イルカ問題に見る、一神教文化の傲慢さ。あるいは、それに追従する、おちょぼ口な日本人の見苦しさ
- 2009/08/29(Sat) -
豪都市がイルカ漁に反対 和歌山・太地町との姉妹都市停止(J-CASTニュース)
http://www.j-cast.com/2009/08/25048123.html


 クジラの次はイルカか・・・。

 かつて、フォート・ユーコンで私が世話になった、アサバスカ・インデアンの長老の一人、アルバート・キャロル・シニアは、愛用のウインチェスターM94を磨きながら、

「イチムラ、白人には気をつけろよ。あいつらは、まず言葉を奪い、次に文化を奪い、最後には土地を奪うんだ!」

 っと話してくれたことを、いまさらながら思い出すね・・・。あれは、1992年の夏だったか。


 私のふるさとである伊豆でも、数年前だかに、ドイツのエセ・エコロジストに同じように盗撮されて、一部の漁港では、伝統的なイルカの追い込み漁が、中止になってしまってるんだよね。


 しかしまあ、なんで西洋人&おちょぼ口のロハスな日本人は、海洋哺乳類”だけ”が大事かね?

 伊豆半島で生まれ育ち、子供の頃からイルカの燻製や干物、味噌煮をおいしく、ありがたく食べさせていただいた、私のような伊豆人からすると、この人らみんな、洗脳されたファシストだね。

 「20世紀少年」のトモダチに洗脳された、狂信的な人々みたいなもんだ。


 「ぢゃあ、あんたらみんな、ウシとかブタ、殺して食うのやめれば?」

 っと、いうと、

 「家畜だから生育がコントロールできる。クジラやイルカは野生動物だから・・・」

 とかいう、屁理屈を言うわけだ。

 ぢゃあさ、きみらは家畜しか食わないわけだ?

 ムース(エルク)とか、ウサギとかボアとか、いますぐ狩猟禁止しな。もちろん喰うなよ。

 俺は、オレゴンでもファアバンクスでも、フォートユーコンでも、ボストンやニューヨークでも、ムースやブラックベアや、ウサギやリス、さんざん喰わされたぞ。

 これらみんな、野生動物ですから。

 リスのパイは、特にご馳走扱いだったんだよねえ・・・。

 リスは、ちっこくてすばしっこいんで、なかなか鉄砲の弾が当たんないんだ。ショットガンで撃てば簡単なんだが、食べるときに鉛の小粒が一杯でたいへんだから、22口径の子供向けのライフルで撃つんだが、めったに獲れない。だから、ご馳走。

 これ、豆知識デス。

 あと、パースやブリスベンでは、カンガルーやエミューも良く食わされた。

 あんなに可愛いカンガルーさんを殺して、ステーキにして食べるなんて! しんじられなーい!ってなもんだ。

 そういや、クジラさんが大好きなオーストラリアでは、カンガルーの大量殺戮を計画しているのがばれて、国際的に批判されてたっけね。

 ムースさんとか、カンガルーさんは、30口径の大口径ライフルで至近距離から射殺されるとき、さぞかし痛かったんだろうねえ・・・。

 残酷!!

 
 しかしまあ、「神は自分に似せて(西洋)人を作った」という、なんともオレサマキングな文化の人たちだしな。

 そういう連中に、「イルカがかわいそう! なんて残酷なの」っと言われても、困惑しちゃうわけです。

 「イルカは、アマテラスオオミカミが、食卓に供するために創造したのだ」とか、日本人は慎み深いから言わないからね。動物だって、亡くなれば神様ですから、わが瑞穂の国では。

 私ら日本人は、山幸彦と海幸彦の子孫だもんでね、クジラさんでもイルカさんでも、自然からのありがたい贈り物として、頭から尻尾まで、あますことなく食料として、あるいは生活用品の原材料として、大切にいただいいてきたわけ。

 だから、私ら日本人は、食事を食べる前には、その生き物たちに感謝して、「いただきます」というわけだ。

 一方であの人たちは、食事の前には、神様に祈るわけ。「今日も(神さまが)食べ物恵んでくれた、ありがと」って。

 どっちが、生き物に感謝しているんでしょうか(笑)。


 捕鯨に関連するこうした環境問題には、このあたりの、キリスト教的あるいは西洋的偽善が、たまらなく鼻につくわけ。

 恣意的に動物選ぶなと。

 しかもだ、20世紀まで油とるだけのために、世界中のクジラを根こそぎ殺しまくった挙句に、自分らはそれを食う習慣がないもんで、「クジラを守れ~、ジャップは残酷だー」っと。

 さすが、神の名の元に、ネイティブアメリカンを絶滅寸前にまで追い込み、インド人を召使にし、アフリカ人を奴隷にしてた国の人々は、一味違いますな。

 こあたりが、60年たっても、ひたすら大陸と半島の人に、謝罪をし続ける、われわれ気弱な日本人と、西洋人の、圧倒的な違いでしょう。

 あるいは傲慢な一神教文化と、多様性に満ちた多神教文化の違いかね。

 それに輪をかけてげんなりするのが、おちょぼ口でそれに追従する、自称ロハスな日本人の皆さんである。

 具体的には、こういう連中↓
http://www.all-creatures.org/ha/saveWhaleDolphin.html

 もうさ、じゃああんたらみんな、アメリカでもオーストラリアでもいいから、どこなと好きな国に行けと。

 ジビエのない国に。

 私らはきちんと絶滅しないように間引きしながら、クジラさんもイルカさんも、おいしく感謝しながら、無駄にせずにいただくから。


 とまあそういうわけで、太地の皆さんには、こんな傲慢な西洋人&おちょぼ口のエセ・ロハスな日本人の差別に負けず、今後もがんばってイルカ猟を続けてください。

 私も今度実家に帰ったら、イルカの干物をお土産に買ってきます。

 これがまた、軽く炙って食べると、うまいんだよ!

 あと全国各地で細々とがんばっている、クジラ料理店の皆さん。差別や弾圧に負けず、地域の文化を守ってください!

(おしまい)
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09夏、美濃の国・稽古の旅/(武術・武道)
- 2009/08/23(Sun) -
土曜

 青春18きっぷを使い、各駅停車で7時間かけて、美濃の国へ。

 車中では、近松の『冥途の飛脚』を味読。あ~、やっぱ捕まっちゃうんだよねえ。



 午後2時半、中津川に到着。

 戸山流居合抜刀術美濃羽会中津川稽古会の代表である棚田氏にご招待いただき、まずは同会の納涼バーベキューに参加させていただく。

 日暮れ前から、飲む! 食う! 肉、肉、ビール、肉・・・・・。

 まさに酒池肉林である(爆)。

 いつものごとく、泥酔してえんえんとしゃべっていた私ですが、一応、今回は記憶は失わなかったようである。

 酒は飲んでも、飲まれるなと。


日曜

 朝食をいただき、午前中は、中津川稽古会の定例の稽古に参加。

 同流の基本の素振り、運足、組太刀、さらに型(左敵)の稽古に加えていただく。

 いやしかし、最近、翠月庵ではほとんど組太刀の稽古ができなかったので、流儀は異なるとはいえ、ひさびさに存分に組太刀の稽古をさせていただき、たいへん有意義な時を過ごすことができた。

 やっぱねえ、稽古はねえ、人間相手でないと!

 的にむかってばっかりとか、空気斬ってるだけじゃあ、だめだなあとしみじみ・・・。


 昼前からは、不肖・市村主催の手裏剣術講座。

 中津川稽古会の皆さんは、今回で手裏剣術講座は3回目なので、説明・解説は最小限にして、とりあえずどんどんと打っていただく。

 まずは2間弱から、基本の上段打ち(軽量剣)。

 さらに、午前中の稽古で戸山流の左敵の型を稽古させていただいたことから、当庵の手裏剣術運用型Ⅱの「左敵」の型で打剣をしていただく。加えて同じ運用型Ⅱの「後敵」も。

 最後は、これまで狭義の手裏剣術以外に、飛刀術と刀法併用手裏剣術は体験していただいているので、今回は3回目ということで、長剣を使った掌剣術の基礎(手解3本とその応用)を指導させていただいた。

 楽しく充実した時間は、あっという間に過ぎてゆくもの・・・。

 午後2時、JR中津川駅から帰路につく。

 実に充実した2日間の武者修行であった。

 棚田様、また中津川稽古会の皆さん、ありがとうございました!

 (了)
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位詰についての、ちょっとした体験と考察/(武術・武道)
- 2009/08/18(Tue) -
過日、とある酒席で・・・。

 「あんたはよく、”位”だとか”位詰”とかいうけど、それってインチキ臭い感応・暗示系の技とどう違うのさ?」

 っと、とあるアマチュア武術ファンの旧友から聞かれた。

 だいぶ酒も入っていたので、「シロウトのあんたにゃあ、説明しても分かんねえよ!」

 っと、いってやったのだが、あまりにしつこいので、「今度ブログで書くから、読んどけよ!」と言い含めておいた。

 まったく、シロウトはこれだから・・・(笑)。

 あっ、今度はしゃぶしゃぶ屋で一杯やろう! もちろん、あんたのおごりでな。

                   ※   ※   ※   ※   ※

 数年前までの一時期、私は空手道の稽古で、当時現役の全日本上位入賞者で、その頃のナショナルチームの選手でもあった、ある先輩に、度々稽古をつけていただく機会があった。

 剣術やら居合やら柔術やら、無駄に30年近くも稽古をして、まがりなりにも手裏剣術の稽古場の看板を掲げてはいるものの、こと伝統派空手道については、私のキャリアはたかだか10年。

 空手道については、当時も今も、市井の町道場の、いち有段者に過ぎない。

 そういう人間が、日本を代表するトップレベルの空手家に稽古をつけていただく機会というのはそうそうないのだけれど、もろもろの成り行きで、当時、度々稽古をつけてもらい、ときにはマンツーマンでも稽古をしていただく機会があったわけだ。

 その方、仮にAさんとするが、年齢やら、何年度の全日本の何位などと具体的に書くと、個人が特定されてしまうのであえて伏せるけれども、まあ当時のAさんはバリバリの現役であり、その後、年末の全日本でも大きな成果を残した。

 こういうレベルの人と、私のような町道場の壮年部黒帯、しかも空手の稽古のスタートは30歳から・・・というレベルの人間が、フリーとか地稽古で立ち合うとどうなるか?

 分かる人には分かりますね。

 これが、”位詰”というやつなわけです。

 稽古を検分されていた師範などは、「市村さん、A君が相手じゃ、地球がひっくり返っても勝てるわけないんだから、とにかく思い切りかかりなさいよ!」っと叱咤してくれるのだが・・・。

 なにをどうしても”あ、どうしようもないな・・・”という状態になってしまうわけです。

 これはまあ、若干の感応や暗示もないとはいわないけれど、インチキくさいふれずに倒す妙な演武とはまったく違うというのは、歯あ折ったり、肋骨砕いていてようやく有段者になれるような稽古をしてきた人なら、流儀や会派を問わず、わかってもらえるのではないかと思う。

 たとえるならば、鉄の壁に、生卵をぶつけるようなものなのである。当然、生卵はこちらだ(笑)。

 あるいは、朝青龍と村の奉納相撲の大関が立ち会うようなもんである。

 ありていに言えば、打ち込みようがないわけ、なにをどうしても。そして、なにをどうしてもやられるのが分かってしまうので、微動だにすることなく、「参りました・・・」ということになるわけ。

 これでちったあ、分かるかね、O君。

                   ※   ※   ※   ※   ※

 だから、位詰というのは、まったくのシロウトとか、精神に異状をきたしているキ●ガイの人とか、麻薬中毒患者や禁断症状でぶっ飛んでいる人間には通用しないものなのである。

 なぜなら、詰められる側が、相手(詰める側)との力量の違いを認識できるからこそ、詰まるのが”位詰”だからである。

 シロウトさんとかキ●ガイとか、ジャンキーは、自分の位はもちろん、相手の位(力量や置かれた状態での優劣)を判断できないのだから、相手の位がどんなに上でも、詰められようがないのである。

 だから、立ち向かえるわけです。

 そしてまた、だからこそ武術の口伝には、「相手が素人の場合は、できるだけシンプルな技で制圧せよ」という教えがあるのである。複雑な技は、かえって通用しないことがあるのよ、素人さんには。

 一方でまた、こうした性質上、ある意味で「位で詰める」というのは、感応や暗示によるいかさま演武と、紙一重の領域にあるものでもある。

 これには、我々、武術・武道人は、十分、注意することが必要であろう。

                   ※   ※   ※   ※   ※

 私ごときレベルでも、相手や状況によっては、位で詰めることができる。

 ま、相手次第ですよ、あくまでもね(笑)。

 そんなとき、相手に「どうすれば、そんなように(位詰めに)できるのですか?」とか、「手出しができません」などと言われることもあるのだが、いまから400年以上も前に、世阿弥がうまいことを言っていた。


  「また、初心の人、思ふべし。稽古に位を心がけんは、返すがえす叶ふまじ。位は
   いよいよ叶はで、あまつさへ、稽古しつる分も下がるべし。所詮、位・長とは、生
   得の事にて、得ずしては大方叶ふまじ。

   また稽古の劫入りて、垢落ちぬれば、この位、自れと出で来る事あり」

                                          (『風姿花伝』)


 つまり位詰などというのは、大方、生まれもってのもんで、学ぼうと思って学ぶもんではない!っと世阿弥先生は突き放しつつ、「しかし、ごく当たり前の稽古を重ねていくごとに、自然と習得できることもあるんだよ」というのである。

 そこで安易に道をそれ、「気」だの「精神」だの「身体操作」だの、あるいは「権威主義」だのに迷い込むから、結局、そこそこ稽古を積んで、けして弱くはない人たちですら、詐欺師まがいの暗示・感応系エセ武術・武道家にひっかってしまう人が少なくないのだ。

 こまったもんですな。

 そういう意味では、手裏剣術は「気」では刺さらないし避けられないだけ、また刺さるか刺さらないかが一目瞭然なだけに、精神衛生上、きわめて健全な武術・武道だといえるだろう。

 ま、権威主義はあるかもしらんがね・・・。

 (了)
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敗戦の日によせて/(時評)
- 2009/08/16(Sun) -
 昨日は”終戦記念日”という名の、敗戦の日でした。

 まずは第二次世界大戦で亡くなった各国の全ての将兵と民間人の皆さんに、そしてクルディスタンの独立のために戦い命をなげうった1万人以上のゲリラ戦士と民間の方々に、心よりの哀悼の意を表します。

 やすらかに眠ってください。

 そして、自由万歳!

                      ※   ※   ※   ※   ※

 毎年、この時期になると、先の大戦に関連したドラマや映画、ドキュメントなどが放映される。

 若い頃は、「この時期だけかよ!」っと、そうした風潮を斜めに見ていたが、40ともなると、この時期だけでも、そうしたムーブメントで語り継いでいてほしい・・・、と心から思う。

 これは、立場が違えど、戦争は悲惨であるという気持ちからだ。

 その悲惨な戦争を繰り返さないために、

 A)全ての武装を放棄して、非戦に徹する
 B)適切な武装を維持し、母国を害する者とは徹底的に戦う

 大別すれば2つの意見があろう。

 いずれも、各人の信念にそって、従えば良い。信念は自由だ。

 日本は、自由な民主主義の国です。

 各人が自由に考えれば良い。ここが、自分の思ったことを口に出すことすらできない、独裁国家の北朝鮮や中華人民共和国とは違うところなのだ。

 そして私個人は、時代がどうあれ、友人、家族、故郷、母国の自由のためには、それを害する者とは徹底的に戦うべきだと念じている。

 なぜなら、自由ほど尊いものはないと信じているからだ。

 そして、自由のために命を賭すのは、近代社会での武人を志す者のNoblesse Obligeなのです。

                      ※   ※   ※   ※   ※

 麻生は馬鹿だ!、といえる自由。

 民主党もノータリンだ!、といえる自由。

 公明党は池田大作の手先じゃないか!、と言える自由。

 福島瑞穂は選挙ポスター、レタッチしすぎだろう!、といえる自由。

 これが、近代民主主義なのです。

 中華人民共和国なら、このブログはそく削除、私は逮捕・監禁されるでしょうね。

 こうした自由を獲得するのために、数百年前の中世ヨーロッパから現代のクルディスタンやチベットまで、世界中のありとあらゆる場所で、多くの人が、自由を好まない権力者たちの弾圧を受け、無残に殺されてきました。

 しかし、そうした屍の上に、自由・平等・博愛と完全な政教分離を謳ったフランス革命があり、アメリカ合衆国の独立があり、WWⅡ後のアジア・アフリカの植民地支配からの解放があったわけです。

 疑問に思うなら、図書館に行ってください。

 あるいは、オスカー作品の映画『ブレイブハート』を見てください(史実をベースのフィクションですが、作品のメッセージは”自由と独立の尊さ”です)。

 幸いに、日本は60余年前の戦争に敗れましたが、その後、国も国民も滅びることなく、自由と民主主義の恩恵を受けています。

 先の大戦では、マリアナ海戦以降、日本の戦争目的は国家の存続であり、合衆国の戦争目的は日本国の抹殺でした。

 結果としてそれを食い止めたのは、日本人の敢闘精神と、昭和天皇の英邁さでした。これは多くの史家や軍事学者の認めるところです。

 この点で、硫黄島や沖縄の玉砕も、特攻隊も、その戦術は、いち兵家として考えると到底上策とはいえませんが、少なくとも戦略として無駄死にではありませんでした。

 彼らたちが死を賭して戦い抜いたからこそ、今の我々の自由と独立があるのです。

                      ※   ※   ※   ※   ※

 同様に、クルディスタンの人々が、東トルキスタン(ウイグル)の人々が、チベットの人々が、アサバスカインデアンの人々が、さらにそれ以外の、現在の地球上で自由を求める全ての人々が、すみやかに圧制と抑圧から解放され、自由に生きてゆける社会が実現することを、改めて今日、心から祈念します。

 市村翠雨 謹識
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夏休み(武術・武道人)の課題図書/(書評)
- 2009/08/12(Wed) -
 昨年から、兵法をもう一度考え直してみようと、武経七書の精読に改めて取り組もうと思い立った・・・。

 ・・・のだが、結局、『六韜』と『三略』を再精読した段階で、「まあ結局、『孫子』以外は、死ぬまでにヒマな時間を見つけて、おりおりに読めば良いか・・・」と納得してしまった。

 というのも、武人のバイブルたる『孫子』と読み比べると、所詮は『六韜』も『三略』も、理屈先行の儒臭がきつすぎるのである。こうした点で、平成の武人の必読書として考えても、『孫子』の方が遥かに高いレベルの兵法を示していることに、いまさらながら改めて納得したわけだ。


 兵書としての『孫子』のリアリズムは、本邦の書物で言えば『五輪書』の合理主義哲学にも共通する。

 「寄せ集めの農民兵を精兵にするには、必死に戦わなければ全滅は必至、絶対絶命の『死地』へほうりこめ! さすればプロフェッショナルでない農民兵も、生死を省みず死に物狂いで戦うだろう」(孫子・九地篇)という孫子の徹底的なリアリズムは、「立ち合いでは、相手の顔面を突け。その気概を技でも気迫でも示し、相手をビビッらせて居付かせろ!」(五輪書・水之巻)という、武蔵の示す極めて具体的な斬り合いの勝口に通じるものだ。

 こうしたリアルさに比べると、「義にかなえば、たとえ小国でも大国に勝てる」的な儒学臭がそこここに感じられる『六韜』や『三略』の箴言は、帝王学の古典としては一級でも、実学たる兵法としては、あまりにナイーブだ。

 なお、現在、『孫子』に関する書籍はあまたが出版されているが、その多くが、「ビジネスに活かす~」とか、「人生の指針~」など、本来の『孫子』がもつ兵書としての鋭さをスポイルしてしまうような、生ぬるい意訳・解説の書籍だ。

 そういう意味で、原典の鋭い箴言にふれつつ、だれでも気軽に入手できるアクセスの良さという点も含めて考えると、まずは『新訂 孫子』(金谷治訳注 /岩波文庫)で原文のエッセンスを味わっていただきたい。ワンコイン+αの値段で、太古の兵法の極意に触れられるのだから、安いもんである。

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▲『新訂 孫子』(金谷治訳注 /岩波文庫)


 岩波版で原文のエッセンスをじっくり味読しつつ、実際的な兵法として『孫子』を理解するためには、さらに『新訳 孫子 ポスト冷戦時代を勝ち抜く13篇の古典兵法』(兵頭二十八訳/PHP研究所)を徹底的に読み込むことをオススメする。

孫子2
▲これ抜きでは『孫子』は語れない、まさに平成の名著である。


 なお、中公文庫BIBLIOSの『三略』(眞鍋呉夫訳)の巻末の解説も兵頭師が執筆しており、武経七書における『三略』や『六韜』の位置づけ、またその歴史的なあり様などについて、たいへん興味深い論考が示されている。

三略
▲兵頭師の解説を読むためだけでも、購入する価値がある

 ことに、実は戦国時代の本邦では、朝倉家など碩学の有力武将レベルでも『三略』や『六韜』の素読程度の理解がせいぜいで、『孫子』にいたっては、きちんと理解できる者はほとんどいなかったであろう・・・、という指摘は、一読の価値があろう。

(了)
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盛夏雑感/(身辺雑記)
- 2009/08/09(Sun) -
 この週末は、翠月庵もお盆休み。

 ということでこの土日は、こころおきなくひたすらドンドンジュを飲んで、泥酔しながらDVDを見て過ごす。無為な中年のお盆である。

 出かけると金がかかるしな・・・。

 筋金入りのオールド・オカルト映画ファンとしては、世にゾンビ映画は数多いが、やはり本家のJ・A・ロメロの新作『ダイヤリー・オブ・ザ・デッド』は、ご本家らしい風刺の効いた佳作であった。

 『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』では黒人差別を、『ドーン・オブ・ザデッド』では、70年代の大量消費社会を、『デイ・オブ・ザ・デッド』では、人間至上主義の文明を批判と、B級映画の体裁を借りながら時代を痛烈に批判した監督ロメロ。

 今回は、youtubeに象徴される個人メディアとジャーナリズムへの、痛烈な風刺が聞いていた。

 近年流行りの主観視点映画のなかでも、「見る人が酔わない画面演出」はぴか一。

 さすが御大である。


                     ※   ※   ※   ※   ※

 受け太刀について、刀匠でもあった旧師は、鎬での流し受けよりも、刃でガツッと受けるように教えていた。さもなければ摺り上げるか、切り落とせと。

 「でも先生、当流は一刀流系統ではないので、摺り上げとか切り落としとかの技はないのでは?」、と聞きかけたら、問答無用で木剣で半殺しにされた記憶がある・・・(涙)。

 このあたりが、強い弱い、遣える遣えないは別として、怪しげなインチキ流儀ならではの、うさんくさいところである(笑)。


 最近つらつら思うのだけれど、藁束斬り専用の飲み込みの良い薄刃の刀の場合、半端に鎬で受けようとすると、折れはしないまでも曲がっちまうだろうなあと、しみじみ思う。ましてや、相手が真っ向正面斬りと思わせて、途中から袈裟でもかけてきたら、相当、体捌きでいなしながらでないと、鎬で真っ向から受けるだけだと、刀が曲がるよなと。

 ちなみに日本を代表する由緒ある古流剣術の師範であるO先生も、「鎬なんかで受けてはダメ。受けるなら刃で!」と、おっしゃっていた記憶がある。

 まあ鎬にせよ刃にせよ、そもそも受け太刀だけ考えているようでは、本末転倒なのだけれどもねえ。

 そんなこんなで、最近は、25年前にちょろんと稽古しただけの日本剣道形について、教本などつらつら眺めながら、いろいろ考え直している。

 これって打刀の組太刀は、ほとんどが抜き技なんだよね・・・。

 意味深長だ。

                     ※   ※   ※   ※   ※

 ノリピーがシャブ中だったという事件。

 酒井法子容疑者には特別思い入れはないのだけれど、いささかびっくりである。

 私を含め、周囲の中年オジサンたちは、たいがい「信じらんない!」という反応だが、私の知人の女性記者は失踪直後から、「本人もやってるんでしょ!」と断言していた。

 女性の直感とは、おそろしいものです・・・。

(おしまい)
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加齢の問題/(身辺雑記)
- 2009/08/04(Tue) -
 現在、右足の第5中足骨と基節骨の関節部分、ま、要するに第3関節の部分の重度の打撲に苦しんでいる。

 事の発端は、3週間前の空手の稽古。

 他流から出稽古にこられているA師範とのマンツーマンの地稽古の際、前蹴りを猿臂でカットされて、つぶされてしまったわけだ。まあ、その代わり、こちらも正拳を猿臂でカットして、相手を剥離骨折させてしまったのだが・・・。私もA師範も、お互いに半ばアクシデント、半ば故意の、微妙な負傷である。

 もちろん、あくまで地稽古の際のことなので、互いに遺恨などはない(と思う、多分ネ・・・)。

 それにつけても、「痛み受け」というのは効くもんだ。

 さて、その2週間後。

 再び稽古で、A師範と地稽古である。前回の負傷もあるし、「本気になっちゃうと私も市村さんも怪我するからな~、ははは・・・(A師範談)」という感じで、リラックスして立ち合ったのだが・・・。

 最初は私は傷めた足を、A師範も傷めた右手をかばいながらやっていたもの、次第に乗って熱くなってくるのは、武道人の性である。

 で、私の組手スタイルは、足技が中心である。ここはひとつ、当のA師範から直接伝授された、斜角の前蹴りを極めてみようと、ドーン っとぶち込んだわけだが。

 グキっと、いったね? 今・・・。

 自爆したわけです。


 とまあそんなわけで、自爆した後の、先週の翠月庵の稽古では、居合も手裏剣も足が踏ん張れずに、なんとも辛い稽古となったわけだ。

 いやさすがに、不惑ともなると、怪我の治りが悪くてねェ・・・。

 ま、今週末はお休みだからいいか。

 (おしまい)
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物陰で、うごめいている輩がいるようだが/(身辺雑記)
- 2009/08/01(Sat) -
「女中根性というのは、自分の実力を全力発揮するチャンスのなかなか得られない、お屋敷奉公(これは嫁入り修業の行儀見習を兼ねていた)の町人の娘が、互いに隠れて朋輩のけなし合いにうつつをぬかすような態度をいい、表面は「お堅い」のですが、精神が非独立的で非生産的なのです。移動の自由が少ない社会では、男にもこういうのがいるでしょう」
(兵頭二十八師/日本勇気倍増計画HP(http://www.gotoyoshinori.com/028hyodo/post_67.html)『9)勇気と度胸/為永春水/勇気は景気次第(前編)』より)


 ここ最近、何か得体の知れない輩がネットの舞台袖でうごめいて、第三者たちを挑発し、漁夫の利を狙っているようだな・・・。

 あえて忠告しておくが、兵法も理解できない女中根性の小人が、中途半端な謀略もどきを弄していると、遠からず己の身が滅びるということを、よく覚えておきなさい。

 市村 記
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