左太刀なら,浅く勝ったほうがいいんじゃね?/(武術・武道)
- 2011/09/23(Fri) -
どういう訳か,おとといと昨日,このブログのアクセスが,急激に上がっている・・・?

さて,なんかあったのかネ.



ここ最近,生業が多忙で,疲労困憊.肩とか背中とかガチガチである.

歳はとりたくないものだ.



とりあえず10月に,某有名時代小説の特集本が発行決定.

私は,物語と現実上それぞれの,江戸名所&名場面めぐりの原稿を執筆.

詳細は,後日あらためて.

で磐音どんは,いつ江戸に帰ってくるのだ・・・.



最近,思ったこと.

左太刀をやるなら,せめてそれで試物くらい斬れなければ・・・.

ま,浅く勝つことだけが目的ならいいんだけれども.

(了)

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BGM付き演武/(武術・武道)
- 2011/09/17(Sat) -
 最近、武術・武道の演武の際、BGM(バックグランドミュージック)を流す人たちがいる。

 琴の六段とか尺八なんかの純和風のものから、時代劇映画のサントラ風のもの、モダンジャズやら前衛音楽まで、音楽の種類も様々だ。 

 こうした演武の演出について、個人的な感想をいえば、

 「ふっ、くだらん・・・」(中田譲治風に)

 としか言いようがない。



 私がはじめて、BGM付の演武を実際に肉眼で見たのは、もうずいぶんと前、とある大会で行われた、某伝統派空手道の有名師範による招待演武であった。

 この先生は、業前はもちろん、地位も名誉もあるたいへん立派な先生なのだけれど、BGM付の演武を見たときには、なんだか奇妙な違和感を感じてしまい、がっかりした記憶がある。


 そもそもなぜ、演武にBGMが必要なのか?

 推測するに、見る側の人への、サービスなのであろう。

 しかし、興行やショーではない武芸の演武に、なにゆえ見る側へのサービスが必要なのであろうか。

 だいたい武芸の演武などというものは、見たくない人は見なくていいものであり、行ずる側が見る側におもねる必要はまったくないものなのだ。

 いわば、「拝見させていただく」のが武芸の演武であり、観衆の側が「見てあげている」という興業やショービジネス、時代祭りの寸劇のスタンスとは、まったく対照的なものなのである。

 ゆえに私はBGM付の武術・武道の演武を見ると、「ああこの人(団体)は、見る人たちに媚を売っているのだなあ・・・」と感じるのである。

 当然ながら、武術・武道を通して、「有名になりたい」、「弟子を増やして金持ちになりたい」、「社会に対するルサンチマンを解消したい」、などという目的を持った人・団体であれば、それらの目的達成のためには、金づる、あるいは自分および自分の団体を崇め奉ってくれる自己満足充足機能としての門人・会員・ファン・信者の存在が必須であろうから、BGM付演武をはじめとするさまざまな演出で、見る側の興味を呼び起こすことは、重要な手段の一つなのであろう。

 一方で、武術・武道を通して、「(肉体的・精神的に)強くなりたい」、「上達したい」、「武芸の事理を探求したい」、「人格を陶冶したい」、「まあ、なんでもいいけど稽古しているのが楽しい」などという目的を持った人・団体であれば、それらの目的達成には、金づる、あるいは自分および自分の団体を崇め奉ってくれる自己満足充足機能としての門人・会員・ファン・信者の存在は無用なので、BGM付演武をはじめとするさまざまな演出で、見る側の興味を呼び起こすことは、まったく不必要なのである。

 ということで、私はBGM付演武を見ると、

「ああ、この人たちは、武術・武道を通して、『有名になりたい』、『弟子を増やして金持ちになりたい』、『社会に対するルサンチマンを解消したい』、などという目的を持った人・団体なのかもしれないなあ・・・」

 と、思ってしまうこともある(笑)。


 一方で、

 「いやべつに、自分は武術・武道を通して、『有名になりたい』、『弟子を増やして金持ちになりたい』、『社会に対するルサンチマンを解消したい』、などという目的を持っているから、演武の際にBGMを流して、観客の歓心を集めているのではない。BGMがあった方が、演武がしやすい(あるいは楽しい)のだ」

 という人もいるかもしれない。

 この場合、たとえば「音楽があると演武がしやすい」という理由に対して思うのは、「業(型)固有の拍子というものを、どう考えているのだろうか?」ということである。

 理合に基づいた、それぞれ固有の拍子の位を持つ業を行ずる際に、BGMは邪魔なだけである。

 一方で、「音楽があった方が、演武が楽しい」という人には・・・、

 ま、楽しんでください、

 と、言うしかない。


 そんなわけで、私自身は、演武にBGMを流すようなこっぱずかしいことだけは、絶対に死ぬまでやらないぞと、心に誓っている。


 それでもどうしても、演武の際にBGMを流さなければならないとしたら・・・、

 しかたあるまい、こんなんかね。




 まあ、こんなBGMが流れたら演武なんて野暮なことはやめて、向島あたりで座敷にきれいどころを揚げて、一杯やりてえもんだ(笑)。

 
(了)
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月に吠える/(手裏剣術)
- 2011/09/13(Tue) -
~月に吠える、それは正しく君の悲しい心である。冬になつて私のところの白い小犬もいよいよ吠える。昼のうちは空に一羽の雀が啼いても吠える。夜はなほさらきらきらと霜が下りる。霜の下りる声まで嗅ぎ知つて吠える。天を仰ぎ、真実に地面(ぢべた)に生きてゐるものは悲しい(北原白秋)~

 萩原朔太郎『月に吠える』序文より

 *  *  *  *  *  *  *  *

 過日、人づてに聞いた話しなのだが、他流の高段者が、「手裏剣なんて、簡単」と語っていたとか、いないとか。

 む~ん、さて参りましたな・・・(笑)。

 ま、結論から先に言うと、

 「そんなに簡単にゃあ、打てねえよ」

 という事である。

 なぜなら、

 「武芸として通用する手裏剣術であるためには、最低限、三間(約5.4メートル)から棒手裏剣を直打で、尺的に対して3本に1本以上、十分な威力を持って的中させる業前が必要」

 だからだ。


 翠月庵の売り物のひとつは、手裏剣術の速習にある。

 武術・武道経験のまったく無い人でも、稽古初日から三間で1~2本は直打で刺中させることができるように指導している。

 これは、ひとえに当庵の打剣理論の基本が、無冥流の重心理論に基づいているからであり、棒手裏剣を直打で打って三間を通すには、通常、数年はかかるのが一般的だ。

 常識的には、やっとうや体術の高段者であっても、それまで手裏剣術の稽古をしていない者が、いきなり直打で三間を通すことが出来る確率は、偶然以外、ほぼゼロといって良いかと思う。

 ましてや三間直打で、顔面を想定した尺的に打剣を集め、なおかつ人体に有効な程度の殺傷力を発揮できる威力(速度)を持って手裏剣を打つには、どんなに才能がある者でも数年以上の修練が必要だ。

 それどころか、一~二間から距離が伸びず、稽古を断念してしまう人も少なくないのである。

 半間や一間程度の間合いで手裏剣が刺せたとしても、その程度では到底、武術としての手裏剣術とはいえない。

 考えてみれば、昔はちびっ子たちが五寸釘で釘刺しをして遊んでいたくらいだから、半間や一間程度の直打など、ある意味、お遊びレベルにすぎないのである。

 (もっとも一方では、一間以内での必死必中の打剣は、「蟹目の大事」と言われるように手裏剣術の極意でもあるのだが・・・)


 それではなぜ、「手裏剣なんて簡単さ」と思われてしまったのか?

 市村おもえらく、

 1 車剣(忍者が使うギザギザのやつネ)を使うことが前提だった
 2 見た目、簡単そうだ
 4 単なる戯言・・・

 などの理由が考えられる。

 実際、飛刀術なども、剣術や居合・抜刀術、剣道などの経験がある人の場合、見た目、二間までなら簡単にできるように思えるらしい。

 しかし実際には、ほとんどの人がせいぜい一間くらいまでしか通すことができない。

 ところが、飛刀術が武術的に威力を発揮する間合は、一間半~二間半であり、この間合では、普段から飛刀術の稽古をしていない者は、まず対象に剣を的中させることができないのである。


 私個人としては、これまでは必要以上に手裏剣術の難しさをアピールするつもりはなかった。むしろ、当庵の特色として速習を強調するために、また斯術の敷居を下げるために、「手裏剣術は、そんなに難しいものではありません」という意味合いのアピールに努めてきた。

 が、しかし・・・。

 本当に正直なところを言えば、手裏剣術というのは嫌になるくらい難しい武芸である。

 これは手裏剣術を本気で稽古している人であれば、だれもが皆、1度は感じる思いなのではなかろうか。

 それほどこの道は難しく、稽古する者にとって厄介な武芸なのだ。

 ゆえに古来から、多くの先人たちが、いかに簡単に的中させるかについて、打ち方から形状まで、さまざまな工夫と修練を積み重ねてきたのである。


 あまり難しさをアピールするのも、逆説的な自慢みたいでいやなので、ここらで筆を納めるけれども、やはり「簡単」呼ばわりさせるのは、手裏剣術者としていささか心外である。

 ま、実際にきちんと手裏剣(忍者が使う、ぎざぎざのじゃないヤツね)を打って稽古をしてみれば、斯術の難しさと奥深さ、そしてなんとも言えない楽しさが分かってもらえるであろう。

(了)
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5年目の秋/(身辺雑記)
- 2011/09/06(Tue) -
 紀州で大きな被害を出した台風12号が通過した先週。9月1日で、翠月庵は開庵4周年を迎えた。

 早いものである。

 とはいえ、「5年目を迎えての豊富は?」と聞かれたとしても、「いままで通りに稽古をするだけです」としか応えようがないのも、また事実である。


 つらつら思うに、開庵から4年がたち、自分の考える武術としての現代手裏剣術の教習体系が、荒削りながらも形になってきたのは、我ながら多少は誇ってよいかと思っている。

 また会員諸子が着実に上達されていることは、指導体系や方法論の正しさの証として、庵主としてもたいへんうれしい。

 ことに今年の夏期特別交流稽古では、翠月庵以外に武術・武道経験の無かった会員のY君が、きちんと試物を斬ることができ、組太刀や掛稽古でも他流の剣術家の皆さんの中に混じって、恥ずかしくない対応ができたことは、指導する者として大きな手ごたえを感じることができた。

 手裏剣術の併習武術として指導している、当庵の剣術や居合・抜刀術の教習について、それが実技として間違いではなかったことが確認できたのだ。

 体系の確立と弟子の上達。これらが庵主である私にとって、翠月庵4年間の活動の最大の成果である。


 一方で、自分自身の稽古はといえば・・・、いやはや、お恥ずかしい限りである。

 だからこそ己の修練に負荷をかけるという意味で、近い将来の課題として、現代の手裏剣術における真剣勝負としての、公開の場での演武について考えている。

 
 というわけで、5年目の翠月庵も、どうぞ宜しくお願い致します。

 庵主 謹識
 
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