柳剛流の木太刀/(柳剛流)
- 2017/04/27(Thu) -
 熊本県八代市の松井文庫には、宮本武蔵が巌流島の決闘の際に使用した木太刀を、武蔵自身が再現して、八代3万石の領主である松井寄之に贈ったという一口が残されている。

 その木太刀は長さ4尺2寸、浅めに反りがあり、鍔のない素朴な形のものだ。

 ただし近年の研究者の指摘では、この木太刀は武蔵の逸話から後世に創作されたものではないかという指摘もある。

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▲松井文庫所蔵の、武蔵自作と伝えられる4尺2寸の木太刀



 一方で、私たちが柳剛流の稽古で使っている木太刀は、この伝宮本武蔵の大木太刀よりもさらに長い、4尺4寸2分~4尺2寸5分、反りは無く鍔も無い直刀型のものだ。

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▲上が4尺4寸2分、中が4尺2寸5分の柳剛流の木太刀。下は比較用の一般的な大刀サイズの木太刀



 これは、幕末から大正にかけて、武州にて柳剛流を指南した柳剛流深井派の師範家に伝わる往時の木太刀を採寸させていただき、新たに製作したものである。

 木太刀2
▲柳剛流深井派の師範家に伝えられている、複数の柳剛流木太刀



 柳剛流に関する複数の史料で、木太刀や撓は他流よりも長いものを用いたと記されているが、江戸や明治・大正期に実際に使われた実物の柳剛流の木太刀や竹刀は、ほとんど残されていない。

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▲明治24~25年頃、紀州藩田丸伝柳剛流剣術の演武(多気町郷土資料館特別企画展『郷土の剣術柳剛流と日本の武道』の図録より)



 私の知る限り、撓は皆無。

 木太刀は、この武州・深井師範家のものと、紀州・村林師範家に伝えられているものしか確認できていない。

 なおちなみに、村林師範家に伝えられている柳剛流の木太刀は、全長3尺4寸9分、反り5分と、現代の剣道用大刀とそれほど変わらない寸法であり、鍔の有無は史料からは判別できない。

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▲多気町郷土資料館特別企画展『郷土の剣術柳剛流と日本の武道』の図録に掲載されている、村林師範家伝来の柳剛流木太刀(写真上)



 さて、それでは仙台藩角田伝柳剛流では、往時、どのような木太刀が使われていたのだろうか?

 これについては残念なことに、現状では不明である。

 私の師である小佐野淳先生が、昭和末期に角田・丸森で柳剛流を学んだ際には、すでに流派独自の木太刀は使われておらず、一般的な現代剣道用の木太刀を使っての教伝であったという。

 今後の角田や丸森における現地調査で、往時の木太刀や撓などが発見できることを期待している。

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▲4尺4寸2分の木太刀を用いての柳剛流剣術「右剣」。仕太刀・宇田川浩二、打太刀・吉松章


 (了)
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跳斬之妙術/(柳剛流)
- 2017/04/25(Tue) -
 本日は県立武道館にて、柳剛流を中心に稽古。

 4月の演武では打太刀だったことや、翠月庵の稽古では指導する立場上、どうしても打太刀を執ることが多くなっていることもあり、ここでは仕太刀をじっくりと錬る。



 柳剛流の特長は言わずと知れた足斬り=「断脚之術」であるが、その運用として跳び違いを多用する。これをして当流にゆかりの深い無敵の女武芸者・園田ひでを師は、「跳斬之妙術」と評した。

 この「跳斬之妙術」を最初に錬る形が、切紙で学ぶ「右剣」と「左剣」である。

 しかもこれらの形稽古では、長さ4尺4寸2分の長大な木太刀を使い、激しく跳び違いながら斬撃を繰り出さねばならない。

 その際、単なる脚力で跳ぼうとすると、長大な木太刀に振り回され、あるいは床面の摩擦係数の低さのためにバランスを大きく崩し、ひどい場合は転んでしまうことさえある。

 さりとて、しっかりと正しい姿勢で跳び違わなければ、形の求める「術」そのものが成立しない。

 加えて屋内で足袋を履くと、これがさらに床との摩擦を減じ、足の踏み出し・踏み込みだけでは、到底、形で求められるような位置への跳躍をすることが困難になるのである。

 そこで重要なのが、「地面を蹴らずに跳ぶ」ということだ。

 そのためには、『五輪書』で剣聖・宮本武蔵が指摘しているように、「太刀の道を知る」ということが必須となる。

 流儀こそ異なるものの、柳剛流剣術の形において、「蹴らずに跳ぶ」ためには、この「太刀の道を知る」ということが欠かせない要諦なのだ。

 太刀の道を知り、それに心身が自然に従うからこそ、長大な木太刀を使い、非常に滑りやすく容易に踏み切ることのできない状況でも、身体を最大限に転換しながらの、「跳斬之妙術」が実現できるのだ。

 ことに、「右剣」や「左剣」、あるいは当流柳剛刀と称される「青眼右足頭(刀)」や「青眼左側頭(刀)」、「中合剣」といった形の稽古を通して、これらの点を明確に理解することができる。

 それではどのようにすれば、柳剛流における「太刀の道を知る」ことができるのか?

 実技の解説や口伝はweb上ではあえて秘するが、稽古場での実伝では余すところなく知識と技術、そして経験を、柳剛流の研鑽と伝承を志す全ての人と共有したいと思う。

 現在、柳剛流の剣士は、私たち国際水月塾武術協会が伝承する仙台藩角田伝をはじめ、紀州藩田丸伝、幸手剣道連盟伝等、すべての稽古者を最大限に数えても、全国でわずか30名足らずであろう。

 教え惜しみをしていては、遠からず流儀が絶えてしまう・・・・・・。



 稽古後半は、柳剛流長刀(なぎなた)に専念。

 ここでも、「蹴らずに跳ぶ」ことに留意する。

 私の場合、翠月庵が野天稽古場のため、どうしても普段の稽古では、地面の摩擦係数の高いところでの稽古になる。

 それに比べると、板敷の武道場で、しかも足袋を履いての長刀の稽古では、よりシビアに「蹴らずに跳ぶ」という動作を突き付けられるのだが、それがたいへん学びの多い稽古となるのだ。

IMG_0902_柳剛流剣術
▲柳剛流というと「断脚之術」に注目が集まりがちだが、実はその真面目は、身体の運用としての「跳斬之妙術」にある



 GW前の今は、外国人向けの旅行記事、政府医療政策関係者へのインタビュー原稿、温泉旅館の紹介記事、障害者総合支援法を解説する単行本の執筆、介護施設関係のルポルタージュ、子供向けの医学解説書など、多数の締め切りを抱えており、超多忙だ。

 このため今日の稽古も、小1時間ほどで切り上げようと思っていたのだが、結局、みっちり2時間以上の稽古となってしまった(苦笑)。

 稽古の〆は、荒木流抜剣、八戸藩伝神道無念流立居合、そして柳生心眼流の素振り28ヶ条の形を打つ。

 武術三昧のひと時を過ごし、心地よい春の夜風の中を帰路についた。

 (了)
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流祖が形に託した「事理」/(柳剛流)
- 2017/04/23(Sun) -
 柳剛流居合では、折敷いた姿勢のままで、非常に身体的負荷の高い体捌きを要求される。

 これが最大の特長であり、稽古の眼目であるわけだが、だからといってそれ以外の、居合としての基本的な要諦を疎かにしてはならない。

 たとえば体捌きが激しいだけに、どうしても姿勢が崩れがちとなるが、常に正しい姿勢を保つ必要がある。

 あるいは抜付けに際しては、特に初学者はごぼう抜きになりがちだが、それは厳に慎み、序破急の拍子をしっかりと体得させる必要があるのは言うまでもない。



 たった5本のシンプルな形だが、流祖・岡田惣右衛門がそこに託した「事」と「理」に想いを致しながら、丁寧に、大切に稽古をしていかなければならない。
 
DSCN0681_柳剛流居合

 (了)
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武装して外出する/(身辺雑記)
- 2017/04/21(Fri) -
 武芸などをやっていると、時折酒席などで素人さんから、「普段から武器とか持ち歩いているんですか?」、などというバカげた質問をされることがある。

 いうまでもないが、私は稽古場への行き帰り以外で、武具を携帯したり持ち歩くことはない。

 丸腰で危急のことがあれば、文庫本でも万年筆でも、手元にあるものならなんでも「手裏剣に打つ」のが、手裏剣術者のたしなみであるし、そもそも稽古目的以外で武具を持ち歩くというのは、軽犯罪法やら銃刀法やらに抵触して、なにかと面倒なことが多いのである。


 ところがこの前の日曜日、朝から親しい人を送り迎えしなければならないために徒歩で外出しようとしたところ、市の防災無線から警察より緊急放送があり、刃物を持って人に襲い掛かった暴漢が逃走中なので、市民は外出を控えて自宅にいろとのこと・・・。

 まったく、ここは魔界都市なのかよと思うのだが、これが21世紀の我が街の現実だ。

 なにしろ2年前には、当市の近隣にあるK市で、子供を含む6人もの一般市民が、自宅にいたところを白昼堂々、頭のイカレタ外国人に刃物で襲撃され殺害されているのである。

 一方で、たとえば何らかの急迫不正の侵害があった場合、110番してから現場に警察官が到着するまでの時間(レスポンスタイム)は、全国平均で約7分もかかるのだ。

 刃物を持って逃走中の強盗未遂犯に襲われて、のんきに7分間も警察官の到着を待っている暇はないし、さりとてご婦人の送迎という大切な用事があるというのに、刃物男にびびって自宅でぼけーっと退避しているわけにもいかない。

 しょうがないので、ヒップバッグに射程5mのOCガススプレーと、4135カーボンスチールの特殊警棒、印字打ち用の大型六角ナットを3つ入れて外出する。

 ちなみにスタンガンは、私はこの道具がどうも好きになれないので、今回も置いていくこととする。

 当然ながら、この状態で警察官から職務質問を受けた場合、これらの護身用具(合計約2万円)は没収されて返却されない蓋然性が高いわけだが、この状況ではそれも仕方あるまい。

 逃走中の頭のイカレタ犯罪者に刺されてケガをしたり、大切な人が刃物で傷けられたりするよりか、護身用具を没収されるほうがましだろう。

 なにしろオマワリさんは、通報してから7分後まで、私も親しい人も、だれも助けてはくれないのである。

 また自分一人であれば、相手の顔にお茶の入ったペットボトルでもぶつけて、あとは走って逃げればいいのだが、守らねばならぬ人がいる状況となると、自分だけ逃げるというわけにもいかない。

 本当なら、刃物を持った犯罪者が街中をウロウロしているのだから、32口径程度の中型拳銃くらい携帯して出かけたいところなのだが、当然ながら日本では、市民に護身目的での銃器の所持・携帯は許されていない。

 そこで合法的な範囲内での自衛となると、催涙スプレーや特殊警棒、スタンガンといった程度の、アドレナリン全開で刃物を手にこちらへ襲い掛かってくる強盗犯や、ドラッグでラリッって痛覚がマヒし、ちょっとやそっとの攻撃には動じない薬物中毒患者相手としては、いささかお寒いレベルの武装で我慢せざるを得ないというわけだ。


 それにしても、当地の治安は悪い。

 我が家の前のバス通りでは、数年前から連続強姦魔が出没しており、何人もの女性が被害にあった挙句、最近になってようやく逮捕された。

 また、市内にはギャングじみた若者の犯罪者集団がおり、殺人未遂で摘発されたりしている。

 いったいここは、どんな犯罪都市なのかと思うのだが、これが都心から電車で40分足らずにある我が街の現実なのである。

 まったく、嫌な渡世だナア・・・・・・。

 (了)
 
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柳剛流を学ぶという責任/(柳剛流)
- 2017/04/20(Thu) -
 去る2月、仙台藩角田伝柳剛流の第4代である泉冨次先生ゆかりの方と、ご連絡をとることができた。

 そして先日、今度は「柳剛流の里」である宮城県伊具郡丸森町(旧大張村)で、明治時代に柳剛流師範として活躍された佐藤右膳先生ゆかりの方からご連絡をいただいた。



 佐藤右膳先師は、旧大張村大蔵に稽古場を構え、近隣に住む数多くの若者たちに柳剛流を伝えたという。

 私の師である小佐野淳先生に柳剛流をご指導された旧大張村川張の佐藤健七先生は、実父である佐藤金三郎先師に柳剛流を学ぶとともに、登米伝柳剛流の沼倉清八師範の指導を受けるほか、隣村にあった佐藤右膳先師の道場にも通ったという。

 佐藤健七先生の伝えた当時の逸話によれば、稽古において脚を打つ際、たいていの場合は相手の右足を打っており、相手の左足を打つことができるのは、よほど飛び込めたときだけであったという。



 佐藤健七先生他、複数の在地の先達から柳剛流を伝授された小佐野先生より、平成の今、薫陶を受けて仙台藩角田伝の柳剛流を学んでいる私としては、直系の先師である健七先生ゆかりの大師範である佐藤右膳先生のご親族からご連絡をいただけたというのは、実に光栄なことだ。

 古流の武術というものは、こうして時代や世代を経て人から人へ、さまざまな人々に支えられながら伝えられていくのかと思うと、改めて今、柳剛流の剣を振るうことの喜びをひしひしと感じる。

 そして50年後、100年後に、仙台藩角田伝柳剛流が日本のどこかで未来の武芸者たちに受け継がれているかどうかは、現在、柳剛流を伝承し稽古をしている我々にかかっているといって過言ではない。

 その責任はたいへんに重いが、一方で市井の武芸者のひとりとして、たいへんに誇らしくもある。

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 ■引用・参考文献
  『剣道日本』第3巻第6号 通巻30号「続 剣脈風土記 陸前柳剛流」 (渡辺誠/スキージャーナル)
  『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』(南部修哉)
  『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』(森田栄)
 
 (了)
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鏡は悟りの具ならず、迷いの具なり/(箴言集)
- 2017/04/19(Wed) -
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鏡を看よといふは、反省を促すの語也。

されどまことに反省し得るもの、幾人ぞ。

人は鏡の前に、自ら恃み、自ら負ふことありとも、遂に反省することなかるべし。

鏡は悟りの具ならず、迷いの具なり。

一たび見て悟らんも、二たび見、三たび見るに及びて、少しづヽ、少しづヽ、迷はされ行くなり。

                                                (斎藤緑雨)


 (了)
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春爛漫/(身辺雑記)
- 2017/04/17(Mon) -
 拙宅の前の桜は散ってしまったが、翠月庵の稽古場の周りの桜は、まだ咲き誇っていた先週末。

 稽古場で、家主さんが飼育しているウサギが出産した。

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▲まだ目が完全に開いていない子ウサギたち


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▲掌に乗るほどの小さなウサギの赤ちゃん


 そんな命の息吹を感じながら、稽古では板金を打つ心にての4間直打に集中。

 ぎりぎり尺的に集まるも、調子はいまひとつ。

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 ま、何はともあれ、春爛漫である。

 (おしまい)

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角田随一の遣い手、柳剛流・浅野弥惣太/(柳剛流)
- 2017/04/15(Sat) -
 今から36年前に発行された『文芸角田』という雑誌に、「柳剛流の剣士 浅野弥惣太の記」(松岡泰二)という記事がある。

 浅野弥惣太は、柳剛流2代岡田(一條)左馬輔の弟子であり、左馬輔門下では、後に角田伝柳剛流4代となった泉冨次師範を凌ぐ腕前であったとも伝えられている。

 慶應4(1868)年2月、弥惣太は角田の泉冨次道場で、松前藩士何某と真剣で立ち合い、しかも血を流さずに見事な勝ちを得たことから、「角田随一の遣い手」と評されるようになり、明治には仙台城下における撃剣興行でも大活躍をしたという。



 以上が「柳剛流の剣士 浅野弥惣太の記」に記されている内容なのだが、1つ不思議なことがある。

 角田市の長泉寺にある「柳剛流開祖岡田先生之碑」は、角田や丸森の主な柳剛流免許者の名前が網羅されているのだが、ここに浅野弥惣太の名前は記されていないのだ。

 この碑が建てられた明治35(1902)年、弥惣太は57歳なのだが、すでに鬼籍に入っていたのか? あるいは、その他に何らかの事情があったのだろうか?

 「柳剛流の剣士 浅野弥惣太の記」には、泉冨次師範と浅野弥惣太との間に軋轢があったような記述もあるが、いささか資料そのものの信頼性に疑問があり、事実はつまびらかではない。

 いずれにしても、角田にせよ丸森にせよ、あるいは武州や田丸にしても、江戸後期から明治・大正・昭和前期にかけて、数多くの柳剛流剣士が、さまざまな剣客人生を送っていたのであろう。



 平成の今、柳剛流を伝承し稽古をする者のひとりとして、こうした往時の柳剛流剣士たちの記録も少しずつ集め、後世に伝えていけたらと思う。

 ■参考文献
 「柳剛流の剣士 浅野弥惣太の記」(松岡泰二/『文芸角田』15号 1981年)

 (了)
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清明雑想/(身辺雑記)
- 2017/04/13(Thu) -
 日常に戻らねばならぬ。

 そのために今日は、インバウンド向けの観光記事を10本ほど書く予定。

         *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 今も翠月庵は野天稽古場であるし、若い頃も旧師の方針で野外で稽古することが多かった。

 このため、地面の上でもそれなりに受身は取れたものだが、加齢とともに、また若い時と違って今は稽古のメインが柔術ではないこともあってか、野外での受身は厳しい。

 先日の岐阜での柳剛流演武は、コンクリート打ちっぱなしの野外ステージが会場だったのだが、剣術の接触技法で受身をとった際にお尻をぶつけたらしく、今日になってもちと、お尻の筋肉が痛い。

 歳は取りたくないものである・・・・・・。

 しかし一方で、「まだコンクリートの上で受身をとっても大丈夫だな」という、妙な安心感も覚えた演武であった。  

         *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 朝、先日入門したS氏から、柳剛流に関する質問がメールがあったので返信する。

 こうした質問はいつでも大歓迎なのだが、それはあくまでも日本語での場合。

 外国人弟子の場合、英語でのやり取りになるので、申し訳ないが、このようにレスポンス良く返事をすることができない。

 翻訳ソフトが進化しているとはいえ、やはり未だにナゾな日本語のレベルなので、到底、クリック1つで文章完成とはいかず、日本語なら10分で済む返信が、私の場合1時間もかかったりするので、じつにたいへんなのだ。

 熱心なので、できるだけそれに応えてやりたいとは思うのだが、やはり日本文化を日本人の師について学ぶのであれば、日本語の会話はもちろん、読み書きもできるようになってもらいたい。

 たとえば、私が英国でwitchcrafのcoven入団を志すのであれば英語の読み書き会話は必須であろうし、トルコで絨毯職人に弟子入りしようとするならトルコ語の読み書き会話はできて当然であろうし、サラワク州のプナン族に吹き矢を教えてもらおうと思ったらプナン語を学ばねばなるまい。

 そういう意味で、日本文化を学ぼうという外国人は、会話はもちろん、日本語の読み書きを習得しておくべきだろう。

 人生の時間は有限であり、私にはほかにやるべきことが山積しているので、自分の時間や能力を、今後、英語力の向上に使う余裕はないし、そのつもりもない。

 てなわけで、

 「我より童蒙に求むるにあらず。童蒙より我に求む」

 という易の哲理を理解してほしいものである。

 ま、日本語読めない人には分かんないか・・・・・・。

 (追記:これまではエキサイトやヤフーなどの翻訳を使っていたが、今日はじめてグーグルの翻訳を使ってみたところ、かなり使い良い。これなら割合早く、気軽に英文の返事がかけそうである。ま、面倒なのは面倒なのだがなあ・・・)

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 SNSで度々拙ブログを紹介してくださる、周防のRさん。

 お気遣い、かたじけないです。

 五十路を目の前に加齢の影響か、季節の変わり目となると何かと体調不良の多いこの頃ですが、だましだまし細く長く、武芸の修行に精進しようと思います。

 武芸の世界も、結局は最後まで生き残った者、長生きしたもん勝ちということかもしれません(笑)。

 (おしまい)
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平成29年度 苗木城武術演武会/(武術・武道)
- 2017/04/10(Mon) -
土曜

 朝からあいにくの雨。

 刀の柄が濡れないように養生し、荷物を担いで朝7時に家を出る。

 「青春18きっぷ」を使い、新宿から塩尻を経由して中津川へ。所要約8時間の各駅停車の旅なり。

 中津川駅で翠月庵のY氏・U氏と合流し、戸山流居合抜刀術美濃羽会中津川稽古会のO先生のご自宅へ向かう。

 本日は午後から、中津川稽古会の皆さんを対象とした恒例の手裏剣術講習会なのだが、こちらも天気は雨。しかもかなりの降りだ。

 講習はO先生のご自宅の庭が会場なので、せっかく皆さんに集まってもらったのに、残念ながら中止かなと思ったのだが、少しずつ雨が小降りになり、また皆さんがブルーシートなどで即席の天幕を張ってくれたこともあって、間合はたった1間半程度しかとれないのだが、せっかくなので講習を実施。

 長剣を使った基本の打剣の後、今回は刀法併用手裏剣術についても手ほどきを行う。

 一刻ほどの稽古の後は、O先生をはじめ中津川稽古会の皆さんと、我々翠月庵一同とで夕食。

 食事とともに、いつも通り武術談義に花が咲く。

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▲長剣を使った基本の打剣。指導は翠月庵筆頭の吉松章氏



 歓談中に電話があり、今日の昼に父が他界したとのこと。

 とはいえ、私が12歳のときに離別して以来、親として担うべき責任を放棄して勝手気ままに生きてきた人なので、人並な悲しみはあまりない。

 ただ、最後は親族のだれにも看取られることなく、施設でひとり死を迎えたという父が、今際の際に己の人生をどう総括したのか、いずれ私が三途の川を渡った後、機会があれば尋ねてみたいと思う。

 野辺の送りその他、もろもろのよしなし事は親族に任せ、私は明日の演武に専念する、ただそれだけだ。


日曜

 残念ながら今日も雨。

 演武の会場は屋根付きの野外ステージなので雨でも中止になることはないのだが、見学者は少なくなってしまうだろう。

 O先生宅で朝食をいただき、最寄りの体育館で1時間ほど稽古。演武内容を確認する。

 その後会場に移動し、10時から苗木城桜まつり武術演武会の開始である。

 今年は、中津川稽古会の皆さんの演武からスタート。

 基本の組太刀から精緻な試斬、小太刀や鑓の演武など、普段のたゆまぬ稽古の成果を感じさせる、見事で安定した演武であった。

 そしていよいよ、我が翠月庵の演武である。

 まずはY氏、そして私による手裏剣の3間直打。

 そして刀法併用手裏剣術。Y氏は「右敵」の形の変化、私は「前後敵」の形を行う。

 続いて、柳剛流の演武。

 まずは仕太刀・U氏、打太刀・私による柳剛流剣術。「右剣」、「左剣」、「無心剣」、「中合剣」、「相合剣」を行う。

 次に、仕杖・Y氏、打太刀・私による柳剛流突杖。「ハジキ」、「ハズシ」、「右留」、「左留」、「抜留」を披露。

 最後はU氏による柳剛流居合。「向一文字」、「右行」、「左行」、「後詰」、「切上」の5本を抜く。

 こうして、我々の演武は終了した。

 今回、翠月庵/国際水月塾武術協会埼玉支部としては、初めての柳剛流の演武であったが、各人が十分な手ごたえと課題を感じることのできた、貴重な体験となった。

 私は手裏剣術以外、今回は柳剛流の指導と打太刀に徹したのだが、Y氏、U氏ともに、気迫のこもった柳剛流の業前を披露してくれたことを、たいへんうれしく思う。

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▲演武終了後、戸山流居合抜刀術中津川稽古会の皆さんと翠月庵一同で記念撮影



 演武終了後は、昼前に解散。

 Y氏とU氏は車で帰京。私はふたたび列車に乗り込み、8時間各駅停車の旅である。

 塩尻で乗り継ぎの合間、キヨスクで買った安ワインで、鬼籍に入った父に献杯した。

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 (了)
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