座技による刀法併用手裏剣術/(手裏剣術)
- 2013/01/30(Wed) -
 生業が忙しいので、以下、手控えとして・・・。


 座技による刀法併用手裏剣術について、公刊されている実技の記述・資料は、明府真影流・染谷師範によるものくらいではなかろうか?

 当庵の教習体系でも、座技による刀法併用手裏剣術は組み込んでいないのだが、最近、個人的に少しずつ検討を加えている。

 「なぜ刀法併用手裏剣術を、座った状態で練磨するのか?」という理由については、「なぜ居合(抜刀)術を、座った状態で練磨するのか?」「なぜ手裏剣術で、座打ちが重要か?」という問いへの答えと同じである。

 分からない人は、各自、自分の先生に質問してください。ただし、「そんなことも、まだ分からんのか。この未熟者め!」っと、叱責されても、私は知らない(笑)。

 なおここで、「座技での刀法併用手裏剣術など、想定としては云々・・・」というようなトンチンカンなことを考えてしまうと、多分、上達はおぼつかないであろう。


 さて、立技でも座技でも刀法併用手裏剣術のツボは、「打剣と操刀という、異なる動きの形而上下双方での接合」である。

 わかりやすくいえば、初学者の場合、打剣単体、操刀単体では適切だった「拍子」が、刀法併用手裏剣術として連動して行うと、なぜか居着いてしまう。その結果、打剣が失中するか、あるいは操刀がグダグダになってしまうのである。

 そこで、こうした質の異なる動き(打剣と操刀の動きの質は、根本部分でまったく異なる!)を合理的に「なじませる」ためには、もしかしたら立技よりも座技の方が、より近道なのではないか? っと、仮説を立てて検証している次第。

 これについては、今後さらに検討を進めていこうと思う。

 (了)

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追憶/(武術・武道)
- 2013/01/26(Sat) -
 旧師に教えを受けて、剣術や抜刀術に没頭していた10代後半は、毎月のように木太刀が砕けたり、ささらになるような荒っぽい稽古をしていたものだが、それも遠い昔の記憶。

 今の時代、あんな稽古をしたらどうなることやら・・・。

 おかげで今も、拳を打たれた両手の小指は曲がったままだし、顔面を突かれた額の一部は骨が陥没気味に変形してしまっている。

 まあ、それでも稽古が楽しくて、なんら苦にはならなかったけれどネ。


 今日の稽古では久々に、組太刀の指導中、打太刀のYさんの木太刀を叩き折ってしまい、なんとなく若かりし日の、稽古を思い出した次第。

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 ▲切り結んだ状態から、ネバリをかけて中心をとりつつ
 打太刀の刀を押し下げ、拍子を抜いて相手の太刀の棟を
 叩き折り、突きで位につける


 あの頃はオレも、若かったな・・・。

 (了)
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日課/(身辺雑記)
- 2013/01/23(Wed) -
 さきほど深夜0時前に、やっと本日の仕事終了。
 
 今日は「働く女性のうつ病」のインタビュー記事、大学看護学科の解説原稿、助産師のインタビュー原稿、そして八重を旅する会津若松の旅行記事を執筆。

 明日も多分、長時間の仕事になるので、できればとっと酒でもあおって寝たいのだが、これから手裏剣と抜刀術の稽古をしなければならない・・・、日課だからねえ。

 稽古場などを構えて人に教えるようになると、それだけでは必ず腕が落ちてしまうので、人並み以上に稽古しなければならないのは当然なわけだが、センセイ稼業もなかなかきついものである(笑)。

 しょうがないので、気分転換のため稽古前に、ハサミと果物ナイフを、手裏剣に打ってみた・・・。

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 ▲座打、1間半で直打

 ま、座興である・・・。

 (了)
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小柄や笄は「手裏剣」ではない?/(手裏剣術)
- 2013/01/21(Mon) -
 時折、手裏剣術をあまりご存知ない方が、

「時代劇などで小柄や笄を手裏剣のように投げるシーンがあるが、これらは手裏剣ではないので、実際には使えない・・・」

 などと、おっしゃる。


 手裏剣術屋として言わせてもらうと、まともに稽古をしている術者であれば、2間くらいまでなら、小柄(小刀)でも笄でも、手裏剣に打って刺中させることはごく簡単だ。

 稽古すれば、3間でも十分いけるだろう。それ以上は、なかなか難しいかもしらんけど。

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 ▲小柄(小刀)と笄(ウィキぺディアより引用)


 たしかに小柄(小刀)や笄は、それぞれ固有の日常生活用具で、武具としての手裏剣ではない。しかし、心得ある手裏剣術者であれば、火急の時に小柄や笄を「手裏剣に打つ」ことは、ごく常識的なことである。

 たとえば古流の伝書には、「着座するとき、煙草盆を右の手元の置いておくのは、手裏剣術者の心得である、云々」と記されている。

 なんかあったら煙草盆を手裏剣に打て=ぶん投げろ! という意味だ。

 このように、手裏剣とは武具の「固有名詞」であると同時に、物体を投擲する行為そのものを示す「動詞」でもあるわけだ。

 よって手裏剣術者たるもの、脇差や打刀などの武具はもちろん、小柄や笄、馬針や貫級刀などの日用品、さらには身の回りのあらゆる事物を「手裏剣に打つ」、精神の柔軟性がなければならない。

 まあ、あまり異物投擲に耽溺してしまっては、術の本道を誤ってしまうが、術者としてある程度、異物投擲の経験をしておくことは、現代の手裏剣術者にとっても重要である。

 ちなみに私の得意な異物投擲は、文庫本。

 ただし、京極夏彦氏の著作は不可である(笑)。理由は・・・、手にとってみれば分かるはず。

(了)
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「残心」と「位」、体罰教師とモリー先生/(武術・武道)
- 2013/01/19(Sat) -
 手裏剣術の稽古は、基本的に的打ちである。

 居合や柔術のような型稽古はないし、空手道や剣道のような自由な打ち合いの稽古もない。


 武芸の稽古は、型稽古でも、自由攻防の試合稽古でも、相手に対して「稽古させていただいている」という意識がないと、それは単なる弱肉強食のいじめに成り下がってしまう。

 純粋に勝敗を競うスポーツの試合でも、フェアな精神やスポーツマンシップがあるわけで、そこではともすれば武道など足元にも及ばない、峻厳な公正性が表現されることもあるのだ。

 いわんや、原初的に「相手を制圧する(殺傷する)」行為をベースにした武芸の稽古というものは、「相手になっていただいている」という、謙虚な気持ちがなければ、それは単なる強者のいたぶりになってしまうので、厳重な注意が必要であり、こうした目に見えぬ勘ばたらきというものが、「位」の学びとなるのである。

 ましてや手裏剣術や試物の稽古は、対象が物言わぬ的や巻藁、畳表や竹が稽古の対象なので、よりいっそう稽古における「位」が求められる。


 そういう意味で最近、試物の動画など見て思うのは、「位」や「残心」を無視した、ただただぶった斬り、あるいは剣を打ち込むだけの、粗暴で粗雑な自称・演武という行為が目に余る。それはもう、「演武」とは到底いえないようなしろものである。

 試物の稽古というのは、各流・各派の型に沿って斬るから稽古になるわけで、ただただぶった斬ればよいというものではない。

 同様に、打剣にしても、ただ打ち込みました、ただ遠距離で刺さりましたでは、武芸の稽古にはならないのである。

 ましてや、斬ったあとの試物を足蹴にしてどかしたり、斬り損ねた試物をほおり投げて捨てている姿などが写されていると、「これらの人々の師匠は、残心や位というものを、弟子にどのように指導しているのか?」と不思議でならなない。

 「残心」とは未来に心を致すことだ。今に囚われない、思考の飛翔である。

 「位」とは彼我の関係を一瞬で見て取る心の眼だ。野生動物なら、普通に持っている本能的な生き残りのための機能である。


 一方で、試合に負けた生徒を小一時間かけて、30~40発ぶん殴り、あまつさえ「お前、なぐられたくないなら、二軍だぞ」と脅かす教師は、己の行為の「残心」というものを、まったく理解していなかったのだろう。

 あるいは、暴力的な支配=指導力という、きわめて低レベルな「位」でしか、生徒(弟子)を統率できなかった哀れな小人だったのだ。

 こう考えると、武芸やスポーツの指導者などというものは、「残心」も「位」も「間合」もわかっていない、大馬鹿野郎ばかりなのだろうかと、暗澹たる気持ちになるのは私だけではあるまい。


 それにくらべてこの先生の、己の命をかけた「位」の気高さ、弟子に見せる「残心」の見事はどうだろう。

モリー先生との火曜日モリー先生との火曜日
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 本当に強い人、本当に優しい人、本当に人を導く人というのは、こういう人のことなのだ。人の強さ、そして優しさというのは、腕力や暴力とはまったく別次元なのである。

 暴力バカの、我々武術・武道人には、遠く及ばない「人」としての本当の強さと優しさの境地がここにある。

 (了)
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稽古の手ごたえ/(身辺雑記)
- 2013/01/18(Fri) -
 『プロメテウス』の吹き替えは・・・、本当にひどいネ。

 最初は「デビューしたての声優さん使っているのか? それにしても、あまりにも酷いな」と思っていたのだが、客寄せのためのタレントさん起用で、ネットではすでに祭りだったのだね・・・。

 個人的に、外国映画の吹き替えは日本独自の映画文化のひとつであり、それを担う声優さんは立派な専門職だと思う。それだけに、非常に残念である。

 草葉の陰で、野沢那智が泣いてるぜ・・・。 


 一方で過日、実写版の宇宙戦艦ヤマトをようやく見た。

 内容については・・・、みなまで言うまい。ただひとつ、あそこでチューはないだろうと思う。人、死んでるんだから。

 そして昨日、モデル撮影の取材で千葉に行っていたのだが、今回のモデルさんの一人が、この映画に出演していた人でびっくり! 生きてると、いろんなことがあるものだ。



■本日の稽古備忘録

 昨年の初夏から、二尺一寸や二尺二寸の差料で、「短い刀を長く遣う」稽古を心がけてきた。

 今日は無銘の二尺一寸で稽古をしたが、一番最初の抜付から、のびのびを剣を振るうことができ、「短い刀を長く遣う」手ごたえを、はっきりと感じることができるようなった。

 一方で、試物の抜打の稽古も、実はここ半年ほど積極的にやっているのだが、今日は鞘引と離れがしっくりせずに難渋する。

 昨年末から肘を痛めているので、なお鞘引と離れを丁寧に心がけねばならぬ。


 打剣。

 肘から先のしなりではなく、肩を支点にした負荷の少ない打ち込みを心がける。

 座打は踏み込みの移動力を使えない分、無駄や力みのないシビアで繊細な打剣が求められる。ある意味で、立打ちよりも、はるかに難しいものだ。

 (了)
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「体罰」考/(武術・武道)
- 2013/01/15(Tue) -
 足掛け30年以上も武術や武道の稽古をしてきたので、普通の人以上に殴られたり、蹴られたり、叩かれたり、打たれたり、投げられたり、締められたり、極められたりしてきた。

 その上で思うのは、武芸の上達に「体罰」は一切不要ということである。



 武術・武道の上達に、厳しい稽古や痛い稽古は絶対に必要だが、指導者や先輩・上級者による「体罰」はまったく必要ない。

 「体罰」とは、文字通り、体への罰である。

 ありていに言えば、「お前らたるんでいるから、腕立て100回」とか、「気合が入っていないんだよ、この野郎!(と言ってビンタ)」とかいうのが、いわゆる体罰だ。

 しかし武芸においては、稽古場でたるんでいたり、気合が入っていないような人間は、叩こうが叩くまいが上達などしないのである。本人にやる気がないんだから・・・。

 そして、やる気がない子に、無理に稽古などさせる必要はない。梨園のご子息でもあるまいし、武芸の稽古は義務じゃあねえんだから。

 稽古の最中にたるんでいる者や集中を欠く者がいたら、「体罰」など加えるまでもなく、その場から退出させればいいだけのこと。ことさら叩くこともあるまい。


 さらに馬鹿馬鹿しいのは、「試合や競技で負けたからぶん殴る」という体罰だ。

 試合や競技の目的が「勝つこと」であるならば、指導者は選手が負けたときに体罰などしている暇はない。敗因を分析し、選手のいたらぬ点を諭し、それを改善させ、稽古をかさねて次の勝利につなげるのである。ビンタなど張っている時間はない。

 生徒が試合に負けた時にぶん殴っていいのは、山下真司だけだ。なあ、イソップ・・・(分かる人だけ、分かってくれればいいです)。

 閑話休題。



 学校教育や家庭の躾と違い、武芸をはじめとした芸事の稽古というのは、家元や宗家の跡継ぎでもない限り、あくまでも本人の自発的・主体的な意思による行為でなければならない。

 人に強制されて、稽古などするもんじゃあないのである。

 なにより芸事というのは、「(言葉も含む)暴力」で教えを受ける者を威圧したり隷属させなければ、稽古=上達が成立しないような「場」や「関係性」では、「芸」=「術」の伝授が成立しない。

 ゆえに武芸の稽古においては、学ぶ者を威圧・隷属させるための「体罰」は、一切必要ないのだ。

 あるいは芸事というのは、「嫌なら辞めれば?」というのが原則のシビアでクールな世界なので、わざわざ殴ったり脅かしたりして、学ぶ者の意欲をコントロールする必要もないのである。

 にもかかわらず、「体罰」を加えて相手を威圧・隷属させている指導者や先輩・上級者がいるとすれば、それは学ぶ側の主体性を無視した、指導する側の「名誉欲」や「権力欲」、「支配欲」、「金銭欲」を満たすための、単なるエゴにすぎない。

 

 芸事の稽古に必要なのは、稽古者の主体性と先達の真剣な導き、そして「芸」=「術」の伝授にふさわしい「場」の緊張感である。

 そこに「体罰」などという、低次元の「暴力的支配」が入り込む隙間などはない。

 
 「蒙は、亨る。我童蒙を求むるにあらず。童蒙来りて我に求む」

 (了)
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ごまかしのない稽古~そして刀剣雑感/(手裏剣術)
- 2013/01/13(Sun) -
 昨日は今年の稽古始めの予定であったが、私の生業があまりにも多忙なこと、また、たまたま本日は稽古参加者が少ないことから稽古場での稽古は休みとし、来週から本格的な稽古始めとした。

 そこで、なんとか本日やるべき仕事を終え、自宅で1時間ほど剣を打ち、居合を抜いた。


■本日の稽古備忘録

 今日の打剣は次で終了・・・、そう思うと、不思議なことに失中することが少なくない。

 手裏剣術のメンタル的なデリケートさというのは今さら言うまでもなく、斯術を稽古しているものであれば、誰もが直面するシビアな問題だ。

 手裏剣術、弓術、そして各種武術における試物。

 この3つは、メンタルがてき面に「術」に影響し、そして結果のごまかしが効かない。

 刺さるか刺さらないか、斬れるか斬れないか、割れるか割れないか? これらの結果は一目瞭然であり、自分にも他人にも、はっきりと分かってしまう。

 こうした「ごまかしのない厳しさ」こそが、手裏剣術の難しさであり、魅力でもある。


 話しはそれるが、「ごまかしのない厳しさ」という意味では、居合や抜刀術の稽古でも、中級者以上になったら樋を掻いた刀をピューピュー鳴らせて悦に入るのはやめて、樋のない刀身でしっかりとした「刃鳴り」がするような「ごまかしのない」稽古をすべきであろう。


 さて本日は、二尺一寸の「無銘」と、二尺二寸一分の「長光」で、それぞれ居合を抜く。

 刀の使い勝手というのは、単に刀身の長さや重さだけではなく、何よりバランスが重要である。実際、長光は鞘を払って1キログラム以上の重さがあるが、バランスがよいため、稽古していると重さはそれほど感じない。
 むしろ長光よりも軽く、刀身も短い無銘の方が、両手持ちで真っ向正面を斬る時など、ややバランスに偏りを感じる。

 この無銘刀、いわゆる「片手打ち」用の刀で、茎が非常に短い。このため、両手で操刀する際や、試物を斬る場合などは、手之内を詰めねばならない。一方で、逆袈裟や横一文字、抜き打ちなどで片手で操刀する際には、刀身が短いこともあり、切先がよく飛び、たいへん遣いやすく感じる。

 この無銘は、錆身を格安で購入したもので、購入した段階で、刀身全体の3分の1以上に薄錆があった。刃切れや刃毀れこそないが、試斬に散々使ったのか、切先と、どういうわけかハバキ元付近がひどいヒケだらけ。おまけに所有者の腕がなまくらだったのか(笑)、鞘には納まるものの刀身がハバキ元から右に若干曲がっているという代物である。

 美術刀剣の視点で見れば、いわゆる典型的な「ガタナ」ということになるのだろう。

 私自身、試斬用と割り切って購入したのだが、がたついていた鍔や柄を自分で補修し、普段からこまめに手入をして稽古に使っていると、なにか不思議な愛着を感じるもので、近いうちに研ぎに出して、柄も新調したいと考えている(前の所有者の好みか、はたまた見栄なのか、茎が短いくせに柄が約8寸と長いのである・・・)。


 聞くところによると、美術刀剣の世界とはなんともオソロシイ世界で、「100万円以下のものは、刀ではない」などとおっしゃるバブリーな御仁がゴロゴロしているとか!?

 そういう目で見れば、この無銘刀など、まさにガラクタ同然なのかもしらん。

 しかし、武術・武道人が稽古に用いる「武用刀」としては、この無銘刀、けしてガラクタではない。

 なにしろ、斬り手がなまくらで刀身が曲がり、ヒケだらけになっていても、刃切れや刃毀れがないということは、刀としてそれだけの蛮用に耐えたということだ。

 なにより、まがりなりにもきちんと登録証がついている日本刀であるからして、どこかの刀匠が、いつの時代か分からないが、きちんと鍛錬して作り出した一口なのである。

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 ▲二尺一寸の「無銘」。鍛錬された年代も地域も不明。登録は岡山県で平成19年と、比較的新しい。この刀は、いつ、誰が、どこで鍛錬したものなのか・・・


 美術刀剣の魅力と、文化的・美術的・工芸的意義は非常に大切だと思うが、美術的あるいは投機的な価値の低い刀を、「カタナ以下のガタナ」とさげすむような風潮(伝統?)は、はたしていかがなものかと思う。

 たとえそれが、美術的・投機的価値のないものであっても、それが本物の刀である以上、一口一口に、それを鍛錬した刀匠たちの精魂が込められているのだから。


 まあ、こんな想いも、富裕層の皆様からすれば、所詮は「下流」に生きる流れ武芸者の、儚いルサンチマンなのかもしれぬ(苦笑)。

 (了)
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新春妄言/(手裏剣術)
- 2013/01/08(Tue) -
 世間様も、いよいよ昨日あたりから、平成25年が本格的に始まったのだろうか。

 ま、私は(望んだわけではないが・・・)元日から仕事はじめ&稽古はじめだったので、今週もいつもの月曜であり火曜である。

 おまけに、大物の書籍の仕事2つと、ルーチン記事の仕事などが洪水のように押し寄せており、3月まで心が休まるときがなさそうだ。

 働かざるもの、食うべからずということか。

   *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 某武術研究家氏のブログを読んでいたら、「木の箸を手裏剣に打って、フライパンを貫通、云々・・・」という記述があった。

 「菜箸でフライパンを貫く・・・」、という話は、手裏剣術界隈(どんな界隈なのだ?)では、よく知られた話である。

 ただし、それが事実かどうかは検証されておらず、「・・・という話しがある」というエピソードのみが、都市伝説のごとく、繰り返し語られている。


 斯界の末席にいる者として、この話題については、一言明言しておかねばなるまいと思う。

 まず私自身は、「菜箸を手裏剣に打って、フライパンを貫通させる(させた)」という噂話は何度も聞いたことがり、読んだことがあるが、そうした演武なり動画なりを見たことは、一度もない。

 手裏剣術を稽古する者として、そんな優れた技が実際に可能であれば、ぜひ拝見したいと思う。

 一方で、手裏剣術者として、市村個人の見解を明言すれば、たぶん「菜箸や普通の箸を手裏剣に打って、フライパンを貫く」という話は、

 単なるデマ


 あるいは、

 妄想の産物

 または、

 姑息な旦那芸

 のいずれかであろうと思われる。


 一般的なフライパンの材料は、鉄のほか、アルミ、チタン、ステンレス、銅などが使われている。

 その厚みは、例えば日本を代表する鉄製フライパンメーカーであるリバーライト社のフライパンの場合、1.6mm、2.3mm、3.2mmなどのラインアップになっている。

 あるいは玄人好みの鉄打ち出しで知られる、山田工業所の中華鍋は、1.2mmと1.6mmだという。(『鉄の厚み考察』http://kpayas.exblog.jp/16446358より)

 一方で、菜箸は一般的に長さは一尺(約30㎝)程度で、主な材質は竹である(最近は、シリコン製などもあるらしい)。菜箸でない普通の箸は、長さ20㎝前後で、材質は竹や木などの木材が一般的であろう。


 では、ここで想定。

 リバーライト社製の鉄製フライパンで一番薄い1.6mmのものを、長さ一尺の竹製菜箸を手裏剣に打って貫通できるか?

 打法や距離は自由とする。

 「できる!」という人があれば、私がフライパンと菜箸を準備し、交通費も負担し、一般的な職業人の日当相当の謝礼も用意させていただくので、ぜひその妙技を見せていただきたいと思う。

 なお、ここで重要なのは、「フライパンと箸は、公平性を期するために、演武者以外の第三者が用意する」ということだ。


 何かを仕込んだかもしれない「特殊な箸」や、韓国料理などに供されるような鉄製の「一般的でない箸」を使ったり、厚さ1.0㎜以下で材質も不明の、「一般的なフライパン」とは到底いえない、ペラペラの「フライパンもどき」を、打ち抜いたというのであればそれは、厳密かつ普遍的な意味で、

 箸を手裏剣に打って、フライパンを貫通させたとは言えない

 だろう。

 
 「木太刀で、竹を斬った」などという、これまたいまだに耳にする、トンチンカンな妄想やデマと同様に、いい加減この手の妄言を流すのは、やめていただきたいものだ。

 ま、ざっかけに言ってしまえば、

 「ふつうの箸を手裏剣にして、本物のフライパンは貫けない」

 ということであり、

 「木太刀では、竹の試物は斬れない」

 ということである。


 武術を「実学」として捉え活かすためには、こうした武術界に蔓延してきた、根拠不明の「達人幻想」からの脱却が、必須であろう。


 なお蛇足ながら、「箸を手裏剣として打つ」行為そのものは、武術として十分に意義のある「術」であることは、言うまでもない。

 (了)
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謹賀新年/(身辺雑記)
- 2013/01/02(Wed) -
IMG_3672.jpg

 新年、あけましておめでとうございます。

 本年も、手裏剣術伝習所 翠月庵を宜しくお願い致します。


 代表 市村翠雨



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