「学問せぬ武芸者は匹夫の勇にして、三味線弾き候 芸者も同様」(/(武術・武道)
- 2010/09/21(Tue) -
A兄

 貴信拝読。

 さて、「武術・武道の言語化」については、いささか貴兄とは、意見が異なるかもしれませんが、私の従来からの持論ですので改めて記します。


 私自身は、以前から可能な限り武術の言語化に努め、その意義を非常に重く見ております。

 また、「武術・武道の言語化」への取り組みは、翠月庵の特長でもあります。

 その理由は、

 感覚や体験、理合といった身体的感覚をあえて言語化しようという行為により、単に肉体の感覚だけでは超えられない、武術的世界観に対する形而上・下の総合的な把握ができる

 というのが私の持論だからです。

 古今東西、多くの武術関係の解説や教え、体験談や感覚表現が、実際のところ分かりにくく説明としてレベルが低いのは、主として当事者の言語能力や表現能力の稚拙さにあるといえるでしょう。


 もちろん本質的に武術・武道という行為は、

 百聞は一見にしかず、一見は一触にしかず

 というものです。

 当然ながら、身体の感覚や、心理領域も含めた人と人との闘争のすべてを、完全に言語化することなど、できるわけがありません。

 それでも「可能な限りそれを言語化することで、後進により良い武芸の本質を伝えたい」と、古来、多くの武人が願い、それに取り組んできました。

 ですから現代の武術・武道人が「武術・武道(の理合)は言葉にできない」と言いたがるのは、単に己の言語能力・表現力・指導力の未熟さを、「一見にしかず」という故事によりかかって、手抜きをしているに過ぎません。

 ゆえに多少業が使えるというだけで、弟子を武人としてまともに育てることすらできない指導者も少なくないのです。

 こうした武術の言語化に対する誤った見方は、『兵法家伝書』を記した柳生宗矩、『五輪書』を記した宮本武蔵、『剣説』や『剣微』を記した平山子龍、『兵法未知志留辺(みちしるべ)』を記した白井亨などなど、武術の言語化に心を砕いた数多くの先人の業績を否定する、由々しき風潮だと感じています。


「学問せぬ武芸者は匹夫の勇にして、三味線弾き候 芸者も同様」(平山子龍)


 もちろんA兄は、そういう方ではありませんが、

 私は安易に「武術は言葉にできない」などといいたがるような武術・武道人は、「未熟だな」としか思えません。

 そして、このような未熟者が指導者となると、得てして弟子の才能と可能性を潰してしまうものなのです。

 後進の未来の可能性を奪う事ほど、技芸を伝承する者として罪なことはないでしょう…。



 ささか長文になりましたが、ご不快になることがありましたら、どうかご容赦ください。



 かくすればかくなるものと知りながら
 やむにやまれぬ大和魂 (吉田松陰)

 翠雨 頓首
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殺陣と武術の根本的な違い/(武術・武道)
- 2010/09/21(Tue) -
 映画やテレビの殺陣(たて)の影響もあってか、剣術者や居合・抜刀術者以外の人は”逆手(さかて)”の抜刀に関心が高いようで、これについてよく聞かれる。

 曰く、

「(逆手の抜刀は)実際に遣えるのか?」
「古流の形(業)に逆手の技法はあるのか?」

 などなど・・・。

 まあ、私は”武術研究家”ではないので、自分自身が稽古してきたことや指導してきたこと、それらに伴う知見でしか論評できないけれども、その上で言えば、

「逆手の抜刀は、諸流に見られる」
「遣えるか、遣えないか、という問いかけに答えれば、”遣える”ということになろうが、座頭市やルパン三世の五右衛門みたいな使い方を想像しているのであれば、それはたぶん武術的にはほとんど無意味である」

 と答えている。

 
 以前もここで書いたかが、逆手の抜刀というのは剣先が伸びず刀勢も弱いので、斬撃としては極めて非合理的なものである。

 このため何がしかの限定的な状況下で、逆手で抜く必然性や合理性がある場合に用いる特殊なアプローチに過ぎない。

 時折、「(座頭市のような)逆手の抜きは、接近戦で用いるのでは?」とかいう、北野武監督『座頭市』の受け売りのようなことを言う人がいる。

 実際には、近い間合でも普通の柄の取り方のままで、いくらでも打刀の抜き方、斬り方、攻め方はある。それこそ業と身体の使い方次第だ(余談だが、私はどうも「身体操作」という言葉が嫌いだ)。

 つうか二本差しなんだから、近くて太刀が抜けない未熟者なら脇差か馬手差しを使え!

 なに? 浪々の身で、一本差だと?

 だったら、柔の当身や捕手で取り押さえろ!

 ・・・ってことである。



 とまあ、そんなことをつらつら考えていたところ、神道無念流の立居合の形に逆手抜刀があった。

 これは、

1 捕が背後から腕を回して抱きついてくる。
2 受は逆手で柄をつかみ、両肘を張って捕の腕をほどく。
3 そのまま逆手で抜刀し、自分の左肩ごしに、剣先で捕の顔面を突く。
4 受は右足を一歩引きつつ、逆手のまま刀を返してさらに背後を突く。
5 そのまま八相に構え、踏み込んで左袈裟斬り。
6 転身して左半身の右八相に構え、踏み込んで左袈裟。
7 逆手で納刀。

 というものである。

 この形は居合術の特徴のひとつである、「柔術と剣術の中間技法」という点を、よく表した形だといえよう。


 逆手の抜刀とは、このように特殊な状況の中で、それ(逆手の抜刀)が合理的であるからこそ用いられるものであり、なんの意味もなく逆手で抜くものではない。

 武術的合理性があるかからこそ、一人で行ずる武術の形は、(人に見せることが目的である)剣舞や殺陣とは根本的に異なるのである。

 同じような間違いに陥りやすい業(所作)に、神道流系の剣術などで見られる、太刀を片手八相にとり掌を開いた左手を前方に突き出した構えがある。

 一見、自分の左手を斬ってくださいと言わんばかりのこの構え。しかし、当然ながらそこには武術的合理性があることは、別に特定の流儀を学んでいなくとも、まともな稽古を積んできた武術・武道人ならば、ちょっと考えれば分かるはずであろう。

 それかあらぬか、武術的合理性を何も考えずに、形だけを模して「演武」するから、まるで歌舞伎の見得みたいな「演舞」になってしまうのである。

 「霞」や「水月」といった武術の理合、もっと有体に言えば「間合」や「見切り」、「視界」や「視野」などという点を頭に置けば、口伝をうけていなくとも、構えの意味はある程度は分かりそうなものだが・・・。


 手裏剣術にしても、武術として手裏剣術の研鑽を目指すのであれば、そこに武術的合理性があるのかを常に考えておかなければ、単なる的当てゲーム、あるいは殺陣や大道芸となってしまう。

 しかし一方で、武術的合理性に日本人特有の”用の美”の感覚が伴わないと、それは単なる格闘技に陥ってしまうだろう。

 ”見世物化”と”即物的下品さ”の狭間で、いかに術・道としての高い品位=「位」を目指すのか?

 この点に、本来的には暴力や殺人のためのスキルであった武術を、用の美と行動科学としての固有の文化にまで昇華させた、日本武道の本質的価値があると、私は信じている。

(了)
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鍔と稽古着/(武術・武道)
- 2010/09/13(Mon) -
 以前も書いたが、最近、思うところあって組太刀の稽古では、木太刀に鍔をつけるようにしている。

 ・・・のだが、どうもしっくりしない。

 実際には、誤って指や拳を打たれるのを防ぐのに役立っているのだけれど、なんというかビジュアル的に気持ちがなじまないのである。

 もちろん、居合刀や本身を扱う際には、こうした心理的違和感は一切ない。

 木太刀の場合のみ、なのである。

 これはもう、長年の習慣なので、しょうがないといえばしょうがない。


 同様な点に稽古着の問題がある。

 翠月庵では、特段、稽古着の着用は義務づけてはいない。

 基本的に参加者の服装は自由である。

 しかし私自身は、常に稽古着と袴はつける。そうしないと、どうにもしっくりこないのである。

 ある意味、「稽古をするぞ」というスイッチを入れるという点、また気持ちを引き締めるという意味でも、稽古着なしでの稽古は、基本的に考えられないのである。

 まあ、あくまでも習慣の問題なんですがネ・・・。

(了)
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都落ち?/(身辺雑記)
- 2010/09/06(Mon) -
 12年ぶりに引越しをした。

 東京都民から、埼玉県民になったわけデス。

 おかげで稽古場へは、これまで自宅から片道2時間かかっていたのが、わずか30分となった。

 これは実に、楽チンである。

 一方で、都心からは離れてしまったわけだが、これも上野にせよ池袋にせよ乗り換えなしで30分ほどで着いてしまうのだから、いままで住んでいた練馬と大差ない・・・っと思っている。

 その割には、転居のお知らせをした同業者が口をそろえて「都落ちですか・・・」と言うのには、いささか異論がある。

 「より快適な住環境(費用対効果も含む)を求めて、郊外に移った」と、思ってもらいたいものだ(笑)。


 転居に伴い、12年間、いやそれ以前の2回の引越しの分も含めた膨大な荷物(主として書籍だが)を、かなり大胆に処分したので、いささか身が軽くなったように思う。

 市村翠雨、41歳、厄年、独身。

 さて、人生の第三幕は、どうなることやら。

 とりあえずは、キレイになった台所でアジのタタキでも作り、お神酒の力をかりながらつらつらと考えていこうかと思う。

(おしまい)

 
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