離れを惜しまざること~知新流手裏剣術による打剣の考察/(手裏剣術)
- 2011/02/16(Wed) -
 知新流手裏剣術はすでに失伝してしまった流儀だが、その伝書は、藤田西湖著『手裏剣術』(名著刊行会)に掲載されており、われわれのような現代の手裏剣術者が気軽に参照できる貴重な資料である。

 以前、本ブログでもその意訳を試みたことがあるが、私自身、日常的に目を通すよう心がけている。

 同流目録の最初の記述は、「一 手裏剣離之事」となる。

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▲藤田西湖著『手裏剣術』(名著刊行会)に掲載の「知新流手裏剣目録」。第一に手離れについて
挙げられ、次いで手裏剣の重さ、長さ、手之内などの順に要点が記されている


 また印可伝書においても、「剣の上より立つ(首落ちする)は離れをおしむ故也 手離れをおしまぬ様に心得打つ事専一なり」ということが、たびたび強調されている。


 すでに何度も指摘していることだが、打剣の際の手離れの位置は、想像以上に早い。

 打刀の正面斬りのようなつもりで打剣して刺中するのは、せいぜい一間から一間半までである。

 今も昔も、ここで躓いてしまう稽古者が多いからこそ、目録の最初に、手離れの事を記したのであろう。


 そんなことに思いを寄せながら、伝書にしたがって知新流の打法で打ってみる。

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▲上から順に、香取神道流の剣(写し)、知新流の剣(写し)、当庵の翠月剣


 知新流の手裏剣術は、順体からの打剣である。

 これもまた以前、ブログで指摘しておいたが、現在の手裏剣術では、古流にせよ現代流派にせよ、逆体からの打剣が中心となる。

 しかし、日本の剣術や居合・抜刀術の理合を考えれば、逆体からの打剣というのは、かなり不自然なものであり、順体からの打剣の方が、より理にかなっていると言ってよい。

 この点で、知新流の打剣が、順体から行われるというのは、至極、理にかなっているといえよう。

 知新流では、右半身の構えから、右足をさらに二足長ほど踏み込んで打剣する。

 こうすると、真半身(一重身)にせよ半身にせよ、あるいは向身にしても、逆体に比べて腕の振りと体幹右側の軸が一致しやすく、腕の振りのぶれが少なくなるので、打剣が安定するのが分かる。

 おそらく、逆体よりも順体の方が、三間程度までの近い間合では、より打剣が容易なのではあるまいか。

 それではなぜ、現代の手裏剣術の多くが逆体を主体としているのか?

 これについては、もう少し、考察と研究が必要である。

 現時点で推察できることは、より遠距離を通すためには、逆体の方が、順体よりも有利であったろうということ。

 もう1つは、剣術や居合・抜刀術と併用する場合、順体からの打剣→抜付(送り足の運足)よりも、逆体からの打剣→抜付(歩み足の運足)の方が、剣術や居合・抜刀術の未熟な者には、より容易であろうということだ。

(了)

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「翠月剣」に関する告知と、製造・販売に関する翠月庵の見解/(手裏剣術)
- 2011/02/06(Sun) -
■「翠月剣」に関する告知と、製造・販売に関する翠月庵の見解


1 「翠月剣」とは何か


 「翠月剣」は、手裏剣術伝習所・翠月庵と無冥流が共同して開発し、翠月庵が稽古用に使用している手裏剣です。当庵では、切紙以上の教程で翠月剣を使用するため、初学の稽古教程を終了した会員が使用しています。

2 「翠月剣」の販売はしません

 「翠月剣」は、当庵で手裏剣術を稽古する人のために開発されたものです。このため、一般に販売することはありません。

3 「翠月剣」の制作を、部外者には認めません

 「翠月剣」は、当庵の切紙以上の会員が、稽古のために使用するものです。このため会員以外の部外者に、その制作や販売等の許可を与えることはありません。その旨は、「翠月剣」の制作・製造に関わる関係各位にも、重ねて申し伝えてあります。

4 翠月庵で使われていない手裏剣は、たとえ形や寸法が同じでも「翠月剣」ではありません

 「翠月剣」は、その寸法や形状などが、当庵や無明庵のホームページで公開されています。これらの情報を元に、同じような形状の手裏剣を個々人が制作するのは自由です。しかし、それらの剣は、あくまでも「翠月剣」ではなく、「翠月剣に似た剣」や「翠月剣の写し」です。
 なぜなら上記(1)で示したように、「翠月剣」とは当庵の稽古で使用される手裏剣の固有名詞であり、(2)や(3)で示したように、その制作や販売を部外者には認めていないからです。

5 「翠月剣に似た剣」や「翠月剣の写し」は、当庵とは一切無関係のものです

 今後、webや武道具店などで、「翠月剣に似た剣」や「翠月剣の写し」が公開されたり、場合によっては製造・販売されるようなことがあるかもしれません。しかし、それらは翠月庵が一切関知しないものであり、当庵とはまったく無関係のものです。

平成23年2月6日
手裏剣術伝習所 翠月庵
代表
市村翠雨 謹識
 


補遺

 かつて、振武館の黒田師範の所に、「ベロベロバー」といたずら電話じみた入門問い合わせがあったというのは、この世界ではわりあい有名な話である。

 武術・武道の世界に限らず、言葉や立ち居振る舞いなど、われわれがごくごく常識だと思っていることを逸脱したような人がいることには驚きを隠せない・・・。


(了)





 
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手裏剣の当て方/(手裏剣術)
- 2011/02/04(Fri) -
 「手裏剣の避け方」を書いた後、「次回は手裏剣の避け方を・・・」としてしばらく過ぎた。

 つらつらと思っていることはあるのだけれど、よくよく考えてみると、「手裏剣の避け方」というのは、ひとりのやっとう遣いとしての私の見方であるわけだが、こと「手裏剣の当て方」となると、手裏剣術伝習所・翠月庵の代表であり、手裏剣術を表看板にしている私・市村翠雨のレゾンデートルにも関わることであると、改めて実感してしまった。

 有り体に言えば、「手裏剣の当て方」というのは、戦術面での手裏剣術の極意であるわけで、そうそう簡単に公開するわけにもいかぬな、ということである(笑)。


 とはいえ「書きます・・・」と宣言してしまった手前、ひとつ言えることは、的と違って、相手は動くということである。さらには、相手は動いてこちらに攻撃を加えてくるということだ。

 このように、自由意志をもって動く相手に手裏剣を的確に当てるためには、「起こりを打つ」か、「尽きたるを打つ」かの、いずれかしかない。

 ことに、間合の対抗不能性を最大の武器とする手裏剣術においては、相手の「起こりを打つ」ことが、第一の眼目となる。

 一方で、根岸流の「蟹目の大事」に象徴されるように、武技としての手裏剣術の究極の極意が、生死一重の至近の間合からの、全身全霊の一打であるとすれば、それは形而下の距離的には、上記の「間合の対抗不能性」とはまったくの対極でありながら、本質的にはまったく同じ一打であり、しかも同様に相手の「起こりを打つ」ものとなるであろう。

 いずれにしても、「手裏剣の当て方」の眼目は、間合が遠かろうが、近かろうが、「相手の起こりを打つ」こと、これに尽きる。

 間違っても、相手の「尽きたるを打つ」=後の先を狙ってはならない。もしそうなれば、剣術者に斬りたてられて、追いつめられるのが関の山だ。

 では、手裏剣術者が剣術者の起こりを打つにはどうすれば良いのか? 

 目付けの初歩は、相手の両拳と腕のかがみ具合である。

 さらに根本の目付けは・・・、これは口伝だ。詳しくは、翠月庵での実伝で学んでいただきたい。

 もっとも、普通に武芸を嗜んでいるものであれば、ことさら指導されなくとも、「起こり」の打ち方は分かるであろう。その拍子を逃さずに打剣すれば、剣は間違いなく相手に的中する。

 これに加えて、実打と虚打を組み合わせることで、より実用的な手裏剣の当て方が可能になり、さらに刀法(剣術や居合・抜刀術)を組み合わせることで、その攻防は立体的なものとなるはずだ。

 なお、この刀法と手裏剣術の組み合わせは、実体としては二刀流と同質の武技となるのだが、これについては、稿を改めて述べることとする。

(了)
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