高遠の学-易を基盤に置いた高遠藩の武学-/(武術・武道)
- 2011/01/27(Thu) -
 昨日、取材のため長野県の旧高遠町(現伊那市)を訪れた。仕事は、春の観光シーズン向けの旅行雑誌の取材だったのだが、何しろ冬枯れのこの季節である。取材といっても、メインの写真は借り物であるし、比較的のんびりとした取材となった。

 地方の取材で時間が余った場合、私はできるだけその土地の図書館に行くようにしている。そこで今回は、伊那市立高遠町図書館に立ち寄った。

 館内に入ると、下駄箱の上の一角に、「高遠町図書館資料叢書」と銘打った、小冊子のシリーズが並んでいた。試みに何冊かのページをめくってみたところ、たいへん興味深いので、以下の4冊を購入した。

『信州高遠藩の武学-進徳館教育における文武両道の原点』
『中村元恒著 尚武論注解(改訂版)』
『高遠藩における易学研究-「高遠の学」の基本理念を求めて-』
『進徳館教育の原点 松田黄牛の易学-現代に生きる高遠の学-』

 いずれも著者は、岡部善治郎氏である。

 ここで語られる進徳館とは、藩政時代に高遠藩に設けられた、いわゆる藩校である。

 進徳館では、文武両道を標榜し、「武」については剣術は一刀流、柔術は荒木流や堤宝山流が指導されていたといい、砲術もたいへんに盛んであったという。一方で「文」に関しては、四書五経の中でも、特に『易経』に重きを置き、これに基づいた実践の学問を重んじていたそうな。

 武術に関してはいうまでもないが、私は個人的にここ数年、卜占と哲学の両面から『易』について学んでいることもあり、これらの冊子をたいへん興味深く読むことができた。

 いずれも、ワープロ印刷、手折りで、布テープで製本した素朴な小冊子だが、高遠の地に息づいていた武学の系譜を分かりやすく解説しており、非常に学ぶ点の多いものであった。


 思うに、われわれ現代の武術・武道人は、日々の武芸の鍛錬を、最終的には行動科学としての“武学”として受け止め、学び、深めていかなければならない。

 そのために、こうした古人の教えと学びの体系は、たいへん示唆的だ。

 ことに、江戸時代中期から幕末にかけて、各地で育まれたいわゆる藩学は、その地その地の風土や気質、編纂に携わった儒者・武人の思想を反映し、非常に個性的かつ独創的なものが多い。

 高遠藩・進徳館の教育は、四書五経の中でも最も難解な易経を根本に据え、しかもそれを形而上の学問ではなく、武人の行動指針となる実学として捉えたことに、大きな特徴があるといえよう。

 進徳館で指導された独自の学問体系は、「高遠の学」として、当時も今も、郷土の人々の誇りになっているという・・・。

 実学の思想としての易。それを基盤にした武学。

 たいへん示唆に富んだ思想体系に出会うことができたのも、何かの縁かもしれない。そういう意味で、もう少し「高遠の学」について、個人的に学んでみたいと思っている。

(了)
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武術・武道に求められる自律性~応援不要論/(武術・武道)
- 2011/01/21(Fri) -
 私の本業は職業記者なので、言葉に関しては、多少、人様よりも耳と目が敏感になっている。

 例えば、パソコンの変換で「いあい」と打つと「居合い」と出る。この「い」が許しがたい。居合は「居合」であり、「居合い」ではない。これは、断固として譲れない。大道芸の「居合い抜き」は、「居合い」でもいいが、武術・武道としての「居合」は、「居合」でなければならないのである。

 一方で言葉というのは、あまり真正面から正論を発すると、いささか気恥ずかしいという場合もある。

 だから私は時に、「剣術」や「居合・抜刀術」などと書かずに、「やっとう」と卑下して表現するわけだが、最近は「やっとう」という言葉を知らない人が少なくないので困る・・・。


 話し言葉でも、同様に、ちょっとしたこだわりがある。

 私の空手道の師であるT先生は、40歳近く年の離れた弟子である私に対し、入門したときから現在まで一貫して、「市村さん」と呼んでいる。他の社会人の門人に対しても同様である。

 「弟子とはいえ、またどんなに若くとも、社会人である相手に対して、呼び捨てなどはできない」というのが師の考えであり、それをすでに喜寿を過ぎた武道の大家である師が率先して実践していることに、大いなる武徳を感じるのである。

 だから、今は故あって門下を離れてしまった不肖の弟子である私だが、生きている限りT先生を見習って、自分が何歳になっても、他者へは年齢や性別に可かわらず、必ず「~さん」や「~君」との敬称をつけて接していきたいと思う。

 このように、書き言葉にしても、話し言葉にしても、言葉は言霊ともいわれるだけあって、実体を伴った力をもっている。

 そこで思い出すのは、7年ほど前の夏、空手道の試合である。


 その日は、夏の合宿の最終日であった。

 合宿の仕上げとして、ミニトーナメントが行われた。炎天下の体育館で、一試合3分、勝ち抜きの自由組手である。1回、2回、3回と勝ち進んで準決勝の4回戦。相手は、私とほぼ同時期に入門し、段位も実力も拮抗しているA君。

 ただ彼は、私よりも10歳ほど若い・・・。

 わたしはもう、正直体力の限界で、あっさり負けてしまおうと思っていた。なにしろ合宿最終日で、ただでさえ疲労はピーク。その上、30歳代半ばすぎの私が、真夏の炎天下の体育館で(もちろんエアコンなどは無い)、20歳代のいきのいい、しかし段位は同格の連中を相手に、3分フルセットの試合を3回こなしての、4回目戦目なのだ。

 すでに、立ってるだけで、やっとなのである・・・。

 「あ~、もう適当に蹴られて、負けよう」。試合前は、本気でそう思っていた。

 しかし、そこはそれ、しょせんは私も因果な武道人である。「はじめ」の号令を聞いた瞬間に、勝ちに行こうとするわけだ(笑)。

 これが武術・武道人の性(さが)というものである。

 とはいえ、なにしろもう、全身ががたがたである。足は上がらず、手は伸びず・・・。とこころが相手のA君も、全身疲労困憊らしく、彼の足も上がらず、手も伸びない。

 こうなるともう、空手の試合というよりは、互いにもつれ合うばかりで、相撲同然である。

 何度も審判に、「わかれ!」と言われ、そのたびに距離をとり、突きなり蹴りなりを入れようと思うのだが、体がまったく動かない。

 そんなとき、試合を見ていた若い同輩B君の、「市村さん! 中段だ! 逆突きだ~!」という限りなく絶叫に近い声援が聞こえた。

 条件反射のようにスイッチが入り、倒れる込むような中段逆突きが決まり、私はなんとかA君に勝つことができた。

 ただし、この試合で私は親指を骨折してしまい、決勝戦は不戦敗になってしまった。まあ、仮に出ていたとしても、スタミナが完全に切れていたので、秒殺されていただろうことは間違いない(笑)。


 通常、試合に出ていると、緊張感や意識の集中から、周りの声や声援は、あまり聞こえないものである。というか、聞こえてはいるのだろうが、脳に伝わらないので聞こえない気がしているのであろう。

 しかし、この試合の時のB君の声援のように、ここ一番という時に脳に到達し、しかもそれが勝利につながる声援を受けたという体験は、試合をしたことのある武術・武道人であれば、だれしも1度や2度はあるのではなかろうか?


 さてここからが本題なのだが、それでは武術や武道の試合に、応援というものが必要なのであろうか?

 私自身は今、「必要ない」と考えている。

 この考えは、私淑する武道家・野中日文師の著作『武道 ― 日本人の行動学』(創言社)によって、蒙を啓かれたものである。

 野中師は、著作の中でこう指摘する。

 -本来の武は、「周りは全て敵」という気位で稽古を積み重ねるべきものである。それかあらぬか、「応援がなければ勝てない」では、到底、「周りは全て敵」という厳しい武の現実に対応することはできないだろう(以上、市村の意訳)-

 市村おもえらく、試合はあくまで「試し合い」であり、勝たせていただく、あるいは全力を尽くしたが力およばず負けてしまうものである。そして勝っても負けても、そこで得たものを、明日の自分の武の糧にするのが、武術・武道における試合の最大の意義だ。

 だとすれば声援・応援の類は、試合をさせていただく相手に対しては、きわめて無礼な振る舞いであり、試合に望む自分にとっては鍛錬の邪魔であろう。

 試合における、声援・応援の力、ありがたみを十分に知っているだけになおさら、私はこうした厳しい自律性が、スポーツではない、武術・武道には求められているのではなかろうかと思う。

(了)


 

 
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手裏剣のよけ方/(手裏剣術)
- 2011/01/12(Wed) -
 本邦にある手裏剣術の流派・稽古会のうち、手裏剣の打ち方を教えてくれる所は数あれども、手裏剣のよけ方を教えてくれる道場は、翠月庵ぐらいしかあるまい!

 ・・・、たぶん(笑)。


 一般的に手裏剣術は、「アウトレンジから相手を攻撃する」ものと理解されがちである。

 確かに表面的には、そういうものだ。

 体術相手には一間以上、剣術相手には二間以上、槍術相手には三間以上の間合から打剣をすれば、相手をアウトレンジすることができると言われる。

 しかし実際のところ、模擬手裏剣を使って自由攻防をしてみれば、体術でも剣術でも、二~三間の間合を詰めるのことなど、ほんの一瞬である。

 「ならば四間から打てばいい」ということになるが、はっきり言えば、四間以上からの打剣は、割合簡単によけることができる。

 さらに言えば、三間でもかなりの確立で、手裏剣をよけることが可能だ。


 では、どうやって飛んでくる手裏剣をよけるのか?

 手裏剣をよける際には、飛んでくる手裏剣を見てはいけない。というか、そんなものを見ていたら、とてもじゃあないが、よけられない。

 飛んでくる手裏剣など見ないでいいので、打剣の際の相手の動き、起こりを見て、手裏剣の軌道を予測し、運足で二~三尺も体捌きをすれば、手裏剣は十分によけることができる。

 この時の注意点としては、相手の体の動きを注視しながら、動きの起こりをとらえ、できるだけ“手離れの瞬間”に体捌きすることである。

 では、相手の起こりをとらえるためには、どうすればよいか?

 相手の●●の部分の動きを注視することだ。この「●●」は・・・、口伝なので秘密である。

 また、体捌きの際の運足も、単に横に捌くのではなく、●●方向から●●方向へ、●足を●●していかなければならぬ。この「●●」は・・・、これまた口伝なので内緒である。

 知りたい人は、束脩を納めて翠月庵で指導を受けるように(笑)。 

 これらの口伝は、いずれもその昔、剣術と体術の口伝として旧師から伝えられたものだが、手裏剣術における対戦シミュレーション研究のほか、某伝統派手裏剣術の師範と模擬手裏剣で稽古させていただいた際に応用してみたところ、実際に有効であったことを、ここに明言しておく。


 さて、もう1つ、大事なこと。

 それは、ただ手裏剣をよけるだけでは、絶対にダメだということである!

 ここ大事だから、メモしておくように(笑)。

 避けながら、一気に、間合を詰めること。

 当たり前だが、その場に居着いていると、二打目、三打目が飛んでくる。

 また間合を詰める際には、上記口伝の2つ目の運足を必ず用いるべし!

 相手の初打をよけつつ、自分が体術なら体術の間合(一打必倒の間合)に、剣術や居合・抜刀術であれば剣の間合(一足一刀の間合)まで、一気に間合を詰めて、できれば相手に二打目を打たせないようにする。

 自分の間合まで一気に詰めることができれば、後は位で詰めるなり、実際に相手を斬るなり、突くなり、蹴るなり、打つなり、投げるなり、極めるなりすればよい。

 ただし、相手が掌剣術ができる場合は、この間合からも反撃されるので、油断しないこと。

 彼我の間合が三間程度であれば、相手の手裏剣を避けながら、一気に間合を詰めれば、手裏剣がこちらの顔面に当たらない限り、最悪でも相打ちで、相手を討ち取ることができるだろう。


 手裏剣が顔面に当たると、刺さらなくとも、どうしても動きが一瞬止まってしまう。重量剣はもとより、軽量剣や模擬手裏剣でさえもだ。ことほどさように、顔面という部位は弱い。

 では、顔面をカバーしつつ相手に肉迫するためにはどうしたらよいか?

 そのために、構えがあるのではないか!

 究極的に構えは、有構無構の境地にたどり着くとはいえ、それは名人・達人の話。われわれ凡俗の者は、まずは具体的な構えで、顔面を防御することである。


 なお、手裏剣をよける時に一番してはいけないのが、“刀などの武具で、手裏剣をはじいたり打ち落とそうとすること”である。

 これはほとんど無理だ。それが可能なのは、時代劇の殺陣だからである(笑)。


 以上、手裏剣術“と”戦う側の視点から、手裏剣術のよけ方=間合の攻防の要点を述べてみた。

 それでは、手裏剣術“で”戦う側の視点からは、どのような間合の攻防をするべきなのか?

 次回は、これについて述べようかと思う。

(了)

 
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2011年新春放談~二痴人の武芸よもやま話/(武術・武道)
- 2011/01/04(Tue) -
■ちょっと回想

「さて、ついに平成も23年、21世紀も丸10年が過ぎたということで、新年恒例の新春放談なわけだが、オレがいろいろ話を聞いてやろう。で、どうよ最近、市村センセイ」
「どうよ最近とざっくり聞かれても、なんとも答えようがねえじゃねえか。というか、お前に『センセイ』と呼ばれると、ちょっとイラッとするが、ま、いいだろう。具体的にカモーンだ」
「去年はあんまり、他流の武術ネタが少なかったじゃねえの」
「それはブログにも書いたけども、一昨年まではうちも新参者の武術団体ということで、気負った部分もあったわけだ。それが、会の形も安定してきたということで、わざわざよそ様をクサすよりも、粛々と稽古しようということになったわけ」
「ふ~ん。その気負った部分というのは具体的にはどういうことなのさ」
「まあ、あんまり細かいことを書くと、いろいろと波風が立つのでなんだがね。そもそもうちの稽古会の成り立ちそのものが、ちょっとしたいわくつきでさ。特に翠月庵になる前の段階での紆余曲折では、以前の代表者の関係で、複数の団体と滑った転んだがあったりさ。なにしろ開設からわずか2年間で、道場主が3人も代わったんだから」
「その3人目があんただと」
「そういうこと。そんなこんなで、一昨年くらいまでは、そういう因縁を引きずっているところがあったわけだけれども、昨年あたりから、ようやくうちはうちの独自の路線が決まってきて、それに伴って、定期的に稽古に来る会員さんも増えてきて、まあよそ様にとやかく言うよりも、自分らの稽古に忙しくなったというわけさ」
「なるほどね」


■武術徒然草その1~ちょっと上達している・・・かもしれない噂の「魔剣」(笑)

「とはいえ、あんたの毒のある他流批判が読みたいっていう人も、オレの周りには結構いるんだがねえ」
「そういう話は、N野S也さんに任せた!」
「たしかに。で、去年の武術界ネタはどうよ」
「そうさなあ~、って、結局、オレが語るのかい」
「語りたいくせに」
「む~ん、そうまで言うなら、ネタはいくつか無いでもないな。まず第一は、『魔剣』だな」
「おー! いきなり古代帝国軍の万師露観かよ」
「あんたも古いなあ。最近は、伯壬旭(はくじんきょく)と名のっとるらしい」
「でもさ、ザインの『魔剣』は、割合前からあるネタだろう」
「そう、オレのところにも2~3年前から『あれって何なんですか?』という問い合わせがあったりしたよ。で、あれは元セックス教団のカルトの新ネタですって、答えていたんだが」
「で、それがなぜ新しいネタなんだ。単なる模造刀を振り回すチャンバラ集団なんだろ」
「それがさ、2~3年前までは確かに、時代祭りの寸劇みたいなレベルのチャンバラ集団だったのがさ…、驚くなよ。最近、ちょっと上手くなってきてんだよ(笑)」
「上達している!?」
「あれは多分、他流を多少は稽古したような人が途中で入って、レベルの底上げをしたんだろうな。だから最近、なんとな~く、武術っぽくなってきてるんだよね。ちょっと見は(笑)」
「う~む、さすが銀河の悪魔戦争に勝ち抜いてきただけのことはあるな」
「数年前は、ぐるぐる集団で輪になって回りながら、でれ~っと刀を振り回していたのがさ、最近の動画を見ると、相手の正面斬りを添え手の太刀で受けて、入り身して鎬ですり込みながら喉突いたりしてるんだぜ」
「お~、ちょと本格っぽい」
「まあ、昔と違ってネットでも動画で他流の形や演武がいくらでも見られる時代だから。創作流儀でも、素養のある者がそれなりに一生懸命他流を研究して、時間をかけて稽古をすれば、それなりの業前になることも不可能ではないわけだ。また、創作流儀は問題でもなんでもない。うちだって、創作手裏剣術なんだから。そういう意味ではいいんだけども、なにしろあそこは、根本的に破壊的宗教カルトなことが問題なわけさ」
「半端に武術っぽくなっているだけに・・・」
「そう。だから武術・武道の知識のない素人さんが、誤ってはまっちゃうと、たいへんだなあということ」
「しかしオレは、個人的にはぜひ1度、鉄(くろがね)つるぎ様や白銀(しろがね)ひびき様のセクシー演武が見てみたい。でれば個人指導も・・・」
「そんじゃあオレは、手裏剣と差料に、軍師の気でも『チャージ』でもしてもらうかなあ・・・」
「いやまったく、カルトはコワイねえ(笑)」


■武術徒然草その2~カルト武道の剣術批判

「カルトといえば、やっぱり最近の注目度ナンバー1は、うわさのブログ『心に青雲』だろう」
「う~ん、あれは最近、空手界でも『あまりにひどい』と噂になっとるねえ」
「武術界だけではなく、疑似科学や偽医療などを厳しく批判している医師や科学関係者からも、『武道系電波ブログ』として名指しにされているくらいだからね」
「医者も怒っているんだ」
「怒っているというより、呆れているというのが実情だね。なんてったって、子宮頸がんが毛糸のパンツで予防できるとか、母乳で牛の遺伝子が赤ちゃんに遺伝するとか、エイズがユダヤの陰謀だとか、もう何から何まで電波ゆんゆんなんだもの」
「しかもそれが、空手の道場の師範だと・・・」
「子供の生徒さんとかいなければいいけどねえ。まさか、地域にある町道場の空手のセンセイが、標準医療全否定のユダヤ陰謀論者で、乳がん検診のためのマンモグラフィーは、がん患者を増やすための製薬会社=その背後のフリーメイソンの陰謀・・・、とか心の底から信じている人だとは思いもよらないだろうしな」
「そういえば、心に青雲センセイは、剣術にもケチつけてたみたいだな」
「剣術にもというか、あそこは会派自体が、昔から他流をクサして自流をアピールする傾向があるから。で、剣術批判も読んだけど、まあ、無茶苦茶だよね」
「留め太刀はありえないだっけ」
「そう、『本気で相手を殺す気で切り掛かった太刀は、途中で止められない』んだそうな・・・。んなこたあない!って、タモリに突っ込んでもらいたいわな(笑)」
「で、青雲センセイは剣術は?」
「さあ、分からないけど、少なくとも、あのブログを読む限りは、まともな稽古はしたことがないのだろうね。ただ、あそこは空手の会なのに、『我が流派の最高指導者』様が創作した独自の剣術とか居合があるらしいから」
「どんな居合や剣術なのよ」
「う~ん、オレも動画でみただけだからなんとも言えないけども・・・」
「言えないけども?」
「だって、留め太刀ができないんだぜ・・・」
「だよな・・・・」
「まあ、あそこはとにかく空手でも、『力んで、力いっぱい』が原則らしいし。表情まで、力まなきゃだめらしいからな(笑)」
「あと、『人が斬れる重量の刀を毎日振っていたら、鍼灸院に通わないかぎり続けられないと書いたでしょう。仮に10年練習したら、カタワになるんです。そのレベルの研鑽を50年続けたわが流派の最高指導者がおっしゃっているんですよ』ってのも爆笑だよな」
「そもそも、人が斬れる重量の刀ってなんだと? 重さ何グラムからが、人が斬れるのか、ぜひ聞いてみたいものだ。たぶん、浅く勝つとか、深く勝つとか、乗るとか、伝統的な剣術特有の勝口を知らないんだろうね、この人は。あと刀はすべて、がっちり打ち合うものだと思ってるんだろうな。だから軽い=重ねが厚くないと折れる=だから使えないとか思っちゃうわけだ。まあ、ようするに、剣術の理解レベルが横丁の時代劇ファン程度なんだよ、このセンセイは」
「それが、剣術家を全否定と」
「なにしろ青雲センセイに言わせると、黒田先生や大竹先生でさえも『ダメ』らしいからね。『我が流派の最高指導者』・・・つうか、ようはある種の世代の武術・武道家には有名な、かの南郷センセイにはかなわないらしい」
「まあ、自分とこの師匠を讃えるのは、この世界の常道だけども・・・、『我が流派の最高指導者』とかいうあたり、どこぞの国の主体思想のようなこうばしい香りが・・・」
「あの世代特有のね(笑)。さらに秀逸なのがこの一文。『真剣は片手で振り回せるものではない。とにかく重いのだ。だから、例えば袈裟切り、右上段から左下段へ斜めに斬り降ろすとして、このとき左足が前方に出た形で斬ると、空振りしたらまず自分の足を斬ってしまいかねない。重くて、途中で思った所で止めることができないのだ』だそうな・・・」
「左半身の袈裟斬りで、ひざを切っちゃう? どんなレベルだよ(笑)。つうかこれって、戦中の試し切りのエピソードかなんかだよな」
「つまり、そのレベルの空手屋さんが、上から目線で剣術を批判して語っちゃってるわけよ」
「なるほどねえ・・・。青雲センセイ、『古武道がなんぼのもんじゃい、と一言でかたづけられますけれど……』とブログで宣言しているんだよな」
「まあオレに言わせりゃあ、『空手風創作抜刀術もどきがなんぼものもんじゃい、と一言でかたづけられますけれど・・・』つうことだな(笑)」


■標準医療と偽医療、そして破壊的カルトになりかねない武術・武道集団の危険性

「それにつけても青雲センセイは、なにかと現代の医療を否定したがってるみたいな」
「なんでだろうねえ・・・。コンプレックスがあるんだろうな、医者とか科学者とかに。あと、これはくだんのセンセイだけではないけれども、武術・武道というのは体系として、根源的には養生術的な部分も含まれるから、偽医療や民間療法、代替医療といったものに対しては、じつは親和性が高いんだよ」
「玄米菜食とかやっている武術・武道人も少なくないもんな」
「でもさ、玄米が完全栄養食とかいうけど、ビタミン不足で不健康になっている人がいっぱいいるわけさ」
「ベジタリアンはだめってこと?」
「そうじゃあない。必要な栄養は、適切に摂るべきだってことさ。オレは代替医療や民間療法を全部否定するつもりはないんだよ。あくまでも現代の標準医療の補完としては、有効性がゼロだとは言わない。けれども問題は、日本における代替医療の本質が、標準医療の否定にあることなんだよね」
「補完ではなく、否定だと」
「そう。だから乳児に必要なビタミンkの投与を、典型的な偽医療であるホメオパシーに感化された助産師が、意図的にしないで、結果としてこどもが死んでしまったりするわけ」
「それって、ある種の幼児虐待だよな」
「そこなんだよ。代替医療による標準医療の否定は、結果として、医療ネグレクトにつながる! ここが大きな問題なのさ」
「でもさ、子供は親は選べないわけで、その親が、ホメオパシーや千島学説や、なんでも治る超ミネラル水なんかを信じていたら、子供はどうしようもないわな・・・」
「だからこそ、生きていくための教養の底上げとしての、義務教育の大切さがあるわけさ。それこそ総合的な学習の時間で、山本弘さんあたりを講師に呼んで、疑似科学や超能力、心霊現象や偽医療の嘘を解明する講演会を開催するぐらいの器量が、学校にはほしいよね」
「そういう親子のめぐり合わせっていうのは、武術・武道も同じだな」
「最初にどんな師、どんな流儀・会派について学ぶかで、その人の武術・武道人生のかなりの部分が決まるのは確かだよね」
「なにも知らずに、最初にかかわるのが魔剣や青雲センセイとかだった人は・・・」
「かわいそうだよな。魔剣や青雲センセイの問題は、武術・武道が上手いとか下手とかいうレベルではなくて、どちらもその言説や行動を見る限り、その独善性や排他性が、破壊的カルトに限りなく近いということなんだよ。だからこそ、その危険性を、こんな地味~なブログでもささやかに告発するのは、偽医療批判や疑似科学批判と同じ、社会的な使命のひとつだとオレは思っているし、だからこそ今回は、魔剣も『心に青雲』も、あえて伏字ではなく実名で話しているわけさ」
「それはあんたの本職である、医療記者としての使命感かね?」
「いや、それ以前に、武術と武道を愛するひとりの修行者としての節義だよ、社会に対する。武術や武道を愛するたくさんの人が、魔剣や青雲センセイの同類と思われては、たまったもんじゃあないからさ」
「たしかに、『生まれながらの病気や障害は、すべて親の生活習慣が原因』と断言するような武道のセンセイの所に、自分の子供を通わせたい親はいないわな」
「病気や障害の原因を、全て生活習慣に帰結させる青雲センセイのような偏った標準医療否定の思想は、結果として、優生学的な差別思想につながるのさ。そういう危険性をもつ人物が、武道の稽古で多少なりとも腕力をもってしまうこと自体、地域社会にとっては有益なことではないよね。ましてや『乳がん検診は、ユダヤの陰謀』とか本気で信じている狂信的な人物が、センセイと呼ばれて地域社会の中で他人を指導している・・・。これがもっとも恐ろしいことだよ」


■現代手裏剣術の潮流

「なんだか、ネタというより、深刻な話になっちまったねえ」
「まあ、そうはいっても、地域で活躍する武術・武道の指導者や稽古者の多くは、ごくまともな社会性を持った、良き市民であることがほとんどなんだから、そんなに深刻になることはないさ」
「だよな」
「中学校の授業での武道必修化でも、各界の先生方、指導者のみなさんが、地域ごとに工夫をこらして、武道の素晴らしさを子供たちに伝えようとがんばっているんだから」
「そういうところを、市村センセイも目指していると?」
「とんでもない。オレが言うのもなんだが、そもそも手裏剣術なんてものは、武芸十八般のひとつとはいっても、実際は、併習武芸、外之物なわけで、武術界のあだ花なんだよ。だからこそ、なにやら秘密めいていたり、無意味に実戦的に思えたり、忍者的だったりするわけ」
「そう、結局、”忍者”だもんなあ(笑)」
「けれども、あだ花だけに、うちのような新参の創作現代手裏剣術でも、なんらかの役割を果たすことができるわけだ。これが剣術や柔術だったら、400年の歴史で研究しつくされて、新たな発見をするような余地もないし、そんなすごい才能もオレにはないし。ところが手裏剣術の場合、あだ花でかかわる人も、昔から少ないだけに、オレたちのような新参者でも、研究し、創作すべきことがまだある。いや、あるのではないかと思っているわけさ」
「それが、あんたにとっては刀法併用手裏剣術だと」
「そういうことになるね。例えば、成瀬関次師は名著『手裏剣』の中で、剣術と手裏剣術の併用は、それぞれを稽古すれば良いだけなので、ことさら難しいことはない・・・、というようなことを書いている。ところが、実際に剣術や居合・抜刀術と手裏剣術を併用して稽古をしてみれば、それがどれだけ難しいことかが、身にしみて感じられるわけさ」
「技術的に?」
「もちろん技術的にも、心法的にも。手裏剣を打つ→抜刀して斬る、あるいは抜刀して斬る→手裏剣を打つ、どちうらの場合にも、まったく異なる運動原理を駆使しつつ、立体的な間合の攻防をしながら、位を作らねばならない。そういうレベルは、手裏剣だけ、やっとうだけの稽古では、絶対に達せないんだよ」
「1+1ではなく、1×1ということか」
「そう。だから、日本の手裏剣術稽古者で、剣術や居合・抜刀術と手裏剣術を併用した稽古を、きちんとやっている流儀・会派がどれくらいあるのか? ましてや斬りの稽古(試斬)も含めて実践しているところがどれくらいあるのか? ということだよ」
「それは、あんたのとこだけと?」
「おいおい、オレはそんなに傲慢じゃないって(笑)。個人の武術・武道家で、やっとうや体術と手裏剣術を組み合わせて稽古している人は、じつは結構いるだろうし、かなり高いレベルで実践されている人もいる。また根岸流には刀術組み込み形があるし、藤田西湖師のお弟子筋の方は刀法併用手裏剣術を稽古されてきた方がいるはずだしね。ただ、それが手裏剣術界では、マジョリティではないということさ」
「というわけで、やっとうと手裏剣をあわせた業を稽古したいなら、あんたのところに来いということで、落ちかい?」
「いやいや、これもどこかで書いたけれども、現状では、意図的に稽古会に参加する人を増やすつもりはないんだよ。もちろん、いまでも参加者は常時募集しているけどね」
「拡大路線ではないと」
「最近思うのは、正直、オレ自身が、果たして人様に手裏剣術を教えるような業前なのか疑問なのさ、マジで。今の会員さんたちには申し訳ないかもしれないけれども。冒頭の回想に戻るけれども、そもそもオレの場合、成り行きで移転した稽古会の代表を任されたことからはじまり、気が付けば二階に上がって階段をはずされたように、会が分裂して今の翠月庵を、ひとりで切り盛りしなければならなくなって、今に至るわけ。一方で手裏剣術の世界を見渡せば、オレは関西方面のことはあまり知らないけれども、例えば関東周辺だけでも、手裏剣術の流儀・会派・稽古会は意外にたくさんあるんだよ。古流では根岸流があるし、古流~現代の中間流派では明府真影流がある。現代流派では無冥流をはじめ、手裏剣普及協会や八角流も有名だよね。和伝流なんかも、去年は新聞記事になってたし」
「結構あるんだねえ」
「そういう中で、うちのような手裏剣界的にはぽっと出の若いのが、何すんの? ってことよ。そういう意味で、人増やしてとかいってる場合じゃあねえだろうと。今は、まずは自分の業前を上げること。そして現在、稽古に来てくれる会員のみなさんの技量を上げること。これで、正直、いっぱいいっぱいってところなのさ」
「あんたにしちゃあ、めずらしく殊勝なもの言いだねえ(笑)」
「本気さ。だって考えてみなよ。そもそも江戸時代からすでにあだ花だった手裏剣術なんてものがさ、いまこうやって多少なりとも稽古されて、武術・武道界でも多少は認知されているのは、先人たちの努力の賜物なわけよ。もっと具体的に言えば、ここ数年来のごくささやかな手裏剣術の認知と普及は、まず戦前からの根岸流のネームバリューがあって、その流れの先に、90年代の終わりから2000年代のはじめくらいに、武術稽古研究家の甲野さんが火をつけてたものでさ。そこから改めて手裏剣術界全体を大きく牽引したのは、まちがいなく明府真影流だよ。そういう意味で、現在の手裏剣術界に、明府の大塚現宗家が果たした役割は、圧倒的に大きい。一方でこの同時期に、明府が手裏剣術界のカードの表であるならば、現代手裏剣術である八角流と無冥流がある種カードの裏側として、いかにも手裏剣術らしい、ちょっとダークと言えるような武術的魅力を発揮し、武術・武道界の通人たちの評価をさらに高めてきた。これが2000年以降の関東の現代手裏剣術界の大筋の流れだと思う。一方で、こうした武術的手裏剣術の流れとは別に、忍者系の手裏剣術の系譜もある。初見さんのとことか、ある意味では手裏剣普及協会なんかも、こうした忍者系の手裏剣団体の流れと言えるかもしれないね」
「そして関西や九州方面にも、手裏剣術の流れがあると」
「オレは、あっちの方の事情はあまり知らないけどね。法典流とか十三棋道館とか、有名だよな。あと、ここ数年来の手裏剣界の流れに乗って、手裏剣術を前面に押し出したのは、西郷派大東流かな(笑)」
「あの、おっかなそうな重量剣ね」
「でもあそこは、本当に打って、抜刀して、斬って稽古しているのだから、その稽古に対する姿勢は評価できると思うよ。伝系の問題はさておきね」
「ただ、あそこも思想的にはだいぶ・・・」
「青雲センセイのところっぽいんだよな(笑)」


■まずは己の業前を・・・

「ただ、一時の手裏剣ブームも、ちょっと落ち着いたような感じかねえ」
「そうだねえ。つまるところ手裏剣術って、結局は地味~な武術だからなあ。基本は的に向かって、淡々と打つだけだし。形も組手も、競技も大会もないしね。やる人にとっては、カタルシスがないんだと思う。唯一あるとすれば、距離が伸びることと、演武くらいだから」
「しかも、難しい」
「そう。うちは無冥流の重心理論を基礎にしているから、入会初日から三間で打たせるし、だいたいひょろひょろの打剣だけど初日から1~2本は刺さるわけ。自分で言うのもなんだけれど、これは画期的なことなんだけれども、実際には武術として通用するような打剣を習得するには、やっぱり数年間はかかるわけさ。威力、スピード、距離はもちろん、これは他の手裏剣術家はほとんど指摘しないけれども、『先』や『拍子』、『間積もり』、『位』を学ばないと武術として役にたたないのだから。けれども既存の手裏剣術には、これらを学ぶためのメソッドがほとんどない」
「なんで?」
「そもそも、併習が前提だからさ。剣術や居合・抜刀術、柔術など、一通りできていることを前提に、手裏剣術がある。だから、位も先も、拍子も間積もりも、それらの剣術や柔術などの稽古を通して、習得できているのが前提なわけだ」
「ところが現代では、手裏剣をやる人は手裏剣の稽古しかやらないと」
「そうなると、的は走ったり、殴り返したり、よけたりしないから、ただ的に手裏剣を打つだけでは、先や拍子など、学べるわけがないんだよ」
「巻き藁しか斬らない、居合・抜刀術家と同じなわけだ」
「ご明察。やっぱり居合や抜刀術でもさ、撓で撃剣の稽古をしろとはいわないけれども、組太刀くらいはやらないと、先や拍子は学べないからね」
「じゃあ現代の手裏剣術家はどうすればいい?」
「剣術や剣道、居合や抜刀術、柔道・柔術、空手や拳法など、なんでもいいから対人攻防のある他流を併習すること! これにつきるよ。それができないのであれば、例えばうちのように、ごく基礎的・初歩的でいいから、なんらかの対人攻防の武術的稽古を導入すべきだ」
「じゃあ、模擬手裏剣で打ち合いをすればいいじゃん」
「いや、オレ個人は、今のところ、模擬手裏剣を使った打ちっこについては否定的な立場なんだ」
「なんで?」
「ただの雪合戦になっちゃう可能性が大だから」
「う~む」
「だったら独習でいいから、教本と木太刀を買ってきて、日本剣道形を稽古した方が、はるかに武術的な対人稽古になると思う。あるいは古流の形をビデオや動画で見て、真似てみてもいい。おそらく、模擬手裏剣の打ち合いは、当事者がかなり武術的に高度な視点をもって慎重に行わないと、必ず単なる雪合戦やドッチボールになってしまうだろうね。それはそれで、投擲武術としての印字打ちの稽古ならいいんだろうけれども、本来の立ち位置として剣術の裏芸であるべき手裏剣術の稽古としては、かなりきわどいものになるだろう」
「まあ、どんな武道でも、自由攻防はルールに規定されて、それに特化した形に変貌するのが宿命だからなあ」
「手裏剣の打ちっこは、それがより顕著になるんじゃないかな。だったら、剣術や体術を併行して学んで、先や拍子を学んだほうが、武術・武道的には、有意義だと思うんだよ」
「その辺りの構造も、手裏剣術は未完成かつ未成熟なんだな」
「だからこそ、オレのような手裏剣術界的には新参者の若造でも、新しく有意義な何かを切り開き、創造できるかもしれないんだよ」
「なるほどね。ま、ちょうどいい落ちだな」
「というわけで、今年はまず、自分自身と会員諸子のレベルアップ。翠月庵の目標は、これに尽きるということ」
「了解。ま、今年もがんばってちょうだいよ」
「そんじゃまあしめっつうことで、年頭に一句。『かくすればかくなるものと知りながら、已むに已まれぬ大和魂(吉田松陰)』」

(おしまい)

参考URL

■青雲センセイの妄言に対する、医師からのマトモな批判
「心に青雲」ステキ語録 - NATROMの日記
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20081011

母乳で伝わる遺伝子/南郷継正氏/空手道玄和会 - NATROMの日記
http://d.hatena.ne.jp/NATROM/20071009

■ザイン問題に関する、内部告発
ザイン帝國の真実
http://www.zynekiller.net/
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謹賀新年
- 2011/01/03(Mon) -
遅ればせながら・・・。

新年あけまして、おめでとうございます。
本年も翠月庵を、宜しくお願い申し上げます。


今年も怪我なく、清清しく、学びの深い稽古をして参ります。

翠月庵主 市村翠雨




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