歌舞伎は国立劇場で/(身辺雑記)
- 2017/07/20(Thu) -
 歌舞伎を観るのは、もっぱら国立劇場だ。

 歌舞伎座も改築する前は何度かいったが、どうもあの豪華着物オバサン軍団に象徴されるスノッブさが、われわれ底辺に生きるプロレタリアートには、設楽原の馬柵もかくやと思わせるほどの敷居の高さを感じさせて、お尻がムズムズするのである。

 その点、国立劇場は、どちらかというと地方からのお上りさん中心といった風な(失礼)牧歌的な雰囲気があり、あまり敷居の高さを感じさせない。

 「大向こう」ひとつとっても、国立劇場のそれは、歌舞伎座のものと比べると、いささかほのぼのしたものが多く、「これならオレも、『播磨屋!』とか言えちゃえそうかも・・・!?」などと思ってしまうほどの、のんびりとした雰囲気が好ましい。


 そんなこんなで、先月は錦之助の『毛抜』、今月は菊之助の『一條大蔵譚』を鑑賞した。

 去年の11月に『通し狂言 仮名手本忠臣蔵』、今年3月には『通し狂言 伊賀越道中双六』と、いずれも大御所・吉右衛門の名演を、同じくここ国立劇場で堪能させてもらったのだが、錦之助や菊之助など、これからの歌舞伎を背負っていく中堅どころの勢いのある芝居は、また違った意味で見ごたえがあった。

 ことに菊之助は、思っていた以上に良い役者っぷりであり、いままで「ま、菊五郎の息子でしょ」と、いささか軽く見ていた自分の不明を深く反省した次第。

 『一條大蔵譚』では、岳父・吉右衛門の監修もあってか、その「うつけ」ぶりと、クライマックスでの見事な長刀捌きの対比が、まことに印象的であった。

 役者として華があり、凛とした雰囲気もただよわせ、うつけから大丈夫までの演じ分けも見事。

 いいねえ、5代目!

 あるいは『毛抜』では、物語のキーとなる小道具のひとつに小柄小刀があり、これを錦之助演じる粂寺弾正が、見事に手裏剣に打って相手を仕留める描写は、手裏剣術者としてたいへん痛快であった。


 歌舞伎座に比べると敷居が高くないのが魅力の国立劇場での歌舞伎鑑賞であるが、もうひとつの、いや最大の魅力(?)かもしれないのが、その料金のお手ごろさである。

 たとえは、上記の『毛抜』や『一條大蔵譚』は、3階席で観ておひとり様1,500円!

 あるいは『通し狂言 仮名手本忠臣蔵』や、『通し狂言 伊賀越道中双六』は、お昼から夕方までたっぷり4時間以上も芝居を楽しんで、お代はなんと3階席でおひとり様1,800円である!!

 映画館で観る映画と同じかそれよりも安い値段で、名優たちの演技、ヴィヴィットな衣装や舞台、生の伝統音楽などを堪能できるのだから、こんなにうれしいことはない。

 これが歌舞伎座だと、3階席でも4,000円とか6,000円とかするわけで、一幕見でも高いと2,000円もするなど、やっぱり貧乏足軽や雑兵は馬柵の前で種子島で撃たれて討ち取られちゃうんだぞという程度には敷居が高いんだよ、歌舞伎座。

 なお3階席というと、「どうせ舞台から遠くて、たいして見えないんでしょう?」と思われるかもしれないが、さにあらず。少なくとも国立劇場は、思った以上に、3階席から舞台までが近い。

 それどころかむしろ、1階席や2階席に比べると、花道も含めた舞台全体を俯瞰することができ、非常に見やすいのである。さすがに役者の細かな表情までを見て取ることはできないが、そこはそれ、オペラグラスがあるじゃないか。

 歌舞伎鑑賞における通人である「大向こうさん」が、1階や2階の席ではなく、あえて3階席の最奥に座るというのも、なるほどと思う。

 敷居が低く、料金も手ごろで、だれでも気軽に楽しめる国立劇場での歌舞伎公演。

 ぜひ一度、ご鑑賞あれ。


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▲長刀で打ち取った悪者の生首を毬の代わりにして、大喜びで遊びほうけるという、超絶うつけぶりが光る一條大蔵卿・・・

 (おしまい)
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雨日悲話/(身辺雑記)
- 2017/07/01(Sat) -
 本日は雨。

 午後から翠月庵の稽古であったが、この天気のため今日は中止とする。

 野天道場の悲しさである・・・・・・。

 梅雨時とはいえ、これまで9年間の実績を見ると、意外なことに6~7月に雨で稽古が中止というのは思ったほど多くはない。

 むしろ、春の時期の方が、雨天中止が多くなっている。

 ちなみに埼玉県は、47都道府県で、最も晴天の日が多いのだという。


 稽古ができないのは残念だが、一方で私は雨が大好きなので、今日のようにしとしとと涼しい雨が降っているこの季節の朝は、なんだかしみじみと幸せな気持ちになる。

 雨音を聞きながら、よく冷やした鮎正宗かアードベッグのトゥワイスアップで一杯やれれば、もう言うことはないのだが、何しろ単行本や連載記事の締め切りが重くのしかかっているので、稽古を休みにした分、今日も原稿をせっせと書かねばならない。

 おまけになんと、昨日、15年間使ってきた寝室のエアコンが壊れてしまったのだ!

 昨年から今年の春まで、立て続けに死んだ両親へのよしなし事などで本当に残高ゼロになってしまったお小遣いが、昨日でようやく10万円となったのに、これでまた、ふたたび残高ゼロ円である・・・。

 まったくもって、これでは、いくらたっても金が貯まらぬ。

 我ながらひどい話だと思いつつ、真夏のタクラマカン沙漠やメコンデルタに勝るとも劣らない、地獄の業火もかくやと思わせるような灼熱の埼玉の7~9月を、エアコンなしで生存していけるわけもなく、やむをえずなけなしの10万円を手に、明日、ヤマダ電機へ行かなくてはならない。

 ああ、せめて死ぬ前に一度でいいから、野田岩のかば焼きとすきやばし次郎の握りと浅草今半のすき焼きをお腹いっぱいたべたいなあ、駒形どぜうの柳川は時々腹いっぱい食べてるからいいや・・・などと妄想しつつ、今日も小さな書斎で食費を節約するためにカップヌードルをすすりながら、ヤフオクに出ている田丸伝柳剛流の起請文の値段がこれ以上上がらないことを祈りつつ、じっと我がペンだこならぬ、キーボードの叩きすぎで痛む手首のサポーターを見つめる、プロレタリアートの悲哀感あふれる「わたくし」なのであった・・・・・・。

 さて、今日も障害者総合支援法の単行本と、地域医療連携推進法人に関する法人理事長のインタビュー原稿と、インバウンド向けの広島のもみじ狩りのweb記事と、小学生向けの医学解説&応急処置のハウツー本の原稿を頑張って書いて、じゃんじゃん金を稼ぐぞー、オー(棒読み)。

 ・・・・・・。

 人生は過酷だ、生きていくためには金がいる(サム・ペキンパー)。

 (おしまい)
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怪談の季節/(身辺雑記)
- 2017/06/24(Sat) -
 夏至も過ぎ、本格的な夏ももう目前だ。

 そして夏と言えば、やはり怪談である。

 私は霊魂とか死後の世界とか、そのたぐいのものはこれっぽっちも信じていない、限りなく唯物論者に近い不可知論者なのだけれど、一方で怪談やオカルト映画は大好物である。

 そういう意味では、最近はめっきりオカルト映画に見ごたえのある作品が無くなってしまい、2005年の『エミリー・ローズ』以後、鑑賞するに値する作品がまったく見当たらないのは残念なことだ。

 しかたがないので、史上最恐のオカルト映画である、フリードキンの『エクソシスト3』を、飽きることなく繰り返し見ている今日この頃である。

 『エクソシスト』というと、どうしても1作目が注目されるのだが、ジョージ・C・スコット主演の『エクソシスト3』の方が、断然面白いと思う、個人的には・・・・・・。



 ところで最近は落語ブームだろうで、高座や人気落語家の独演会などにたくさんの若い人が集まっているそうだが、落語でもこの時期に欠かすことのできないのが怪談噺だ。

 落語の神様・三遊亭圓朝の名作、『牡丹燈籠』や『真景累ヶ淵』、『怪談乳房榎』などは、ベテラン噺家が取り組む大長編として、実に聞きごたえのあるものである。

 しかし残念なことに、最近ではこれらの長講に取り組む噺家は少なく、せいぜい『牡丹燈籠』なら「お札はがし」、『真景累ヶ淵』であれば「豊志賀の死」を単発でやる程度だ。

 個人的にも、最近では小朝の独演会で一昨年に「豊志賀の死」と「お札はがし」聴いた程度である。

 なお余談だが、小朝の「お札はがし」は、1998年に練馬文化センターで録音した音源がCDとなっている。

 奇遇なことに、私が独演会で小朝の「お札はがし」を聴いたのも同じ練馬文化センターだったのだが、まことに残念なことに、2015年に生で聴いたものよりも、その17年前の音源のほうがはるかにレベルの高いものであった。

 春風亭小朝ほどの天才でも、「下達」、ありていに言えば芸がへたくそになるというのは、個人的にはかなりの衝撃であった・・・。

 人は上達することもあれば、下達することもある。オレも気を付けよう。



 さて、このように圓朝作の長編怪談は、近年、もはや発端から終焉までを通してやる噺家はほとんどいないのだけれど、唯一、これらの大長編に意欲的に取り組んできたのが、桂歌丸師匠である。

 このため私は、4年ほど前から意識して歌丸師匠の出る高座や独演会に通いつめ、なんとか『真景累ヶ淵』については、発端の「深見新五郎」から、圓朝以来100数十年ぶりの復活となった結末の「お熊の懺悔」まで、全5話を3年がかりで全て独演会で聴くことができた。

 歌丸師匠は、こういってはなんだが、特別噺のうまい落語家ではない。また横浜生まれなので、たとえば志ん朝のような心地よい江戸ことばでの噺というわけでもない。

 しかし、親しみ深い声音と、偏りのない美しい日本語での話芸は、傾聴に値すると思っている。



 こうして『真景累ヶ淵』はすべて聞くことができたので、次は『牡丹燈籠』だなと思っていたところ、昨年あたりからは歌丸師匠の体調不良で、高座や独演会への出演休止が目立ってきた。

 私がチケットを買ったものでも、昨年神奈川での独演会と今年4月の国立演芸場で、いずれも会場に着いたところ、体調不良で代演ということがあった。

 ま、4月の国立演芸場では、代演で鶴光の長講が聴けたのはめっけもんだったけれども。

 最近も、歌丸師匠は入退院を繰り返されていて休演が目立っているし、そうなると逆に人気が集まるようで、昨年くらいからチケットがたいへんとりづらくなっている。

 歌丸ファンとしては、師匠の噺を生で聴こうという人が増えるのはうれしいことだが、チケットがとりにくくなるのは残念であるし、なによりご本人の健康状態が心配である。

 一番最近、歌丸師匠の噺を聴いたのは、去年5月に練馬文化センターで行われた小朝との二人会での「紺屋高尾」だが、なんとかせめてもう1回、いやいや、10回でも20回でも、生で師匠の噺を聴きたいと願っている。

 また個人的には、喬太郎あたりが圓朝作の長編怪談を、じっくりやってくれないかなと思う。

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 (おしまい)
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善く易を為る者は占わず/(身辺雑記)
- 2017/06/17(Sat) -
 20年来の知人であるA氏から、新規の事業展開などあるので、直近の全般的な運勢など占断をしてほしいとの依頼があった。

  Aさんは、50代の実業家で、以前、何度か占断の依頼いただき、その都度、差し上げた助言が功を奏したとのことで、折に触れて占ってほしいと連絡がある。

 最初は、ひさびさに西洋占星術で観てみるかと思い、天宮図を作って読み込んでみたのだが、なんとなくしっくりこず、結局、大まかな運勢の巡りは九星気学で、メインの占断は周易で行った。

 それにしても易での占断は、一刀両断の切れ味というか、快刀乱麻の妙味があり、これがはまると占断をしてる自分自身も驚くような、ズバリ的中を得ることがあるのが面白い。

 この点、占星術や気学というのは、武芸でいえば太刀行きが遅いのである。



 これは私の持論なのだけれど、人生における占いなどというのは、本来、君子や武人が頼るべきものではない。

 栄養でたとえれば、学問や体育が炭水化物やたんぱく質だとすれば、占いなどはビタミンや脂質ですらない。せいぜい、プラセボ程度の効果しか期待できない、ミネラルのサプリメント程度のものである。

 ゆえに、人生の重大事における選択や決断は、占術などに頼るべきではない。

 それは自らの志と、経験と、合理的な知見に基づく未来への推論に基づいてなされるべきものだ。

 かつて、荀子は占いとしての易ではなく義理(哲学)としての易を重んじて、

 「善く易を為(おさむ)る者は占わず」

 と喝破した。

 あるいは孔子は、易の『繋辞上伝』において、

 「易に聖人の道四あり。もって言う者はその辞をたっとび、もって動く者はその変をたっとび、もって器を制する者はその象をたっとび、もって卜筮する者はその占をたっとぶ」

 としている。



 それでは占いなどは、人生においてまったくの無用の長物なのであろうか?

 思うに、私を含めて多くの人は、本当の意味での君子や大丈夫ではない。

 迷いもすれば悩みもする、大人であろうと志すも、日々の暮らしに追われ、小事に悩み、些事に煩う小人、凡夫である。

 凡夫は凡夫なりに、君子でありたいと願い、人生の岐路においては志を持って決断・選択をするのであるが、そこで何か自分の決断をそっと後押しをしてくれるもの、あるいはちょっとした注意を促してくれるものがあれば心強い・・・・・・。

 私自身を含めた市井の無名氏にとって、占いとはそういうものであろうし、そうあるべきだと思う。

 朝、新聞の片隅にある「あなたの今日の運勢」をチラリと見て、ちょっと喜んだり、落ち込みつつも気を引き締めたり。

 占術は、人知による決断や選択をほんの少し後押ししたり、平凡な日々の暮らしにちょっとした彩りを添える、ささやかな香辛料であればそれでよい。

 あるいは深遠厖大な疑似科学の体系として、閑人の知的好奇心を満たしてくれれば、それで十分だと思う。


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 (おしまい)
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語りえぬもの/(身辺雑記)
- 2017/06/06(Tue) -
 ウィトゲンシュタインは、その著書『論理哲学論考』の結びで、「語りえぬものについては、人は沈黙せねばならない」という金言を記した。

 私もぜひそうしたいところなのだが、爪の先に火を灯すようにして街の片隅で暮らす貧しい流れ武芸者ゆえ、わずかばかりの原稿料のために、語りえないことでも沈黙することは許されない・・・・・・。

 というわけで、今日はAKB48に関連するちょっとした一文を書かねばならぬのだが、私は女優の前田敦子氏がかつて所属していたアイドルグループであるというくらいしか、AKB48について知見がない。

 京マチ子とか山田五十鈴なら、そこそこ分かるんだがね。

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 「人生は過酷だ、生きていくためには金がいる」(サム・ペキンパー)

 (おしまい)
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