南蛮人が首に巻いている、あのヒダヒダ・・・/(身辺雑記)
- 2012/02/28(Tue) -

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 ナツメ社より、『史上最強カラー図解 世界服飾史のすべてがわかる本』が、好評発売中です。

 不肖市村は、本書で第8部の「日本服飾史」のほか、世界の民族衣装や中世~近代ヨーロッパの服飾史部分を執筆させていただきました。

 なお、時代劇で南蛮人が首につけている、あのひだひだは、「ラフ」という。

 以上、豆知識。



18きっぷ

 学研パブリッシングより、『おとなの青春18きっぷの旅 2012年春季編 2012年 04月号 』、好評発売中。

 本書では、「桜をめぐる世界遺産 奈良・京都の旅」の取材・執筆と撮影を担当。

 雨の中の平城京の夜景撮影は、ハードであった・・・。

 京都に行ったら、旅人は知恩院近くにある平野家本店で、「いもぼう」を食べるべし。

 嵐山にある西山艸堂の湯豆腐も美味である。

 以上、これまた豆知識でした。


(了)
 
 
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雨水夜話/(身辺雑記)
- 2012/02/23(Thu) -
 ここ最近、プロバイダの不調かホームページの不具合か、当庵宛てに送信したメールが届かないという事案がいくつかありました。

 メールなど送信されてから1週間以上、私からの返信など反応がないような場合は、ホームページのリンクや「お問い合わせ」からメールを送らずに、当庵のメールアドレスをコピー&ペーストして各人のメールソフトから送信するか、ホームページの掲示板にでも、その旨や用件などを書き込んでいただければと存じます

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 今日、なじみの編集者から来たメールの追伸に、「イランで女性忍者が大流行しているらしいですね……(笑)」とのコメントが。

 忍者・・・。

 ・・・。

 ま、いいんだが。

 当庵では忍術の指導はしていない、念のため。

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 スマートフォンに対して、従来型の携帯電話を、日本という特異な市場で独自に進化した携帯電話として、ガラパゴス携帯、略して「ガラケー」と言うそうな・・・。

 言葉のやり取りにも、当然ながら「間合」と「拍子」、そして「位」があるわけで、「ガラケー」という言葉を積極的に使っている人は、たいがいスマートフォンを使っているようであり、そこにはいわゆる「上から目線」がひしひしと感じられるような気がするのは、私だけではあるまい。

 ま、端的に言えば、「ガラケー、ガラケー」と連呼している人からは、「オレってスマホだけど、何か?」的な、さりげない自己主張という名の上から目線という、野暮な風情を感じるのである。

 けして、スマートフォンを使っていないもののヒガミではない(笑)。


 同じように、端で聞いていて野暮だなあと言葉に、素人が使う専門職の符牒がある。

 たとえば、寿司屋で「アガリ頂戴」とかいう半可通とか、居酒屋で「お愛想」とかいう勘違いである。

 いまさら説明するまでもないことだが、アガリもお愛想も、店の側が使うべき言葉で、客が言うもんじゃあない。普通に「お茶をください」、「ご馳走様。会計をお願いします」といえばいいのである。


 一方で、売り手の側の不快な言葉に、いわゆるバイト敬語というのがある。

 店に入ったとたんに、「いらっしゃいませ、こんにちわー」といわれると、「あんたと友達になった覚えはねえ」とつめよりたくなるのは、私だけではあるまい。

 「いらっしゃいませ」と「こんにちわ」は、並立する言葉じゃあねえんだよ。

 また、これらはだいぶ指摘されつくしているけれど、フロアのスタッフが「ペスカトーレになります」とか言うもんだから、「じゃあ、ペスカトーレになる前は、何だったんだい?」と聞きたくなるのは、私だけではあるまい。

 「ペスカトーレでございます」と、なぜ普通に言えないのだろうか?


 「1万円から、お預かりします」というのも、イラッとするものだ。

 「から」というのは、どこからなんだ? 基点が1万円なのか? では、何か追加してださなけれりゃあいけないのか? っと、理不尽な戸惑いを感じるのは私だけであるまい。

 「1万円、お預かりします」と、普通に言えばよい。


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 「銀座ルパン」と言えば、太宰治や坂口安吾など、昭和の文士たちに愛された老舗バーである。

 20世紀の終わりも近づいていた1990年代半ば、まだまだ駆け出しの記者だった私は、某社の仕事で、ルパンの名バーテンダーである高崎武さんにインタビューをする機会を得た。

 取材はつつがなく終わり、無事、本が出版された後、高崎さんから私宛に封書が送られてきた。

 「良い記事を書いてくれてありがとうございます。取材を受けても、意に沿わない記事になることも少なくないなか、しっかりと書いていただきうれしく思います」という、お礼の手紙であった。

 物書きの仕事を始めて、今年でちょうど20年になるのだが、後にも先にも、取材後にこのような丁寧なお礼の手紙をもらったことはない。

 この高崎さんからの手紙は、記者としての私の宝物となっている。

 後日、知り合いのとある茶道師範にこの話をすると、

「茶道では、茶会に招かれた翌日、お礼に行くことを『後礼』といいます。正式には、直接出向いてお礼をするのですが、現在はなにかと忙しい世の中ですから、手紙で後礼を申し上げることもありますね。いずれにしても、茶の湯の一期一会は茶室で終わるものではなく、後礼までを含めた縁(えにし)なのです。市村さん、良い勉強をされましたね」

 と評してくれた。

 高崎さんにいただいた後礼の手紙は、私に活きた「礼法」のあり方を教えてくれたように思う。

 銀座ルパンの高崎武さんは、2008年7月18日、82歳で逝去された。

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 武芸というのはいくつになっても、畢竟、自分以外の他者から、学ばねばならない。

 宮本武蔵のような師を持たぬ天才でも、天地の道理から剣の理を学び取ったことは否定できない。

 ゆえに易に曰く、
 
 「蒙は、亨る。我童蒙を求むるにあらず。童蒙来りて我に求む」

 という。

 「我」というのは、蒙昧な者を教え導く者、つまり指導者である。「童蒙」とは蒙昧な者、つまり教えを求める生徒だ。

 武芸に限らず、芸事や学問というのものはすべからく、童蒙のほうから師に教えを求めてやってくるものである。

 教えるというのは、自分から出かけて行って教えるのではなく、相手が教えて下さいと言って求めて来たときに教えるものだと、儒学の経典である易は諭しているのだ。

 自分から、「教えさせてください」というような先生は、とりあえず疑った方がいい(笑)。

 一方でまた、たとえ自らが教える立場になっても、「学ばせていただく」という姿勢を失ってはならない。

 ゆえに私自身も、未熟ながらも稽古場で人様に指導をさせていただきながら、武芸の道理を学ばせていただいているのである。

 「童蒙」たる己のあり方を見失うということは、つまり彼我の「位」と相手との「間合」を見失うことである。

 そして「位」と「間合」を見失うということは、立合においての敗北につながることは言うまでもない。

(了)

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打剣の三要訣
- 2012/02/16(Thu) -
本日の稽古備忘録

 構え、手首、手離れ。

 適切に的中しない場合、必ずこれらのいずれかに、齟齬がある。

 翠雨
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座技好み/(武術・武道)
- 2012/02/11(Sat) -
 本日は、本稽古の前に2時間ほどみっちり、居合(座技)を抜いた。

 斯界では一時、「座技不要論」を称える高名な方もいらっしゃったけれども、私は個人的に座技が好きだ。

 これは居合・抜刀術に限らず、柔術でも私は座技が好きである。

 ことに座技の捕手とかで、パーンと当身をかましてから逆手や投げで相手をひっくり返して拉ぐとかいう技なんぞは、なんともワクワクするもんだ(笑)。

 ・・・、閑話休題。

 さて正座にせよ、居合腰にせよ、座技というのは下半身に形而上下それぞれの意味での「負荷」がかかっている中で、技を遣わねばならぬところが、稽古の肝であり、楽しみでもある。

 わざわざ不自由な体勢、あるいは不安定な体勢から、技を発し、それを意味あるものにするというのが、稽古の方便としてたいへんにおもしろい。

 また、限られたスペースを効率よく使って稽古できるというのも、座技の魅力だ。居合であれば二畳もあれば十分であるし、柔術ならば一畳でよい。

 さらにこれは個人的な感覚ではあるけれど、同じ技でも立合よりも居合の方が、軸の歪みや技の崩れが、よりビビットに感じられるように思う。

 では、手裏剣術の稽古における座技の効用とはなにか?

 まず第一に、下半身の力や体幹の移動力を使うことができないため、腕の振りと脱力による打剣を理解することができる。

 第二に、手の内、腕の振り、構えについての、微妙な使い方とそのチェックに集中することができる。

 以上の2点が挙げられよう。

 なお、座技での打剣は正座のほか、跪坐(正体)、跪坐(半身)と、主に3つの姿勢があり、それぞれに体軸の置き方と腕の振り・構えの要点が異なってくるのは、言うまでもない。

 いずれにしても、座るという行為そのものは、何か自分の中に流れる日本人のDNAを刺激するような、そんな気がしてならない・・・。

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▲近藤勇先生の正座

(了)
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武術としての手裏剣術の優位性/(手裏剣術)
- 2012/02/04(Sat) -
 本日の稽古備忘録

 武術としての手裏剣術の妙味は、二刀遣いの一形態としての、間合と拍子の優位性にある。

 隠し武器としての意義・運用などは、瑣末な付随に過ぎない。

 翠雨
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