3月の水月塾本部稽古~柳剛流、伝書講義、甲陽水月流短棒術/(武術・武道)
- 2017/03/13(Mon) -
 昨日は水月塾本部での稽古。

 午前中は柳剛流。

 小佐野先生に打太刀を執っていただき、剣術、突杖、居合をご指導いただく。

 居合は通常、本部稽古の際は師の2尺7寸の居合刀をお借りして稽古しているのだが、今回はさらに長尺である2尺8寸の居合刀をお借りして稽古する。

 最初はその長さにやや戸惑ったが、本来、柳剛流居合は長尺刀で稽古すべきものだけに、慣れてくるとこの長さが形の動きになじんでくる。

 また、この居合刀は柄の長さも1尺2寸ほどあり、その長さ故、刀身とのバランスが絶妙で、実に遣い心地が良い。試みに、神道無念流立居合の形もいくつか抜いてみたが、これまた実にしっくりとくる。

 鍛錬用の居合刀として、いずれはぜひ、このサイズの差料を所有したいものだ。

1703_向一文字1


1703_向一文字2


1703_向一文字3


1703_向一文字4



 昼食の後は伝書講義。

 今回は、古文書をテキストに、花押に関する有職故実をご教授いただいた。

 花押を構成する各線やハネの意味はもちろん、陰陽五行や易との関連についても、大変興味深い示唆をいただいた。

170312_花押古文書



 午後の稽古は、水月塾制定の日本柔術・甲陽水月流の短棒術を、初伝から中伝まで20本、ご教授いただく。

 私は水月塾で学ぶまで、短棒術については系統だって稽古したことがなかったのだが、これがまた実に・・・・・・痛い(苦笑)。

 短棒術で極められると、その痛みは柔術の逆とも、あるいは打撃の痛みとも異なる、「骨に染み入る」ような痛みなのである。

 また柔術の逆では、経験上、どれくらい相手に効いているのかがある程度は分かるのだが、短棒術で捕りをやっていると、自分では大して効いていない感じでも、実は非常に激しく効いていることが多いようだ。

 加えて、素手の逆とはまったく違った、「何がなんだかよく分からない形で極められてしまう・・・・」という、短棒を使った技ならではの捕り口の数々は、たいへん興味深いものである。

 護身術という観点でも、たとえば小太刀の動きに基づいた警棒等の使用では、どうしても斬りの動き、つまり打撃になってしまい、対象に必要以上の障害を与えてしまう可能性を排除しきれない。

 一方で短棒術であれば、「骨がきしむほど痛い」にも関わらず、必要以上に相手を傷つけることがないというのも、たいへん優れている点であろう。

 短棒術、これはなかなか楽しいぞ! ・・・・・・痛いケド(笑)。

 (了)
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スタンレー・プラニン氏の訃報に想う/(武術・武道)
- 2017/03/11(Sat) -
 『合気ニュース』の編集長であった、スタンレー・プラニン氏が、亡くなったとのこと。

 まずは同氏のご冥福をお祈り致します。


 私は同氏とは面識はなかったけれど、自分の武術歴の始まりが八光流柔術だったこともあり、いち読者として同氏が編集長を務めていた当時の『合気ニュース』は、愛読していた。

 しかし残念ながら、2009年頃からだろうか、同誌が自己啓発セミナーを精力的に主催している空手家のU氏が中心となるような形で、『合気ニュース』から『道』というタイトルの雑誌になって以来、あまりに偏向した内容から、まったく読まなくなってしまった。

 プラニン氏が編集長時代の『合気ニュース』は、合気会も養神館も、富木流も大東流も、ある種公平に扱う、バランスの良い編集方針の武術雑誌であったものが、U氏の広報誌になってしまった『道』誌は、教条的な道徳雑誌になってしまったことは、ある意味で日本の武術・武道史にとっても、たいへん大きな損失だったと言えるだろう。


 個人的な話をすると、私が手裏剣術の稽古場を開設した当時、U氏のセミナーに心酔している人が手裏剣の稽古に来ていたのだが、彼から聞く話があまりにバカバカしいものだったことから、(たとえばU氏は、電話で生徒に「気」なるものを入れ、それによって普通はできない業や体の動きができるようになる云々など)、たいへん残念な気持ちになったものである。

 「晩節を汚す」という言葉があるけれど、まことに残念なことだ、いろんな意味で。

 (了)
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空手道と柳生心眼流~縦猿臂と山勢巌構/(武術・武道)
- 2017/03/09(Thu) -
 昨日は空手の稽古。

 バッサイ大の形について、有級者へのマンツーマンでの指導を仰せつかる。

 私が担当したのは3級のAさん。

 形の途中にある掛手~腕どり~関節蹴りの一連の挙動と、形の後半に出てくる右掛手受けの際の運足が確実ではなかったので、この2点を丁寧に手直しする。

 分解においても、これらの部分はバッサイ大の特徴的な技なので、しっかりと理解してもらいたいところだ。



 稽古後半は、糸洲流のN先生より、松村ローハイをご指導いただく。

 これまでも何度か書いているが、ローハイは私の最も得意とする形だ。

 ただし、私のローハイは玄制流のローハイなので、松村ローハイとは細部がかなり異なる。しかしそこがまた、空手道の稽古として興味深い部分でもある。

 ローハイ以外にも、私が得意あるいは好みでよく打つ形は、ナイハンチやワンカンなど泊手系の形が多い。また個人的には、剛柔流の転掌の形を覚えたいのだが、教えてくれる人がいないので、甥っ子が大きくなったら教えてもらおうかと思っている。



 もっともここ最近は、体術の稽古は柳生心眼流がメインであり、普段は表・中極・落・切の素振り二十八ヶ条の稽古でいっぱいいっぱいで、なかなか空手の形稽古までは手が回らないのが現状だ。

 それにしても、柳生心眼流は実に興味深い。

 当身拳法とはいえ、空手道とはまったく理論も実技も異なるので、学ぶ1つ1つの術がすべて新鮮だ。

 また、一般的な日本柔術とは異なり、単独で行う形=素振りの稽古が基本になっているので、仕事の合間などほんのちょっとの時間があるときに、ラジオ体操代わりに形を打つことができのもありがたい。

 もっとも、中極で武者震いを連発すると頭がグルグル回ってちょっと気持ち悪くなり、切をやると呼吸困難で倒れそうになるのが玉に瑕だが・・・・・・(笑)。

 柳生心眼流については、全国各地で多くの方が稽古をされており、いまさら流儀の新参者である私がとやかく書くこともないのだが、個人的には稽古するほどに新たな発見があり、実に面白いのである。

 例えば肘当て。

 空手道における肘当ては、組手では使えないのでもっぱら形で稽古することになるのだが、私は個人的に肘技が好きで(チビなので・・・)、若い時分には胴プロテクターや防具を付けた地稽古で、相手の懐に潜り込んでの廻し猿臂や後ろ猿臂などをよく使って効果を上げていた。

 さらに落とし猿臂などもわりあい一生懸命工夫して、ある程度地稽古で使える得意技にしたつもりだが、唯一縦猿臂だけは、どうにも使いこなせるようにならなかった。

 縦猿臂とは、下から上に打ち上げる肘打ちのことだが、形でやるぶんにはどうということはないのだけれど、実際にこれを巻き藁やミット、サンドバック、そして人間の顎や水月などに実際に当てようとすると、意外に「芯でとらえて当てる」ことが難しいのだ。

 さてそこで、柳生心眼流における山勢巌構である。

 口伝を受けてこれを使うと、実に容易かつ確実に、縦猿臂がきまるのだ。

 いや、これには実に驚いた。

 それまでは空手道での経験から、少なくとも私という個人は、縦猿臂という技は一生遣えないのだろうなと諦めていたのだが、心眼流における山勢巌構の教えによって、サンドバッグやミット、そして人間を相手の稽古でも、確実に縦方向での肘当てを「効かせられる」ようになったのである。

 古流武術の体動と口伝、実に畏るべし。

 山勢巌構の技は、心眼流の特長的な技である重ね当や体当たりと並んで、個人的には必ず自分のものにしたい術技だ。


 空手は楽し、そしてさらに心眼流も楽し。

 (了)
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「一殺多生」の気組と、武芸者の「顔」/(武術・武道)
- 2017/03/07(Tue) -
 もう7年も前の封切作品なのだが、いまさらケーブルTVで映画『桜田門外ノ変』を鑑賞。

 思ったよりも面白く見ることができた。

 しかし私は平素から、『山上宗二記』と並んで井伊直弼の著書『茶湯一会集』や『閑夜茶話 』を愛読していることもあり、作中、井伊がステレオタイプ的な悪の権力者といったニュアンスを強調して描かれていたのは、作品のテーマ上やむを得ないとはいえ、少々鼻についた。



 それにしても史実によれば、襲撃グループ18名に対し彦根藩の行列は総勢60名と、人数的には襲撃側が圧倒的に不利でありながら、目的である井伊大老暗殺に成功したというのは、たいへんに興味深い。

 彦根藩側の供回りは柄袋を付けていたとか、こまごまとした要因はあれど、大老襲撃という決死の使命感を持った18名の刺客と、ルーチンワークの行列警護で緊張感に欠けた60名の従者たちとでは、攻者3倍ならぬ守備側3倍という決定的な戦力差も、まったく意味をなさなかったということか。

 これは桜田門外の変から遡ること159年前の「赤穂事件」において、およそ100人が守る吉良邸を47人で襲撃し、主君の仇討ちという本懐を遂げたケースにも共通する。

 つまるところ集団戦においては、2~3倍の戦力差は、彼我の士気の差によって克服可能であるという好事例である。

 もっとも、完全武装で闘志満々の相手が我の2~3倍もいたら、あっという間に叩き潰されるであろうこともまたしかり。

 だからこそ数で劣る側は必死にならざるをえないわけで、これこそまさに孫子の極意である「死兵」となるわけだ。

 ことほどさように、闘争における士気や闘志、つまり「気勢」「気組」の重要性は、あだやおろそかにしてはならぬ要因である。

 先の大戦末期の旧軍のような、狂信的かつ非合理的な精神論のみに頼るのは論外だが、一方でクラウゼヴィッツの『戦争論』では、兵士と国民の闘争心の重要性を強調している点も忘れてはならないだろう。



 小の兵法である武術・武道においてもこれは同様で、いたずらに精神論に偏って技術の向上や基礎的体力の涵養をないがしろにするのは論外だが、一方で、どんなに術が優れ体力があっても、彼我の闘争において「一人一殺」「一殺多生」の気組の無い術者は、必死の素人に敗れてしまうのもまた真理だ。

 下世話に言えば、「てめえ、ぶっ殺す!」といった気概の無い生ぬるい剣や拳では、町のチンピラにすら遅れをとってしまうことを肝に命じておくことも、武芸者には必要な初歩の嗜みであろう。

 ただし、少なくとも10年、20年稽古を続けてきた武術・武道人であれば、そういった闘志、気勢や気組というものは常に、あくまでも己の内に秘めておくべきことであるのは言うまでもない。

 それかあらぬか、齢40、50にもなっても殺気や闘志が表に出すぎてしまい、人相や目つきの極めて悪い武術・武道人を時折見かけるが、それは武芸者のあるべき姿として下手であることはもちろん、本来、人格の陶冶を目指すべき武道指導者として見ても、こうした御仁たちはどんなに業が優れていても、けして一流の武道指導者ではない。

 そういった手合いとは、お近づきにならないに限るというのは、私の36年の武術・武道人生と37年の占術人生から、断言してよいと思う。

 歳をとればとるほど、目つき顔つきには、その人の内面が出るものだ。

 では、お前の顔はどうかって?

 う~む、南無八幡大菩薩・・・・・・。

1703_茶碗
▲ま、そんなオッカナイ顔をしてないで、茶でも一服し給え


 (了)
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心の居着きを断つ/(武術・武道)
- 2017/03/06(Mon) -
 日曜は終日原稿書きで、今日は朝から都内で取材がある。

 そこで晩酌をしてさっさと寝ようと思ったのだが、夕方から呑んでウトウトしたものの、23時過ぎに酔いが醒めて目覚めてしまい、なんだかいまひとつ気分がさっぱりしない。

 そこで小半刻ほど、真剣で荒木流抜剣を抜く。

 私の差料は二口とも2尺1~2寸なので、居合の「術」の鍛錬にはいささか物足りず、もっと長い刀の方が適しており、2尺3寸5分と2尺4寸5分の稽古用の模造刀もあるのだが、心胆を練りたいときには、やはり真剣で稽古するに限る。

 おかげで、心のモヤモヤがすっきりとそぎ落とされた。

 さてそれでは、風呂に入って寝るとしよう。

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