苦い思い出/(時評)
- 2017/01/09(Mon) -
 今日は成人の日。

 フェイスブックなどをつらつら見ていると、同級生の息子や娘が成人式へ行ったなどという記事も少なくはなく、改めて時の流れの早さを感じる。

 ニュースなどでは、荒れる成人式だとか、有頂天になった新成人の愚行などが伝えられ、「まったく、バカな奴らだナア・・・」と思うのだが、28年前の成人式を思い返せば、自分も相当なバカ野郎であった。



 悪ガキ仲間であったトモダチと3人で結託し、1人は高倉健さん風の着流し、1人は印半纏の職人姿、そして私は革ジャンの上に袖をぶった切ったジージャンを重ね、600CCにボアアップしたカワサキのバイクで会場に乗り付けて式典に出席した。

 もっとも当時の私は、横浜ケンタウロスのボスの教えを堅く守る「本格のバイク乗り」を自任していたので(苦笑)、会場をバイクで暴走したりすることはもちろん式典の妨害をするようなことは一切しなかったのは言うまでもない。

 あくまでも、この格好にバイクで会場に乗り付けて、静かに式典に参加したわけだが、それにしてもやっぱりバカ野郎だったなと、今はしみじみ思う。

 おかげで成人式の後の集合写真には、振袖やスーツ姿のちゃんとした同級生たちに交じって、とんまな恰好をした3人組のバカ野郎どもが写っているのである・・・・・・。

1308_バイク
▲この格好とこのバイクで、成人式に出席したバカ野郎・・・・・・


 そんなこともあって、毎年、成人式の荒れる若者といったお約束のニュースを見るたびに、私はちょっとほろ苦い思いになるわけだ。

 若さとは、バカさである。

 やっぱりこういう式典には、ちゃんとした格好で静かに出席するのが一番かっこいいのだと、48歳になったオジサンは思うよ、本気(まじ)で。

 (おしまい)
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施設警備の視点から/(時評)
- 2016/07/29(Fri) -
 相模原の事件に関する報道が続いている。

 犯人の精神構造や心の闇、なぜそのような思考に至ったかなどをつまびらかにすることは、今後起こるであろう蓋然性の高い、模倣による犯罪被害を未然に防ぐためにもたいへん重要なことだ。



 私は若い頃、ALSOK(綜合警備保障株式会社)に勤務して警備業に携っていたが、その当時教えられた教訓に、

 「守るのは、攻めるより難しい」

 というものがある。

 これは、かの有名な『七人の侍』の台詞だけれど、某大手電機企業の常駐警備隊に配属されたばかりの、まだ嘴の黄色いヒヨコだった私に、社内で「鬼」と怖れられていたS隊長が諭してくれた言葉でもある。

 軍事学に「先制主導の原則」というのがあるけれど、基本的に攻撃を仕掛ける側は、「いつ」「どこで」「だれを」「どのように」攻撃するのかを任意に選択できる。ゆえに専守防衛である限り、攻撃する側は防御をする側よりも圧倒的に有利であり、それは防犯や警備においても同じだ。

 もちろん警備する側が火器などで重武装をした上で、怪しげだと思われる人物を片っ端から先制攻撃したり、任意に拘束したりするような「攻勢防御(Offensive Defense)」を実施するなら話は別だが、そんなことは法治国家である日本では当然できない。

 中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国といった非法治国家では、こうした攻勢防御も容易に可能であろうが・・・・・・。

 ゆえに防犯上も、基本的には「守るのは、攻めるより難しい」のである。

 
一方で、やはり軍事学で「攻撃三倍の法則」というものがある。

 これは戦闘において有効な攻撃を行うためには相手の三倍の兵力が必要というもので、防御は攻撃よりも有効な戦闘行動であることを示している。

 なぜなら、攻撃側は防御側の戦闘力を完全に撃破し無力化しなければならないが、防御側は相手の攻撃企図を撃破するだけで「防御」という目的を達成できるからである。

 警備や防犯においても、さまざまな抑止行動や防犯対策によって、何らかの侵害を企てようとする相手の企図を挫くことで、防御を有利に展開することが可能だ。


 以上の点を念頭に置いた上で、今回の事件を施設警備という観点からみると、できるはずだったいくつかの対策があったように思われる。

 まず最も重要なのは、施設管理者が、犯人の攻撃企図の現実性を、どの程度認識していたかという点にある。

 繰り返されてきた異常な発言や行動、その結果としての職場からの排除と措置入院、そしてその後の退院という経過から、

 「入居者の命に関わる、深刻な事態が起こる蓋然性が高い」

 と施設管理者が認識していたかどうか?

 この認識が強ければ強いほど、施設の防犯・警備体制も強化されていただろう。

 もっとも一般的な社会認識として、今回のような大量殺害が福祉施設で行われるというのは、おそらく誰もが予想できなかったことであり、それについて施設管理者の責任を追及することは適切ではない。

 しかし今回、このような事件が起こってしまった以上、今後は同様の犯罪行為が起こりうることを念頭において、「防御のための想像力」を働かせる必要があるといっても過言ではあるまい。

 では施設管理者が、「利用者や入居者の命に関わる、深刻な事態が起こる蓋然性が高い」と判断した上で、どのような対策がとれただろう?

 これについては、司法や行政との連携とその対応など公的な対策と、自分たちで取りうる私的な対策の2つがある。以下ここでは、そのうちの私的な対策について考える。


 まず施設面に関して。

 今回事案では、犯人は窓ガラスをハンマーで破壊して侵入したと伝えられているが、何者かによる攻撃(犯罪行為)が予測される場合、まず進入経路の第一線となる施設や家屋の窓ガラスを、割れにくい防犯ガラスにすることが望ましい。加えて鍵はすべて補助鍵を加え、ダブルロックとするべきである。

 コストの問題でこうした対応が難しい場合は、せめて既存のガラスに防犯フィルムを張ることだけでも、しておいて損はないだろう。

 今回被害にあったような居住型の福祉施設では、最近は多くの場合、居室のユニット化や個室化が進められている。

 一方でこうした施設では、夜間も入居者の介助が必要なことから、各ユニット室あるいは個室については、ドアがなかったり、あっても鍵がついていない。

 当然ながら、日々の介護負担などを考えると、居室の施錠というのは現実的には難しいのだが、事態の深刻さを考えれば、今後はこうした点も検討すべきだろう。


 次に、警備体制の強化である。

 今回の犯行時、施設には警備職員が1名いたとのこと報道があるが、この警備職員というのは自法人採用の警備担当職員なのか、あるいは警備会社の職員なのか? その違いによっても、施設の防御力が異なってくる。

 当然ながら、自法人採用の警備担当職員よりも、警備会社の職員の方が、警備に対する資質が高い、つまり防御力が高いことは言うまでもない。

 また警備会社の警備員でも、ALSOKやセコム、セントラル警備保障などといった大手警備会社と、中高年を再雇用して主に道路の交通整理をやっているような地域の零細警備会社とでは、職員の資質、防犯対策のノウハウ、防犯機材の充実度などにおいて、たいへん大きな差がある。

 ゆえに可能なかぎり、大手警備会社による常駐警備の依頼をするのが、私的に取りうる最も確実な防犯対策だ。

 コスト面で、常駐警備を依頼するのが難しい場合、警報が発せられると車で警備員が駆けつける、機械警備やホームセキュリティを導入する方法もある。

 ただしこうした機械警備については、警報が発せられてから警備員が現場に到着するまでのタイムラグという問題がある。

 警備業法では、発報から30分以内に現場に到着することが定められているが、発報から現場到着までの時間は警備会社や地域によってさまざまだ。

 今回のように殺傷を企図したような侵害の急迫性が高い事案において、発報から警備員の到着まで20分も30分も時間がかかるようでは、パニックルームなどが用意されていない限り、警備・防犯の効果がないのが現実である

 ちなみに私が勤務していた当時(1980年代後半~90年代前半)、発報から現場到着までの時間に関しては、ALSOKよりもセコムの方が全国的により早かったように記憶している。

 なお、機械警備で警備員が出動する際、誤報ではなく実際に犯罪が行われていると確実に思われる場合は、出動と同時に所轄の警察にも連絡がされるルールになっていた。

 こうした場合、110番通報を受けてから、警察官が現場に到着するまでのいわゆる「レスポンス・タイム」は、全国平均で6分57秒となっている(平成26年度警察白書より)ことも、覚えておくとよいだろう。


 次に警備人員の配置について。

 今回被害にあった施設では、夜間の警備職員が1名であったというが、これはたいへん防御力が低いと言わざるをえない。

 万が一、1名の侵入者があった場合、警備職員1名では彼我の戦力比は1:1であり、両者の年齢や体力に差があれば(多くの場合、零細警備会社や自社採用の警備職員はリタイヤ前後の中高年である)、相手を制圧することは難しい。さらに1名体制の夜勤では、仮眠中など、事実上、無防備状態になる時間が発生する。

 このため、上記の「攻撃三倍の法則」の通り、理想は3名以上の警備隊編成による常駐警備が最適なのだが、少なくとも昼夜ともに2名体制による警備が望ましい。


 次に、警備職員の装備について。

 日本の警備員は、警備業法によって携帯できる護身用具が厳しく規制されている。またその使用は、正当防衛と緊急避難にあたる場合にのみ認められる。

 私が勤務をしていた頃は、3段式のノーベル社製の特殊警棒(警戒棒)または木製警棒のみの貧弱な装備であった。

 近年は犯罪の凶悪化に対応し、対刃物用の「鍔付警戒棒」、「警戒杖」、「さすまた」、「ライオットシールド」の携帯も認められるようになっているという。

 その上で、今回のように、あらかじめ大量殺害が予告されているようなケースでは、さすまた+警戒杖+ライオットシールドの装備が必要であろう。

 また、警備会社による警備ではなく、自法人の雇用による警備職員(宿直要員)であれば、これは厳密には軽犯罪法や警備業法に抵触する可能性があるのだけれど、自身や周囲の人の生命を急迫不正の侵害から守るためには、催涙スプレーやスタンガンといった相手を死傷させることなく無力化する非致死性兵器(non-lethal weapons)の携帯も考慮するべきだろう。

 ちなみにJRでは、数年前の暴行事件以来、一部路線の女性車掌には護身用として、催涙スプレーを携帯させているという。

 特に、今後多発することが予想される、また今回もそのケースに当たる可能性が考えられる薬物乱用者に対しては、催涙スプレーの使用が最も効果的だ。

 薬物乱用者は、痛みや苦痛への耐性が異常に亢進している場合があり、警戒棒での打突がまったく効かないことも少なくない。それどころか、逆手などで関節を破壊しても、まったく意に介さない者もいる。

 こうした場合でも、粘膜に対する刺激は有効であることから、催涙スプレーの使用が効果的だ。具体的には、海外の法執行機関や軍警察等で採用されている、OCガスを使用した催涙スプレーの使用が推奨される。

 OCガスは唐辛子の成分を濃縮したもので、ごくわずかでも目に入れば激痛で目が開けられなくなり、行動不能に陥る。一方で、人体には深刻な被害を与えず、数時間が過ぎれば目の機能も正常に戻るので、きわめて人道的な護身用具でもある。

 さらに武術・武道人の立場からひと言付け加えると、現在普及している防犯用のさすまたは、本来の武具としてのさすまたと比較すると、相手を取り押さえるU字型の部分の基部、柄につながるところに針状の突起がないことから、著しく制圧能力が低下している。

 さすまたは本来、この部分に針状の突起があるために、取り押さえられた相手がさすまたをつかんで抵抗しにくくなっているのだから、現代の防犯用さすまたも、この点をなんらかの方法で改善すべきであろう。

 なお現状では、複数人数によるさすまた使用を推奨することで、相手の抵抗を封じるように指導されている。 



 以上、主に施設警備の観点から、今回事案に関する課題を考えた。

 最後に繰り返しになるが、こうした防犯対策において最も重要なのは、「命に関わる深刻な事態が起こる蓋然性が高い」と、当事者や責任者が想像できるかどうかということだ。

 つまり、防犯や警備に関する「覚悟」の有無である。

 この認識さえあれば、あとは個別のテクニック的な問題に過ぎない。

 本事案の場合、そもそも犯罪とは最も縁遠い場所であろう福祉施設が、異常者の攻撃対象になってしまったという点に悲劇の根幹があるのだが、だとしてもなんらかの犯罪被害の予兆があった段階で、管理者は可能な範囲で最大限の防御行動をとるべきであったろう。

 また上記で示したような防犯対策は、警備会社への常駐警備の依頼にしても、防犯ガラスの導入にしても、いずれも多額のコストがかかり、誰もが容易にできるものではない。

 しかし、命に関わる明確な攻撃企図が示されているにも関わらず、コストや人材の問題から対策をまったく講じないというのは、利用者や入居者の安全を担保すべき施設管理者として、あまりに無知無策である。

 個人の防犯でも、施設の警備でも、あるいは国家の防衛でも、それぞれの資産や能力に違いがあるのはしかたのないことだ。しかし資金力が無い、防御能力が低いからといって、守るべき人々の安全を放棄することは、責任ある人間のとるべき態度ではない。

 そういう時こそ人間は、生物としての最大最強の戦闘器官である「頭脳」を働かせるべきなのだ。


 今回の事件で被害にあわれた方々に深い哀悼の意とお見舞いを捧げつつ、今後、同種の犯罪が繰り返されないこと、また万が一繰り返されたとしても、それらが未然にあるいは最小限に防がれることを願ってやまない。

 (了)
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パルティアンショット/(時評)
- 2016/07/19(Tue) -
■パルティアンショット(Parthian shot)
~紀元前247年頃 ― 226年頃まで、中東地域を支配したパルティア王国に代表される、遊牧民弓騎兵の戦法。逃げながら、馬上から振り返りざまに打つ矢のことで、現代の英語では転じて「捨て台詞」を意味する~



 時折、話し言葉にしても、書き言葉にしても、

 「○○じゃないですか・・・、分かんないですけど」

 とか、

 「××じゃないっすか・・・、知らんけど」

 といった物言いをする人がいる・・・・・・。


 この物言いを聞く(読む)たびに、

 「分かんないなら、最初から黙ってろよ」

 と思うのは私だけだろうか?


 推測するに、このようにわざわざ発言の最後に「分からない」「知らない」といった言葉を添えることで、発言の責任を問われることから逃げているのだろう。

 自分の言葉や論に責任を持てないならば、黙っていろとは言わないがせめて、

 「よく分からないのですが・・・」

 とか、

 「個人的な意見なのですが・・・」

 などと、最初に申し添えてから、自分の考えを述べればよい。

 それかあらぬか、断言や言い切り、時には批判をさんざんしたあげく、最後の最後に「分かんないですけど」とか「知らんけど」などといった言葉を添えて、言い逃げ・書き逃げをするというのは、なんとも品性が卑しい。

 ようするにこういうのは、卑怯者の物言いなのだ。


 少なくとも、まともな躾を受けた大人は、こういう物言いはしないものだ・・・、分かんないっすけど!

2016_パルティアンショット
▲パルティアンショットのイメージ・・・、知らんけど


 (おしまい)
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ツタヤ図書館的薄っぺらな世界/(時評)
- 2015/11/14(Sat) -
 先週は流祖墓参の折りに幸手の市立図書館へ、今週は都内での打ち合わせの帰りにさいたま市立中央図書館に立ち寄り、それぞれで以前から目をつけていた柳剛流関連の貴重な資料を入手することができた。

 ■幸手市立図書館で入手した資料
 『幸手市史 通史編Ⅱ』/「第二章 明治期の教育と文化・生活 二 柳剛流の発展」
 『幸手市史調査報告書 第10集 村と町-往時の幸手-』/「吉田村誌 第三節 武術家」
 『幸手市文化遺産調査報告書 第2集 幸手の石造物Ⅱ -吉田地区-』

 ■さいたま市立中央図書館で入手した資料
 『浦和市立郷土博物館研究調査報告書 第7集』/「綱島家の剣術について」(山本邦夫)
 『蕨市立歴史民俗資料館紀要 第6号』/「雑誌并見聞録」(小林雅助)

 なかでも、 『幸手市史調査報告書 第10集 村と町-往時の幸手-』に掲載されている「吉田村誌」は、大正7(1918)年にまとめられた筆書きの郷土史で、流祖・岡田惣右衛門奇良の生涯についての、たいへん貴重な一次資料である。流祖が18歳で葛飾郡惣新田から江戸へ出たこと、本家は流祖の弟が家督を継いだことなどは、この資料によって始めて明らかになったものだ。

 また 『蕨市立歴史民俗資料館紀要 第6号』に掲載されている「雑誌并見聞録」は、明治40(1907)年に記された蕨地区の郷土資料で、柳剛流を代表する剣客・岡田十内の来歴に関する重要な記述が示された一次資料である。

 剣術史家の辻淳先生は、従来別人とされてきた、十内の師である今井右膳と林右膳が、どうやら同一人物であるという点を指摘している。その根拠となってるのが、この「雑誌并見聞録」に記された証言なのである。

 これらはいずれも実技に関する資料ではないが、流儀の歴史に関するたいへん重要な資料であり、それらを味読できるのはなんともうれしい。

 さて、それぞれの資料についてのレビューなどはいずれ機会を改めてしようかと思うが、ここで話は武雄市や海老名市、小牧市などで話題になっている「ツタヤ図書館」問題へ飛ぶ。



 武雄市の図書館問題で一番腹立たしいのは、ツタヤの関連会社から仕入れたクズ同然の古本を収蔵するために、国会図書館にも収蔵されてない貴重な郷土史の資料を捨てててしまったということだ。この図書館の運営者であるツタヤの親会社は、公立図書館の管理者として常軌を逸しているとしか思えない。

 社会的使命を忘れ利益を最優先する民間企業、それに寄生して甘い汁を吸ういかがわしい政治家、何ごとにも事なかれ主義の地方公務員、こうした人々が集まった結果が、武雄市のツタヤ図書館問題なのである

 ちなみに、このツタヤ図書館を企画し建設を主導した前市長は、現在、ツタヤの関連会社に天下りしているそうな。時代劇風にいえば、引退した悪代官が越後屋の番頭になったということかね・・・。

 思うに、今後も全国各地で「民間委託」「規制緩和」という耳障りのよい言葉のもとで、図書館だけでなく地域のさまざまな公的サービスが、利益最優先の民間企業主導の施策で次々に劣化・破壊されていくことが予想される。

 そもそも図書館はおしゃれである必要はないし、カフェも要らない。お茶が飲みたきゃ、自販機置おいときゃあいいんだ。

 そういう「うわっつら」ではなく、本来あるべき図書館としての機能をより高めていけばよいだけの話だし、そういう理念を共有できる、三方よしの近江商人のような社会的使命を理解しているまともな民間企業に、地域の公共事業を委託すべきだろう。

 武雄市のツタヤ図書館運営者の行為は、人類の知や文化・芸術への冒涜としか思えない。

 全国の図書館がみなツタヤ図書館のようになってしまったら、 なんとなくおしゃれで明るい、けれど薄っぺらで深みのない館内そして蔵書の中で、「吉田村誌」や「雑誌并見聞録」のような資料は、他県のラーメン食べ歩きや年度落ちの資格の古本を仕入れるために、ごみとして捨てられてしまうのか・・・・・・。

 そんな「ツタヤ図書館的薄っぺらな世界」が、これから全国各地で出現するのかね・・・・?

 いや、幸手市立図書館やさいたま市立中央図書館の運営者や職員の方々、また幸手市民やさいたま市民は、そんな愚か者ではないことを信じたいものだ。一方で、うちの地元の図書館は・・・・・・・、いろいろあって、はなはだ不安である。


 とりあえず私は、今後もひとりツタヤ&ブックオフ不買運動、ひとり地域の書店&古書肆応援運動を続けていく所存である。

 ま、どうせツタヤには、『図解 手裏剣術』とか『日本剣道史』とか、あるいは『オースティン・スペアの魔術』とか『易学通変』とかは置いてないからな。

 あと、ひとりTポイントカード拒否運動も続けていこうと思う。

 つうか、レジで支払いをするたんびに、「Tポイントカードはお持ちですかあ~」と聞かれると、ほんとイラッってくるんだよな。Tポイントカード持ってません・いりません・くそくらえカードとかないのかね・・・。

 あ、ちなみに今、私はシラフです。酔っ払ってませんよ、念のため・・・・、これから飲むケド(爆)。

 (完)
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なんかダサイ・・・/(時評)
- 2015/11/02(Mon) -
 昨日の朝日新聞の日曜版『朝日新聞グローブ』で、インスタグラムを紹介する記事に、こんなフレーズがあった。

 曰く、

「ツイッターやフェイスブックなど、SNSはそれまでも使ってきた。でも『長々と文章書くのは、なんかダサイ』。インスタグラムは写真が中心。サイトにはオシャレな投稿写真があふれている」

 のだそうな。

 なるほど、長々と文章を書くのは、「なんかダサイ」んですな。


 長々と文章を書くことで、20年ほど飯を食っている者として考えると、たしかに長いだけの悪文を読まされるのは、なんとも苦痛なものだ。

 ゆえに、長い文章を読む/書くには、そのための修練が必要になるわけで、たとえば大学生の稚拙な卒論レベルでも、幼・小・中・高・大と学んできたからこそ、ようやく一定の分量の長文が読めて書けているわけだ。

 その昔、売文稼業の先輩に、「長い文章が書ける記者は短文も書けるが、短文しか書けない記者は長文が書けない。だからブンヤの書く長文は悪文が多いのだ。ヤツラに6000文字くらいの原稿書かせてみろ、ヒドいもんだぜ・・・」などと、江古田の居酒屋あたりでよく言われたもんである。

 これは今考えると、出版業界カーストにおける最下層民としてのわれわれ雑文屋の、業界ではバラモン的存在であるブンヤさんたちに対するやっかみが多分に含まれていると思うけども。

 やっぱ同じ売文稼業でも、厚生年金がかかってる連中にはかないません・・・。


 文章を書くという行為においては、1つの事象について、より短い語句で核心を突きつつそれを表現するというのは、いわば達人の領域である。だからこそ、芭蕉や放哉は偉大なのだ。

 それにしても、一言半句でモノゴトの核心を突くというのは、容易なことではない。

 武芸で言えば、名人・達人の業なのである。ゆえに売文屋や作家の卵たちは駆け出し時代、とにかく大量に書いて「筆力」を養う必要があるし、そうやって鍛えられる。ある意味でこうした過程も、武術の稽古とよく似ている。

 1000枚でも2000枚でも書ける人間が書いた一言半句と、10枚しか書けない人間が書いた一言半句は、まったくレベルが違う文章なのだと開高センセイも北方センセイも言ってる・・・、オレは会ったことはないけどな(爆)。

 とはいえ時候の挨拶どころか、メールに宛名も書かない人が多い昨今、それこそこんな長文をだらだら書いているのは「ダサイ」のだろう。

 ま、いいんだ。オレたちは滅び行く、あらほましき一党なのだから・・・・・・。


 ところで「ダサイ」という言葉は、死語にならなかったのだねえ。

 なにはともあれ、ナウなヤングは頭がピーマンにならないよう、インスタを楽しんでくれたまえ。

 ぢゃあ、バイビー。

 (おしまい)
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