性の高さを、改めてここに指摘しておく次第である(※)。



 山本論文では、「かわった用具」の一文の最後に、柳剛流で用いられた防具の脛当について、

 稽古のときには「脛当」を着用したことも他流では見られない大きな特徴であった。



 と述べている。

 この稽古用の脛当は、田丸伝の村林師範家に実物が伝来しているという。


※)ただし紀州藩田丸伝の柳剛流に、このような諸刃の切先を活かした技がある可能性は、(私は田丸伝の技法を詳細には存じ上げないために)、否定できない。また角田伝および武州系の各派では、岡田十内の佩刀のような特殊な刀の形状が有効であろうと思われる、ある特殊な業が存在するため、(これについては口伝のため、技法の詳細は秘す)、諸刃の太刀に関して、「柳剛流の技法とは、まったく関連性がない形状である」とまで断言することは、避けたいと思う。

 (つづく)
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完全なる休日/(身辺雑記)
- 2017/11/15(Wed) -
 この月~火曜は、ほぼ3週間ぶりにまる2日間、何も仕事をせず、稽古もしない完全な休日を過ごした。

 焼肉屋でタン塩をたらふく食べ、寄席でたっぷりと落語や漫談を聞いて大笑いし、自家製たこ焼きと鴨鍋を満喫し、エビスバーで存分にハーフ&ハーフを飲み、上野の森をのんびりと歩いた。

 人間やはり、休暇は大切である。


 これからまた年末年始にかけて、単行本の執筆、雑誌やwebの連載記事の仕事が山のようにあり、武術関連も年末恒例の合同稽古や手裏剣術講習など、多忙な日々が続く。

 またその中でも、自分自身の日々の稽古を欠かすことはできない。

 なにはともあれ、もう師走が目の前だ・・・・・・。

 (おしまい)
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柳剛流の特徴~山本邦夫教授の論考から(その3)/(柳剛流)
- 2017/11/10(Fri) -
 山本論文では、「柳剛流の特徴」の2つ目として「総合武術」という点を挙げている。

 柳剛流は仙台藩角田伝、武州系の各派、紀州藩田丸伝のいずれにおいても、剣術、居合、突杖(杖術)、体術(柔・殺活)で構成される総合武術であり、この点について山本論文の指摘は間違っていない。

 ただし山本論文では、上記に加えて「鎗」が含まれているとしている。

 剣術をはじめとして居合、突杖、薙刀、鎗、体術(死活之巻)などを合わせ稽古鍛錬するもので、総合的な武術といえる。



 この「鎗」についての記述は、柳剛流諸派で目録において伝授される「鎗 長刀 入伝」を元にしたと思われるが、柳剛流では鎗術そのものを稽古するということはない。

 この点で山本論文の記述は、「柳剛流では槍術の稽古体系や技もある」という誤解をされかねない表現となっており注意が必要だ。



 さらに山本論文では、柳剛流が総合武術であることの根拠として、岡安貞助が関根丈吉に授与した切紙と目録、岡田十内が飯箸鷹之輔に伝授した免許を翻刻して論文中に記載している。

 ところがこの翻刻の中でも、切紙の部分は誤りが多く、読む者の誤解を招く記述になっているのは非常に残念だ。

 山本論文に記された切紙の翻刻は、次のように掲載されている。

 切紙
 〇備之伝
  ・上段 ・中段 ・下段 ・向青眼
  ・平青眼 ・斜青眼 ・中道 ・右陰
  ・左陰 ・下陰 ・丸橋 ・右車
  ・左車 ・八艸 ・頓保
 〇右剣
 〇左剣
  ・ハジキ ・ハズシ ・右留
 〇風心刀
  ・居合 ・向一文字 ・右行 ・左行
  ・後詰 ・切上
 〇突杖
  ・左留 ・抜留




 この山本論文の翻刻では、本来3本で一連となっているべき剣術形(右剣、左剣、風心刀)から「風心刀」のみが分離され、しかも居合の総称が「風心刀」であるかのような記載となっている。

 そしてなにより、突杖については完全に分断された形で記載されており、まるで突杖の形が左留と抜留の2本しかなく、ハジキ・ハズシ・右留の3本は、あたかも「左剣」に含まれる形のような記載となっている。

 柳剛流の切紙で伝授される基本的な技法体系は、正しくは以下の通りだ(※)。

 切紙
 〇備之伝
  ・上段 ・中段 ・下段 ・向青眼
  ・平青眼 ・斜青眼 ・中道 ・右陰
  ・左陰 ・下陰 ・丸橋 ・右車
  ・左車 ・八艸 ・頓保
 〇右剣
 〇左剣
 〇風心刀
 〇居合
  ・向一文字 ・右行 ・左行
  ・後詰 ・切上
 〇突杖
  ・ハジキ ・ハズシ ・右留
  ・左留 ・抜留




 山本論文ではなぜ、このように読む人が内容を完全に誤解するような翻刻を掲載しているのか?

 単なる編集ミスというにはあまりにも大きな誤りであり、謎は深まるばかりである・・・・・・。

 ここでひとつ言える事は、柳剛流の実技を知っている者、稽古を実際にしている者であれば、このような意味不明な並びの翻刻は絶対にするわけがないということだ。

 この点からも山本教授が、伝書や口承、史料のみを参照し、柳剛流の実技を知らずに本論文を執筆したことが、強く推察できるのである。


※)武州系の一部、仙台藩角田伝、紀州藩田丸伝では、切紙で伝授される剣術に「風心刀」は含まれない。田丸伝では「右剣」「左剣」に加えてさらに6本の形が、切紙の段階で伝授される。また田丸伝では、突杖は切紙ではなく目録段階で伝授される。

 (つづく)
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多忙と清貧/(身辺雑記)
- 2017/11/09(Thu) -
 今日まで原稿書きにおいまくられて、15日間、翠月庵の稽古以外ほとんど仕事場から出ずに過ごした。このため、一番好きな秋を楽しむこともできず、気が付けばもう立冬、陽気はもはや初冬といった趣だ。

 それにしても、この半月の間はきつかった。

 インバウンドの仕事で飲食店の原稿を80軒分、企業ものの厄介なインタビュー原稿を4人分、温泉旅館の紹介記事を10軒分、社会福祉法人の企業ルポの原稿を1本。

 先月の24日から昨日まで休み無しで連日12時間以上机にかじりついてこれだけの原稿を書きまくっても、売り上げはわずか20万くらいにしかならないのだから、まったくお話にならない。

 しかも、このペースで1ヶ月は、体力的に到底働けぬ。

 これじゃあ、子供を大学には行かせらんないね・・・・・・、子供いないけど(爆)。



 来週、この夏に執筆した障害者総合支援法に関する解説本が発行される。また来月には、小学生向けの医学事典も出版される。

 この手の仕事は、着手してから現金化されるまでに半年くらいかかってしまうし、雑誌や新聞記事などに比べると地味なものだが、仕事としては堅実で内容的にもやりがいがあるし、社会的な意義もある。

 一方で、このまえやった(ヘルプで止むをえず受けた)、情報誌のラーメン特集の仕事などは、私はラーメンがそれほど好きではないにも関わらず、4日間で15軒のラーメン屋を取材し、しかもそのすべての店でラーメンを2杯ずつ食べなければならないという命がけの過酷な仕事であり、取材はかなり苦痛であった。

 ラーメン関係のライターは、たいがい短命である。

 ま、医学的に考えれば当然であり、あんなに体に悪いものを毎日2杯も3杯も食べていたら、確実に体を壊す。糖尿病→失明→透析→四肢壊死→合併症で死去という、最悪のコースに限りなく近づくリスク満点だ。

 というわけで、今月も別の雑誌のラーメン特集取材の依頼がきたのだが、(スケジュール的に対応できないこともあり)丁重にお断りした次第。

 できれば向こう3年ぐらいは、もうラーメンは食べたくない。蕎麦ならいくらでも食べるし、じゃんじゃん取材するんだけれどもナ。



 今日は午後から久々に都内に出て、某大学病院で腎臓病の腹膜透析に関する医師へのインタビューである。

 とはいえ、1時間インタビュー、掲載は1ページなので、さらっとこなしたいところだ。

 一方で、今月末からは、看護師や介護職向けの解剖学の単行本執筆を始めなければならず、合わせて毎月のルーチンである医療・介護雑誌のインタビューやら、インバウンド向け飲食店80軒原稿も引き続きある。さらに月末までに書かねばならない温泉旅館の原稿が、まだ30軒分ほど残っている。

 ・・・・・・やれやれ。

 仕事が忙しいのはありがたいことだが、これほど働いてもいっこうに儲からず、手裏剣の的の交換代にすら窮しているのは、われながらもののあはれを感じるところだ。

 とりあえず、手もとの貯蓄が500万くらいになるまでは、徹底して質素倹約第一の、清貧生活を続けねばならぬ。

 というか、五十路を前にして貯蓄がほとんどないというのは、我ながら社会人としてどうかと思うが、これまでの無頼な暮らしの報いである、止むをえまい。

 それにしても、貯蓄の目標達成まではあと20年ぐらいかかりそうだが、20年後といえば68歳か。

 先の長い話だのう・・・・・・。

 嗚呼、毎日、柳剛流の稽古と調査研究に専念し、たまさかには手裏剣を打ち、あとは読書と歌舞伎と文楽と落語を楽しみつつ、日々を悠々とほろ酔い気分で暮らす。

 そんな人生を送ってみたいと、しみじみ思う。

 カモン! 年末ジャンボ!!

 (おしまい)
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柳剛流の特徴~山本邦夫教授の論考から(その2)/(柳剛流)
- 2017/11/08(Wed) -
 山本邦夫教授は、『浦和市史研究 第2号』(浦和市総務部市史編さん室)掲載の「浦和における柳剛流剣術」(以下、山本論文)において、柳剛流の特徴を以下のようにまとめている。

1.斬足の法
2.総合武術
3.かわった用具
4.資格取得の簡略化
5.師家の無制約



 まず、1.の「斬足の法」についてから論考を始めよう。

 山本論文ではこの一節の最初に、

 斬足の法という奇抜な刀法が最大の特徴といえる。



 と記している。

 これについては私も異論はなく、そもそも柳剛流祖・岡田惣右衛門自身、斬足の法こそが当流の真面目であるとしている。

 ただ、ここで注意が必要なのは、これも本ブログではたびたび指摘してきたことではあるが、古流剣術において相手の脚を斬る技はけして特殊な、あるいは珍しいものではなく、諸流の形にも散見されるものだということだ。

 私が知っている限りでも、駒川改心流、力信流、柳生心眼流、天然理心流、直心影流(薙刀)などの形に、刀で相手の脚を斬る技を見ることができる。また、いわゆる「棒の手」といわれるものでも、相手の脚を斬る動きというものはよく見られるものだ。

 こうした点から「斬足の法」は、必ずしも柳剛流だけの完全無欠なオリジナル技法というわけではないという点は、修行者はしっかりと念頭に置いておくべきであろう。

 己が使う業は、相手も使う蓋然性があることを忘れてはならない。

1705_松代演武_柳剛流左剣
▲相手の脚を斬る「斬足の法」は、柳剛流最大の特徴



 続けて山本論文では、「斬足の法」についての解説の中で以下のような論考を記している。

 次の特徴は、頭や胴体、手足のどことも決めず、斬るのではなく突いて突いて突きまくるという点にあった。



 これは、山本論文の中でも最大の誤りであり、まったくの事実誤認であることを、ここで明確に指摘しておきたい。

 山本教授のこの記述は、三重県のM氏所蔵と言われる『奉献御寶前』という奉納額の写しの一文である、

 知身体四肢無一所不斬突也



 という部分の誤読であろう。

 柳剛流が江戸時代後期の他流試合などにおいて、小手や面に限らず、胴そして脚など、全身を広く打突部位としたというのは、当時の神道無念流の剣客の覚書にも記されており、「身体四肢について、斬ったり突いたりしないという場所はない」というこの一文を裏書きしている。

 しかし、どういうわけか山本論文では、これが「斬らずに、突いて突いて突きまくる」と、誤読されてしまっているのだ。

 実技から検討しても、少なくとも仙台藩角田伝 柳剛流剣術の実技・実伝においては、「斬らずに、突きまくる」、といったことはまったくない。

 むしろ剣技としての突きは、柳剛流では特段重視されていないことを、明言しておく次第である。



 そして山本論文では、「斬足の法」の一節を、以下のようにまとめている。

 太刀での優劣が終りまでつかないときは、剣を棄てて当身をくらわせ勝負を決めるというもので、極めて実戦的なものであった。



 この記述については、やはり先に挙げた『奉献御寶前』の一節に、

 闘数合而不見優劣則棄剣手捉以決勝敗



 とある。

 また実技・実伝からみても、

・かつての柳剛流諸派には、柔術技法や殺活術が伝えられていたこと

・仙台藩角田伝の柳剛流においては、現在、柔術技法や殺法は失伝しているが、免許で伝授される「組打」や「法活」(活法)は、実技が伝えられていること

 以上の点から、この部分の記述については、山本論文の指摘する通りだといえるだろう。

 (つづく)
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柳剛流の特徴~山本邦夫教授の論考から(その1)/(柳剛流)
- 2017/11/06(Mon) -
 埼玉大学の山本邦夫教授といえば、陸上競技がご専門ながら埼玉県内の古流武術を精力的に調査・研究された第一人者であり、一般向けの書籍では『埼玉武芸帳~江戸から明治へ~』(さきたま出版会)の著者として知られている。

 山本教授は柳剛流に関する著述も多く、私もそれを日ごろから精読させていただいている。そんな資料のひとつに、昭和62(1987)年3月に発行された『浦和市史研究 第2号』(浦和市総務部市史編さん室)掲載の「浦和における柳剛流剣術」という論考がある。

 これは、旧浦和市周辺に伝播した柳剛流について述べているものだが、かなりのスペースを使って柳剛流の起源や特徴といった、いわば流儀概要の解説を行っており非常に参考になるものだ。

 この中で山本教授は、「柳剛流の特徴」と題して流儀の解説しており、これがたいへん分かりやすいので、柳剛流の修行人という立場からこれらの指摘に対して、これから数回にわたり、私なりの祖述をしていきたいと思う。

 なお、この山本教授の論考は今から30年前のものであり、そうとうに限られた情報の中で記されたものである。

 そして何より、おそらく山本教授は柳剛流の実技・実伝をほとんど、あるいはまったく知らないまま、伝書や口承、史料によってのみで本論を記したと考えられる。

 このため、事実誤認や誤った推論、思い込みによる間違いもなども散見されるが、それらについても適宜指摘しておくつもりである。また参考文献等は、本稿の最終回にまとめて記載する。



 さて、山本教授が分類した柳剛流の特徴について考える前に、「浦和における柳剛流剣術」(以下、山本論文)の冒頭にある「柳剛流の起源 (i)流祖について」の中に記されている、たいへん大きな間違いについて、(これは以前、本ブログで指摘済だが)、改めて指摘しておく。

 山本論文では、柳剛流という流儀の名称の起源について解説する一文の中で、

 惣右衛門奇良が、弟子に出した印可の目録には
   「根をしめて 風にまかする 柳見よ
       なびく枝には 雪折れもなし」
 の古歌が必ずといってもよいほど記載されているが、ここからヒントを得て流名としたともいわれているが、(以下略)



 と記している。

 まず現在、流祖・岡田惣右衛門直筆と伝えられる伝書は、宮前華表太が石川良助に伝えた目録と免許の各1巻(石川家文書)しか確認されていない。

 そして、これらの伝書には、「根をしめて~」という古歌は記されていないのである。

 山本教授は、「惣右衛門奇良が弟子に出した印可の目録には、必ずといってもよいほど記載されている」と書いているが、そもそも石川家文書以外の、どこにある流祖直筆の伝書を、いったいいくつ確認したのだろうか?

 また、流祖直筆以外の各師範家の記した伝書類を確認しても、私が知る限り「根をしめて~」という歌が記載されている柳剛流の伝書というものは見たことがない。

 もちろん私が確認している柳剛流の伝書は、厖大な中の一部分にすぎないが・・・・・・。

 思うに、この「根をしめて~云々」という話は、森田栄先生の『日本剣道史 第10号 柳剛流研究 その1』に記されている、森田先生が自らの“想像を語る一文”に引きずられた記述であろうということも、以前、本ブログで指摘した。

 なお、この古歌に関する話と同様に、

 岸辺の柳が強い風で川面を打っているのを見たことから名付けられたとされる(Wikipedia「柳剛流」より)



 というエピソードについても、私はそれを示す伝書や碑文、奉納額などの一次史料を見たことがない。

 柳剛流の流儀名に関するこの2つの話は、かなり広く流布されているようであり、影響が大きいだろうことから、ここに改めてその誤り、あるいは信憑性の低さを指摘しておく次第である。

 なお、角田市長泉寺にある流祖の頌徳碑には、

 柔能制剛是猶柳枝之風向欲撓不撓欲断不断也



 と記されているが、「根をしめて~」の古歌云々、あるいは「柳が川面を打つ」云々といった記述はない。

 他の頌徳碑や奉納額、伝書や添書、手付けなど、現在確認できる史料についても同様であり、「根をしめて~」の古歌と柳剛流の流名の関係を示す史料、あるいは「柳が川面を打つ云々」と記した史料は、私の知る限りは見当たらない。

 柳剛流の流名と、「根をしめて~」の古歌との関係、また「柳が川面を打つ」という記述のある、質の高い一次史料をご存知の方は、ぜひご教授をお願いしたいと思っている。

1711_柳剛流碑
▲現在、全国に3つある流祖の頌徳碑のひとつ、埼玉県幸手市にある慶應元(1865)年に建てられた「柳剛流祖岡田先生之碑」。もちろんこの碑文にも、「根をしめて~云々」といった古歌の記述、あるいは「柳が川面を打つ」といった記述はない



 ということで、次回から本論に入ります。

 (つづく)
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武州の農民剣法/(柳剛流)
- 2017/11/05(Sun) -
 昭和の国民的作家である司馬遼太郎は、その作品中でたびたび、悪役や噛ませ犬的な剣客の使う流儀として柳剛流を取り上げ、「野卑で卑怯な百姓剣法」などといった負のイメージを作り上げた、いわばA級戦犯である(苦笑)。

 おかげで、テレビ時代劇『水戸黄門』のなかのセリフでまで、「相手の脛を払う 卑怯な剣術です!」呼ばわりされる始末だ・・・・・・。

 以前は、こういったメディアで流布された流儀に対する負のイメージについて、「何するものぞ!」という気持ちが強く、そういった誹謗中傷を正し、流儀の名誉を挽回するためにも「業を磨かねば!」 といった、いささか気負った気持ちが強かった。

 しかしここ最近、荒川にほど近い田園に囲まれた我が翠月庵の野天稽古場で、門下とともに武蔵野のからっ風に吹かれながら、裂帛の掛け声を存分にかけつつ柳剛流の稽古を心ゆくまでしていると、

 「これぞまさに、武州の農民剣法!」

 といった、ある種清々しい心持ちになってくるようになった(笑)。

 もちろん厳密には、私たちの伝は仙台藩の角田・丸森に伝わった柳剛流であり、伊達家筆頭である石川家中、角田城下の成教書院で練磨されてきた武士の剣の流れを汲んでいる。

 あるいは角田伝以外でも、柳剛流は幕臣をはじめ、前田家中や藤堂家中など、数多くの武士たちに稽古されてきた。

 しかし一方で、ここ武州では多くの農民たちが、現在の私たちと同じように武蔵野の風に吹かれながら、荒川沿いや江戸川沿い、あるいは中山道や日光御成道沿いの農村に点在する野天稽古場で、4尺4寸の長木刀を振るいながら、流祖・岡田惣右衛門が編み出したこの流儀に精進してきたのだ。

 そんな数多くの、無名の農民剣士たちに想いを馳せつつ、蒼穹の下でのびのびと稽古をしていると、

 「農民剣法、いいんじゃない」

 と思う、今日この頃なのであった。


切紙3
▲日光御成道沿いの豪農であった、柳剛流師範家・深井派の切紙

 (了)
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幸手剣友会柳剛流部の先生方による柳剛流の演武/(柳剛流)
- 2017/11/04(Sat) -
 本日11月4日(土曜)の13時すぎから、幸手市にあるアスカル幸手(さくらホール)にて、第57回幸手市文化祭の発表のひとつとして、幸手剣友会柳剛流部の先生方による演武が行われるとのこと。

 私は午後から翠月庵の稽古があるため、今日の幸手での演武は見ることができないが、来年はぜひ拝見しに行きたいなと思っている。

 なお、幸手剣友会柳剛流部は、幸手市武道館で月に数回、定期的に稽古をしているので、関心のある方は幸手市武道館(http://www.nem-shiteikanri.jp/shisetsu/satte/)に問い合わせれば、指導者の先生方に取り次いでくれる。


1711_幸手市剣連伝柳剛流
▲幸手剣友会柳剛流部の先生方による柳剛流剣術の演武(2015.6.21)

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