ホームページ&掲示板&活動報告、移転のお知らせ
- 2011/11/30(Wed) -
 11月19日(土曜)より、翠月庵のホームページが、下記のアドレスに変更になりました。

■翠月庵の新ホームページ
http://suigetsuan.jimdo.com/

 リンクをしていただいている皆さんにつきましては、ご面倒ですが、アドレスの変更、お願い致します。

 これにともない掲示板と活動報告も、今後は新ホームページ内に移行します。

 宜しくお願い致します。

 翠月庵 
 市村 頓首
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海拓者たち~日本海洋偉人伝 (1) 野村直吉
- 2011/11/17(Thu) -
海拓者たち~日本海洋偉人伝(1)
野村直吉(一八六七~一九三三)



今も鬼門とされる航路を突破し、日本初の南極探検を実現


怒涛甲板ヲ洗ウ、船体動揺甚シ

 大航海時代の昔から現在に至るまで、南極海周辺は、世界有数の暴風圏として恐れられている。船乗りたちはその自然の猛威を評して、今も「吼える40度、狂う50度、叫ぶ60度」と呼び習わしている。
 現在から時をさかのぼることおよそ100年前の1911(明治44)年12月2日、白瀬矗中尉以下、27名からなる探検隊員を乗せた木造機帆船・開南丸は、船位南緯48度、東経164度、波濤渦巻く荒海をひたすら南極大陸にむけて前進していた。「吼える40度」の荒海のなか、わずか204tという木の葉のごとき小船を指揮するのは、船長・野村直吉である。
 野村の手によるその日の航海記録には、次のように記されている。
「怒涛甲板ヲ洗ウ船体動揺甚シ 傾斜左右最大30度アルヲ認ム(中略)猛烈ノスコール襲来(中略)怒涛ノ高サ三十五六尺 巾約十間位ト認定ス 動揺32度」
 船がさらに南下するにつれ、波涛はさらに荒れ狂う。船体の動揺は最大38度に達し、南緯60度を越えた12月12日になると、「氷山水海ニ付航走上大困難」とあり、暴風・波涛に加え、さらに氷山が船の行く手を阻みはじめた。それでも野村は、非力な機帆船を操船しつつ、30度を超える傾斜を繰りかえす船上から、僅かに雲間から現れる太陽を頼りに天測を繰り返し舵を取った。9ヶ月前の上陸直前の撤退から捲土重来を期して、めざすは未知の大陸・南極である。


百発の空砲は一発の実弾にしかず

Kainan-Maru.jpg
▲開南丸

 開南丸が、華やかな歓送会に送られて品川沖を旅立ったのは、1910(明治43)年11月29日。しかし、この極地行は、船出から大きな困難を抱えた旅でもあった。当初予定していた探検用の船の手配に失敗。急遽、使用されることになった開南丸はわずか204tの木造船。しかも機帆船であるものの、艤装された機関は18馬力に過ぎない。このような船で日本と南極を往復することは、あまりに無謀な計画であると批判された。さらには、資金調達や船の手配で出港は遅れに遅れ、南極海に達する頃には、すでに南半球の夏、つまり酷寒のなかでの接岸・上陸を余儀なくされることが明らかであった。
 それでも隊長白瀬は、これ以上の停滞はできないと出発を決意、船長である野村は、その期待に答えるべく、錨を上げた。2人の男の壮烈な覚悟は、探検隊の支援者であった大隈重信が激励で述べた、「百発の空砲は一発の実弾にしかず」、つまり条件が過酷でも、断固実行すべしというものであった。


2度にわたり南極海の暴風圏を突破

 開南丸は品川を発ってから2ヶ月が過ぎた1911(明治44)年2月8日に、南緯41度にあるニュージーランドのウェリントンに到着。ここで石炭や食料を調達し、いよいよ「吼える40度」の先、南極大陸に向かう。しかし暴風圏を越え、大陸の沿岸に差し掛かった頃にはすでに南極海は厚さ30cm以上の海氷に覆われており、一行は上陸を断念、5月1日、シドニーに回航する。
 それから半年が過ぎた11月19日、開南丸は再び錨を上げ、南極海に向けて出航。南緯40~60度の暴風圏を突破し、ついに翌1912(明治45)年1月3日午前7時、船首方向に南極大陸の山岳地帯を確認。さらに海氷渦巻く沿岸地帯で上陸地点を探しながら、ついに16日午後10時、一行は西経164度30分、南緯78度31分、南極大陸の一端に上陸を果たした。
 ※  ※  ※  ※
 日本人初の南極探検家として白瀬の名はよく知られているが、彼らを南極に送り、1人も欠けることなく日本に戻ってきた野村の名前は、近年まで広く知られることはなかった。しかし、非力な小船で南極海を2度往復した野村の卓越した操船術について、英国地理学協会誌にはこう記されている。
 「小船の開南丸で日本と南極間を往復、生還した航海技術は、野村直吉の名が大航海者らの中に記憶されるべきことを証するものである」。



野村直吉の歩み


1867(慶応3)
現在の石川県羽咋市に生まれる。本名は西村直吉。青年期は能登の回船問屋・西村屋忠兵衛の北前船に乗船していたという。

1903(明治36)
勉学のため上京。翌年、徴兵され、青森で軍務に就く。日露戦争に従軍し、御用船に乗り込む。陸軍輸送船須磨浦丸の二等運転士時、沈没寸前の船を冷静な対処で救うなどの功績により、勲六等瑞宝章を授かる。

1909(明治42)
高等商船養成所に通い、甲種船長試験合格。

1910(明治43)
陸軍中尉白瀬矗が南極探検計画を発表。野村は船長として探検隊に応募。曰く「自分は給与などは望まず。探検船の船長たる名誉を全うすれば足れりである」。11月29日、南極探検に出発。

1911(明治44)
5月1日、接岸を目前に南極上陸を断念し、シドニーへ回航。資金調達のため帰国。11月19日、再び南極上陸に向けてシドニーを出航する。

1912(明治45)
1月16日、探検隊は南極上陸。28日、上陸隊は大和雪原に日章旗を立てる。野村は開南丸にて沿岸調査を実施。2月4日、南極を発ち、6月20日芝浦へ帰還する。

1913(大正2)
大派山丸の船長に就任。以降、外国航路の船長として複数の船長職を歴任。

1929(昭和6)
「出世社」という会社を興す。(業務実態は明らかになっていない。一説には、沈没船などの埋蔵金の発掘をしていたとの説もある)

1933(昭和8)
東京都足立区にて永眠。享年66歳。

参考文献
「雪原に挑む白瀬中尉」渡部誠一郎(秋田魁新報社)
「南極を目指した日本人」大賀清史(社団法人全日本船舶職員協会報第101号)
「続・南極を目指した日本人」大賀清史(社団法人全日本船舶職員協会報第104号)

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多敵の位の考え方と、手裏剣術の極意/(武術・武道)
- 2011/11/09(Wed) -
 多敵の位(対多人数)の稽古というのは、武芸をたしなむものであれば、誰しもが考えることであろう。

 一方で、基本的に日本の伝統的な武芸の稽古は、一対一での型稽古が主流になっている。

 これはなぜか?

 まだ、未熟で今以上に浅学だった私は、旧師にたずねたことがある。

 旧師曰く、

「多敵の位といっても、結果的には瞬間的な一対一の戦いの連続に過ぎない。ゆえに、稽古においては一対一の攻防に習熟するべきであり、いたずらに多人数掛けをするのは、技の崩れを誘うだけで意味がない」

 とのことであった。

 当然ながらある程度、業に習熟した段階では、補助的に一対多の稽古を体験することは重要であるし、口伝によって多敵の位の兵法を学ぶことも必須である。

 しかしそれらはあくまでも補助的なものであり、「術」の基本は一対一での稽古にあるのだ。

 つまり、日本武芸の稽古における一対一という形式は、ことさら果し合いなどの行為にこだわったものではない。

 一対一でも、一対多でも、いずれの場合でも対応できる「術」を実現するための、もっとも合理的な鍛錬方法が一対一での型稽古であり、先人たちはそれを経験として知っていたのであろう。

 演武会などで見られる多人数掛けは、あくまでも「演武」なのである。


 多敵の位と同様に、相手のしかけてくるであろう攻撃や、用いるであろう武器について、「こうきたら、ああする」的な対応をしようとすれば、結果として数万、数億、そして無限大のパターンを想定しなければならない。

 これは一種のパラノイア状態である。

 日本の武芸というものは、こういった戦いにおいての想定の無限ループから、いかに脱するかを求めて、先人が作り上げてきたものである。

 無限の想定を限界まで演繹し、必要最小限の「型」(パターン)としてまとめ、それに習熟させる。

 その結果、究極的には「型」(パターン)そのものが解体されて、「術」は極限までシンプルになっていくのである。


 武術としての手裏剣術も、たとえば根岸流の極意だという「蟹目の大事」などは、まさに日本武芸の精華そのものであるといえよう。

 翠月庵の手裏剣術も、技術体系としては刀法併用手裏剣術を到達点としながらも、本質的な「術」としての極意は、

 「生死一重の至近の間合からの、渾身の一打」

 この一言に尽きるといえよう。

 (了)
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我、老いたり・・・/(武術・武道)
- 2011/11/08(Tue) -
 朝、目覚めると、右肩甲骨周りに激しい痛みが走り、日常生活動作にも難渋するようになっていた。


 先月、M君に足掛け5時間ほど通しで稽古をつけ、その翌週、通常の稽古で打剣を2時間ほどした翌日から、右の肩甲骨の周辺に痛みを感じていた。その後、多忙のためだまだまし生活してきたのだが、ついに限界が来たようである。

 しかたなく、自宅に近い整骨院で治療をしてもらう。

「野球かなにか、おやりになっているのですか?」と、整骨院の先生。

「いや、野球じゃないんですが・・・」
「というと?」
「手裏剣と剣術なんですけど」
「はっ?」

 とまあ、そんな会話の後で、マッサージに運動療法、お灸をしてもらう。

 先生の話によれば、腕を振り下ろした際に、そのまま振りぬくような動きは良いのだけれど、たとえば当庵の手裏剣術の打法のように、抜刀につなげるために腕を降りぬかずに胸の前あたりで急激に止める動き、あるいは剣術や抜刀術の斬り下ろしのように、振り下ろした剣を、手の内を締めて切先下がりでピタリと止めるような動きというのは、背中の筋肉に大きな負担がかかるのだとか。

「しかも武術の動きだと、体軸はぶらさないのですよね?」
「はい」
「そうなると、一段と背中の筋肉に負担がかかるのです」

 とのこと。

 また我ながら面白いなあと思ったのは、右側の背筋だけを痛めてしまったということ。

 私の剣術や抜刀術の操法は、旧師の教えで、両手太刀でも右手が主軸となる(あくまで意識レベルなのだけれど)。

 ゆえに負担が過度にかかったのが、右側の背筋に限定されたというのは、ある意味で、旧師の教えどおりの動きをしているのだということであろう(笑)。

 しかしまあ、たかが半日ほどの稽古で、身体を痛めてしまうとは、我、老いたりということだ。不惑を過ぎるということは、こういうことなのだろうか。


 とりあえず整骨院の先生の話では、しばらく安静にしていろということなので、右の背筋を休めるために、しばらくは左太刀の稽古でもしていようかと思う・・・。

 (了)
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M君への、剣術・抜刀術集中稽古/(武術・武道)
- 2011/11/04(Fri) -
 去る10月23日(日)は、昨年に引き続き、米国からM君が来日し、当庵で剣術と抜刀術の集中稽古を行いました。

■当日の日程

11:00 始礼。剣術・昨年のおさらい(素振り、翠月庵の型【表五本】)

11:30 武技としての気合術(腹式呼吸と発声法)。構えとその意味、運用法。

12:00 昼食

13:00 翠月庵の型【裏五本】=返し技の型

16:00 抜刀術・昨年のおさらい(初級抜刀術)

16:30 抜刀術・古流の型

17:00 終礼


 5時間に渡るマンツーマンの指導は、私自身も多々、学ぶことがありました。

 ことに、千変万化する拍子というものは、手裏剣術や居合・抜刀術のような単独稽古が中心の武術では、ついついおざなりになってしまうものです。

 技の習得以前に、こうした武芸の本質的な理合を理解し、肌で感じてもらえればと思いました。

 (了)

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晩秋の日々/(身辺雑記)
- 2011/11/03(Thu) -
 この1ヶ月間は、近年まれに見る忙しさであり、公私共に実に過酷な日々であった。

 そもそも生業であるもの書き稼業が重なりに重なり、この道19年の売文家人生のなかでも、最大級の忙しさになってしまったのが原因である。

 それに加えて、以前から予定していた無冥流の特別講習会、米国在住のM君への剣術・抜刀術の集中指導、さらに珍しいことに、うちのような貧乏道場に久々に新規入会希望者があり、稽古を休むわけにもいかずという、まさにニッチもサッチもいかない状況に追い込まれていたのであった。

 というわけで、講習会や特別指導の所感や報告などは、改めて行おうかと思う。


 しかし、おもしろいことに、これほど多忙で、庵主としては「このクソ忙しいのに、手裏剣やらやっとうやら、オイラはやってる場合じゃあ、ねえんだよ・・・」という心境のこういうときに限って、どういう訳か打剣も太刀行きも、好調なのである(笑)。

 あまりに多忙で疲労困憊しすぎて、逆に力みがとれたのか・・・、などと思って見たくなるほどだ。

 
 いずれにしても、こんな生活を続けていると、確実に身体を壊しそうなので、11月は少し生業をセーブしたいものである。

 が、そうなると食い扶持が減るわけだ。南無八幡大菩薩。


 とりあえず、年内の大雑把な予定としては、年末にもう1度、美濃にお邪魔して、抜刀術家のみなさんに翠月剣の講習を行いたいと考えている次第である。

(了)

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