雷光石火、明鏡ニ現ル/(柳剛流)
- 2017/07/21(Fri) -
 木曜の夜は県立武道館にて稽古。

 先週、平日は連日空手道の暑中稽古、翠月庵では刀法併用手裏剣術と柳剛流の指導、水月塾本部では甲陽水月流の柔術と、柳剛流の稽古があまりできなかったので、本日はみっちりと柳剛流に汗を流す。

 まずはウォーミングアップとして、神道無念流立居合12本と荒木流抜剣7本を抜く。

 次いで柳剛流。

 まずは飛び違いでの素振りをじっくりと繰り返す。床を蹴らず、足で踏み切らず、ただただ太刀の導く道に従って、沈むように、滑るように飛び違いながら木太刀をふる。

 と、言葉にすれば簡単であるが、4尺を超える長く重い木太刀を自在に振りながらの飛び違いは、それほど容易なものではない。

 しばらく素振りを繰り返すと、汗が滝のように流れ、息が切れ、下肢が重くなる。しかし、この基本的な飛び違いの素振りこそが、柳剛流ならではの「跳斬之妙術」の基盤となるだけに、あだやおろそかにはできない。

 素振りで十分に心身を錬った後は、備之伝と備十五ヶ条フセギ秘伝を稽古。

 今回、素振りで疲労困憊していたことから、「中道」と「丸橋」の構えについて、「なるほど、こういう意味もあるか!」、大きな気づきを得ることができた。

 そして剣術の形稽古。

 最初に切紙の「右剣」と「左剣」を丁寧に、何度も繰り返す。特に、先日門下のS氏から質問を受けて指導をした、脚斬りの際の太刀筋や拍子に留意しながら形を打つ。

 次に、伝書において「当流極意」と記されている、「柳剛刀」と総称される目録の6本の形を錬る。

 「飛龍剣」、「晴眼右足頭(刀)」、「晴眼左足頭(刀)」、「無心剣」、「中合剣」、「相合剣」と、いずれも極めてシンプルな実践刀法であり、これらは目録伝書において、

立ツトキハ影アルガゴトク、撃ツトキハ響キアリ、雷光石火、明鏡ニ現ル(流祖伝来、石川家文書より)



 と称されている。

 ことに、「晴眼右足頭(刀)」と「晴眼左足頭(刀)」は、柳剛流剣術の至極といえるような形であり、切紙で学ぶ「右剣」「左剣」の本質以外をすべてそぎ落とした、柳剛流剣術究極の一手といっても過言ではない。

 柳剛流の二大特色である「断脚之法」と「跳斬之術」の極限の姿が、この2つの形に顕されているのである。

 そしてこの2つの形に顕現する当流の極意は、そのまま免許秘伝の長刀の「術」に直結している。

 そこで、ひとしきり剣術を稽古した後は、長刀を執って存分に振るう。

 飛び違いながら長刀を自在に振るう柳剛流長刀の形は、フィジカル的にもかなりハードであるが、やはりここでも、床を蹴らず、足で踏み切らず、長刀が導くままに、体を動かしていかねばならない。

 続いて突杖、そして居合を抜く。

 思う存分柳剛流の稽古をした後は、クーリングダウンとして、柳生心眼流の素振りを。片衣の表、中極、落、切を振って、本日の稽古は終了。

 はじめは小一時間の稽古でと考えていたが、終わってみれば一刻近くの時が過ぎていた(苦笑)。

 自ら望む稽古というのは、本当にあっという間に時が過ぎてしまうものだ。

1707_柳剛流剣術_左剣
▲柳剛流剣術「左剣」

 (了)
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柳剛流を通じての善意の皆さんとのつながりに、心洗われる/(柳剛流)
- 2017/07/19(Wed) -
 この記事の1つ前に、昨日掲載した「はた迷惑な話」という一文について。

 ほぼ1日掲載しておいたので、本ブログを普段読んでくださる善意の読者の皆さんには、私の本意が伝わったのではと思い、一方で人としてマトモではないイカレちゃった相手に、こちらが論を尽くしてもたぶん聞く耳をもたないのだろうなと思うと虚しくなってしまったので、記事を削除した次第。

 なお小池一夫先生の名言は、今回の一連の出来事に対する象徴的な意味を込めて、こちらにも再掲載しておこうかと思う。

大人としていちばんみっともないことは、「人前で」負の感情をコントロールできないことである。感情を無くせということでは決してない。年を取っても喜怒哀楽を衰えさせるな。しかし、人前で醜態を晒すな。(小池一夫)
https://twitter.com/koikekazuo/status/887182788411117571


 それにしても、口汚い罵詈雑言があふれるように出てくる人というのは、きっと己の心の中もキタナイ言葉で埋め尽くされているのだろうねえ。

 残念なことだ・・・・・・。



 さて、柳剛流に関する貴重な書籍のひとつである、『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』の著者である南部修哉さんが、新しい史料を送ってくださった。

 それは、仙台藩角田伝の「柳剛流剣術免許巻」と、「柳剛流殺活免許巻」の新たな読み下し文である。

 漢文の、しかも白文の読み下しというのは、私もいつも難渋している。なにしろ、1つ間違えると、文意がまったく変わってしまうからだ。

 このため、改めてご自分の著書に掲載されているものを見直し、より正確を期した「改訂文」を、送ってくださったというわけだ。

 早速、拝読させていただく。

 たしかに以前のものより、実践者の視点から読んでも、より文意がスムーズになっているようで、ご苦労の跡がしのばれる。



 それにしても柳剛流に関して、南部さんをはじめ多くの方が、貴重な史料の数々を快く見せてくださったりお送りくださる、あるいは情報や知見をお知らせくださるのは、本当にありがたいことだ。

 それもこれも、柳剛流を大切に思ってくださる皆さんとの、webを通じた大切でありがたいご縁である。

 webのダークサイドを象徴するようなげんなりする出来事がある一方で、このような形でweb社会における善意の恩恵に浴しているのもまた事実だ。

 このような皆さんからのご期待を裏切らないためにも、私たちは仙台藩角田伝柳剛流という宝を大切に守り、流祖伝来の「術」を練磨し、流祖が諭すように鍛錬を通して人格の陶冶に励み、このかけがえのない業と思想を次世代へつないでいかなければならないとしみじみ思う。


 人と人との縁というのは、汚辱にまみれたものもあれば、すがすがしく清廉なものもあり、「やはり人間、捨てたもんじゃあないな」と、改めて心洗われた次第である。

 さて気を取り直して、本日も柳剛流の稽古に精進しよう。

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  ~打つ人も打たるる人も打太刀も
                心なとめず無念無心そ(柳剛流道歌)~


 (了)
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柳剛流突杖の体術への展開(その2)/(柳剛流)
- 2017/07/08(Sat) -
 土曜は翠月庵の定例稽古であるが、本日は私の所用にて休みである。

 「所用」というとなんとなく曖昧模糊としているが、要するに仕事で稽古ができないということだ。

 私は毎月注文のある定期ものの仕事として、医療法人や社会福祉法人の経営者向け月刊誌の巻頭インタビューを担当している。このため毎月1人、医療や福祉関係のオピニオンリーダーにインタビューを行い、6000文字ほどの記事を書いている。

 月刊誌というのは、新聞や週刊誌などに比べると仕事のスパンがそれなりにあるので、それほど慌ただしいことはないのだけれど、たとえば取材のアポイントメントの調整がつかず、どうしても翌月号の校了日直前に取材しなければならず、普段は1週間ほどかけて入稿する原稿を、中1日で仕上げろ! などということはしばしばある。

 今回も、昨日表参道の日本看護協会で行った会長のインタビューを、明日までに入稿しなければならず、やむなく本日の稽古は休みとした次第。

 先週の稽古も雨で中止だったため、気持ちとしては今日は存分に稽古したい所だが、ま、止むをえまい。働かないと、飯が食えず、酒も飲めず、家賃がはらえず、そして稽古もできないし稽古場の維持もできない。

 稼がねばならぬ。

 そんなこんなで本日は定例稽古ができないので、その分、日々の自分の稽古は一段と気を入れて行わねばならない。



 昨晩は、柳剛流突杖の形をじっくりと錬る。

 すでに本ブログでは何度も書いているように、柳剛流において剣術・居合・長刀の3つの術は、すべて一貫した体の使い方(跳斬之術)によって業が展開されていくのであるが、この突杖だけは、そのような体動を伴わない。

 柳剛流の親流儀として明確になっているものには、心形刀流のほかに三和無敵流があるが、ことに突杖については三和無敵流からの影響が強いのではないか? という話は、以前、本ブログに書いた。

 「三和無敵流和力の伝書を読む(その1)-柳剛流突杖に関する考察- 2016/09/29(Thu) -」
 http://saitamagyoda.blog87.fc2.com/blog-entry-982.html

 また、柳剛流突杖のなかでも、2本目の「ハズシ」という形=業は、そのまま無手の体術に展開できるもので、同様の指摘は、龍野藩伝の柳剛流突杖を「柳剛流杖術」として伝承されている会派の方のブログにも、同様の記述があった云々(「でんでん」ではない、念のため・・・)ということも、やはり以前、本ブログで書いた。

 「柳剛流突杖の体術への展開- 2016/06/01(Wed) -」
 http://saitamagyoda.blog87.fc2.com/blog-entry-917.html

 「柳剛流突杖「ハズシ」- 2016/07/08(Fri) -」
 http://saitamagyoda.blog87.fc2.com/blog-entry-934.html

 その後、さらに柳剛流突杖を稽古していくにつれ、体術への展開という意味では、先に記した「ハズシ」以外の4つの形についても、杖使いの動きほぼそのままで、無手の体術に応用できるということを強く感じている。

 もちろん武具を扱うタイプの術は、(本質的に)すべからく体術に応用・展開できるというのは、いまさら言うまでもないことだが、柳剛流のなかでも特に突杖は、その傾向が強いのである。

 たとえば「ハズシ」は、差し手から入り身しての当身あるいは投げ。

 たとえば「右留」は、一足の見切りからの腕抑え、そして当身あるいは肩外し。

 たとえば「抜留」は、手首押さえから入り身しての当身あるいは投げまたは腕抑え、といった具合である。



 こうした応用としての稽古・研究は、それが本来伝承されてきた業=形を変形させてしまうようなことは、あってはならないし、厳に慎まなければならない。

 一方で、ある種の工夫伝ということでこうした応用を検討・研究するのは、流祖伝来の「術」が伝える本質的な理合を、より深く知る学びのひとつだと私は考えている。

 それにしても繰り返しになるが、突杖という一連の形=業は、柳剛流全体からみると実に奇妙というか独自色の強い技法群であるなあと、しみじみ思う。

■2017.7.11 一部本文を修正。
 
(了)
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オークションに出品されていた柳剛流の起請文/(柳剛流)
- 2017/07/03(Mon) -
 先日、ヤフーオークションに、柳剛流の起請文が出品されていた。

 もちちろん、私も入札をしたのだが、最終落札価格はなんと5万1000円(!)であった。

 いくらなんでも、この値段では手が出ず、途中であえなく脱落。なにしろ今の私には、エアコン代が必要なのだ(前々回のブログ参照のこと)。

 貧者の悲しみである・・・・・・(苦笑)。



 それにしても、今回出品されていた紀州藩田丸伝柳剛流の起請文は、画像を見る限り本文の文面自体は、特段、珍しいものではない。

 しかし巻末の署名等を見ると、柳剛流を学び研究する者としては、この起請文の授受の経緯は、たいへんに興味をそそられるものである。

 そこで、落札こそできなかったものの、オークションに出品するために、出品者が公開した画像数点について、保存をしておいた次第である。

1707_起請文
▲今回、ヤフーオークションに出品されていた、田丸伝柳剛流の起請文の巻末



 柳剛流の起請文については、いずれも二次資料ではあるけれど、私は武州系と角田伝のものを複数確認している。

 それらは各々文面が異なっており、また今回の田丸伝の起請文についても、オークション出品時に示された断片的な写真を見る限り、内容は武州系のものとも、角田伝のものとも異なっているようだ。

 かなう事ならば、今回の起請文に限ったことではないけれど、こうした史料を入手した人は秘蔵するのではなく、webでも論文でも出版物でも構わないので、ぜひ内容や研究結果を公表してほしいと思う。



 柳剛流の貴重な史料を手に入れ損ねた代わりというわけではないが、昨晩の稽古では柳剛流剣術の備之伝、備十五ヶ条フセギ秘伝から、切紙の「右剣」「左剣」、目録の「柳剛刀」6本まで、みっちりと普段以上に気を入れて行った。

 私に有り余るほどの十分な資産があれば、存分に資金を使ってこうした史料を集め、散逸しないようにして保存・公開する、柳剛流資料館兼稽古場「翠月庵」を建てるのであるが・・・・・・、ま、それは夢のまた夢。

 赤貧洗うがごとしの毎日を生きる、市井の柳剛流修行者である私は、師より伝授していただいた仙台藩角田伝柳剛流の四術(剣術・居合・突杖・長刀)の実技研鑽と伝承、そしてできる範囲での調査・研究に専念するのみである。


  ~敵と見る心そ我遠立てにけり
                柳は緑り花はくれない(柳剛流 道歌)~



 (了)
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真剣による備之伝と備十五ヶ条フセギ秘伝の稽古/(柳剛流)
- 2017/07/02(Sun) -
 今晩は真剣で、柳剛流居合を抜く。

 日中、机に10時間以上かじりついていただけに、抜付と飛び違いで、萎えてしまった心身に喝を入れる。

 本日はそのまま、備之伝と備十五ヶ条フセギ秘伝の稽古も、真剣で行う。

 普段、この稽古は木太刀で行うことがほとんどなのだが、真剣をもって行うと稽古の厳しさや緊張感は木太刀の比ではない。

 同じように我の剣先を彼の顔面につけても、木太刀と真剣では、まったく「威」と「位」が異なる。

 古流の剣術において、いや、少なくとも柳剛流剣術においては、構えはイコール実体を備えた「技」であり「術」であるわけだが、そういったリアルさや厳しさは、このように真剣をもっての稽古でなければ、私のような凡俗にはなかなか実感することが難しいのだなと、改めて思う。

 触れれば切れ、突けば容易に人体を貫く真剣での稽古だからこそ、木太刀や模造刀では到底感得できない、本当の武芸の厳しさを教えてくれるのだ。

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▲我が愛刀、監獄長光の重厚な切先

 (了)
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