柳剛流の読み方・呼び方/(柳剛流)
- 2015/02/28(Sat) -
 先ほど『幸手剣術古武道史』の著者であり、柳剛流史に造詣の深い剣術流派調査研究会の辻淳氏に、少しお話を伺うことができた。

 そこで、前々から疑問であった、柳剛流の読み方について聞くことができた。

 一般的に柳剛流は「リュウゴウリュウ」と読まれることが多い。私もそう思っていた。

 ところが柳剛流師範家であった石川良助の末裔である石川家に伝えられた当流の目録や免許には振り仮名を記した伝書の写しがあり、そこに書かれている「柳剛刀」という一文には、「リュウコウトウ」と振り仮名が記されているのだ。

 また、埼玉県立大学の山本邦夫教授が書いた「浦和における柳剛流」(『浦和市史研究』第2号、132-158、1987年)には、そのタイトルの振り仮名が「リュウゴウリュウ」ではなく「リュウコウリュウ」と記されているのである。

 この疑問を辻氏にぶつけてみると、次のように答えてくださった。

 辻氏が一連の柳剛流研究調査を行うなか、当流を代表する剣客の一人である岡田十内のご子孫に話を伺う機会があったという。この方は流儀の資料なども数多く保存・編纂されており、当流に関する造詣も深い方だという。その末裔の方曰く、「柳剛流は、リュウゴウリュウではなく、リュウコウリュウと呼ばれていました」とのことであったそうな。

 興味のない人からすれば、たかが読み方かもしれないが、私にとっては大きな疑問のひとつが解けた瞬間であった。

 というわけで、御府内や武州で普及していた柳剛流のうち、少なくとも岡田十内系や宮前華表太系では、「リュウゴウリュウ」ではなく「リュウコウリュウ」と呼ばれていたことが確認できた。

 ちなみに私が学んでいる仙台藩伝では、「リュウゴウリュウ」なのか「リュウコウリュウ」なのか、次回稽古の際、改めて師に伺ってみなければ。何げにこれまでは、「リュウゴウリュウ」と呼びながら稽古をしていたので・・・。

 また、三重の系統や、龍野藩伝などではどちらで呼ばれていたのか? ナゾは深まるばかりである。

 もっとも古流というのは、漢字表記も平気でばらばらな当て字が使われていたりして適当なところがあるので、読み方・呼び方についても、「リュウゴウリュウ」「リュウコウリュウ」、どっちもあったのかもしらんね(笑)。

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▲『幸手剣術古武道史(柳剛流の研究)』辻淳氏著。この資料は、柳剛流稽古者や研究者であれば、必ず手元に置いておきたい、実に貴重かつ有益な一冊である


 そうか、こういう速報的な記述こそ、ツイッターでつぶやけばいいのか・・・。って、やっぱ140文字じゃ、書ききれないな。

 つうか今日は、原稿書きであまりにも忙しく、締め切りが間に合わないことから翠月庵の稽古も休みにしたのだから、さっさと原稿を書き上げねば。ブログ書いている場合じゃあ、ないんだよな・・・。

 (了)
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Twitter・・・/(身辺雑記)
- 2015/02/28(Sat) -
 昨日、とある武友から久々に電話があった。

 メールでも携帯でもなく、家電にかかってくるというのが、なんとも昭和チックで感慨深い(笑)。


 「なに、最近は柳剛流の稽古をしてるんだってね」
 「おう、ブログ読んでくれたんだ」
 「いんや、読んでないよ」
 「・・・? じゃあ、なんでそんなこと知ってんだよ」
 「ツイッターで見たぜ」
 「はあ? オレはツイッターなんてやってねえぞ」
 「なんか、あんたのセリフがデカデカと出てるぜ(笑)」
 「なんで!?」
 「あんたのブログを読んでいる人が、書いてるみたいよ。教えてやるから、スマホで検索してみな」
 「オレはスマホは持ってねえよ」
 「じゃあガラケーでいいよ」
 「ガラケーって言うな。それにオレは、携帯でネットを見るのが嫌いなんだ。携帯ってのは電話をするための道具だろうが」
 「めんどくせえ奴だなあ・・・、じゃあパソコンでいいから見てみろよ」


 ということで、電話で話しをしながらパソコンでちゃちゃっと検索したところ、たしかに前回の私のブログの冒頭の一文が、ツイッターに書かれている。アップしているのは、本ブログを読んでくれている人のようだ。

 基本的に、ここに書いていることは、誰もが読めるブログで公開していることだから、出典さえ明記してもらえれば、引用やコピー&ペーストされるのはぜんぜんかまわない。

 そもそもウェブになんらかの文言や文章をアップすること自体、それを誰がどのように引用したりコピペして拡散するのか、書いた本人にはあずかり知れぬことだというのは重々承知しているし、そのつもりで書いている。

 しかし、改めてオノレのあずかり知らぬところで、自分の書いた言葉や名前が一人歩きしているのを目の前に突きつけられるというのは、あらほましき昭和生まれの日本人としては、「ちょっとびっくり」というのが、正直な感想である。


 たとえばここで、「私は渡辺ジュースの素が好きだ!」と書いた瞬間、まったく面識の無い誰かがそれをツイッターにコピペしてアップし、それによって「市村翠雨は渡辺ジュースの素が好きである」というきわめてパーソナルな情報が、当人のあずかり知らぬところで拡大再生産され、それが国境を越えて無限に広がっていくのである。

 ま、私が渡辺ジュースの素が好きであるという情報は、その真偽も含め、たとえそれが拡散されても私の生活にこれといって支障はないし、そもそもそんな情報を拡散したい人もいないだろうが・・・・・・。

 一方で、オノレの文言が引用・コピペされ、拡散されているというのは、たとえば今回の件で言えば、その文言の発信元である本ブログを読んでくださる人がいるということであり、それはそれ、たいへんありがたいなとしみじみ思う。

 今回、こんなことがあったので、戯れに「市村翠雨」とか「翠月庵」などという言葉で検索をかけてみると(エゴサーチってやつですか)、たとえば「生死一重の至近の間合からの、渾身の一打」とか、引用している人がいるのですね・・・(汗)。


 つらつら考えるに、20年間、フリーの取材記者兼編集者としてメシを食ってきた出版業界人という立場から言うと、ある一定の思いや考え方、出来事を文字で伝えるには、最低限必要な文字数というものがあり、短い文章ほど誤解や誤謬が生まれるリスクが高い。

 その点で、ツイッターの140文字という制限は文字数が少なすぎる。

 長文はいくつかに分けて投稿すればいいのかもしらんが、そうなったらそうなったで、ぶつぶつ切れて読みにくい。おまけに新しいアップが上に来るから、一連の文章について、文脈や時系列を「ぱっと見て」把握しにくいのだ。

 そういう意味では、昔懐かしい2ちゃんねるの掲示板のような形式は、新しいアップが下に来るので、途中から読んでも、時系列を直感的に把握しやすい。

 こうした特性からも、ツイッターはストレスがたまるので、あんまり読みたくないのである。ま、私の主観だけどな。


 これは取材や編集の現場、あるいはプライベートでもつくづく感じるのだが、最近、短い文章でコミュニケーションをすることが、優秀さの証しのように勘違いしている若いスタッフが少なくないように思える。

 もちろん、(このブログのように!?)無駄にだらだらと書かれた文章というのは、読んでいて苦痛だろうし、仕事上のコミュニケーションとしては非効率的なものだ。

 しかし、それにしても文字を使ったコミュニケーションには、最低限必要な「前後の文脈」だとか、修辞というものがあるだろうと思うのは、私が古い人間だからであろうか・・・・・・。

 あと、ツイッターってさ、なんかその人の生(ナマ)の思考や感情をテーブル一面にぶちまけているのを見せられているようで、人によってはちょっと気持ち悪いんだよな。他人の房事を、無理やり見せられているような感覚っていうかね。

 
 いずれにしても、ツイッターのような、直感的・感情的・断片的・断定的で、即時性の高い言語コミュニケーションツールは、「今の人」向けの情報媒体なのだろうなとしみじみ思う。

 とりあえず私には、ツイッターもラインもスマホもタブレットも、いらねえな。

 それよか久保田の万寿とか、アードベッグの10年とか、ナリのいい片口とか、岩波やちくまの文庫とか、毎朝届く埼玉新聞とか、履き心地のよい足袋とか、肌ざわりのよい麻の浴衣とか、手にしっくりくる木太刀とか、人の手で鍛えられた打刀とか、使い慣れた手裏剣とかの方が、私の生活にとっては切実な必要性と現実感のある事物だ。

 というわけで、ツイッターとかよく分かんないっス。

 (おしまい)
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『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』/(柳剛流)
- 2015/02/25(Wed) -
 現在、私は翠月庵での手裏剣術の稽古と併行し、国際水月塾武術協会の小佐野淳先生に師事し、門下の末席に加えていただいた上で、仙台藩伝柳剛流を学んでいる。

 このため、師からご教授をいただき実技を研鑽すると同時に、関連資料をできるだけ収集し、目を通そうと心がけている。

 その一環として過日、某オークションで入手したのが、森田栄編纂『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』である。いやそれにしても、この資料、落札価格が高かった。当分の間、晩酌の肴が一品減るネ・・・・(涙)。


 本書は、流祖の氏名表記をはじめ、心形刀流から流祖に至る伝系など、従来誤謬の多かった柳剛流に関する記述・伝承を丹念な取材によって正した、近年における柳剛流研究の基礎的資料として非常に価値の高いものである。

 発行は、今から42年前の1973(昭和48)年。

 ちなみにこの時、不肖・市村翠雨は、まだ言葉もおぼつかぬ4歳児である。それがいまや、足腰もおぼつかぬアラウンド・フィフティ。嗚呼、人生不可解・・・。

 閑話休題。

 さて、本書は全68ページの小ぢんまりとした冊子ながらも、流祖・岡田惣右衛門奇良の事績から始まり、目録や免許の写し、各地に点在する流祖顕彰碑の碑文、二代宗家として陸前角田に当流を伝えた岡田左馬之輔信忠以下、角田系柳剛流の主だった伝承者の事績がコンパクトに取りまとめられている。

 流儀の技を実際に学びつつ、こうした史家による研究資料を読み込むことで、一段と学びが深まるというのは、実学たる武術稽古の真面目であり、醍醐味だ。

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▲森田栄編纂『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』。その1となっているが、結局、その2は編纂されなかったようだ。本書は「日本の古本屋」などの検索にはまったくひっかからず、国立国会図書館にも蔵書がなく、宮城県図書館と富山県立図書館にしか収蔵されていないとのことであった。ところが非常に幸運なことに、某ヤフオク(某の意味がないか・・・)でたまたま出品されていたので、私財を投げ打って(笑)落札したものである


 本書は流祖・岡田惣右衛門奇良から二代・左馬之輔信忠と、仙台藩伝・角田系の伝承者の事績を中心に追ったものである。

 一方で当流は、流祖から二代まで宗家を置きながらも、実際には流祖存命の時期から、免許者が各地で積極的かつ自由に門弟を取りたてて流勢を広げていったこと(師家の無制約)が特色であった。

 このため宗家たる二代・左馬之輔信忠が陸前角田へ帰郷した後も、流祖の出生地である武州を中心に多いに隆盛を誇り、その門弟数は北辰一刀流を凌いでいたという。また、流祖の直弟子であった直井勝五郎秀堅の流系が田丸久野家に伝承され、現在も三重県松坂で継承されているという。

 これら武州系統、あるいは田丸系統の柳剛流に関する記述は、本書ではいささか手薄であるが、それにしても纏まった流儀の情報の無かった時代に、手紙と足を使ってこれだけの資料を取材・編纂した著者・森田栄氏のご尽力には頭の下がる思いだ。

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▲本書掲載の、柳剛流目録の写しの一部


 なおちなみに、現在、入手や閲覧が可能な柳剛流関係の資料を、以下にざっとまとめてみた。

柳剛流 資料一覧

1. 「幸手剣術古武道史 柳剛流の研究」辻淳 著/読了
2.「埼玉県の柳剛流(その1)」『埼玉大学紀要(体育学篇)』第14巻、21-35、1979年10月/大保木輝雄/入手
3.「埼玉県の柳剛流(その2)」『埼玉大学紀要(体育学篇)』第15巻、35-47、1980年9月/大保木輝雄/入手
4.「日本剣道史 第10号 柳剛流の研究 その1」、1973年/森田栄/入手
5.「柳剛流剣術の特色」(『武道学研究』第22巻第2号 1989年)/ 村林正美/入手
6.「角田地方と柳剛流剣術 : 宮城県 : 郷土が誇る武とそのこころ」2014年/南部修哉/未見
7.「埼玉の剣術 : 神道無念流・甲源一刀流・柳剛流 第7回特別展」1991年/戸田市立郷土博物館/入手
8.『剣道日本』第3巻第6号 通巻30号「続 剣脈風土記 陸前柳剛流」 スキージャーナル/1978年/未見(手配済)
9.『郷土の剣術柳剛流と日本の武道』村橋正美/多気町郷土資料館特別企画展/2004年/未見
10.『埼玉武芸帳―江戸から明治へ』山本邦夫/さきたま出版会/1981年/未見
11.「柳剛流祖岡田惣右衛門奇良」郷土資料/岡安源一/未見
12.「浦和における柳剛流」『浦和市史研究』第2号、132-158、1987年/山本邦夫/入手



 上記資料の中でも、特に『幸手剣術古武道史 柳剛流の研究』(辻淳 著)は、武州に伝播した柳剛流を中心に、丹念な取材・編纂を行った大作で、『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』以上に価値の高い資料である。

 なかでも、各系統柳剛流の切紙・目録・免許や添え書き・添え状などの写しを非常に多数収載しているのは、私のように実技研鑽を主目的とする者にとっては、実にありがたいものである。また、柳剛流の体術における殺法に関する添え書きなども、たいへん興味深いものであった。

 この、『幸手剣術古武道史 柳剛流の研究』については、項を改めて紹介したいと思う。

 (了)
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図書館巡礼/(柳剛流)
- 2015/02/18(Wed) -
 朝から仕事関連の調べ物で、埼玉大学の図書館へ。

 医学関連の書物を閲覧したついでに、以前から当たりをつけていた、武術関連の資料も入手する。

 剣術関連では、「埼玉県の柳剛流(その1)」『埼玉大学紀要(体育学篇)』(第14巻、21-35/大保木輝雄)と、「埼玉県の柳剛流(その2)」『埼玉大学紀要(体育学篇)』(第15巻、35-47、/大保木輝雄)のコピーをとる。

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▲「埼玉県の柳剛流(その1)」『埼玉大学紀要(体育学篇)』(第14巻、21-35/
大保木輝雄)の一部


 ついでといっては何だが、『日本武道体系』(第7巻)の手裏剣術の部分のコピーも入手。

 この部分は根岸流の斉藤前宗家が執筆しているのだが、昨年鬼籍に入られていたとのことを、実は最近まで、私は知らなかった。


 なお帰宅後、日本古武道協会のホームページにある根岸流ページを見ると、故斉藤宗家の後の七代目宗家は、早坂義文先生となっていたのは意外であり、いささか驚きであった。

 私は同流の関係者ではないし、手裏剣術においては古流ではなく市井の現代会派の一員に過ぎないので何とも言えないが、芸事の世界の宗家継承というのは、色々あるのだなとしみじみ思った次第・・・。

 閑話休題。


 埼大の図書館では、そのほかにも真之神道流や奥山念流(柔術)の取口などが書かれた論文など、柔術関連でも興味深い資料がいくつかあったのだが、時間がなかったので、これらについてはまたの機会にする。

 それにしても埼大図書館の方は、たいへん親切な対応で、心地よく資料探しができた。

 大学図書館の後は、バスと電車を乗り継いで、さいたま市立中央図書館へ。

 ここでも、仕事がらみの調べもののついでに、あらかじめ当たりをつけていた柳剛流関連の資料を閲覧(どっちが本来の目的なのであろうか・・・)。

 『幸手剣術古武道史 柳剛流の研究』(辻淳)、『埼玉の剣術 : 神道無念流・甲源一刀流・柳剛流 第7回特別展』(戸田市立郷土博物館)、『浦和市史研究 第2号』(浦和市総務部市史編さん室)は、いずれも貸し出し可とのことなので、自宅でじっくり目を通すこととする。

 『浦和市史研究 第2号』(浦和市総務部市史編さん室)については、当初はそれほどたいした記述はないのだろうなとかたをくくっていたのだが、さにあらず。

 同書に記載されている「浦和における柳剛流」という論文は、埼玉大学の教授として、県内の武術全般を長年にわたって調査・研究されてきた山本邦夫氏によるものであり、読み応えのある資料であった。

 こうしたうれしい誤算は、資料探しの醍醐味だ。

 さて明日には、ヤフオクで苦心惨憺の末落札した、『日本剣道史 第10号 柳剛流の研究 その1』(森田栄)が届く予定である。

 (了)
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易占は一打必倒/(身辺雑記)
- 2015/02/17(Tue) -
 周易の素晴らしいところは、未知を知る占筮の経典であると同時に、四書五経の頂点に立つ東洋哲学の書でもあることだ。

 ゆえに日常生活では浮世の道しるべたる座右の書として、また天地人の在りようを示した哲学書として、その哲理を味読しつつ、時に選択に悩むことあらば一筮して迷いの霧を払拭してくれる、これぞまさに東洋の叡智である。

 占筮の経典として3000年もの歴史があるだけに、卜占の徒として言わせてもらえば、周易、ことに略筮での占断は、まさに「一打必倒」という味わいだ。

 この点、占いの種類としては同じ「卜」に属するけれど、タロットでの占断はその物語性もあり、時にぶれやあいまいさが生じてしまうことが少なくない。

 もっとも周易でも、たとえばあまり互卦約象や之卦などに振り回されすぎると、何がなんだからわからなくなってしまうのだが。


 ここのところ必要に迫られて一筮した周易の占断で、その結果が一刀両断、快刀乱麻という感じで、ビシバシと決まることが多く、我ながら心地よい。

 手裏剣よりも、よく当たるかも・・・・・・。


 とはいっても、卜占はしょせんは人生の香辛料。

 本当に大切なことは、常に自分自身の理性で決断しなければならないことは、言うまでもない。

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易に聖人の道四あり。もって言う者はその辞をたっとび、もって動く者はその変をたっとび、もって器を制する者はその象をたっとび、もって卜筮する者はその占をたっとぶ。(繋辞上伝より)

 (了)
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日曜雑感/(身辺雑記)
- 2015/02/15(Sun) -
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 ここしばらく、日々の稽古は剣術が中心になっている。

 やっぱり、やっとうの稽古はイイネ。

 とはいえ、手裏剣術もおろそかにしてはならぬと自戒。


 あと、酒飲んでメールを書いたりすると、やっぱりいかんなあとしみじみ実感・・・。

 先輩にたしなめられ、改めて素面で読み返してみると、オノレの負の面が文字になっているのを目の当たりにし、なんとも情けない。

 酒飲んで、PCに向かってはいけません。我ながら、まだまだ修行が足りませんな・・・・。

 (おしまい)
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つらつらと考える/(手裏剣術)
- 2015/02/14(Sat) -
 まだ少し時間があるのだが、今年の春の演武で何をやるかについて、つらつらと考えている。

 昨年は、三間での基本打ち(順体)、運用形(突進)、飛刀術(鞘遣上下二刀、抜打)、刀法併用手裏剣術(左敵)を行った。今年は、四間直打をやろうかどうか考えているのだが、これはなかなかチャレンジであるしなあ・・・。


 いずれにしても、手裏剣術には試合や競技がないだけに、演武というのは数少ない「真剣勝負」の場である。

 面白いもので、普段五間や六間で普通に的中させているのが、衆人環視の演武の場では二間で外してしまったりすることも少なくない。そしてまた手裏剣術の演武では、刺さるか刺さらないかは一目瞭然なので、オノレの未熟を取り繕うことができない。

 それだけに、演武というのは自分の「本当の実力」が試される、貴重な機会なのであり、楽しみでもありプレッシャーでもある。

 さて、今年は、何をやろうかね・・・・・・。

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▲これは3年前の演武の二間順体打ち。昨年や一昨年の演武は、写真がないんだよね・・・

 (了)
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「ヘイト」という女中根性/(時評)
- 2015/02/13(Fri) -
 最近ネットなどで目に付く不快な風潮に、たとえば何かの事件やトラブルがあったりすると、その相手を何の根拠もなく特定の在日外国人扱いするというものがある。

 こんな情けないヨタ話を真に受ける人間が、そんなにいるとは思わないが、そもそも自分にとって都合の悪いことや気に食わないことは、すべて外国人や自国に暮らすマイノリティのせいにするというのは、なんともさもしい「女中根性」である。


「女中根性というのは、自分の実力を全力発揮するチャンスのなかなか得られない、お屋敷奉公(これは嫁入り修業の行儀見習を兼ねていた)の町人の娘が、互いに隠れて朋輩のけなし合いにうつつをぬかすような態度をいい、表面は「お堅い」のですが、精神が非独立的で非生産的なのです。移動の自由が少ない社会では、男にもこういうのがいるでしょう」
(兵頭二十八/日本勇気倍増計画HP(http://www.gotoyoshinori.com/028hyodo/post_67.html)『9)勇気と度胸/為永春水/勇気は景気次第(前編)』より)



 人種差別というのは安直なものだ。

 たとえば「自分は日本人である」という事実は、日本人に生まれれば誰でも日本人であることができる。

 そこには、努力も精進も必要がない。

 そういう安直なところに、己の優越感・存在意義を置くというのは、実に情けないことだ。

 一方でだからこそ、今の世の中に不満のある、しかし自分で自分の運命を切り開くガッツのないヘタレたちが、こぞってヘイトに走るのであろう。
 
 自分の人生に真剣に取り組んでいれば、ヘイトで憂さ晴らしをするような下らない時間はないはずだ。

 ネットで「在日認定」とか書いて下卑た笑いをしている暇があったら、素振り1000回でもしとけってなもんだ。いやほんと、本気(マジ)で。


~世の中に不満があるなら自分を変えろ。 それが嫌なら耳と目を閉じ、口をつぐんで孤独に暮らせ~(『攻殻機動隊』より)

 (了)
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天井の高さは重要だ/(武術・武道)
- 2015/02/12(Thu) -
■本日の稽古備忘録

 手裏剣術。力が抜けているせいか、最近の不調の中で、今日はまずまず。

 剣術。昨日、一昨日は屋外で稽古をしたのだが、本日は仕事が終わるのが遅かったため、やむを得ず室内で・・・・。とはいえ天井の低い室内では、やはりできる稽古に限界がある。明日は手抜きをせず、外でのびのびやらねば。運足と体捌きに、まだまだ課題あり。

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▲体育館は天井が高くていいね・・・

 (了)

 
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偽医学と陰謀論の種は尽きまじ/(医療・福祉)
- 2015/02/11(Wed) -
 先日、宝石屋が売っていた「がんに効く水」とやらについて、消費者庁が「根拠のない効能をうたった・・・」として措置命令をだしたという。

 この手の医療・健康系トンデモ話の種は、一向に尽きることがない。

 水を飲んで、がんが治るか?

 普通に考えれば、中学生でも分かるであろう。それかあらぬか、この水、これまで1億円以上を売り上げたという・・・。

 歴史上だれも経験したことがないという日本の急激な少子高齢化と、それによる死亡者数増加社会の中では、偽医学やインチキサプリは「金の成る木」なのだろう。


 最近の医療系トンデモ話の中でも、特に罪深いA級戦犯は近藤誠・内海聡の両医師であろう。

 この2人の医師のトンデモぶりは、多くのまともで良心的な医療関係者が各方面で告発しているのだが、いまだに騙され洗脳されてしまい、結果として医療ネグレクトに陥り、自分や大切な家族の人生を台無しにしてしまう人が後を絶たないことに強い憤りを感じる。

 近藤氏の「がんもどき理論」が、科学的にまったく根拠がないことは、多くの医療者にとってはいまさら指摘するまでもない事実である。また内海氏にいたっては、電波ゆんゆんの陰謀論者であり、医療以前に、健全な社会人としての資質に疑問がある。

 こうした人々が、自らの信ずる似非科学や陳腐な陰謀論に熱狂するのはご本人の勝手である。日本は自由の国なのだから。

 しかし「医師」という肩書きは、庶民にとっては侮りがたいインパクトがあるわけで、そういう人が「がん治療では、化学療法は無意味」だとか、「ワクチン治療は有害」だとか、「ユダヤに支配された製薬会社の陰謀」だとか、「児童相談所が子供を拉致している」などという、偽医学やデマ、陰謀論を流布させると、それを真に受ける人が現れ、結果として助かるべき命が失われてしまう。

 ここに、医療ネグレクトや医療系陰謀論の、社会的な高い害悪性があるのだ。

 たとえば、がんにかかっても普通に化学療法や放射線治療をうければ助かる人が、治療を拒否することで命を失ってしまう。

 たとえば、インフルエンザにかかってもワクチン接種をしていればどうということのなかったはずの人が、ワクチン接種を拒否することで肺炎を併発して死んでしまう。さらには感染を拡大させて、他の多くの人の命も奪ってしまう。

 たとえば、児童相談所に保護されていれば無事だったはずの子供が、虐待を繰り返す親に無理やり取り戻されてしまい、結果、親に虐待死させられてしまう。

 こうした事例は、「たとえば」ではなく、実際に後を絶たないのである。

 私自身、身近な人間が医療カルトにはまってしまい、その家族が医療ネグレクトによって死亡してしまった経験があり、こうした偽医療やカルト、陰謀論者には、心の底からの強い怒りを感じるのである。


 今の時代、多くの情報がネットで手に入る。

 ちょっと調べて、ごく一般的な常識(メディア・リテラシー)で考えれば、それがデマなのか、事実なのかは分かるものだろう。

 たとえば最近、医療記者仲間の間で話題になったのだが、「WHO(世界保健機関)が、抗がん剤の使用をやめるようにいいだした」という、ちゃんちゃらおかしいデマがネットで流布しており、しかも驚くことにそれを真に受ける人がいるのだという。

 あまりに馬鹿馬鹿しい話なので、調べるまでもないことなのだが、暇つぶしにその情報の出所をちょっと調べてみたのだが、そのようなWHOの発表は当然なく、その根拠となる論文なども見つけることができなかった(ま、最初から時間の無駄になるのは分かっていたのだが・・・)。

 これなど、別に医療関係者でなくとも、すぐにデマと分かることである。

 たとえばweb上で、「WHO(世界保健機関)が、抗がん剤の使用をやめるようにいいだした」と書いているHPやブログで、その情報の出典や引用元をたどってみればいい。すると、引用元はいずれも、同じようなブログやHPであり、そのいずれもが、情報の出所が伝聞に過ぎないのである。

 そもそも、そんな重大な発表をWHOがしたのであれば、プレスリリース出すだろうっつうの(笑)。


 「ところがね、そういう風に説明しても、信じ込んじゃった健康カルトの人は、納得しないんだよ」
 「なんで? バカなの?」
 「いやいや、そうじゃあなくって、・・・つうかその発言はまずいだろう(苦笑)」
 「だってさ、情報元がすべて伝聞って、『友達の友達には、誰も会ったことがない』ってやつと一緒じゃん。嘉門達夫かよ!」
 「まあね。しかし偽医学が大好きな人たちは、たとえWHOからはそういう記者発表が出ていないとか、それを証明する医学論文がないと指摘しても、『それは政府が圧力をかけて隠蔽している』とか、『ロックフェラーがもみ消している』とか言うのさ」
 「やっぱ、バカじゃん!」
 「だから、それはまずいって(笑)。いずれにしても、偽医学や陰謀論を信じる人たちにとっては、証拠や根拠などというのは意味がないんだよ。そんなことより、自分自身がその偽医学や陰謀論を信じたいんだから。信心ってやつは、理屈や論理で説得できるもんじゃないんだからね」
 「なるほどねえ。草葉の陰で、カール・セーガンさんや井上円了先生が泣いているな・・・」
 「ま、偽医療と陰謀論の種は尽きまじってことさ」


■偽医学や偽科学、陰謀論にだまされないための参考書

1502_ニセ医学
▲『ニセ医学」に騙されないために 危険な反医療論や治療法、健康法から身を守る!』 NATROM (著)は、現役医師が書いた、偽医学や健康カルトのトンデモ話に騙されないために、必ず読んでおきたい名著!


1502_ニセ科学
▲『ニセ科学を10倍楽しむ本』山本 弘 (著)。「水からの伝言」「ゲーム脳」「脳トレ」「地震雲」「2012年地球滅亡説」「アポロ陰謀論」etc…。まことしやかに伝わる科学っぽいデマのどこが間違っているかを、楽しみながら学べる一冊


1502_陰謀論
▲『検証 陰謀論はどこまで真実か パーセントで判定』 ASIOS (著), 奥菜 秀次 (著), 水野 俊平 (著)。 政治や国際社会、仕事や日常生活等の場で様々に囁かれる陰謀の噂を検証することで、どう陰謀論に立ち向かったらいいかを探る

 (おしまい)
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学ぶ喜び/(武術・武道)
- 2015/02/08(Sun) -
 久々に、学ぶ喜びと楽しみを実感した本日。

 新たなご縁をいただき、師より古流の剣を学ぶ。


 古(いにしえ)の剣とは、なんとダイナミックで、なんと奥深いものなのか! 

 消え入るような文化の一灯だとしても、この技と伝統を学び、受け継いでいかねばならぬとしみじみと実感できた、密度の濃い一日であった。

 (了)
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後礼の清清しさ/(身辺雑記)
- 2015/02/06(Fri) -
 昼過ぎ、年末に雑誌の取材でお邪魔した、箱根のカフェのオーナーさんから、「良い原稿を書いてもらって、ありがとうございます」と、お礼の電話がかかってきた。

 もう20年以上もフリーランスの記者をやっているが、旅ものの取材で、記事のお礼を掲載後に直接くれた人は、今回のこのオーナーさんと、『銀座ルパン』の名バーテンダーであった故高崎武さんの2人だけである(間接的なお礼などは、ちょくちょくはある)。

 作家と違い雑誌記者というのは、編集者以外から、直接原稿の良し悪しについて言われることが少ないので、こうした言葉をいただけるのは非常にうれしいし、励みになるものだ。

 茶道では古来、「後礼」というものを大切にするというが、事が終えた後の改めてのお礼というのは、しみじみとうれしいものである。

  夜の稽古後、井伊直弼の『茶湯一会集』を読みながら、そんなふうに「礼」についてつらつらと考えてみた。

1502_茶湯一会集
▲「一期一会」という理念を広く知らしめた茶道書として知られる、井伊直弼の『茶湯一会集』。井伊直弼は茶道はもちろん武芸にも深く精通しており、彦根藩伝の新心流居合を極め、自ら新心新流を開いたほどの剣客でもあったという

 (了)
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斬りの稽古/(武術・武道)
- 2015/02/02(Mon) -
■本日の稽古備忘録

 日曜は斬りの稽古。

 座技の横払い、逆袈裟、左右の袈裟で、試物を斬る。

 ここのところ、斬りの稽古では右袈裟(時計の針で、11時から5時、あるいは10時から4時方向に向けて斬り下ろす)はあまりやっていなかったのだが、最近ちょっとした出来事があり、改めて右袈裟も稽古。

 一般的に、左袈裟に比べると、右袈裟は身体の構造上、刃筋が立ちやすいので、斬り損じが少ないものだといわれる。

 ただし、袈裟の角度にもいろいろあり、今回11時~5時方向への斬りは問題なかったが、10時から4時方向の斬りについては、斬り損じが出てしまった。

 斬り易い太刀筋とはいっても、油断大敵である。

 逆袈裟の斬りは、いまひとつ刃筋の立ち方に納得がいかず。

 今週はもう少し、斬りの稽古もみっちりとやってみるか・・・・・・。

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▲もっぱら斬りの稽古専用として使っている二尺一寸の無銘刀


 (了)
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「惻隠の情」を知らない人々/(時評)
- 2015/02/01(Sun) -
 早朝から残念なニュースを聞き、重たい気分である。

 さらには一連の出来事にともない、webなどで被害者やその家族を批判するような言説を目にし、暗澹たる気分になる。


 ひとつ思うのは近年、何か事件が起きると、自らは安穏なところに居ながら、さも正論のように「自己責任」を声高に叫ぶ、一部日本人の醜悪さだ。

 日本人には古来から、たとえ考え方やものの感じ方、行動が異なっていたとしても、そうした相手、特に弱い立場にいる相手を慮って対応する、「惻隠の情」というものがある。

 ゆえに日本の伝統的な情理を理解すれば、ヘイトスピーチやら人種差別やらは、おのずからできなくなるものである。

 ところが近年、右派や保守を「自称」する人々ほど、こうした日本人の伝統的な精神=大和心(やまとごころ)をわきまえず、事が起きれば鬼の首をとったように、無力な弱者を排撃する者が少なくない。

 無力な弱者を害するような行為は、日本人の伝統的な精神ではない。

 そういった卑しい、破廉恥で、自然の情理に反するような行為は、古くから唐心(からごころ)というのである。

 「ネトウヨ」という言葉に象徴される、こうした自称保守といわれるような人々特有の、恥や情けを知らない言動を目や耳にすると、彼らは日本人本来の大和心というものを、まったく理解していない「異人」なのだなと強く感じる。

 理由はどうあれ、無害な弱者を害するような行為(たとえば、海外で人質になっている邦人やその家族の立場を害するような発言をWEB上で得意になって公開する、元独裁者の何番夫人だかの下品なタレントなど)は、日本の伝統的な大和心から見れば、到底ありえない破廉恥な人間なのだ。

 ま、あのおばさんは、日本人じゃないからしょうねえか・・・。

 閑話休題。

 最近の風潮として、日本の伝統的な精神についてまじめに学びもせず、浅はかに「保守」や「右派」を自称する人々ほど、実は日本の伝統的な情理を理解しない唐心に犯された人々であり、本当の日本的伝統や日本的情理、そして日本的美を破壊するのは彼らなのだと、私は強く危惧する。


 草葉の陰で、かつて本物の保守・右派であり、厳しくも常に弱者への優しさを忘れなかった、川内康範先生が泣いているのではなかろうか・・・。

 (了)
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