カルト化したエセ武道人の妄言に憤る/(武術・武道)
- 2011/04/26(Tue) -
 武道とは、武技の鍛錬を通して人格を陶冶するものだ。

 しかしそれはあくまでも理想であり、すべての茶道人が茶禅一味に通じていないのと同様、すべての武道人の人格が陶冶されているわけではない。

 むしろ、陶冶すべき人格があるからこそ、我々は日々、稽古に精進するのだ。


 これはなにも、「生徒」や「弟子」、「門弟」など、立場によって異なるものではなく、稽古場の代表だろうが教室の先生だろうが、さらには会派の長だろうが流儀の宗家だろうが、斯界にかかわるすべての者が、命尽きる日まで精進していかねばならぬ課題である。

 とはいえ仮にも指導者として、他人様に教えを説くような立場の者であれば、社会的常識の範囲内で、ある程度「よき社会人」としての人格が磨かれ、出来上がっていなければならない。

 だからこそ、どんな小さな道場でも、門弟が数人しかいないような稽古会でも、指導者は「先生」と呼ばれるのである。


 さて、ここに1人の空手道の指導者なる者がいる。

 最近の武道関係のネット界では、ちょっとした話題の人物だ。

 この御仁、『心に青雲』なるブログを書いているのだが、東日本大震災の後に次のような文章を記している。


-以下、引用-

 それは被災地の人間は必ずしも「文化人」ではないということである。ほとんどは大衆である。B層という言い方があるが、そういう教養の面で劣る人たちがほとんどなのだ。その人たちと関わることは、どうしても相互浸透を起こしやすいのである。だから、支援しつつも彼らとは一線を画して、深い会話などはしないよう気をつける必要がある。

 B層の大衆を指導するなら良いが、同情して「一緒にがんばりましょう」、と交流するのは考えものなのである。

 ゆきんこさんが、さっそくに「I love you & I need you ふくしま」をブログで推薦してきたことが、なにより大衆との相互浸透を起こしたことを物語っている。

 自分の人生を二流三流で終わらせていいのなら、こんなことを心配するには及ばない。三陸の一般大衆と精いっぱい交流したらいい。しかし、己の生きざまを一流にと志すのならダメである。

 被災地を支援するにも、一流の文化人として支援するにはどうあるべきかを考えなければいけない。安易に「人と人の心をつなぐ」などと妥協してはいけない。

   『心に青雲』「I love you & I need you ふくしま」を批判する(2011年4月25日)より
   http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou

-以上、引用終わり-


 このブログ記事のタイトルになっている、『I love you & I need you ふくしま』なる歌が、どんな歌なのか、それはどうでもいい。

 問題は、この筆者の異常に肥大化した前時代的な優性思想のごとき、ゆがんだモノの考え方である。

 このカラテの先生は、自らを「文化人」とし、被災地の多くの人々を「大衆」「B層」として、このような暴言を公に発信しているわけだ。

 では自ら文化人を標榜するこのカラテの先生は、文化人としてどの程度の教養をお持ちなのだろうか?

 以下は、この人物が自分のブログで発言してきた内容の抜粋である。

・世界の政治・経済はユダヤ人が牛耳っている。
・相対性理論は間違い。
・宇宙膨張説は間違い。
・真空は空ではない。エーテルに満ちている。
・地球以外に水は存在しない。なぜなら水は生命体が作ったからだ。
・乳児に粉ミルクを与えると乳児の脳に牛のDNAが入るからよくない。
・人工授精や帝王切開といった手段で生まれた子供には遺伝子に欠陥があり後に犯罪者になる。
・花粉症は気のせいだ。止める気合があれば止まる。
・東日本大震災は、地震兵器で引き起こされた。

 YAHOO知恵袋『弁証法はトンデモと親和性が高いのでしょうか? 』より一部抜粋し、市村が一部加筆。
 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1431006764

 ・・・。

 要するに陰謀論と疑似科学、ニセ医療にどっぷりはまっている、頭のおかしいヘンな人なのである。


 ま、日本は言論の自由のある国だ。

 頭のおかしい人が、根拠も整合性もない妄言を話そうが、書こうが、当人の自由である。それが公共性を損なわない限り、個人の自由は担保されるのが近代的な民主社会なのだから。

 しかしこのように完全に社会常識から逸脱した人物が、いやしくも武道人を名乗り、あまつさえ弟子をとって道場で空手道を指導しているということが問題なのだ。


 今回の大震災で被災し避難所生活を送っている方は、10万人を超えている。

 被災した方の中には、武術・武道関係者、あるいはその指導者や代表レベルの方々も少なくないであろう。皆さんは、この『心に青雲』ブログの一文を見て、同じ武道人としていったいどのように感じられるだろうか?


 私は、小なりとも稽古場の代表として会員に武芸を指南している者として、またかつて多少なりとも空手道の稽古をしてきた者としても、このような下劣で無知蒙昧な人間が、武道指導者であることが恥ずかしくてならない。


 400年にわたって受け継がれ、磨かれてきた日本武道の真髄は、殺人刀を活人剣にかえる行動科学としての、厳しく自律的な思想にある。

 それを陳腐なカルト的弁証法なるものでこねくり回し、武道人に最低限必須な『惻隠の情』すら失い、今まさに傷んでいる人々にドヤ顔で無神経な言葉を投げつけるこの人物。


 もし、何も知らずにこのような輩が主催する道場の門をたたき、指導を受けることになる人がいるとすれば、日本武道という同じ世界の数歩先を歩む者として、私はたいへん申し訳なく思う。

 そしてまた他山の石として、このような愚かな武術・武道人を育ててはならないと心から思う次第である。

 なぜなら社会にとって有害な弟子を育てた責任は、その師にあるのだから。
 
(了)
スポンサーサイト
この記事のURL | 武術・武道 | ▲ top
春の特別交流稽古/(手裏剣術)
- 2011/04/24(Sun) -
 昨日は、以前から個人的にご厚誼をいただいているA先生が、翠月庵にご来訪くださった。

 空手道と古武道、そして手裏剣術を修められている先生とは、すでに数年に渡り書簡等のやり取りにてご指導・ご教授をいただいてきたものの、直接お会いするのは今日が初めてである。

 初めてお会いしたA先生は、空手人らしい引き締まった体躯のイメージどおりの武人であった。



 稽古場に移動後、まずは当庵の打剣技術の根幹である重心理論を、長剣を使って解説させていただいた。

 その後、順・逆・歩の基本的な打剣、脇差を手裏剣に打つ飛刀術、刀法併用手裏剣術など、翠月庵で稽古している業の数々を紹介・披露させていただいた。


 一方でA先生からは、古流の居合などについて演武とご解説をいただくことができ、貴重な学びの機会をいただくことができた。

 また打剣については、先生は主に軽量剣を修練されているということで、左右の手を使った俊敏な打剣を拝見させていただいた。



 今回、当庵会員のYさんには、A先生に披露させていただいた初級剣術(翠月庵の型)で仕太刀をとってもらい、私が打太刀をとった。

 Yさんにとっては、他流の先生の前での初めての演武であったが、おおむねいつもの稽古の通り、のびのびと技を遣うことができたのではないかと思う。

 我々の稽古する手裏剣術は、競技で腕を磨くことがない。

 それだけに、気を抜けば稽古が惰性に走ってしまう。

 だからこそ真剣勝負のひとつの形態としての「演武」には、私自身も含め翠月庵として、これから少しずつ取り組んでいかなければならない課題だと思っている。

 刺さるか刺さらないかが一目瞭然であり、はったりやごまかしがまったく通用しないのが手裏剣術である。

 おまけに見る側は、必ず百発百中だと思っているから困る(笑)。

 それだけに剣術や居合・抜刀術、体術などとくらべても、演武のプレッシャーが並ではないのが手裏剣術の特徴だといえるだろう。

 けれども、人前での打剣である程度の成果も示せないようでは、とうてい生死をやり取りする武芸として通用しないのは言うまでもない。

 まだまだ我々の、稽古の道のりは遠い。



 今回、貴重な時間を割いてご来訪くださったA先生には、当庵会員ともども改めてお礼申し上げます。

 ありがとうございました。

 手裏剣術伝習所 翠月庵
 市村翠雨 謹識
この記事のURL | 手裏剣術 | ▲ top
穀雨夜話/(身辺雑記)
- 2011/04/20(Wed) -
 穀雨。

 春の柔らかい雨が大地に染み、芽吹きの時を迎える時期。

 しかしその雨に、いまのところ無害なレベルとはいえ、本来あるべき量以上の見えない何かが含まれているかと思うと、素直に春の雨を喜ぶこともできない。


 3.11以降、ある意味でまったく変わってしまった世界、否、変わらねばならないことを突きつけられた世界の中で、思うことはいろいろとあるのだが、一方でそれは言い尽くされてもいるわけで、私のような市井の武辺者がとやかくいうことでもあるまいとも思う。

 1つだけ言える事は、武力を制御できない者に武技を授けてはならないのと同じように、制御できない力を我々は弄び、依存しすぎてきたという事実であろう。


               *  *  *  *  *  *  *  * 

 翠月剣を使った打剣。

 ここしばらくは、従来の逆体に加え、知新流系の順体送り足での打剣、真鋭流系の順体歩み足での打剣、以上3種の、順・逆・歩、それぞれの打ち方で、3間尺的に、比較的良好な打剣をコンスタントに実現できるようになってきた。

 手裏剣術が武芸である以上、定置での打剣はあくまでも基本でしかなく(ゆえに重要であるのだが)、実際に運足を用いながら、的確な打剣をコンスタントに実現できねばならない。

 運足を用いない手裏剣術は、型を放棄した据物斬りとまったく同じである。

             *  *  *  *   *  *  *  *  

 どのような技芸にしろ、おもてにあらわれる基本の動作は単純なものである。

 だが、ちから充ちて、技が熟すにしたがい、これらの動作の反復をさぐればさぐるほど深さに切りがなくなる。

 矢を放って的を射るという一事に、人間の精神と肉体の高揚が無限に発揮されねばならぬ。

 それを追いもとめることへの情熱は、他のどのような仕業にもあてはまることだといえよう。

                                            (池波正太郎)



 
この記事のURL | 身辺雑記 | ▲ top
春の憂い/(身辺雑記)
- 2011/04/01(Fri) -
 新年度である。

 まあ別に年度がかわったからといって、何がどうということはない。

 一方でこの季節は、出会いと別れの時期でもある。

 そんな日には、秋水の腕を磨くよりも、詩でもつぶやきながら一献かたむけているのがいい。



邯鄲少年行 (高適・作)

邯鄲城南遊俠子    邯鄲城南 遊侠の子
自矜生長邯鄲裏    自ら矜る 邯鄲の裏に生長するを
千場縱博家仍富    千場 博を縦にして家仍ほ富み
幾度報讐身不死    幾度か讐に報ひて 身死せず
宅中歌笑日紛紛    宅中の歌笑 日に紛紛
門外車馬常如雲    門外の車馬 常に雲の如し
未知肝膽向誰是    未だ知らず 肝胆 誰に向かって是なるかを
令人却憶平原君    人をして却って 平原君を憶はしむ
君不見今人交態薄  君見ずや 今人 交態薄く
黄金用盡還疎索    黄金用い尽くさば 還た疎索たるを
以茲感嘆辞舊遊    茲を以て感嘆して 旧遊を辞し
更於時事無所求    更に時事に於て 求むる所無し
且與少年飲美酒    且らく少年と美酒を飲み
往來射猟西山頭    往来射猟せん 西山の頭


  邯鄲の町の南で育った男伊達
  自慢は生まれも育ちも、下町であること
  博打場を渡り歩いても、負け知らず
  何度か義のために殺し合いもしたが、こうして生きている
  家ではいつも酒盛りで、歌声にあふれ
  門は友の馬や車でいっぱいだ
  しかしそのなかに、本当に腹を割って話せる相手は
  ひとりでもいるのだろうか?
  そんな気持ちで、義侠で名高い平原君に思いを致す
  結局、今の世は人の交わりは薄っぺらで
  金の切れ目が縁の切れ目
  そう考えるとうんざりして、何もかも捨てて
  世俗に求めるものはなにもない
  ただ若い連中と、うまい酒を飲み、
  西山のほとりで狩りでもしながら、気ままに生きていくか


 人の営みはどうであれ、季節はめぐり時は過ぎてゆく・・・。

(了)
この記事のURL | 身辺雑記 | ▲ top
| メイン |