現実的な間合とメンタルの影響/(手裏剣術)
- 2011/07/31(Sun) -
 過日、某ケーブルテレビの番組で、ナイフ・スローイングを見た。

 射撃自慢の参加者たちを、毎回さまざまな課題で競わせるというアメリカの番組で、その回の課題がスローイングナイフだったのである。

 興味深いなと思ったのは、まず距離。

 競技では、的までの距離を3.4メートルとしていた。約二間である。

 以前、ロシアの特殊部隊の教本を読んだときにも、スローイングナイフの有効な距離は3~4mという記述があったけれども、やはりこうした投擲武器の実用的な間合いは、洋の東西を問わず、おおむね二~二間半ということなのであろう。

 番組で使用していたのは、ボウイナイフ型の結構大型のもので、ぱっと見で25~30センチほど。投擲専用のため、ハンドルなどはない一枚板タイプであった。

 教官役の専門家は、これを順手持ちの回転打(1回転)で刺すよう指導していた。

 
 もうひとつ興味深かったのは、練習と本番の違いである。

 番組では、まず事前に専門家の指導のもと練習を行い、その後で本番という進行であった。

 アメリカの番組なので、参加者は特殊部隊の隊員から、射撃のチャンピオンなどさまざま。ナイフ・スローについては、全員の参加者が未経験である。

 その上で、練習の際には、Aという軍人はほとんど百発百中であり、一方で射撃のチャンピオンの民間人のBはまったく刺さらなかった。

 ところが本番になると、Aはほとんど的に刺すことができず、逆にBはほぼ百発百中で、チームを勝利に導いていたのである。

 編集されたテレビ番組なので、練習から本番の間に、Bが必死で練習したのかもしれないが、あまりにも対照的な結果に、思わずうなってしまった次第である。


 昔から、稽古ではやたらと強いが、試合になるとからきしだめだとか、あるいは稽古や道場の試合では腕前はさっぱりだが、本物の斬り合いでは無類の強さを誇った・・・、などという話しは幕末の剣客・結城無二三をはじめ枚挙の暇もない。

 メンタル面の要因が結果に影響するのは、何も武術・武道に限ったことではないけれど、ことに手裏剣術やスローイング・ナイフ、試物などでは、その結果が誰が見てもあきらかな分だけ、メンタル面のプレッシャーが大きく、影響を受けやすいものである。

 こうした「ごまかしの利かなさ」が、手裏剣術の稽古や演武の最も厳しい面のひとつなのだ。

 だからこそ、相も変わらず巷にあふれている、気で倒したり、触れるだけで相手を制すなどという、うさんくさい演武など見ると、おもわず微笑ましくなってしまうのである。

 ぬるい演武で、いいなあと・・・(笑)。

(了)
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前か後ろか?(武術・武道)
- 2011/07/18(Mon) -
 最近、とある大人の事情から、某大河時代小説を読んでいる。

 ベストセラーとして、千数百万部を突破しているこの小説。

 確かに面白い!


 このシリーズを読めと命じてきた某社の担当者は、

 「市村さんのように、本当に武芸の指導や稽古をしている方からすると、チャンバラのシーンとか、物足りないかもしれませんよ・・・」

 と言っていた。

 がしかし、それは見当違いというもの。

 小説にせよ映画やTVドラマにせよ、フィクションにおける闘争(アクション)というものは、デフォルメあるいは省略があって何ぼであり、武芸としてのリアリティを追求しすぎると、むしろつまらなくなるものである。

 考えてみれば、実際のやっとう遣い、手裏剣術屋としてまじめに時代劇の映画やテレビ、小説などを見て(読んで)、アヤをつけようと思えば枚挙の暇もないのは、いまさら言うまでもない。

 なんてったって時代劇で、鯉口を切ると「カチッ」っと音がしたりするんだから(笑)。


 そんなこんなで、ここ1ヶ月以上、その某シリーズを読みまくっている。

 読後感を述べれば、だてにベストセラーではなく、変転するストーリーと魅力的なキャラクター造形、そして物語に彩りを添える江戸の風情が、読み手を次第に引き込んでいく。

 立ち回りのシーンも、初期の巻の描写はセンテンスが長く、いささか緊張感に欠けるものだったが、次第に切れ味の良い文体となり、中盤の巻以降は申し分はない。

 武術的な考証面では、初期は実在の流儀の名前の読み(振り仮名)が間違っていたり、斬り合いの表現が現代剣道的な認識で描かれているなど、いささか物足りないものだった。しかしこれもまた、シリーズ中盤からしっかりとした編集者が付いたのか、剣術の型の描写や伝書の解説など、フィクションとしては、まずまずのものになっている。

 しかし・・・。

 1点だけどうも、違和感のある描写がある。

 作中、主人公が門弟に剣術の稽古をつけたり、立会いをするシーンが多々ある。

 その際、竹刀で胴を打たれた相手が、後ろや横ざまに二間も三間も吹っ飛ぶのである・・・。

 あるいは木太刀で胴を打たれた相手が、同様に二間も三間も吹っ飛ぶのだ。

 木太刀にせよ、竹刀にせよ、あるいは中段回し蹴りのような体術の当身にしても、胴(わき腹、あるいは水月など胴体前部)を打たれた相手は、絶対に後方へ吹っ飛んだりはしない。

 必ず前に屈み込むように倒れるものだ。

 面を打たれても同様である。

 脳天部はもとより前額分や側頭部を打たれると、その場に崩れ落ちるものである。

 人間は、生理的な反射として、顔面にしろ胴体部にせよ、痛みを伴う衝撃をうけると、反射的に前かがみに体を丸めてしまうものなのである。

 ゆえに余談ながら、相手の顔面に手裏剣を打った場合、それが命中したならば(刺さっても、刺さらなくても)、相手は必ず前かがみにしゃがみこもうとするということは、武術としての手裏剣術を志しているひとかどの手裏剣術者であれば、必ず覚えておかねばならない常識である。

 さて、相手を後方にふっとばすような打突は、防具を装着した状態での打ち合いにおける、喉や胸への突きであろう。

 あるいは、体当たりのような力積の大きな打撃の場合も、相手は後方や側方に大きく吹っ飛ぶ。


 いずれにしても、竹刀や木太刀による胴や面、首筋への袈裟斬りなどでは、相手が二間も三間も吹っ飛ばされることは絶対にないのだから、文章上で描写をするなら、

 「木太刀で胴を抜かれた相手は、ひと呼吸おいた後、前かがみに足元へ崩れ落ちた・・・」

 くらいの表現にしてもらいたいものである。


 とまあ結局は、フィクションの表現にケチをつけてしまうのは、武術・武道人の悪いクセだ(笑)。

 とりあえず、いいかげん“みね打ち”はやめた方がいいと思う・・・。

 そういう時は“浅く”勝たないと、大事な差料が折れてしまいますゾ。


(了)
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伝説なき時代/(武術・武道)
- 2011/07/07(Thu) -
 文豪・三島由紀夫の剣の腕前が、どれだけ未熟だったかというのは、以前このブログでも、またとある公刊の書籍でも執筆した。

 そして過日、こんな動画を見つけてしまった・・・。




 文学者としての三島について、私は特に語る言葉は持たない。世界的文豪の三島に、無名の売文家である私が意見するなど、100万年と4日早いというものだ。

 しかし、この動画が撮影されたのが何年なのかは定かではでないが、この程度の業前で「剣の道」や「武士道」を語られても、「困ったもんだな・・・」とは断言できる。

 映像記録とは、おそろしいものだ。


 同じように過日、とあるたいへん高名な某氏の演武を拝見する機会があった。

 大人の事情で詳しくは記さないけれども・・・。

 いくらなんでも、あれはまずいのではなかろうか。

 上手いとか下手とか、あえて論評はしないけれど、三島と剣のエピソードを、改めて思い出した次第。



 大切なのは、日々の地道な精進であると、しみじみ実感することしきりである。

 そしてまた、マスコミの評判を鵜呑みにしてはいけません。

 南無八幡大菩薩。

 (了)
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