武道の現実/(武術・武道)
- 2017/09/15(Fri) -
 過日、某所の剣道場で柳剛流の稽古をしていると、隣接する柔道場で近隣の中学校柔道部の生徒たちが稽古を始めた。

 見るともなく彼ら中学生たちの稽古を見ていたのだが、おそらくその柔道部の顧問であろう大人の指導者の態度に、暗澹たる気分になった。

 まずこの指導者、ジャージ姿で子どもたちに柔道を指導している。

 百歩譲って、その恰好でアドバイスや助言などをするのならまだいい。

 ところがこの指導者はジャージ姿のまま、柔道着を着た生徒たちと組合い、技を掛け、投げたり抑え込んだりといった実技指導をしているのである。

 またこの人物、非常に口調が汚らしい。

 「おい!」、「お前!」、「はぁ~?」、といった言葉を連呼している。

 ちなみに生徒たちは、「お願いします」、「受け身をはじめます」、「打ち込みをはじめます」など、常に敬語で互いに声を掛け合っている。

 さらに、この男は態度も悪い。

 稽古中は常に正座をしていろとは言わないが、胡坐で座るにしても、上体の姿勢は常に低く前かがみで、下からねめつけるように、苦虫をかみつぶしたような顔で生徒たちの稽古を眺めながら、「おい!」「何やってんだぁ!」などと、怒号を放っているのである。

 ようするに、この指導者は傍から見ていて、実に無礼で感じが悪い。

 そして私は、こういう無礼で感じの悪い奴が大嫌いだ。

 ま、無礼で感じの悪い奴が大好きだと言う人も、あまりいないだろう。


 
 文部科学省は、中学校における武道の必修化において、

 「武道に積極的に取り組むことを通して、武道の伝統的な考え方を理解し、相手を尊重して練習や試合ができるようにすることを重視する運動です」

 と説明している。(http://www.mext.go.jp/a_menu/sports/jyujitsu/1330882.htm
 
 ジャージに半ズボン姿で、場に一礼をするでもなくだるそうに畳に上がり、生徒を「おい!」「お前!」呼ばわりしながら投げ飛ばしたり、抑え込みながら「指導」をするのが、武道のあるいは日本伝講道館柔道の「伝統的な考え方」なのだろうか?

 それともこれは、武道でも柔道でもなく、「ジュードウ」や「Judo」だから良いのだろうか?

 これが、「相手を尊重して練習や試合ができるようにすることを重視する運動」なのだろうか?

 だとすれば、まことに残念である。



 翻って自省する。

 翠月庵は、このような無礼で感じの悪い「場」になっていないか?

 柳剛流は、凛とした品位を保ちつつ、さりながら本質である武技としての「実践性」を失っていないか?

 手裏剣術は、香具師の大道芸や的打ちゲームのような「見世物・遊戯」に堕していないか?

 もって、他山の石としなければならない。

1709_柳剛流長刀
▲柳剛流長刀の奉納演武(打太刀:小佐野淳師 仕太刀:瀬沼健司)

 (了)
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9月の水月塾本部稽古~柳剛流、伝書講義/(武術・武道)
- 2017/09/04(Mon) -
 昨日は午後から水月塾本部にて稽古。

 師に打太刀を執っていただき、柳剛流剣術、そして長刀の形をじっくりと稽古する。

 剣術の「中合剣」、長刀の「切上」について、特に入念にご指導をいただく。

 本部稽古でのお楽しみである伝書講義では、塚原卜傳流の殺活伝書のご解説をしていただいた。

 特徴的な名称や部位、さらには絵柄などもたいへんに興味深いものであり、写真を撮影させていただいたので、今後もじっくり読み込んでいこうと思う。
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▲塚原卜傳流の殺活伝書。「山形」「竪中」など、独特の名称が特徴的。殺活の部位を正中線沿いの重要な所に集約している点は、たとえば柳剛流岡安派に伝えられた「五ヶ所大当」にもみられる



 稽古後半は柳剛流居合。

 二尺七寸超の、師の差料をお借りして、「向一文字」から「切上」まで、五本の形に専念する。

 稽古後は、いつも通り師に同道させていただき、極上の馬モツと原酒を満喫。

 これまたいつものごとく、千鳥足で武州へ向かう列車に乗り込んだ。

 (了)
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残心と止心/(武術・武道)
- 2017/09/01(Fri) -
 初心者への指導というのは、たいへんだなあと思う。

 翠月庵で柳剛流と手裏剣術を稽古している者は、全員が(といってもわずか5人だけれども・・・)何がしかの武術・武道の師範か有段者なので、稽古以前の武術・武道の所作だとか、常識的な武具の扱い方などについては教える必要がない。

 これは、たいへんらくちんなことである。

 当庵では、入門を経験者に限定しているわけではなく、全くの初心者や武術・武道の未経験者でも、その人が望めば誰でも入門できるのだが、そうった場合、稽古着の付け方から正座の仕方、武具の取り扱いや基本的な礼法から教えなければならないとなると、「結構たいへんだよな・・・」と思う。

 ま、もちろん初心者には、袴の付け方から丁寧に教えますので、ご心配なく。



 過日、本部で外国人の初心者と柔術の稽古をしていた際、残心をまったく意識していないようだったので、度々注意した。

 もっとも、私は英語が喋れないので残心の意味を彼に説明することができず難渋したのであるが、見かねた師がその場で彼に説明をしてくださり、彼もようやく理解できたようである。

 とはいえ、日本語を解する日本人としても、「残心」というのは、奥深い難しいテーマである。

 武術・武道における残心は、一義的には、業が極まった後も対敵意識を途切れさせず、いつ反撃されても対応できる心身の状態を維持することであり、流儀や会派を問わず、対敵技法たる武技を学ぶ上の基本中の基本といえる心法だ。

 武術・武道を嗜む者であれば、初心者でも有段者でも、あるいは名人達人に至るまで、「残心」という心法は不変不朽のものである。

 ところが先日、とある武術関係者がネット上で、「残心など不要」と発言しているのを見て、たいへんに驚いた。

 反撃どころか逃走もしない、意思も覚悟もない試し物を切ってばかりいると、こういう誤った考え方になってしまうのであろうか?

 もっともこれは、手裏剣術者も十分注意しなければいけないところで、試斬と同じように、動かず反撃も逃走もしない不動の的ばかりを相手に稽古していると、このような「対敵」という武芸の大原則を忘れた誤った考えに陥ってしまうことがあるので注意が必要だ。

 武芸を志す手裏剣術者は、常に「的は敵なり」(鳥取藩一貫流弓術)という教えを心に置いて、単なる的打ちに堕することなく、残心はもとより、拍子や間積り、位といった武芸の対敵概念をしっかりと学び、鍛えていく必要があるだろう。



 一方で「残心」というものは、稽古においては形骸化した所作や単純なルーティーンに陥りがちなものでもある。

 本来、「残心」とは術者にとっての内的な心法であり、それが動作に表れるか、表れないかは、あまり意味のないことだ。

 ここを勘違いすると、動作や所作そのものへの居着きや心の執着、いわゆる「止心」という状態となってしまう。

 この点について、たとえば武芸の古典である『天狗芸術論』の指摘する「残心」についての考え方は、中級以上の武術・武道人であれば、必ず一度は検討してみるべき含蓄のあるものだ。


一、問う。
諸流に残心といふ事あり。不審(いぶかし)、何を残心といふ。
曰く。
事(わざ)にひかるることなく、心体不動の所をいふのみ。心体不動なるときは応用あきらかなり。日用人事もまた然り。打ちあげて奈落の底まで打込むといふとも、我はもとの我なり。故に前後左右無碍自在なり。
心を容れて残すにはあらず。心を残すときは二念なり。又心体明らかならずして心を容れずといふばかりならば、盲打盲突といふものなり。明は心体不動の所より生ず。只明らかにうち、あきらかに突くのみ。是等の所かたりがたし。あしく心得れば大いに害あり。(『天狗芸術論』佚斎樗山)




 なお余談だが、この『天狗芸術論』は、最近では講談社学術文庫から分かりやすい訳注もついた形で発行されており、だれでも簡単に読めるようになったのは、たいへん喜ばしいことである。

 しかし、まことに残念なことに、某思想家氏が執筆している巻末の「解説」が、なんとも上から目線で面白くないのである(苦笑)。

 この人の解説さえなければ、本文庫は武芸の古典に気軽に触れられる、非常に質の高いオススメの1冊なのだが・・・・・・。

 閑話休題。



 武芸における「残心」というものは、あくまでも形而上の心法であり、それが形而下に表出していようがいまいが、そいうことは些末なことだ。

 しかし、「残心」という武芸の心法そのものを否定するのであれば、それは、自由な意志と必死の覚悟を持って我に迫る相手を制するという「武」の根本を忘れた、たんなる見世物や素人のチャンバラごっこと大差ないものであろう。

170901_柳剛流目録

 (了)
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10周年/(武術・武道)
- 2017/08/27(Sun) -
 昨日の定例稽古で、翠月庵は開設から10周年となった。

 「面壁九年」というけれど、いまだ武の悟りははるか彼方である。

 しかし、12歳で初めて柔と剣の稽古を始め、三十路後半に自らの稽古の「場」である翠月庵を開設。

 以来10年間、この「場」を継続できたというのは、庵主としてそれなりに感慨深いものだ。

 それもこれも、師や武兄、武友や門人、そして家主様など、たくさんの人たちの支えによるものなのだと、しみじみ思う。


 次回の定例稽古からは11年目となる。

 武術伝習所 翠月庵は、これからも粛々と、仙台藩角田伝柳剛流をはじめとした古流武術と、手裏剣術の研鑽に努めていく所存である。

170827_10周年



 「習へ遠く心や雲となりにけり
              晴てそたたぬ有明の月」(柳剛流 武道歌)


  (了)
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8月の水月塾本部稽古~柳剛流、伝書講義/(武術・武道)
- 2017/08/21(Mon) -
 昨日は、水月塾本部での稽古。

 朝9時半から夕方4時半までみっちりと、師に柳剛流の稽古をつけていただく。

 剣術は、備之伝・フセギ秘伝をはじめ、右剣、左剣、無心剣について、長刀では特に切上について、師に丁寧に手直しをしていただいた。

 普段、翠月庵の稽古では、どうしても指導が中心となるため自分で仕太刀を執ることが少なく、毎日の一人稽古では主観に傾きがちになるため、こうして業や心法の偏りや歪みを師に直接正していただけるのは本当にありがたいことだ。
 


 昼食後、本部稽古恒例の伝書講義では、甲陽流武学の伝書を拝見、師にご解説をいただく。

 一般的に軍学・武学では、個別的な戦闘技術である武芸について語られることは少ないのだが、この伝書は鎧櫃に描かれる「前」の字についての故実や意義を説きつつ、剣術の心法などについても触れている、たいへん興味深いものである。

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 稽古後半は、来月23日に長野県松代町で行われる、松代藩文武学校武道会の秋の演武会で披露する柳剛流の形を、師に打太刀を執っていただきじっくりと稽古する。

 古流修行者にとって、演武は「真剣勝負の場」だ。

 諸流の先生方やその門下の皆さんに対して、恥ずかしくない柳剛流の業前を披露できるよう、さらに精進をしていかねばならない。



 稽古後は、いつものごとく、師に同道させていただき、しばし酒宴。

 たっぷり盃を傾けた後、ほろ酔い気分で武州への帰路についた。

 (了)
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