ちょいと夜の稽古へ/(身辺雑記)
- 2015/10/31(Sat) -
 いよいよ編集仕事が佳境に入り、連日12時間以上、机にかじりついている。

 とんでもないブラック仕事なわけだが、私は経営者兼営業兼現場責任者兼作業員なので、止むを得まい・・・。

 それでもなんとか稽古をしようと、15分だけ仕事をさぼって稽古着にちゃちゃっと着替え、木太刀と杖と長刀を持って外に出て自習。

 柳剛流の素振り、神道無念流の素振り、柳剛流備之伝、備フセギ伝、柳剛流剣術の形8本×2セット、神道無念流立居合の形4本×1セット、柳剛流突杖の形5本×1セット、柳剛流長刀の形7本×1セット、以上で15分終了。

 あっと、居合を抜くのを忘れたが、もう時間がない、仕事に戻ろう・・・・。


 っと思って仕事部屋に戻るも、剣術形について思うところがあり、本義の仙台藩角田伝(水月塾伝)と幸手伝を、手控えで確認しながら検討し、稽古で生じた疑問点について改めて納得した。

 これでプラス15分。

 結局、30分も仕事をさぼってしまった。

 ま、そんな土曜の深夜0時45分・・・・。

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 (おしまい)
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流祖墓参/(柳剛流)
- 2015/10/29(Thu) -
 柳剛流の流祖・岡田惣右衛門奇良は、文政9(1826)年9月24日、江戸にて62年に渡る生涯を閉じた。

 亡骸は牛込の幸国寺に葬られたと伝えられる。

 史家の森田栄・辻淳両先生の調査では、新宿にある現在の幸国寺には流祖の墓碑などは確認できず、過去帳にも「岡田惣右衛門奇良」の名は記されていないという。

 このため現存している流祖の墓は、武州葛飾郡惣新田の生家にあるもののみという。


 さて今年は、流祖没後189年となる。

 そこで先日、流祖のご子孫の方にご挨拶をすることができ、祥月命日である旧暦9月24日(新暦にすると今年は11月5日)の墓参のご許可をいただくことができた。

 流祖の墓石および生家についての調査は、辻淳先生の『幸手剣術古武道史』にすでにたいへん詳しく記されており、今回の墓参は、新たな知見などを得ることを期待してのものではない。

 柳剛流を学び、その「術」を受け継ぐ者の一人として、しかも比較的近隣(といっても電車で1時間ほどかかるのだが)に暮らしている者としては、流祖の祥月命日の墓参は当然と思ってのことだ。

 これもまた、古流を稽古し受け継ぐ者の責務であり、また先人に思いを馳せる貴重な機会でもある。


 墓参の詳細については、改めて本ブログにて報告する。

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▲昭和58(1983)年当時の流祖・岡田惣右衛門奇良の墓
辻淳先生著『幸手剣術古武道史』より

 (了)
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さまざまな剣風/(柳剛流)
- 2015/10/23(Fri) -
 多忙である・・・(この書き出し、今週は2回目か)。

 原稿ラッシュ・編集作業ラッシュに物理的作業時間が追いつかず、にっちもさっちも行かないため、今週は小半刻程度の日々の稽古もままならぬ。

 それでも、ちょっとコーヒーをドリップしている間に、備之伝と備フセギ伝のおさらいをしたり、マルちゃん正麺を茹でている間に、「右剣」の独習、あるいは書いた原稿をプリンターで出力している間に「向一文字」を2回抜き、ご飯を蒸らしている合間に杖を握る。

 ああ、普通に稽古がしてぇ、30分でいいから全力で長刀を振るいたい・・・・・・、などと唸っている今日この頃である(爆)。当然ながら、手裏剣をじっくり打っている暇もないのは言うまでもない。


 そんなこんなで、今朝は原稿書きの前に10分ほど、木太刀を手に剣術を。

 今年の夏、埼玉県幸手市で柳剛流を指導されている先生方に、当地で稽古をしている仙台藩伝柳剛流(以下、幸手伝)について、形の手控えを資料としていただいていたので、それに基づいて木太刀を振るい、私が本義として稽古をしている仙台藩角田伝柳剛流(以下、水月塾伝)と比較をしてみた。

 剣術の形については、幸手伝は七本で、水月塾伝が八本。幸手伝には柳剛流諸派にみられる「相合剣(刀)」がない。その他の七本については、形の名称・剣理・勝口について、大筋で違いはない。また礼法上の特徴も、ほぼ一致している。

 一方で、水月塾伝では相手の斬り込みを擦り落とすところが、幸手伝では相手の斬り込みを「抜く」ようになっていたり、あるいは運足や体捌きが異なるなど、細かなしかし運刀や斬撃のキモとなる点で、かなりの違いがあるのはたいへんに興味深い。

 後学のために、紀州藩田丸伝柳剛流や龍野藩伝柳剛流の突杖も、機会があればぜひ拝見したいものだと思う。

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▲幸手伝の剣術形「中合刀」。水月塾伝の「中合剣」と比較すると、形の動きの大筋は一致するが、
打太刀の斬り込みの捌き方、その後の体捌きや運足、身勢などに違いが顕著に見られる

 (了)
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柳剛流の女武芸者たち/(柳剛流)
- 2015/10/22(Thu) -
 女子の出席をとります。

・小川金さん (弘化3(1846)年10月28日入門)
・小川栄さん (同年11月19日入門)
・桃井伊代さん(弘化4(1847)年1月5日入門)
・中山米さん (同年3月15日入門)
・藤堂直さん (同年4月15日入門)
・池登美さん (文久3(1863)年9月26日入門)
・山●染さん (同年9月27日入門)
・藤田采さん (慶応元(1865)年8月30日入門)

 以上、8名。柳剛流、岡田十内の女性門弟でした・・・・・・。



 幕末期の柳剛流を代表する剣客・岡田十内の門弟帳は「神文帳」と呼ばれ、現在も第1・3・4・5巻が残されている。第1巻は天保14(1843)年から始まり、第5巻は慶応2(1866)年で終わっており、入門日、氏名、一部には家中の名前も示されている。

 所在不明の第2巻分を除き、23年間、合計962名に及ぶ入門者のうち、冒頭に記したように女性剣士は合計8名。最初に氏名が記されている小川金は、神文帳に記された門弟の順番では254番目。翌月に入門した小川栄は、小川金の家族であろうか?

 文久3年入門の池登美は、後年、池富の名前で、千葉貞、佐竹茂雄(園部秀雄の母)と並ぶ女武芸者として、撃剣会で大活躍したというのは、以前、本ブログに書いた通りである。

 池登美は柳剛流の剣術はもとより、長刀もよく遣ったことが当時の『女師演武会番付』にも見てとてれる。ただし富の使った長刀が、柳剛流の長刀だったのか、あるいは岡田十内の妻である鉄が創始した柳剛心道流の長刀であったのかはつまびらかではない。

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▲『女師演武会番付』。西の筆頭に池富の名があり、遣うのは剣術・長刀となっている(辻淳先生著『戸田剣術古武道史』より)


 池登美が柳剛流岡田十内道場に入門した文久3年、柳剛心道流の道統は、すでに流祖である岡田鉄から二代目の岡田柳に受け継がれていたことが伝書の記録から明らかになっている。

 文久2(1862)年に、岡田柳が横田丑太郎に授与した伝書をみると、その技法体系は長刀の形十二ヶ条、突杖五ヶ条、裏手段十二ヶ条、「敵散」「八方剣」の二ヶ条(口伝あるいは剣術形か?)で構成されている。このうち突杖五ヶ条は、「ハジキ」「ハズシ」「右留」「左留」「抜留」となっており、柳剛流の突杖とまったく同一であることが分かる。

 なお剣術史家の辻淳先生は、この伝書に示された形は柳剛心道流の技術体系の一部であり、さらに目録や免許に相当する階梯があったのではないかと推察されている。

 この伝書を見る限り、柳剛心道流には基本的には剣術形が含まれていないようであるが、一方で先に挙げた『女師演武会番付』では、池富の氏名に長刀と合わせて剣術があえて明記されていることから、富は柳剛心道流の長刀もちろん、岡田十内直伝の柳剛流の剣術もかなりよく遣ったのであろう。


 むつけき男たちに混じり、剣や長刀の腕を磨いた8人の女武芸者たちというのは、なかなかに想像をかきたてる。

 そういえば、今を去ること30年前、私の通っていた高校の剣道部では、男子と女子が一緒に稽古をした。

 真夏の合宿での地稽古などは、たいへん厳しくつらいものであったが、その際、まだ紅顔の美少年であった私(!?)がシゴかれてヘトヘトになっていると、女子剣道部のA先輩がよくしてくれたものである・・・。

 それもまた遠い昭和の日、青春の甘酸っぱい思い出だ。

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▲NHK大河ドラマ『龍馬伝』で貫地谷しほりが演じた、
北辰一刀流の女武芸者・千葉佐那


■参考文献
「柳剛流岡田十内門弟帳の研究」大竹仁著/『戸田市立郷土博物館研究紀要 第7号』
『戸田剣術古武道史』辻淳著/剣術流派調査研究会

 (了)
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いかにして脚を斬るか?/(柳剛流)
- 2015/10/20(Tue) -
 柳剛流に限ったことではないが、脚を斬る太刀筋というのは必然的に頭部を斬られる危険性をはらんでいる。

 当然ながら、流祖としてはそのようなことは百も承知で「断脚之術」「斬足之法」を編み出したということは、当流の剣術形、なかでも流儀の根幹となる形といえる「右剣」や「左剣」を稽古していると、しみじみ実感できる。

 まず第一に脚斬りの際、打太刀からの頭部への斬撃にどう対処するのかが考えられており、その要諦は口伝も合わせて伝承されている。これにより、むしろ脚斬りによって、打太刀によるこちらの頭部への斬りをあえて誘い出し、それによって仕太刀が勝つという勝口までが示されている。

 第二に、そもそもの部分で、「いかにして、相手の脚を斬るか?」という理合、柔でいうところの「作り」と「掛け」が、術として形に明確に示されている。

 つまり柳剛流の「断脚之術」とは、双方見合った状態からやぶから棒に相手の脚に斬りつけるような、単純なものではない。

 ここが理解できないと、たとえば近年のスポーツチャンバラの試合でよく見られるような、反射神経と運動能力のみに頼った、先をとって飛び込んでの片手打ちによる脛打ち(これはこれで、有意な技である)のようなものでしか、柳剛流における「断脚之術」がイメージができなくなってしまうのだろう。

 思うに往時の柳剛流剣士たちは、理合に即した「断脚之術」を形稽古でしっかりと練り上げ、その上でさらに撃剣による自由な打ち込み稽古を繰り返して、その「術」を磨いていったのではなかろうか。

 平成の世に当流を学ぶ私も、そんな古人たちを偲びながら、日々の稽古に取り組みたいと思う。

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▲明治40年に書かれた小林雅助著『雑誌并見聞録』に記載されている、岡田十内派師範家に伝わっていた「試合帳」(原本は水害で損失とのこと)。トンボ絵状の人体図に、試合での打ち込み部位が記載されている。面に三打、横面に二打、右小手に一打、そして最多が右脚に四打となっているのは、柳剛流の面目躍如というところか(辻淳先生著『幸手剣術古武道史』より)

 (了)
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柳剛流の目録に見る剣術形の異同/(柳剛流)
- 2015/10/19(Mon) -
 柳剛流について、武州や奥州の各師範家の伝書をつらつらと見ていると、切紙については技法名にほとんど異同がない。

 各師範家ともに基本的には、備之伝十五ヶ条、剣術二ヶ条(右剣、左剣)、居合五ヶ条(向一文字、右行、左行、後詰、切上)、突杖五ヶ条(ハジキ、ハズシ、右留、左留、抜留)で構成されている。

 一方で目録については、 基本的には、剣術、小太刀、二刀、鑓・長刀入伝、備十五ヶ条フセギ秘伝という項目で構成されているのだが、各師範家ごとに、あるいは同じ師範家の同じ師範でも、伝書によってかなりの異同が見られる。ことに剣術形については、その本数や名称にかなりの違いが見られるのは興味深い。

 たとえば、戸田や江戸で教線を張った岡田十内派や仙台藩角田伝の目録を見ると、剣術形の本数は三~六ヶ条となっている。これに対して岡安派では、いずれも十ヶ条以上の剣術形名が記載されている。

 それでは、流祖・岡田惣右衛門奇良が直接出した伝書を見ると、どうなっているか?

 流祖が宮前華表太に伝授した伝書(後年、華表太から弟子の石川良助に渡され、それが現存している)を見ると、目録の剣術形は次のように記されている。

当流柳剛刀
 無心剣
 中道剣
 獅子乱刀
 捨輪刀
 相合刀
 中合刀

一子相伝
 清眼右足刀
 中道別剣
 清眼左足刀
 破先刀
 中道乱刀
 乱車刀
 相知刀
 陽遊刀
 別車刀
 飛竜刀

 以上、十六ヶ条である。


 思うに、時代が下るとともに形が取捨選択され、あるいは失伝し、流儀の体系がシンプルになっていったのではなかろうか。

 これには、流儀の創始から幕末の柳剛流興隆期に向けて、それまで以上に竹刀と防具を用いた撃剣による稽古が急速に広がり、普遍化していったことも影響しているのであろう。

 いずれにしても、武芸という無形文化は失うのは容易く、それを守り未来へ伝承していくのは実に難しいものだと、当流の伝書を読みながらしみじみと思う。

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▲仙台藩角田伝柳剛流剣術の演武。打太刀・小佐野淳師、仕太刀・瀬沼健司

 (了)
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圓朝怪談/(身辺雑記)
- 2015/10/18(Sun) -
 多忙である・・・、ちいとも儲からないが。

 次の金曜まで「死の原稿ロード」が続くが、ま、生きていくためには仕方あるまい。


 普段、仕事中はNHKのFMかAM、あるいはNACK5を流しているのだが、最近はNHKでさえ子供じみたつまらん番組が流れたりする。そういうときはニコ動やyoutube、CDなどで落語の長講を流すことが多い。

 数年前から、意識的に歌丸師匠と小朝の高座はできるだけ聞きに行くようにしているので、自宅で聞くのもこの2人が多い。

 歌丸師匠といえば、大圓朝の長講である。

 大作『真景累ケ淵』を生で聞きたくて、2年がかりで独演会に通い、来月ようやく最終話である「お熊の懺悔」に至る。

 もっとも、ニコ動に「豊志賀の死」も含む全話がアップされているので、もう何度となく聞いているわけだが、話芸はやはり高座で聞くに限る。

 そういう意味で、先々月は「豊志賀の死」、先月は「お札はがし(怪談牡丹灯篭)」と、圓朝怪談を立て続けに高座で、しかもなんと小朝の語りで聞くことができたのはたいへんうれしかった。

 歌丸師匠に比べると、話の構成や話芸としてのテクニックでは小朝の方が上手である。しかし、語り口の「味わい」という点では、やはり歌丸師匠の方が、二枚も三枚も上だ。

 また先月の高座での小朝の「お札はがし」だが、手元に1990年代後半に録音された小朝自身による同作のCDがあり、聞き比べると昔の方がぜんぜん上手かった・・・。

 小朝ほどの芸達者でも、このようなことがある。

 話芸に限らず、武芸も含めて芸事には、“上達”もあれば“下達”もあるということか。

 もっとも、腐っても小朝である。あくまで、本人のかつての録音と比べると下手だったということであり、十分に聞かせる芸であったのは言うまでもない。


 というわけで、今日もきょうとて累ヶ淵を聞きながら、紀州・熊野の原稿を書くとしよう。

 しかし、本当に今週末までに、すべての締め切りがクリアできるのだろうか? 正直、私には、はなはだ自信がない・・・・。



 (おしまい)
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雨の日は居合/(柳剛流)
- 2015/10/17(Sat) -
 雨が降ると、長刀の稽古ができん・・・。

 という訳で、昨日も今日も、柳剛流居合を中心に稽古。

 基本となる「向一文字」を中心に、「右行」「左行」「後詰」「切上」を繰り返す。


 先の日曜日、水月塾本部での稽古では、前回に引き続き師の二尺七寸の居合刀をお借りしてみっちりと稽古したこともあってか、自宅で二尺二寸や二尺一寸で稽古をしていると、感覚的には“ビュンビュン”抜ける感じであり、自分の業前が上がったような妄想に浸れる(苦笑)。

 ま、五~六寸も長さが違うのだから、当たり前なわけだが・・・。

 居合の稽古で腰の切れを十分に練ることで、剣術はもちろん杖や長刀においても、切れのある体捌きや打ち込みにつながるというのは、総合武術ならではのものだ。


 さて、明日は翠月庵の稽古日だが、雨はどうなることやら。

 雨が降ると、手裏剣も打てん・・・・。

ウイスキーごしの雨

 (了)
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新渡戸が示した古くて新しい日本人の倫理/(書評)
- 2015/10/14(Wed) -
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  NHKラジオ第2の番組「こころをよむ」の10月から12月までのテーマは、「 いま生きる武士道 その精神と歴史」だそうな(http://www.nhk.or.jp/r2bunka/kokoro/1510.html)。

 早速、テキストを購入して読んでみた。

 本書は、武士の起こりからはじまり、鎌倉期の武士道、室町末期から江戸初期にかけての武士道、江戸時代の武士道、そして明治以降に創作された武士道と、時代ごとの武士道=武士の規範や価値観が分かりやすい筆致でまとめられており、その上で武士でも侍でもない現代のわれわれの生き方にも資する、日本人の普遍的倫理についても指し示す好著であった。

 思うに現代、多くの人がぼんやりと認識している「(いわゆる)武士道」というものは、明治以降、国策にしたがって創作され、第二次大戦後は、右巻きの人々が都合よく解釈してきた、きわめていびつなものである。

 一方で、同じく明治となってから創作されかけた新渡戸稲造の唱えた「武士道」は、封建時代の武士階級が育んできた質の高い倫理観を、当時の西欧先進国社会の人々にも理解可能な形で整理統合し、普遍的に止揚した、日本人の新しい倫理=道徳となるべき可能性を秘めていた、たいへん格調高いものだった。

 しかし新渡戸の示した「武士道」は、明治日本国家が主導した「官製武士道」に蹂躙され、さらに同時代の文化人たちの嫉妬も加わり、その理想を強く捻じ曲げられてしまったのは本当に残念であり、それは結果として300万人が尊い命を失った昭和20年の敗戦につながるわけだ。


 21世紀を迎えた今、残念ながら「武士道」なる言葉は、差別排外主義者のイカレタ聖典か、あるいは軽薄な日本礼賛主義者のお題目となっている。

 それらは、新渡戸が示した「(新しい)武士道」の対極にある、矮小で歪んだ民族主義に過ぎない。

 だからこそ、今、改めて日本人が千年をかけて育んできた、「倫理としての武士道」を知ることは、大きな意味があるといえるだろう。

1511_ワイド版武士道


 武士道は一の独立せる倫理の掟としては消ゆるかもしれない、しかしその力は地上より滅びないであろう。
 その武勇および文徳の教訓は体系としては毀れるかもしれない。しかしその光明その栄光は、これらの廃墟を越えて長く活くるであろう。
 その象徴とする花のごとく、四方の風に散りたる後もなおその香気をもって人生を豊富にし、人類を祝福するであろう。
 (新渡戸稲造)

 (了)
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熊野紀行序説/(旅)
- 2015/10/12(Mon) -
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▲往時の石畳の上をゆく熊野古道


 『Discover Japan』という月刊誌の取材で、熊野を旅した。

 今回のテーマは熊野古道と、その玄関口となる口(くち)熊野、現在の和歌山県田辺市のうまいものや名所、名物であった。

 熊野古道が世界遺産となるかなり前、当時、トレッキングが趣味だった私は、熊野古道を訪ねる長旅を計画していたことがあった。結局、それは諸般の事情で実現できなかったのだが、20数年後の今、改めて熊野を旅できたことはなんともうれしい。


 旅の醍醐味は思わぬハプニング。当初、取材予定には無かった古刹にて、由緒ある弓を拝見。実際に手に取らせていただくこともできた。合成弓でかなりの太さであるが、重さは見た目に比べるとかなり軽いものであった。

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▲紀州竹林派の弓術家であり、通し矢の天下一として知られる、江戸時代前期の
紀州藩士・和佐範遠が愛用していた弓を拝見


 朝は港で、シラス漁を見学。「ちょっと食べてみな」と言われていただくと、これがまた実にうまい! 誰か、冷酒でももっていないかね・・・。

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▲江川港で水揚げされたばかりのシラス


 旅の夜は、田辺の歓楽街・味光路で山海の味覚と酒を。名物のウツボ料理は、以前、土佐で食べたものよりもはるかにうまかった。また今回の取材では、「スナック」もキーワードになっているということで、十何年かぶりにスナックに入る。

 スナック・・・、それは昭和の残照。ママの絶妙なトークとカウンター芸、そしてカラオケで紀州・田辺の夜がふけていく。

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▲名物のウツボ料理各種


 旅の終わりは、紀州が産んだ知の巨人・南方熊楠関連の施設を訪ねる。熊楠家族ゆかりの研究者の方のお話は、たいへん興味深いものであった。

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▲南方熊楠が実際に使っていた書斎


 わずか3日間の旅だったが、初めて訪れた熊野は旅人を拒まない“明るい開放感”と“神と人の距離感の近さ”が印象的であった。

 詳しくは、来月発行予定の本誌を読まれたし。

熊野6
▲明治の大水害で流されるまで、熊野本宮大社があった大斎原の大鳥居

 (了)
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旅の後/(身辺雑記)
- 2015/10/10(Sat) -
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 3日ホド、熊野ヲ旅シテオリマシタ。

 紀州ハヨイトコロデシタ。

 詳シクハ、マタ。

 (おしまい)
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今弁慶/(身辺雑記)
- 2015/10/04(Sun) -
 私はバイクの免許しか持っていないので、稽古場への移動は電車を使っている。

 幸いなことに、拙宅から翠月庵の稽古場までは、乗り換えなしで小半刻ほど、しかも下り方面なのですいているのもうれしい。

 しかし、そうはいっても稽古時の電車移動は、車に比べるとなにかと不便だ。

 たとえば、「今日は、ひと通りみっちり稽古をするか」と思うと、当然ながら「ひと通り」のものを持っていかなければならない。

 まず、石神井・宇多川謹製の革製刀ケースに愛刀・監獄長光と木太刀(大小二本)、飛刀術稽古用の脇差を入れる。

 次に、バックパックに稽古着一式と手ぬぐい一本、短刀型手裏剣六本、掌剣術稽古用の黒檀木扇一本、タッチアップ用のダイヤモンドシャープナー一つ、刀の手入れ用具一式、稽古用のファーストエイドキット(テーピング大小二個、アンダーラップ一個、絆創膏、ひじ用サポーター、ガーゼ、ティッシュ、ウエットティッシュ)を入れる。

 さらに長刀袋には、稽古用の木製長刀と杖を一本ずつ入れる。

 これが、「ひと通り」稽古するための、最低限の荷物である。

 加えて、軽量剣やら重量剣やら、手裏剣の種類が増えると、さらにテキメンに荷物が重くなる。

 車での移動であれば、なんということの程もない荷物の量なのだろうが、これらを担いで、まず拙宅から駅まで歩いて10分、電車に乗って30分、駅で降りて稽古場まで歩いて15分である・・・。

 ま、慣れているのでどうということはないけれど、ノコノコ街中を歩いていると、さながら弁慶の七つ道具的気分である。

 それにしても、この状態で警察官の職務質問は受けたくないと常々思う。

 やましいことや違法なことは何もないが、説明するのがいろいろ面倒くさそうだからねえ(爆)。

 (おしまい)
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垂直ダッキングと断脚之術/(柳剛流)
- 2015/10/01(Thu) -
 伝統派空手道の組手試合によく出ていた頃、私は先生や先輩方から、「あんたはヘンな技ばっか使うよねえ・・・」と、よく言われたものだ。

 そもそもが当時、古流武術にいろいろと疑問を感じるところがあり、30歳になるのを目の前にはじめた空手道だったので、特に組手の試合や地稽古では、いろいろと試したい事が多かった。

 さらにいえば、私はチビな上に「超弩級の近眼」なので、正攻法では到底自由な殴り合いである試合に勝てなかったということもある。

 チビは間合で不利というのは誰でも分かると思うが、近眼というのも武術・武道、特に打撃系ではたいへんつらいものがある。

 当然ながら、組手時にはメガネを外す(形でも競技の際は外す)わけだが、裸眼では視力検査の一番大きい「C」の方向もまったく判別できないほどの近眼なので、メガネをはずすと相手の目線はもちろん、表情もまったく見えない。拳足も、ボヤ~っとなんとなく見える程度である。

 このような状態では、自分よりも格上の相手はもちろん、実力同レベルの相手に対しても、真っ向勝負の刻み突きやワン・ツーの応酬では、てんで勝負にならないのである。

 ゆえに私は、「ヘンな技」や「ズルい技」をできる限り使ったわけ(爆)。

 当時、組手でよく使って有効だった技は、先を取ってロングフック気味に、あるいは対の先でクロスカウンター気味に打ち込む背刀打ち、近い間合いでもつれた際に剣道の引き面のようにして打ち込む背刀打ちや回し蹴り、カウンターの上段内回し蹴り、ローキック気味の足払い、そこから連続して足を着地させずにつなげる上段回し蹴り、ナイマン蹴りなどであった。

 中でも背刀打ちとナイマン蹴りは、組手での私の代名詞のような技であり、自分なりにこだわりもあった。

 その当時、全日本空手道選手権で準優勝したばかりのK・T先生から直接、「市村さんの背刀は有効で良い技ですから、試合では引き手をもっとしっかりとると、一段と使える技になりますよ」とアドバイスをいただき、さらに自分の得意技として試合でもばんばん使えるようになったのは、懐かしい思い出だ。

 また技単体だけでなく、試合の駆け引きでも、ずいぶんと「ヘンなこと」をしたものである。

 たとえば組手の際、主審の「はじめ!」の号令と同時に全力で突進して相手の拍子を潰すとか、逆に号令と同時にコートの端まで全力で下がるとか、試合途中で間合を切る際にコートの端のギリギリまで引くとか、審判の「ヤメ」が入っていないのに一瞬わざと相手に背中を見せるとか。

 もちろん、ジョー矢吹直伝の「ぶらりノーガード戦法」もやりましたよ・・・。

 さて、そんな「ヘンなこと」の中で、実際に試合で多用し、しかもたいへん有効だったディフェンス技法に「垂直ダッキング」があった。

 以前本ブログで書いたが、当時の私の愛読書のひとつが、ドイツ・アマチュア・ボクシング連盟指導部著の『最新ボクシング教室』という、アマチュア・ボクシングの教本であった(私的名著~ドイツ・アマチュア・ボクシング連盟指導部著『最新ボクシング教室』http://saitamagyoda.blog87.fc2.com/blog-entry-532.html)。

 同書では垂直ダッキングについて、次のように解説している。

「垂直のダッキングは主に背の低いボクサーが自分よりも大きな相手と闘うときに行うもので、垂直にダッキングしておいてからカウンターで反撃するのである。左や右にダッキングせず、かるく膝を曲げて相手のストレートをくぐって避けておいてからカウンターを打つ」

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▲ドイツ・アマチュア・ボクシング連盟指導部著『最新ボクシング教室』(ベースボール・マガジン社)より


 この垂直ダッキングを元にして、さらに極端に床に完全にしゃがむほどの深さまで垂直にダッキングし、その状態から立ち上がりざまに逆ワン・ツー、さらに右追い突きで決めるというセオリーを、自分なりに考え、繰り返し稽古したのである。

 これを地稽古や試合で使ってみると、面白いように決まった。特に相手の踏み込みの深い左の刻み突きに対してカウンターで行うと、実に有効であった。

 それを見た師範からは、「まるで、輪島のかえる跳びだね」と苦笑されたが、ボクシングでは具志堅~薬師寺世代の私にとって、輪島功一は古すぎてピンと来なかったのだが、たしかにこれは輪島のかえる跳びそのものであった・・・(苦笑)。


 その後、深い垂直ダッキングからのカウンターは私の得意技のひとつになったわけだが、今改めて思うのは、これは柳剛流の断脚之術に一脈通じる点があるということだ。

 カウンターで行う極端な垂直ダッキングは、相手からすると一瞬こちらの姿が消えたように見えるのだという。実際に私も、試合や地稽古の後、相手にそのように言われたことが何度もあった。

 同様に、柳剛流の大根本ともいえる「右剣」や「左剣」の形では、一連の打ち込みの後、急激に身を沈めて相手の脚を斬る(その際の運足に口伝あり)わけだが、このあたりの身体感覚は垂直ダッキングに非常に近いように感じる。

 時折、断脚之術への技術的批判として、「実際の立合や撃剣の試合の中で、身を沈めて相手の脚を打てるのか? 間に合うのか?」という疑問を呈する人がいるが、上記のような組手試合や地稽古の経験からも、「十分にできる!」と私は体験的に確信している。

 それは、単に相手と対している状態から身を沈めるといった単純なものではなく、そこにいたるために必要な拍子と位を備えた上で、有効に身を沈めるための運足と体捌きがあってこそのものだ。

 柳剛流の稽古をするたびに、武術としての合理的な理合の深さを、しみじみと感じている。

 (了)
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