夜のお供/(身辺雑記)
- 2010/03/31(Wed) -
 タイトルを読んで、悩ましい想像をたくましくした人がいたとすれば・・・、お若いですなあ(笑)。

 うなぎパイじゃあねえんだって。



 武術・武道などという修羅道に人生の意義を見出し、日々の生業でも昨今のような生き馬の目を抜く餓鬼道の巷を泳ぎ抜ける日々。

 こころ休まるのは、就寝前の電脳世界のみ、といのも寂しい話であるか・・・。



 そんなこんなで、消灯前のひとときを楽しませてくれる、お気に入りのページをいくつかご紹介。

『天文古玩』さん
http://mononoke.asablo.jp/blog/
理科的世界観の、博物的かつ幻想的な記述の数々は、就寝前の個人的ナイトキャップとして、愛読させていただいております。文系ならぬ、武系(元)理科少年でも楽しめる、不思議な魅力いっぱいのブログです。

『週刊オブイェクト』さん
http://obiekt.seesaa.net/
軍事技術関連の話題での、鋭い切り込みは切れ味抜群。でも、私個人的にはT72よりチハ車のがスキ・・・。

『兵頭二十八の放送形式』
http://sorceress.raindrop.jp/blog/
いわずと知れた、世界で唯一無二の、軍学者・兵頭師のブログ。師の『あたらしい武士道』は、武術・武道人必見の書だ。

『孔雀洞雑貨舗』さん
http://kujaku.info/
個人的に好きな作家さんのページ。とはいえ、実際に作品を購入させていただいたのは1点だけなのだが・・・。一見クールなようで、実は暖かい理科的世界観を表現した、凛々しい作品が魅力。最近、小箱オブジェの新作がないのが残念・・・、というのは遅れてきたファンの勝手な思いいれである、スミマセン。


 え? 武術・武道関連のものはないかって?

 そんなバタ臭ぇもん、寝る前に見たかぁねえって(笑)。

(おしまい)
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われわれはなぜ、武人でありたいのか?/(武術・武道)
- 2010/03/26(Fri) -
 そもそもなにを好き好んで、われわれは、21世紀の今、手裏剣を打ったり、刀を振ったり、殴ったり、蹴ったり、投げたり、極めたり、etc…、剣呑なことをしているのだろうか?

 簡略に言えば、「なぜ武術・武道をたしなむのか?」。

 こうした根源的な問いは、折にふれて自問した方が良いであろう。

 そういう意味で、「古武術が永久に抱える歪み」 と題した、無冥流・松の間(http://www.mumyouan.com/k/matunoma.html)の最新の一文は、読む人によって激しい賛否両論があるだろうが、今の時代に武術・武道をたしなむ者であれば、一読する価値のあるものと思う。

 ことに執筆者である無冥流・鈴木崩残氏自身が、現代を代表する卓越した手裏剣術家である一方で、いわゆる武術・武道家ではないだけに、われわれ武術・武道人に突きつけられたその問いは、痛烈かつ根源的だ。

 禅的世界を深く極めた崩残氏による、日本の武術・武道界や武術・武道人に対する問いの厳しさに、個々がどう内省し自答するのかは、非常に興味深いものといえよう。


 さて、

 では、現代における武術・武道の目的はなにか?

 われわれが武術・武道を行ずる目的とはなにか?


 市村おもえらく、

武術・武道の目的は、稽古を通し「護身」「健身」「修身」を学び、結果として人格陶冶をめざす。

 これに尽きる。

 以下、簡単に思うところをつづってみたい。


■護身

 護身といっても、手裏剣で身を守れとか、日常生活で真剣を持ち歩け、などということではない。

 普段から手裏剣を持ち歩いたり、刀を携帯するような者は、そもそも、その段階で現代の武人として三流以下である。

 いや、それどころか、社会人としての常識を逸しているという点で、人間失格だ。

 徒手だろうが、武具を扱うものだろうが、武術・武道の研鑽による現代の護身術とは、稽古によって学んだ「先」や「間積り」、「位取り」などという、武術・武道の根源的な理合によって、自分と自分の周りの人々を守ることである。

 逆に言えば、「先」や「拍子」、「間積り」や「位取り」などといった理合を、頭と体の両方で理解していない者が、表面的な技を100も200も覚えたからといって、あるいは武器のたぐいをいくらもてあそんだからといって、護身術としては、何の役にもたたない。

 それどころか、むしろこうした技コレクターや、武器マニアは害悪であすらある。

 昔から、「生兵法はケガの元」とか、「キチガイに刃物」というではないか。

 ところがこういう輩に限って、「私は殺人術、必殺技を体得している」とか、「試合では勝てないが、実戦なら負けない」などと、ショッパイことを言うのである。

 「引かれ者の小唄」とはこのことだ。


 日常生活や対人関係における「先」と「拍子」、「間積り」や「位取り」。

 これこそが現代社会で有効な本当の護身術であり、先人の積み上げてきたこれらの貴重な実学を、体を通して学ぶのが武術・武道の稽古である。

 ゆえに、トラブルに巻き込まれた時点で「武道未熟」なのだ。

 その上で力及ばず、不本意にも身体的な危険や暴力に直面してしまった時には、必要最小限の武力(神武不殺)をもって、自分自身と周囲の人を、今直面している危険な情況から無事に回避・離脱させるのが、平成という時代に生きる武人の護身術である。

 こうした点で、「●●流より、××流の方が実戦的」だとか、「△△道より、◎◎術の方が、護身に役立つ」などという無意味な議論をする者がいまだにいるが、いやしくも日本の武術・武道であれば流儀や会派に限らず、その根本原理には必ず「先」、「拍子」、「間積り」、「位取り」といった概念があるわけで、きちんとした師につけば、流儀や会派による護身術としての優劣はほとんどない。

 ただし、日本の武芸十八般の中で、こうした武術的理合の教習体系が、未熟・未整理なものもある。

 そのひとつが、手裏剣術である。

 「武術としての手裏剣術」の、未成熟さや未体系化については本ブログでも度々論考している通りであり、今回のテーマとは離れるので、ここでは詳しくはふれない。


■健身

 身体の健康が、精神の健康に通じることは、言うまでもない。

 そして適度な運動が、心身の健康に有益なことも、またしかりである。

 武術・武道は、当然ながら体を動かして行ずるものなので、形稽古が中心の古流であろうが、試合や競技を重んずる現代武道であろうが、すくなくとも家でパソコンを2時間眺めているよりも、2時間なんらかの武術・武道の稽古をする方が健康増進の効果は高い。

 当たり前だ。

 ただし不適切な指導や、無意味なしごきなどがなければ、という前提であるが。
 
 健康は、すべての人間活動の根本であり、それを維持することは、万人の求めるものである。

 この万人が求める「健康でありたい」という願いに対し、武術・武道の稽古は、多いに貢献できるものだ。

 心身の健康促進のための生涯武術・武道の意義は、少子化と高齢化が同時かつ急激に進む今、ますます高まっているといえよう。


■修身

 日本の武術・武道は、室町時代の流儀発祥からはじまり、江戸時代の封建体制下で多いに花開いた。

 このため、稽古の一環である礼法や立ち居振る舞い、身の処し方などは、日本の伝統文化を体現しているものである。

 数ある日本の伝統文化の中でも、宗教、美術、工芸、芸能、建築、食、服飾、身体操作などを含めた、広範囲にわたる日本特有の伝統文化の総合的・全人的な体現という点では、茶道がその頂点にあることは論をまたない。

 しかし、武術・武道の末席を占める者として、われわれが行ずる武術・武道も、茶の湯に勝るとも劣らない「日本伝統文化の総合的体現」と誇りを持ちたい。

 総合的な日本文化を学び、実学としてそれを実践するということは、結果として人としての品位を高めることとなる。

 品位を高めること、これが修身である。

 逆にいえば、どんなに高段者だろうと、宗家だろうと、会派の長だろうと、その行為や言動が人として品位に欠けるような者は、「武道未熟」ということである。

 では、人としての品位とは、いったい何か?

 稽古を通して、それを模索すること。

 その結果として、人の品位を高めてゆくのが武術・武道である。

 
■護身・健身・修身の結果としての、人格の陶冶

 「武道の目的は、人格の陶冶にある」という言葉を、われわれは初学の頃から、うんざりするほど聞かされてきた。

 一方で残念ながら、武術・武道人でありながら、それどころか高段者や指導者でありながら、人格がまったく陶冶されていない者がいることも、われわれは知っている。

 根源的に、武術・武道は古来の殺生事を基盤としている。

 それゆえ武術・武道人は、逆説として「もののあわれ」や「惻隠の情」、「盛者必衰」、「無常観」、「謙譲の美徳」などという日本的精神のあり方を、稽古を通して一般の人以上にシビアに突きつけられ、感じ、そして思索するのである。

 本来の武術・武道は、こうした稽古のハタラキによって、おのずから人格が厳しく陶冶されるものなのだ。

 ところが、殺生事の魔力にとらわれて暴力に酔う者、利権と金に目がくらむ者、周囲におだてられ組織の小さな権力におぼれる者も少なくないのが現実である。

 「あの人も、昔は立派だったのだが・・・」

 四半世紀以上、武術・武道の世界にかかわってきて、何度、こんな台詞を聞いたことか。

 他流の師範方との対話でも、「本当に武術・武道は人格を陶冶しているか?」という話題になると、「必ずしもそうではない」、「実際のところ、陶冶されないのでは?」という本音を聞くことも多い。

 しかし私個人は、それでも日本の武術・武道には、人格を陶冶する力とそれを学ぶ階梯が、確かにあると信じている。


 さて、本来、人格を陶冶することだけが目的であるならば、なにも武術・武道である必要はない。

 ではなぜ、われわれは、「武術・武道を通して人格を陶冶したい」のか?

 簡潔にいえば、「なぜ、武人でありたいのか?」

 循環論法や禅問答めいてしまうが、結局はこうした「問い」を稽古という実践を通し心身で思索していくことが、武術・武道を通しての人格の陶冶なのだと、私は考えている。

(了)
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フィクションとノンフィクション/(武術・武道)
- 2010/03/23(Tue) -
 過日、最近、時代小説やテレビの時代劇にはまり始めたのだという、カメラマン氏との世間話。

「この前、●●流という古流剣術の動画というのをはじめてみたんですが、市村さんみたことあります?」
「う~ん、youtubeに出てる、△△が××で、◎◎しているやつかな」
「そうそう、それですよ」
「なら、見たことありますよ」
「あれって、見る人が分かりやすいように、ゆっくりやってるんですよね」
「いや、あれが普通の速さだと思いますよ」
「へ~、ずいぶんゆっくりなんですね」
「いやいや、だって刀って抜き身で重さ1キロとかあるんですよ。それを振り回すんですから。バットだって重くて800グラム、一般的な木刀が500~600グラムですからね。しかも、その重さで長さが1メートル以上もあるんですから、重さとバランスを考えても、そんなにビュンビュン振り回せませんって」
「いや、でも時代劇なんかだと・・・」
「あれは竹光ですから」
「タケミツって?」
「ようは外側は本物の刀と一緒だけど、刀身は竹に銀紙みたいなのを張ってあるんですよ。だから正確な重さは知らないけれど、たぶん200グラムとか300グラムとかじゃないですかね」
「へ~、そんなに軽いんだ」

 当たり前のことだが、一般の人の剣術や居合・抜刀術のイメージというのは、テレビや映画の時代劇からのものであろうし、それから考えれば、木太刀を使った形にせよ試物を使った斬りの稽古の様子でも、ずいぶん「ゆっくり」に見えるのであろう。

 その昔、ある役者さんに聞いたことがあるが、お芝居の世界では、「軽い刀をいかに重く見せるか?」が立ち回り(殺陣:たて)のツボだという。一方でわれわれ武術・武道人は、「重たい刀をいかに軽やかに遣うか?」が重要であり、目的がまったく正反対なのである。

 また、お芝居の立ち回りでは、派手で見栄えよく格好のよい動きが求められるわけだが、武術としての動きはシンプルで目立たず地味なほど良い。飛んだり跳ねたりするよりも、スッと出てピタッと抑えるような動きがよりベストなわけだ。


 このように、フィクションとノンフィクションの世界では、条件も求める点もまったく正反対なわけなのだが、どうもこのあたりを混同してしまう人がたまにいる。

 小説などでも、池波正太郎や藤沢周平などは、ほとんど武術的には無知なのだけれど、その描写は緊張感とリアリティにあふれている。一方で、中途半端に武術・武道をかじっている作者の作品ほど、その立ち回りの描写がクドクドとして読みにくいものだ。

 誰とは言わないが(笑)。

 そういう意味で私は、時代劇で鯉口を切るときに「カチッ」っと音がしたり、抜刀するときに「シャー」という金属音がしたり、鍔鳴りがしたりするのも、お芝居の上の演出としてありだと思う。これらはすべて、現実にはありえない音なのであるが。

 観念としてのリアリティと、現実世界のリアリティは別なのだ。

 一方で、いっぱしの武術・武道人が、芝居の殺陣を真に受けて飛んだり跳ねたり転がったりしたり、あるいは無様に体勢を崩しまくって試物(しかも芯の竹も入っていない、単なる畳表)をすぱすぱ輪切りにして悦に入っているのを見たりすると、武術・武道の末席を占める者として暗澹たる気持ちになるのもまた事実である。


 ひと様に見ていただく芸と、練磨すべき武技とはまったく別物である。

 このことを、忘れずにいたいものだ。

(了)
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我が青春のクルディスタン(2)~子供たちと家族/(旅)
- 2010/03/20(Sat) -
      「努めなければならないのは、自分を完成することだ。

       試みなければならないのは、山野のあいだに、

       ぽつりぽつりと光っているあのともしびたちと、

       心を通じあうことだ」

          (『人間の土地』サン=テグジュペリ/堀口大學訳)



 異郷を旅していると、最初にトモダチになるのは必ず子供たちだ。

 彼ら彼女らは、無意味な偏見や、富や権力をおもんばかってのくだらない人見知りなどはしない。

 妙な外国人がいれば、最初ははにかみながら、しかし内心は好奇心いっぱいで、心もとない異邦人と相対してくれる。



「どこから来たの?」
「日本だよ」
「日本ってどこ?」
「ずっと遠く、東洋の島」
「なんでここにいるの」
「・・・戦争があるからね、ここには」
「日本には戦争はないの?」
「ないよ」
「天国みたいだね」
「そうかな?」
「そうだよ・・・」



ヴァン1 修正2

▲クルディスタンの古都・ヴァンの子供たち。貧しいが、笑顔はどこまでも素直だ



ディヤルバクルの家族2

▲ディヤルバクルで出会った音楽家の一座。ネブロズのお祝いに、民族音楽を奏でていた



ジズレ

▲トルコとイラクの国境の町・ジズレ。チグリス川の岸辺で、たきぎをひろっていた少女。足が不自由な子だったが、「写真を撮らせてくれる?」と声をかけると、スカーフをきちんと直し、ニコンのレンズを正面から見つめてくれた。凛とした微笑だった


(さらにつづく、かな)
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我が青春のクルディスタン(1)~ネブロズ・クルド民族の大祭/(旅)
- 2010/03/15(Mon) -
      「昔のことをよく思い起こしてみるなら、俺の生活は宴だったな。

       心という心が開かれ、酒という酒が供される宴だったな」

          (『地獄の季節』アルチュール・ランボー/鈴木和成訳)




 春になると思い出すのは、クルディスタンで過ごした日々だ。

 今から14年前の1996年3月、駆け出しのフリー・ジャーナリストだったオレは、”国家なき民”と呼ばれるクルド民族を取材するため、トルコ・イラン・イラク・シリアなどの国境地帯に広がるクルディスタン(クルド民族の地)で、新年の大祭(ネブロズ)を撮影していた。


ネブロズ1 修正

▲機銃を向けて上空から威嚇するジャンダルマ(治安軍)の武装ヘリに対し、人々は民族の勝利を表すVサインを突き出す



ネブロズ2 修正

▲「おい! 日本人がクルマンジー(クルド語の主要方言の1つ)をしゃべっ
たぞ!」と、老人は笑った



ネブロズ3 修正
▲少年の頭に巻かれたスカーフの、黄、緑、赤の三色はクルド民族の旗の色だという


(つづく・・・かな)
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ニセ医療にご注意! ~武術家の眼から見たインチキ検査/(医療・福祉)
- 2010/03/11(Thu) -
 過日、とある医療関係の編集者と話しているとき、「最近こういうのがはやっているらしんですが・・・」と話題になったものがある。

 ”Oリング・テスト”なるものだ。

 このテストは次のようなものだという。

 まず被験者は、右手の親指と人差し指で”輪”を作り、残りの3本の指を伸ばす。

 そして左の手のひらに、薬なり、食品なり、携帯電話なり、まあとにかく何でもいいので、調べたいものを載せる。

 この状態で、検査者は、被験者が作った右手の輪に、自分も指で輪を作って指と指を鎖状につなぐ(写真)。

DSC_3788.jpg
▲この写真は、一人でやっているので、左手のリングに右手のリングをつないでいるが、実際には右手同士でやるらしい・・・。ま、実際には、右手だろうと左手だろうと関係ないが

 この状態から、検査者は自分の指で作った輪を引っ張り、被験者は相手の指が外れない(自分の指で作った輪が開かない)ように力を入れる。

 すると、被験者の左手の上に載せたものが、その人の健康にとって良いものであれば、自分の指で作った輪はなかなか開かず、逆に健康に害のあるものであれば、輪が簡単に開いてしまうそうな・・・。

 ・・・。

 ま、これが子供の手慰みだとか、飲み屋のカウンターでの軟派の小技というなら、別にどうでもいい。

 おそろしいことに、このOリングテストを真に受けている医師や歯科医などがいて、実際の治療の場で、薬剤の選択や食事・栄養指導などに取り入れているというのである!

 医療記者の端くれとして、日々、医者や看護師、介護職などに接することが多い私としては、「まさか、冗談でしょ?」と思ったのだが、このテストの創始者(笑)という人物が運営する協会のホームページを見ると、うそかまことか医者やら歯医者やらの実名や体験記、このテストを絶賛するコメントが、ざくざく書かれているのである。

 さらにいくつかのwebを見ると、本当に内科の診療所とか歯科医院のページなんかで、このOリング・テストのことが紹介されているのだ!


 EBM(根拠に基づいた医療:Evidence-based medicine)が提唱されて久しいなかで、医者や歯医者とはいえ、教養が欠如した人物は一定割合いるのだろうが・・・。

 こんなニセ医療で、薬を選ばれたり、医学的な食事・栄養指導をされた日には、治る病気も治らないというものである。それどころか、このインチキ検査が原因で病状が進行し、結果として生死にかかわる重篤な状態になってしまったり、回復不能な障害が残ってしまいかねない。

 だからこそ、ニセ医療は厳しく追及されねばならないのである!


 さて、このOリング・テスト、武術とくに古流柔術のたしなみのある人なら、すぐにピンとくるのではないだろうか?

 ようは手解(てほどき)系の技とまったく同じ原理なのだ。

 輪が解ける場合は、親指と人差し指の接触点を水平方向にひっぱっているはずだ。こうすると、どんなに指に力が入っていても、簡単に輪は解ける。

 逆に輪が解けない場合は、親指と人差し指の接触点ではない部分を引っ張っているか、あるいは接触点でも水平方向ではなく、上下いずれかの鉛直方向に角度をかけて引っ張っているはず。こうすると、ほとんど力を入れなくても、指で作った輪が解けることはない。

 初歩の柔術で教わる、手首などのはずし技と同じなのである。

 この場合、検査をする者自身が自己暗示にかかっているので、被験者が左手に載せているものを見て無意識のうちに、

「左手に載っているのがタバコだから(健康に悪そうなので)、相手の指をはずしやすい方へ引っ張る」、

 あるいは、

「左手に載っているのが有機野菜だから(健康に良さそうなので)、相手の指をはずしにくい方へ引っ張る」

 などと、選択的な動きを行ってしまうのである。


 ここで疑似科学に詳しい人なら、さらにピンとくると思うが、これってあの昔なつかしい、コックリさんと同じ原理でもあるわけだ。


 いずれにしても、このOリング・テストなるものは、疫学的調査で有意なデータが示されているわけでもなく、その検査の機序(しくみ)が客観的に示されて、科学的に検証されているわけでもない。

 つまりインチキな検査法であり、それに基づいて行われるニセ医療なのである!

 コックリさんのトリックが科学的に解明されて、すでに100年以上がたっているというのに、いまだこんなインチキが社会でまかり通り、それどころか本来、最も科学的でなければならない医療の現場に病原菌のように侵食を続けているというのは、実に恐ろしいことだ。

 皆さんも、かかりつけの医者や歯医者が、「左手にこの薬を載せて、右手の親指と人差し指で輪を作ってください」とか言い始めたら・・・、ご注意されたし!!


注意

このOリングテストといっけん似たものに、形成外科の医院で行われるフロメンテストがある。

フロメンテストは肘部管症候群の診断などに用いられるもので、紙を患者の親指と人差し指の間に挟んで検者が引っぱるというもの。

このテストは、生理学的・医学的な根拠に基づくもので、Oリングテストとはまったく関係のない、正しい検査法なので誤解されないように!

(了)
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米国製新作剣の試打/(手裏剣術)
- 2010/03/07(Sun) -
 昨日の稽古では、無冥流・鈴木崩残氏よりご提供いただいた、米国製の新作手裏剣の試打を行った。

DSC_3784.jpg


 規格は、角型/全長220ミリ/幅7.5ミリ/重さ約96グラムである。

 初めて手にとった印象は、重さも長さも、「やや大きいか・・・」という感覚であった。これは、現在、当庵の刀法併用手裏剣術専用剣制定のためにトライアルしている3種の剣に比べて、長さも重さも、この剣が一番大きいから当たり前である。

 全体の仕上げはつや消しの墨染め。焼入れおよび剣先の研磨済みである。剣先の形状は、エンピツ加工状の丸いタイプと面取りをした角型多角形の、2つのタイプがある。

DSC_3785.jpg


 道具としての、見た目や手に取った感触の仕上がりは、全体としてたいへん良い。


 では試打である。

 今回は2~3間半で、2~300打ほど打ってみた。

 基本的にはクセのない、素直な剣である。

 中指中心の指置きでも、人差し指中心の指置きでも、重心位置は伸ばした指先よりも15~20ミリほど下になるが、若干、指を曲げれば無滑走2点打法で打つことができ、当然ながら滑走打法でも特に問題ない。

 的への刺さり具合は、現在トライアル中の他の3種に比べれば、はるかに深く刺さる。これは長さ、重さともにこの剣が最大級なので、当然であろう。ただし、小柄型の剣に刃をつけた場合の付帯的な威力に比べると、こちらの剣の方が威力は低いといえよう。

 次に、8本を前腰に手挟み、刀法併用手裏剣術で打ってみる。

 抜刀動作や切付、斬下ろしなどの動作をしても、違和感や不自然な重量感は感じない。これが1本120グラムとか160グラムの剣になってしまうと、それを8本も前腰に手挟むと、重さが運足や体の転換などの動きの際に、意外に大きな違和感となってしまうのである。

 今回は雨で屋外の的が使えなかったため、3間半以上で打つことはなかったが、この剣の長さや重さからいっても、4~5間でも十分な刺中が得られるであろうことは、十分に予測できる。

 また、2~2間半の近距離(そして実践的な距離でもある)でも、重さや長さが違和感になることなく、滑走でも無滑走でも、素直な刺中を得ることができた。


 さらにこの剣の大きなメリットは、そのコストパフォーマンスの高さである。

 剣先の形状が丸型のものが1本10ドル(約900円)、剣先角型のものが15ドル(約1350円)となっている。焼入れや剣先の加工済み、墨染めもたいへん質の高い仕上げで、この価格というのは正直驚きである。


 結論として今回試打した剣は、当庵の制定剣候補として、総合的に考えてもきわめて魅力的なものであった。

 コストパフォーマンスと仕上げ、性能、威力のバランスとしては、申し分のないものである。この点で、他の3種の剣と比較しても、なんら遜色のあるものではない。

 こうなると、あとは採用者であり使用者である、私の好みの問題でしかないといっても過言ではない。


 以上のようなファースト・インプレッションをもとに、今しばらく、この剣も含めたトライアル対象の剣の習熟を進めていきたいと思う。

 (了)


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武具を扱うということ/(武術・武道)
- 2010/03/04(Thu) -
 自分が打太刀をとるときはもちろんだが、稽古者に組太刀を稽古してもらっているときにも、一番気になるのは、思わぬ怪我の問題である。

 自分自身に向けて言うのなら、「怪我は己の未熟」ですむわけだが、ひとさまに稽古をしてもらっている場合、そうもいえないのが当世流である。

 我々が稽古してきた頃のように、「怪我と弁当は自分持ち」という時代ではないのだ。


 さて、これは空手の南郷氏が著作で指摘していることだが、たとえば空手や拳法などの場合、攻防の技術を育てるのと同時(あるいは以前)に、そこで運用される拳足の武器化という、別のプロセスも必要になってくる。

 一方で、剣術・居合術、あるいは手裏剣術も同様だが、武具を扱う武術・武道の場合、扱う道具(打刀や手裏剣)がすでに威力を有しているので、運用する道具の「武器化」というプロセスを必要としない。

 まあ、厳密に言うと、日本刀というのは実にデリケートな道具で、素人さんが使うとすぐに壊れるし、手の内がしまっていないと意外に斬れないものである。手裏剣にしても、実はその多くが見た目ほどの強烈な殺傷力をもっていない(一部の剣は別だが)ので、道具の使い方という意味での、武器化のプロセスが必要なのだが。

 とはいえ人間の手足に比べれば、刀や手裏剣、あるいは木太刀でも、それ自体に武具としての威力があるということを、常に念頭に置いて稽古に取り組まねばならない。


 考えてみれば、初めて手にした手裏剣は、今思えば30グラム台の非力な超軽量剣であったが、そのときには鋼鉄の剣のずしりとした重さと、鋭くとがった剣先にかなりの脅威と威圧感を覚えたものだ。

 ところが、今となっては「30グラム台の超軽量剣が相手で、自分が衣服を着用しているなら、フルパワーで打剣してきても顔面だけカバーしながら突進して、斬るなり、突くなり、取り押さえるなりして制圧すれば問題ない」と断言できる。

 ただし、剣に薬物などが塗られてある場合と、刃が付けられている場合は、このかぎりではないことに留意されたし。


 しかし逆説的になるが、30グラム台以下の超軽量剣でも、眼球に当たれば重症となるし、顔面に当たった場合、非常に危険であることは言うまでもない。ゆえに、超軽量剣も、運用さえ間違わなければ十分に武器として有効であることを理解しておく必要がある。


 このように、我々は常に、今扱っている剣が超軽量であろうと重量剣であろうと、本身の打刀でも軽量の木刀でも、「道具そのものに威力のある、武具を扱っている」という緊張感と、責任感を忘れてはならないだろう。

 (了)
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