飛刀術の間合/(手裏剣術)
- 2011/05/25(Wed) -
 脇差や打刀を手裏剣に打つ飛刀術。
 
 ここでも一般的な手裏剣術同様、間積りの大事がある。

 飛刀術が、その対抗不能性を最も発揮する間合は、一間半~二間半の合間である。

 間合が三間になると、斬りの手の内のままでの打剣が難しくなり、速度の関係で相手に見切られたり、打ち落とされやすくなってしまう。一方で、一間半未満の間合では、そもそも刀を手裏剣に打つ必然性がない。

 一足一刀の間合よりも遠く、しかも斬撃と同じ手の内で見切られずに打てる間合。

 これが飛刀術における一間半~二間半という間合なのである。



  ▲距離二間(約3.6m)、八相の構えから、脇差を手裏剣に打つ


 ところで、古流の剣術や居合・抜刀術を稽古している人の中には、飛刀術を見て「意外に簡単にできるのではないか?」と感じる人も少なくないようだ。

 ところが実際に、二間ほどの距離から脇差や打刀を手裏剣に打ってもらうと、切先が首落ちしてしまい、想像以上に難しいことに驚くようである。

 古流の剣術などには、打刀や脇差を手裏剣に打つ型が見られる。また、見た目は単なる脇差や小太刀による受け返しだが、実は口伝で「手裏剣に打て」と教わる型などもある。

 こうしたこともあり、飛刀術については、割合、簡単にできると考えられがちなようだ。

 たしかに、実際のところ一間以内であれば、剣術や居合・抜刀術の素養がある人なら、脇差を直打で刺すことは比較的容易だ。

 しかし、一間程度の間合では、そもそも刀を投擲する意味がないのである。

 相手が、「まだこの間合であれば、敵(我)の切先が届かない」と思っている間合から打つからこそ、飛刀という業が対抗不能性を持つのである。

 一方で、三間も間合が離れていると、まともな稽古を積んだ者であれば、飛んでくる脇差などは、かなりの確立で避けたり、打ち落とすことができる。

 だからこそ、飛刀術がその有効性を発揮するのは、一足一刀の間合よりも遠く、三間よりも近い、一間半~二間半の間合なのである。



 飛刀術の稽古では二間から稽古をしてもらうが、ほとんどの人が、最初はまったく刺さらない。特に、剣術や居合・抜刀術の素養がある人ほど、一間以上離れると一段と刺さらないのである。

 理由は簡単で、斬撃のつもりで打つと手離れが遅くなるため、刀が回ってしまう(首落ちする)のだ。そこで、早い手離れを学ぶための稽古と、手の内の口伝が必要になってくるというわけだ。


 つまり飛刀術の稽古では、

 飛刀術は距離一間ではとても簡単だが、その間合では武術的な意味がない。

 一方で距離三間では、比較的容易に避けられ、あるいは打ち落とされてしまう。

 ゆえに、飛刀術が対抗不能性を十分発揮するのは、一間半から二間半の間合である。

 しかし、この間合で脇差や打刀を的確に手裏剣に打つには、口伝に基づいた稽古が欠かせない。


 という点を、十分理解しておかなければならない。

(了)

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先達の箴言/(武術・武道)
- 2011/05/18(Wed) -
 合気道家の野中日文師範は、『武道-日本人の行動学』(創言社)や『武道の礼儀作法』(どう出版)などの著者として知られている。

 私は師範とはお会いしたことも、一面識もないのだが、上記2つの著作は己の武術・武道人生後半にたいへん大きな影響を与えてくれ、座右の書となった。

 以来、私は勝手に私淑している。


 過日、野中師のブログ(http://nonaka.kuroki.mods.jp/)のコラムに書かれていた、下記の一文がしみじみと良かったので引用したい。


-以下、引用-

 こわいことや、あぶないことは、してはいけません

 小学校の子供たちに、勝負のしかたを教えておきます あぶないことや、こわいことは、してはいけません 合気道をはじめた植芝先生は、「戦ってから勝つのではない まず勝ってから戦うのじゃ」と教えました

 「こわい」のは、よわいのではなく、あたまがいいということです こわいことがわからないのは、強いのではなくてバカということです

 バカではケンカには勝てません なぐって勝つよりも、なぐりも蹴りもせずに、言葉で勝つのが頭のいい子です 言葉でケンカするよりも、ナカヨシになってしまうのが、もっとあたまのいい子です 人をなぐったり、けったりする事しか知らないのが、本物のバカです よわい子をいじめるのは卑怯者 走ったり跳んだりすることはウマやカエルにまかせて、本を読みましょうね

『野中日文の垂直思考/コラム(行動文化48「想定外」より)』

-以上、引用終わり-

 
 野中師の言葉は、

「夫れ兵は不祥の器にして、天道は之を悪む。巳むを得ずして之を用うるは、是れ天道なり」(『三略』)

 という、武の本質を踏まえた上での、たいへん味わい深い武道行動学だ。


 我々はいつの世も、天道に恥じぬ武人でありたい。

(了)
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ある武友への手紙
- 2011/05/07(Sat) -
A大兄


 お手紙、拝読しました。

 それにしても、懲りないというか、なんというかですね(苦笑)。

 「彼らは、そもそもコミュニケーション障害者同士。いずれ揉めるでしょうから、そう長くは続かないでしょう」

 とのこと。

 私もそのように思います。

 しょせんは邪悪な意図で引き寄せられた者同士でしょうから、いずれ自滅することでしょう。


 それにつけても思うのは、我々、武術・武道人のかかえる自己顕示欲と執着という問題です。

 私は普段から、できるだけ武術家や武道家らしく見られないよう、気取られないように心がけています。

 いわゆる「武張らない」ことが、兵法の第一歩だと考えるからです。

 武張らずに、相手を油断させることは、兵法における対抗不能性のひとつですから。

 私は平素、和服で過ごしていますが、「武道関係の方ですか?」と言われることは、ほとんどありません。

 最も頻繁に言われるのが、「日本舞踊の先生ですか?」との言葉です。

 これは、「武張らない」ことを第一に考えている武術・武道人としては、最高にうれしいほめ言葉です。


 それでも時折、知らず知らずのうちに、自分の強さを誇示するような言動や態度をとることがあり、われながら「未熟だ」と唇を噛む事しきりです。

 そういう意味で、エセ武術家の自己顕示欲や、武器マニアの武具に対する執着心は、私を含めた武術・武道関係者、だれもが陥る可能性のある“魔境”のひとつではないかと、しみじみ思います。

 強がりや執着は、結果として心=身体をその場に固着させる「居着き」を生み出します。

 そして「居着き」は、己の業を殺すものです。

 自戒せねばなりませんね。

 市村 拝
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