平成21年を振り返って/(手裏剣術)
- 2009/12/29(Tue) -
 いよいよ今年も押し詰まってきたわけで、毎年恒例の1年間の総括をしておこうかと思う。

 今年の稽古では、主に刀法併用手裏剣術の考察と実践が中心となってきた。その結果、藤田西湖伝および知新流を原型に再検討した型を5本、他に2本の型を加え、合計7本の型を整理することができた。

 これにより、前後左右、四方の敵に対して、手裏剣術と剣術、居合・抜刀術を組み合わせた状態で対応するための、基礎的な稽古体系が出来上がった。

 具体的には、従来、定位置からの的打ちが中心であった手裏剣術の稽古に「型(形)」という概念を取り込み、

1.手裏剣術基本型
 (逆体、順体、引足、歩足での打剣)
2.手裏剣術運用型Ⅰ 七本
 (一、前敵 二、左敵 三、右敵 四、後敵 五、前後敵 六、左右敵 七、突進)
3.刀法併用手裏剣術基本型 七本
 (一、抜付 二、先 三、右ノ敵 四、左ノ敵 五、鞘之内 六、後ノ敵 七、前後ノ敵)

 という、3段階の型稽古の階梯を整備することができた。

 非常に大雑把に言うと、定置からの打剣で基礎を作り、その後は基本型で体の運用(運足と力の統一)の基本を学び、運用型Ⅰでそれを応用発展させ、最後に剣術や居合・抜刀術と手裏剣術を融合させて遣う、という一連の流れの大筋を、創庵から足掛け3年で、ようやく明確にすることができたように思う。

 これに伴い、本来、手裏剣術を表芸とする当庵ゆえに、剣術や居合・抜刀術の素養に関しては、別途、流儀や会派などであらかじめ学んでもらっておくことが望ましいのだが、諸般の事情でそれがかなわない稽古者のために補助的稽古として、私がこれまで学んできた剣術や抜刀術、居合術などを元に、基礎剣術(素振り)、基礎抜刀術(打刀の取り扱い)、初級剣術(組太刀五本)、中級剣術(表・裏の組太刀十本)、中級抜刀術(立業四本、座業二本)などを整理して、稽古体系に組み込んだ。


 以上のように、今年1年の研究と考察および実践で、「手裏剣術を中心に攻防を展開する武技の体系を研鑽し、もって武術・武道 の『事』と『理』を学ぶ」という当庵の稽古目的実現のための稽古体系の基礎は、おおむね固まったと思っている。


 一方で、会の運営という点を見ると、常時参加の会員諸子が少しずつ増えてきたことは、代表者としてはたいへん喜ばしいことである。いまだ数人とはいえ、同じ稽古場で剣の腕を磨くというのは多いに刺激になるし、私にとっても学びや気づきが多い。

 結庵当初、炎暑や木枯らしの中、野天の稽古場で一人黙々と打剣にいそしんでいたのも、今となっては懐かしい記憶である。

 そういう意味で、「時間内は指導に追われて、自分の稽古がままならない・・・」というのも、贅沢な悩みというものであろう(笑)。

 家主様のご支援もあって稽古場の環境も安定し、近隣の住民の皆さんにも「なんだからよく分からんが、武術の稽古をしているという変な人」という認知から、最近では「ここのところ、お弟子さんが増えたねえ・・・」と、声をかけられるようになったのも、地道に稽古を続け、近隣の方々に失礼のないよう心がけてきた結果だと心得ている。


 以上のように、平成21年は、当庵にとってはたいへん充実した1年となったといえよう。

 それもこれも、手裏剣術などという徒花のような武術に関心を持ち、稽古に通ってくださる会員諸子、さまざまな形でご助言やご指導をくださる武術・武道の先達や武友、安定した稽古環境を提供してくださる家主様や近隣在住のみなさんと、数多くの人々のご支援があってこそだと痛感している。

 これらのみなさんにあらためて、心から御礼申し上げたいと思う。

 なかでも、

 物心両面において、さまざまな形で変わらぬご支援をいただいている、無冥流の鈴木崩残氏。

 定期的な交流稽古と、手裏剣術講習会を通してご厚誼をいただいている、戸山流居合抜刀術美濃羽会中津川稽古会の代表であるたんだ先生と同会員のみなさん。

 折にふれ、武術としての技術面でさまざまなご助言やご指摘をくださる、空手家で古流武術家でもあるK先生。

 先達として、また古流武術の伝書研究という立場からも、貴重なご助言をくださる古流柔術家・柔道家のKさん。

 遠路はるばる遊びに来てくださる、上方の薙刀遣い・S氏。

 稽古場を提供してくださっている家主のH様。

 これらのみなさまには、格別の御礼と感謝を申し上げたい。

 また、本ブログを定期的に読んでくださる読者諸氏にも、同様に御礼申し上げたいと思う。


 今年1年、本当にありがとうございました。


 それではみなさま、年の瀬のひと時、良いお年をお過ごしください。


 翠月庵主
 市村翠雨 謹識
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千峰の翠色を奪い得て来る/(数寄)
- 2009/12/28(Mon) -
 やむを得ないとはいえ前回は品のない話題であったので、年の瀬の口直しに青磁香炉をご覧あれ。

香炉1
▲実際には、もう少し緑色が濃い


 じつは先日、思うところあって居間で居合を抜いていたら、鐺でひっかけて愛用していた青磁の香炉を壊してしまった・・・。

 新年を迎えるに、香も焚けないのでは、なんとも味気ない。

 かといって、壊れたもの以外の手持ちの青磁香炉は、あくまで観賞用であり、とても実際に使う気にはなれん。

 そこでヤフオクで購入したのが、この青磁獅子耳遊環香炉である。

 この香炉、青磁のなかでもいわゆる「雨過天晴 雲破処」と言われるコバルトブルーの系統ではなく、「秘色」と呼ばれたオリーブグリーン系の色合いである。

 なかなか侘びているではないか。

 時の詩人は秘色の青磁を、「千峰の翠色を奪い得て来る」とうたったという。

香炉2
▲獅子耳と遊環、鎮座する狛が、なんともオリエンタルな雰囲気


 雨上がりの雲間の青空のようなコバルトブルーの青磁の美しさは言わずもがなだが、しっとりとした翡翠のような色合いを見せる青磁の深みも、なんともいえないものだ。

 ま、とはいっても貧乏流れ武芸者が、手慰みにネットオークションで買える程度のものなんだがネ(笑)。

 いずれにしても、気に入ってしまったので、これも観賞用に決定!

 しかし、ということは、また別の日用使いの青磁香炉を探さねばならんのか・・・。

(了)

補遺
無冥流の崩残氏が、愛用されている香について書かれていたが、ちなみに市村が愛用している香は、日本香堂のフレグランスメモリーズというシリーズの、「SILK ROAD DREAM」、「SAHARA MOON」、「MOUNTAIN BREATH」の3種である。


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賜物/(身辺雑記)
- 2009/12/22(Tue) -
 過日、ふと思い立って、若い頃から使っていた2尺4寸5分の差料で稽古をしてみた。

 ここ3年ほどは、これよりも1寸短い、しかも特注で重量自体かなり軽く、バランスも自分に合わせたものをもっぱら使っていたので、ひさびさの4寸5分は、なかなかに重く、長い。

 わずか1寸でも、抜刀や納刀、抜付や斬り下ろしなど、繊細な刀の操法においては、かなり違和感があるものだ。


 そうはいっても、この刀、16歳の時、旧師にいただいて以来、かれこれ22年にもなる愛刀である。

 しばらく型を抜いているうちに、だんだんと動きや感覚がしっくりくる。

 特に抜付での横払いなど、3寸5分より、こちらの方が、剣先がぴたっときまる。

 向こう3年間のブランクを差し引いても、19年も愛用してきたのだ、身体が覚えているのだろう。


 身体に染み込んだ感覚こそ、稽古の賜物ということか・・・。

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【新訳】早縄 活法 拳法教範図解~その3/(武術・武道)
- 2009/12/09(Wed) -
※本稿の凡例
 太字:原文意訳
 細時:意訳者の注


■体勢図解その2

 柔術家にとって、最も大切なのは身構えである。



市村いわく

 ここでいう「身構え」とは、たとえばボクシングにおけるアップライトとか、空手道における組手構えとか、剣術における左片手上段とか、そういった攻防の際における、いわゆる「構え」ではない。

 あくまでも、体動の基盤となる体勢であり、記号としての身体の体勢のありようである。ここを誤解してはならない。

 同様に、たとえば剣術や拳法・空手などにおいても、形の中に示された「構え」というものが、攻防の際の体勢のありようとしての「構え」なのか、それとも技が極まった際の定式を示す「構え」なのか、あるいはその流儀特有の身体動作の記号論的な象徴(体勢としての理想形)なのか? という点を区別して理解しないと、先人たちの教えが一知半解になり、とって付けたような形の解釈に陥ってしまうことに留意されたし。


 その方法は、図に示すように、両手で自分の金的を囲うようにして守り、中腰で両足を横一文字に開き、つま先を外側に向け、腰をすえて口を結び、下腹に力を入れる。

 この身構えは、「真ノ位その2」ともいうべきところである。この身構えによって、腰投げや背負い投げなどを行い、乱捕りには最も自由自在に動き運用できる構えなので、十分工夫・検討すべきものである。


図真の位2
▲真ノ位その2


■体勢図解その3

 この構えは、「真ノ位その2(一文字腰)」から左足を40cmほど後ろへ引いて膝を着き、右足を立てひざにする。腰から上は「真ノ位その2(一文字腰)」と同じ。左足の踵を自分の肛門へ押し当てるように据え、下腹に力を入れる。

 自分が投げられて起き上がるにも、この身構えになるように起きる。これを「真ノ位その3」とも言う。

 敵とにらみ合うとき、掛け声を出すとき、起き上がるときや残心をとるときにも、この図のように身構えるように。なお、形によっては、左右の足が逆になる構えももちろんある。

 発心(先)、中心(作りと掛け)、残心、気合(発力)、勇気(肝力)などに必要な心と身体が充実するには、この構えがたいへん重要である。


図真の位3
▲真ノ位その3


市村いわく

 いわゆる「一文字腰」というのは、柔術に限らず、剣術なども含め、日本の古流武術ではたいへん重要かつ基本的な身構えである。型稽古を通し、こうした身構えに習熟することで術の土台となる下半身を鍛え・安定させ、軸を通し、丹田を練るわけである。

 また両手で金的を囲う(守る)という身構えも、古流ではよく見られるものであり、護身術の基本的なツボとして留意すべきである。

 なお余談だが、私の若い頃の日常生活での得意技のひとつが「釣鐘砕」であった。なんのことはない、相手の「玉」を思い切り握ってやる(厳密には握りながら、引き千切るように捻るのだが)だけの業だが、中途半端な小手返しや小手捻りなどといった逆業より、路地裏では、よほど効果の高いものであった(笑)。実践の業とは、シンプルなものである。


■距離図解

 まずは自分たちが稽古をする場所の広さを十分考慮し、受け、取りともに形を行う際には、まず掛け声と同時に中央に歩み寄り、双方の距離がおよそ1メートルほどまで近づく。ここで受け、取りとも同時に左足を40センチほど左斜めに引き、半身となる。

 形では、ここから受けが攻撃を仕掛ける。受けから仕掛ける形は、「襟投」、「陽ノ離」、「左右行連」、「後捕」などである。

 柔術の形は、いずれも左右を変えてそれぞれ同じ形として稽古することができるものであるが、たいがいの人が右利きであることから、右からの形が多くなる。

 ここで解説する警視流の形は、わずか16本であるため、5回くらい学び、自分たちで10回ほども稽古をし、1ヶ月程度ですべての技を修了できるものである。だからこそ、気合を入れ勇気を込めて稽古をしなければならない。しかし無理に力んだりせずに身体は軽やかに技を掛け、技をかけられた場合もすばやく受身をとるべきである。

 これから形の解説に入るが、図の中に示された点線は動きの変化を表しているので、じっくりと図解と説明文を読んで、その上で稽古をしてほしい。


図距離
▲約1メートルの距離で、右半身で対峙する


市村いわく

 私も若かりし頃、某警備会社で常駐警備についた際には、新任研修で自衛隊上がりの助教に、速習型の護身術と警戒棒の使用法について指導された経験がある。

 我々、武術・武道人と違い、法執行機関の職員や警備業務に就く者というのは、悠長に武技を学んでいる時間などはない。ゆえに警察でも警備業でも、あるいは軍隊でも、護身術や体術などの訓練は、一部の専門要員以外、ごく短期間に最低限の術技が、だれでも容易に習得できるものでなければならないわけだ。

 こうした点で、警視流拳法もあくまで速習に主眼が置かれており、5~10回の講習・稽古を行い、1ヶ月程度で修了と具体的なスケジュールが示されているのは興味深い。

 とはいえ、この時代の警察官といえば、ほぼすべてが士族であろうし、ということはすでに剣術なり柔術なりの十分な素養があることを忘れてはならない。

 しかし本原書を読み込んでいると、筆者である井口松之助としては、すでに素養のある警官や軍人だけではなく、学校の教員や生徒なども含めた幅広い相手を対象とし、できるだけ平易に、稽古しやすい解説を心がけているのが分かる。

 また、術技そのものについても、素朴で理解しやすい基本的な柔術技法が多い。

 素朴ということは、それだけ習得も簡易であり、先の「釣鐘砕」の例のように、即効性を求められる護身術としての実効性や有効性も高いということである。

 以下、次回からは、いよいよ形解説部分の訳にとりかかる。


(つづく)
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期待の剣/(手裏剣術)
- 2009/12/07(Mon) -
DSC_3244.jpg
▲いま、私が最も期待&注目している新作剣。一見、小柄のような形だが、重心位置など手裏剣術として合理的な形状となる


 当庵独自の、刀法併用手裏剣術専用の剣、いまだトライアル中である。

 といっても、先週は稽古場に行けなかったので、今はもっぱら、自室で各種の剣をさわっている程度であるが・・・。


 先に記した1回目のトライアル・レポートでは、使い慣れた角型20ミリ剣2種の評価が高く、どうしてもこれまで使い慣れていなかった貫級刀形の評価が低くなってしまった。

 実は、これにはもう1つ、きわめて主観的な要因がある。

 それは何かといえば、剣の(ビジュアル的な)形状である。

 いやしくも武技たるもの、その性能や実用性以外に、見た目などどうでもよいのだ! ・・・、などいうのは、野暮天というものである。

 そもそも、日本の刀が惟神の霊器とされるのも、折れず曲がらずよく斬れるという性能だけではなく、その息をのむような美しさがあるゆえだ、というのはいまさら私が述べるまでもない。

 これはまた、手裏剣においても同様である・・・、と私は個人的に考える。

 性能や実用性はまったく抜きにして(これはこれで、かなり失礼なものいいだが〔笑〕)、香取神道流の剣は、あの独特のボトムヘビーな曲線が、なんともいえない味わいがある。また、無冥流の長剣は、まるで鎧通しのような迫力があり、特に巻物をつけるとそれが顕著になる。あるいは、直打の実用性としては最悪の知新流の剣でさえ、あの古い鏨のような無骨さが、眺めていて飽きない・・・、いや本気(マジ)です。


 とはいえ、あくまでも手裏剣は投げ捨て兵器であるからして、「美術的価値」など皆無であろうが、斯術をたしなむ者としては、これくらいの数寄心があってもよいのではないかと、ひとり納得している。

 こうした意味で、私個人は、両刃(ダガー状)の剣というのは、どうも気持ちがしっくりこないわけです。

 もちろん前回のトライアルでは、当然ながら純粋にその打ち心地のみで評価しているわけだが、このような主観的な好悪の感情が、まったく影響していないとは断言できない。


 そこで、今、私が最も期待しているのが、冒頭の写真の剣である。

 これは、前回テストした貫級刀型手裏剣と同様、無冥流の鈴木崩残氏謹製の一品である。

 素材は貫級刀形とまったく同じで、剣先を片刃状にしたものだ。

 しかし、これが「グっとくる」ではないか! 

 両刃状(実際には刃はついていない)のタイプが貫級刀型であるのに対して、こちらはいわば小柄型である。

DSC_3241.jpg
▲全長230ミリ、厚さ5ミリ、幅10ミリ、重さ約80グラム


 一般の人は、よく小柄と棒手裏剣を間違えることが少なくない。このため武術書などでは、「小柄と手裏剣はよく混同されるが別物であり、しかも小柄はそもそもが日用使いの小刀なので、実際に手裏剣に打ってもまず刺さらない」などと解説される。

 しかし、これなら、まちがいなく最低でも4間は通る!

 こうした点も含めこの新作剣は、造形的魅力も合わせて、私は期待しているのである。

DSC_3240.jpg
▲切っ先は片刃様。しかし手裏剣として的に刺さればよいので、現状では刃は付いていない


 やはり日本人たるもの、剣型よりも刀型に、より「グっとくる」ってなもんであろう(笑)。

 (了)
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手裏剣術における、直打の本質的な運動原理/(手裏剣術)
- 2009/12/06(Sun) -
 前回のブログ、『「剣術=手裏剣術同質論」という誤謬』について、複数の方からさまざまなご意見やご批評をいただいた。それらについては、個別に、あるいはそれぞれの場で、更なる意見交換や補足の議論などを交わさせていただいた。

 その中で、

 「『剣術の体動と手裏剣術の体動は、本質的に異なる』という点は分かった。では、手裏剣術の体動の原理とは、どのようなものなのか?」

 という質問を、複数の方からいただいた。

 これについては、

 「鈴木崩残氏著『中級手裏剣術 第3版』を、買って読むべし! 以上」

 という回答で、十分であろうかと思う。

 知識と経験と、それに裏打ちされた業前は、いずれも自力で手に入れなければ身につかないものである。

 ゆえに、手裏剣術の原理を学びたい人は、上記の『中級手裏剣術』を自分で買って読んで、己の頭でその原理を理解して、その上でコツコツ独習するとよい。

 あるいは、流儀としては無冥流ではないけれども、当翠月庵で実地に稽古するのもよいであろう(笑)。


 とはいえ、まがりなりにも手裏剣術道場を表看板にしつつ、一方で文筆で糊口をしのいでいる者としては、その原理を文章で説明することはやぶさかではない。

 またそれを言語化することが、前回の命題である「剣術の体動と手裏剣術の体動は、本質的に異なる!」 という点を、より強調し補足することにもなるであろう。


          ※   ※   ※   ※   ※


 さて、まずはじめに、前回の私のブログのテーマを改めて要約すると、

「剣術の体動と手裏剣術の体動は、本質的に同じか?」

 という疑義に対し、

「剣術の体動と手裏剣術の体動は、本質的に異なる!」

 という結論を示し、その根拠として、いくつかのたとえ話や疑義、反証や実例などを挙げた。

 ここで誤解してほしくないのは、

「剣術の体動で、手裏剣術を解説することが、すべての時代で、間違いであった」と、主張しているわけではない点である。

 これについて、以前からご厚誼をいただいている先輩武人から、

「手裏剣を学ぶにおいて、江戸時代では、『先ずは剣を振るう感覚』からスタートすることが、より合理的であったのではないか?」

 というご指摘をいただいた。

 私自身も、このご指摘に基本的にはまったく同感である。

 前回のブログでも文意としては、それを否定はしていない。

>従来の手裏剣術では、その指導において「(剣術において)刀を斬り下げる際に、
>その切っ先がちぎれて飛んでゆくような感覚で、手裏剣を打て・・・」などという、
>きわめて感覚的であいまいな表現をしてきた。

 という前回ブログ冒頭の一文は、武士階級が消滅し剣術(剣道)の素養のない人がほとんどとなった大正時代以降、昭和・平成になった現在においても、従来の手裏剣術では・・・、という文意である。


 このご指摘のとおり、「手裏剣術の動き」という複雑なものを、他者に説明する際、説明する側とされる側が共通理解できる、なんらかの運動を、“たとえ”として用いるのは合理的なことである。

 ゆえに、それが江戸時代であれば剣術であり、平成時代であれば、無冥流・鈴木崩残氏が指摘されているボール投げなのだろう。

 たしかに江戸時代に生きた武士階級の男子にとっては、手裏剣術の動きを解説するのに、もっとも身近で誰しもが共通体験としてもっている運動体験は、剣術だったことは間違いない。


 その上で、私がブログで最も主張したかったことを、ここであらためて強調しておくと、

「“たとえ”として、適している」

ということと、

「2つの異なる運動の法則が、本質的に同じである」

 ということは、まったく別の話であり、異なる命題であるという点である。

 こうした前提の上で、私は従来から、

「剣術の体動と手裏剣術の体動は、本質的に異なる!」

 と主張しているのである。


 さて、私が論じたのは、

「剣術の運動法則と手裏剣術の運動法則が同じか? それとも違うのか?」

 という点であり、

「手裏剣術の運動法則を説明するのに、たとえ話として剣術を用いることが適切か?」

 という点ではなかった。

 その上でブログの論旨としては、いまだに理論的な根拠もなく、昔からそういわれているからというだけで、不用意に剣術と手裏剣術の動きが同じという主張があるが、私は手裏剣術者の立場から、「剣術と手裏剣術の動きの本質は、異なる」ということを主張している。



 では、以下に、「剣術と手裏剣術の動きは、本質的に異なる」という主張の根拠を、疑義や反証ではなく、手裏剣術における直打の原理から示そう。

 たとえば剣術の基本的な運動法則は、あくまでも「斬る」動きである。

 「斬る動き」とは、対象に接触した刃上の極小な1点が、刀身が押され、あるいは引かれることにより、その極小の接点が連続する線(刃筋)となって対象上を移動し、結果として接触面を破断する。

 これが「斬る」という、剣術の本質的な動きだ。

 このため刃自体の運動方向は多方向となるものの、刀を操作する「腕の振り」自体は、剣道の刺し面など特殊な打突は別として、基本的に上下左右、袈裟・逆袈裟、いずれかへの一方向一運動となる。

 また手の内については、「斬り手」で微妙な刃筋をキープしつつ、皮・腱・脂肪・肉・骨と、異なる硬度で構成された対象物を一定の刃筋で切れるよう、じわっと柄を絞り込み、刃筋のぶれと軌道の誤差を最小限に制御する(いわゆる、茶巾絞り)。


 さて一方で、手裏剣術における「(直打の際の)打剣」という動きは、どうであろうか?

 打剣の際の腕の振りは(流儀によっても若干異なるが)、上段に構えて腕を下へ振りおろすという、剣術の腕の振りに似た運動のほかにも、じつは拳法や空手道における底掌突きのように、腕を水平に押し出すという動きが加えられる。

 この「腕を水平に押し出す」運動は、前回のブログでも指摘したように、特に2間以上の間合になると、しだいにその必要性が顕著になる。(逆に言えば、1間~2間程度であれば、「剣術のような動き(原理)でも打てる」という点については、当庵の動画ページ「剣術教習のための手裏剣術/正面斬り」の動画解説を参照されたし!)

 つまり、手裏剣術における腕の振りは、最低限、二方向一運動という、多方向の合力なのである。

 このように、手裏剣の腕の運動原理(多方向一運動)は、剣術の腕の運動原理(一方向一運動)とはまったく異なるという点を、まず理解していただきたい。

 ちなみに余談だが、刃の運動原理は二方向一運動なので、手裏剣術の腕の動きと近似値にあるというのは、たいへん興味深いものである。

 さらに、上記のようなシンプルな二方向一運動という手裏剣術における動きは、ごく基本的な打法についてであり、実際にはさらに複雑な動きとなる。

 たとえば短い(12~15cm程度の)軽量剣を使い、滑走をかけて打剣しようとした場合、上記2種の運動(腕の振り下ろしと、押し出し)に加えて、さらに手首の内捻から外捻という動きがあり、また剣尾をたたいて遠心力を調整する手首のスナップという動きと、最低でも合計4つの動きの合力によって腕が振られ、剣が放たれるわけである。

 これに加えて手の内では、滑走打法であれば、数ミリ単位で指にそって剣を瞬間的に滑走させねばならないし、無滑走2点打法であれば剣尾と重心位置の2点に適度な力を加える。また打法によっては、離剣時にごくわずかだが、指先で剣面を押し出すというような運動を加えることもある(注1)。

 このように、剣術の「斬り」と、手裏剣術の「打剣」は、まったく異なる運動法則で成り立っているのである。


 にもかかわらず、あくまでも「剣術の動きと、手裏剣術の動きは同じである」と主張する人々は、これほど異なる2つの運動原理を、どのように同じ原理であると説明するのだろうか?

 ぜひ、合理的かつ実際的な解説を聞いてみたいものである。


 さらに、これは話しがわき道にそれるが・・・。

 仮に江戸時代でも平成の今だとしても、剣術・居合を稽古した上で手裏剣術稽古に入った者の立場で考えると、私自身はやはり、「切っ先がちぎれて飛んでいくように打て」という表現自体、手裏剣術の指導においては、「たいへん問題が多い表現だな」と思わざるをえない。

 剣術も手裏剣術もたしなんできた経験から考察すると、「切っ先・・・」という剣術の動きを用いた“たとえ”は、手裏剣術においての、打剣時の剣の手離れの早さを表現しようとするものだ。

 しかし実際には、たとえ話としての本意よりも、たとえのままに腕の振り下ろしを剣術のように腕を斬り下ろしてしまうため、むしろ打剣の際の、剣の手離れが遅くなる人が少なくないのである。

 このため古い流儀の手裏剣術のように、想定距離が1間半や2間程度ならそれでもなんとかなるが、2間半~3間以上になると、手離れが遅いゆえに、当然ながら首落ちしてしまい、直打では剣が刺さらないのである。

 だからこそ根岸流以外の古い流儀の多くが、2間半以上を通すための打法として、直打ではなく反転打にせざるをえなかったのであろう(注2)。

 こう考えると江戸時代ですら、「切っ先がちぎれて・・・云々」という表現は、手裏剣術の直打における有効間合の進化の可能性を、不用意に狭くしてしまった要因の1つであるとすら言えるのである。


 一方で、「現代では、多くの手裏剣術者が、古流と同じ剣や打法で、直打で3間以上を通しているではないか?」という反論もあるかもしれない。

 しかしこれは、打剣の稽古(経験)を繰り返す中で、仮に本人は純粋に剣術のように身体(特に腕)を動かしているつもりであったとしても、実際には無意識のうちに手裏剣を直打で通すために、手裏剣術特有の動きである、

 腕の切り下ろし+腕の押し出し+手首の外捻+スナップor剣尾と重心位置の指先による押し出し、etc…

 などというような、手裏剣術特有の体動を行っている人がほとんどなのである。


 ならば最初から、

 「手裏剣の本質的な動きの基盤は、腕の切り下ろし+腕の押し出しであり、これに加えて手首の外捻+スナップor剣尾と重心位置の押し出しなどなど、数々の打法に合わせた手之内と腕の動きが加えられるのである。

 さらに、これらの腕と手之内の運動に加え、全身の動きとしては、体幹をぶらさずに剣の軌道を安定させ、足の踏み込みや後ろ足の踏み出し、あるいは急激な重心の沈下、腹斜筋から側背筋の動きによる体側の上下運動による加力など様々な動きの統一力で、剣に速度と威力を加えるのである。

 これらを実現するために、当流では・・・・(以下、各流儀の稽古法を解説)」

 と説明するほうが、はるかに合理的かつ効果的であり、武術としても体育としても、良心的な指導だと私は確信している。


          ※   ※   ※   ※   ※


 百鬼夜行の世でもあるまいに、いまどきカルトのような説明責任抜きの妄信を弟子に強要したり、暗示と感応にすぎない怪しげな旦那芸で素人をだましたり、意味不明の「ありがたい言葉」で門弟を煙にまくような指導が横行しているようでは、草葉の陰で数多くの武の先人たちが嘆いていることだろう・・・。



(注1)
 打剣の際の手之内の原理、あるいは腕の振りなどの原理は、実際にはそれぞれの打法、使用する剣、個人の体格、経験などよって、現実的にはさらに複雑な運動となる。ここで表現しているのは、あくまでも本質的かつ象徴的なものであることに留意されたし!
 手裏剣術におけるこれら無数の打法を分類し、その原理を解明・解説しているのが、無冥流・鈴木崩残氏の著書『中級手裏剣術 第3版』である。いやしくも手裏剣術をたしなむ者であれば、必ず読んでおくべき必携図書である。

(注2)
 反転打であれば、剣の反転のタイミングは手の内で行うので、腕の振りと身体の動き自体は、「腕の水平方向への運動」を用いることなしに、純粋に剣術の斬りおろしの動きで打剣が可能であろう。

(了)
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「剣術=手裏剣術同質論」という誤謬/(手裏剣術)
- 2009/12/01(Tue) -
 無冥流のホームページ「松の間」に、『手裏剣術と剣術の不調和』という、たいへん興味深い論考が掲載されている(http://www.mumyouan.com/k/matunoma.html)。

 これについて当庵掲示板で、同流・鈴木崩残氏への返信として私なりの考えを掲載したのだが、結構、長い一文になってしまったこと、また掲示板の書き込みというよりも、小論として掲載するに値するテーマでもあると思い、重複するが一部加筆修正をし、ここに再掲載する。

  ※  ※  ※  ※  ※ 

~誤謬(ごびゅう、英:〔fallacy〕)一見正しくみえるが誤っている推理。推理の形式に違背したり、用いる言語の意義が曖昧(あいまい)であったり、推理の前提が不正確であることから生ずる。詭弁(きべん)。論過。虚偽~ (大辞林より)



 さて、従来の手裏剣術では、その指導において「(剣術において)刀を斬り下げる際に、その切っ先がちぎれて飛んでゆくような感覚で、手裏剣を打て・・・」などという、きわめて感覚的であいまいな表現をしてきた。

 こうした伝統的な主観的指導(たとえ話)の結果、現在になっても、剣術の操作と手裏剣の操作を混同する者が少なくないようである。

 その結果として「手裏剣術は難しい」という誤った先入観や、「3間を通すのに、数年もかかる」などという、本来無用な技術習得の難しさのみが強調され、認知されているのが現状であろう。

 当庵でも「剣術教習のための手裏剣術/正面斬り」というカリキュラムで検証・解説し動画でも公開しているが、おおよそ剣術の動きのまま(あくまでも「おおよそ」で、完全な剣術の動きではないことに注意!)で、直打で手裏剣が打てるのは、最大でも2間以下、たいがいは1間半前後までであろう。

 それ以上の間合になると、本人が自覚しているか、していないかは別として、必ず手裏剣術独自の動きが加えられてくるし、加えられないと刺中できない。その動きというのは、上記「松の間」で崩残氏がご指摘されているとおり、手の内の操作から腕の振り、手離れ、足使いなどなど、意識も含めて全身に及ぶものである。

 にもかかわらず、無理やり剣術と手裏剣術を同じ動きに規定しようとする、同じ動きだと思い込みたい、同じ動きだと勘違いしている人が、今も昔も少なくないようである。

 こうした「剣術=手裏剣術同質論」の人というのは、その多くが、自分の手の内や身体で起きていること、あるいは剣そのものの動きなどについて、客観的な理解が不足しているのだろう。

 まあ、ひいきの引き倒しというのは、だれしも大なり小なりあるものであるし、他人様に害がないかぎりは、それはそれで(いささか子供っぽいという意味で)微笑ましいものである。

 しかし、ここで大きな問題になるのは、勘違いしながらも普段から手裏剣を打ち慣れている「剣術=手裏剣術同質論者」当人はよいとして、そういう誤った理論・教習法によって指導がなされた場合、「手裏剣術を学びたい!」と純粋に志して教えを受ける側の上達が、不用意に阻害されるという点である。

 これこそが従来からある、「剣術=手裏剣術同質論」の最大の罪だといえるだろう。

 ただし指導者自身に、「それほど難しくない技術をあえて難しく教え、己の権威を高めたい」とか、「少しでも門弟の上達を遅くし、月謝・会費をできるだけたくさんみつがせたい」とか、「支部や会員をじゃんじゃん増やし、お布施で楽に暮らしたい」、などという明確かつ邪悪な目的があるならば、それはそれで意図的に後進の上達を阻害することも、私利私欲という「理」にはかなっているといえよう(笑)。

 もちろん手裏剣術を愛する者の一員として、私は、そんな不届き者は日本の手裏剣術界には存在しないと信じているが。


 ではここで、実に簡単な疑義を挙げてみよう。

 仮に剣術や居合・抜刀術と手裏剣術の動き(体動)が、本質的に同じであるとする。

 ならば、すでに剣術や居合・抜刀術に十分熟練した者であれば、手裏剣術も容易に習得できるはずである。なにしろ「本質的に同じ動き」に習熟しているのだから!

 3日も稽古すれば、直打で3間や4間は通せて当然ではないだろうか? 3日ではきつい? ならば3ヶ月でもいい。3間や4間を直打で通して、あるいは通させてあげてごらんなさい。

 ところが実際には、従来の稽古法や指導法、剣では、剣術や居合・抜刀術の熟練者であっても、3~4間程度の直打(5間とか7間ではない!)ができるようになるまで、2年や3年かかるのはざらである。それどころか、場合によっては4年も5年もかかるケースもまれではない!

 私が直接見ている範囲だけでも、剣術や居合・抜刀術の指導員や師範クラス、稽古歴10年以上の武術・武道人が、直打で3間を通すのに2年も3年もかかっている実例を見ている。

 これこそ、剣術や居合・抜刀術と手裏剣術の体動は、本質的に異なっているという事実の証明となろう。

 ゆえに、剣術や居合の上達には剣術や居合の上達のための稽古体系(理論と実践)が必要であり、手裏剣術の上達には手裏剣術の上達ための稽古体系が必要であり、剣術や居合と手裏剣術を併用するためには併用するための稽古体系が必要なのである。

 この大原則を、今現在、手裏剣術を志している人は、絶対に忘れないでいただきたい。


 では、さらにもう1つ、疑義を示そう。

 仮に剣術や居合・抜刀術と手裏剣術の動きが、本質的に同じであるとする。

 ならば、すでに手裏剣術に十分熟練した者であれば、剣術や居合・抜刀術も容易に習得できるはずであろう。なにしろ「本質的に同じ動き」に習熟しているのだから!

 半年や1年で、目録くらいの業前になって当然なのでは? しかし、実際のところは・・・?

 答えるまでもない・・・、絶対に無理である。

 どんな手裏剣術の名人でも、その人が剣術や居合・抜刀術を学んだことがなければ、目録レベル、つまり指導員や師範代程度の腕前になるには、当然ながら改めて手裏剣とは別に、剣術や居合・抜刀術を5年や10年稽古しなければ無理なことは、言うまでもない。

 以上、2つの疑義・反証でも、「剣術=手裏剣術同質論」が、論理的にも現実的にも、破綻していることが分かるであろう。


 いずれにしても、古くから流布されている「剣術=手裏剣術同質論」が、手裏剣術の技術習得をかえって難しくし、結果としてそれが、斯術の発展や普及を阻害してきた大きな要因の1つになっていることは間違いない。

 だからこそ、我々、伝統や伝承といったものから自由な立場にある現代手裏剣術家は、主観的で疑似(エセ)科学的な「剣術=手裏剣術同質論」という誤謬に惑わされることなく、客観的で論理的、そして科学的で実践的な、言い換えれば再現可能性をきちんと担保した、現代手裏剣術としての技術論と上達論に基づいて自分自身の業前を高めると同時に、斯術を愛好する後進の指導にも、十分に留意してゆかねばならないのである。

 それが結果として、手裏剣術というこのすばらしく魅力的で独特な武術を、古の時代から脈々と伝え受け継いでこられた、数多くの先人への恩返しになるのだと、私は確信している。

(了)
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