「神武不殺」の思想と手裏剣術/(手裏剣術)
- 2014/10/30(Thu) -
 日本の伝統的な武術・武道(以下、武芸とする)に共通する概念に、「神武不殺(しんぶふさつ)」という精神がある。

 この精神について、小佐野淳先生はその著書『図説 柔術』(新紀元社)において、

 「(神武不殺とは)日本武術共通の理念。(中略)殺人技術を学ぶことにより、逆に『生』の尊厳を知るところに精神性を求めている」


 と説明している。

 実際、古流柔術の技法は、一打必倒が可能な激しい当てや投げ、人体を損傷することが可能な強烈な極め技を持ちながらも、基本的には当て身で崩し、投げや極め、固め技などにつなげることで、相手を傷つけずに取り押さえることを本義としている。

 この点が、本質的には、拳足による強力な打撃によって相手を倒す(殺傷する)ことを本義としている空手術や拳法、あるいは殺傷目的を前面に出している海外の武術や格闘術と、日本柔術との決定的な差異であろう。

 日本の伝統的剣術は、武具そのものに殺傷力のある太刀や打刀を使う武技であることから、基本的にその技術は殺傷性を本質としたもの、つまり「殺人刀」である。

 新陰流は、その「殺人刀」を人を活かすための「活人剣」に昇華させたとして有名であり、以来、江戸260年あまりの太平の世の中で、新陰流に限らず多くの剣術流派においても、「活人剣」に類する思索・思考が深められてきた。

 こうした剣術諸流の精神性の変遷もまた、柔術と同様「神武不殺」という、日本武芸の精神性の大きな流れに収斂されるものといえよう。

 なお余談ながら、『兵法家伝書』において筆者である柳生宗矩は、殺人術たる剣術について、まず老子の箴言に基づいて「兵は不詳の器(武器=武芸とは不吉な道具=術である)」とした上で、

 「一人の悪をころして万人をいかす。是等(これら)誠に、人をころす刀は、いかすつるぎなるべきにや」

 としており、根源的な部分での剣術の殺人術性は否定していない。これは、机上の空論的な現代の人道博愛主義とは一線を画す、道徳としての武芸の峻厳さである。


 そもそも、「神武不殺」という言葉は、四書五経の帝王たる周易の繋辞上伝に記された一文、

 「古(いにしえ)の聡明叡智、神武にして殺さざる者か」

 という言葉が原典である。

 繋辞上伝におけるこの一文は、聖人の徳の高さを称える言葉であるが、日本武芸創成期の先達たちは、儒学の素養に基づいて、殺人術を練磨することで活人術を学び得るという、ある種の矛盾を孕んだ修行のあるべき姿を、「神武にして殺さざる者」という言葉に求めたのであろう。

 この「神武不殺」の精神は、現代の日本武道の理念をまとめた「武道憲章」の第一条である、

 「武道は、武技による心身の鍛錬を通 じて人格を磨き、識見を高め、 有為の人物を育成することを目的とする」

 という条項にも色濃く反映されているといえよう。

 もっとも、それが実現されているのかどうかは、現代の日本の武術・武道界を見渡すと、非常に疑問の余地があるのだが・・・・・・(苦笑)。


 さてひるがえって、手裏剣術における「神武不殺」とは、どのようなものであろうか?

 たとえば手裏剣の術理の本質を、「相手の戦闘力を削ぐことを目的とした、削闘剣」とする考え方があるが、これは、手裏剣術の武術性を矮小化する危険性を多分に孕んでいる。

 「削闘剣」という考え方は、ひとつの技術論としては多いに意味のあるものであるが、それを手裏剣術の本質に置いてしまっては、「一死一殺」「一殺多生」という、厳しく激しい精神性があってこその日本武芸から、大きく逸脱してしまうのではなかろうか。

 伝統ある古流であろうが、われわれのような現代会派であろうが、日本の伝統的武芸の流れを継承する手裏剣術を標榜する以上、そこにはどうしても「一打必倒」の術と、「生死一重の間合からの渾身の一打」という激しい気概が、その本質になければならない。

 こうした「術」と「気概」がないのであれば、どんなに的中率が高くとも、遠い間合から刺さろうと、結局それは、「生死」という切迫した事象を課題とする日本武芸とは、まったく遠い地平にある活動であるといえよう。

 では現代の手裏剣術者は、「削闘剣」という考え方を除いて、「一打必倒」や「生死一重の間合からの渾身の一打」という本質的な術理を守りながら、どのように「神武不殺」という日本武芸の本流たる精神性を具現化するのか?

 究極には、

 「一打必倒」の気組みを持って、相手を未発のうちに制する位

 こそが、手裏剣術者の目指すべき「神武不殺」の具体的な姿=「術」なのではないだろうか。

 そのために、われわれは日々、「間積りを五寸三間と定め、身体を実直にし、わが天真より、息を詰めて打ちかける」(藤田西湖師)という手裏剣術の三学を守りながら、ただ黙々と打剣を繰り返すのである。

 こうした無限のような積み重ねの先にこそ、神武不殺の手裏剣術という「道」があるのだろう。

 (了)
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日曜は試物の稽古/(武術・武道)
- 2014/10/26(Sun) -
■本日の稽古備忘録

 日曜は試物の稽古。

 昨日、剣術の稽古で、どうにも気組みが整わなかったこともあり、今日はいつもよりもみっちりと、時間をかけて丁寧に試物を斬る。

 手之内の冴え、斬撃位置、刃筋、太刀筋を一太刀、一太刀、確認する。

 我ながら、雑な斬りであると、反省することしきり・・・。


 今日の稽古の大事
 「斬りは目当ての下一寸」

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 (了)
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武芸とマスコミ/(武術・武道)
- 2014/10/21(Tue) -
 最近、私も何度か見たことのある民放の某長寿テレビ番組から、「翠月庵で稽古している、武術としての手裏剣術に関心がある」とのことで、撮影の申し込みがあった。

 結局、日程等の調整がつかず話しは流れてしまったのだが、当庵あるいは日本武芸のひとつである手裏剣術について、忍者だのといった馬鹿馬鹿しい興味本位ではない、まじめな関心をマスコミに持っていただけたというのは、うれしいことである。


 私の生業は、医療・福祉・旅などについて雑誌や新聞に記事を書いたり、書籍の編集を請け負う、フリーランスの記者兼編集者だ。

 こう書くと「マスコミ関係者なのですね・・・」などと言われることもあるのだが、はたして自分が「マスコミ」の一員なのかどうか、いささか疑問でもある。

 書店に行けば、地方の小さな書肆やコンビニなどにも、たいがい1冊や2冊は、自分の書いた記事の載っている旅行雑誌が置いてあり、月に2~3本は新聞の健康欄に執筆した記事が掲載されている。

 さりとて私は、いわゆる「無署名ライター」であり、己の名前を前面に出して記事や本を売り出す作家や著名ジャーナリストなどといったものではない。

 ま、ようするに、市井に生きる売文の徒ってやつだ。


 そういう立場で「マスコミ」という世界やそこに生きる人々を間近で見ていると、いろいろ思うことも少なくない。

 たとえば、同じマスコミという言葉でひとくくりにされていても、活字の世界とテレビの世界では、仕事の進め方やその感覚、予算規模などがまったく異なり、双方はまるで別世界、大工さんと板前さんくらい違う。

 また同じ活字の世界でも、雑誌・書籍にかかわる人々と新聞関係者を比べると、カバとキリンくらい違う。さらに、同じ雑誌や書籍にかかわる活字の世界でも、旅の情報誌と医学関係者向けの専門誌では、これまたまったく仕事に対するスタンスや原稿料にまつわる対応などに、天地の差がある。

 おまけに最近では、ネットに載せるための取材・執筆という仕事もときおりあり、これまた紙の出版物の仕事とは、まったく仕事観やギャラの相場感が異なるのである。

 ことほどさように、「マスコミ」と一言でくくっても、それは海老と鷹と豆腐と校倉造りを一緒くたに呼んでいるようなものなのだ。


 さて、活字の世界の住人として言うと、テレビの世界はよく言えば派手、悪く言えば傲慢である。

 これまで活字の世界の記者・編集者として、なんどかテレビ屋さんと共同しての仕事をしたことがあるが、良いにつけ悪いにつけ、非常にクセのある人々だなあとの感じを受けた。

 また、手裏剣術者としては、これまで4回ほどテレビ関連の取材に関わったけれど、やはりテレビ業界は出版の世界とは違うなとしみじみ感じる。

 なかでも非常に腹立たしかったのは、1~2年前だったか、AKB48のメンバーに手裏剣術を指導するという企画の依頼だった。

 メールでのやりとりで、「数時間の練習で、ある程度の距離(3間だったかな?)から、野菜に棒手裏剣を刺中できるようにしてほしい」ということだったので、「それはほぼ100%無理です」と、丁寧に説明した。それでも「ダメもとで企画を進めたいので稽古場に見学に行きたい」という。

 しかたがないので、わざわざ定例の稽古の前に時間を作り待っていたのだが、見事にすっぽかされた・・・。しかもその後、お詫びの連絡があるわけでもなくなしのつぶてである(怒)。

 こういうことを平気でするから、テレビ屋は嫌われるんだよな。

 ロケハンや事前取材とはいえ、アポイントをドタキャンしてシカトなんて、活字の世界の仕事では考えられないぜ。つうか、活字とかテレビとか関係なく、仕事の一般論としてNGだろう(さらに怒!)。

 その点、今回撮影に関する申し込みのあったテレビ番組の方は、結局、撮影そのものは流れてしまったものの、その旨の連絡もきちんとしてくれて、たいへんさっぱりとした気持ちで、最後までやりとりすることができた。

 こういう人ばかりだったら、テレビ取材もいいんだけどねえ。


 テレビといえば、私は見ていないのだけれど、ちょっと前にバラエティ番組で「鎖鎌はどれくらい強いか、他流と対戦させる」的な企画があり、番組を見た私の武兄が「それは無残なものでしたよ・・・」と話してくれた。

 ま、見なくても、なんとなく想像はつくわな・・・(苦笑)。

 出演した人物の業前とか、勝ち負けを判断するルールや想定以前に、こうしたテレビ番組では、そもそもその企画が真摯に武術・武道を取り上げるものなのか、それとも素人をいじって笑いをとるような下劣な趣旨のものなのかをしっかりと見極めておかないと、くだんの鎖鎌術士のように、とんでもない恥をかかされてしまうことになる。

 ただしそれも、武術・武道以前に、本人の兵法未熟ゆえの結果であるのだが。

 また、ちょっと前のテレビ番組で、そこそこ名の知れた抜刀術の師範が笑い者にされたという話も聞いたが、こうしたケースは枚挙のいとまもない。

 私に言わせると、武術・武道関係者には世間知らずな人や、マスコミに対してイノセントで無防備な人が少なくない。テレビや雑誌に出るというのは宣伝になるし、なにより当人の自尊心をくすぐるようで、マスコミ慣れしていない人は舞い上がってしまうのかもしらん。

 私はある番組の中で、「それは○○じゃよ」という台詞を言えとあったので、

 「いまどき『○○じゃよ』とかいう人って、いないよね? あと、忍者っていうのはやめてくれます?」

 と、ディレクターに台本を直してもらったことがある・・・(笑)。


 そもそも、己が日々武術・武道を稽古しているのは有名になるためではなく、金儲けをするためでもない。このような武人としての確固たる信念がないと、面白おかしく取り上げようとするマスコミの罠にかかってしまうリスクが高いのである。

 武術・武道の稽古(修行)というのは極めてパーソナルな課題であり、本来、テレビや雑誌などマスコミへの露出に汲々とするようなたぐいのものではない。むしろ武人たる者は、市井に生きる「武林隠者」として在るのが正しく健全な姿であろう。

 にもかかわらず、マスコミによって取り上げられ、一時的な名声や分不相応な金を得て自我が肥大してしまい、結局は堕落・自滅していった人を何人か見てきた・・・。


 四書五経の帝王たる易経は、「亢竜悔あり」と諭す。

 足るを知ることの難しさが身にしみる。

 (了)
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秋日漫録~落語・映画・インタビューの三題噺/身辺雑記
- 2014/10/18(Sat) -
 最近、お堅い話題が多かったので、軽めの話しを少々。

 過日、柳家小三治の高座を聞きに行った。

 人間国宝の噺は、茶の湯でいえば「枯れかじけて寒かれ」という境地。しかし、いささか枯れすぎて、ダイナミズムに欠けていたのは致し方ないか。それにしても『時そば』では、たしかに丼が見えたよ。

 仲入りの後は『死神』。これは小朝の方が好きだなあ。今年は小朝の高座に3回行って、そのうち2回が『死神』だった。

 いずれにしても、落語はもちろん芸事はやはり、生で見るのが一番いい。



 「見る」といえば、過日、映画『るろうに剣心』の3部作を一気に見た。第一作はケーブルテレビ。2・3作は映画館で立て続けに。足掛け5時間以上だったかね(笑)。

 重箱の隅をつつくような突っ込みを入れようと思えばいくらでも入るのだろうが、そういう面倒くさいことはいわず、純粋にエンターテイメントとしての21世紀型チャンバラ映画としてみれば、十分に楽しめる映画であった。ちなみにエンドロールを見ていたら、北辰一刀流が協力しているとのこと。

 雑誌の記事によれば、興行成績はかなり良いとのことだ。原作の漫画やアニメーションの人気もあるのだろうが、時代劇を映画館で見られるというのは、チャンバラファンとしてもうれしいことである。剣心と師匠との立合いは、なかなか良かったよ。



 「立合い」といえば、先月は厚生労働省の老健局長、今月は日本医師会長に、それぞれ1時間、みっちりのインタビューを行った。

 フリーランスの記者になって今年でちょうど20年になるのだが、このレベル人々への、1対1での1時間のインタビューといのは、いまだにかなりの集中力を要する。

 初対面の人と膝つき合わせて60分間、みっちり話しをするというのはかなり心身が消耗するものであり、しかも相手は日本の医療や社会福祉の舵取りに関わる最前線に立つ重鎮である。ぬるい質問などすれば、一瞬で足元をすくわれてしまう。

 これはフリーになったばかりの頃から思っていたことなのだが、1対1のインタビューというのは、武術・武道の立合いに近い。言葉を使った真剣勝負である。

 初対面の相手と、言葉、しぐさ、身なり、素養、知識、教養という様々な武技を使って切り結ぶのである。

 相手の対応もさまざまだ。

 こちらの出方をうかがう人がいるかと思えば、最初から猛烈に突進してくる人もいる。こちらを侮る人もいれば、慇懃な人、さらには慇懃無礼な人もいる。

 若い頃は、質問を誤って相手に侮られてしまったり、地雷を踏んで怒られたり、こちらの知識不足で馬鹿にされてしまったりということもあった。そういう「負け」の経験を積み重ねながら、記者としての地力を培うのである。

 こうした意味で、武術・武道を稽古してきたことは、今の私の仕事には多いに役立っていると感じている。

 私は記者として相手から話しを聞きだす側なので、基本的には受け太刀であり後の先となる。

 たとえば、最初はいささかこちらを侮っていた相手が、急所を突いたこちらの切り返しで態度を豹変させ真摯に答えてくれたときなどは、「一本取ったり!」といった感慨である。あるいは、最初からこちらが位負けしてしまいそうな、人生における大樹のような人物もいる。

 インタビューは一期一会、まさに真剣勝負の立合いなのだ。

 さて次回の立合いは、いかなる仕儀となるであろうか・・・。

 (了)
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最近の偽医療や反医療・デマ・陰謀論について思うこと(その4)/(医療・福祉)
- 2014/10/15(Wed) -
■ポケットに、トンデモ話検出キットを!

~今日こそ我々は、世界を神秘主義と暴君から救う。どんな宝よりも光り輝く、未来をもたらすのだ!~(スパルタ人・ディリオスの言葉/300より)


 エセ科学やカルト、偽医療の蔓延を危惧し、市民向けの啓発活動にも尽力していた故カール・セーガン博士は、その著書『人はなぜエセ科学に騙されるのか』(新潮文庫)の中で、“トンデモ話検出キット”として、次のような考え方を示している。

・裏づけを取れ。
「事実」が出されたら、独立な裏づけをできるだけたくさん取るようにしよう。

・議論のまな板にのせろ。
証拠が出されたら、さまざまな観点をもつ人たちに、しっかりした根拠のある議論をしてもらおう。

・権威主義に陥るな。
権威の言うことだからといって当てにしないこと。権威はこれまでも間違いを犯してきたし、今後も犯すかもしれない。こう言えばわかりやすいだろう。「科学に権威はいない。せいぜい専門家がいるだけだ」

・仮説は複数立てろ。

仮説は1つだけでなく、いくつも立ててみること。まだ説明のつかないことがあるなら、それが説明できそうな仮説をありったけ考え出そう。次に、こうやって得られた仮説を、かたっぱしから反証していく方法を考えよう。このダーウィン主義的な選択をくぐり抜けた仮説は、単なる思い付きの仮説にくらべて、正しい答えを与えてくれる見込みがずっと高いはずだ。

・身びいきをするな。
自分の出した仮説だからといって、あまり執着しないこと。仮説を出すことは、知識を手に入れるための一里塚にすぎない。なぜそのアイディアが好きなのか自問してみよう。そして、ほかのアイディアと公平に比較しよう。そのアイディアを捨てるべき理由がないか探してみよう。あなたがそれをやらなければ、ほかの人がやるだろう。

・定量化しろ。
尺度があって数値を出すことができれば、いくつもの仮説のなかから一つを選び出すことができる。あいまいで定性的なものには、いろいろな説明がつけられる。もちろん、定性的な問題のなかにも深めるべき真実はあるだろうが、真実を「つかむ」方がずっとやりがいがある。

・弱点を叩きだせ。
論証が鎖のようにつながっていたら、鎖の輪の一つ一つがきちんと機能しているかどうかをチェックすること。「ほとんど」ではなく、前提も含めて「すべての」輪がきちんと機能していなければならない。

・オッカムのかみそり。
これは使い手のある直感法則で、こう教えてくれている。「データを同じくらいうまく説明する仮説が二つあるなら、より単純な方の仮説を選べ」

・反証可能性。
仮説が出されたら、少なくとも原理的には反証可能かどうかを問うこと。反証できないような命題には、たいした価値はない。たとえば次のような壮大な仮説を考えてみよう。「われわれの宇宙とその内部の一切は、もっと大きな宇宙のなかの一個の素粒子(電子など)にすぎない」。だが、この宇宙の外からの情報が得られなければ、この仮説は反証不可能だ。主張は検証できるものでなければならない。筋金入りの懐疑派にも、推論の筋道がたどれなくてはならないし、実験を再現して検証できなければならないのだ。

~以上、引用終わり~


 現在、世の中のすべてのことが、科学的に証明されているわけではない。多くの科学者は口をそろえて、科学で解明された事実は、いまだにこの宇宙の事象の一部に過ぎないと話す。

 また、俗世間で生きる私たちは、日常生活の何もかもを「科学的」「客観的」に思考して生きていくのだとすれば、それではいささか味気なく、面白くないこともまた事実だ。

 たとえば私は怪談話やオカルト映画が大好きだし、趣味でもう30年以上も周易やタロットなどの占いをたしなんでいる(笑)。ただしこれらは、人生においてはしょせんスパイスみたいなものだ。

 スパイスはけして、主食にはならない。

 荀子は“善く易を為(おさむ)る者は占わず”といい、易=哲学の十分な学習と理解があれば、占わずとも問題に関して熟考し、合理的にその疑問を解決する道が開かれると説いた。

 同様に21世紀に生きる我々は、標準的な科学的教養に基づいて、人生で直面する多くの問題に対することにより、そのリスクの多くを最小限に止める事ができるはずだ。

 ことに子供の生命と健全な発育に責任を持つ親権者=親は、カルトやデマに惑わされないバランスのとれた教養を常に持ち、子供を生命の危険にさらすような偽医学や反医学、いかがわしい陰謀論から守らなければならない。

 このような「大人/親としての社会的使命」を放棄するのであれば、そういう者は健全な社会を構成する大人にはなりえないし、親になどなってはいけないのである。

 (了)
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最近の偽医療や反医療・デマ・陰謀論について思うこと(その3)/(医療・福祉)
- 2014/10/14(Tue) -
■「江戸っ子大虐殺」という、笑えない陰謀論

~島国の人間は、どこも同じことで、とにかくその日のことよりほかは目につかなくって、五年十年さきはまるで暗やみ同様だ。それもひっきょう、度量が狭くって、思慮に余裕がないからのことだよ。~(勝海舟の言葉/氷川清話より)


 ちょっと前、公共広告機構のCMで、「江戸しぐさ」というのが取り上げられ、広く知られるようになった。

 私も、「ふ~ん・・・」と思っていた記憶がある。

 ところが最近、「江戸しぐさの正体 教育をむしばむ偽りの伝統 (星海社新書) 」原田 実 (著)という本が出版された(http://www.amazon.co.jp/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%97%E3%81%90%E3%81%95%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93-%E6%95%99%E8%82%B2%E3%82%92%E3%82%80%E3%81%97%E3%81%B0%E3%82%80%E5%81%BD%E3%82%8A%E3%81%AE%E4%BC%9D%E7%B5%B1-%E6%98%9F%E6%B5%B7%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%8E%9F%E7%94%B0-%E5%AE%9F/dp/4061385550/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1413257664&sr=8-1&keywords=%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%97%E3%81%90%E3%81%95%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93)。

江戸しぐさ
▲最近のトンデモ話解明本としては秀逸な一冊


 いや実に面白い。ちょっと長いが、アマゾンから本書の内容紹介の一文を引用すると、

 「江戸しぐさ」とは、現実逃避から生まれた架空の伝統である。
 本書は、「江戸しぐさ」を徹底的に検証したものだ。「江戸しぐさ」は、そのネーミングとは裏腹に、1980年代に芝三光という反骨の知識人によって生み出されたものである。そのため、そこで述べられるマナーは、実際の江戸時代の風俗からかけ離れたものとなっている。芝の没後に繰り広げられた越川禮子を中心とする普及活動、桐山勝の助力による「NPO法人設立」を経て、現在では教育現場で道徳教育の教材として用いられるまでになってしまった。しかし、「江戸しぐさ」は偽史であり、オカルトであり、現実逃避の産物として生み出されたものである。我々は、偽りを子供たちに教えないためにも、「江戸しぐさ」の正体を見極めねばならないのだ。


 とのことである。

 さらに情報の質はあまりよくないかもしれないが、ウィキペディアで「江戸しぐさ」という項目を見てみると、

「江戸時代における江戸しぐさの実在を示す史料が未発見であることは、「特定非営利活動法人江戸しぐさ」理事長である越川禮子自身も認めている」

 とのこと。さらに爆笑なのは、

「江戸開城の時、『江戸講』のネットワークを恐れた新政府軍が江戸しぐさの伝承を失わせ、江戸しぐさの伝承者である江戸っ子たちを虐殺した。その虐殺たるや凄まじいもので、ソンミ村虐殺、ウンデット・ニーの虐殺に匹敵するほどの血が流れたと越川禮子は述べている。また、この時に江戸商人は江戸しぐさについて書かれた古文書も全て焼却し、江戸の空を焦がしたという。勝海舟は生き残った江戸っ子数万を両国から武蔵、上総などに逃がし、彼らは『隠れ江戸っ子』として潜伏した。池田整治は、江戸しぐさ伝承者は、老若男女にかかわらず、わかった時点で新政府軍の武士たちに斬り殺され、維新以降もこの殺戮は続いたと述べている」

 そうな・・・・。

 幕末に、江戸っ子大虐殺があり、維新後、隠れ江戸っ子たちが潜伏していたとは!(爆笑)。 

 こんな爆笑カルトの語るデマが、いまや道徳教育の教材として一部の学校で本当に使われているというのだから、草葉の陰で新島襄が泣いていることであろう。

 世にトンデモの種は尽きず・・・。

 (つづく)
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最近の偽医療や反医療・デマ・陰謀論について思うこと(その2)/(医療・福祉)
- 2014/10/11(Sat) -
■デマや陰謀論ではなく、「期待される効果と想定されるリスク」で判断しよう

~最初から全てを成り行きに任せる者がおろうか? 全力を尽くし、しかる後、宿命を待つ!~(拝一刀の言葉/子連れ狼 三途の川の乳母車より)


 ファイスブックやネットなどを見ていると特徴的なのが、偽医療・反医療をとなえる人や陰謀論者の多くが、その主張や意見の根拠を示さないこと、あるいはその根拠とすることの多くが、単なるデマや憶測にすぎないということだ。


 たとえばインフルエンザのワクチン接種について、効果がないと主張する人たちがいるのだが、彼らがよく根拠として挙げるものに「前橋レポート」というものがある。

 これは1980年代に前橋市で行われたインフルエンザワクチンの効果を検証することを目的とした調査である。その結果、「インフルエンザワクチン接種は、効果がなかった」という結論を出し、以後、ワクチン接種反対論者の“錦の御旗”になっているというものだ。

 ところがこの「前橋レポート」は、その後の学術的な検証によって、予防接種の効果を低く見せるための意図的と思われるようなデータの操作がされていることが明らかになり、現在はワクチン摂取肯定派はもちろん、まじめなワクチン摂取否定派からも、その信憑性を否定されている。
(インフルエンザワクチンは有効か?安全か?(1)有効性とindirect protection/http://drmagician.exblog.jp/21377410/
(インフルエンザ予防接種ワクチンは打たない派の方へ・・・なんで判ってもらえないんだろう?/http://www.gohongi-beauty.jp/blog/?p=7503



 さて、ネットなどでインフルエンザのワクチン接種を否定する人たちの言い分を見ていると、正直、頭がクラクラしてくる・・・。

 たとえば、彼らは「インフルエンザでは死なない」(だからワクチン接種は必要ない)という。

 その根拠は、

 「インフルエンザはかぜの一種です。『インフルエンザはかぜじゃない』というポスターは、インフルエンザ・ワクチンを打たせるための宣伝なのです」

 だそうな・・・・・・。
(インフルエンザワクチンは打たないで/http://anatanoibasyo.mo-blog.jp/ibasyo/2013/11/post_0b9c.html

 つうかそれ、死なない理由になってねえよ!!


 厚生労働省の発表では、例年のインフルエンザの感染者数は、国内で推定約1,000万人、国内の2000年以降の死因別死亡者数では、年間でインフルエンザによる死亡数は214(2001年)~1,818(2005年)人。

 さらに問題なのは、直接的なインフルエンザによる死亡だけでなく、たとえばインフルエンザに起因して間接的に生じた死亡を推計する「超過死亡概念」というものがあり、この推計によるインフルエンザの年間死亡者数は、毎年世界で約25~50万人、日本では毎年約1万人と推計されているということだ。

 毎年1万人が、インフルエンザによって死亡しているという事実を、重く受け止めてもらいたいものである。
(新型インフルエンザに関するQ&A/http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou04/02.html

 また、インフルエンザワクチン接種に反対する人々は、「インフルエンザワクチンは効かない」「重症化を防げない」という。しかし、国立感染症研究所感染症情報センターでは、

「(インフルエンザワクチン接種は)感染や発症そのものを完全には防御できないが、重症化や合併症の発生を予防する効果は証明されており、高齢者に対してワクチンを接種すると、接種しなかった場合に比べて、死亡の危険を5分の1に、入院の危険を約3分の1~2分の1にまで減少させることが期待できる。現行ワクチンの安全性はきわめて高いと評価されている」

 としており、厚生労働省もこうした効果に基づいて、インフルエンザワクチンの予防接種を広く勧めている。
(インフルエンザとは/http://www.nih.go.jp/niid/ja/kansennohanashi/219-about-flu.html

 さらに、インフルエンザに限らず、病気に対するワクチン接種に反対する人たちの多くは、重い副作用(副反応)が起こる危険性を根拠に、ワクチン接種反対を訴えることが多い。

 そこでインフルエンザの予防接種をみると、たとえばギラン・バレー症候群や急性散在性脳脊髄炎などといった重い副反応の発生する確率は、5,024万735人の内53人、その内の4名が死亡している(平成24年シーズンのインフルエンザ
ワクチン接種後の副反応報告について/http://www1.mhlw.go.jp/kinkyu/iyaku_j/iyaku_j/anzenseijyouhou/306-1.pdf

 これをパーセンテージで示すと、重い副反応が起こる割合は0.0001%、死亡例は0.000008%である。

 さらにこれらの死亡例については、9症例のうち8例について、ワクチン接種以前に他の重い病気を患っており、それらの悪化や再発によって死亡した可能性が高く、ワクチン接種と死亡との直接的な因果関係は見られなかったという。

 つまり、平成24年度のインフルエンザワクチン接種における確実な死亡例は、5,024万人のうち1人、死亡する割合は0.000002%ということになる。

 ちなみに、ここ数年議論になっている、子宮頸がん予防ワクチン(HPVワクチン)の接種をみると、たとえば 呼吸困難やじんましんなどを症状とする重いアレルギー(アナフィラキシー)は、約96万回の接種で1回、外傷をきっかけとして慢性の痛みを生ずる原因不明の病気(複合性局所疼痛症候群)は約860万回の接種で1回、起こる可能性があると報告されている。
 一方で現在、日本で子宮頸がんに罹る人は毎年1万人ほどおり、そのうち死亡する人は毎年約3,000人となっている。(子宮頸がん予防ワクチンQ&A/http://www.mhlw.go.jp/bunya/kenkou/kekkaku-kansenshou28/qa_shikyukeigan_vaccine.html


 ここで1つ確認しておきたいが、現在、インフルインザや子宮頸がんについて、ワクチン接種は法律に基づいて行われているが、接種を強制されてはいない。

 だからこそなおさら、ワクチン接種による

「期待される効果と想定されるリスク」

 をよく理解した上で、ワクチン接種をするかしないかをしっかりと考え、選択すればよいのである。

 問題なのは、効果やリスクについての正確で科学的な知識・情報を持たず、根拠のないデマや、特定の人物が声高に叫ぶ陰謀論、ネットにあふれる流言蜚語に惑わされ、だまされてしまうことだ。

 その結果、特に子供の場合、予防や治療を拒否することで、結果として防げるはず、治るはずの病気で子供を死なせてしまったり、重篤な後遺症を残してしまうようなこと、つまり

 「医療ネグレクト」につながる可能性が高い

 という事実を、もっと真剣に考えてほしい。


 よく吟味して家族で話し合い、接種を受ける本人自身も可能な限り理解・納得した上であれば、たとえばインフルエンザについて5,024万735回の接種につき53回=0.0001%の確率で起きる重い副反応のリスクを避けるために、あえてワクチン接種を拒否するという選択は、あってよい。

 なぜなら我々の暮らすこの国は、中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国と違い、自由と民主主義の国であり、医療においても患者自身が治療法を選択する自由があるからだ。

 しかし子供を養育する義務を負う親権者たる親が、陰謀論者や偽医療・反医療を信奉する人々の流すデマ、根拠不明のいかがわしい情報に惑わされて、科学的に証明されている「期待される効果と想定できるリスク」を考えず、ただ闇雲に副反応などを怖れて治療を拒否するのであれば、それは治療選択の自由以前に、子供に対する「医療ネグレクト」である。

 またインフルエンザの流行は、小学校で始まりそこから地域で蔓延し、療養中の高齢者への感染、そして重症化や死亡につながるということも、子供をもつ親はよく覚えておいてほしい。

 「自分や自分の子供がインフルエンザに罹っても、自然治癒させるからかまわない」などとという人は、自分がウイルスを周囲にばら撒いて流行を後押しし、結果として病弱な高齢者を死に至らしめているという可能性を、よく考えるべきである。

 ちなみに一般的には、インフルエンザ発症前日から発症後3~7日間は、感染者は周囲にウイルスを排出するといわれている。


 私には子供はいないが、もし自分の子供にインフルエンザワクチン接種をさせるかを問われたらどうするか? 接種させるだろう。では、HPVワクチンについてはどうか? これはいささか考えるところがある。

 “てめえ事”として真剣に考えると、860万回の摂取で1回=HPVワクチンの接種は1人3回なので、286万人に1人の確立で現れる重篤な副反応というのは、めったにないことではあるが、けして安易に見過ごせるものではない。宝くじでもそうだが、どんなに天文学的な確率でも、当たる時には当たるものなのだから。

 ワクチン接種に限らず、どんな薬にも副反応があり、どんな治療にも効果とリスクがある以上、子供を守るべき親にとって病気やケガの治療選択というのは、実に難しく重い決断である。効果とリスクをよく推し量って、最終的にどちらが子供の生命と将来にとって、安全・安価・有効であるかを考えて判断するしかないだろう。

 だからこそ、強い心でデマや陰謀論、偽医学や反医学の偏った考え方に惑わされず、客観的で正しい知識=適切な教養を武器に、子供の生命と将来を守ってもらいたいと切に願う。

 なお、多くの陰謀論者や偽医療・反医療の人々が、こうしたワクチン接種の問題について、「製薬会社や医療業界による、カネ儲けのための陰謀」とかいいだす。

 しかし、ワクチン接種で病気を予防するのと、予防をせずに病気を蔓延させるのと、どちらが製薬会社や医療業界にとって儲かるのだろうか?

 考えてみればすぐに分かると思うのだが・・・。病気を未然に予防するより、ガンガン流行らせて、薬を大量に処方して、診察もバンバンするほうが儲かるんじゃね?

 「ワクチンは儲からない」というのは、業界の常識なんだけどねえ(苦笑)。

 国(厚生労働省)の方向性としては、子供も大人も高齢者も、病気はできるだけ未然に防止することで、膨大に膨らむ医療費を少しでも抑えていきたいと考えているのが事実だ。

 医療問題に限ったことではないけれど、いい歳をした大人が安易で陳腐な陰謀論に惑わされるのは、いいかげんやめようぜ。

 (つづく)
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最近の偽医療や反医療・デマ・陰謀論について思うこと(その1)/(医療・福祉)
- 2014/10/10(Fri) -
■「医療ネグレクト」の典型例としてのホメオパシー

~モロ、わしの一族を見ろ! みんな小さくバカになりつつある。このままではわしらはただの肉として人間に狩られるようになるだろう…~(乙事主の言葉/もののけ姫より)


 私はケーブルテレビの時代劇専門チャンネルが大好きなのだが、番組の間に流れるCMの多くが、偽医療に限りなく近いようなサプリメントや健康グッズであふれかえっているのにはげんなりする。

 現在市販のサプリメントで、科学的・医学的なエビデンスがあり、何らかの効果が期待できるのはビタミンCくらいで、それ以外はみすみす金をドブに捨てているようなもの。本人が「効いた!」と思ったとしても、それはプラセボ(偽薬効果)に過ぎないというのは、たびたびまともな医療関係者やジャーナリズムが一般向けに啓発しても、一向に正しい知識は広まらない。

 それはそうだろう、サプリメントを製造する企業・販売する業者は、低コストでバカ売れするサプリの販売に、膨大な広告費をかけ、メディアを使って洗脳まがいの、そして不当景品類及び不当表示防止法すれすれの誇大広告を続けているのだから。

 自然科学や物理的法則というのは、ある意味でとても冷徹なので、「治せないものは治せない」「効かないものは効かない」「死ぬときは死ぬ」というたいへんドライなものだ。そこに人の希望や情が介入する余地がない。

 だからどんなに人柄の良い人でも、どんなに家族に愛されている人でも、どんなに社会に貢献している人でも、現在西アフリカを中心に蔓延しているエボラ出血熱にかかれば、100人のうち70人ほどが死亡する可能性があるのだ。

 そこで致死率(致命率)約70パーセントという冷徹な現実にさらされている人に対して、

「今のエボラの流行は、ワクチン接種で大もうけし、体内に極小のGPS端末を植えつけようとするための、WHOと製薬会社の陰謀です。けれど、大丈夫、このサプリを毎日飲めば、きっと治ります・・・」

 などといえば、そのような陰謀論や偽医療がどんなに荒唐無稽で馬鹿馬鹿しいものであっても、患者や家族は藁をもつかむ気持ちですがるのが人情というものだろう。

 しかし当然ながら、エボラの流行はWHOや製薬会社の陰謀ではないし、感染した患者はサプリでは治らない。治るわけがない。

 むしろ、標準医療を拒否してサプリを飲むことにこだわったばっかりに、本来は助かるはずの100人中30人の命までもが失われてしまう・・・。

 こうした

 「医療ネグレクト」

 こそが、偽医療の最大の害悪だ。私利私欲のために(あるいは倒錯した正義感により)、本来助かるべき命を殺してしまうのが偽医療なのである。

 偽医療による「医療ネグレクト」、それによる死亡例として、近年、大きく取り上げられたのが、ホメオパシーを信奉する助産師の誤った治療によって、乳児が死亡した「山口新生児ビタミンK欠乏性出血症死亡事故」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%8F%A3%E6%96%B0%E7%94%9F%E5%85%90%E3%83%93%E3%82%BF%E3%83%9F%E3%83%B3K%E6%AC%A0%E4%B9%8F%E6%80%A7%E5%87%BA%E8%A1%80%E7%97%87%E6%AD%BB%E4%BA%A1%E4%BA%8B%E6%95%85)だ。

 これに対して日本学術会議会長は、

「ホメオパシーの治療効果は科学的に明確に否定されています。それを『効果がある』と称して治療に使用することは厳に慎むべき行為です。このことを多くの方にぜひご理解いただきたいと思います」

 との声明を出し、日本医師会、日本医学会もこれを全面的に支援した。(http://jams.med.or.jp/news/013.html

 また日本助産師会会長も報道向けに、

「本会としては、助産師がホメオパシーを医療に代わるものとして使用したり、勧めたりすることのないよう、継続的な指導や研修を実施し、会員への周知徹底を図ります」


 とのリリースを出している(http://www.midwife.or.jp/pdf/hodo.pdf)。

 世界的にも、先進国ではホメオパシーには科学的・医学的な根拠がないとして、医療現場からは排除されることがほとんどだ。

 それにも関わらず、いまだにホメオパシーの効果を疑わず、それによる金もうけを続ける者、そしてそれにだまされる患者や家族が後を絶たないのは、非情に残念なことだ。

 こうした偽医療・反医療による「医療ネグレクト」の問題は、ホメオパシーに止まらず、しかも年々、問題が深刻化しているように感じられる。

 (つづく)
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防即攻、攻即防/(武術・武道)
- 2014/10/09(Thu) -
 昨日の空手の稽古では、約束組手の稽古で、糸州流のA師範の受けをとらせていただいた。

 その際、参考技としてご指導いただいた防即攻の突き受け(相突き)は、たいへん勉強になった。

 具体的には、我が自然体の状態(無構え)で相手が右上段突きをしてきた際、対の先でやや揚げ突き気味に、相手の拳(腕)をはじきながら一調子で相手の腕の付け根部分を突くというものだ。

 一般的な突きと異なり、腕を伸ばしたままで拳を下から上に直線的に突き上げる揚げ突きは、引き手をとったり構えた状態からだけでなく、腕をぶらりと下げた自然体からも自在に使える突きだ。競技化された試合組手などではまったく使われることがないだろうが、護身においては非常に有効な技である。

141009_190420揚げ突き
▲『図解コーチ 空手道』(道原伸司著/成美堂/1997年)より、揚げ突きの解説


 さらに、たとえば相手の上段突きに対して顔面に当てる「攻撃的な」突き受けに比べ、このような腕の付け根に向けた突き受けは相手に与えるダメージが最小限であるという点で、平時の護身としてより有意義で高度であると言えるだろう。

141009_1901156本目
▲拳聖・本部朝基師範による、防即攻の上段突きの例。『本部朝基と琉球カラテ』(岩井虎伯著/愛隆堂/2000年)より


 このような防御と攻撃が一体となった技は、剣術でいえば切落しや合撃等に当たるもので、根源的な理は剣も拳も同様だ。


 それでは手裏剣術における防即攻・攻即防とは、どのようなものだろうか・・・・・・。

 当然ながら投擲武術たる狭義の手裏剣術には、実体として「受ける技」というものはない※。しかし、武芸の本質的な理合として、防即攻・攻即防の「業」はあるはずだ。

 これについては・・・・・・、いま少し考察を深めてみたいと思う。

 ※広義の手裏剣に含まれる掌剣術においては、受け技があることは言うまでもない。

 (了)
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小柄小刀風の翠月剣を打つ/(手裏剣術)
- 2014/10/08(Wed) -
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 過日、小柄小刀風の翠月剣を打つ。

 重ね5mmの翠月剣の、尾部の巻物を外したものだ。


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 三間の立ち打ちで、八寸的に集まる。

 研磨したての切先なので、刺さり具合も心地よい。

 たまには、巻物の無い剣を打つのも楽しいものだ。

 (了)
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真夜中の『老子』/(身辺雑記)
- 2014/10/04(Sat) -
 御嶽山の噴火に続き、今度は大型で非常に強い台風18号が勢力を保ったまま日本列島に向かってきているとか。

 自然は過酷だ。


 昨晩は思うところあって、久々に『老子』を紐解く。

 「天地には仁愛などはない。万物をわらの犬として扱う」

 などという一文は、多大な被害を出した天災の報道を聞いた後にはいっそう大きく響く。


 血気盛んで心身充実していた若い頃は、

 「『老子』など所詮は敗北主義の隠逸思想。弱者の哲学に過ぎない!」

 などと断じて斬り捨て、もっぱら『孫子』に親しんできた。

 しかし不惑をとうに過ぎ、天命を知る歳も目の前に迫ってくると、兵家の思想にいささか倦んでくることも否めない。

 それに比例して『老子』説くところの、弱さやテキトーさ、矛盾を内包した「隠逸の思想」が、より身近にそして切実に感じられるようになってきた。


 兵は不詳の器にして
 君子之器に非ず

 已(や)むを得ずして之を用うれば
 恬淡を上と為す

 勝ちて美とせず

 而(しか)るに之を美とする者は
 之殺人を楽しむなり
 それ殺人を楽しむ者は
 以って志を天下に得べからず



 などという一文も、かつてはどうとも思わなかったが、最近では「そりゃあ、そうだよね」と読める。

 つらつら思うに、 『老子』を受け入れるというのはある種の諦念であり、不可逆的に衰えるべき心身を宿命づけられた三才の下位たる「人」の業(ごう)とでも言うべきか。


 名と身とはいずれか親しき

 身と貨とはいずれか多なる

 得と亡とはいずれか病なる

 是故に甚だ愛すれば必ず大いに費え
 多く蔵すれば必ず厚く亡う

 足るを知れば辱められず
 止まるを知れば殆(あやう)からず
 以って長久なるべし 


 
 いまだ足ることを知らぬ、一匹の「わらの犬」に過ぎない己ながらも、秋の夜長、無為自然の境涯にふれるのも悪くない。


 道の道とすべきは、常の道にあらず。
 名の名とすべきは、常の名にあらず

 無は天地の始に名づけ
 有は万物の母に名づく

 故に常に無は以ってその妙を観(シメ)さんと欲し、
 常に有は以ってその徼(キョウ)を観(シメ)さんと欲す
 この両者は同出にして、名を異にする

 同じく之を玄と謂う
 玄の又玄、衆妙の門なり


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 ※訓読文引用/「釈迦と老子と禅の人々&歎異抄」(http://www.eonet.ne.jp/~chaos-noah/)より。

 (了)
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『ドラゴンへの道』と手裏剣/(手裏剣術)
- 2014/10/02(Thu) -
 なんとなしにケーブルテレビを見ていたら、ブルース・リーの『ドラゴンへの道』がやっていた。

 懐かしい・・・、ノラ・ミャオも(爆)。

 おそらく20年ぶりくらいに見た。ま、幼少の頃は、私も多くの武芸・格闘好き少年の例にたがわず、『燃えよドラゴン』や『ドラゴン危機一髪』などを、目を輝かして見たものである。

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▲チャック・ノリスも若いのう・・・


 作品中、リー演じる主人公のタン・ロンは、ギャングの拳銃に対抗するために、中国版の手裏剣である「飛ヒョウ(金偏に票)」を使う。

 なにしろ映画なので、その威力や命中率は誇大にデフォルメされているのであるが、やはり手裏剣屋としては興味深い。

 呉伯焔著『点穴・練功・薬功』(ベースボール・マガジン社/昭和63年)によれば、中国武術における飛ヒョウは、晋(西暦280~420年)の時代の記録に、すでに記載されているという。

 「もともとは宮中での遊戯より発達したものと言われているが、戦場においてはもっぱら敵の軍馬に投擲し、馬上の敵を撹乱させるのに使われた。後に対人用(その大半は近距離での護身用)として様々な研究がなされその多くは毒薬を併用してその効果を高めた」とのことである。

 同書の解説をみると、飛ヒョウはダガータイプの剣型の手裏剣で、まず的から三歩(約一間)の距離で稽古をはじめ、上達するごとに距離を広げ、約5年で24歩(八間)の距離まで伸ばすという。

 打ち方は逆体で、剣を構える位置は側頭部、打剣のための一連の動作は、根岸流の基本型である「卍字」と非常によく似ている。

 
 映画の中で、ブルース・リーは、飛ヒョウを左右の手で打つ。いわゆる両手打ちである。素手の体術と手裏剣術を併用する場合、両手打ちはたいへん有効かつ重要な技術だといえよう。

 一方で、抜刀術や剣術と手裏剣術を併用する場合、操刀上左手は、たとえば帯刀状態であれば必ず鍔元を抑えていなければならず、また抜刀している状態でもより強力な打剣のためには、(右利きの場合)左手に打刀を持ち右手で手裏剣を打たねばならない(例:三心刀)。

 こうした点から、剣術・抜刀術と手裏剣術との組み合わせにおいては、手裏剣の両手打ちはあまり重視されない。実際、古流の手裏剣術の代表とも言える知新流の伝書を見ると、多本打ちや脇差・小太刀を手裏剣に打つ飛刀術などについての記述があるのに比べ、両手打ち=左手打ちについての記述は見当たらない。

 ゆえに当庵の稽古でも、これまで手裏剣の両手打ち=左手での打剣の稽古は重視してこなかった。

 しかしながら、手裏剣術者であれば、どちらの手でも手裏剣が打てるにこしたことはないし、体術との連動という点では両手打ちは必須の技術でもあるので、両手打ち=左手での打剣の鍛錬は、個人的な今後の課題としたい。


 ところで、グーグルで「ドラゴンへの道 手裏剣」というキーワードで検索をかけると、妙な写真がいっぱい出てくる。半分くらいは忍者だ(笑)。

 そういえば、某武術雑誌の今月の特集は忍者だそうな・・・(-_-)

 みんな忍者好きなんだねえ、呵々。

 (了)
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