有楽町で柳剛流/(柳剛流)
- 2017/08/18(Fri) -
 本日は夕方から有楽町で、医療雑誌取材の打ち合わせ。

 灼熱の埼玉からくると、東京は涼しくてよい。

 帰路、京浜東北線のホームからふとビックカメラの建物を見ると、auのキャラクターである三太郎のでかい看板が目に入る。

 浦島太郎は晴眼、桃太郎は八相、金太郎は下段をはずした無構えか。

 ふむ、では柳剛流備十五ヶ条フセギ秘伝にて、それぞれの相手の構えに対すれば・・・・・・。

 と、思わずホームで脳内稽古に励んでいた。

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 「月は我れ我は月かと思うまで
               隅なき月にすがる我かな」 (柳剛流 武道歌)


   (了)
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深夜、無声にて形を打つ/(柳剛流)
- 2017/08/17(Thu) -
 「武芸における掛け声は、威力を持った固有の武技である」

 というのは、私の昔からの持論だ。

 また、武芸者の発する掛け声はひとつの年輪であり、掛け声の様子によって、ある程度その人の業前さえ推察することができる。

 故に、特に初学の者には、掛け声についてしっかりとかけるように指導したい。

 有声の掛け声は、「どこから声を出すのか?」を意識させることで、上・中・下の各丹田を認識させるのに有効であるし、ごく初歩的な「気・剣・体の一致」を体現させるためにも有用だ。



 昨晩の稽古は、屋外でしかもかなり夜遅い時間であった。

 仙台藩角田伝柳剛流では、形において短く「エイ」、あるいはやや伸ばして「エーイ」という掛け声をかけるのであるが、深夜の屋外ではそういうわけにもいかぬ。

 そこで、本来は有声である掛け声を、無声として行う。

 有声の掛け声も無声の掛け声も、本質的にはその意味や効果は同じものであるが、有声の掛け声の効果・効用を同じように無声で実現させるためには、より質の高いレベルでの呼吸・意識・体の運用が求められる。

 このような感覚を養う意味で、本来は有声であるべき形=業を、時には無声で行うというのも有効であろう。

 ただし、こうした稽古はあくまでもある程度熟達した者が行うべきものであり、初学者はあくまでも流儀の定める掟の通り、腹の底から大きく掛け声を掛けなければならないことは言うまでもない。

 一方で指導者は、「掛け声とはどのようなものか?」「掛け声にはどんな意味・意義・効果があるのか?」「どこから、どのように、どんな拍子で声を出すのか?」といった点を、明確にして指導しなければならない。

 「四の五の言わず、ハラの底から大声を出せ!」

 という軍隊式・体育会式の指導も結構だし、私自身、若いころはそのように教えられてきたのだけれど、最近の若い人はこうした教え方ではあまり納得してくれないようだ(苦笑)。

 一方で指導者たるもの、

 「声出せ、声出せって言いますけど、ボクシングじゃあパンチ打つ時、声出さないっスよね?」

 といった素朴な弟子の問いに明確に答えられなければならないし、そのためには単なる大声と「威」のある掛け声の違いについて、明確に理解し、それを弟子に説明して指導できなければならないだろう。

 掛け声は、力なり。

1705_柳剛流長刀_モノクロ
▲裂帛の掛け声とともに技を繰り出す柳剛流長刀


 (了)
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跳び違い/(柳剛流)
- 2017/08/16(Wed) -
 今晩は武道館に行って稽古をする時間は無かったのだが、長刀を振りたかったので拙宅前の私道にて稽古。

 折よく稽古をしようと思ったところで、朝から降り続いていた雨が止んだのは幸いであった。

 長刀の前に、まずは剣術で体を温めようと木太刀を執る。

 雨上がりのアスファルトの上で、ジョギングシューズ履きで飛び違いながら木太刀を振るうと、武道場で白足袋を履いて稽古をするとき、あるいは翠月庵の野外稽古場で足袋を履いて稽古するときとも違った独特の滑り方で、足元がふらつき安定しない。

 しかし本質的には、履物や地面の状況に関わりなく、どんなところでも適切に飛び違いながら剣を振るうのが柳剛流の真面目であり、正しく体が動いていれば、そのようになるはずだ。

 にもかかわらず、飛び違いでの斬撃が安定しないということは、木太刀と身体の使い方に、何らかの不具合があるということである。

 剣術の形を丁寧に行じながら、動きの不具合を調整していくと小半刻ほどで、なんとか跳び違いが安定するようになってきた。

 要は「太刀の道」に従わず、脚力で地面を蹴っていることから、摩擦の低い路面でうまく飛び違いができなかったわけだが、こうした動きを、地面や履物などの状況に関わらず、あらゆる状況で常に適切にできなければならない。



 気が付けばあっという間に時間が過ぎ、結局今晩は、長刀ではなく剣術メインの稽古となってしまった(苦笑)。

 ま、そんな日もある。

 (了)
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柳剛流突杖の奥深さ/(柳剛流)
- 2017/08/08(Tue) -
 お盆休み前の原稿ラッシュが、ようやく峠を越えた。

 まだ今週中に取材と編集作業があるものの、とりあえず締め切りのある原稿は来週末までなく、今週末は人並みに休暇が取れそうだ。



 今晩も拙宅の稽古では、柳剛流の突杖を。

 先週末の翠月庵の稽古では、指導をしながら自分なりに改めて学ぶことが多く、さらにこれまでの手控えを再確認しながら、ひとつひとつ形を繰り返す。

 その上で改めて、突杖特有の手之内について、なるほどという気づきを得ることができた。



 柳剛流の体系において、突杖はやや特異な位置付けというか技術的な特性があり、また私自身、これまでの武術・武道人生で「杖」というのは専門的に取り組んでこなかった領域であった。

 このため突杖については、柳剛流の他の三術(剣術・居合・長刀)に比べると、特段、深い感慨はなかったのだが、先週末の稽古以来、「いや突杖も、実に奥深いなあ・・・」と、いまさらながら改めて実感した次第である。

 弾き、外し、巻き落とし、抑え、そして突く。

 この簡素で剛強な業が、稽古をすればするほど味わい深くなるのだから、武芸というのは面白い。

 また、何の変哲もないわずか四尺足らずの杖をもって剣を制するというのは、よほど深い術でないと到底使い物にはならないことは、言うまでもない。

 こうした武芸としての難しさ、厳しさを、術者に明確に感じさせるという点は、ある意味で手裏剣術にも共通するようにも思える。

 柳剛流突杖。

 実に奥深い術である。

 (了)
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一打必倒の気勢~柳剛流突杖/(柳剛流)
- 2017/08/05(Sat) -
 本日は午後より、翠月庵での定例稽古。

 稽古場の気温は31.3℃、湿度86%、無風、不快指数86。

 本当に、いや本当に暑い・・・・・・。

 しかし、この武州中山道の猛暑酷寒の野天稽古場にて、四季を問わず刀を振るい木太刀を打ち合うのが、武州埼玉発祥である我ら柳剛流の稽古の真面目と言えよう。

 当稽古場からは少々離れてはいるが、同じ武州埼玉の惣新田で252年前に生を受けた流祖も、我々の昔ながらの野天稽古を草葉の陰から見て、微笑んでくれているのではなかろうか?



 本日は、杖道5段で古流の神道夢想流杖術も修めているS氏に、剣術や居合に次いで、柳剛流の突杖を集中的に指導する。

 「ハジキ」、「ハズシ」、「右留」、「左留」、「抜留」と、わずか5本の体系であり、しかも杖の専門流儀として深遠な術理を誇る神道夢想流に比べると、きわめて素朴な柳剛流突杖の業ではある。

 しかし、一打必倒の勇猛な気勢で打太刀を一撃に突倒すのが柳剛流突杖の神髄であり、一刻ほどの稽古を終えて、そんな当流の杖の一端にふれてもらうことができたのではないかと思う。

 一手一手、形の稽古を重ねるごとに、流儀を学び、受け継ぎ、伝えることの喜びを感じられる、厳しくも爽快な稽古であった。


 ~敵は剣身をば柳江修行して
             心せかづに勝を取るべし(柳剛流 武道歌)~



  (了)
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