青銅の世界/(数寄)
- 2010/11/25(Thu) -
 引き続き私の中では、青銅が熱い。

 というわけで、紀元前2000年頃、四川省長江流域で栄華を誇った三星堆文化の青銅器である。

三星堆
▲青銅縦目仮面(右)、青銅人面鳥身像(左)


 当然ながら、貧乏道場主が購入するものであるからして、レプリカである。

 値段? ラッキーストライク●個分くらいだと思っていただければ良い。

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▲「縦目」とは、飛び出した目のこと。日月の運行を支配する神だともいう


 この青銅縦目仮面に見られるように、三星堆遺跡出土の青銅器の魅力は、その奇妙奇天烈な造形である。

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▲顔は人間、体は鳥の奇怪な生き物


 さらに三星堆では、黄金の杖や仮面など、大量の金製品も出土しており、黄河で栄えた殷王朝に勝るとも劣らない文化・王朝が花開いていたと考えられる。

 
 というわけで、私の青銅ブームは、今しばらく続きそうである。

(了)

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座技再考/(書評)
- 2010/11/19(Fri) -
 正座というのは、武術・武道人にとってはなじみ深いものだ。

 というわけで、丁 宗鐵著『正座と日本人』(講談社)を読んだ。

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 医師であり、茶道や柔道にも造詣のある著者は、生理学的な、あるいは歴史的な視点から正座という行為を考察。結果としてそれは、実は明治以降の日本の近代化の中で作り上げられた、比較的新しい国民体育としての具体的な身体イメージだと指摘する。

 武術・武道の世界では、居合・抜刀術でも柔術でも、いわゆる正座は近代前後に普及した身体の使い方であり、古い伝統を誇る流儀では、「居合腰」と呼ばれる胡坐と正座の中間的な座り方で稽古するところが少なくない。

 こうした観点からも、本書の正座に対する歴史的考察は非常に興味深く読むことができた。

 また著者が医師の立場から指摘する、正座という行為の、生理学的なメリット・デメリットについての解説も、なるほどと思えるものであった。

 
 さて、武術・武道人として個人的に思うのは、正座にせよ居合腰にせよ、座技の稽古というのはきわめて日本的な業であり稽古法であるということだ。

 古今東西、世界広しといえども、制敵・格闘の技を座って行う、しかもそれを体系化して教習し、伝承してきたのは日本武術・武道のみであろう。

 これは、「屋内では靴を脱いで座る」という、日本の生活習慣と文化あってのものなのは明白だ。

 さらにテクニカルなことを言えば、居合・抜刀術にせよ柔術にせよ、座技の稽古というのは、立技にくらべるとかなり狭いスペースでも稽古が可能である。この点で、日本特有の住環境や建築文化も深くかかわっているのは言うまでもない。

 また、正座あるいは居合腰から始まる動き(形)は、腰や下肢への負荷、つまり鍛錬効果も高く、技の運用や身体の使い方としても、立技にくらべてさまざまな生理学的制約と難しさがあり、それが稽古になるのである。

 こうした点で、安易な「座技無用論」については、私は反対の立場をとる。


 さて手裏剣術においては、座打ちは運足や全身の統一した力に頼る打剣ができないゆえに、手之内や手離れ、腕の振りといった、手裏剣術独自の核心的で微細な技術について、より明確に理解・習得ができるというメリットがある。

 このため翠月庵では、初学者にはまず三間の座打ちから稽古を始めてもらう。

 また私自身も、打剣に迷いを生じた際などは、改めて座打ちに立ち戻ることが少なくない。


 本書を読んで、「座る」という日本文化特有の行為について、武術・武道の観点からも、あらためて考察する価値があると感じることができた。

 武術・武道関係者には、ぜひ一読をすすめたい。

(了)

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『野川』は現実世界に舞台を代えた『天然理科少年』か?/(書評)
- 2010/11/15(Mon) -
長野まゆみの最新作『野川』(河出書房新社)を読んだ。

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 BL系に走る前の、叙情的な長野作品を愛する者としては、なかなかにリリカルな、長野まゆみらしい佳作であった。

 実際に、数年前にガイドブックの取材で、野川を歩いたことがあるので、一段と物語の世界に入ることができたように思う。

 ただし、出版社の宣伝では「長野まゆみの最高傑作」とあるが、これははたしていかがなものか?

 長野作品の最高峰は、『天然理科少年』だと信じている私としては、これはちょっと納得はできない(笑)。

 ただし『野川』は、ファンタジーを極力排除し、舞台と設定をできるだけ現実世界に近づけた形での、『天然理科少年』なのかなあという気もした。

 ことに父と主人公の少年とのやりとりは、『天然~』のセルフカバーといった趣すらあり、少年時代を記憶しながら現代を生きる父親世代である自分としては、かなりぐっときた。


 また長野作品のお約束で、物語は起承転結の「起承」で、ぷつりと終わる。

 これがまた、独特の余韻を残す。

 ユニークな語り口で、「目に見えない風景」の大切さを語る教師の人物造型は、これぞ長野まゆみの面目躍如といったところか。


 『天然理科少年』や『夏至祭』、『夏帽子』や『天体議会』などといった名作に比べると、現実社会を舞台にリアリズムに徹したという点でいささか小ぢんまりとした物語世界となったが、ひさびさに心地よい、長野ワールドに遊んだ気分になった。

(おしまい)
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何かあったのか?/(身辺雑記)
- 2010/11/12(Fri) -
 アクセス解析によれば、普段、このブログの読者の皆さんは、およそ35~40人くらいで推移している。

 そのうち、多分、3分の1から半分くらいの人は、リアル世界でも顔見知りの方たちだと思われる。


 で、

 どういうわけか今日は、閲覧者が50人となっていた。

 ま、たかが10人単位なんですが、急に増えている(笑)。

 おまけに、書庫(アーカイブ)も、毎日20回前後の閲覧数なのが、どういうわけか今日は130を超えていた。


 さて、何かあったのかねえ?


 とりあえず、明日の翠月庵の稽古は、お休みデス。

 (了)
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納刀小論/(武術・武道)
- 2010/11/08(Mon) -
 翠月庵では、刀法併用手裏剣術の稽古のために、いささか恥ずかしながらも、ごく初歩的な抜刀術のイロハについて、希望者に指導している。


 基礎的な抜刀術を指導していてしみじみ思うのは、「刀というものは、抜くことも難しいが、納めることも難しい」という、斯界定番の教えである。

 私が旧師からS流とK流の抜刀術を学んだのは、すでに20年以上も前だ。

 当時、稽古では師の考えもあってか、他流や現代居合道などに比べると、納刀や血振るいについては、あまりやかましく細々とは指導されなかった。

 「落ち着いて、よどみなく静かに納める」
 「納刀の際も柄頭で相手の正中線を攻め続け、位で制しながら刀を納める」
 「常に残心に留意する」

 納刀に関して再三指導されたのは、主にこの3点であった。

 刀匠でもあった師の持論は、

「納刀については、すでに相手を斬り倒しているのだから、あわてて刀を納める必要はないのだ。ただしその際にも、残心を忘れるべからず。

 血振るいについては、本来は懐紙でぬぐいをかけてから納めるべきであり、さらにいえば懐紙でぬぐっても刀身についた血は完全には落ちないものである。ゆえに血振るいという動作については、血を振りとばすのが本意なのではなく、一連の形の動作における手ノ内と意識の句読点であり、初期段階の残心から次の段階の残心への分岐点である」

 というものであったように思う。

 いずれにしても、納刀や血振るいについては、それぞれの流儀にそれぞれの考え方があるので、「これが正しく、あれが間違い」という議論は不毛であろう。それぞれの稽古者が、それぞれの師の教えに従えば良い。

 ただし時折、新興流儀の演武などで、納刀の際に柄を逆手に持って、刀をグルングルンと八の字に何回も振り回しながら納める人を見るが、あれははみっともないので、やめたほうが良いと思う。

 やっている本人は、内心、「ドヤ顔」で得意満面なのかもしれないけれども・・・。

 殺陣じゃあねえんだからさ(笑)。

(了)
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武芸徒然草/(武術・武道)
- 2010/11/03(Wed) -
 最近、真下から相手の裏小手につける斬上の抜付に思うところがあり、ふと思いついて台所で抜いたりしていた。

 以前の練馬のアパートは庭があったのでこういうときは気兼ねなく剣が振るえたのだが、今度は団地の2階なので、思いついても外で抜刀の稽古などできない。さりとて、室内は仕事場と寝室と台所の3部屋なので、一番広い台所でしかできないわけだ。

 しかも、台所もけして広くないので、大きく抜き付ける横払いは到底できないが、鞘離れから物打ちを一気に飛ばして相手に付ける抜付はなんとかできる。

 そして、鞘離れから真上へ斬上は・・・、こういう狭い場所に最適ではないか!

 しばらく、自宅での稽古は、斬上専門だ。


             *   *   *   *   *   *


 無冥流の鈴木崩残氏から、過日行ったM氏への剣術稽古の際の、動画をまとめたCDをいただいた。

 M氏が帰国後も参考にできるよう、翠月庵の基礎剣術(素振り)と初級剣術(組太刀5本)、基礎抜刀術、その他指導風景を収めたものだ。

 これまで手裏剣の打剣や刀法併用手裏剣術の形は、動画をアップするために自分の演武を見たことがあったが剣術や抜刀術に関しては、動く自分の姿を見るのは、この28年間で初めてであった。

 感想としては、我ながら人様に披露するような業前では到底ないけれど、最低限、初学の人に指導する程度にはなんとか許容範囲かな・・・というところで、ちょっとは安心した次第。

 それにつけても、自分の動きを客観的に見るというのは、いろいろと勉強になるものである。

 こうした意味で、武術・武道の道場や稽古場には鏡がたいがい置いてあるものだ。ことに、ひとり稽古が中心となる抜刀術や居合では、鏡は大切な稽古補助具となる。

 がしかし、これもまた一長一短なのである。

 必要以上に鏡を見る癖がついてしまうと、鏡を見ないで動くのが、不安になってしまう人がいる。

 あるいは、形の最中に、ついついちらちらと鏡に視線を送るくせがつく人もいる。

 こうした「鏡を見るくせ」は、一度付いてしまうと、直すのになかなかに厄介なものである。

 そういう意味でも、鏡はあくまでも稽古の補助具であり、基本的には鏡など見なくとも、普段の基本と形の稽古で、正しい姿勢、正しい太刀の道(刃筋・刀勢)が習得できなくてはならないと心得るべきであり、その補助としての鏡としておかないと、足元を救われてしまいかねない。

 まあ、当庵のように、野趣あふれる野天道場の場合は、そもそも鏡の設置しようもないのだけれども・・・。


           *   *   *   *   *   *


 一身上の都合で昨年末から、29歳から約10年間続けてきた空手道の稽古を、中断したままである。

 おまけに転居で、これまで所属していた会の稽古場に平日に通うのは、事実上困難になってしまったので、9月から正式に休会をしている。

 しかし一方で、肉弾戦系の稽古を1年もしていないと、当然ながら体がなまってしょうがないのである・・・。

 また手裏剣術や剣術・抜刀術などといった、センシティブな稽古ばかりしていると、私の中の流れ武芸者の血がうずくのである。

 「あ”~人間相手に、殴る蹴る、投げる極めるがしたい!」と(爆)。

 しかし現実的に、今の住居と自宅での仕事という環境、週末の翠月庵の稽古を考えると、これまでの会派の稽古場に通うのは、時間的にも距離的にも、かなり難しいのが実情だ。

 そこで、新たに自宅近くで、平日に通える所がないかと、つらつらと考えている。


 考えてみれば、すでに四半世紀を超えた自分の武術・武道人生の中で、せっかく10年も続けてきた空手道の稽古を中断してしまうというのも、いささかもったいない気がする。

 一方で、現在41歳の自分の限りある人生の中で、残りの武術・武道人生での新規学習可能な時間を仮に20年と考えると、新たに何かを学び直すチャンスは残り1~2回、いや加齢による身体能力の低下を考えれば、1回が限界かな・・・とも思う。

 そういう意味で、改めて新しいものを、新たな師について学んでみたいという気持ちも強い。

 ただし、会派・流儀を代えて空手道の稽古を継続するにしても、あるいは新たな他武術・武道で学びなおすにしても、その際の必須の条件は、翠月庵の継続であることは言うまでもない。


 いやいや・・・、ならば翠月庵の稽古回数をもっと増やして、平日もやる? というのも一理あるなあ・・・、などと、自問自答を繰りかえしている今日この頃である。


 いずれにしても、人生の時間は限られており、そして自分は、すでにその折り返し地点をとうに過ぎているであろうことは間違いないのだ・・・。


(了)
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