手裏剣術と多敵の位/(武術・武道)
- 2013/05/31(Fri) -
 「雨が降らんのう・・・」とつぶやいたら、ここ武州も梅雨に入った。めでたいことだ。


 明日から明後日は、恒例の夏季合宿だ。今年のテーマは、「四方打ちと多敵の位」である。

 普段の稽古では、基本的に正面の的のみの設置であり、時折、向かい合わせに的を立てて「前後打ち」や「左右打ち」を行うが、稽古場のスペースの関係もあり、頻繁にはやっていない。そこで今回は、前後や左右の打ち、そしてこれらの組み合わせである四方打ちを、みっちり稽古しようというわけだ。

 前後打ち、左右打ち、四方打ちは、ひいては「多敵の位」に通じる業であることは、いうまでもない。

 多敵の位については、これまでの本ブログでたびたび言及してきたが、

 武術の稽古では、ことさら多敵に特化した稽古をする必要はない。なぜなら根本的に、相手が何人であろうと、瞬間としての対敵行動は、我も彼も常に「1対1」になるからである。つまり、「多敵の位」とは、連続する1対1の攻防にすぎない。ゆえに日常の稽古では、1対1の攻防に十分習熟することで、多敵に応ずることが可能となる。

 逆に、定型的な多敵の「形(型)」や「技」は、その形式に居着いてしてしまい、変幻自在に変化する彼我の動きに、柔軟に対応できなくなってしまうので、むしろ害が多いのである。


 というのが、旧師の教えであった。


 とはいえ、多敵には多敵の「コツ」や「方法」というものがある。

 ゆえに、抜刀術などでは、「前後斬り」や「左右斬り」、「四方斬り」などといった、1対複数を想定した形(型)があり、また多敵の位に関する口伝も数多く伝えられている。

 私が旧師から学んだ「多敵の位」に関する主な口伝を要約すると、次のようなものになる。

・先制主導すること
・縦に追うこと
・拍子を外すこと
・「場」に居着かないこと
・「頭」を押さえること


 とはいえ実際に1人で、しかも心得のある相手を向こうに回しての攻防がどれだけ難しいかは、たとえば体術でも剣術でも、稽古の合間に「遊び」がてら、1対2や1対5といった形での地稽古でもやってみれば、容易に分かることだ。

 そこで、「多敵の位」を容易ならしめる武技のひとつが、「手裏剣術」なのである。

 なお、ここでいう手裏剣術とは、名詞としての「狭義の手裏剣術」だけではなく、形而上下のあらゆる事物を相手に投擲する、動詞としての「広義の手裏剣術」であることを忘れてはならない。


▲脇差を「手裏剣に打つ」業の一例。鉄人流の「手裏剣打ち様・第一の型」。堤寶山流では
「飛龍迫」、未来知新流では「飛龍­剣」と呼ぶ。正二刀・上下太刀の構えから、左手の脇差
を∞形に振りながら左横より脇差を手裏剣に打­ち、右足を踏み込んで太刀にて横面を片手に
て打つ。

 (了)
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雨/(身辺雑記)
- 2013/05/24(Fri) -
 最近、雨が降らないのが、ちょっと不満だ。

ウイスキーごしの雨



 雨の日に旅に出る。

 小海線に降る雨



 水車小屋の屋根に雨が降る。

水車小屋に降る雨



 雨は無邪気だ。

 無邪気な雨



 二人で濡れる雨。

二人で濡れる雨



 車窓の向こうは雨。

 バスの車窓のも雨


 聖アンデレクロスに降る雨。

聖アンデレクロスに降る雨



 祈りの場の外は雨。

祈りの場の外は雨



 文豪と酒、そして鉄路に降る雨。

文豪と酒と鉄路と雨



 「あめだ! のやまに あめだ」(ユリー・シュルヴィッツ/『あめのひ』より)


 (了)
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願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ/(身辺雑記)
- 2013/05/21(Tue) -
■2013.5.23 追記

 死後も含めた「この世界の定義」や把握という点で、無冥流・鈴木崩残氏が、ホームページ「桜の間」(http://www.mumyouan.com/k/sakuranoma.html)にて、興味深い論説を加えています。関心のある方は、ご参照ください。


 この領域は、崩残氏の思想・実践活動の本丸ですから、私ごとき流れ武芸者があれこれ論評することでありませんが、


>「宗教」の根幹的な定義を、
>その実在が証明できようが出来まいが、そんなことには関係なく、

>個人が、生きるのがつまらなくなったり、苦痛になって、
>自殺をしないで済むような、
>「自らを納得させられる口実」という、大きな枠で囲うと、
>少し、その本質が理解しやすくなるだろう。

>すなわち「思想」「倫理」もまた、「世界を定義する口実」として
>機能するかぎりは、かなり宗教に「近い」のである。



 という一節は、私も深く同意するところです。

 畢竟、われわれ武術・武道人なるものは、この世界を把握し、飽きずに行きぬくための「自らを納得させられる口実」と「世界を定義する口実」として、“武徳という倫理”を選んだ、あるいは望んでいる種族であるといえるでしょう。

 なお誤解していただきたくないのは、ここでいう“武徳”とは、いわゆる巷でよく言われるステレオタイプで手垢のついた“武士道”なるものとは、まったく違うということです。

 “武士道”に関する話は、以前にも本ブログで少し書きましたが、長くなるので、また別に機会に改めてふれてみましょう。

      *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 朝9時から九段下でインタビュー。

 先月、まだ桜の花びらが舞っていた靖国通りの木々が、すっかり盛夏のような濃い緑を見せているのに驚く。私がどんなに堕落した毎日を、ぼけ~っと過ごしていても、季節は淡々と巡っているのだ。

 家を出る前、寝起きに25年式・改の翠月剣を3本打つ。

 二間座打ちだが、寝起きで頭がまだぼけっとしているにもかかわらず、ひょいと「放る」とサクっと刺さる。いやまったく、実によく刺さる剣だ。



 インタビュー終了後、池袋のリブロで資料探し。結局、探していた書籍はなかったが、代わりに椎名誠の新刊『ぼくがいま、死について思うこと』(新潮社)を買う。

ぼくがいま、死について思うこと


 いまでこそ、しかめつらしく武術・武道人ぶっている私だが、実はその昔は、タクラマカン砂漠やパミール高原、アラスカあたりのバックパッカーの間で“温室育ちの冒険野郎”の異名で呼ばれた、アウトドア系旅人(たびにん)だった時期があり、椎名誠や野田知佑などといった系統の人々の書物をむさぼり読んだ時期があった。

 なかでも、野田さんの『北極海へ』は名著だと思う。これに影響されて、アラスカのユーコン河まで行ってしまったのは、若気のいたりというやつだ・・・。

 その後、あまりこうしたアウトドア系作家の書籍は読まなくなってしまったのだが、なんとなく久々に椎名サンの本が読みたくなって購入。帰りの電車で、一気に読了。

 本書を読んで、死について少し想いをめぐらした。 


 私は、

 限りなく唯物論者に近い不可知論者

 なので、死後の世界も霊魂も、生まれ変わりも、基本的には信じていない。

 「人は死んだら灰になり大地に還る」、ただそれだけだと思う。

 けれども当然ながら、現時点では死後の世界も霊魂も、生まれ変わりも、「在る」とは証明されていないが、「無い」とも証明されていないので、「それらがあったら、いいかもね?」と思うことは無いでもないし、それらを完全否定するつもりも無い。

 また叙情的に考えると、「人は死ぬと、灰になります。以上!」というのは、たしかにちょっと虚しくはある。だからこそヒトという知性をもったサルは、理性ではなく感情として、

 “信仰というフィクション”

 によって虚無という現実に対したい、となる気持ちは分からないでもない。

 自分自身も、死を今以上に自分のこととして切実に感じるようになったら、手のひらを返すように“信仰というフィクション”にすがるかもしれないし、それはまあ、ヒトという心身ともにか弱いサルの宿命として、許してもらえるのではなかろうかと思う。

 ただ、こうした無神論者の死の直前の手のひら返しは、映画『七人の侍』の中で、村人の命を守るために善意で集まった侍たちを、あろうことかシカトしていた農民たちが、野武士の襲撃を告げる警報が鳴らされたとたんに、

 「お侍さま~~~~! お侍さま~~~~!!」

 と擦り寄って、おもねるシーンを彷彿とさせるようで、ちょっと嫌だな・・・。



 「人は40歳を過ぎたら、1日に1度は、自分の死を考えるべきだ」

 というのは、人生の達人・池波師の警句だ。

 そこで、自分はどのように死にたいか? と考えると、一人で稽古をしているか、飲んでいるかしているとき、ばたっと倒れてそのまま静かに逝きたいものだ。自分以外の人がいると、心配をかけるので、一人でひっそりと、がいい。

 こういう死に方は、“孤独死”と呼ばれるのだろうが、個人的には、こうした死に方は、そんなに悪いことだとは思わない(むしろ、こうした死を、「悲しいこと」「寂しいこと」と決め付けてしまう風潮に、なにか現代の硬直した価値観を私は感じるのだけれど、この話は長くなるので、また別の機会に・・・)。

 いやいやまてよ、西行法師よろしく花の盛りに桜の木の下で、飲みつかれて彼女の膝枕でうとうとしながら、そのままご臨終となれば、それはそれで最高だとも思う(笑)。

 いずれにしても、死んだら焼いて、骨は粉にして故郷である伊豆の達磨山から、麓に向かって適当にまいてもらえたら、存外の喜びである。

 やはり人は、死んだら大地に還るべきであろう。

 そして、骨は灰として土に落ち、大地の養分となって草を育み、その草を草食動物が食べ、それらを肉食動物が食べ、それらをさらに人間が食う。そしてその人間は、また死んで骨になり、灰になって大地に還る。

 生々流転。リアル輪廻だ。

 もっとも散骨というのは、それをやってくれる遺族や有志がいればの話であろう。妻も子もない私には、望むべくも無いこと。

 現実的には、地元の市町村の無縁仏用の納骨堂に納められるであろうが、まあ、どうせそのときは、自分はもう死んでこの世にいないのだから、どうでもいいと言えばどうでもいい話である。

「我死なば 焼くな埋むな野に捨てて 痩せたる犬の腹をば肥やせ」
 (壇林皇后/橘嘉智子の辞世、小野小町の作とも言う)

 というところか。


 さて一方で、もし“死後の世界”があるとすれば・・・。

「あの世にも、粋な年増がいるかしら」(三遊亭一朝の辞世)

 と、いう感じかね。

 今世では武術・武道人として清貧かつストイックに生きた分(嘘)、もちょっと艶っぽく、そして粋に、彼岸とやらを楽しんでみたいたいものである。

 天女のお酌で、まずは一献。

 あっ、酒はぬる燗でたのむよ。

 (おしまい)
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良い手裏剣は折れない/(手裏剣術)
- 2013/05/19(Sun) -
■2013.5.20 加筆

 翠月剣製作における焼入れの実際などについて、無冥流・鈴木崩残氏がホームページ「松の間」で解説されています。興味のある方は、ご参照ください。

★「松の間」
http://www.mumyouan.com/k/?M1145


       *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  


DSC_9387.jpg
▲「25年式翠月剣・改」。上は打剣の際、的に刺さった手裏剣の剣尾を叩いて、切先が曲がったもの


 前にも書いたが、しっかりと焼き入れがされた手裏剣は、良い刀同様、よく粘って折れない。

 上の写真は、昨日の稽古で使った「25年式翠月剣・改」である。

 的に刺さっている剣の剣尾に、次に打った剣が当たってしまい、写真上のように切先が曲がってしまった。

 上の手裏剣の切っ先が、曲がっているのがよく分かる。


 「25年式翠月剣・改」は、米国のフライング・スチール社製なのだが、焼き入れや切先・刃部の調整、巻物などは、すべて無冥流・鈴木崩残氏が、自ら仕上げてくださっている。

 写真は、手裏剣の切先から刃部にしっかりと焼きが入り、粘りのある(つまり折れない)手裏剣に仕上がっている証拠だ。

 この曲がった切先、さきほど修正しようと、ペンチで引っ張ると、折れずに元に戻った! つまり、それだけ粘るのである。

 良質の武具というのは、こうでなければならない。

 (了)
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メリケン君、最高!/(手裏剣術)
- 2013/05/19(Sun) -
 本日の翠月庵の稽古では、この前、本ブログで紹介した米国製の新しいサイズの翠月剣を、二~五間打ち、手裏剣術運用型、刀法併用手裏剣術などで、じっくりと検討しました。

 その結果は・・・、最高! そして最強です!

 たびたびサイズが変わるのも、われながらみっともないですが、今回の

「25年式翠月剣・改」(通称メリケン君)、

 私がこれまで打った手裏剣の中でも、最高のレベルの仕上がりです。

 詳細は、改めてブログなどにまとめますが、これほど私の手之内と体にマッチした手裏剣はないのではないかと痛感しました。

 ある意味、感動的ですらありました!

 打ちやすさ、威力ともに、従来の25年式翠月剣を、はるかにしのぐものです。

 稽古で興奮したのは久しぶりです!!

 冷静なレポートは、また項を改めます。

 (了)
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手裏剣は腰で打て/(手裏剣術)
- 2013/05/17(Fri) -
■本日の稽古備忘録

 「手裏剣は腰で打て」というのは、昔からよく言われてきたし、その意味するところについて分かっているつもりでいた。


 しかし、ここ数日、「・・・・?!」っという腰の具体的な感覚の予兆があり、今日、剣を打っていて、その感覚をきわめて具体的に、そしてリアルに感じ取ることができ、その結果、打剣の精度が飛躍的に上がった。

 これだけ突然、打剣の質が変わる(かもしれない)のは、何年ぶりかという感じである。


 といっても、本日は翠月庵別邸(ようするに自宅)での稽古なので、二間座打ちでの感覚であり、これが通常三~四間での立打ちではどうなのか? 明日の稽古で、検証してみるつもりだ。


 今の感覚では、(私の場合)順体でも逆体でも右軸の右腰を身幅の中心にした構えを作り、目や手先で狙うのではなく“右腰から直接的に照準を定めて打つ”感覚を意識することで、精度が非常に高まった。

 やはり、「手裏剣は腰で打て」とういうことか・・・・。


 抜刀術。

 袈裟斬りの角度について、ここ最近、改めて思うところあり。

 動的の試物の抜打ち。

 動く試物に拍子を合わせるには、腰を割った鞘引きにより点の間で斬る(抜く)。またこれにより、重い刀を軽く遣える。

 (了)
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「平安」の形の奥深さ/(武術・武道)
- 2013/05/16(Thu) -
 昨日は、ひさびさの空手の稽古。

 急に暑くなったこともあり、また日ごろの不摂生もあってか、最初の40分間の基本稽古でみっちりと絞られた段階でバテバテ。我ながら、情けないのう(苦笑)。


 この空手教室は、県連が主宰する主に初心者や稽古のブランクのある人を対象にした教室のため、稽古内容は、基本と形が中心だ。形も初心者向けに、全空連の平安を指導されている。

 前にも書いたけれど、私が以前学んだ平安の形はG流の形であり、しかも有段者になると平安の形はあまり熱心にやらないので、この空手教室で学ぶ全空連(糸東流?)の平安の形は、たいへん新鮮である。

 空手道の形の中でも平安の形というのは、いわゆる「初心者向けの形」だ。

 たとえば「平安三段」と、「雲手」とか「北谷屋良の公相君」といった形を比べるて、「どちらが上級向きか?」と問えば、100人の空手人のうち100人が後者と答えるであろう。


 しかし、ここ1年ほど平安の形のご指導を、県連の先生方にご指導いただいてきて思うのは、平安の形、しかも誰もが最初に学ぶであろう「平安二段」の形は、実に味わい深く奥深いのだなあということだ。


▲「平安二段」の形のお手本


 よくよく吟味してみると、このごく初歩的な形の中には、基本的な打突技術はもちろん、関節技や投げ技のエッセンスも含まれているのだなあということが分かってきた。またこの形には、表現上は蹴り技はないのだけれど、猫足立ちの隠し技として前足蹴離しが内包されているので、その意味を知っていれば、技の過不足はない。

 なにより、基立ちによる中段順突きは、伝統的な空手道の突き技の昇華とも言えるのではなかろうか・・・と思えるようになってきた。

 道場に所属して、試合に出ていたころは、遠間から大きく踏み込んでのワンツーなどといった技を散々稽古してきたけれども、実際に日常生活の中での「護身の技」としての「空手の突き」を考えると、基立ちでの中段追い突きこそ、もっともシンプルでしかし最も効果的なのではなかろうか・・・。


 とまあ、そんな思索も、空手道を表芸として真摯に練成を続けていらっしゃる多くの先達の方々からすれば、「路地裏の手裏剣屋ごときが、何をいまさら・・・」と苦笑いされることであろう。

 あくまで、私の表芸は手裏剣術とやっとう。

 こんな駄文も、「パートタイム空手愛好家」のたわごとと、お許しいただきたい。

(了)
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メリケン生まれの“すごい奴”/(手裏剣術)
- 2013/05/14(Tue) -
201305142150000.jpg
▲上が米国製の新型25年式翠月剣。下が従来の25年
式。全長が一回り大きくなった


 メリケン生まれの“すごい奴”が来た。

 重ね6ミリの25年式翠月剣は、もともと長さ230ミリ、幅13ミリ、重さ126グラムなのだが、この米国製は、長さ255ミリ、幅13ミリ弱、重さ144グラムと、全体的に一回り大きくなっている。

 まず手にとってみて最初に感じたのは、「この手裏剣は、打ちやすいだろう」ということ。

 今回の剣は長さの関係で、たまたまだが、私の手之内で、ちょうど重心位置に指置きがくるのだ。実は従来型の25年式の場合、剣の重心位置と私の自然な手之内での指置きの位置に、5ミリほどずれがあり、ここで微滑走をかけるか、指を曲げて打っているのである。

 ところがこの新作では、偶然ながら指置きと剣の重心位置が、ほぼ一致していた。ゆえに、初めて手に取った瞬間から、「しっくりきた」わけだ。

 残念ながら拙宅では二間座打ちしかできないが、早速、従来の25年式と交互に試打。

 全長が伸びた分指置きの位置が自然に重心位置になること、また重さが増したことで剣の自重で的への飲み込みがよくなっているなど、このメリケン君、実際かなり打ちやすい。

 とはいえ、なにしろまだ近距離の座打ちだけなので、当庵の手裏剣術の練成間合である、三~五間でどのような操作性と威力を発揮してくれるのか? やはり、少し重過ぎるか?

 いずれにしても、今週末の稽古が楽しみである。


 それにしても毎回、「少し重いのが気になる・・・」とかいいながら、次第に巨大化してくる翠月剣。最終的には、下記のような剣に行き着いてしまうのだろうか(笑)。

円明流短刀型手裏剣2
▲鈴木崩残氏制作の、円明流短刀型手裏剣の写し。材料上の問題から、重ねのみ本来のものよ
り薄くなっている


(了)
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今年の合宿のテーマは「四方打ち」/(手裏剣術)
- 2013/05/13(Mon) -
 春の演武が終わって少し気が抜けたのか、先週末から3日間、稽古を休んでしまった。

 “ほぼ”毎日、稽古をしていると、3日も続けてまったく手裏剣や刀に触らないと、「サボってるのう・・・」と、心が痛む。これもまた、ある種の依存症なのか。


 6月は、昨年に引き続き、山梨にて翠月庵の夏季合宿を開催する。

 今年も、切紙以上の会員諸子は全員参加とのことで、庵主としてはうれしい限り。また、これも昨年に引き続き、無冥流の鈴木崩残先生には、企画から準備、武具の用意まで、何かにつけてご協力をいただき、ありがたく思っております。


 今年のテーマは、「四方打ち」を考えている。

 当庵で編纂した手裏剣術運用型では、前後打ちと左右打ちはあるが、四方打ちはない。これは、四方打ちとは、前後打ちあるいは左右打ちの連続したものなので、あえて省略したのだが、やはり連続した挙動の中で、東西南北の相手に剣を打つ「四方打ち」を、平素から型として鍛錬しておくことは無駄ではない。

 一方で普段の稽古では、稽古場のスペースや安全性への配慮から、直線上に2カ所の的を立てて、前後打ちや左右打ちを稽古することはあるが、四方に立てることはあまりない。

 そこで今回の合宿では、体育館という広いスペースを活用し、四方に的を立てての「四方打ち」を、みっちりと稽古してもらおうと思っている。

 そのためには、まず順体、逆体、右転、左転、送り足、引き足などといった、各種の前後打ちに習熟する必要がある。

 その上で、剣術諸流に見られる「四方斬り」「四方敵」といった業の運用を手裏剣術の打剣に展開した、「四方打ち」を稽古・検討してみようかと思っている。


▲昨年の夏季合宿で行った、前後打ちの稽古。距離三間で前後の相手に剣を打つ。この
動画では、2本の剣を同時に打つ「両眼打ち」で前後打ちを行うという、上級技法の稽
古を行っている

(了)
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長巻風マシェット/(身辺雑記)
- 2013/05/09(Thu) -
 若山先生版でもヨロキン版でも、『子連れ狼』を鑑賞していて思うのは、「やはり野戦では、刀より薙刀や長巻だよなあ・・・」ということ。

 史上最強の女性武道家・園部秀雄師の逸話を引くまでもなく、長柄武器の強さは圧倒的だ。


 そこで、こんなものを見つけてしまったヨ。

1007panga03.jpg
▲コールド・スチール社製「ツーハンディド・パンガマチェット」全長約92センチ、刃長約40センチ


 これって、小ぶりの長巻ではないか!

 しかもお値段は、ジャパネット・タ●タもびっくりの、5,000円足らず。

 もっとも全長約90センチということは、長さは普通の打刀と変わらないわけで、実は長巻としての利点はあまりないのだろうなと思う。

 ちなみに私は、同社のツーハンド・ラテン・マシェットはすでに所有している。こいつは全長約76センチ、刃長約53センチと、脇差サイズのマシェットである。

97TM21_m.jpg
▲切れ味、耐久性、軽量さ、メンテナンスフリーなど、同社のマシェットは、非常に
ポテンシャルが高い


 まあ、こうしたものは「実用刃物」と言いながら、日本国内のアウトドア・フィールドでは実際に使うようなシチュエーションはほとんどないわけけで、事実上、好事家のコレクションということになるのだろうね。

 それにしても、上記のミニ長巻、ちょっと欲しい・・・。


 と思ったら、同社のホームページに、まんま長巻があったヨ。

97THK_m.jpg
▲「TWO HANDED KATANA MACHETE」。全長約88センチ、刃長48センチ、重ね
2.8ミリ、重さ924グラム。お値段は約43ドル! しかし、これはさすが
に、日本では売ってないだろうね・・・


 しかし本当に欲しいのは、斬馬刀や槍、短刀や手裏剣、さらには機関銃まで搭載した、防弾使用の乳母車。もっとも乗せる子供はいないがね・・・(爆)。

kodure.jpg
▲大五郎は、テレビ版初代の西川・大五郎が、もっとも良い。あ
の宿命を抱えたような表情は、演技を越えていたね。ただし後年、
本人が本当に冥府魔道に入ってしまったのは、残念なことである。
ちなみに映画版の富川・大五郎も、その無垢な視線が良かったのだ
が、これまた後年、本当に冥府魔道に入ってしまったとのことであ
る・・・

 (了)
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座打と座技による刀法併用手裏剣術/(手裏剣術)
- 2013/05/06(Mon) -
 本日の稽古備忘録。

  跪座での座打ちと正座による座打ちの違いを、吟味しながら剣を打つ。

 手離れや腕の振り、構えなど、手裏剣術で最も基本となる、そして最も重要な右上半身の微細な動きを知るためには、跪座よりも正座の方が、さらに下半身の力を使うことができないだけに、有効に思う。

 ただしいずれの場合も、立打ち同様、右の前腰に意識を置いて打剣することがポイントだ。


 室内で障害物が多いため、座技での刀法併用手裏剣術は、逆袈裟や横払いではなく、裏小手への斬り上げで行う。

 部屋が狭いためか、抜刀時、無意識のうちに腰の切り替えによる足の踏み代え(「水鳥の足」ってやつですなあ・・・)をしてしまったのが、我ながらおかしい(笑)。

 こうした腰の切り替え(腰を縦方向に割る動きによる、瞬間的な半身の切り替え)は、古流の剣術や居合・抜刀術では、ごく当たり前の動きであるし、空手道の型にも含まれているもので、ことさら大仰なものでもないけれど、稽古者が実際に己で体感でき、それを抜刀や操刀、あるいは打剣や当てなどに実技として活かすには、指導者の適切な指導と、稽古者自身によるそれなりの修練が必要だ。


 腰の切り替えは別として、打剣から抜刀へ続く拍子を整えるための鍛錬としての座技の刀法併用手裏剣術は、さらにその意義や効果について、検討していきたい。

201305062146000.jpg
▲座技の刀法併用手裏剣術。距離二間で、正座のままの
座打ちで打剣。右足を踏み出しながら抜刀して斬上げ、
前進せずその場で体を切り替えて左半身になり、正面斬
り。後、残心、納刀。なお蛇足だが、ダンボールの的で
は剣が貫通してしまうので、的にダンボールを使うとき
は、写真のように必ず固めのバスマットや畳などの上に
貼り付けて使うこと。なぜダンボールを使うか? バス
マットの寿命を、少しでも延ばすため・・・、貧者の一
灯である(笑)

 (了)
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「ニコラス・トラウマ」の自己分析/(武術・武道)
- 2013/05/05(Sun) -
 大型連休も、残すところあと1日・・・。だからかどうか知らないが、今日はいつになく拙ブログのアクセスが多い。といっても、まあ約80人様(笑)。通常、常連の読者の皆様は30人くらいなので、いつもの倍以上なわけだが、これもニコラス“刑事”のおかげなのだろうか?


 怪作・リメイク版『ウィッカーマン』を見て、いつになくどんよりした不快感を感じ、プチPTSDになってしまったのだが、この不快感(ニコラス・トラウマ)について、ちょっと自省してみた。

 この映画よりも、もっと救いのない、あるいはもっとグロくて後味の悪い映画を散々見てきた自分が、なんでこんなに後味の悪さを引っ張るのか?

 私が感じたこの映画ラストでのトラウマポイントは、次のようなものだ(なお、以下の内容はネタばれになるので、そこんとこヨロシク)。


1.殺意をもった群集に、丸腰でとり囲まれる
2.その場所は、絶海の孤島の中の開けた平地で逃げ場がない
3.しかも、お日様さんさんの真昼間である
4.群集はカルト宗教を信じる狂信者(自分のヨメ・ムスメ含む)
5.拉致された後、両脚を折られて逃げられない
6.おまけに自分の一番嫌いな生き物(映画では蜂)に、むりやり顔面を刺されまくる拷問を加えられる
7.その後、生きたままじわじわ焼かれる
8.それを見て、カルト信者の皆さん、大喜び
9.主人公、恥も外聞もなく、命乞いをする
10.「どんでん返しで、助けがくるのか!?」と、思いきや、結局、焼かれて死んじゃう


 まず1.~3.についてだが、脳みそラリパッパの狂信的な群集(ざっと100人くらい?)、しかも我に殺意をもった人々に取り囲まれて、丸腰でいるというのは、武芸をたしなむ者としては、非常に嫌な状況であることは言うまでもない。

 しかも場所は絶海の孤島。そして真昼間の開けた平地で、隠れる場所もなく、周囲には武器の代わりになるような石ころや木の枝ひとつとてない。

 こりゃあ、どうにもなりませんね・・・。

 これが、森の中とか山地、大都市の街中などで、相手が最大でも20人くらいで、夜だったら、まだなんとかなりそうな気もしないでもない。

 たとえば森林なら起伏や潅木を利用することができるし、木の枝や石などを武器にすることもできよう。街中でも同様だ。しかし、草原のような広場では、どうにもならん。おまけに相手の数が多すぎ&農機具みたいなので武装しているし・・・。真昼間なので、闇に隠れることもできない。

 つまりこのシチュエーションというのは、1対多数で戦うことを考えると、あらゆる意味で最悪の「場」であるということだ。

 なにより嫌なのは4.の点である。

 通常、まともな人間には、「痛み」や「苦しみ」、「恐怖」などの感情がある。ゆえに、1対多数の闘争でも、これらが利用できるのだ。具体的には、最初の相手を徹底的に派手に傷つける、あるいは「せめて1人は、道連れにして殺す」といった気概と姿勢を見せることで、他の相手の戦意を挫くことも可能だ。

 しかし宗教や思想などで洗脳されていて、「恐れ」や「痛み」を感じない(予測しない)集団や個人には、こうした心理的な兵法が通じない。このような集団による人海戦術ほど、恐ろしいものはないのである。

 つまり1~4.までのトラウマポイントをまとめれば、「兵法の視点から見て、最悪の状況」ということだ。


 一方で、5.~10.は、危機においての己のありようの問題である。

 5.の「脚を折られて逃げられない」というのは、逃亡の可能性を完璧にたたれた状態である。ロープで縛られたとか、鎖でつながれているというならまだしも、両足を鈍器で折られたら、孤島から逃亡できる可能性は0パーセントだ(映画『ミザリー』では、折られた〔切られただっけ?〕のは片足だけだったから、まだ救いがあった・・・)。

 6.の「自分の一番嫌いな動物(映画では蜂)に、むりやり顔面を刺されまくる拷問」。これは、精神を打ち砕かれるという意味で、非常にダメージが大きい。こういう拷問で、心を折られてしまうと、もう逃げる気力、反抗する意欲もなくなり、どうにもなりますまい・・・。

 7.の「生きたままじわじわ焼かれる」というのは、非常に苦痛なのだそうな。その昔、中世の異端諮問では、「頼むから、殺してから焼いてくれ」と被告が懇願するほど、生きたまま焼かれるのはつらいとか。

 8.の「それを見て、カルト信者の皆さん、大喜び」と、9.の「主人公、恥も外聞もなく、命乞いをする」というのも、(映画を見る側の)精神を打ち砕く。もし主人公が、「くそったれ! 手前ら、必ず呪ってやる! 祟って、皆殺しにてやる! ぶっ殺してやる!」などと、罵詈雑言をはきながら焼き殺されたなら、まだましだったろう。

 しかしこの映画でニコラス“刑事”は、にこにこと笑ってニコラス“刑事”が焼け死ぬのを見物しているカルト信者の皆さん(自分のヨメとムスメ含む)に、「助けてくれー!」「神様ー!」っと、恥も外聞もなく懇願し続けるのである。

 しかし、当然ながら、神様も、カルト信者の皆さんも、だれもニコラス“刑事”を助けてはくれない。その情けなさ、哀れさが、無情さが、見る者の精神にさらなる不協和音を突きつけるのだ。

 そしてとどめが、10.の「『どんでん返しで、助けがくるのか!?』と、思いきや、結局、焼かれて死んじゃう」である。

 実際、普通に考えれば、あの状況で助かるはずがないのだが、「前の場面で、携帯が突然つながったってことは・・・? ハリウッド映画なんだから、きっと最後は助かるんだろう・・・。あるいは、主人公の夢落ちとか?」、などとと思うのであるが、あっさりとニコラス“刑事”は、こんがりローストされてしまうのである。

 ま、現実世界でも、究極のピンチにタイミングよく助けがくるなどということは、ほとんどありえないのだが。

 じつは私自身、その昔、中東のとある僻地の村で、自分の乗っている車を地元の群集に取り囲まれ、危うく車から引きづり出されそうになったことがある。このときは、ドライバーの機転でなんとかことなきを得たけれど、その恐怖の記憶が、この映画によるトラウマをさらに引き出したのかもしれない・・・。



 考えてみると、たとえば映画版『子連れ狼』シリーズで、なぜ若山富三郎先生扮する拝一刀が、100人や200人の敵を相手にたったひとりで戦って、たびたび危地を脱しえたかというと、

1.重武装している(刀、槍、長刀、短刀、機関銃を常に装備。しかも防弾仕様の乳母車付)
2.地形を最大限に利用して戦う(山、川、林、塹壕などを利用。時には子供そものを利用して、相手をだまし討ちする)
3.相手の精神を打ち砕く(相手によっては、公儀介錯人・拝一刀の名前を聞くだけで、びびって戦意喪失)
4.常に移動しながら、相手を各個撃破していく(絶対に、その場に居着いて戦わない)
5.そもそも本人が、バケモノじみて強い(なんたって、若山富三郎先生だ・・・)

 だからである(これだけの条件がそろっていても、『子連れ狼 親の心、子の心』のラストでは、若山先生は瀕死の重傷を負ってしまうのである)。

 これらの条件は、『ウィッカーマン』のニコラス“刑事”には、まったく当てはまらないのだ。


 さて、このように考察すると私は、

 丸腰のまま殺意を持った狂信者の皆さんに取り囲まれ、逃げるすべもなく拉致され、拷問を受けて両脚を折られ、生きたまま火に焼かれ、恥も外聞もなく命乞いをするも相手にされず、殺される

 ことが、怖ろしいらしい・・・。

 ま、当たり前だ。

 ということは、「ニコラス・トラウマ」を解消するためには、

 そいういう危地に陥らないために、いかに武芸者としての智慧と業を危地で活かすか? そして、やむを得ず最悪事態に陥ったら、いかに覚悟を決めるか?

 ということが肝要なのだろう。

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▲死に臨んで、人がどれだけみっともなく、哀れな存在なのか? 
それを体現してくれたのが、テレビ版『子連れ狼』で、金田龍之介
氏が演じた公儀お毒見役・阿部頼母、その人だった。「じにだぐな
いー(死にたくないー)!!!!!」という無様な叫びと、最後の
最後に拝一刀に介錯をしてもらう際に流した諦念の涙は、命に執着
する、私自身も含めた平凡な人間の哀しさを象徴しているようだっ
た。頼母よ永遠(とわ)に・・・


 とりあえず、行方不明者を探しに、一人で閉鎖的な孤島を訪ねるときには、十分な注意と武装、できれば特殊な装備を加えた乳母車が1台必要だと、改めて実感した次第である。

 (おしまい)
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ニコラス“刑事”とメリケンサック/(身辺雑記)
- 2013/05/04(Sat) -
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▲いつも“困り顔”のニコラス・ケイジ扮する刑事が、美少女や美女や美熟女た
ちに翻弄され、あんなことやこんなことをされた挙句、悲惨な末路を遂げるとい
う、映画的カタルシス皆無の怪作。映画ファンの評価は低いようだが、私はこう
いう作品は嫌いではない。見終わったあとの、後味の悪さが最高!



 どういうわけか魔がさしてしまい(爆)、悪名高いニコラス“刑事”主演の映画・リメイク版『ウィッカーマン』を鑑賞した。

 壮絶なバッドエンディングのおかげで、ゴールデンウィーク真っ只中の夜中だっつうに、本気で欝な気分になり、夜明けまで眠れず。

 映画のラスト、あのシチュエーションで、丸腰の状態で狂信的な群集にとり囲まれるというのは、かなりキツイ状況である。せめてメリケンサックくらいないと、とても群集の囲みを突破することはできないだろうなあと、しみじみ思った。

メリケンサック
▲いわゆる、ひとつの、メリケンサック。コレで、お
つむりのいかれたカルト宗教信者の顔に、右の突
きをぶち込む場合は、「ギャラクティカ・マグナム!」
と叫ぶべし。ちなみに、左の突きの場合は、「ギャラ
クティカ・ファントム!」であることは、言うまでも
有馬温泉・・・


 おかげでニコラス“刑事”は、脚をあんなことされて絶叫し、顔をあんなことされて悶絶した挙句に、ヤギと一緒に、巨人の人形の中で、あんなことになってしまうと・・・。

 もっとグロいバッドエンディングの映画はいくらも見たことがあるのだが、どういうわけかこの映画、私の精神の不快感・不安感の琴線にふれてしまったようで、ちょっと今、本気でプチPTSD気味。

 「オレの脚がああああ・・・・!!!!」(Byニコラス“刑事”)



 この映画で学んだこと。

 携帯も通じない怪しげな孤島に、たった一人で乗り込んでいく場合には、銃だけに頼らず必ず複数の武器で武装しておくこと。『インソムニア』のアル・パチーノ刑事なんか、銃×2丁+ナイフの重武装だったぞ、ニコラス“刑事”。

 そして自分の鉄砲にきちんと弾が込められているのかは、常に確認しておくこと。スティーブン“大阪弁”セガール刑事などは、軽くスイライドを下げて拳銃の薬室に弾が装填されているかを常にチェックしているぞ、ニコラス“刑事”。


 というわけでこの映画は、連休で浮かれ気分の脳髄に強烈な「後味の悪さ」という鉄槌を下す、ひさびさの最悪映画(この場合は、ほめ言葉デス!)であった。

 (おしまい)
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放り投げた試物の抜き打ち~本日の稽古備忘録~/(武術・武道)
- 2013/05/03(Fri) -
 本日の稽古備忘録。


 打剣の後、居合を少々。途中、居合の形稽古の合間に“座興”として、立合で試物を宙に放り投げて、それを抜き打ちに斬る。

 試物は、ティッシュペーパーを拳大に丸めてテープで留めたもの。これをひょいと放り投げて、逆袈裟や横一文字で抜き打ちに斬る。

 この稽古の要点は、鞘離れの拍子と試物の動きの拍子を合わせることであり、試物の動きの予測=読みがポイントだ。

 ゆえに、どんなに抜き付けそのものの速度が早くても、鞘離れの点の間の拍子と試物の上昇~落下の拍子が合わなければ、試物の真芯を捉えることはできない。逆に、抜き付けの速度そのものがゆっくりでも、離れの点の間の拍子と試物の動きの拍子が合っていれば、容易に試物の真芯を捉えて斬り飛ばすことができる。


 このような拍子の効果は、体術における当身や投げでもまったく同じだ。

 当てと相手の動き(呼吸も含む)の拍子がぴったり合えば、ごく軽い当身でも、相手は簡単に悶絶する。しかし、当てと相手の動きの拍子が合っていなければ、渾身の力を込めた突き蹴りを急所といわれる場所に当てても、アドレナリン全開で身構えている人間は、容易に倒れないものだ(唯一、眼球という急所は別)。

 素人同士の喧嘩の際、打ち所が悪く思った以上に大きな怪我を相手に負わせてしまったり、場合によっては死に至らしめてしまったというようなケースがあるが、これは偶然、当てと相手の動きの拍子、そして打ち所(急所)が合ってしまったことが原因であることが多い。

 なお、放り投げた試物を抜き打ちで斬るというのは、見た目が見世物の“大道芸”そのものなので、用の美を尊ぶべき武術・武道人は、けして人様の前でやるべきではない。

 こういう稽古は、“こっそり”やるものなのだ。

 しかし、畳表や竹などを使った一般的な斬りの稽古(試斬)では、試物そのものは固定されて動かないので、こうした動的に対する稽古を補助的に取り入れる意義は大きいだろう。


 手裏剣術。

 向身の姿勢の打剣では、正中の軸をベースにして打つと打剣がずれるので、右側の体軸をベースに、右前腰を基点とした「意識の顕在化」を心がけることで、打剣の精密度が高まる。

 剣の姿勢の乱れは、構えの乱れ。同時に、手離れを惜しまないこと。

 これら複数の繊細な動きを、同時多発的に一瞬で行うことが、手裏剣という“術”の妙味である。

 そりゃあ、難しいわけだ(笑)。

 (了)
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「非人捕」と関節蹴り/(武術・武道)
- 2013/05/02(Thu) -
 連休前半は、俗世間を離れて過ごしていた・・・。


 どういうわけか眠れないので、未明から朝まで稽古。時間が時間だけに、近隣の迷惑にならぬ程度に、手裏剣を打ち、居合を抜き、体術を少々。

 以下、本日の備忘録。


 体術の稽古で、関節蹴りに関して少々、思うところあり。

 それに関連して、関節蹴りを用いる古流柔術の技に「非人捕」(※注1)というのがあったはずなのだが、これの所作が思い出せず、稽古後、武芸関連の書架をごそごそとあさる。

非人捕1
▲『極意図解柔道新教範』(菅原定基著)で解説されている「非人捕」。本書は大正14年発行の関口流柔術の教本で、小佐野淳先生の解題・解説と合わせて、平成3年に復刻出版されたもの


非人捕2
▲関口流の「非人捕」は、相手の後襟を掴みながら、ひかがみ(膝の裏)に蹴りを入れて後ろに引き倒し、裏拳で眉間に当身を入れて極める業である


 子供のころ、後ろからトモダチの膝裏に自分の膝頭をこっそり押し付けて「ガクン」とさせる「ヒザカックン」なる遊びが流行ったことがあったのだが、関口流のこの技、同じ原理である。

 ただし武技なので、相手に後ろから近づき、膝裏に下段前蹴りをぶち込みながら、同時に後襟を掴んで引きずり倒し、さらに当身で極めるという、えげつない技だ。

 著者の菅原定基も、「これは誠に素早き捕り方なり。(中略)この捕り方は後ろより不意にかかるゆえ、卑怯にもあれば・・・」と書いている。

 
 空手道を中心に稽古をしていた頃、他流ながら出稽古で私たちを熱心に指導してくださったT先生がいた。この先生は、私に「抜き胴式の回し蹴り」や「内捻式の前蹴り」などを教えてくださった、蹴り技の名手であった。

 そんなT先生が、「市村さん、試合には使えないけどね、こういう蹴りも覚えておきなさいよ」と教えてくれた技のひとつが、関節蹴りであった。

 先生の指導してくださった関節蹴りは、すれ違いざまに右手で相手の右奥襟を引き下げながら、相手の右膝を横や斜め後方、あるいは後ろから足刀で蹴り潰すというものだ。

 この際、足刀を膝の横や斜め後方から蹴り込むと膝が壊れてしまうので、地稽古の際には、先述の「非人捕」のように、真後ろからひかがみに軽く蹴り込まれるのだが、これを食らうと、思い切り「ヒザカックン」状態になったものである。

 若い頃は、どうしても派手な上段蹴りなどに夢中になるものだが、歳を重ねてくると、こうした玄人好みの冴えた小技に惹かれるようになる。


 そんなこんなで、朝まで「バッサイ大」の掛手から関節蹴りの挙動(※注2)をいろいろと考察しているうちに、夜が明けてしまった。

 さて仮眠してから、今日も仕事だ・・・。

 (了)


(※注1)

 「非人」という言葉とその意味は、いまだに差別や人権に関するデリケートな社会問題を孕んでいる。

 本稿においては、タイトルおよび本文で、伝統的な技芸である古流柔術の技術を考察・解説するために、伝承されたままの「往時の技の名称」を表記しているが、筆者に差別を助長・肯定する意図は一切無いことを、ここに明記しておく。


(※注2)

 形の挙動は、左の掛手と同時に右の流し受け、そして右足での踏みつけとなる。

 この動きは、一般的には相手の左中段突きを捌きながらの技として解説されるが、実際には我の左手を相手が左手で掴んできた場合に対する、接触技法として考えた方が、より合理的であろう。

 つまり我の左の掛手は、相手の左突きを受けるというよりも、合気道の二教のごとく掴んできた相手の左手首に掛手によって瞬間的に逆をかけるものであり、同時に我の右手は相手の左肘を押しながら、相手の体を我の左方向へ崩す。この状態で、相手の右膝を横あるいは後ろ方向から蹴り潰すのである。

 空手道の形の挙動は、、相手の突き蹴りに対する攻防「のみ」だと考えてしまうと、たとえば、カンクウ小の添え手のある掛手からの前蹴りなど、理合に矛盾が多くなるので注意が必要だ。

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