打ち初め/(手裏剣術)
- 2018/01/05(Fri) -
 今晩の稽古は、手裏剣の打ち初め。

 屋内での打剣のため、間合2間、折敷ての座打ちである。

 はじめは久々に無冥流の軽量剣(といっても、全長180ミリ、重さ65グラム、特殊な加工で前重心にしている)を小半刻ほど、次いで25年式翠月剣でさらに小半刻ほど、折敷の状態で順体と逆体それぞれをとりながら、黙々と剣を打つ。

 最近はあまり根を詰めて手裏剣を打っていなかったこともあり、はじめはわずか2間という至近距離にも関わらず、尺的をはずすほどであったが、なんとか稽古終盤には4寸的に6~7割程度まとめられるようになった。

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▲翠月剣を2間から折敷て、渾身の気勢をもって打つ



 ここ最近、稽古の中心が柳剛流であることもあり、手裏剣の稽古はかなり予備的になっていたのだが、今年は原点回帰ではないけれど、もう少し打剣にも気を入れて稽古しようと考えている。

 また、ここ数年はもっぱら順体での打剣をメインとしてきたのだが、今年は思う所があり、逆体での打剣についても改めて稽古と研究をしてみるつもりだ。

 気・剣・体を一致させた、未発のうちにも相手の死命を制しうる、

 「生死一重の至近の間合からの渾身の一打」


 を目指し、さらに精進していこう。

 (了)
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「順体」という用語の定義について/(手裏剣術)
- 2017/10/17(Tue) -
A大兄

 拝復

 平素より、古流武術に関する貴重なご意見や調査・研究に関するご助言を賜り、ありがとう存じます。

 このたびは手裏剣術の指導や理論解説等において、私どもが使っている「順体」、「逆体」といった用語について、

「順体」という言葉は、振武館の黒田鉄山師範が自分の武術理論を説明するのに使用したのが始まりで、形における多くの体勢にそれぞれの正中線があり、それが歪むことなく動ける「体の中の働き」ということである。ゆえに、この「順体」に対して「逆体」という言葉は成立しない



 とのご指摘をいただき、たいへん興味深く拝読いたしました。



 私は今から12年ほど前に、某手裏剣術稽古会に関わり、以来、

踏み出す足と手裏剣を打つ手が同側の場合を「順体」、踏み出す足と手裏剣を打つ手が異なる場合は「逆体」



 という定義に基づいて「順体「逆体」という用語を使っており、今回のご指摘はこれについてのご批判であると理解しております。

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 ▲「順体」による手裏剣の打剣 (2016年4月、苗木城武術演武会にて)



 さて、私はこれまで、古流武術や手裏剣術の修行と並行して、20年ほど伝統派空手道を稽古しております。

 このため、空手道における突き技の表現として一般的に用いられている、手足が同側となる場合の突きは「順突き」、逆になる場合は「逆突き」という定義・用語を元に、私ども翠月庵の手裏剣術における体の動きについて、上記のように「順体」「逆体」という言葉を使ってきました。

 そもそも私は、振武館の武術や黒田鉄山師範には、以前からあまり興味や関心が無いこともあり、今回、大兄にご指摘をいただくまで、黒田師範の提唱する「順体」という言葉の概念や定義は、まったく存じ上げておりませんでした。

 そこで、さっそくネットやいくつかの書籍などを確認してみたところ、なるほど、大兄がご解説くださったような、黒田師範による定義での「順体」という表現を確認することができました。



 その上で思うのですが、現代の武術・武道の世界において「順体」という言葉は、黒田師範の定義する意味で、確定的かつ広範囲に認知された上で使われているのでしょうか?

 だとすれば、たしかに知らなかったとはいえ、すでに広く世間に認知され、確定的となっている黒田師範の定義における「順体」という言葉を、それとは異なる意味で私および私の門下である翠月庵で手裏剣術を学んだ人々が使っているのであれば、それは訂正する必要が大きいでしょう。

 一方で、私が今まで黒田師範の定義による「順体」という言葉を認知していなかったように、現代の武術・武道界においては、黒田師範流の「順体」という用語の定義はまだ確定的になっていない、つまり十分な認知と確定的な理解が不特定多数の広範囲に及んでいないのであればどうでしょう?

 振武館・黒田師範周辺の限られた範囲の人々にのみ了解されている「順体」という言葉の定義に、同館とはまったく無関係な私ども翠月庵が、わざわざ合わせる必要は無いと考えます。



 試みに、私自身がいつごろから「順体」「逆体」という言葉を手裏剣術の理論説明や教習において使っているのかを調べましたところ、今のところ最も古いところでは2008年のブログ記事で、「順体」「逆体」という言葉を使っていることが確認できました。

 すると、すでに約10年、延べ人数にしますと300人以上に及ぶ、翠月庵の手裏剣術講習会受講者や当庵の門弟に対して、手足の動きとその位置関係を示すにすぎない翠月庵・瀬沼流の定義での「順体」「逆体」という用語が使用され、彼らの間で認知され、再使用され、さらにそれらの人々から不特定多数の人々に伝播されています。

 このため現時点では、まことに畏れながら、翠月庵における「順体」「逆体」という言葉の定義を訂正し、振武館・黒田師範流の定義を是としてそれに合わせる必要性を、私は感じておりません。

 とはいえ、武術界における黒田師範の知名度やその門下数に比べれば、私ども翠月庵の認知度や門下数は実に微々たるものです(苦笑)。

 ゆえに「順体」という言葉の定義については、振武館・黒田師範流の定義の方が、翠月庵・瀬沼流の定義よりも、より確定的かつ広範囲への認知に「近い」、ということは否定できませんね。



 いずれにしても今回のご指摘は、これは武術・武道に限ったことではありませんが、相互理解の基本となる「言葉の意味についての共通認識」や、議論・批判における「用語の定義の重要性」を改めて考え直す、たいへん良い機会をいただけたと思っております。

 ありがとうございました。

 敬具

 武術伝習所 翠月庵
        瀬沼健司 
 
 (了)
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読書撃剣/(手裏剣術)
- 2017/09/07(Thu) -
 多忙である。

 月曜は17時間労働、火曜は16時間労働、今日水曜は13時間労働である。

 それでも日当で割ると、2万にすらならぬ。

 働き方改革万歳!

 立て、プレカリアートの同志たち!

 そして有象無象の資本家たちに死を!!

 ・・・とまでは思ってはいない(爆)。

 命はみんな、大切だ。



 ま、なにはともあれ、稽古はしなければならぬ。

 しかし、さすがにこれだけの長時間労働の毎日となると、仕事を終えてから稽古着に着替え、木太刀をとって柳剛流の稽古をする気力が出ない。

 仕事が終われば、もう深夜なのだ。

 そこで、手裏剣術の稽古である。

 拙宅では座打で2間しかとれないのだが、一打必倒の気勢で翠月剣を打つ。

 往時、手裏剣術の稽古は、別名「読書撃剣」とも呼ばれたとか。

 書見の合間に、剣を打って稽古をしたことから、このように言われたという。

 多忙ゆえの心身の疲労と、理不尽な生業への怒りを込めて、板金を打つ心にて、我が翠月剣を打つ。

 それにしても久々の打剣とはいえ、たかが二間座打で、かろうじて七寸的の集剣では、我ながらお寒い次第。

 草場の陰で、Hも苦笑いしておろう。

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 柳剛流の稽古が中心となる今日この頃であるが、翠月庵のもう1つの看板は手裏剣術ゆえ、再び気を入れて稽古をしなければならぬと実感した次第。

 生死一重の至近の間合からの、渾身の一打への道は遠い。

 (了)
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手裏剣は「投げる」ものではない、「打つ」ものである/(手裏剣術)
- 2017/03/31(Fri) -
 言葉は、彼我の世界を規定する。

 「はじめに言葉ありき」とは『ヨハネによる福音書』の一節だが、我々人間は言葉があるからこそ、抽象的な概念や行為を実存として把握し認識することができる。



 武芸における手裏剣術では、古来から手裏剣は「投げる」ものではなく「打つ」ものとされてきた。

 いくつか古典の記述を拾ってみよう。

 「小笠原忠政、敵に胸板と肌との間を鑓にて突き返されたるが、忠政脇差を抜きて手裏剣に打ちたるに、敵ひるんで鑓を抜きたるによりて命助かりたり」(『大阪軍記』)

 「武村武蔵子は与左衛門と云いけり。父に不劣剣術の名人手裏剣の上手なり。川に桃を受けて打つに桃の核を貫きたり」(『幸庵対話』)

 「黒河内兼規、その手裏剣におけるも、小的を柱にかけ、一丈八尺を隔ててこれに打ち、一も過らず」(『会津藩教育考』)



 このように、手裏剣術に関する古典的な史料では、一部に「投げる」という記述も見られるが、ほとんどの場合「打つ」と表現されている。

 その理由はつまびらかではないが、たとえば杭は「打つ」という。あるいは釘も「打つ」と表現する。

 慣習として、先端のとがった棒状のものを何かに突きさす行為は「打つ」と表現することから、棒状あるいは短刀状の手裏剣についても、これを「打つ」と表現したのではなかろうか?



 もう1つ、これは手裏剣術ではないが、剣術の斬撃について、二天一流の宮本武蔵(手裏剣術についても名手であり、始祖のひとりでもある)は、その著書『五輪書』水の巻において、「打とあたると云事」という一文を記している。

一 打とあたると云事。
うつと云事、あたると云事、二つ也。
うつと云こゝろハ、何れのうちにても、
おもひうけて、たしかに打也。
あたるハ、行あたるほどの心にて、
何と強くあたり、忽敵の死ぬるほどにても、
これハ、あたる也。
打と云ハ、心得て打所也。吟味すべし。
敵の手にても、足にても、
あたると云ハ、先、あたる也。
あたりて後を、強くうたんため也。
あたるハ、さはるほどの心、
能ならひ得てハ、各別の事也。
工夫すべし。

(訳)
一 打つと当るという事
 打つということ、当るということ、(これは)二つ(別々のこと)である。
 打つという意味は、どんな打ちでも、しっかりと心得て、確実に打つということである。当るというのは、(たまたま)行き当るという程のことであり、どれほど強く当って、敵が即死してしまう程であっても、これは当るということである。打つというのは、心得て打つ場合である。(ここを)吟味すべし。
 敵の手でも足でも、当るというのは、まず、当るのである。(それは)当った後を強く打つためのものである。(だから)当るというのは、触る〔様子をみる〕という程のことであり、よく習得すれば、まったく別のことだ(とわかる)。工夫すべし。

 ~出典:「武蔵の五輪書を読む 五輪書研究会版テクスト全文 現代語訳と注解・評釈」(播磨武蔵研究会「宮本武蔵」ホームページhttp://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.htmlより)~


 『五輪書』では、斬撃において「打つ」と「当たる」の違いを、主体である剣術者の意念の違いで分別している。

 手裏剣術においても、「打つ」(Strike)と「投げる」(Throw)とでは、術者の意識としてたいへん大きな違いがあり、それは区別すべき精神状態=心法である。

 あくまでも武技として手裏剣術を稽古するのであれば、一打をもって敵の死命を制するだけの気勢を込めた、「打ち」でなければならない。

 「投げる」という言葉・表現・行為には、こうした武芸としての、生死一如の厳しさが無いのである。



 遊戯やスポーツとしての的当てであれば、手裏剣は「投げる」ものであって構わない。しかし、それを武芸と位置付けるのであれば、手裏剣は必ず「打つ」ものでなければならない。

 特に手裏剣術の初学者は、この点を十分に踏まえて稽古に臨む必要がある。

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 ■引用・参考文献
 『五輪書』(宮本武蔵著・渡辺一郎校注/岩波文庫)
 『宮本武蔵の戦闘マニュアル 精解 五輪書』(兵頭二十八著/新紀元社)
 『手裏剣術』(染谷親俊著/愛隆堂)

 (了)
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翠月剣・長剣の新作と、不二心流の手裏剣/(手裏剣術)
- 2017/03/12(Sun) -
 当庵で柳剛流と手裏剣術を稽古している宇田川氏が、稽古用に長剣と翠月剣を制作したということで、先日の稽古で試打させてもらった。

 どちらの剣も、これまで私たちが使っていた長剣や翠月剣とまったく同じ打ち心地であり、素晴らしい仕上がりである。

 ここ2年ほど、新規の手裏剣制作ができない状況が続き、新たに入門した人には翠月庵の手持ちの手裏剣を使ってもらっていたのだが、今後は同氏に制作を依頼できるようになり、ほっとしている。

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▲宇田川氏制作による25年式翠月剣


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▲新作の翠月剣(上)と、私が現在使っている翠月剣(下)


170311_翠月剣と長剣
▲私が使っている翠月剣(上)と、宇田川氏制作による長剣(下)。翠月庵では、まず長剣で直打の基本を体得し、その後、翠月剣での稽古を行う


 宇田川氏は当庵で柳剛流と手裏剣術を学ぶ一方、自身で幽玄会という団体を主催し、千葉県八千代市の教場で夢想神伝流と不二心流、合気剣杖を指導されている(http://www.geocities.jp/spirit_vision_lesson/index.html)。

 このため昨日の稽古では、不二心流の手裏剣を持ってきてくれたので試打させていただいた。

 不二心流の手裏剣は、香取神道流の手裏剣の形状をそのままにサイズアップしたような形である。

 秤が無かったので正確な重さは分からないが、おそらく70~80グラムほどはあるだろうか。これくらいの重さがあると、手裏剣もたいへん打ちやすい。

 しかし、この手裏剣は独特の形状から後ろ重心になっており、翠月庵の手裏剣術の基本となっている、無滑走2点打法で打つことはできないので、滑走打法で打つ。

 このため1間半~2間程度では問題ないが、3間以上で的中させるには少々の稽古と慣れが必要だ。

 もっとも総合武術である不二心流においては、小太刀を使った刀法併用手裏剣術として、この手裏剣を用いるとのことで、おそらく間合も3間以上は想定していないであろうから、このような中距離以上では打ちにくい後ろ重心の形状でも、あまり問題にはならないであろう。

170311_不二心流手裏剣
▲不二心流の手裏剣


 (了)
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