稽古と体格差/(武術・武道)
- 2015/01/29(Thu) -
 自慢じゃあないが、私は「チビ」である(爆)。

 このため、足掛け33年間の武術・武道生活で、自分よりも小さい相手と形稽古や組手をしたことは2~3度しかない(当然ながら、子供たちとの稽古などは別の話である)。

 たとえば空手道の試合組手では、いままでで一番「デカイ」相手は、オランダ人の五段の師範で、180センチ以上あったと記憶している。ちなみに流派の全国大会で対戦したのだが、試合結果は前蹴り、背刀打ち×2本で3本連取して、私の勝ちであった。エッヘン!(笑)。

 もっともその翌年には、またその同じ相手と組手試合で対戦することとなり、たしか5-0くらいであっという間に私が負けてしまった・・・・・・。たぶん前年、私のような「チビの日本人」に負けたことが、彼には相当悔しかったのであろう。


 このように、私のような「チビ」は、そもそも平素から自分よりも「デカイ」相手としか稽古をしないので、組手でも形稽古でも、身長差はほとんど気にならない。

 それどころか形而上的には、そもそも自分のことを「チビ」とは実はまったく思っていないので、身長や体重の差を意識することがないでのある。これは体格の劣る武術・武道人にとって、非常に重要な「心法」である。

 もっとも、プロレスラーみたいな、並外れて「デカイ」のが相手の場合は、さすがに体格差は意識するけれどもネ。


 打撃系でも組み技系でも、あるいは徒手武術でも武器術でも、基本的に武術・武道においては、身長の高さ、四肢の長さ、体格の良さというものは、ア・プリオリに有利である。私の武友であるA師範は、「いままでの武道人生で、自分よりも身長の低い相手に試合で負けたことがない」とおっしゃっていたが、それは一般論として当然のことである。

 だからこそ体格に恵まれない者は、「デカイ」相手に勝つために、さらに稽古に励むのである。


 昨日の空手の稽古では、身長180センチほどある初級者と約束組手の稽古を行ったのだが、なにしろ「チビ」の私が相手のため、実に稽古しづらそうであった。身長差が20センチ近くもあるため、打突位置が定まらずにブレるのである。

 思うに、初級者レベルの者に対して、特に打撃系の武術・武道の相対稽古では、なるべく双方の身長差が少なくなるよう配慮してやる必要があるだろう。そうしないと、中段なら中段、上段なら上段と、基本的な正しい打突部位への突き蹴りが乱れてしまうからである。

 これは打撃系の武術・武道のみならず、柔術などの形稽古においても、初心者については、あまり体格に差がある者同士を組ませて稽古をさせてしまうと、余計な力みや姿勢のゆがみが出てしまい、上達を阻害することになりかねないと思われる。

 ただし当然ながら、初級レベルを過ぎた稽古者については、打撃系でも組み技系でも、あるいは武器術においても、身長・体格の異なるさまざまな相手との相対稽古を十分に繰り返すことが重要であるのは、言うまでもない。

 ことに、「自分よりも身長・体重の大きな者」との形稽古や地稽古、組手は、千変万化する間合の攻防といった技術的な面はもちろんだが、なによりも、

 「相手が誰であっても動じない胆(ハラ)を練る」

 という意味で、怖れることなくことなくみっちりと行う必要があるだろう。

 (了)
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敵討に使われた差料の寸法/(身辺雑記)
- 2015/01/23(Fri) -
1501_敵討
▲『敵討』吉村昭著/新潮文庫


 夕方から、栃木県の某大学病院にて、マルファン症候群の取材。移動と待ち時間で、吉村昭の『敵討』を読む。

 本書は江戸末期の実話に基づいた歴史小説ということで、記録によると松山藩士・熊倉伝十郎の仇討では、その差料は二尺三寸七分の兼元、脇差は和泉守兼定、助太刀であった十津川浪人の剣客・小松典膳は二尺五寸無銘刀に脇差は長船祐定であったという。

 また作中、エピソードのひとつとして語られてる百姓・乙蔵の敵討では、「自己流で剣術に励んだ」乙蔵が、二尺二寸の刀で仇の侍である西野藤十郎の左腕を切り落とし、さらに咽喉部を突き刺して絶命させたと記されている。

 藩士の刀が定寸、浪人剣客の差料が二尺五寸、自己流で剣を磨いた百姓の剣が二尺二寸であったというのは、なんとも興味深い。


 深夜、少々稽古。

 手裏剣術、打剣の際、離れのタイミングが悪く、調子は今ひとつ。居合・抜刀術、逆袈裟の抜付の課題については、ほぼ納得できる状態となる。動的の試斬の調子は良好。

 (了)
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風と手裏剣/(手裏剣術)
- 2015/01/19(Mon) -
 先週の稽古は、かなりの強風の中で行った。

 稽古開始からしばらく、2~3間でどうも剣に押さえが利きすぎて、うまく的中せずに難儀する。一方で、5間~5間半ではいつも以上に的中率がよい・・・。

 はて、どういうことかと思うことしばし。

 考えてみるとこのときは、標的の畳が風圧で倒されてしまうほどの強風であった。しかも、完全な追い風である。

 どうも風が、剣の刺中に影響を与えているように思えてならない。

 体験的に、40グラム前後の軽量剣の場合、強風の向かい風の場合など、風に吹き戻されてうまく刺さらないということは良くあることだ。

 しかし翠月剣のような140グラム以上もある剣の場合、さすがに向かい風で吹き戻されて刺さらないというようなことはこれまでなかった。

 一方で本日のように追い風の場合、いつも以上に剣が“走る”ようで、手之内の押さえが普段のままであると利きすぎるようである。このためいつもよりも押さえを利かせずに打つことで、刺中を安定させることができた。

 こうした気候の打剣への影響などというものは、屋内での稽古ではなかなか経験できないことであろう。

 常設の野天稽古場ならではの、武術としての手裏剣術の経験知を、また一つ得ることができた。

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▲屋外では、風は想像以上に打剣に影響を与える


 (了)
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いつでもどこでも占います・・・/(身辺雑記)
- 2015/01/16(Fri) -
 「もう30年来、卜占を学んでいます・・・」などと話すと、「じゃあ、占って」と言われることが少なくない。

 占術の上達には、とにかく多筮であることが最も重要なので、占いの依頼はこちらとしてもありがたいのだが、私の場合、命・卜・相のうちもっぱら「卜」系の占術が主体なので、占断をするにはカードなりルーンなり筮竹なりの占具が必要となる。

 しかし、他人さまから「占って」などといわれるのは、往々にして酒席だとか仕事の待ち時間などでの場合が多く、そんなときにはカードやルーンや筮竹など持っていないことが少なくない。

 そこでよく用いるのが、道具などをまったく使わないでも占断ができる、周易の無筮立卦法である。タロットやルーンと比べて周易が便利だなあと思うのが、この点だ。ちょっとした占いであれば、これで大体事足りる。

 一方でタロットの場合、何はなくともカードが無いと占断ができない。まあ数秘術を応用すれば、タロットでも無筮立卦ができそうにも思うのだが、試したことはないので・・・。


 そんなこんなでカードについては、持ち歩き用に黄箱ライダーのポケット版とドイツライダーのポケット版、マルセイユ版ではmamanmiyukiタロットとバーデル版のポケットサイズを愛用している。

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▲右が20年ほど前にL.A.で購入した、普通サイズのライダー版。ポケット版サイズと比べるとかなり大きい


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▲右はおなじみグリモーの青箱。左上のmamanmiyukiタロットは、仕上がりが良いのでもったいなくて使い倒す気になれない。よって左下のミニ・バーデル君が、過酷な環境で酷使されることとなる・・・


 ポケットサイズのカードは、喫茶店だとか飲み屋のカウンターの上などで、ちゃちゃっとスプレッドを展開するのに便利な大きさだ。

 自宅でも、仕事机のデスクの上にライダー黄箱とバーデルのポケットサイズが、寝室のテーブル上にはドイツ・ライダーのポケットサイズが、すぐに手に届く場所に置いてあり、気が向いたときに即占断できる。

 占術においては、「占機(占おうというタイミング)」が非常に大切なのである。

 もっとも即断即占という点ではキャストするだけのルーン、さらには六面賽子と八面賽子で一発で立卦でき、賽子も何も無くてもなくても思い浮かんだ数字や目に入った象徴だけで立卦できる周易の無筮立卦法の方が、究極にスピーディかつ即戦的なのだが。

 まあ、タロットにもワン・オラクルがあるけどね・・・。

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▲タロットの持ち歩きには、カードケースも大事。なかなか頃合と趣味の良いハードケースがない。布製のタロットポーチは持ち歩き用にはあまり適さないのと、デザインがいまいちの物が多いのだよね


 同じ持ち歩き・即断即占用のタロットでも、場末の飲み屋のカウンターや、撮影待ちのための埃っぽい控え室などで使うには、ライダー版よりもマルセイユ版の方が似合っている(苦笑)。

 人生の酸いも甘いも噛み分けた枯れた爺さんが、含蓄のある、しかし押し付けがましくはない一言を、さりげなく聞かせてくれる・・・。マルセイユ版のカードには、なんとなくそんなイメージがある。

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▲さてお若いの、どんな未来を知りたいのかね・・・

 (おしまい)
  
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手首を殺す/(手裏剣術)
- 2015/01/15(Thu) -
■本日の稽古備忘録

 「手首を殺す」というのは打剣の三殺法の1つであり、「離れを惜しまぬこと」と並んで手裏剣術で最も重要な教えである。

 それが理屈では分かっていながら、今日の打剣ではそれらがまったく適切にできておらず、的中に難儀する。

 二間座打(正座)の二寸的なので、単に“置きにいく打剣”ではなく、板金を打つ心で打剣するのだが、つい手首を使ってしまい、しかも離れが遅いので打剣が乱れるのが情けない。

 手首を殺すために、「なでり」という柔(やわら)の当身の動きを活かし、小一時間ほどの稽古でようやく打剣がまとまるようになってきた。

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 居合。普段稽古に使っている市原長光は二尺二寸なのだが、思うところがあり昨日は二尺四寸五分、本日は二尺三寸五分の刀を抜く。

 逆袈裟の抜付。昨年に引き続き、思うところあり試行錯誤中。

 (了)
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武人の一札/(武術・武道)
- 2015/01/13(Tue) -
 小春日和の休日の午後、つらつらとタロットなど手繰っていて考えたこと・・・。


 若い頃は、武術人たるもの「剣のナイト」のようでなければと思っていた。

1501_剣のナイト


 しかしまあ、45年も浮世の風にさらされていると、あっちにぶつかりこっちにつまずいて、未熟者は未熟者なりに多少の智慧がついてくる。

 すると「剣のナイト」の行く末は、往々にして「剣の10」であろうという経験則を知る事となる。

1501_剣の10


 だからこそ、しぶとく人生に生き残ってきた老兵は、「武術とはいかに?」と問われれば「力(ちから)」の一札をもって、その本質を示すようになる。

1501_力


 一定のレベルに達した武術・武道人であれば、「力」というものは他者からのものであろうと自らのものであろうと、適切にコントロールできなければならない。

 そのために我々は、日々、殴る、蹴る、投げる、極める、砕く、絞める、斬る、突く、打つなどといった、平時の日常生活にはほとんど役に立たない剣呑な「術」=「武芸」を学ぶのである。

 ゆえに、他者からの「暴力」をコントロールできないようでは武人としてあまりに未熟であるし、自らの「暴力」性をコントロールできないようではただのDV野郎(あるいはDV女郎)である。

 たゆまぬ鍛錬により適切にコントロールされて、始めて「暴力」は「武力」に、そして「武徳」へと昇華する。

 武人が目指すべき「徳」は、これに尽きるであろう。

 (了)
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「まづ、稽古の劫入りて、位のあらんは、つねのことなり」/(武術・武道)
- 2015/01/11(Sun) -
 本日は翠月庵の稽古始め。

 当庵目録のKさんとともに、みっちりと手裏剣の打剣をした後、剣術と抜刀術についても、細かな口伝を伝えつつ稽古を行う。

 このレベルでの指導となると、もはや集団指導はまったく不可能であり、柄手ひとつ、運足ひとつとっても、マンツーマンでの細かな指導=稽古となる。

 上級の稽古になればなるほど、この1日、この1回、この一瞬の指導に血肉が通ってくる。

 学ぶ側、指導する側それぞれの意欲と実力、そして業前が三位一体となった稽古は、実に心地よい。

 手を抜けば手を抜いただけ下達し、学べば学ぶほど上達する。

 稽古は人を裏切らない。

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▲手裏剣術 組稽古(平成26年秋季合宿/打太刀・市村翠雨 仕太刀・K氏)


 『風姿花伝』より

 問ふ。能に位の差別を知ることはいかむ。
 答ふ。これ、目利きの眼には、やすく見ゆるなり。およそ、位の上がるとは、能の重々のことなれども、不思議 に、十ばかりの能者にも、この位、おのれと上がれる風体あり。ただし、稽古なからんは、おのれと位ありとも、 いたづらごとなり。まづ、稽古の劫入りて、位のあらんは、つねのことなり。また、生得の位とは、長なり。嵩と 申すは別のものなり。多く、人、たけとかさとを、同じように思ふなり。かさと申すものは、ものものしく、勢い のある貎なり。またいふ。かさは、一切にわたる儀なり。位・長は、別のものなり。

(問 能の位の上下を知るにはどうすれば良いでしょうか。
答 これは目利きの眼には、簡単に見分けがつくことである。大体において、位が上がるというのは、能の鍛練に鍛練を重ねて次第に上達することであるけれども、ただ不思議なことに、たとえ十歳の能の演者であっても、この位が自ずと上の方にあるような風體を見せることがある。もちろん、それに重ねて稽古をしなければ、持って生まれたような位の持ち主であったとしても、やがてそれをいたずらに無駄にしてしまうことになる。
 まず何より稽古に励むことで、位を上げていくのが常道であって、持って生まれた位というものは、言ってみれば、その人に生来備わった品格、すなわち「長(たけ)」というべきものであって、芸の幅や奥行きの大きさを表す、いわゆる「かさ」とは、また別のものである。かさというのは、ものものしく、また勢いのある形かたのことであって、よく言われることだが、それは能の一切のことがらにおよぶもので、位や長とは別のものである。)

 (了)
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当身は急所に/(武術・武道)
- 2015/01/07(Wed) -
 本日は空手道の稽古始めであった。

 久々に全力で突き蹴りを繰り出し、心地よい汗をかく。


 ところで本日、約束組手をやっていて思ったこと。初心者の多くが、中段にせよ上段にせよ、漫然と突きを繰り出すだけで、「急所に当てる」という感覚が希薄なのは問題があると思う。

 古流柔術の殺法ほど繊細な急所への当身という感覚は必要ないだろうが、せめて中段突きで正面なら水月、側面なら月影・電光、上段突き正面であれば人中または下昆、側面であれば霞、下突きや中段蹴りであれば明星などといった程度の急所は理解して、しっかりとその部位へ(寸止めにて)当てることを心がけることが必要であろう。

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▲『柔術生理書』(井ノ口松之助著/明治44年)掲載の急所図


 また有段者であれば、「的は身の内一・二寸」という古伝の空手術の教えを常に念頭に置き、たとえ簡単な寸止めの約束組手でも、あるいは自由組手であっても、常にそれを意識しておくべきであろう。

 もっともたとえば八光流柔術では、「筋骨が緊張している部位は、すべて急所である」との教えもあるから、そういう意味では相手の状態においては、どこに当ててもそこが急所という理屈も成り立つのであるが・・・。

 そういえば、かつて同流伊豆道場で稽古をしていた幼少の頃、「唐手払い」という名の当身技があったのだが、これが実に痛い当身で、稽古するのがひどくつらかった記憶がある(苦笑)。

 痛み受けをする場合も、なるべく肘や手首、膝や足首など、関節部分を狙って当て受けするようにすると効果的であることは言うまでもない。

 (了)
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「銘」に想う/(武術・武道)
- 2015/01/06(Tue) -
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 鍔が極わずかだが緩んだので、久々に柄を外して調整をする。

 武用刀である以上、ほんのわずかでも鍔が緩んだりしていてはならず、ましてや鍔鳴りなど言語道断である。

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 それにしても市原長光の銘の独特の字体、なんとも味わい深い。

 この70年以上も前に鍛えられた一口の刀に恥じない、武人でありたいとしみじみ思う。

 (了)
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『逝きし世の面影』/(書評)
- 2015/01/05(Mon) -
 なんとなく体調不良のまま年末年始が過ぎ、週末からすでに仕事始め。今日は午後から、霞ヶ関でインタビューである。

 そんなこんなで、今年の正月は例年に比べると映画も数えるほどしか見ず、酒もあまり飲まず、淡々と時が過ぎた。ま、そんな年もあろう・・・。


 年末年始にじっくり読もうと買っておいた『逝きし世の面影』(渡辺京三著/平凡社ライブラリー)は、新年早々たいへん興味深い読書体験となった。

 武芸をたしなむ者であれば、『剣術修行の旅日記 佐賀藩・葉隠武士の「諸国廻歴日録」を読む 』(永井義男著/朝日選書) と合せて読むと、江戸時代という"特異で幸福な時代”が、たいへん豊かにイメージできるだろう。

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▲「私にとって重要なのは在りし日のこの国の文明が、人間の生存をできうる限り気持のよいものにしようとする合意とそれにもとづく工夫によって成り立っていたという事実だ」。近代に物された、異邦人によるあまたの文献を渉猟し、それからの日本が失ってきたものの意味を根底から問うた大冊。1999年度和辻哲郎文化賞受賞。(以上、アマゾンより引用)

 (了)
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謹賀新年/(身辺雑記)
- 2015/01/01(Thu) -
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 新年、あけましておめでとうございます。

 本年も、手裏剣術伝習所 翠月庵を宜しくお願い致します。


 庵主 市村翠雨
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