次の「場」へ/(柳剛流)
- 2018/04/19(Thu) -
 苗木城での演武が終わり、次は、来月に行われる国際水月塾武術協会本部の演武だ。

 岐阜での演武に向けて3月下旬からは、神道無念流立居合と手裏剣術の稽古に専念してきたが、今週からは再び柳剛流の稽古に主眼を戻す。

 また昨年までは、本部の演武は私のみの参加であったのだが、今年は師の御許可の下、翠月庵門下のY氏とU氏も参加させていただき、柳剛流の演武を奉納させていただく予定である。

 このため私は、自分の演武では師に打太刀を執っていただくのだが、門下に対しては自分が打太刀を務めなければならない。

 演武において打太刀を執るというのは、仕太刀を務めるのとはまったく違った心持ちであり、ある意味で自分が仕太刀を執る以上に厳しいものが問われる。



 私は演武イコール(形而上的な)真剣勝負であると捉えているが、それはあくまでも日常の稽古の延長線上にあることもまた、ゆるぎのない事実だ。

 ゆえに、演武があるからといって、特段、いつもと違った稽古をするわけではない。

 これまで通り粛々と、流祖・岡田惣右衛門が編み出した剣を振るい、居合を抜き、杖を突き、長刀(なぎなた)を執るのみである。

 では、次の「場」へ向けて、稽古を続けよう。

1705_演武_柳剛流長刀
▲柳剛流長刀 「右首巻」
 

 (了)
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平成30年度苗木城武術演武会/(武術・武道)
- 2018/04/17(Tue) -
 先週末に行われた「平成30年度苗木城武術演武会」は、つつがなく終了した。

 今回、演武した内容は以下の通り。

1.手裏剣術/3間打ち
2.同/4間打ち
3.同/運用形
4.同/刀法併用手裏剣術
5.八戸藩伝神道無念流立居合十二剣


 当初、手裏剣術は3間打ちと刀法併用手裏剣術のみを披露する予定であったが、演武時間が予想以上にとれることになったため、急遽、4間打ちと運用形(突進)を披露。

 最初の3間打ちから刀法併用まで、個人的には「まあまあ」の出来であった。

 つまり、まだまだ百発百中には及ばないということである。さらに精進せねば。

 手裏剣術の後は、八戸藩伝神道無念流立居合十二剣を披露。

 こちらは最初の刀礼から12本の形、そして終わりの刀礼までを全て行った。

 神道無念流立居合を演武で披露するのは初めてだったこともあり、やや硬いところがあったかもしれない。これもまた、今後に向けて精進していかなければならぬ。

 自分の演武後は、戸山流居合抜刀術美濃羽会中津川稽古会の皆さんの演武。

 基礎居合から斬り、小太刀、鎗などの妙技をじっくりと拝見させていただいた。



 こうして、今年の苗木城での演武も無事終了。

 来年に向けて、再び稽古を積み重ねていこう。

 (了)
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西へ/(武術・武道)
- 2018/04/14(Sat) -
 本日は毎年恒例となっている、岐阜県中津川市にある苗木城での演武だ。

 今回は諸般の事情で、翠月庵/国際水月塾武術協会埼玉支部としては、私ひとりでの参加である。

 演武は年間で4回ほどあるが、手裏剣術を披露するのは、この苗木での演武のみだ。

 考えてみると、演武で初めて手裏剣を披露したのは今から11年前、2007年の香取神宮における奉納演武であった。

 この時はまだ、手裏剣屋としてはひよっこだったので(笑)、間合2間からの逆体の打剣と刀法併用手裏剣術を披露した。

 今思えば、間合い2間からの打剣など、手裏剣術者としてひと様の前で披露するようなレベルのものではないのだが、それでも50人以上の他流武術家の前で行う手裏剣の演武の緊張感は、なまなかなものではなかった。

 以来、10年が過ぎ、手裏剣術の演武は何度も行ってきたけれど、何回やっても緊張することに変りはない。

 これまで苗木での演武では、4間打ちや脇差を打つ飛刀術なども披露してきたけれど、今日は原点に還って基本のシンプルな3間打ちを行うつもりだ。



 手裏剣の演武に加え、昨年は柳剛流の剣術や突杖、居合を演武したのだが、今年は私ひとりでの参加ということから、八戸藩伝神道無念流立居合十二剣を披露する。

 神道無念流の立居合は、柳剛流に次いで師に伝授していただいたものだ。

 柳剛流には居合があるけれど、立合での抜刀術がないので、両者の併修はバランスもよいだろうとのことで、以来、柳剛流の稽古と合わせて取り組んできた。

 逆袈裟の抜打ちと袈裟斬りの二の太刀を中心に構成される、八戸藩伝の神道無念流立居合は、他系統の神道無念流の立居合とは、かなり趣きが異なるという。

(実は私は、他系統の神道無念流の立居合を拝見したことが無いので、どう違うのかあまり実感していないのであるが・・・)

 いずれにしても師伝に恥じない演武を披露すべく、ここ数週間は門人に柳剛流を指導する以外、自分の稽古では手裏剣と神道無念流の稽古に専念してきた。

 すでに手裏剣の切先は研ぎあげ、刀の目釘も打ち換えた。



 では、西へ向かうとしよう。


 切り結ぶ太刀の下こそ地獄なり
             踏み込んでみよ極楽もある(柳剛流 武道歌)



140106_円明流手裏剣1


 (了)
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柳剛流、海を渡る ― ハワイの柳剛流剣術師範・古山伴右衛門/(柳剛流)
- 2018/04/10(Tue) -
 柳剛流は流祖以来、全国各地に伝播したが、大正時代には遠くハワイにまで、その教線が広がっていた。

 大正5(1916)年、ハワイの日本人移民に対する剣道指南役として、柳剛流剣術師範であった古山伴右衛門(1857-1924)が宮城県庁から派遣され、ハワイ島で400人におよぶ日系移民に指導をしていたという。

 古山伴右衛門は、仙台藩南西部にある白石の人で、ハワイに渡る時点で58歳、宮城県警の剣道師範であった。

 伴右衛門の御令息で、大正10(1921)年にハワイへ渡った古山忠一氏は、当時の稽古を振り返り、次のように語っている。

私の父が指導していたのは柳剛流剣術で、最後は相手の足を打つものです。小手を打ったあと足を打ち、胴を打ったあと足を打つものですが、今のなぎなたとはスタイルが違います。(『剣道日本』1992年3月号)




 古山伴右衛門の出身である刈田郡白石は、同じ仙南の伊具郡角田に隣接しており、伴右衛門が12歳のときには仙台藩の分割によって、白石も角田も共に白石藩(県)となっている。

 こうしたことから想像の翼を広げると、古山伴右衛門が学んだのは仙台藩に伝わった柳剛流の中でも、仙北で興隆した登米伝ではなく、伊達家筆頭家老である石川家に伝わり成教書院(石川家の師弟を教育する文武学校)で代々稽古されてきた、岡田(一條)左馬輔直系である仙南の角田伝柳剛流だったのではないだろうか?

 だとすれば、この時期であればおそらく、泉冨次師範やその高弟たちの薫陶を受けた可能性が高い。

古山伴衛門
▲『図説ハワイ日本人史』に掲載されている、古山伴右衛門の写真と履歴(注)


 以上、少ない史料からかなり想像を広げたけれど、平成の今も私たちが伝承し稽古を続ける仙台藩伝の柳剛流剣術を修めた先人が、およそ100年前に58歳という高齢ながらも海を渡り、異国の地で柳剛流の剣技を指南していたというのは、柳剛流史の一端を彩る浪漫あふれるエピソードのひとつといえるだろう。



(注)1985年発行の『図説ハワイ日本人史』では、古山伴右衛門の名前が「半右衛門」となっているが、1992年発行の『剣道日本』に掲載された古山忠一氏の記事では、「伴右衛門」と表記されているので、本記事では「伴右衛門」とした。
 また没年についても、『図説ハワイ日本人史』では、大正11(1922)年となっているが、忠一氏は『剣道日本』の記事の中で「父が死んだのは大正13年」と発言しているので、本記事では没年を大正13(1924)年とした。



■引用・参考文献
『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』/南部修哉/私家版/2016年
『剣道日本』1992年3月号
『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』森田栄/日本剣道史編纂所/1973年
『図説ハワイ日本人史』ビショップ博物館/1985年
ブログ『楽園ハワイ島in2017/柳剛流剣道指南』
(https://blogs.yahoo.co.jp/aiexem/45318911.html)
ブログ『楽園ハワイ島in2017/柳剛流 剣道師範 「古山半右衛門」さん-100年前の足跡を求めて-』
(http://strobila57.rssing.com/chan-30680166/all_p1.html)

 (了)
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古の有様に心安くてこそあらまほしく侍れ/(武術・武道)
- 2018/04/08(Sun) -
 ネットで武術関係の書き込みや記事などを読んでいると、本当にいろんな人がいるなあと、しみじみ思う。

 私など、せっかく江戸時代から続く武芸を稽古しているのだから、できるだけ流派の史実についても知りたいと思うのだが、「自流の歴史には、まったく興味がない」と断言する人がいる。

 また、古流武術というのは近代よりも前の社会の有職故実、動作や慣習などと密接な関係にあり、業はもとより流儀固有の礼法や作法も貴重な無形文化・身体文化だと思うのだが、「流儀の礼法や作法には関心がない」と明言する人もいる。

 あるいは、流儀の「業」には関心があり稽古はするが、伝承や普及、後進の育成はどうでもよいという者もいる。己の上達にしか関心が無いというタイプだ。

 当然ながら、稽古をする動機は人それぞれなので、流儀の事績に関心がないのも、礼法・作法に興味がないのも、伝承や普及はどうでもよいと考えるのも、ひとりひとりの自由だ。

 しかし、古流武術を指導する立場から言えば、もし自分の弟子にこうした考えを持つ者がいたとすれば、その者の師としてまことに残念であるし、流儀を愛する者としてたいへんに悲しく思う。



 たとえば柳剛流にも、固有の礼法がある。

 それに対して、関心が無いと心の中で思うのは自由だが、(他者の内心は規制できないし、内心の自由は誰にも侵されるべきものではない)、指導者は稽古においてそれを弟子に尊重させなければならないし、流儀の礼法を正しく行ずることのできない者には、どんなに「業」が上手かろうと、稽古年数が長かろうと、切紙や目録、免許といった伝位を与えないのは当然のことだ。

 そして古流の武術では、伝位ごとに学ぶことの許される「業=形」が決められているのが一般的であり、伝位が与えられないということは、実際の稽古において初心者向け以上の上級の形や業、口伝が伝授されないということである。

 つまり、流儀の礼法や作法を重んじない者は、少なくとも柳剛流の先人が云うところの“吾が党”においては、永遠に初歩の稽古しかできないということだ。



 根源に「制敵」という大目的がある武芸の修行が、「業」や「術」の鍛錬に偏るのはある意味で仕方がないことである。自分自身を振り返っても、若い頃から流儀の作法や礼法、有職故実や事績を、今ほど重んじてきたわけではない。

 また、どんなに作法や礼法が(一見)見事であり、事績に関する蘊蓄が豊富であっても、肝心の「業」や「術」のレベルが低く、武人としての「肚」が錬られていない者は、他流に侮られるどころか、素人の粗野な暴力にすら圧倒されてしまうだろう。

 それでは到底、武人とは言えまい。

 武術における礼法や作法、知識というのは、あくまでも根底に武力による「威」があってのものだ。

 だからこそ古流武術の指導者は、門人に対して、武術として通用する「業」と「肚」を練り上げさせると同時に、流儀における礼法や作法の意義、事績を学ぶことの大切さ、伝承し次代に伝えることの重要性を、折に触れて言い聞かせ、啓発していかなければならない。



 業や術に偏った指導は、「規範意識の低い反社会的人物」を生み出すことになりかねない。

 一方で作法や知識に偏った指導は、「見かけ倒しの橙武者」を育てるだけだろう。

 反社会的人物も、橙武者も、いずれも“吾が党”には不要である。

 武術・武道に携わる者は、「事」と「理」に対する中庸の徳を、能々吟味するべきであろう。


1804_柳剛流礼法2
▲仙台藩角田伝 柳剛流の礼法。形を行ずる際には、所定の動作をもって必ず股立をとる


 (了)
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あざみの如く刺あれば/(身辺雑記)
- 2018/04/07(Sat) -
 本日は、翠月庵での稽古。

 5月の水月塾本部での演武に向けて、門下に柳剛流と神道無念流を特訓。

 一方で私も、来週末に岐阜での演武があるため、3間打ちと神道無念流に集中する。

 演武前の、この緊張感が、厳しくも心地よい。



 帰宅後、独り草庵で、献杯。

 明日で父の1周忌である。

 昨年、父死亡の連絡を聞いたのは、演武のために前泊していた岐阜であった。

 翌日が野辺の送りであったが、それらは兄妹に任せて立ち合わず、私は演武で手裏剣を打ち剣を振るっていた。

 もともと、幼少の頃から故あって離れて暮らしていたこともあり、縁や情の薄い父と子であった。

 このため、父親らしいことをしてもらったことはなく、また子供としての親孝行もしようとは思わなかった。

 あれから1年がたち、今思えば火葬に付す前に、死に顔くらい見ておけばよかったかなとも思うが、48年に渡る恩讐は、センチメンタルに水に流すにはあまりに重い。

 とはいえ、死んでしまえばみな仏様である。

 大鹿歌舞伎の景清の台詞ではないが、

 「仇も恨みも、是まで、是まで」

 ということか。

 来月は母の2周忌なので、母の墓参の際に、“ついで”に親父の墓にも線香ぐらいあげてやろうかと思う。



 (了)
 
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翠月庵のメールアドレスを変更しました/(身辺雑記)
- 2018/04/05(Thu) -
 翠月庵のメールアドレスについて、以前から変更しなければと考えていた。

 これまでのアドレスは、当庵の前身である旧武学倶楽部の名称が入っていたり、アンダーバーが入力しづらい、「j」が「i」のように見えて紛らわしいといったご意見もいただいていたからだ。

 そこで、年度も新しくなったことであり、思い切って変更した次第。

 新しいアドレスは、

 suigetuan2007-mail@yahoo.co.jp

 です。

 ちなみに、ホームページアドレスの一部は「suigetsuan」とヘボン式表記ですが、メールアドレスは「suigetuan」と訓令式にしておりますので、お間違えなく。

 また、新しいメールアドレス宛にメッセージを送信したのに、1週間以上返信がないという場合は、翠月庵HPの掲示板にその旨をかき込んでいただければ幸いです。

 なお、私個人のメールアドレスは変わっておりませんので、今までそちらのアドレスでやり取りをさせていただいていた皆さんについては、特に変更はありません。

180401_093056.jpg


 (了)
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改めて、「柳剛流」の正しい読み方について/(柳剛流)
- 2018/04/04(Wed) -
 少なくとも、仙台藩角田伝や武州系統の柳剛流は、

 「Ryûgô Ryû」

 ではなく、

 「Ryûkô Ryû」

 である。

 角田伝および角田地方での複数の口承、武州系の代表的師範家である岡田十内の末裔岡田家における口承、石川家文書として伝えられている『柳剛流目録』に記された振り仮名、大正2(1913)年発行の『至誠・第5客/海上胤平翁』に記された振り仮名のいずれにおいても、

 「りゅうごうりゅう」ではなく「りゅうこうりゅう」

 と、されている。

 このため、江戸期の武術関係の英名録などでは柳剛流の当て字として、

 「流行流」や「柳行流」

 といった表記で記されている古文書(埼玉県越谷市の福井家文書など)も残されている。



 柳剛流を修行し継承する者のひとりとして、世間に広く流布してしまった流儀名や流祖名の誤りは、看過することができない。

 正しい伝承を、できるだけ広く啓発して行きたいものだ。


180404_114437.jpg
▲宮前華表太の流儀を継承した、石川良助の末裔・石川家に伝わる、振り仮名を記した『柳剛流剣術目録』


■参考文献
『浦和における柳剛流』山本邦夫/「浦和市史研究」第2号
『幸手剣術古武道史』辻淳/剣術流派調査研究会
『戸田剣術古武道史』辻淳/剣術流派調査研究会
『柳剛流剣術古武道史 千葉・東金編』辻淳/剣術流派調査研究会

 (了)
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残花を賞す/(身辺雑記)
- 2018/04/03(Tue) -
 今年度から毎月第一月曜の夜に、県立武道館で空手の月例稽古が行われるというので参加する。

 初回である今回は、師範4名に生徒4名という、なんともゴージャスな組み合わせでの稽古となった。

 私はマスターズ全国大会の組手優勝者であるK先生に、久々にマンツーマンで打ち込みの相手をしていただいた。

 初心に帰って基本のワン・ツーから、相手の前拳を捌いての右逆突き、同じく前拳を捌いての左逆突き、さらに組手時の痛め受けや、ちょっとここでは書けない裏技などをご指導いただく。

 この痛め受けと内緒の裏技、昨日の短棒術の染み入るような痛みとはまた違った、いかにも空手らしい「どつかれて痛い」技であった。

 これを試合組手で使うというのは、なかなかにワイルドだと思う(苦笑)。

 打ち込みの後はミット打ち、そして糸東流のA先生にセイエンチンの形を指導していただく。

 稽古の〆は、セイエンチンにある繰り受けからの猿臂打ちについて、分解を解説していただいた。こうした肘の使い方は、柳生心眼流と共通する点もあり、たいへん興味深いものであった。
 


 帰宅後は名残りの桜と共に、今晩は酒ではなく茶を服す。

 たまには飲まない夜もある。

 それにしても、もう花も終わりだねえ・・・・・・。

1804_桜



花下に酔う
      李商隠

 芳を尋ねて 覚えず 流霞に酔う
 樹に倚り沈眠して 日 已に斜めなり
 客散じ 酒醒む  深夜の後
 更に紅燭を持して残花を賞す



 (おしまい)
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4月の水月塾本部稽古~渋川一流、柳剛流、甲陽水月流/(武術・武道)
- 2018/04/02(Mon) -
 昨日は、水月塾本部での稽古。

 数日前から、ドイツ・ベルリン支部長のカルステン師範が2名の門下の方々とともに本部に来訪しており、今回は私も共に稽古をさせていただいた。

 午前中は、カルステン師範と門下のS氏が学んでいる渋川一流の稽古に、私も加えていただく。

 渋川一流の形を学ぶのは初めてであったが、古流ならではの質実剛健な業の趣きを感じることができた。



 昼食後は、一同で近隣にある富士山眺望の名所へ。

 300数十段の急階段の上り下りは、ちょっとした鍛錬である。

 こちらの展望台から稽古場への帰路、清流沿いに青々とした見事な柳の木があり、「ああ、柳剛流だ・・・」としみじみ思う。

 我ながら、本当に物狂いである(苦笑)。

180401_142331.jpg



 午後は、師に打太刀を執っていただき、柳剛流の稽古。

 剣術、突杖、長刀をみていただいた。

 また、本部師範代のOさんに2尺8寸の差料をお借りして、柳剛流居合を抜く。

 柳剛流の居合の稽古は、やはりこれくらいの長さの刀で行わないとしっくりこない。頑張ってお小遣いを貯めて、私も2尺8寸の居合刀を作らねば。

 稽古の〆は、師より甲陽水月流短棒術の奥伝を2手、御指南いただく。

 これがまた、実に痛い。

 いつもながら、骨に染み入るような痛さであるだけでなく、技法としてかなり危険なものであり、「奥伝の業はすさまじいなあ」と、しみじみ思った次第。



 稽古後は、師やベルリン支部の皆さんなどに同道させていただき小宴。

 いつものごとく、私は酩酊。しかし、酔っ払っても英語はなかなかうまくならないものだ。

 ディファレントとディフィカルトの違いが・・・・・・。

 ひとしきり酒宴を楽しんで、良い頃加減に酔っ払いながら武州への帰路についた。

 (了) 
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