歌丸師匠は美しい日本語と声がいいんだよな/(身辺雑記)
- 2015/07/31(Fri) -
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 ここ数年、桂歌丸師匠の高座、なかでも圓朝の怪談物はできるだけ生で聞くように心がけている。

 関内寄席での長講『真景累ヶ淵』も、この7月にようやく最終話である「お熊の懺悔」だなと思っていたところ、緊急入院で公演中止となってしまったのはとても残念であった。

 もっとも先日無事退院されたということで、10月には同じ会場で代替公演があるという。


 歌丸師匠の落語は、江戸言葉とは一線を画した標準的で美しい日本語と、不思議と耳障りのよい声音が魅力だ。ものすごい達人といった芸ではないのかもしれないが、安心して聞けるいぶし銀の名人といった芸である。

 人間国宝は小三治にとられてしまったが、圓朝の大作に積極的に取り組み、なかでも『真景累ヶ淵』の「お熊の懺悔」など、100年以上ぶりに復活させた功績もあるのだから、歌丸師匠にも人間国宝を授与しても良いのではないかと、ひいきの私は思うのである。

 とりあえず病床からの復帰高座として、国立演芸場の8月中席で圓朝の『怪談乳房榎』をやるというので、なんとか時間を作って聞きにいきたいものだ。

 (おしまい)
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柳剛流・佐竹監柳斎と直心影流薙刀術/(柳剛流)
- 2015/07/29(Wed) -
 昨日の本ブログで、園部秀雄の養父である佐竹監柳斎について少しふれた。

 そこでこころみにウィキペディアをのぞいてみると、「園部秀雄」のページにで、やはり監柳斎は柳剛流の剣士ではなく直心影流だと記されていた。

 佐竹監柳斎が榊原鍵吉門下の直心影流であるというのは、『武芸流派大事典』あたりからの引用なのだろうが、その後の剣術史研究で、監柳斎の流儀は直心影流ではなく、柳剛流であったことが指摘されている。

 一方で、いまだに佐竹監柳斎は直心影流だったという説は根強く、たとえば2000年発行の雑誌『武道』でも、直心影流薙刀術に関する記述の中で、「監柳斎は榊原鍵吉に入門し、云々」といった解説がなされている。


 佐竹監柳斎は、直心影流ではなく柳剛流の剣士であったという事実については、辻淳氏の著作『戸田剣術古武道史』に詳しい。その内容を要約すると以下のようになる。

・柳剛流・岡田十内の高弟で師範家となった人物に、中田元祥がいる。この元祥の門弟である藤城佐仲が記した修行帳の嘉永5(1852)年9月の記述に、「流(柳)剛流 佐竹隼之助(佐竹監柳斎の旧名)」の名前が見られる。 

・直心影流の石垣安造氏は、その著書『撃剣会始末』(島津書房)において、佐竹監柳斎について、「世間では直心影流剣士と思われているが、実際は直心影流の剣士ではない」としている。

 
 それではなぜ、佐竹監柳斎は直心影流だったという説が流布しているのかというと、そもそもの部分で監柳斎自身が直心影流の14代を自称したこと、また監柳斎が撃剣会での興行を通し、数多くの直心影流関係者とつながりをもった点が挙げられる。

 さらにややこしいことに、佐竹監柳斎は自身を直心影流14代と称しつつ、自らが起こした流派を直心柳影流と称したのである。直心影流と直心柳影流・・・、なんともややこしい一字違いの流儀名だ。

 おまけに、佐竹監柳斎の没後、娘である園田秀雄は養父から伝承した流儀名である「直心柳影流」から、いつのまにか「柳」の字を抜いて「直心影流薙刀術」と称したため、さらに話しがややこしくなり、剣術流儀である直心影流や薙刀流儀の大勢力である天道流の関係者から、強く批判されたという。

 その後、直心影流薙刀術が、当時の武徳会を通じて女学校や国民学校の教育科目に取り入れられた際、天道流から強い異議が示されたものの、その異議を示した天道流関係者は解職されてしまった(昭和16年薙刀騒動事件)。以後、戦前の学校教育における薙刀は直心影流が主流となったという。


 こうした歴史的経緯をみると、柳剛流と直心影流薙刀術との浅からぬ関連は、たいへんに興味深い。

 佐竹監柳斎が、柳剛流の剣士として免許を得たのか、あるいは目録や切紙だったのかはつまびらかではない。しかし、後の撃剣興行では諸流の剣士を束ねる重い職を担っていたことからも、彼が柳剛流の免許受領者であった可能性は低くはないだろう。となれば、監柳斎は柳剛流の免許秘伝である長刀も学んでいた蓋然性が高い。

 さらに加えて、監柳斎の柳剛流は岡田十内派であり、岡田十内の妻・鉄は、柳剛心道流を創始するほどの長刀の遣い手であったという事実。

 こうした断片の数々が、後年、どのように園部秀雄、ひいては直心影流薙刀術に影響を与えたのかというのは、さまざまな想像をかきたてる。

 ここでポイントとなるのが、佐竹監柳斎の妻であり、園部秀雄の養母である並川茂(佐竹茂雄)の存在だ。

 並川茂は、当時の撃剣会において、柳剛流の池富、北辰一刀流の千葉貞と並ぶ三大女武芸者の一人であったという。茂の流儀について、昭和63(1988)年の『剣道日本』掲載の記事「近代名剣士修業伝・七」では直心影流とされているが、その根拠となる出典が示されていないのはたいへんに遺憾である。

 この当時、当然ながら後の直心影流薙刀術は存在せず、剣術流儀としての直心影流にはそもそも薙刀の業はない。となると、並川茂が学んだ薙刀は、いったい何流だったのか? 更なる調査・研究が求められるところだ。

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▲佐竹監柳斎(写真中央)と榊原鍵吉(右)。手前が園部秀雄


 流祖・岡田惣右衛門奇良が長刀の理を剣術に取り入れて興隆した柳剛流が、その後さまざまな変転を経て、明治から昭和の薙刀界で大きな勢力を誇った直心影流薙刀術と浅からぬ関連をもっていたという事実は、武芸の歴史の不思議さを感じさせる。

 ところで、柳剛流長刀術と直心影流薙刀術について、技術的な関連性あるいはなんらかの面影やよすががあるのかについてだが、残念なことに私は直心影流薙刀術の術技についてほとんど知識がないので、なんともいえない。

 もう少し勉強しておきます・・・。

 (了)
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柳剛流岡田十内派と長刀/(柳剛流)
- 2015/07/28(Tue) -
 去る7月20日に本ブログに掲載した『柳剛流長刀』の記事で、「柳剛流において長刀は、免許の段階で学ぶ秘伝であり、伝書では多くの場合「長刀秘伝」として形の名称も秘されていることが多い」と書いた。

 これはあくまで「形の名称も秘されていることが多い」ということであり、“皆無”ということではない。

 たとえば、安政3(1856)年に岡田十内が飯島万弥に出した『柳剛流剣術免許巻』には、長刀形の名称が次のように記されている。


  長刀
     右足
     左足
     弾突
     返シ胴
     八方劔


 この岡田十内派柳剛流免許の長刀形と、仙台藩角田伝柳剛流の長刀形の名称をつき合わせると、完全に一字一句一致するものはないが、岡田十内派の「右足」と「左足」とほぼ同じ名称の形は、角田伝に存在する。また岡田十内派の「返シ胴」という形はその名称から、角田伝の「切上」という形に類似するのではないかと想像することもできる。

 なお岡田十内派では長刀の形は五ヶ条だが、仙台藩角田伝では七ヶ条となっている。

 また岡田十内が文久2(1862)年に飯箸鷹之輔に出した免許にも、長刀形の名称は次のように記されており、安政3年の飯島万弥宛の伝書とほぼ同じ名称および本数となっている。


  長刀傳
     右足
     左足
     弾
     返シ胴
     八方劔



 さらに年代は不明だが、同じく岡田十内が平田勝蔵に与えた免許にも、長刀の形名称は下記のようにほぼ同様となっている。


  長刀傳
     右足
     左足
     弾
     (不明)
     八方劔



 このように、岡田十内派では、免許巻の伝授に当たり、秘伝である長刀の形名を明記することが一般的になっているようである。それに対して、他派の柳剛流では、多くの場合、長刀は秘伝として伝授巻にも形名を秘匿していることがほとんどのようだ。

 たとえば、柳剛流の正統二代である岡田(一條)左馬之輔が、弘化5(1848)年に菅野孝三郎や戸田泰助(左馬之輔と並ぶ石川家剣術師範)に出した免許では、いずれも長刀は秘伝として形名は明記されていない。

 また文政9(1826)年に流祖・岡田惣右衛門が宮前華表太に出した免許や、ぐっと時代が下って岡安派剣一世の岡安禎助正明が明治17(1884)年に関口亥助に出した免許でも、長刀秘伝として薙刀の形名称は秘されている。

 さらに見ると、岡安派では後年長刀の伝授はされなくなったのか、明治33(1900)年と同35(1902)年に出された2つの免許伝書では、長刀秘伝という記載そのものが無くなっている。


 現状で私の手元にある資料を見る限り、柳剛流諸派の中で、免許秘伝の長刀の形名を明記しているのは岡田十内派のみであるのは、どのような意味を持っているのか?

 当然ながら、私が確認できた免許内容は、先行研究の2次資料によるもので、その数もごく限られたものであることから、さらなる免許伝書の検討が必要になるのは言うまでもない。しかし、この柳剛流長刀と岡田十内との関係性というのは、たいへん多くの推測や想像を掻き立てるのである。

 たとえば、岡田十内の妻・鉄は女武芸者として柳剛心道流という長刀を表芸とした流派を創始し、その道統は少なくとも2代目・岡田柳にまで受け継がれ、明治時代の撃剣興行では多いに活躍している。

 あるいは、岡田十内の母あるいは妻の鉄は、長刀の名手として江戸の加賀藩邸に仕えたという記録が残っている。

 さらに、岡田十内の弟子と思われる柳剛流剣士・佐竹監柳斎は、後に直心柳影流を名乗るようになり、その道統を受けた養女の佐竹秀雄は女武芸者としての名声を得て、後に直心影流薙刀術の15代目の名乗りを上げた。この人こそ、後に無敵の女武芸者として知られた園部秀雄である。

 このように、岡田十内派柳剛流と長刀というのは、他の柳剛流諸派とくらべて、何か特異なつながりがあるように思えてならない。


            *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  


 この夏は、柳剛流の稽古の中でも、特に長刀に重点をおくつもりである。

 日々、長刀の素振りや形稽古を繰り返しつつ、このような流儀の事跡に思いをはせるのも、古流を学ぶ者だけに許された楽しみだといえるだろう。

■参考文献
『幸手剣術古武道史』(辻淳著/剣術流派調査研究会)
『戸田剣術古武道史』(辻淳著/剣術流派調査研究会)
「埼玉県の柳剛流(その1)」『埼玉大学紀要(体育学篇)第14巻』(大保木輝雄/埼玉大学教養部)
「浦和における柳剛流」『浦和市史研究第2号』(山本邦夫/浦和市総務部市史編さん室)
『埼玉の剣術 : 神道無念流・甲源一刀流・柳剛流 第7回特別展』(戸田市立郷土博物館)
『一條家系探訪 柳剛流剣術』(一條昭雄 編著)

 (了)
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灼熱の季節/(身辺雑記)
- 2015/07/27(Mon) -
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 いよいよ灼熱の季節である。

 野天道場である我が翠月庵では、厳冬と並んで過酷な時期であるが、それでも稽古は粛々と続く。

 先日は気温36度超の中、4~5間で1時間ほどじっくり手裏剣を打った後、さらに1時間、柳剛流の長刀を稽古したのだが、いや実にきつかった。

 それにしても、手裏剣術同様、長刀というのも、屋外で存分に稽古をするとなんとも心地よいものである。

 柳剛流長刀の場合、動きが非常に激しいので、なおさら野外での稽古がよく似合うような気がする・・・、などと言ってモチベーションを上げていかないと、とてもではないが体温を超える猛暑の中での稽古などできませんな(笑)。

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 (おしまい)
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巧言令色鮮し仁/(身辺雑記)
- 2015/07/24(Fri) -
 東洋思想の古典の中でも、私が最も愛読しているのは『易経』だ。

 今から3000年前の古代中国でまとめられた『易経』は、義理(哲学)の書であると同時に卜筮(占い)の書でもあり、儒学の四書五経の頂点に立つ。

 惑星物理学もなかった古代にまとめられた箴言・警句でありながら、その宇宙観は優れて科学的であり、宇宙の森羅万象は一瞬たりとも変化しないものはなく、しかし変転の中に万古不易の法則があるとする。


 たとえば師弟の交わりについて、『易経』はこう教える。

 我より童蒙に求むるにあらず。童蒙より我に求む。

(教育の理想は、我、すなわち師たる者から求めて童蒙に教えるのではなく、子弟・童蒙の方から進んで師に教えを求めることにある)。


 あるいは人のあり方についてはこう諭す。

 潜竜用いるなかれとは、何の謂ぞや。
 子曰く、竜の徳あって隠るるものなり。
 世に易(か)えず、名を成さず、世を遯れて悶(いきどお)るなく、是とせ見(ら)れざれども悶るなし。
 楽しめばこれを行い、憂うればこれを違(さ)る。
 確乎としてそれ抜くべからざるは、潜竜なり。

(潜竜を用いるなかれとは、いかなる意味か? 孔子は言う。竜のごとき徳、聖人の徳がありながら、最下層に隠れている人のことである。世の中の移り変わりによって主義を変えることもなく、世間に名を出そうともしない。世に用いられずに隠遁していても、むしゃくしゃすることはないし、だれにも正しいとされなくても、不平を抱くことがない。世に道あって、社会的活動がこころよく感じられるときは、その道を世に行い、乱世で、わが身が汚される憂いのあるときは、ただちに世間に背を向けて去る。そのようにしっかりとして、その志を奪えないもの、それが潜竜である)



 『易経』は、周の文王が卦辞を、周公が爻辞を作り、それに孔子が「伝」を加えて大成したものである。このため上記、潜竜用いるなかれの文中で、「子」とされてるのは、かの孔子だ。

 孔子といえば『論語』があまりにも有名だが、私はこちらはあまり明るくない。

 中学校の国語の授業で初めて『論語』を習ったときに覚えたのは、以下の警句だ。

 子曰、巧言令色、鮮矣仁。


 世知辛い世での身過世過ぎの中では、広大な宇宙観から発せられる『易経』の深遠な箴言よりも、人の世の有り様をリアルに語った孔子先生の警句の方が、時としてぐさりと的を得ることもある。

 いやな渡世だなあ・・・。

 (おしまい)


 
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関節蹴りと断脚之術/(柳剛流)
- 2015/07/22(Wed) -
 本日は空手の稽古。

 冷房がびんびんに効いた大きな武道場だが、それでも基本から移動を終えると汗びっしょり。夏の稽古だねえ・・・。

 師範に指導をおおせつかり、初級者にバッサイ大と平安三段の分解をアドバイスする。

 ちなみに私は、平安の形では三段が一番好きである(笑)。

 バッサイ大の分解で、掛手から一本取りで極めつつ関節蹴りは、足刀で相手のひざの内側から蹴り折る、足底で踏み折る、上足底で膝下や膝の横に蹴り込むといった、微妙な変化を解説。平安三段では離脱法を主にアドバイスした。

 しかし、相手の膝への関節蹴りを指導しつつ、内心で「これを刀や長刀でやれば柳剛流であるな・・・」などと一人納得している自分がいるのは、ここだけの秘密である。

 関節蹴りは、足刀でも足底でも上足底でも、蹴り込む角度とその状況がキモなわけだが、それは柳剛流の剣術や長刀でも同じだ。

 単なる足払い的な、あるいは脚ならどこでもよいというような場当たり的な脚斬りではなく、どのような状況において、脚のどの部分を、どのような拍子で、どのように斬るのかが重要であり、それゆえの「断脚之術」なのである。

 それらを学ぶために、流祖が編み出した形(業)の数々がある。

 古流にしても空手道にしても、形とはまさに先人からの賜物だと実感した次第。

 (了)
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柳剛流長刀/(柳剛流)
- 2015/07/20(Mon) -
 昨日は、国際水月塾武術協会本部にて、師より柳剛流長刀(なぎなた)のご指導をいただき、終日、稽古に汗を流した。


 柳剛流において長刀は、免許の段階で学ぶ秘伝であり、伝書では多くの場合「長刀秘伝」として形の名称も秘されていることが多い。

 天保11(1840)年に、流祖・岡田惣右衛門の最晩年の高弟であった宮前華表太が門人の石川良助に与えた『柳剛流剣術免許巻』には、次のように記されている。

 「右秘伝の長刀を伝授の上の者は、諸流剣術多しと雖も負くる事これ有るまじく候」


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▲柳剛流剣術免許巻の長刀に関する記述部分。『幸手剣術古武道史』(辻淳氏著)より


 「断脚之術」を剣術の理合に取り入れた柳剛流が、その免許の秘伝として長刀を位置づけたというのは、当然といえば当然であろう。

 また、「諸流剣術多しと雖も負くる事これ有るまじく候」というのは、いささか強気に過ぎるかとも思うけれど(笑)、そもそもの点で、長刀が剣術に対して圧倒的に有利であることは言うまでもない。

 しかも、柳剛流ならではの身体の運用を駆使する独特の長刀の術を我が物とすれば、相当達者な剣術者を相手にしても、簡単にひけをとらないであろうことは容易に想像できる。

 柳剛流長刀の実技の詳細については、師伝のためここで詳細は記さないが、実際に稽古をしてみると初伝(切紙)の剣術形(右剣・左剣)や居合、目録の剣術形(柳剛刀6本)までに通底する柳剛流独自の理合が長刀にも等しく活かされており、流祖がいかに、この柳剛流特有の身体の使い方を重視していたのかを実感できる。

 形稽古を繰り返すなかで、剣術形以上に高度で困難な身体の使い方を要求される柳剛流長刀の難しさが身にしみるが、難しいからこそ稽古のし甲斐があるというもの。

 さらに精進して業前を磨き、流祖伝来の「術」を、次代に引き継いでいかねばならぬ。

 (了)
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アメリカン・スナイパー/(映画)
- 2015/07/17(Fri) -
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 戦争を美しく語るものを信用するな、彼らは決まって戦場に行かなかった者なのだから。(クリント・イーストウッド)


 遅ればせながら、クリント・イーストウッド監督作品である『アメリカン・スナイパー』をオンデマンドで鑑賞。

 WWⅠを描いた『西部戦線異状なし』からイラク戦争が舞台の『ハート・ロッカー』まで、戦場体験の過酷さを描いた映画には名作が数多いが、本作もそれらと並び映画史に残る作品となることは間違いないだろう。

 帰還兵と心的外傷後ストレス症候群(PTSD)の問題は、古くはシェル・ショックや戦争神経症への対応として始まり、ベトナム戦争後、米国精神医学界で本格的に研究されるようになった。

 日本でも、PKOやPKFが実施されるようになって以降、紛争地から帰還した自衛官のPTSDや、それに伴う自殺数の増加が問題となっている。


 1992年、私はアラスカのユーコン河流域を1ヶ月ほどぶらつき、その後グレイハウンドでポートランドからL.A.まできままな旅をしたのだが、この旅で初めて親しくなった友人が、ベトナム帰還兵であった。

 当時、すでにベトナムからアメリカ軍が撤退して19年が過ぎていたにもかかわらず、彼はいまだに定職に就かず酒びたりで米国各地を放浪していた。

 アンカレッジの安宿で、ブコウスキーよろしくだらだらと酒を飲みながら2日間ほど共に過ごしたのだが、彼の語るベトナムでの戦争体験が、私が始めて接したリアルな戦争のよすがであり、「veteran」という言葉が、退役軍人を意味することを初めて知ったのも、このときであった。


 昨日、安全保障関連法案(安保法案)が、衆院本会議で可決された。

 (了)
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空手道暑中稽古/(身辺雑記)
- 2015/07/15(Wed) -
 昨日から、通っている県連主催の空手道教室の暑中稽古が始まった。

 よりによって、この急激な熱波の中で・・・。

 とはいえ、なにしろでかい武道館が会場なので、稽古場となる主道場は冷房が効いており、夏は灼熱、冬は酷寒の野天稽古場である我が翠月庵での荒稽古に比べれば(笑)、なんとも贅沢な環境での稽古である。

 しかし、そうはいっても1時間も延々と基本~移動稽古で絞られると、もうバテバテである。

 ま、この過酷さが、暑中稽古のキモでもあるわけだが・・・、やはりアラフィフの身体にはなかなか堪えるものだ。


 本日はバッサイ大の分解見本で、玄制流A先生の受けをとらせていただく中、突受けについて感じるところあり。

 以前、同じ教室で指導されている糸州流のB先生にも、突受けについて個人的に指導していただいたのだが、この技は受即攻の典型例として、好きな技のひとつだ。競技には使えない技だけれどもね。


 一刻あまりたっぷりと汗を流して本日の稽古は終了。

 さあ、これから餃子を肴にビールだ!!!!

 夏はやっぱり、これだねえ。

 (おしまい)
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柳剛流突杖の稽古~間積もりと拍子/(柳剛流)
- 2015/07/14(Tue) -
■本日の稽古備忘録

 柳剛流突杖の稽古。

 打太刀と仕杖との間積もりと拍子に難渋する。

 私の間合の見切りが悪く、一方で打太刀には手を抜いたり馴れ合いにならないように、厳しく攻めてくるように申しわたしているので、受けや捌きの拍子が合わなくなると、シビアに斬り込まれて拳をしたたか打たれる。

 打太刀が真剣であれば、私の指はすべて斬り落とされていたであろう。木太刀で打たれた痛みとともに、己の未熟さが身にしみる。

 若いころの剣術稽古では、さんざん拳や小手を打たれて痛い思いをしたものだが、そんな記憶が四半世紀ぶりにちらりと頭をよぎる。

 仙台藩角田伝柳剛流突杖の形は、全体的にシンプルで素朴なものだが、それだけにごまかしのきかない厳しさが感じられる。

 剣を相手にした杖での立合は、そもそものところで剣術同士の立合以上の厳しさがあるものだ。なにしろ刀を相手に、こちらはただの棒切れで対さなければならないのだから。

 間積もりと拍子。

 基本であり極意ともなるこの課題について、さらに精進していかねばならない。

 (了)
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杉浦日向子の『合葬』/(書評)
- 2015/07/10(Fri) -
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 杉浦日向子が鬼籍に入ったのは、ちょうど10年前、行年46歳だった。

 気がつけば、自分がその歳になっている。いやはや・・・。


 幕末、彰義隊に投じた3人の青年の姿を描いた漫画『合葬』は、杉浦作品の中でも特に好きでしばしば手にとって読む。

 この人はもともと時代考証家を志していたそうで、漫画家として名を成した後、実際に時代考証家としても活躍しただけに、本作でも江戸の風俗描写が全体としてうそ臭くない(重箱の隅をつつきだしたらきりがないだろうが)。

 部屋で浴衣をだらしなく着崩しながら、新内のCDをBGMに冷酒片手でこの作品を読んでいると、なんとなく江戸の世に迷い込んだような気分が楽しめる。


 彰義隊といえば、柳剛流の剣士も数多く、その戦いに身を投じたという。

 幕末の柳剛流を代表する剣客・岡田十内叙吉は本郷森川町と郷里の下戸田に稽古場を開き、その門弟は1,200人とも1,400人ともいわれた。

 上野戦争においては、十内の門弟が幕軍側に約300名、官軍側には約200名参加したと伝えられ、なかでも幕府陸軍調役で彰義隊頭取となり上野で戦死した伴門五郎は、そういった柳剛流剣士の代表格として後の世に伝えられている。


 ところでこの『合葬』という作品、映画化されてこの秋公開されるということを、ほんの数日前に知った。

 もうひとつの杉浦漫画の傑作である『百日紅』がアニメ映画化されたばかりだが、最近、杉浦日向子ブームなのか・・・?

 ま、イケメンに擬人化した日本刀が流行るというのも悪かあないだろうけど、杉浦作品がこれからもより幅広い世代に読みつがれる方が、個人的にはうれしい。

 (おしまい)
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仙台藩石川家の『諸芸師範届』/(柳剛流)
- 2015/07/09(Thu) -
 柳剛流の流祖・岡田惣右衛門奇良は、その道統を一條左馬輔信忠に託した。

 左馬輔は、仙台藩伊達家中の最上位である「一門」であり、さらにその筆頭に当たる石川家の家臣であったことから、柳剛流は石川氏の領地である伊具郡角田に伝えられた。

 石川家は伊達家一門中筆頭というだけに、その領地の石高は2万3382石に達した。江戸時代の各藩では、最小の石高は1万石からといわれ、全国の藩の約18%、51藩が1万石であったという。しかも、たとえば北関東の喜連川藩などは、実質石高で5000石程度しかなかったことを考えると、2万石以上の領地を有した角田・石川家は、伊達家中の一領主とはいえ、実際には小藩並みかそれ以上の規模と勢力を誇っていたといえよう。

 流儀の道統を受け継いだ一條(岡田)左馬輔は、文政2(1819)~5(1822)年ころ、角田に帰郷し石川家剣術師範として柳剛流を指南した。その当時、石川家で指南されていた諸芸とその師範名を記した記録に、『諸芸師範届』というものがある。

 以下、『角田地方と柳剛流剣術 -郷土が誇る武とそのこころ』(南部修哉著/平成26年)と『一條家系探訪 柳剛流剣術』(一條昭雄 編著/平成8年)からの孫引きだが、ここに転載してみよう。


■石川家 諸芸指南届(『角田市史三巻史料編』より)
・神道流鎗術 木幡平記 松浦直治 永沼郡之助 冨田右覚
・本心鏡智流鎗術 毛利善右衛門
・夢相願立剣術 人首弥助 人首安五郎 小川又太郎 小桧山吉太郎 佐藤勇士 桜庭権太夫 西牧伊平 人美冨吉 丸山志津衛 佐藤力之丞 大塚四郎 油丸一郎 大槻文蔵
・天心独明流剣術 大浪平太夫 松浦守衛 小桧山進 油井孫太夫 佐藤三代治
・柳剛流剣術 岡田三馬助 戸田泰助
・信玄流軍学 三森十太兵衛 前田紋之進 浅川助十郎
・信玄流螺術 熊谷兵太夫 横山栄之丞
・中西流算法 安部直衛
・小笠原流礼法 早川求馬助
・不易流鉄炮鋳筒師 松岡丈太郎
・吉田家神道 吉田肥後正 吉田宮門 菊池山城正 菊池多門 石本伊預正 石本刑部 能原能登正 小野彦太夫
・喜多流仕手方 高橋幾三郎
・平岩流笛 小野寺万治 小野寺十助 橋元伊之吉 毛利三郎
・幸流小鞁 佐藤斐之助
・大倉流大鞁 松崎忠太 高林総右衛門 永山繁太郎 宍戸貢 三浦元治 斉藤九郎治 斉藤右仲 大條幸太郎 鈴木利門 浅野伴五郎 
・以心流取打拳法術 鈴木利門
・不易流銃術 岡崎清太郎
・寂影流長刀 佐藤八郎兵衛
・松葉流手裏剣 大浪平太夫
・真明流柔術 松浦守衛 油井孫太夫 佐藤三代治
・高麗流八條家馬術(八條流馬術) 矢吹仲右衛門 小野直一郎 野口的之助 渡部駒蔵 田川■蔵 窪田宇吉 伊藤惣太夫 加藤尉八
・観世流太鼓 加藤末治

 ※「田川■蔵」のみ、一部判読不明


 この『諸芸師範届』には発行年が記されていないとことだが、南部修哉氏の推測では、天保11(1840)~元治元(1864)年の間に作成され、仙台藩に提出されたものではないかという。


 内容に目を向けると、まず剣術流派に記されている「柳剛流 岡田三馬助」というのが、一條左馬輔のことである。

 また、剣術流派の筆頭に夢相願立流と記されているが、これは松林蝙也斎が創始したことで知られる夢想願流のことであろう。師範名も書状中最も多い13名となっていることから、この段階では同流が角田石川家における代表的な剣術流儀であったのではないかと推察される。

 後に、角田石川家の剣術流儀の代表は柳剛流にとって代わるわけだが、その過程で柳剛流と諸流とでどのような確執があったのか?

 後年、一條左馬輔は真剣での立合で相手を殺害し、石巻に逃れて隠棲する。しかし、その後も主家から討手がかかったりはせず、むしろその後も石川家中の剣術流派の中で柳剛流の勢力は拡大し、事実上の御家流にまでのぼりつめたことを思うと、いろいろなことが想像できるだろう。

 また手裏剣術者としては、「松葉流手裏剣 大浪平太夫」との記述も見逃せない。

 第一に、手裏剣術が石川家中の公式な武芸として認められ、師範が定められて指導されていたということは、たいへん興味深い。

 この「松葉流」という手裏剣術がどのようなもので、どのような剣を使っていたのか定かではないが、たとえば後の根岸流にもつながる夢相願立流(夢想願流)が、同じ石川家中で盛んだったというのは意味深長だ。

 また、松葉流手裏剣の師範である大浪平太夫は、天心独明流剣術の師範としても名前が記されている。天心独明流は一刀流系統の流儀だというが、大浪平太夫が指南した「松葉流手裏剣」が、天心独明流に関連するものなのか、夢相願立流に関連するものなのか、あるいはまったく別のなんらかの術の系統なのか、なぞは深まるばかりである。

 (了)
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夏の手裏剣術講習会と合同稽古/(手裏剣術)
- 2015/07/08(Wed) -
 毎年8月、戸山流居合抜刀術美濃羽会中津川稽古会の皆さんと翠月庵とで行っている、納涼会と手裏剣術講習会&合同稽古の日程が決定した。

 会員諸子にはメールでお知らせしたので、出欠の返信をくだされ。



 振り返ると、中津川稽古会の皆さんとのお付き合いも、はや9年に及ぶ。中津川での手裏剣術講習会も、すでに20回以上を数え、皆さんの打剣の腕前も着実に上達していることは、手裏剣術を指導する者としてたいへんうれしいことだ。

 年に2~3回という限られた時間での講習だが、9年間にわたって継続することで、すでに多くの皆さんが二~二間半の直打をものにし、三間を通す人も複数人となった。

 またここ数年は、打ちやすい大型の剣はもとより、翠月剣での打剣や脇差を手裏剣に打つ飛刀術などについても、皆さんかなりよく刺さるようになってきている。

 昨年行われた演武会では、刀法併用手裏剣術を披露されたとのこと。残念ながら、私はその演武を直接見ることはできなかったが、中津川稽古会代表で私の武兄であるO先生から事前の相談と事後のご報告を受け、同会に手裏剣術を伝えている者として本当にうれしく思った。

 また、こうした中津川稽古会の皆さんの手裏剣術の上達は、我々、翠月庵一同にとっても、たいへん良い刺激になっている。

 今年春の苗木城武術演武会で、我々が四間直打の演武に挑戦したのも、こうした刺激によるものであるし、演武会の後の手裏剣術講習会では、私は指導の前面からは一歩引いて当庵筆頭のY氏とK氏に指導をしてもらったのも、やはりそういった刺激を受けての対応であった。



 慶應義塾を創設した福沢諭吉は、教える者と学ぶ者の分を定めず、相互に教え合い学び合う仕組みを「半学半教」と唱え、その教育理念とした。

 一方で手裏剣術をはじめとした武術・武道には、古来から「師弟の分別」というものが厳然としてあり、それがあるからこそ有効となる修行階梯と、それに伴う学びや気づきがある。

 日本の技芸における伝統的な師弟関係は、一見、「半学半教」という理念と矛盾するように思えるかもしれないが、私は両立するものと考えている。

 指導する立場となっても、常に学ぶ姿勢を持つことはいうまでもない。

 それは、自分が指導する立場となってからも、二歩も三歩も先を行く己の師から引き続き学び続けることを止めないということはもちろん、自身が教えている門下や講習生からも学ぶべき点や気づきが無数にあるのだ。

 増上慢の魔境に陥らないためにも、日々の手裏剣の一打、居合の一閃、木太刀のひと振りを丁寧に、自分の師、先輩、同門や後輩、そして門下の人たちに誠実に向き合っていきたいと思う。


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▲2015年4月、苗木城武術演武会の後、戸山流居合抜刀術美濃羽会中津川稽古会の皆さんと
翠月庵一同とで記念撮影


        ~まけてのく 人を弱しと思うなよ 智恵の力の強き人なり~
                   (柳剛流中山派 剣一世・中山多七郎吉廣 『修行録』より)


 (了)
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体験的当身考/(武術・武道)
- 2015/07/07(Tue) -
 前回記事で、柳剛流の殺法についてまとめながら、つらつらと当身について考えた。


 私は1999年から10年ちょっとの間、思うところあって古流の稽古を離れ、伝統派空手道を自分の武術稽古の中心としていた。

 伝統派空手、ありていに言えばいわゆる「寸止め」空手というやつであるが、フルコンタクトの人たちほどではないにしろ、私が空手の門を叩いたころは、試合組手については今ほど接触に敏感ではなかった。というか、道場での地稽古はもちろん、市区町村での公式試合や自流の全国大会では、多くの場合ほぼ「当て止め」でないと、有効打としてとってもらえないことが少なくなかったように思う。

 ちなみに言うと、その後次第に組手時の「接触」に対しての判定が厳しくなり、2005~6年くらいから、ごく軽い接触でもほぼ確実に「注意」が与えられるようになったように思う。これはまあ、あくまでも主観だけれども。


 そんな感じだったので、当時、道場での地稽古や試合組手の稽古では上段以外はほぼ当て止め、上段についても「寸」止めでは「とりません!」となってしまうので、「分」止めというか、拳サポをしているのでほぼライトコンタクトというのが実情であった。

 このため、有段者同士であれば突き蹴りのコントロールはある程度できているし、素面での組手だったのでそれほどでもないのだが、有級者同士の組手では拳足のコントロールが未熟な上にメンホーという防具をつけているため、その防具の前面部に「ガツン!」と当たるくらいでないと有効打として取ってもらえなかった。

 そして、たとえば接近戦での打ち合いという場合はそれほでもないが、遠い間合から双方が一気に飛び込んでのぶつかり合いでは、「予期せぬジャストミート」というのがたびたび発生したものである。

 私はインタビューが多い仕事柄、前歯だけは絶対に折りたくなかったので、上段攻撃に関しては全身全霊を込めて必死で防御していたので、幸か不幸か1度だけ他流の外国人空手家に回し蹴りを食らって奥歯を折られただけで済んだけれど(外人さんというのは伝統派でも総じて寸止めをしたがらない、というか当てたがるので困る)、一方で中段の突きや蹴りは、普段の稽古からいいのをよくもらった(苦笑)。

 なかでも、こちらがパッっと踏み込んだ瞬間に合わせて、カウンターでドン! っと入れる中段逆突きが得意なA師範には、地稽古でよく思い切り水月に突きを入れられ、何度も悶絶させられたものである。

 そのA師範いわく、「市村さんは突っ込みがいいから、どうしてもカウンターが思い切り入っちゃうんだよね・・・」とのこと。つうか、ちゃんと止めてくださいよ! とはいえない、武ばった雰囲気が、当時の空手道場にはあったものである。

 このケースでは、ボクシングのグローブ同様、空手用の拳サポーター(拳サポ)による浸透力効果のためもあってか、とにかく水月に一発良い突きが入ると、息ができなくなったように昏倒してしまい、前のめりに倒れるものである。ことに、いわゆる競技空手で言うところ「ワン、ツー」で、まず相手の意識を一度顔面部にふったところで、気の抜けた水月にドカンと当てると、たいへん良く効いた(効かされた)ものだ。

 一方で、明星あたりの下腹部分については、有段者レベルの者が真剣に組手をしている場合、ちょっとやそっと当たっても、特段問題はなかったように思う。

 巷間よく言われているように、筋肉で覆われている部分については、ある程度鍛えている者が、しかもあらかじめ「当たるな」と思っていれば、それほど効かないものである。急所といえども、あくまでも気が抜けたとことろに入るからこそ効くということは、重要なポイントだろう。

 逆に、当たることを意識していても、どうしても効いてしまう部位というのもある。

 その典型がご存知の金的で、とくに中途半端な軌道で、前蹴りと回し蹴りの中間のようになる蹴り(一部フルコンタクト空手会派が言うところの三日月蹴り。伝統派の三日月蹴りとは異なる)は、よく金的に当たったし、自分も当てられたものだ。

 この場合、厳密には金的というより“竿”の部分になることが多いわけだが、これもまた実に痛い。軽くかすっただけでもよく効く。そしてこの場合も、上記の水月の当て同様、当てられた方はたいがい前のめりにしゃがみ込んでしまうのが通例であった。

 また肋骨部分、柔術の当身的に言えば電光や月影といった部分は、筋肉で守られていないので、中段の突きや蹴りなどがタイミングよく入ると、よく効いてヒビが入ったりした。もっともこの部分は、しっかりと構えていれば早々簡単に当てられる場所ではないし、蹴りであれば肘でカットしやすいので、水月や金的に比べると、稽古や試合中に当てられて昏倒したり怪我をする人は少なかったように思う。

 顔面部の急所の数々も、鍛えたり意識を強く置いて痛みを防ぐことが難しい場所だが、さすがにこれらを空手の稽古や試合中に、思い切り打ったり打たれたりしたことはあまりない。

 ただし、仲の良い同門との遊び的な組手稽古で、相手が突然、首相撲をしかけてきて(本人いわく「平安4段の技の分解を試してみた」とのこと・・・)そのまま首を抱え込まれて、鳥兎に膝蹴りを入れられたことがある・・・。

 まあ、遊び稽古中の事故みたいなものだが、これもまた実に効いた。蹴りを入れた方も、「しまった!」とあわてるほど思い切り私の顔面に膝がヒットしたわけだが、今思うと鼻じゃなくて良かった(笑)。

 蹴られた瞬間は、「ガキン!」と金属をぶつけられたような、鋭い痛みが走った。首を抱え込まれての顔面への膝蹴りだったので、後方に吹っ飛ばれることはなく、これまた前のめりに倒れてしまった。

 ところが、その後、思ったほどダメージはなく、相手が「病院に行ったほうがいいよ」というのも気にせず、そのまま家に帰って酒を飲んでとっとと寝ちまったわけだが・・・・、翌朝、大変なことになっていたのである!

 朝起きると、結構顔が痛いので(当たり前である・・・)鏡を見ると、自分の顔がエレファントマンみたいにはれ上がっているのである。鳥兎の部分を中心に、顔面中央部がボッコリと盛り上がって、顔の凹凸がまったく無くなったような状態なのだ。

507_エレファントマン



 分別盛りの今なら、その場ですぐに病院に駆け込むところであるが、当時はまだ30代前半、気力満点のお年頃であり、「けっ、てやんでい!」ってな感じでそのまま仕事に出かけたところ、同行した編集者が肝をつぶし、無理やり病院に連れていかれた・・・。

 レントゲンやらCTやらいろいろ検査をされたが、幸い、脳には損傷はないとのことである。ただ嘘かホントか、「ちょっと頭蓋骨がへこんでますよ・・・」と医者に言われ、このまま顔が元に戻らなかったどうしようかということばかりを心配していた、お馬鹿さんな私であった。

 ちなみに今でも指で触ってみると、ちょっと眉間のあたりの骨の形が変形しているのは、ココだけの秘密である(爆)。

 というわけで、たまたま運が良かっただけかもしれないが、鳥兎への当身は、意外に即死などはしないものなのだなと体験的に私は知っている・・・。


 以上、極めて個人的な体験から推察すると、武術において最もよく効いて使いやすい殺(当身)は、やはり水月なのではなかろうか。さすが日本柔術の当身中、もっとも重要な殺と言われるだけのことはあると思う。

 ただし繰り返しになるが、殺法では多くの場合当てる際の拍子が重要であり、金的や日月など一部の部位を除けば、筋肉で鍛えた相手が、しかも意識を充実させていうところに当てても、あまり効果はないというのは、武道や格闘技経験者ならご存知の通りだ。

 水月といえども、当てる「時」と「タイミング」あっての殺であり、それは殺活術全体にいえる道理である。

 ま、なにはともあれ、当身を食らうと痛いっつうことです(笑)。

 (了)
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柳剛流の殺活術について(後編)/(柳剛流)
- 2015/07/05(Sun) -
 『一條家系探訪 柳剛流剣術』に掲載されている、文久2(1862)年に氏家丈吉に出された仙台藩伝の「柳剛流殺活免許巻」は、以下の通りである。


   柳剛流殺活免許巻
 夫れ剣柔は身を修めて正すを以て
 本となす心正しくば則ち視る物明らか也
 或いは此術を以って輙ち闘争に及ぶ
 者有り此吾党の深く戒むる所也
 欲を抑え当流を脩むる者 先ず
 心を正すを以て要と為すべし 仮令稽古
 試合の如きも亦戦場に向かうが如くして
 必ず 忽せにすべからず 足下当流
 執心に因り精力を励まし怠慢無きを以って
 粗剣柔の旨趣を知るに似たり因って
 今復殺活伝授せしむ
 親子兄弟為りと雖も猥りに
 相伝有るべからざる者也 則ち殺活
 免許の巻左の如し
   松風  村雨  水月
   明星  面山  二星
   骨当  玉運  剛耳
   天道  稲妻  右脇
   心中  雁下  虎走
   玉水  高風市 虎一点
   活法大事
   見様大事
   腹活
   救卒死而目閉者術
   救溺死術
   子々孫々に至るも疎略有れば
   魔利支尊神の罰を蒙るべき者也
   依って件の如し

      元祖
          岡田惣右衛門尉
                源奇良
       三代     斉藤数江   以下略
 文久壬戊秋七月
      氏家丈吉殿


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▲「柳剛流殺活免許巻」に示された殺・当の図解


 さて、この伝書に記載されている殺点を名称と伝書にある図を元に、天神真楊流を中心とした他流の急所と比較しつつ確認してみよう。

 まず「松風」と「村雨」だが、天神真楊流では「松風」「村雨」と言えば咽喉の両脇の殺をさすが、ここでは両乳の部分で左を「松風」、右を「村雨」としている。天神真楊流で言うところの「雁下」にあたると思われる。

 「水月」については、柳剛流も天神真楊流も同じく、腹部の上胸部の下であろう。「此は柔術形に於いては尤必要也」と『柔術生理書』で井ノ口松之助が書いている通り、水月の殺は日本柔術の当身で最も重要な部位であるだけに、その部位に当流の殺も天神真楊流の殺も違いがないであろうというのはたいへん興味深い。

 次の「明星」についても、両流ともに臍の下(一寸あたり)と差異はない。

 「面山」という殺については、『柳剛流殺活免許巻』の図に記載はなく単に「面」となっており、おそらくこれが「面山」であると思われる。部位としては両眉と両眼の中心辺りであり、天神真楊流で言うところの「鳥兎」の殺にあたる。

 「二星」については、当流では両目の下、小鼻の横あたりの部位が示されている。天神真楊流系ではこの部分の殺や当は示されていないようだが、たとえば荒木真流の当身急所図にはこの部位が示されている。あるいは柔術の当身の影響を強く受けていると指摘されている、松涛館空手道・船越義珍師著の『空手道教範』の急所図では、この部位を「晴曇」として示している。
 個人的な体験から言うとこの部位については、幼少の頃に八光流柔術の石津謙二先生から、「相手が我の手首を取った際、これを引き抜いて後、手刀にて頬骨の下に当てる」とご指導いただいた記憶がある。ただしこれについては、私は八光流柔術は四段技までしか学ばなかったので、この当身が同流の定型としての当身なのか、石津先生独自の工夫の伝なのかつまびらかではない。

 次に「骨当」という殺が示されているが、これを天神真楊流の急所とつき合わせると、「肢中(秘中)」の殺に当たると思われる。

 「玉運」は、顎の先端が図示されていることから、いわゆる「下昆」と同一部位ではないか。ただし、正確には「下昆」は下顎骨の前面中央部であり、下顎の先端ではない。もっとも古流の伝書の図解というのは、ざっくりとしたものであることが少なくないので、見た目上の図示の部位にあまりこだわりすぎるのも、実技上は迷いのもとかなとも思う。

 「剛耳」は伝書の図では左右の耳の下端を示しているが、これは「独鈷」の当てと同じであろう。

 「天道」は、天神真楊流やその他の諸流でも、同じく天道(天倒)の当とされることが多い。

 天神真楊流では、肋骨下部左を「月影」と呼ぶが、柳剛流伝書ではこの部分を「稲妻」と図示でしている。

 続く「右脇」と「心中」だが、この2つの殺は、伝書掲載の図では部位の引き出し線が重なっており、正しい位置が不明確である。常識的に考えて「右脇」というのは右の肋骨下部、天神真楊流で言うところの「稲妻」であり、「心中」は水月と明星の中間、天神真楊流の一部伝書に記載されている「少寸」という部位にあたると考えてよいのではなかろうか。

 「雁下」は、二の腕の付け根の内側辺りが図示されている。天神真楊流系ではこの部位の殺や当は見当たらないようだが、たとえば気楽流『柔道秘術之伝』の当身図説解では、二の腕の付け根を「陽」として示している。また神道六合流の『奥秘柔術教授書特科虎之巻』では、腕の付け根、わきの下につながる大胸筋の部分を「脇陰」としている。
 ただしそれぞれの図を見ると、気楽流の「陽」や神道六合流の「脇陰」が、ほぼ完全の二の腕の付け根辺りを図示しているのに対し、柳剛流伝書の「雁下」は二の腕の付け根から少し肘側の部分の内側を指しており、厳密には異なるのかも知れない。二の腕の付け根のやや肘先の内側部分は、動脈や静脈の太い血管が通る部分であり、その部分を急所として示したとも考えられる。

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▲『奥秘柔術教授書特科虎之巻』(野口潜龍軒著)。腕の付け根に示された「脇陰」が、柳剛流殺活における「雁下」にあたるだろうか?


 「虎走」は、諸流に見られるいわゆる「草靡」である。

 「玉水」は「釣鐘(金的)」、「高風市」は「夜光」、「虎一点」は「人中」にあたる。


 以上、見てみたように、「柳剛流殺活免許巻」に示された殺や当の部位は、おおむね天神真楊流をはじめとした諸流に見られる殺法の部位と同様であることが分かった。

 一方で、以前本ブログで紹介した岡安派柳剛流に伝えられた殺法の部位・名称と、今回の仙台藩伝の殺法の部位を比べると、一部名称や部位の差異、殺点の増減が見られて興味深い。

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▲『幸手剣術古武道史』(辻淳著)に記載された、岡安派柳剛流殺法の添書。仙台藩伝の「柳剛流殺活免許巻」の殺と比較すると、仙台藩伝にある「面(面山)」=鳥兎が岡安伝では無い、仙台藩伝にはない「骨当」=霞(両毛)が岡安伝にはある、殺点の位置は同じでも名称が異なる部分があるなどの違いが分かる


 今回は仙台藩伝の「柳剛流殺活免許巻」の殺を、簡単に諸流や岡安派柳剛流と比較した。

 柳剛流の殺活は、柳剛流各派にそれぞれ伝承され、その過程で名称の差異はもとより殺点の増減などが図られたと思われる。その具体像がそれぞれどのようなものであるかは、さらに各派の伝書の発掘と比較・検討が必要である。また柳剛流柔術についての考察も必要になってくるだろう。


■参考文献
『日本柔術当身拳法』(小佐野淳師著/愛隆堂)
『実戦古武道 柔術入門』(菅野久著/愛隆堂)
『月刊空手道』第24巻第1号「現代空手の礎 柔術当身活殺術」(福昌堂)

 (了)
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好評発売中!/(身辺雑記)
- 2015/07/04(Sat) -
1507_介護本

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 今回は、巻頭カラーページが分かりやすい!

 さぞかし優秀なフリーの編集者兼記者が、企画・編集・取材・執筆をして作った本なのでしょう・・・、というステルスマーケティング(爆)。

 ま、印税仕事ではないので、部数が増えても私のギャラが増えるわけではないが、たくさん売れると2年後にまた制作依頼が来ると思うので、介護に関心のある人は書店に急げ!! (アマゾンでも可、多分・・・)。

 (おしまい)
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構えを錬る/(柳剛流)
- 2015/07/03(Fri) -
■本日の稽古備忘録

 単行本の締め切りと、明日のシンクタンク研究者へのインタビュー準備で丸一日きりきり舞いだったのだが、それでもなんとか時間を見つけて木太刀を取る。


 小佐野先生のブログにて、神道無念流の「堅固の備え」という教えが解説されている(http://japanbujut.exblog.jp/)。

 日本剣術においては、これは流儀を問わず共通する普遍的な教えともいえるだろう。

 柳剛流でいえば、備之伝と備十五ヶ条フセギ伝が、まさにこれに当たる。

 本日の稽古ではこれを念頭に、柳剛流の「構え」を錬る。

 気がつけば、小半刻ほどの時間はあっという間に過ぎて行く・・・・・・。

 伝統の「術」は、深い。

 (了)
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柳剛流の殺活術について(前編)/(柳剛流)
- 2015/07/01(Wed) -
※1)2015.7.1.23:30、柳剛流の殺活に関する伝承について、本文を一部加筆・訂正しました。
※2)2015.7.2.20:30、さらに本文を一部修正しました。




 現在、日本国内で伝承されている柳剛流とその師範方は、現時点で私が知る限り以下の通りである。

1)国際水月塾武術協会(山梨県)/小佐野淳先生、山根章先生/仙台藩角田伝/剣術・居合・突杖・長刀を伝承。
2)幸手市剣道連盟(埼玉県)/岡安源一先生、千葉仁先生、持田征男先生/仙台藩伝及び岡安派伝/剣術を伝承。
3)養心館道場(三重県)/三村幸夫先生/紀州藩田丸伝/剣術・居合を伝承。
※突杖については、龍野藩伝の系統が「柳剛流杖術」として、無外流居合兵道・中川士龍師~塩川寶祥師の系統のいくつかの会派で継承されている(長野県、山口県など)


 柳剛流は剣術・居合・突杖・長刀に加え、柔術や殺活術も含む総合武術であるが、私の知る限り残念ながら柔術の技法についてはそのほとんどが失伝してしまった可能性が高いと思われる。

 以前、宮城県古武道協会のホームページに、「柳剛流柔術」の記載があったのだが、同協会の新しいホームページではその記載は削除されていた。この柳剛流柔術について、現在も継承されている方が宮城にいらっしゃればよいのだが、いまのところその有無等は不明である。詳細についてご存知の方がいらっしゃれば、ぜひ情報提供をいただきたところです。


 一方で殺活術に関連しては、小佐野淳先生が伝承・指導されている仙台藩角田伝に、剣術伝として「活之伝」が継承されている。これは、「往時の剣術稽古では投げや組討があり、倒れることは日常であったため、気絶が絶えなかったからである。柔術伝ではないので殺はない。剣術の殺は斬ることであるから」(小佐野先生談)、とのことからである。その他にも、仙台藩角田伝として、組討口伝等多くの口伝が継承されている。


 それにしても、仮に柳剛流の柔術技法が失伝してしまったとすれば、我々、流儀を学ぶものは、残された伝書からそのよすがを偲ぶしかない。技芸の伝承というものは、一度失われてしまうと取り返しがつかないということを、しみじみ感じる。

 過日、幸手市剣道連盟の柳剛流稽古会を訪問した際にいただいた、『一條家系探訪 柳剛流剣術』(一條昭雄 編著/平成8年)という資料には、仙台藩伝柳剛流の伝書類がいくつか掲載されており、柳剛流の柔術や殺活術に関しても2つの伝書が掲載されている。

 たとえば安政3(1856)年に、澤田常治が戸田良助に出した「柳剛流柔術」の切紙目録には、

  居取目録
打込 胸取 胸攻鉢返
胸取打込相胸取襟攻捌
  取乎目録
胸取左右  両胸取
胸攻     向攻
両乎訴    束乎
打込      鉢返
頭取      折込
逆取      鎧取
行違      羽攻


と、形の名称が示されている。

 ある程度古流柔術の素養がある者であれば、これらの形の名称から、なんとなくの取り口くらいは想像がつくが、それはあくまでも想像にすぎない。

 胸取ひとつとっても、柔術の業(形)は諸流に無限にあるわけで、柳剛流柔術の「胸取」がどんなものであったかは、いまや神のみぞ知るものとなってしまったわけだ。

 実に残念なことである。

 一方で『一條家系探訪 柳剛流剣術』には、文久2(1862)年に仙台藩角田伝三代目の斉藤数江(主計清常)から氏家丈吉に出された「柳剛流殺活免許巻」が掲載され、そこには殺活の部位の名称と位置の図示がある。

 柔術の形と異なり、殺活については殺点の名称と位置が分かれば、他派・他流の殺活や当身に関する伝書・文献とつき合わせることで、伝書のみでもその術の“ざっくりとした概要”は知ることができる。

 本ブログでは以前、『柳剛流の体術における殺法』(http://saitamagyoda.blog87.fc2.com/blog-entry-686.html)と題して、埼玉県の岡安派柳剛流に伝えられた殺法について少し紹介したが、それも踏まえつつ、この「柳剛流殺活免許巻」について、次回、紹介しようと思う。

 (つづく)
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