春が来た/(身辺雑記)
- 2014/03/31(Mon) -


不思議な夢

作詞:なかにし礼
作曲:村井邦彦・日高富明
歌 :石原裕次郎

昨夜不思議な 夢を見た
夢見て泣いて 目がさめた
青い空に 白い雲
風にゆれてる 赤い花
暗い暗いと 思っていたが
結構この世も 明るいじゃないか
それがうれしくて
それがうれしくて
涙ひとつぶ ながれちゃったんだよ

夢がおしえて くれたのさ
季節 季節の 花の色
枝をはなれて散る落葉
人の命の はかなさを
つらいつらいと つぶやきながら
生きてる姿が 本当じゃないか
それがせつなくて
それがせつなくて
何故か他人に やさしくなるんだよ


 世の中を斜めに眺める、ひねくれ者の流れ武芸者も、春の夜にはこんな気分になる・・・。

 (了)
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真剣勝負/(手裏剣術)
- 2014/03/29(Sat) -
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▲三間直打。板金を打つ心(渾身の打ち込み)での打剣。四寸的にまとまらず。我、未熟なり


 本日は、演武会向けの稽古に集中する。

 今年の演武では、武術としての手裏剣術として、間合、拍子、位、運足、体働など、あらゆる意味で「挑戦」する演武をする。


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▲今年は、これも披露する


 試合も地稽古もない、型稽古や的打ちを主たる稽古とする武術・武道において、演武というものは唯一の「真剣勝負」である。

 ところが不思議なことに、演武を大事にしない者が時折いる。しかも意外なことに、そういう者はどういうわけか、古流「のみ」しか稽古してこなかった者に、時折見られる。

 一般の稽古者どころか、宗家や指導者レベルにもかかわらず、「あんた、明らかに最近、稽古してねえだろう!?」といいたくなるような、お粗末でぬるい演武をする人々が、時折(結構?)いるのである。

 思うに競技武道の稽古者や、古流と現代武道を併習している人のほうが、演武に対する真剣さをより強く持っているように感じるのは私だけだろうか。

 おそらくそれは、「勝負心」というものの差なのであろう。

 現代武道の経験のない古流のみの稽古者の中には、稽古不足を理屈ではぐらかす者や、厳しい稽古・痛い稽古をしたがらない者が少なくない。そんな彼らは、自分の思うままには動いてくれない他者との勝負の難しさや、その結果として悔しさや喜びを知らないのであろう。

 また、そういう者は自分自身の演武はもちろん、他者の演武も大切にしない。

 自分たちが、ぬるい演武やしょっぱい業しか披露できないものだから、他者の演武にも真剣になれないのであろう。


 「武」とは本質的に、過酷で苛烈な命のやり取りである。

 だからこそ私は、自分にも他人にも半端な演武=勝負を許すような、独りよがりのぬるい脳内武芸者にはなりたくないし、そんなしょっぱい門下も育てたくない。

 他の芸事はどうか知らないが、手裏剣術者にとっての演武は、厳しく真剣な「勝負の場」なのである。

 現代の武芸について、「稽古することの楽しさ」を、私は否定しない。むしろ、その楽しさを、私自身も享受している。

 しかし、楽しいだけが武芸ではない。


 楽しいだけのことがしたいなら、酒でも飲んでいればいいし、酒が飲めないなら饅頭でも食っていればいい。酒も甘い物もだめだという朴念仁は・・・・・・、昼寝でもしてみるしかないね。

 (了)
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背負い太刀/(武術・武道)
- 2014/03/26(Wed) -
 江戸では、桜が咲いたとか。こちら武州の桜は、まだ蕾である・・・。


 過日、テレビで鑑賞した木村拓哉氏の『宮本武蔵』。そもそも、吉川英治原作ということなので、武術人としての宮本武蔵の造形にとやかく言うつもりはない。

 ただひとつだけ言いたいのは・・・、いいかげん佐々木小次郎の背負い太刀の向き、直せや! っということである。

 刀を背負うときには、柄が左肩の方になるように背負うという、武芸としての定法を、なぜ守らないのか? 

 試してみればだれでも分かることだが、柄が右肩の方になるように背負ってしまうと、実に抜きにくい。そして何より、抜いた刀を納めることができない。

 このため、沢村一樹氏演じる佐々木小次郎が映るシーンでは、納刀シーンは当然ながら、抜刀する場面もすべてカット割りで編集していた。

 ま、当然である。

 柄を右肩の方に出した背負い方では、三尺越えの野太刀は納刀も抜刀もできなかったのだろう。

 
 同様に、今回のドラマではないけれど、最近の時代劇で気になるのが、弓で矢を射るシーンである。

 外国映画の影響からか、弓に矢をつがえる際、右肩から背中越しに右手で矢を抜き取って、弓につがえるような所作をする役者がいるけれど、お前はインデアンか南方の蛮族か! っと、小一時間ほど問い詰めたい気分になるのは、私だけではあるまい。

 日本の弓術であれば、日本の弓術としての正しい所作で、弓矢を扱ってもらいたいものだ。


 そういえば、「新撰組の斉藤一は左利きだったから、打刀と脇差も右腰に刺していた。だから強かったのだ・・・」とか言う設定の映画もあったが、ここまでばかばかしいと、別に文句を言う気持ちにもならないが。

 もっとも、右腰に帯刀しての左手抜刀や納刀は、稽古の方法としては、なかなか意義深いがね。


 そうは言っても、地上波で時代劇が見られるのは、うれしいものだ。

 (おしまい)
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剣の2/(身辺雑記)
- 2014/03/20(Thu) -
剣の2


 剣の2は好きなカードのひとつ

 棒の4とか金貨の10ではないというのが、いかにも武術・武道人の性(さが)か。


 いろんな意味で、今、こんな感じ。いや、こう在りたいという願望か・・・。

 生業多忙だが、4月の演武も間近。

 二者拮抗、激動を経た静謐。


 そんな感じ。

 (おしまい)
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現代印地考~その2/(手裏剣術)
- 2014/03/16(Sun) -
 手裏剣術者たるもの、たとえ身に寸鉄も帯びていなくとも、とっさの場合には身の回りの物を「手裏剣に打つ」心構えが肝要である、というのが前回までの話。

 一方で、いざというときに投擲するために、あらかじめ自作しておくべき手裏剣以外の「打物」について、口伝として伝えている流儀は少なくない。これらの業は、いわゆる「遠当ての術」というものだ。

 同じ「遠当ての術」でも、インチキくさい・・・というか、武芸の業としては限りなくインチキである、感応・暗示系の旦那芸とはまったく異なり、良いにつけ悪いにつけ即物的なものである。


 まず、古流でよく伝えられているのが、卵を使った打物だ。生卵の上下に小さな穴を開けて、中身を取り去る。空になった卵を陰干しし、よく乾いたら、中身を取り去るために空けた穴の一方を蝋や和紙でふさぐ。そして残りの穴から、石灰と粉末状にした唐辛子を混合したもの※を入れ、穴を蝋や和紙でふさぐ。一朝有事の際には、これを握りつぶすと同時に、相手の顔面に向けて打ち込むのである。

 また、さらに簡便なものとしては、理科用品店などで販売している鉄粉(アマゾンや楽天でも買うことができる)を購入する。これに粉末状の唐辛子または胡椒(荒挽きではなく、昔風の粉末の細かいもの)を加えてよく混ぜる※。それを掌の中に納まる程度の大きさになるように、和紙でくるむ。使用する際には、上記の打物と同様、握りつぶすと同時に、相手の顔面に打ちつける。

※)古伝では、これらに加えてさらにある生薬を混ぜるとされるが、毒性が強い物質のためここでは記述しない。なお、その物質を混入しても、あるいはしなくとも、打物としての効果にはほとんど変わりはないと思われる。


 上記の2タイプの打物は、古流諸派によくあるものだが、和紙や鶏卵の殻を使うなど、いかにも古色蒼然としたものだ。そこでお勧めなのが、フィルムケースの活用である。

 といってもフィルムケースというのは、デジカメしか知らない若い人には、なじみがないかもしらん・・・。

 上記と同様に調合した粉末(個人的には、鉄粉+胡椒+唐辛子がオススメ。割合はヒミツ)を、フィルムケースに充填し蓋をしておく。そして有事の際には、キャップを親指ではじくようにしてはずし、相手の顔面に打つのである。

 フィルムケースの利点は、和紙や鶏卵の殻と違って、誤って破れたり割れたりする可能性が低いことだ。また、これらの打物は、内容物が湿ってしまうと効果が十分に発揮できないのだが、フィルムケースであれば、そういった心配もない。

 なお、かつては日常生活のなかで、簡単に手に入ったフィルムケースだが、いまや完全に一般の人の身の回りから姿を消してしまったのは、なんとも残念である。しかし、ほぼ同じ構造のフィルムケース型容器というのが、アマゾンや楽天で購入できる。

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▲フィルムケース型容器。従来のフィルムケースに最も近いサイズはNo.8


 このような、いわば「催涙型」の打物については、「そんなものを持つのであれば、催涙スプレーを持ち歩けばいい」という意見もあろう。

 まったく、ごもっともである。

 ただし、市販の催涙スプレーについては、護身用に持ち歩いた場合、警察官に見つかると没収される可能性が非常に高いことは、覚悟しておいたほうが良い。また信頼性の高い製品は、それなりの値段であり、しかも購入後、使用期限が定められていることも覚えておきたい。

 ちなみに私が推奨する催涙スプレーは、こちらである(http://www.s-web.or.tv/syouhin/f-605.html


 さて、武芸に伝わる打物には、「催涙系」でないものもある。中には、かなり殺傷力の高い手製できる打物もあるのだが、安全や公共性の観点から、そういったものの知識はここではふれない。

 そこで比較的殺傷力が低く(といっても、当たればかなりの威力がある)、しかし十分に対敵に活用でき、比較的良く知られている打物に、印地鉄や鉄礫がある。これらは文字通り鉄製の礫で、エッジを鉈刃状にして、より殺傷力を高めたものなどもある。

 現代において、こうした印地鉄や鉄礫の代用となるのが、大型の六角ナットだ。差し渡しが40~50ミリほどの六角ナット(規格で記すとM24~M30)は、ちょうど印地鉄や鉄礫と同じような大きさであり、重量も100~200グラムと、重量手裏剣なみの十分な重さになっている。

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▲何の変哲もない六角ナットも、手裏剣術者
が打てば印地鉄・鉄礫という武具になる


 六角ナットの鉄礫(ナット礫)は車剣以上に打つのが簡単であり、一般的な手裏剣術者であれば、通常の打剣の体動のままで、手之内の操作と離れを少し修正すれば、五間尺的程度はごく容易であろう。またナット礫は、普段携帯していても、官憲に咎められることもない。ある意味で、現代の手裏剣術者にとっては、最も理想的な護身具だといえるだろう。

 なお、ナット礫にしても、フィルムケース型催涙礫にしても、ただ知識として知っておくだけでは意味がない。護身に活用しようというのであれば、少なくとも年に数回くらいは、的に打って実際の感覚を体感しておくことが重要だ。

 また、不本意ながらこれらの武具を使用しなければならない場合、前回の記事でも記した通り、打った後には必ず、速やかに相手を制圧するか、あるいはその場から避難するべきである。印地が顔面にヒットして相手がうずくまったからといって、ぼけ~っとその場に突っ立っていては、相手に反撃されてしまい、重篤な被害を受けることになりかねないことを、ゆめゆめ忘れてはならない。

 (了)
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斬り下ろしの際の運足と重心の送り/(武術・武道)
- 2014/03/15(Sat) -
■本日の稽古備忘録

 警視流立居合の形を稽古していて、斬り下ろしの際の運足と重心の送りについて、ちょっとした気づきあり。

 「廻り掛け」や「右の敵」での運足を通して、斬り下ろしの際の重心の送りについて随分前から引っかかっていた課題が、「そうか、こういうことか!」と理解できた。

 これは、先般読んでいた『剣の法』のとある一文も、ヒントというか呼び水になった。

 ごくごく小さなことだが、理合と業が一致して「腑に落ちる」瞬間というのは、なんとも心地よい。

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▲ほんの些細なことでも、稽古をしていて「事理一致」が実感できた瞬間の喜び
というのは格別だ

 (了)
 
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前田英樹著『剣の法』/(書評)
- 2014/03/13(Thu) -
  新陰流・前田英樹氏の新刊『剣の法』(筑摩書房/http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480894106/)を読んでいる。

 武術・武道関係の新刊書物は、できるだけ見逃さないようアンテナを張っているが、初学者向けの解説本や内容の薄い身体論みたいなものがほとんどなので、実際に購入するものは、年に数冊、あるかないかである。

 こと武術・武道の資料に関しては、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーを検索したり、神田の高山本店で古書を探すほうが有意義なことが多い。

 こうした点を踏まえても、前田氏の武術・武道関係の著作は「買い」だと思う。

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 たとえば、武術稽古研究家の甲野氏との往復書簡集である『剣の思想』(青土社)などを読むと、両者の剣術家としての器量の差をはっきりと読み取ることができる。

 あるいは、『宮本武蔵「五輪書」の哲学』(岩波書店)は、現役の剣術家として五輪書の内容を把握した上で、それを哲学レベルにまで止揚した論考を展開しており、現代に稽古をする武術・武道人にとって、最も参考になる「剣術書としての五輪書」の理論的解説書となっている。

 剣の理と言葉の業をもつ著者が、おそらくあえて最低限の写真と、吟味した言葉を尽くした解説を用いて、自らの研鑽する新陰流について述べている本書は、形の動作をなぞるだけの凡庸な解説書とは比較にならない、刺激的な読書体験を、現代の武術・武道人に提供してくれるだろう。


 まだ読了前ではあるが、現時点で個人的に本書を読んで強く刺激を受けたのは、

・真っ向正面の斬りに関する自分自身の知見を再確認・再補強できたこと
・自分の稽古している流儀の形に含まれる、儀礼化してしまった斬り結び動作に含まれる意味の再発見
・袈裟斬りの角度の類型について
・平晴眼の構えについての新たな知見

 など数多い。

 結論として、剣術や居合・抜刀術を嗜む者であれば、この本は「買い」だ! 2000円以上払っても、買って損はない。

 (了)
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「稽古ができる」という喜び/(手裏剣術)
- 2014/03/09(Sun) -
 雪害や雨で、丸1ヶ月間、稽古場での稽古ができなかったのだが、昨日はようやく、通常通りの稽古ができた。

 五間、六間、七間といった間合で、存分に、そしてじっくりと剣を打つことができるという喜び・・・。

 これは、手裏剣術を稽古する者だけが分かる心持ちなのではなかろうか。


 来月には、毎年恒例の、苗木城桜まつり武術演武会がある。

 手裏剣術者の「真剣勝負の場」として、私個人はもちろん、手裏剣術伝習所 翠月庵として恥ずかしくない演武が披露できるよう、あと4週間、みっちりと稽古を詰めていきたいものだ。

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▲帰宅後、巻物の補修をする。的に刺さった剣に、次に打った剣が当たるので、
巻物の損傷というのは結構頻繁だ。軽い傷みの補修は、瞬間接着剤で行う

 (了)
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現代印地考~その1/(手裏剣術)
- 2014/03/07(Fri) -
 国内では通り魔やら、海外では武力介入やら、なんとも騒然とした世の中である。

 一方で自分はといえば、この冬三度目の風邪でダウン。しかし生業の締め切りは山盛りで、3月はニッチもサッチもいかない状況。嗚呼、人生不可解也・・・。


 時々、思慮の足りない人が、「手裏剣の先生は、普段から手裏剣を持ち歩いているんですか?」などと、脳内お花畑全開の質問をしてくることがある。

 日本は法治国家であるからして、稽古でもないのに手裏剣などを持ち歩けば、軽犯罪法違反や銃刀法違反などで、簡単に手が後ろに回ってしまう。ことに最近は、お上の規制が非常に厳くなっているので注意が必要だ。しかも、この手の違反で取り上げられた刃物類は返却してもらえないから、あたら大切な武具を没収されたりしないためにも、むやみに持ち歩いたりするものではない。

 そもそも真っ当な現代の武芸者は、刃物や手裏剣など持ち歩かないのだよ、関口君(by京極堂風)。

 とはいえ、世相騒然たる今日この頃であるからして、丸腰で歩くのはいささか心もとない・・・、という気持ちもわからないではない。

 和装であれば、鉄扇の一本も帯に手挟んでおけばいいのだが、洋装の場合はそういうわけにもいかぬ。そこでまあ、平成に武芸を嗜む人は、それぞれ自分なりに護身の工夫をしていることが少なくない。

 さてそれでは、平成の手裏剣術者たるもの、いざ日常で己や周囲の人々の身を守らなければならぬというときは、どうすればよいかといえば、それこそ身の回りのものすべてを「手裏剣に打つ」のである。

 私のおすすめは、文庫本だ。

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▲文庫本を手裏剣に打つ。手之内はこの写真の通り。
200ページくらいの厚さが頃合だ


 文庫本を手裏剣に打つ場合の「大事」は以下の通り。

一つ、背表紙を相手に向けて打つ
一つ、間合は一間半以内
一つ、相手の両目と口の3点が作る三角形を狙う
一つ、打剣後は、一気に相手を制圧するか速やかにその場を立ち去る
一つ、年に2~3回は実際に的に対して打ってみる

 日常から手裏剣術の稽古に習熟し、三間尺的程度の業前の者であれば、間合二間で文庫本を尺的に当てることは簡単だ。しかし、実際に打ってみると分かるが、間合二間では、直打で打っても本のページが開いてばたつくことがあり、速度がいささか落ちてしまう。このため、武芸/護身として実用的な文庫本の間合は一間半以内である。

 逆に一間半以内で的中した場合、文庫本手裏剣は、かなりの威力がある。これは手裏剣術の地稽古(対人稽古)をしている者であれば分かることだが、顔面とは実にデリケートな部分で、毛筆の筆が目頭や鼻に当たっただけでも、動きが一瞬とまってしまうものである。

 ましてや文庫本は、たとえば200ページほどの一般的なもので、重さは約150グラムある! これは重量手裏剣並みの重さだ。ちなみに野球の硬球は、5オンスないし5オンス1/4(141・7~148・8グラム)となる。また文庫本を間合一間半程度から直打で打つと、普通の腕前の手裏剣術者であれば、背表紙の角を標的に当てることも容易なので、その威力はちょっとしたものになる。

 さて、ここで大切なことは、ただ身の回りのものを手裏剣に打てば良いのではなく、その後の身の処し方である。

 見事に相手の顔面に文庫本が的中したとしても、相手が動きを止めるのは、2~3秒であると心得るべきである。この2~3秒を活かし、一気呵成に相手を制圧するか、あるいは速やかにその場を立ち去らなくてはならない。

 的当ての手裏剣術だけしか稽古していないと、この「打剣後の大事」つまり「制敵」ができないのである。

 だからこそ現代において、「武術としての手裏剣術」を志すのであれば、必ず柔術なり空手道なり、あるいは柔道、合気道、拳法など、なんらかの体術を最低限併習しておくことが重要なのだ。


 以上、文庫本を手裏剣に打つ場合の注意点をまとめたが、手裏剣術者たるもの、文庫本だけでなく、あらゆるものを「手裏剣に打つ」心構えが重要である。

 携帯電話やスマートフォンなどは、重量的にも形状的にも、現代の印地打ちには手ごろと思うのだが、なにしろコストが高いのが難点だ(笑)。ちなみに一空流の白上一空軒師は、日常の護身では、ゴルフボールを手裏剣に打つことを推奨している。

 私個人は仕事柄、普段から筆記用具を必ず携帯しているので、いつも持ち歩いている3本のペリカーノジュニア(インクフル充填で重さ約20グラム、全長150ミリ)を手裏剣に打って、二間以内で三寸的に対し必中できる(爆)。

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▲ペリカーノジュニアを手裏剣に打つ!? ちなみに
コイツのペン先は、ステンレス製なのもポイント


 という訳で、本や文房具は大切に扱いましょう・・・。

 
 さて、こうした日常的な事物をそのまま「手裏剣に打つ」方法のほかに、日常的な物にひと工夫を加えた、合法的に携帯できる投げ物(投擲武器)が、古流などには口伝として伝わっていることが少なくない。

 次回は、こうした投擲武器の一端を、ほんの少しだが紹介しようかと思う。

 (了)
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 「親子」なるもの/(身辺雑記)
- 2014/03/04(Tue) -
 夜、手裏剣の稽古を終えて、少し居合を抜いていたところ、遠方に住む兄から、病身の父に関することで電話がかかってきた。

 四十路も半ばともなると、いろいろと厄介で面倒な「家のこと」が、いやおうなしに降りかかってくるものだ。

 似たような家族の愛憎劇など、世の中には掃いて捨てるほどあるのだろうから、今さらこまごまとしたディティールは書かないが、いささか重い気分であることは間違いない。

 ひとつ言えることは、身勝手で無責任な親ほど、子供にとって迷惑なものはないということ。拝一刀や秋山小兵衛先生のような父親は、なかなかいないもんだ。

 思うに人間の苦悩の大半は、「家族」や「親子」なるものにあるのかもしらん。

 ま、そんな重たい夜もある。

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▲我が愛刀・監獄長光の一閃で、「親子」なるものの愛憎も斬れるか・・・

 (了)
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居合(座技)での刀法併用手裏剣術による気づき/(手裏剣術)
- 2014/03/02(Sun) -
 雪がすんだと思いきや、今度は雨にて稽古中止。

 しかたがないので、いつもどおり翠月庵別邸(自宅)で稽古。

 五間や六間で、のびのび打ちたいのう・・・。
 

■本日の稽古備忘録

 居合(座技)での刀法併用手裏剣術(二間・正座)について。

 帯刀している刀の柄と、打剣の際の腕の振り下ろし、両者の位置関係に大事あり。同じ居合の刀法併用手裏剣術でも、正座と跪坐では、この位置関係はさらに変わってくる。

 同様に立合での刀法併用手裏剣術でも、順体と逆体とでは、帯刀している柄の位置に違いが出てくる。具体的には口伝とする。

 これらに留意しておかないと、刀法併用手裏剣術は、居合でも立合でも打剣と抜刀が乖離してしまったトタン、トタンという、だらしない拍子になってしまう。

 この点の気づきを促すという意味で、居合での刀法併用手裏剣術の稽古は意義深いといえよう。

 (了)
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