仙台藩角田伝柳剛流の技術体系の変遷について~予告編/(柳剛流)
- 2017/03/22(Wed) -
 柳剛流研究の史料として、まだ未見であった、『浅野弥惣太の記 : 柳剛流の剣士』(松岡泰二著/文芸角田(15).1981/5.角田氏文化協会)と、『柳剛流二代岡田左馬之輔の秘話』(松岡泰二著/文芸角田(32).1988/11.角田氏文化協会)という2点の文書を入手した。

 これらの内容については改めてふれようかと思うが、上記2点の史料を読み、その記述の事実関係や年月日などを確認するために、改めて仙台藩角田伝系の柳剛流の伝書類を精読する中で、その技術体系の流れと変革を改めて見直すことができた。



 大雑把に言えば、仙台藩角田伝の柳剛流は、流祖の直弟子であり2代を継承した岡田(一條)左馬輔の伝えた技法群が根本としてあるわけだが、実際に今現在、我々が伝承し稽古をしている角田伝柳剛流はそれとはかなり異なる部分があり、おそらく角田伝4代の泉冨次師範が江戸で岡田十内に学んだことから、岡田十内系の柳剛流の影響を強く受けていると考えられる。

 これは、岡田左馬輔直筆である複数の伝書に記されている切紙・目録・免許の内容と、明治~大正期に記された角田伝の伝書類、そして現在、我々が伝承している角田伝柳剛流の内容を突き合せた結果による、私なりの現時点での推論である。

 これについては、もう少し、史料を精査し検討を加えた上で、改めて考察をまとめたいと考えている。

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▲天保9(1838)年、岡田左馬輔が角田における一番弟子で、石川家の柳剛流師範となった戸田泰助に出した直筆の目録。『一條家系譜探訪 柳剛流剣術』一條昭雄/(私家版)より

 (了)
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フランク安田と柳剛流/(柳剛流)
- 2017/03/17(Fri) -
 27年前、私は学校を卒業してから3年間勤務していた警備会社を退職し、生まれて初めての辺境への旅へ出かけた。

 行き先は、アラスカ・ユーコン河である。

 たった3カ月間の気ままなヴァガボンドであったが、川辺に集落が点在するだけで、あとは半径数百キロの範囲内に人間が1人もいない無人地帯(ノーマンズ・ランド)の原野を放浪した日々は、今となっては忘れがたい青春の思い出だ。



 そもそも、なぜ地の果てのような極北のユーコン河を目指したのかといえば、当時心酔していたカヌーイスト野田知佑氏の影響と、フランク安田への憧れからであった。

 フランク安田(1868~1958)は、新田次郎の伝記小説『アラスカ物語』の主人公として知られる日系アメリカ人一世である。

 20歳でアメリカに渡ったフランク安田は、縁あってアラスカのバロー村にたどり着き、ここでイヌイットの一員として認められ家族を持つ。

 しかしある年、村で麻疹が大流行し病死者が続出。さらに鯨の不良が重なり、バロー村の住民たちは飢餓にさらされる。そこでフランク安田は、イヌイットたちの新たな安住の地を探すべく旅に出発。

 2年間に及ぶ過酷な原野での旅の末、ようやく村人が移住できる土地を見つけたフランク安田は、さらに3年の歳月をかけて200名余りの村人の移住を成功させる。

 アラスカの広大な原野において、これだけ大規模な移住を成功させたフランク安田の偉業は「奇跡」と称えられ、彼は「ジャパニーズモーゼ」あるいは「アラスカのサンタクロース」と呼ばれ、イヌイットたちの英雄となった。





 ところで、これはほとんど知られていないことだが、フランク安田は、仙台藩角田伝柳剛流と浅からぬ縁のある人物でもある。

 フランク安田の本名は、安田恭輔。宮城県石巻市の出身である。

 安田家は、代々医師の家系であり、父の安田静娯は医師で初代湊小学校校長、祖父の友琳は長崎蘭方医・漢学者であり武芸にも秀でた才人であった。

 この石巻の安田家近くにあったのが、柳剛流2代宗家・岡田(一條)左馬輔の指導する多福院門前の柳剛流岡田道場である。

 江戸での修行を終え、故郷の角田に柳剛流を伝えた左馬輔は、故あって後半生を石巻で過ごしている。このため石巻でも柳剛流は多いに興隆した。

 左馬輔の晩年頃、恭輔の祖父・安田友琳は40代前半、父・静娯は20代で、岡田家と安田家は、家族ぐるみでの親しい交際があったという。また、左馬輔の石巻における門下第一の逸材と言われた岡崎兵右衛門陳秀は、安田静娯と共に酒を酌み交わし詩を吟ずる盟友であった。

 こうした環境の中、幼少の安田恭輔は、武芸に通じた祖父の友琳から剣術の指南を受けていたといわれる。

 その剣術が何流であったのか明記された史料は確認できないのだが、上記のような岡田家と安田家の関係を見れば、それが岡田左馬輔直伝の仙台藩角田伝柳剛流であったろうことは、容易に想像できるだろう。

 さて不幸なことに、安田恭輔は16の年に両親を失う。

 3年後、19歳になった恭輔は、当時米国から帰国して横浜にいた岡田左馬輔の孫である左一郎(小輔)を頼る。

 岡田左一郎は、大柄だった祖父・左馬輔に対し、小柄であったことから「小さい左馬輔」と周囲から呼ばれ、このため「小輔」の名もあったという。

 戊辰の役では、仙台藩一門筆頭・角田石川家第14代当主・石川邦光に従い白河口の戦闘に参加、官軍と剣を交えた実戦経験を持つ柳剛流剣士である。

 左一郎は、自らを頼ってきた安田恭輔を快く受け入れ、アメリカ航路の見習い船員の職を斡旋する。

 しかもこの時、左一郎は18歳であった娘の秀を恭輔の許嫁とし、養子縁組をした上で渡航費などを負担し、恭輔をアメリカに送り出した。

 つまり安田恭輔、後のフランク安田は、渡米する前に、柳剛流宗家・岡田左馬輔の家系を受け継ぐ「岡田恭輔」となっていたのだ。

 ここまでくればほば間違いなく、若き日のフランク安田は、祖父やあるいは養父・岡田左一郎から、なんらかの形で柳剛流の剣を学んだであろうと考えるのが自然であろう。

 そして恭輔がその後無事帰国し、岡田秀と結ばれていれば、彼らの人生は静かで幸福なものとなっただろう。

 しかし「岡田恭輔」は、その後、二度と祖国に帰ることはなかった。

 アラスカの原野で波乱万丈の人生を送った末、「ジャパニーズモーゼ」フランク安田となった恭輔は、昭和33(1958)年1月、自らが開拓したアラスカ・ビーバー村で90年に及ぶ波乱の生涯を終える。

 許嫁であった岡田秀は、恭輔の渡米後、十数年間、彼の帰国を待ち焦がれていたというが、異国に旅立った恭輔からの音信はなく、後に角田出身の教師高橋敬治と結婚。昭和10(1935)年に63歳で亡くなったという。


 岡田秀とフランク安田との悲しい恋の結末は、千葉佐那と坂本龍馬との悲恋を彷彿とさせる、儚く切ないエピソードでもある。

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 ■参考文献
 『一條家系譜探訪 柳剛流剣術』一條昭雄/(私家版)
 『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』(森田栄/日本剣道史編纂所)

 (了)
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柳剛流突杖が投げかける、「術」としての問い/(柳剛流)
- 2017/03/05(Sun) -
 昨日の翠月庵の稽古では、柳剛流突杖の稽古が中心となった。

 これまで本ブログで度々指摘してきたように、総合武術である柳剛流において突杖のみが、他の剣術・居合・長刀とは非常に異なる業の使い方をするものとなっている。

 その理由についてはつまびらかではないが、長年に渡る錬磨が必要である剣術、その体動を補完する居合、そしてそれらの鍛錬によって完成した当流ならではの動きと技で駆使する長刀という一連の体系に対し、突杖のみは非常にシンプルで、良い意味で即物的かつ簡潔な技法構成である点から、おそらく突杖は即応的な護身技法として位置づけられているのではないか? という推論も、本ブログの過去記事に記してきた通りである。



 「ハジキ」、「ハズシ」、「右留」、「左留」、「抜留」の5本を徹底的に繰り返していると、これらの形はいずれも、たとえば往時の農家の次男坊・三男坊といった剣の素養のないであろう者が仕太刀をとっても、気力と体力と熱意があれば、ある程度短期間で「武技」として仕上がっただろうなと感じられる。

 一方で対剣という想定上、たとえば1本目の「ハジキ」における剣の捌きの難しさ、2本目の「ハズシ」における入身の究極的な厳しさなど、柳剛流突杖は一見素朴ながら、実は武技としてたいへん高度な「術としての問い」も、術者に投げかけているのである。

 このような流祖から示された「術として問い」を、理屈ではなく己の心身で紐解いていくことが、現代における古流武術修行の醍醐味のひとつだといえるだろう。

1703_本部所蔵切紙


 (了)
 
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抜付けの速さ/(柳剛流)
- 2017/03/01(Wed) -
 先日の本部稽古で師より、柳剛流居合の「後詰」における抜付けの遅さと、その原因となる体捌きについてご指導をいただいた。

 今晩の稽古では、それを念頭にじっくりと居合を抜く。

 加えて、「右行」や「左行」においても、「後詰」における体の転換の留意点をいかした抜付けを心掛けると、いままでよりも抜付けの速さが向上するように感じられる。

 当然ながらここで言う速さというのは、単なる鞘離れの速さではなく、形における一連の拍子としての「速さ」のことだ。


 もっとも、本部稽古では師より二尺七寸の刀をお借りして抜いているのにくらべ、今晩は拙宅の狭い室内に合わせて二尺一寸の我が無銘刀を用いての稽古ゆえ、速いと感じるのは、当たり前と言えば当たりである。

 六寸も長さが違えば、鞘離れにしても、形の拍子にしても、速く抜けるのは当然だろう(苦笑)。

 だからこそなおさら、即物的な鞘離れの速さではなく、形全体の拍子としての「速さ」を念頭に稽古をすることが重要だ。

1703_柳剛流居合

 (了)
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柳剛流祖・岡田惣右衛門の「諱」について/(柳剛流)
- 2017/02/28(Tue) -
 柳剛流に関するウィキペディアの記述について、以前は間違いだらけのひどいものであった。

 しかし最近は、「柳剛流」にしても、流祖である「岡田惣右衛門」の項目についても、真摯な記述者の方々による適切な訂正によって正確な記述になっており、柳剛流を学び継承する者として、たいへん喜ばしく思っている。

 (なにしろ私は、ウィキペディアの編集の仕方が良く分からないので)


 そんななか本日、ウィキペディアの「岡田惣右衛門」の記述に関する編集履歴を確認したところ、2017年2月9日 (木) 11:30 に「松茸」というハンドルネームの方が、流祖の諱について「奇良」となっていたものを、以前のウィキペディアの記述であった「奇良、寄良」という両論併記に、書き直し、戻していた。

 その理由というのが、「出典元にある記載のため戻す」ということなのだが、その出典元である『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』の岡田惣右衛門の記述は、信頼性の低い質の悪いものである。



~以下、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』から引用~

岡田惣右衛門 おかだ-そうえもん
1765-1826 江戸時代後期の剣術家。
明和2年3月15日生まれ。心形刀流を大河原右膳にまなび,各地で武者修行。すねをうつことで知られる柳剛流を創始。一橋家の師範をつとめ,江戸神田お玉ケ池で道場をひらいた。文政9年9月24日死去。62歳。武蔵(むさし)葛飾郡惣新田(埼玉県)出身。名は寄良,奇良。通称は別に十内。

~以上、引用終わり~




 流祖の諱については、現存する最古の頌徳碑である宮城県石巻市の「柳剛流祖岡田先生之碑」(嘉永元[1848]年建立)、同じく江戸期に建立された埼玉県幸手市の「柳剛流祖岡田先生之碑」(慶應元[1865]年建立)、以上のいずれでも、「奇良」となっている。

 また、明治以降に執筆された柳剛流関連の事績に関して、そのほとんどにおける出典となっている、明治35(1902)年建立の宮城県角田市長泉寺の「柳剛流開祖岡田先生之碑」でも、流祖の諱は「奇良」と記されている。

 さらに、現在、唯一現存する流祖直筆の書と言われる、宮前華表太宛ての柳剛流伝書でも、流祖の諱は「奇良」だ。

 一方で二次資料である三重県田丸のM家に伝わる『奉献御宝前』という掲額の「写し」や、流祖の孫弟子に当たる武州・岡安師範家の一部の伝書では、流祖の諱を「寄良」と記しているものがあるという。



 以上の点から、森田栄先生や辻淳先生といった近年の柳剛流研究者、また小佐野淳先生以下我々実技として柳剛流を継承している伝承者の間では、

 柳剛流祖・岡田惣右衛門の諱は「寄良」ではなく、「奇良」である

 というのが、最も一般的な共通認識となっている。

 加えて、今回の書き直しの出典となった『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』の岡田惣右衛門の記述は、諱以外にも、流祖と孫弟子の岡田十内を同一人物とするなど、私たち柳剛流伝承者や研究者からすれば、あまりにもお粗末なものであり、そのような質の悪い史料に基づいた訂正は、たいへん遺憾であると言わざるをえない。


 部外者にとっては些細な事なのかもしれないが、流儀を伝承する者としては、流祖の諱というのは非常に大切なものだけに、あえて加筆や訂正をするのであれば、信頼性の高い出典による適切な記述をしていただきたいと、強く望むところだ。

1610_石碑
▲流祖生誕の地である埼玉県幸手市にある、慶應元年に建立された「柳剛流祖岡田先生之碑」には、「諱は奇良、惣右衛門と称す」と刻まれている


 ■参考文献
 『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』(森田栄/日本剣道史編纂所)
 『幸手剣術古武道史』(辻淳/剣術流派調査研究会)


 ■補遺(2017.2.28 20:43)

 本ブログをアップしたあと、再びウィキペディアの「岡田惣右衛門」のページを見たところ、流祖の諱について正しく、「奇良」と修正されておりました。
 本ブログを読んでくださった方が直してくれたのか、あるいはたまたまなのかは分かりませんが、柳剛流のいち修行人としてうれしく存じます。
 今後も、正しい記述が維持されることを望みます。


 (了)
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