本復/(身辺雑記)
- 2017/03/24(Fri) -
 先週の体調不良は、どうもインフルエンザだったようである・・・・・・。

 週初めに発症し、週末には平熱となって、先週土曜の翠月庵の稽古は行ったものの、関節の痛みや体力の低下などで、その後もしばらく、仕事や稽古を控えつつ静養していた。

 結局、13日(月曜)の発症から10日ほどかけて、ようやくこの週末で、心身共に完全に回復したかなという感じである。

 このため自宅での稽古も、よくやく今日から再開。

 昼間、3000文字ほどのインタビュー原稿を執筆したあと、夜半刻ほどかけて、柳剛流の備之伝、備フセギ秘伝、剣術、居合、突杖、長刀をひと通りおさらいする。

 ごくごく軽い自宅での稽古であるが、心も体も実に心地よい。

 そして、「オレは柳剛流が好きなのだなあ・・・」と、しみじみ思う。



 若い頃、年配の先輩や先生方が、「武芸では養生も大切なのだ」などという話していると、正直、爺むさい話だナアなどと思っていたものだが、たかがインフルエンザですっかりココロもカラダも弱ってしまう歳になると、少しでも長く、稽古を続けるためには、己の体の養生が本当に大切なのだと思う。

 「無事、これ名馬」というのは、私の空手の師であった玄制流の土佐邦彦先生が度々おっしゃっていた言葉だが、知命の歳を目の前にすると、本当にそうなのだと実感する。

 そういう意味で、たとえば今日の取り組みで負傷した稀勢の里のケガが、大事ない事も心から祈っている。

 (おしまい)
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仙台藩角田伝柳剛流の技術体系の変遷について~予告編/(柳剛流)
- 2017/03/22(Wed) -
 柳剛流研究の史料として、まだ未見であった、『浅野弥惣太の記 : 柳剛流の剣士』(松岡泰二著/文芸角田(15).1981/5.角田氏文化協会)と、『柳剛流二代岡田左馬之輔の秘話』(松岡泰二著/文芸角田(32).1988/11.角田氏文化協会)という2点の文書を入手した。

 これらの内容については改めてふれようかと思うが、上記2点の史料を読み、その記述の事実関係や年月日などを確認するために、改めて仙台藩角田伝系の柳剛流の伝書類を精読する中で、その技術体系の流れと変革を改めて見直すことができた。



 大雑把に言えば、仙台藩角田伝の柳剛流は、流祖の直弟子であり2代を継承した岡田(一條)左馬輔の伝えた技法群が根本としてあるわけだが、実際に今現在、我々が伝承し稽古をしている角田伝柳剛流はそれとはかなり異なる部分があり、おそらく角田伝4代の泉冨次師範が江戸で岡田十内に学んだことから、岡田十内系の柳剛流の影響を強く受けていると考えられる。

 これは、岡田左馬輔直筆である複数の伝書に記されている切紙・目録・免許の内容と、明治~大正期に記された角田伝の伝書類、そして現在、我々が伝承している角田伝柳剛流の内容を突き合せた結果による、私なりの現時点での推論である。

 これについては、もう少し、史料を精査し検討を加えた上で、改めて考察をまとめたいと考えている。

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▲天保9(1838)年、岡田左馬輔が角田における一番弟子で、石川家の柳剛流師範となった戸田泰助に出した直筆の目録。『一條家系譜探訪 柳剛流剣術』一條昭雄/(私家版)より

 (了)
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フランク安田と柳剛流/(柳剛流)
- 2017/03/17(Fri) -
 27年前、私は学校を卒業してから3年間勤務していた警備会社を退職し、生まれて初めての辺境への旅へ出かけた。

 行き先は、アラスカ・ユーコン河である。

 たった3カ月間の気ままなヴァガボンドであったが、川辺に集落が点在するだけで、あとは半径数百キロの範囲内に人間が1人もいない無人地帯(ノーマンズ・ランド)の原野を放浪した日々は、今となっては忘れがたい青春の思い出だ。



 そもそも、なぜ地の果てのような極北のユーコン河を目指したのかといえば、当時心酔していたカヌーイスト野田知佑氏の影響と、フランク安田への憧れからであった。

 フランク安田(1868~1958)は、新田次郎の伝記小説『アラスカ物語』の主人公として知られる日系アメリカ人一世である。

 20歳でアメリカに渡ったフランク安田は、縁あってアラスカのバロー村にたどり着き、ここでイヌイットの一員として認められ家族を持つ。

 しかしある年、村で麻疹が大流行し病死者が続出。さらに鯨の不良が重なり、バロー村の住民たちは飢餓にさらされる。そこでフランク安田は、イヌイットたちの新たな安住の地を探すべく旅に出発。

 2年間に及ぶ過酷な原野での旅の末、ようやく村人が移住できる土地を見つけたフランク安田は、さらに3年の歳月をかけて200名余りの村人の移住を成功させる。

 アラスカの広大な原野において、これだけ大規模な移住を成功させたフランク安田の偉業は「奇跡」と称えられ、彼は「ジャパニーズモーゼ」あるいは「アラスカのサンタクロース」と呼ばれ、イヌイットたちの英雄となった。





 ところで、これはほとんど知られていないことだが、フランク安田は、仙台藩角田伝柳剛流と浅からぬ縁のある人物でもある。

 フランク安田の本名は、安田恭輔。宮城県石巻市の出身である。

 安田家は、代々医師の家系であり、父の安田静娯は医師で初代湊小学校校長、祖父の友琳は長崎蘭方医・漢学者であり武芸にも秀でた才人であった。

 この石巻の安田家近くにあったのが、柳剛流2代宗家・岡田(一條)左馬輔の指導する多福院門前の柳剛流岡田道場である。

 江戸での修行を終え、故郷の角田に柳剛流を伝えた左馬輔は、故あって後半生を石巻で過ごしている。このため石巻でも柳剛流は多いに興隆した。

 左馬輔の晩年頃、恭輔の祖父・安田友琳は40代前半、父・静娯は20代で、岡田家と安田家は、家族ぐるみでの親しい交際があったという。また、左馬輔の石巻における門下第一の逸材と言われた岡崎兵右衛門陳秀は、安田静娯と共に酒を酌み交わし詩を吟ずる盟友であった。

 こうした環境の中、幼少の安田恭輔は、武芸に通じた祖父の友琳から剣術の指南を受けていたといわれる。

 その剣術が何流であったのか明記された史料は確認できないのだが、上記のような岡田家と安田家の関係を見れば、それが岡田左馬輔直伝の仙台藩角田伝柳剛流であったろうことは、容易に想像できるだろう。

 さて不幸なことに、安田恭輔は16の年に両親を失う。

 3年後、19歳になった恭輔は、当時米国から帰国して横浜にいた岡田左馬輔の孫である左一郎(小輔)を頼る。

 岡田左一郎は、大柄だった祖父・左馬輔に対し、小柄であったことから「小さい左馬輔」と周囲から呼ばれ、このため「小輔」の名もあったという。

 戊辰の役では、仙台藩一門筆頭・角田石川家第14代当主・石川邦光に従い白河口の戦闘に参加、官軍と剣を交えた実戦経験を持つ柳剛流剣士である。

 左一郎は、自らを頼ってきた安田恭輔を快く受け入れ、アメリカ航路の見習い船員の職を斡旋する。

 しかもこの時、左一郎は18歳であった娘の秀を恭輔の許嫁とし、養子縁組をした上で渡航費などを負担し、恭輔をアメリカに送り出した。

 つまり安田恭輔、後のフランク安田は、渡米する前に、柳剛流宗家・岡田左馬輔の家系を受け継ぐ「岡田恭輔」となっていたのだ。

 ここまでくればほば間違いなく、若き日のフランク安田は、祖父やあるいは養父・岡田左一郎から、なんらかの形で柳剛流の剣を学んだであろうと考えるのが自然であろう。

 そして恭輔がその後無事帰国し、岡田秀と結ばれていれば、彼らの人生は静かで幸福なものとなっただろう。

 しかし「岡田恭輔」は、その後、二度と祖国に帰ることはなかった。

 アラスカの原野で波乱万丈の人生を送った末、「ジャパニーズモーゼ」フランク安田となった恭輔は、昭和33(1958)年1月、自らが開拓したアラスカ・ビーバー村で90年に及ぶ波乱の生涯を終える。

 許嫁であった岡田秀は、恭輔の渡米後、十数年間、彼の帰国を待ち焦がれていたというが、異国に旅立った恭輔からの音信はなく、後に角田出身の教師高橋敬治と結婚。昭和10(1935)年に63歳で亡くなったという。


 岡田秀とフランク安田との悲しい恋の結末は、千葉佐那と坂本龍馬との悲恋を彷彿とさせる、儚く切ないエピソードでもある。

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 ■参考文献
 『一條家系譜探訪 柳剛流剣術』一條昭雄/(私家版)
 『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』(森田栄/日本剣道史編纂所)

 (了)
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一瞬、アヴァロンが見えた気が・・・/(身辺雑記)
- 2017/03/16(Thu) -
 若い頃、老人がインフルエンザで亡くなるというような話を聞くに、「インフルエンザぐらいで死ぬもんかねえ・・・」などと思っていた。

 若さとはバカさだと、今はしみじみ思う。



 今週の月曜、朝から机について、ブログなど書きつつ、「なんだか、体の節々が痛むなあ。昨日の短棒の稽古のせいかしら?」などとのんきに考えていたところ、午後から悪寒もするようになり、これは風邪だと体温を測ると37度ちょっとの微熱である。

 幸い、今週は仕事の端境期でヒマなので、大事を取って早めに休むことにした。

 ところが症状は悪化するばかりで、翌火曜の朝には39度を超え、午後には39.99度を記録。

 もともと、子供の頃から風邪をひいてもあまり高熱が出るタイプではなかったので、「ああ、これってもしかして、オレの風邪人生で最高記録かも・・・」などと、もうろうとした意識の中で思う始末であった。

 それにしても、これくらいの高熱になると、関節や筋肉の痛みがはんぱではなく、ベッドで安静にして眠っていたいのだが、体が痛くて熟睡などとうていできない。

 あまりに腰や骨盤の両端部分が痛んで横になっていられないので、ベッドの上で正座をして座って意識朦朧としているのがいちばん楽だという、なんともいえない状態でひたすら体を休める。

 また、多少でも栄養を取らねばと思い、まったく食欲はないのだが、持ち合わせのレトルトの御粥を3食食べ、脱水を防ぐためにイオンウォーターを1日2リットル飲む。

 しかし、水曜朝になっても熱は下がらず、相変わらず39度台をキープ。発熱により体の痛みもこのあたりがピークで、腰はもちろん、昔、空手の稽古で切った左右のアキレス腱も激しく痛みだし、ついには正座もできず、ベッドの上でコーマポジションをとり、ひたすら時が過ぎゆくのを待つ。

 このまま熱が下がらないなら、病院に行かなきゃなと思うのだが、そもそもこの状態で自力で病院まで行く自信はなく、ヤモメ暮らし故、病院に連れて行ってくれる人もいないので、救急車を呼ばねばならんのだろうが、風邪で救急車ってのものなあ・・・なんかみっともないなあなどと、朦朧とした意識の中でのんきに考えている自分が、なんというかバカバカしい。

 そうこうしているうちに、夕方から急速に熱が下がり出し、夜には37度台にまで落ち着いた。このあたりで関節や筋肉の痛みも和らぎ、ようやく熟睡もできるようなる。

 そして今朝、目ざめると体温は36.5度と平熱に。体重計に乗ると、この3日間で2キロほど減っていた。しかし、体脂肪率は大幅に上がっており、これって筋肉が落ちたってことだよなと思うと、ちと悲しい・・・。

 熱は下がり、関節や筋肉の痛みもほぼ無くなったが、いまだになんとなく意識はふわふわした感じであり、手足に力が入らない。

 また右手の痙攣が断続的にあり、さっきペンでノートにメモを取ろうとしたところ、指がつってしまい、一時的に文字を書くことができなかった。

 ところが無常にも、今日は午後から都内でインタビュー取材があるので、昼には家を出なければならぬ。

 いやはやまったく過酷であるが、生きていくためにはしかたがない。


 それにしても、人間歳をとると、若い頃はどうということのなかった病気で命を落とすこともあるのだということは、この歳になるとしみじみ実感できる。

 そしてまた、ニュースなどで「老人の孤独死」が報道されるが、自分の最後も、ほぼ間違いなく孤独死なのだろうということは、すでに覚悟の上である。

 ただできることなら、どうせ孤独死なんだけれども、できれば季節は冬がいいなあ、夏はいやだなあと思う。

 真夏は、腐敗が速いだろうから。

 (おしまい)
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3月の水月塾本部稽古~柳剛流、伝書講義、甲陽水月流短棒術/(武術・武道)
- 2017/03/13(Mon) -
 昨日は水月塾本部での稽古。

 午前中は柳剛流。

 小佐野先生に打太刀を執っていただき、剣術、突杖、居合をご指導いただく。

 居合は通常、本部稽古の際は師の2尺7寸の居合刀をお借りして稽古しているのだが、今回はさらに長尺である2尺8寸の居合刀をお借りして稽古する。

 最初はその長さにやや戸惑ったが、本来、柳剛流居合は長尺刀で稽古すべきものだけに、慣れてくるとこの長さが形の動きになじんでくる。

 また、この居合刀は柄の長さも1尺2寸ほどあり、その長さ故、刀身とのバランスが絶妙で、実に遣い心地が良い。試みに、神道無念流立居合の形もいくつか抜いてみたが、これまた実にしっくりとくる。

 鍛錬用の居合刀として、いずれはぜひ、このサイズの差料を所有したいものだ。

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 昼食の後は伝書講義。

 今回は、古文書をテキストに、花押に関する有職故実をご教授いただいた。

 花押を構成する各線やハネの意味はもちろん、陰陽五行や易との関連についても、大変興味深い示唆をいただいた。

170312_花押古文書



 午後の稽古は、水月塾制定の日本柔術・甲陽水月流の短棒術を、初伝から中伝まで20本、ご教授いただく。

 私は水月塾で学ぶまで、短棒術については系統だって稽古したことがなかったのだが、これがまた実に・・・・・・痛い(苦笑)。

 短棒術で極められると、その痛みは柔術の逆とも、あるいは打撃の痛みとも異なる、「骨に染み入る」ような痛みなのである。

 また柔術の逆では、経験上、どれくらい相手に効いているのかがある程度は分かるのだが、短棒術で捕りをやっていると、自分では大して効いていない感じでも、実は非常に激しく効いていることが多いようだ。

 加えて、素手の逆とはまったく違った、「何がなんだかよく分からない形で極められてしまう・・・・」という、短棒を使った技ならではの捕り口の数々は、たいへん興味深いものである。

 護身術という観点でも、たとえば小太刀の動きに基づいた警棒等の使用では、どうしても斬りの動き、つまり打撃になってしまい、対象に必要以上の障害を与えてしまう可能性を排除しきれない。

 一方で短棒術であれば、「骨がきしむほど痛い」にも関わらず、必要以上に相手を傷つけることがないというのも、たいへん優れている点であろう。

 短棒術、これはなかなか楽しいぞ! ・・・・・・痛いケド(笑)。

 (了)
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翠月剣・長剣の新作と、不二心流の手裏剣/(手裏剣術)
- 2017/03/12(Sun) -
 当庵で柳剛流と手裏剣術を稽古している宇田川氏が、稽古用に長剣と翠月剣を制作したということで、先日の稽古で試打させてもらった。

 どちらの剣も、これまで私たちが使っていた長剣や翠月剣とまったく同じ打ち心地であり、素晴らしい仕上がりである。

 ここ2年ほど、新規の手裏剣制作ができない状況が続き、新たに入門した人には翠月庵の手持ちの手裏剣を使ってもらっていたのだが、今後は同氏に制作を依頼できるようになり、ほっとしている。

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▲宇田川氏制作による25年式翠月剣


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▲新作の翠月剣(上)と、私が現在使っている翠月剣(下)


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▲私が使っている翠月剣(上)と、宇田川氏制作による長剣(下)。翠月庵では、まず長剣で直打の基本を体得し、その後、翠月剣での稽古を行う


 宇田川氏は当庵で柳剛流と手裏剣術を学ぶ一方、自身で幽玄会という団体を主催し、千葉県八千代市の教場で夢想神伝流と不二心流、合気剣杖を指導されている(http://www.geocities.jp/spirit_vision_lesson/index.html)。

 このため昨日の稽古では、不二心流の手裏剣を持ってきてくれたので試打させていただいた。

 不二心流の手裏剣は、香取神道流の手裏剣の形状をそのままにサイズアップしたような形である。

 秤が無かったので正確な重さは分からないが、おそらく70~80グラムほどはあるだろうか。これくらいの重さがあると、手裏剣もたいへん打ちやすい。

 しかし、この手裏剣は独特の形状から後ろ重心になっており、翠月庵の手裏剣術の基本となっている、無滑走2点打法で打つことはできないので、滑走打法で打つ。

 このため1間半~2間程度では問題ないが、3間以上で的中させるには少々の稽古と慣れが必要だ。

 もっとも総合武術である不二心流においては、小太刀を使った刀法併用手裏剣術として、この手裏剣を用いるとのことで、おそらく間合も3間以上は想定していないであろうから、このような中距離以上では打ちにくい後ろ重心の形状でも、あまり問題にはならないであろう。

170311_不二心流手裏剣
▲不二心流の手裏剣


 (了)
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スタンレー・プラニン氏の訃報に想う/(武術・武道)
- 2017/03/11(Sat) -
 『合気ニュース』の編集長であった、スタンレー・プラニン氏が、亡くなったとのこと。

 まずは同氏のご冥福をお祈り致します。


 私は同氏とは面識はなかったけれど、自分の武術歴の始まりが八光流柔術だったこともあり、いち読者として同氏が編集長を務めていた当時の『合気ニュース』は、愛読していた。

 しかし残念ながら、2009年頃からだろうか、同誌が自己啓発セミナーを精力的に主催している空手家のU氏が中心となるような形で、『合気ニュース』から『道』というタイトルの雑誌になって以来、あまりに偏向した内容から、まったく読まなくなってしまった。

 プラニン氏が編集長時代の『合気ニュース』は、合気会も養神館も、富木流も大東流も、ある種公平に扱う、バランスの良い編集方針の武術雑誌であったものが、U氏の広報誌になってしまった『道』誌は、教条的な道徳雑誌になってしまったことは、ある意味で日本の武術・武道史にとっても、たいへん大きな損失だったと言えるだろう。


 個人的な話をすると、私が手裏剣術の稽古場を開設した当時、U氏のセミナーに心酔している人が手裏剣の稽古に来ていたのだが、彼から聞く話があまりにバカバカしいものだったことから、(たとえばU氏は、電話で生徒に「気」なるものを入れ、それによって普通はできない業や体の動きができるようになる云々など)、たいへん残念な気持ちになったものである。

 「晩節を汚す」という言葉があるけれど、まことに残念なことだ、いろんな意味で。

 (了)
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空手道と柳生心眼流~縦猿臂と山勢巌構/(武術・武道)
- 2017/03/09(Thu) -
 昨日は空手の稽古。

 バッサイ大の形について、有級者へのマンツーマンでの指導を仰せつかる。

 私が担当したのは3級のAさん。

 形の途中にある掛手~腕どり~関節蹴りの一連の挙動と、形の後半に出てくる右掛手受けの際の運足が確実ではなかったので、この2点を丁寧に手直しする。

 分解においても、これらの部分はバッサイ大の特徴的な技なので、しっかりと理解してもらいたいところだ。



 稽古後半は、糸洲流のN先生より、松村ローハイをご指導いただく。

 これまでも何度か書いているが、ローハイは私の最も得意とする形だ。

 ただし、私のローハイは玄制流のローハイなので、松村ローハイとは細部がかなり異なる。しかしそこがまた、空手道の稽古として興味深い部分でもある。

 ローハイ以外にも、私が得意あるいは好みでよく打つ形は、ナイハンチやワンカンなど泊手系の形が多い。また個人的には、剛柔流の転掌の形を覚えたいのだが、教えてくれる人がいないので、甥っ子が大きくなったら教えてもらおうかと思っている。



 もっともここ最近は、体術の稽古は柳生心眼流がメインであり、普段は表・中極・落・切の素振り二十八ヶ条の稽古でいっぱいいっぱいで、なかなか空手の形稽古までは手が回らないのが現状だ。

 それにしても、柳生心眼流は実に興味深い。

 当身拳法とはいえ、空手道とはまったく理論も実技も異なるので、学ぶ1つ1つの術がすべて新鮮だ。

 また、一般的な日本柔術とは異なり、単独で行う形=素振りの稽古が基本になっているので、仕事の合間などほんのちょっとの時間があるときに、ラジオ体操代わりに形を打つことができのもありがたい。

 もっとも、中極で武者震いを連発すると頭がグルグル回ってちょっと気持ち悪くなり、切をやると呼吸困難で倒れそうになるのが玉に瑕だが・・・・・・(笑)。

 柳生心眼流については、全国各地で多くの方が稽古をされており、いまさら流儀の新参者である私がとやかく書くこともないのだが、個人的には稽古するほどに新たな発見があり、実に面白いのである。

 例えば肘当て。

 空手道における肘当ては、組手では使えないのでもっぱら形で稽古することになるのだが、私は個人的に肘技が好きで(チビなので・・・)、若い時分には胴プロテクターや防具を付けた地稽古で、相手の懐に潜り込んでの廻し猿臂や後ろ猿臂などをよく使って効果を上げていた。

 さらに落とし猿臂などもわりあい一生懸命工夫して、ある程度地稽古で使える得意技にしたつもりだが、唯一縦猿臂だけは、どうにも使いこなせるようにならなかった。

 縦猿臂とは、下から上に打ち上げる肘打ちのことだが、形でやるぶんにはどうということはないのだけれど、実際にこれを巻き藁やミット、サンドバック、そして人間の顎や水月などに実際に当てようとすると、意外に「芯でとらえて当てる」ことが難しいのだ。

 さてそこで、柳生心眼流における山勢巌構である。

 口伝を受けてこれを使うと、実に容易かつ確実に、縦猿臂がきまるのだ。

 いや、これには実に驚いた。

 それまでは空手道での経験から、少なくとも私という個人は、縦猿臂という技は一生遣えないのだろうなと諦めていたのだが、心眼流における山勢巌構の教えによって、サンドバッグやミット、そして人間を相手の稽古でも、確実に縦方向での肘当てを「効かせられる」ようになったのである。

 古流武術の体動と口伝、実に畏るべし。

 山勢巌構の技は、心眼流の特長的な技である重ね当や体当たりと並んで、個人的には必ず自分のものにしたい術技だ。


 空手は楽し、そしてさらに心眼流も楽し。

 (了)
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「力なき正義は無能であり、正義なき力は圧制である」/(身辺雑記)
- 2017/03/08(Wed) -
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 とある一件の成り行きについて、意味深長なマルセイユ版のご神託。

 3段に深掘りした結論が、「剛毅」「正義」「剣の2」のコンビネーションというのは、武芸者として実に腑に落ちる。

 そして表層・深層・真理の縦軸を貫くのが、「杯の女王」「剣の王」「剛毅」というのも、また深い。

  「力なき正義は無能であり、正義なき力は圧制である。
  力なき正義は反抗を受け、正義なき力は弾劾を受ける。
  それゆえ正義と力を結合せねばならない。」
                    (パスカル『パンセ』より)


 ということか。

 なるほどね。

 (おしまい)
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「一殺多生」の気組と、武芸者の「顔」/(武術・武道)
- 2017/03/07(Tue) -
 もう7年も前の封切作品なのだが、いまさらケーブルTVで映画『桜田門外ノ変』を鑑賞。

 思ったよりも面白く見ることができた。

 しかし私は平素から、『山上宗二記』と並んで井伊直弼の著書『茶湯一会集』や『閑夜茶話 』を愛読していることもあり、作中、井伊がステレオタイプ的な悪の権力者といったニュアンスを強調して描かれていたのは、作品のテーマ上やむを得ないとはいえ、少々鼻についた。



 それにしても史実によれば、襲撃グループ18名に対し彦根藩の行列は総勢60名と、人数的には襲撃側が圧倒的に不利でありながら、目的である井伊大老暗殺に成功したというのは、たいへんに興味深い。

 彦根藩側の供回りは柄袋を付けていたとか、こまごまとした要因はあれど、大老襲撃という決死の使命感を持った18名の刺客と、ルーチンワークの行列警護で緊張感に欠けた60名の従者たちとでは、攻者3倍ならぬ守備側3倍という決定的な戦力差も、まったく意味をなさなかったということか。

 これは桜田門外の変から遡ること159年前の「赤穂事件」において、およそ100人が守る吉良邸を47人で襲撃し、主君の仇討ちという本懐を遂げたケースにも共通する。

 つまるところ集団戦においては、2~3倍の戦力差は、彼我の士気の差によって克服可能であるという好事例である。

 もっとも、完全武装で闘志満々の相手が我の2~3倍もいたら、あっという間に叩き潰されるであろうこともまたしかり。

 だからこそ数で劣る側は必死にならざるをえないわけで、これこそまさに孫子の極意である「死兵」となるわけだ。

 ことほどさように、闘争における士気や闘志、つまり「気勢」「気組」の重要性は、あだやおろそかにしてはならぬ要因である。

 先の大戦末期の旧軍のような、狂信的かつ非合理的な精神論のみに頼るのは論外だが、一方でクラウゼヴィッツの『戦争論』では、兵士と国民の闘争心の重要性を強調している点も忘れてはならないだろう。



 小の兵法である武術・武道においてもこれは同様で、いたずらに精神論に偏って技術の向上や基礎的体力の涵養をないがしろにするのは論外だが、一方で、どんなに術が優れ体力があっても、彼我の闘争において「一人一殺」「一殺多生」の気組の無い術者は、必死の素人に敗れてしまうのもまた真理だ。

 下世話に言えば、「てめえ、ぶっ殺す!」といった気概の無い生ぬるい剣や拳では、町のチンピラにすら遅れをとってしまうことを肝に命じておくことも、武芸者には必要な初歩の嗜みであろう。

 ただし、少なくとも10年、20年稽古を続けてきた武術・武道人であれば、そういった闘志、気勢や気組というものは常に、あくまでも己の内に秘めておくべきことであるのは言うまでもない。

 それかあらぬか、齢40、50にもなっても殺気や闘志が表に出すぎてしまい、人相や目つきの極めて悪い武術・武道人を時折見かけるが、それは武芸者のあるべき姿として下手であることはもちろん、本来、人格の陶冶を目指すべき武道指導者として見ても、こうした御仁たちはどんなに業が優れていても、けして一流の武道指導者ではない。

 そういった手合いとは、お近づきにならないに限るというのは、私の36年の武術・武道人生と37年の占術人生から、断言してよいと思う。

 歳をとればとるほど、目つき顔つきには、その人の内面が出るものだ。

 では、お前の顔はどうかって?

 う~む、南無八幡大菩薩・・・・・・。

1703_茶碗
▲ま、そんなオッカナイ顔をしてないで、茶でも一服し給え


 (了)
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