柳剛流の柄/(柳剛流)
- 2015/04/29(Wed) -
 はじめに記しておくと、私は刀の目利きをはじめ、拵えや刀装等については、あまり詳しくない。以下はあくまで、そういう武術人の記しているものということで、ご容赦いただきたい。


 さて過日、深井派柳剛流の師範家であった深井家をお訪ねした際、自分は柳剛流を稽古しながら流儀の歴史や伝承などについて調べている者ですと挨拶をすると、「柳剛流で使う刀は、柄が違うのですか?」と、逆に質問をされた。

 私自身、柳剛流に関しては稽古も研究もいまだ浅学ゆえ、「そういう話しは伺ったことがないのですが・・・」と答えるしかなく、この話題はそのままになった。

 そして先日、国立国会図書館で調べ物をした際、図書の貸し出しの待ち時間に、柳剛流について同図書館のデジタルライブラリーを検索すると、「柳剛流の柄」というタイトルの古い記事があった(ちなみにこの記事は、館内PCでのみ閲覧可となっている)。

 これは今から50年以上前の昭和39(1964)年11月に、刀剣保存会本部が発行した『刀剣と歴史』(第422号)に掲載された記事で、筆者は山下春剣という人物である。

 以下、その記事の主要部分を引用しよう。

 この流派を学ぶ者は、刀の拵えまで直した。それが柳剛柄と呼ばれるものである。特色としては、柄頭の握りが張り、縁際の打込みが太くなる。従って柄の中間部がくびれて細く見える。斯くして柄のスタイルは一段とスマートさを加えて来て学ぶ者も学ばざる者も、等しくこれに憧れた。
 これが今日、愛刀家の好む「リュウゴ柄」と呼ばれるもので柄頭の金具の大小により、下部に張るを片リュウゴ、上下に張るを諸リュウゴと呼ばれた。この流儀は、今日古武道より姿を消し北辰一刀流、小野派一刀流、神無念流、直心影流に名剣士と称される先生方が現存する。柳剛流は惜しくも、刀の拵えにかっての映光(ママ)を残しているだけである。


150429_102447.jpg
▲当該記事のコピー。ちなみに、この『刀剣と歴史』という雑誌は、現在も発行されているとのこと

 以上、引用終わり。


 刀の柄の形として、柄の中間部を絞って鼓形にしたものを「立鼓(りゅうご)」と呼ぶということは、私も以前から知っていたけれど、それは柳剛流特有の拵えからきたものであり、「立鼓」→「リュウゴ」→「リュウゴウ」→「柳剛」なのだというのは、なんとも驚きである。

 さてこの説、どの程度信憑性があるのだろうか?

 掲載されている記事には、出典や参考文献などに関する記述がないので、この逸話のエビデンス(根拠)がどのようなものか、現状では知るすべもない・・・。

 
 また当流の実技を武術として学ぶ者の立場からは、「往時の柳剛流剣士は、なぜこのような形状の柄を好んだのか?」という点についても、多いに興味が湧くところである。

 いまさら言うまでもなく、刀の柄というのは、武具と使い手との接点となる、非常にデリケートな部分である。その形状については、流儀なり個々人としての剣士なりの必然性がなければならない。

 だからこそ、なぜ柳剛流の使い手たちは、柄中を絞り上下を張らせた「リュウゴ柄」を好んだのかという点は、刀装史以上に、武術としての実技面からも、たいへん重要な点なのである。

 なおこの点について私なりの推論があるのだが、それは流儀特有の運足や体動に深く関連することだけに、ここでは伏せておく。

150429_岡田十内刀
▲戸田市立郷土博物館所蔵の、柳剛流を代表する剣客・岡田十内の差料。刃長は3尺8分、切先は諸刃造り。写真を見る限り柄は1尺以上あるようで、形は確かにリュウゴになっているような、いないような・・・。現物を間近で見てみないと、なんとも言えない


 「リュウゴ柄」=「柳剛柄」というこの話し、刀装や拵えに詳しい方々はどのようにお考えだろうか・・・。

 (了)
スポンサーサイト
この記事のURL | 柳剛流 | ▲ top
『角田地方と柳剛流剣術-郷土が誇る武とそのこころ-』を読む/(柳剛流)
- 2015/04/25(Sat) -
 柳剛流に関する最も新しい資料として、南部修哉氏が昨年11月に発行した『角田地方と柳剛流剣術-郷土が誇る武とそのこころ-』という書籍がある。

 これは国立国会図書館の検索エンジンで見つけたのだが、非売品ということで未見であった。そこで先日、都内の大学病院で単純性腎嚢胞の取材をした帰り、少し時間があったので国会図書館に立ち寄り、ようやく目を通すことができた。

 当初は、角田周辺での流儀の現状に関して、何か新しい情報があるのかと期待したのだが、残念ながらそういった記述はなかった。

 筆者の南部氏は、父親の南部雄哉氏が角田系柳剛流の目録受領者であったとのことで、ご本人も相当剣道に親しんだとのことである。しかし柳剛流については、実技を父君から学んだということはなく、流儀の実技はご存知ないとのことである。

 なお、同氏は現在神奈川県にご在住とのことなので、角田周辺で柳剛流の実技を知る人、稽古をしている人がもはや皆無であるのかどうかは、いまだ一考の余地があるのではないかと思う。

 さて本書は、角田地方に伝承された柳剛流の歴史について、従来の資料以上に詳しく記されており、特に江戸期・角田での柳剛流の殿堂ともいえる成教書院での伝承や、明治から昭和にかけての旧制角田中学校での流儀の教導に関する記述などは、たいへん興味深いものであった。

 なかでも一部資料の中で、角田系柳剛流宗家4代目の泉富次の最初の師とされている宍戸貢について、天保年間に記された『諸芸師範届』では能楽・大鼓の師範となっており、柳剛流の剣士ではなく「単なる武技全般を教える部署の責任者であったのではなかろうか」と推察している点は、新しい知見として押さえておくべきだろう。

 また巻末には、南部雄哉が大正13(1924)年に、旧制角田中学校剣術師範で柳剛流の皆伝者であった齋藤龍三郎から受けた切紙と目録が掲載されている。

 齋藤龍三郎は、角田系柳剛流宗家4代目・泉富次や5代目宗家・泉丁三郎から教導を受けて免許皆伝にいたった人で、明治45(1912)年から昭和8(1933)年まで、旧制角田中学校の撃剣師範を務めた人物である。なお旧制角田中学校では、明治31(1898)年の撃剣科発足以来、師範は代々、柳剛流の皆伝者が採用されてきたという。

 私の学ぶ仙台藩伝柳剛流の大師匠(師匠の師匠)は佐藤健七師であるが、健七師の師匠は実父の佐藤金三郎師であり、この金三郎師の師匠が泉富次に当たる。

 こうした観点から、齋藤龍三郎が南部雄哉に出した切紙と目録の形の名称などを、今、私が学んでいるものと比較すると、切紙の剣術形である「右剣」や「左剣」、居合形5本、突杖、さらに目録の柳剛刀6本など、一部の漢字表記の差異を除いて、名称や本数などは全て一致している。

 伝系が同じなのであるから、当然といえば当然なのだが、こうした点を伝書できちんと確認できるということは、正しい古流の実技をきちんと伝承し、次代につなげていく上で、たいへん重要なことである。

 逆に言えば、こうした確認行為ができない流儀やそこで指導される形というのは・・・・、ま、みなまで言うこともあるまいね。

切紙_150425_165910
▲切紙

目録_150425_165942
▲目録


 本書について、今回著作権保護で認められている範囲での複写をしてきたが、資料としてたいへん貴重であることから、著者の南部氏に連絡を取り、ぜひ一冊購入させていただこうと考えている。

 ところで今回、柳剛流に関して、さらに意外かつ興味深い資料を偶然見つけることができたのだが、それについては、また次回。

 ※文中一部敬称略

 (了)
この記事のURL | 柳剛流 | ▲ top
晩春酔言/(身辺雑記)
- 2015/04/24(Fri) -
150405_232631.jpg


 子供ってのは正直なものだ。

 晩酌の肴が切れちまったので、近所のスーパーに買い物に行くと、7歳ぐらいの女の子が私を見て「変な人がいる~!」という。

 私は普段着が和服なので、その日は渋茶色の正絹の着流しに白い角帯で雪駄履きだった。ちなみに襦袢は、深緑の般若柄である。

 「なんで浴衣を着ているの?」と女の子が聞く。

 「浴衣ぢゃあないよ、長着だよ」などと答えるのも野暮なので、「浴衣が好きだからだよ」と答えると、不思議そうな顔をしていた・・・。

 ま、春だなってことさ。

 (おしまい)
この記事のURL | 身辺雑記 | ▲ top
レクイエム/(身辺雑記)
- 2015/04/22(Wed) -
 今日未明、作家の船戸与一氏が亡くなったという。

 まだヒヨコだった頃、氏の『叛アメリカ史』や『猛き箱舟』、『砂のクロニクル』といった骨太のルポや小説を読んだことから私は従軍記者を志し、1996~1998年にかけて、クルディスタンを取材した。

 当時の中東地域は湾岸戦争とイラク戦争の間の戦間期であったが、トルコ領内を中心とした北クルディスタンでは、政府軍とゲリラとの間の紛争で、軍人やゲリラ、そして民間人も含め、数万人規模の犠牲者が出ていた。

ネブロズ1 修正
▲1996年3月、トルコ治安軍の武装ヘリに向けて無言で勝利のVサインを突き上げるクルドの人々


ネブロズ2 修正
▲ネヴロズの大祭で出会ったクルドの老人


ネブロズ3 修正
▲少年が頭に巻いているスカーフの色は、クルド民族独立の三色の旗を模しているという


 結果として、取材の成果はマイナーな新聞のグラビア記事に3回掲載されただけで、私は従軍記者としては芽が出なかった。

 しかしその後、紆余曲折をへて、医療や社会福祉を専門領域とした取材記者となった私の原点は、若き日のクルディスタンでの取材活動であり、ひいては船戸与一氏の作品群であった。


 偉大な作家の冥福を、心よりお祈りします。

 (了)
この記事のURL | 身辺雑記 | ▲ top
柳剛流深井派の師範家を訪ねて(その2)/(柳剛流)
- 2015/04/20(Mon) -
 深井家では、伝書や木太刀のほかにも、柳剛流に関連するさまざまな資料があり、また今に伝わる逸話を伺うことができた。

 現在、深井家には弘化元(1844)年に建てられた茅葺寄棟造りの大きな長屋門が残されており、さいたま市の指定文化財となっている。この門の内側は広々とした中庭になっており、その一角、長屋門端に隣接し、かつて深井柳剛流の稽古場があったという。

間取り
▲当時の稽古場の平面図


 稽古場は間口3間、奥行き8間だが、ちょうど真ん中に座敷が敷かれて二分されており、奥は控えの間のようになっていたとのことで、実際に稽古場として使われていたのは、3間×3間半ほどのスペースであったという。

 当然ながら、この広さでは十分な稽古は難しかっただろうことから、普段は門内の中庭で主に稽古を行っていたのではないかという。

 稽古場が建てられたのは文久3(1863)年で、深井派剣一世の源次郎が、岡田十内から免許を受けてから9年後のことであった。

道場棟木1

道場棟木2

道場棟木3
▲建築年と深井源次郎、半次郎(剣二世)などの名前が記された、稽古場の棟木が残されている


 深井柳剛流の剣の道統は、剣三世・源次郎の代で途絶えた。この源次郎が、現当主である治男氏の祖父となる。

 明治20(1887)年に生まれた剣三世・源次郎は、昭和16(1941)年に55歳(数え年)で亡くなった。治男氏の話しによれば、常に三尺ほどの木太刀を杖代わりにして肌身離さず、眠るときにも木太刀を布団の下に忍ばせるなど、手放すことがなかったという。

 また剣一世・源次郎はたいへん小柄な人だったようで、実際に着用されていたという鎖帷子が深井家には伝えられていたが、「今の小学生くらいの体格に合わせたようなサイズで、とても着ることができなかった」(治男氏談)とのこと。

 なお深井家には、2冊の『武術英名録』が所蔵されている。いずれも万延元(1860)年に発行されたものなのだが、記載内容がかなり異なっている。

英名録1

英名録2

英名録3
▲深井柳剛流の剣士名が、より多く収載されている方の『武術英名録』。ここに記載されている岩井兵部は、大宮氷川神社の神職であったという


 治男氏によれば、一方の英名録には深井柳剛流の剣士は深井源次郎1名のみしか記載されていないが、もう一方の英名録には複数の深井派の剣士の名前が記載されているという。

 ちなみに、この万延の武術英名録には664名の剣士の流派と氏名が記載されているが、柳剛流剣士は合計149名で、北辰一刀流や神道無念流などをしのいで最大勢力となっている。それだけでなく、たとえば岡田派柳剛流・岡田十内の門弟は1000人を超えていたと言われ、あの山岡鉄舟も若かりしころ入門して教えを受けていたという。あるいは直井勝五郎門下の松平主税介忠敏は、柳剛流剣士として時の講武所師範にもなっている。

 江戸時代後期にこれほど興隆した柳剛流が、平成の今、すっかり衰退してしまったというのは、本当に残念なことだ。現在、流祖以来の伝統を受け継いだ柳剛流の剣術や居合、突杖や長刀を継承し稽古をしている人は、いったいどれくらいいるのだろうか・・・。

             *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 文末で恐縮ですが、どこの何者かも分からない私の来訪を快く迎えてくださり、貴重な資料の数々の公開とお話をしてくださった深井治男氏に、心からお礼申し上げます。ありがとうございました。


■参考文献
「埼玉県の柳剛流(その1)」『埼玉大学紀要(体育学篇)』第14巻、21-35、1979年10月/大保木輝雄
「埼玉県の柳剛流(その2)」『埼玉大学紀要(体育学篇)』第15巻、35-47、1980年9月/大保木輝雄
「埼玉の剣術 : 神道無念流・甲源一刀流・柳剛流 第7回特別展」1991年/戸田市立郷土博物館
「埼玉武芸帳―江戸から明治へ」さきたま出版会/1981年/山本邦夫
「浦和における柳剛流」『浦和市史研究』第2号、132-158、1987年/山本邦夫
「戸田剣術古武道史」 剣術流派調査研究会/2013年/辻淳

 (了)
この記事のURL | 柳剛流 | ▲ top
柳剛流深井派の師範家を訪ねて(その1)/(柳剛流)
- 2015/04/17(Fri) -
 柳剛流の特色のひとつに、「師家の無制約」がある。

 埼玉県の古流武術研究で知られる埼玉大学の山本邦夫教授はこれについて、「流祖に師事し、免許の印可を受けた門人たちが、全国各地に散らばり、そこで道場を開設して弟子を養成し、流盛の発展に努めた」と指摘。

 このため柳剛流では、二代目の道統が奥州・角田に移った後も、武州を中心に松田派や岡田派、岡安派や中山派など、多くの免許受領者が、それぞれ流儀の教線拡大を図っていた。

 こうした柳剛流師範家のひとつに、日光街道上野田村(現在のさいたま市緑区上野田)で柳剛流を指南した深井家がある。同家の門流は、深井柳剛流として、万延元(1860)年に発行された『武術英名録』にも、その名が記されている。

 深井派剣一世の深井源次郎智安は文政11(1828)年に当地に生まれ、弘化3(1846)年、岡田十内に入門。嘉永7(1854)年に免許を印可され、以後、武州足立郡上野田村の生家に道場を開き、門弟を育成。その剣脈は、孫の剣三世・源次郎まで続いた(剣三世の源次郎は、原田宇竟、寅之輔に師事)。

(なお、山本教授の記した文献では、深井源次郎の生年が文化7(1824)になっているものがあるが、これは間違いであることを現当主・深井治男氏は強調していた)

見沼用水
▲深井家のすぐ近くを流れる見沼代用水


 桜の花も大方散った頃、深井家を訪ね現当主の治男氏にお話を伺った。

 まずは深井家に残されている、柳剛流の切紙と目録を拝見する。

切紙2

切紙3

切紙4

切紙5

 この切紙は、深井派・剣三世の深井源次郎が、原田宇竟から受けたものである。備之伝や剣術形の「右剣」と「左剣」、居合五本は、仙台藩伝や岡田派など他系と同一であるのに比べ、多くの系統の柳剛流で切紙段階で伝授を受ける突杖が記されていないことが特徴的である。

 続いて目録。

目録2

目録3

目録4

目録5

 この目録で着目したいのは、剣術形の名称である。柳剛流について各派の伝書を見ると、切紙についてはほとんどの伝系で差異がないことに比べ、目録の剣術形の名称は、各派はもちろん同一派内でも差異があり、この深井源次郎(剣三世)が受けた目録の形と角田系の仙台藩伝の形をつき合わせると、合致するのは「相合刀(剣)」と「無心剣」のみである。ちなみに、岡田十内系と角田系仙台藩伝の目録の剣術形の名称と本数は、概ね合致している。


 続いて、深井家に残されている、柳剛流の木太刀を拝見する。

木太刀2

木太刀4

木太刀5

木太刀6

木太刀7

 写真では比較対照するものが無いから分かりにくいかもしれないが、長さは最も短いもので129センチ、最も長いもので134センチ。仮に柄を一尺とすると、概ね三尺三寸の刀に相当するであろう。ちなみに幕末の柳剛流を代表する剣客・岡田十内の差料は、三尺八分で切先は諸刃造りであったという。

 木太刀の形はいずれも直刀で、4本のうち3本は庵棟、1本は三棟、切先は1本は菖蒲造り風、1本は横手筋が付いた小切先風、1本は上記2つの中間風、もう1本は古流の木太刀に見られる切先を切り落とした形状となっている。

 太さは一般的な木刀よりも若干太い程度で、握ってみても違和感はほとんどない。

 実際にこの木太刀で素振りをさせていただいたが、重さも一見かなり重そうに見えるが、実際には杖道で使われる四尺二寸一分の杖よりも気持ち重いかなという程度で、長さに慣れれば取り回しにそれほど苦労はしなさそうである。

 材質は定かではないが、4本中2本は、現在の木刀によく使われている白樫と同じような感触であり重さであった。また他の2本は、スヌケのような色合いと感触であった。

 治男氏の話では、表面に柿渋が塗られているのではないかという(深井家の家業は、当時も今も、柿渋であるとのこと)。

 いずれの木太刀も、当然ながら一本一本自作されたものであり、峰のラインが切先に向けてややずれていたり、切先の形がいずれもいかにも手作り風なところに独特の味わいが感じられた。

 またこれも治男氏の話しでは、柳剛流ではどの派でも木太刀は門人の自家製であり、特に厳密な規定は無かったようで、長さなどまちまちであったのではないか、とのことであった(これについては、他派の木太刀なども実見して、検証したいところである)。

 なお深井派剣三世の源次郎は、常に三尺ほどの木太刀を杖として携帯し、眠るときにも肌身から話さなかったという。


 一通り資料などを拝見した後、現当主の治男氏に、深井派柳剛流に関する逸話を伺うことができたが、それについては次回に。

■蛇足
 深井師範家においても、柳剛流は「リュウゴウリュウ」ではなく、「リュウコウリュウ」と読んで/呼んでいたとのことである。

 (つづく)
この記事のURL | 柳剛流 | ▲ top
刃筋と体動/(柳剛流)
- 2015/04/16(Thu) -
■本日の稽古備忘録

 柳剛流居合、五本。

 体動の激しさに追いつくのが精一杯で、刃筋が正確に立たず。逆に刃筋を正確に立てようとすると、体動が緩慢になってしまう。改めて、己の未熟さが身にしみる・・・。

 ま、難しいからこそ、稽古のし甲斐があるというものだ(最近、この台詞ばっかダネ)。

 (了)
この記事のURL | 柳剛流 | ▲ top
次の演武へ/(武術・武道)
- 2015/04/14(Tue) -
 翠月庵の年間行事の中でも、最大のイベントである苗木城武術演武会が無事終了し、ややリラックス気分な今日この頃である。

 今回の演武では、演目としてまず最初に四間からの直打を行った。しかも、まず一~二間から打ち始めて調整しつつ最大四間で打つという形ではなく、しょっぱなから、いきなり四間で打つ! というのが最大のチャレンジでありキモであった。

 この点で、私は最初の一打目を失中してしまったのはなんとも未熟であり、今後の大きな課題である。また普段の稽古では、調子が良いとこの間合いで八寸的に集剣できるのだが、演武では刺中が尺的以上に散らばってしまったのも次の課題となった。

 一方で、演武の最後は例年通り、刀法併用手裏剣術を行った。これについては、居合抜刀術を本義とする戸山流美濃羽会中津川稽古会の皆さんの前で、恥ずかしくない抜刀術と打剣の組み合わせを披露できるか、また演武最初の四間直打とは対照的に、二間からというまさに「生死一重の至近の間合からの渾身の一打」をいかに体現できるかがカギとなった。

 私は翠月庵制定の刀法併用手裏剣術の形の中から、「先」という形を選んで行った。これは江戸期手裏剣術の名流である知新流に伝えられた刀法併用の形を基にしたものである。

 翠月庵の刀法併用手裏剣術形を制定した当初から考えていることなのだが、この形(業)こそが刀法併用手裏剣術の入門であり極意となる、究極の姿ではないだろうか。

 刀法併用手裏剣術の全ての要素と理合(運足、操刀、間積り、拍子、位)が、この二間間合から一歩踏み込んで打剣、抜刀、正面斬りというシンプルな形に内包されていると考えられる。

 私の考える「武術としての手裏剣術」は、この形一手で完成形であり、このシンプルな形(業)をどのように深めていくかに尽きる。誤解を恐れずに言えば、その他の形は手裏剣術基本形も、手裏剣術運用形も、刀法併用手裏剣術のその他の形も、すべてここに至るための鍛錬形であり、あるいは応用変化なのだ。

 もっとも、こうした「武術としての手裏剣術」や「刀法併用手裏剣術」についての思索は、いま少し検討の余地があり、研究・考察を、さらに進めているところだ。

 武術の稽古体系には、応用変化の多様な状況を考慮して手数や形の数が多いことをより良しとする方法論と、千変万化の状況や業を演繹的に整理して手数や形の数を最小限に整理することを良しとする考え方の2つがあり、私個人としては後者の考え方に、武術としてのひとつの理想を感じている。

 いずれにしても今回の演武では、この「先」の形の演武について、気剣体が一致した、まずまずの形を披露することができたのではないかと思う。


 さて次は来月、翠月庵としてではなく、私個人が門下の一員として参加する演武がある。ここではおそらく、柳剛流剣術の形を行うことになるであろう。また6月には、翠月庵の夏季合宿も控えている。

 手裏剣術にせよ、剣術にせよ、演武は現代の武術人にとって「真剣勝負」の場だ。

 まずは気持ちを切り替えて、来月の演武当日に心技体がピークになるよう、調整そして集中していかなければならない。


               「打つ人も打たるる人も打太刀も
                心なとめす無念無心そ」 (柳剛流剣術免許巻 道歌)



 (了)
この記事のURL | 武術・武道 | ▲ top
平成27年度 苗木城武術演武会/(手裏剣術)
- 2015/04/12(Sun) -
150411_145527.jpg

 今年も満開の桜の下、苗木城武術演武会が開催され、我々、翠月庵一同も参加させていただいた。


 150411_132334.jpg

 まずは戸山流居合抜刀術美濃羽会中津川稽古会の皆さんの演武。


150411_132647.jpg

 基本形から試斬、小太刀、槍対太刀など、迫力のある業の数々を拝見。


150411_124548.jpg

 続いて、我が翠月庵の演武。


150411_130911.jpg

  四間直打、運用形、移動打剣、飛刀術、刀法併用手裏剣術などを披露。


150411_173657.jpg

 午後からは、手裏剣術講習会。中津川稽古会の皆さんに、手裏剣術を指導させていただきました。

 その後、夕食。

 宴は深夜0時頃まで続いたようなのだが、私は飲みすぎて10時以降の記憶を完全に消失。いつものごとく、失言・暴言を振りまいていたらしい・・・。

 酒は飲んでも、飲まれるなと。


150412_092054.jpg

 一夜明けて、朝食の後は斬りの稽古。


150412_113627.jpg

 さらに公民館のホールに移動して、中津川稽古会の皆さんとともに合同稽古。剣術や居合の稽古を、存分に行いました。

 150412_114306.jpg

 最後は、地元でもっとも旨いという折り紙付きの五平餅で昼食。みな、もりもりと食べました。

 O先生はじめ、中津川稽古会の皆さん、2日間ありがとうございました。

 次回は夏の納涼会でお会いしましょう。

 (了)

この記事のURL | 手裏剣術 | ▲ top
明日は演武/(身辺雑記)
- 2015/04/10(Fri) -
150410.jpg

 明日は、毎年恒例となった苗木城武術演武会に、翠月庵一同にて参加する。

 今回も、「生死一重の間合からの渾身の一打」が表演できるよう、全力を尽くしたいものだ。

 (了)
この記事のURL | 身辺雑記 | ▲ top
向こう脛を斬られると・・・/(柳剛流)
- 2015/04/03(Fri) -
 今日発売の週刊新潮を読んでいたら、グラビアページで連載されている数学者・藤原正彦氏のコラム『管見妄語』に興味深い一節があった。

 旧海軍軍人であった藤原教授の大叔父は、戦時の体験を次のように語ったという。

 「陸戦でなあ、少人数で夜襲をかける時は、草むらの中を匍匐前進で敵哨兵までにじり寄るんだ。そして軍刀でいきなり向こう脛を横一文字に払う。倒れてからゆっくりケリをつけるっちゅうこんだ。銃を撃ちゃあ敵全体に知られちまうし、刀で首や心臓に切りつけてもすぐには絶命しねえで悲鳴を上げられちまう。向こう脛なら激痛で声が出ねえ」

 なるほど、これは「断脚之術」を旨とする柳剛流の稽古者であれば、覚えておいて損はない新しい口伝のひとつとなろう。

                *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 本日の稽古にて。

 剣術では脚を斬る際、留意しないと刃筋が立たず、平打ちになりがちである。特に右から左に脚を薙ぎ斬る際、これが顕著である。

 一般的に袈裟斬りなどでも、右袈裟よりも左袈裟の方が刃筋を通すのが難しいものだが、脚斬りではこの傾向がより強調されるようだ。

 居合。こちらも刃筋をいかに正確に立てるのかが目下の課題。体動が激しいので、ついついそちらに気をとられて、刃筋の立て方が雑になる。いやはや、難しい・・・。

 ま、難しいからこそ、稽古のしがいがあるというものだね。

 (了)
この記事のURL | 柳剛流 | ▲ top
少年老い易く学成り難し/(身辺雑記)
- 2015/04/01(Wed) -
 現在、毎日の稽古では柳剛流の剣術と居合を重点的に行っているのだが、毎年恒例の苗木城武術演武会もいよいよ10日後に迫り、手裏剣術の稽古もおざなりにはできない。

 普段使っており演武でも使用する予定の翠月剣は、現在研磨をお願いしているため、昨日の稽古では短いタイプの翠月剣を打った。

 こちらは全長230ミリ/身幅13ミリ/重ね6ミリ/重量126グラムだが、久々に使ったこともあり、感覚としてはかなり短く軽いなという印象が強い。

 的までの間合は、稽古場では最大七間が取れるものの、拙宅では座打で二間しか取れないのだが、これくらいだとむしろ、この短いタイプの翠月剣の方が、シャープに打てる感もある。これは私が手裏剣肘(いわゆる野球肘やテニス肘、正確には上腕骨内側上顆炎)を患っていることも影響しているかもしらん。

 通常の翠月剣では肘にかかる負担がいささか気になるのだが、この短タイプは20グラムほど軽く、その点の心理的な不安が軽減されるのだろうか・・・。

 と、ここまで書いていて、ちょっと本ブログの昔の記述を見てみたら、同じことを書いていた・・・。


~ 長い方の通称「メリ剣」に比べると、こちらは打剣の際、ごくわずかに滑走をかけないとうまく刺さらないのであるが、おそらく慣れと間合いの関係であろうか、2間座打では、こちらの方がメリ剣よりも、命中精度が高いのである。
 また重さという点でメリ剣は144グラムあり、私の場合、この重さが肘に負担をかけている。これが短い方の剣だと、かなり軽減されるのである。~(「翠月剣の名称の整理」2013年10月2日)



 五十路を目前にした加齢の影響か、はたまた連日の痛飲で脳が酒精に犯されたか、あるいは7年もブログを書いていてネタも尽きてきたのか、いずれにしても繰言が多くなっているのかもしらんね。やれやれ・・・。

少年易老学難成
一寸光陰不可軽
未覚池塘春草夢
階前梧葉已秋声

少年老い易く学成り難し
一寸の光陰軽んずべからず
未だ覚めず池塘春草の夢
階前の梧葉已に秋声

1310_翠月剣
▲下から「25年式翠月剣」、「25年式翠月剣(短)」、「旧翠月剣」。 この写真も2013年の流用である・・・

 (了)
この記事のURL | 身辺雑記 | ▲ top
| メイン |