気づいてないみたいだけど・・・/(武術・武道)
- 2016/01/31(Sun) -
 昨日の「どこまでを公開するか?」という私の記事について、Twitterで某流の師範なる人物が論評を加えていた。

 一読してその論旨以前に、「失礼な文章を書く人だな・・・」と思ったので、少々述べてみる。

 以下、その論評原文を読んでいない人には意味不明で分かりにくいだろうが、ここに引用して載せるのもなんなので載せませんが悪しからず。



 さて、私は西国の武術・武道界やその趨勢などは詳しくないのだが、

 西国はわりとコピー流儀に正当性を与えやすいところがあり、中・四国やら九州やらは山がちなところが多く、とくに四国・九州は各村各派といえるくらい分派していた。山道なので交流も少なく独自化し易い土壌になるから、探せば適当な伝書と適当な過去に教えていた地名が得られる。(以上、私の武友A氏による要約)

 というような議論が、Twitterの武術クラスタの人々の間で盛り上がっていたというのは聞いていた。

 また、昭和50年代中盤から武術の世界に入って以来、創作古流や捏造流儀などが現れては消えてまた現れたり、それどころか伝承の真偽の怪しい会派や流儀が、いつのまにか本流になり、正しく伝承された会派や流儀が衰退してしまう、あるいは誰がどう見聞きしても創作流派でしかない会派が古流を名乗り、多くの門人と金を集めている(あそことか、あそことか、あそことか・・・)などというのは、うんざりするほど見聞きしてきた。


 ゆえに、過度な情報公開は、模倣者やコピー流儀を生み出すリスクがあるというのは理解している。

 だからこそ、ここでは勘所を秘した記述をしているわけだが、

 「それでも危ないから、気をつけたほうがいいよ」

 という誠意ある助言であれば、謹んで拝聴したいと思う。

 また、形の手順の公開の是非については、各人各派、それぞれの見解があるだろうし、異なる意見にも耳をかたむける意義は多いにあると思う。

 しかし文章冒頭から、

 「気づいてないみたいだけど、」

 などと、上から目線の無礼な一言から書き起こすというのは、相手に対してたいへん失礼だというのが、この人には理解できないのだろうか?

 相手に不快感を与え、敵対関係を作り出しかねないような行為(発言)を不用意あるいは無自覚にするというのは、兵法という観点からもきわめて未熟であり下手(げて)である。


 気づいてないみたいだけど、武人にとっては「敷島の道」を持ち出すまでもなく、言語も『武具』なのだから、言葉の遣い方には十分に気をつけたほうがいい。

 (了)
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どこまでを公開するのか?/(武術・武道)
- 2016/01/30(Sat) -
 本ブログで柳剛流や手裏剣術などに関しつらつらと書いていると、時折、武友やあるいは記事を読んでくださる方から、「そこまで書いて大丈夫なのか?」とか、「あんまり詳しく書くと、パクられるよ」などと、ご忠告をいただくことがある。

 そこはそれ、一応、私も吹けば飛ぶよなジャーナリストの端くれなので、それなりの自主コードに基づいて執筆し、記事を公開している。

 まず第一に、出版物や論文、web等で公開されている情報については、個人名なども含め、出典を明記する前提で、ジャーナリズムの慣習上許容できる範囲の引用や参照、転載は問題ないと判断している。

 フィールドワークの際は、webや出版物で発表することがある点を取材対象にきちんと説明した上で、対象の許可を得た範囲内での情報を明らかにしている。

 取材時、あるいは記事掲載後などでも、対象や関係者から伏せてほしいといわれた情報は、原則としてその要望を尊重している。逆に言えば、特に記載しないでほしいと明言されない場合は、掲載・公開可と判断している。もっとも昔と比べ、今は電話番号や住所の丁目・番地などは、基本的には明示しないというのは言うまでもない。

 このように、記事公開についての私の自主コードは、記者としてしごく常識的なものである。


 一方で、実技に関する記述については、まず師から伝授された口伝や秘伝に関する内容は、当然ながら秘するようにしている。これは古流を稽古するものとしては、ごく常識的なことであろう。

 また、口伝や秘伝とはならない点に関しても、師から御教授を受けている古流の実技に関しては、いわゆる「ピン抜き」ではないけれど、実伝を受けた人でないと文章を読んだだけでは分からない・できないように、細心の注意を払いながら慎重な記述を心がけている。

 たとえば、仙台藩角田伝柳剛流を例に説明すれば、現在、師のブログにて「右剣」や「左剣」などの形が、写真と文章で公開されている。あるいは私も、本ブログで「右剣」や「左剣」の実技について、ある程度具体的な事まで書いている。

 しかし当然ながら、これらの形=業の重要な勘所は、師のブログでは伏せられており、私のブログでも一切記述はしていないわけだ。

 ゆえに、仮に師や私のブログ等で公開されている写真や文章を元に、柳剛流の「右剣」や「左剣」を真似たとしても、それは真の仙台藩角田伝柳剛流とは、明らかに違うものとなるだろう。

 また、そういった「似せ物」の形=業を、実伝を受けた稽古者が見れば、少なくともそれが仙台藩角田伝の柳剛流ではないということがすぐに分かるわけだ。


 一方でこうした事を書くと、まるで流儀の伝承を独占しているように感じる人もいるかもしれないが、そのような独善的な意図は、わが師にはもちろん、その教えを受ける私にもない。

 師が本部ブログにて明言されている通り、仙台藩角田伝柳剛流の稽古を希望する人には、広く門戸が開かれている。重要なのは、あくまでも実伝による教授・伝承であり、それを求める稽古者の強い志なのだ。

IMG_0902_柳剛流剣術
▲仙台藩角田伝柳剛流剣術 「右剣」


 昔懐かしい武術・武道の通信教育ではないが、webがここまで進歩をすると、そこにある記述や公開されている動画をディスプレイごしに見ただけで、学んだような、できたような気になってしまう者が少なくないとすれば、それは大きな間違いだといえよう。

 百聞は一見にしかず。そして百見は一触にしかずというのは、万古不易の武の真実なのである。

 
 では、手裏剣術に関する本ブログの記述はどうか? これについては、たとえばここでの記述に「ピン抜き」のようなものは皆無である。

 なぜかというに手裏剣術というのは、とにかく実際に何千・何万・何十万回も打たないと、形・所作の真似や理論の理解だけでは、まったく刺さらないからだ・・・。

 しかも、刺さったか刺さらないかの結果が一目瞭然なので、あまりにも刺さらないと、やる気が消失すること請け合いなのである(苦笑)。

 そして人は往々にして、こうした地味で面白みのない稽古は続けられない。

 ゆえに手裏剣術の実技については、それをブログ等であますところなく公開をしても、あまりに刺さらないので、残念ながら多くの人は稽古を継続できないのである。

 結果として、武術としての手裏剣術習得に最低限必要な三間尺的すら通せずに、稽古を辞めてしまう人が大多数であり、ゆえにあえて実技に関する具体的かつ詳細な記述を伏せる必要もないという訳だ。

 とまあ、こんな風に考えながら、日々ブログを書いています・・・

160116_152052.jpg
▲我が影を打つ


 (了)
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柳剛流祖岡田先生之碑/(柳剛流)
- 2016/01/27(Wed) -
 FC2のブログには、同じFC2でブログを書いている人がアクセスすると、訪問者リストにその記録が残るようになっている。このため時々、その訪問者リストを見てみるのだが、先日、

『柳剛流~岡田惣右衛門奇良 生誕250周年記念~』
http://250anniversary.blog.fc2.com/

 というブログを書いている方からの訪問者履歴があった。

 早速拝見してみると、「幸手出身の偉人・岡田惣右衛門奇良の生誕250周年を記念し、ブログを始めました」とのことで、今年の1月13日に開設されたばかりの新しいブログであった。

 ちなみに流祖・岡田惣右衛門奇良の生年は明和2(1765)年なので、昨年が生誕250周年であり、それを記念して今年からブログを開設されたということなのであろう。


 記事はまだ、1月13日に投稿された「幸手が生んだ偉人・岡田惣右衛門奇良」というもの1本しか掲載されていないが、その内容は流祖の略歴を記述するとともに、幸手市西関宿の浅間神社にある「柳剛流祖岡田先生之碑」という顕彰碑の写真を紹介している。

 この顕彰碑は、柳剛流の師範家としては第三世代に当たる石渡義行とその門人が、慶応元(1865)年に建立したものだという。私はまだ当地で実物を見たことはないのだが、機会を見つけてぜひ拝見したいと思っていたものだ。

 以下、この碑文の訓読と裏面の建立者名を、辻淳先生の著書『幸手剣術古武道史』や森田栄先生の『日本剣道史 第十号』から引用しよう。


柳剛流祖岡田先生之碑

  先生江戸の人。諱、奇良、惣右衛門と称す。
 その剣法巍然也。独立変動神の如し。
 世に勍敵無く一家を立て法命を柳剛流と曰う。
 剛を取って柔を偏廃すべからず也。誉望に振るへ
 海内、四方の士争って門を造る。余の師
 林右膳はかって先生に従い数年学ぶ。才芸
 超倫。善くその統を継ぐ。余、右膳に従って業を受け
 故に、その祖恩を感じ石を建て表顕す。其の美しきか如く。
 この資、余の門人智久興時等の力あり。
  慶応紀元乙丑夏六月
  石渡義行謹記 喜多徳書 

 (碑裏面)

 石渡義行門人
 新井竹蔵菅原元吉
 村井正七藤原勝任
 喜多村幸兵衛源富易
 智久宗兵衛源興時
  三吉
  巳之助
  万吉
  圓蔵
  千太郎
  新太郎
  銀次郎
  石工 針谷壽老米



 なおちなみに、流祖生誕の地は武州葛飾郡惣新田であり、この石碑にある「先生江戸の人」というのは、生誕地としては誤りである。

 また、裏面に名前が記載されている石渡義行の門人たちは、万延元年の『武術英名録』に、山内柳剛流の剣士として記載されているという。

 ところが石碑の文面を読んで分かるように、彼らの師は石渡義行であり、石渡の師は流祖の高弟であった林右膳である。つまり彼らの伝系に「山内」という人物は存在していないのだが、なぜか武術英名録では「山内柳剛流」と紹介されており、その謎は深まるばかりである。


 いずれにしても、柳剛流に関する情報発信が増えるというのは、当流を学び伝承する者として、うれしい限りである。

 『柳剛流~岡田惣右衛門奇良 生誕250周年記念~』ブログの今後の記事に、大いに期待したい。


 ■引用・参考文献
 『幸手剣術古武道史』辻淳著/剣術流派調査研究会
 『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』森田栄著/日本剣道史編纂所

 (了)
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紀州藩田丸伝柳剛流の資料を読む/(柳剛流)
- 2016/01/25(Mon) -
 本日、多気町郷土資料館から、平成16年10月5日~12月19日まで開催されていた、多気町郷土資料館特別企画展『郷土の剣術柳剛流と日本の武道』の図録が到着した。

1601_多気図録1


 問い合わせにあたり親切にご対応いただき、快く資料を送付してくださった郷土資料館のご担当者様には、本当にありがたく存じます。昨年公開された紀州藩田丸伝の演武について玉城町に問い合わせた際も、役場の方がたいへん親切に対応してくださったのは印象的だった。

 私は仕事柄、全国各地いろいろなところへ取材に出かけるのだが、これまで三重は数度訪れたことがあるだけで、あまりなじみがなかった。しかし、こうした親切な対応をたびたびいただいたおかげで、「三重は良いところ、三重の人はとても親切・・・」という刷り込みが、すっかり出来上がっている(笑)。



 さて、早速資料に目を通すと、いろいろと新たな知見があった。

 まず最初に表紙を見て、ネット上で流布している古い柳剛流の写真の出典をようやく知ることができた。

1601_田丸伝形演武


 この写真は、明治23(1890)年に、柳剛流を紀州田丸に伝えた橘内蔵介正以の高弟である、森島楠平義敬とその門人によって、柳剛流の保存・発展のために田丸にて設立された、日本竹苞館の教授人による演武だとのこと。

 本資料によれば、この写真は明治24~25年に撮影されたもので、向かって左の仕太刀は村林長十郎、右の打太刀が森田音三郎だという。

 なお、本資料ではこの写真の形を「柳剛流『右剣』の形演技」と説明しているが、これは「左剣」の間違いではなかろうか?

 仙台藩角田伝の形、また現在の幸手伝の形でも、仕太刀が左前で折敷いて左鎬で受け流し斬るのは、「右剣」ではなく「左剣」である。

 なおちなみに、幸手伝では右剣は「右頸」、左剣は「左頸」と呼称している。

 いずれにしても、「右剣」と「左剣」は諸派を問わず柳剛流の最も基本となる形だけに、田丸伝のみが「右剣」と「左剣」の捌き方が逆になっているというのは、いささか考えにくい。また稽古着の袷せや鞘の位置を見ても、写真が裏焼き(反転)しているわけではないことは明らかである。

 以上の点から、これは本資料あるいはその出典となった資料の、説明文の間違いである可能性が高いのではなかろうか?



 次に、本資料では田丸伝の切紙・目録・免許の各伝書の写真と解説が掲載されており、これらもまた非常に興味深いものである。

 まず切紙をみると、驚いたことに剣術形が8本記されている。

 武州系諸派や角田伝の柳剛流では、切紙で教授される剣術形は「右剣」と「左剣」の2本、あるいはこれに「風心刀」を加えて3本となるのが一般的で、この田丸伝の切紙伝書に記されている「無心剣」や「相合刀」、「中合刀」などは、いずれも目録で伝授されることが多い。

 一方で、武州系や角田伝では切紙で伝授される突杖が、田丸伝では目録での伝授となっているのも特徴的だ。

 居合については、武州系諸派、角田伝、田丸伝ともに切紙時に5本が伝授されることは同じであった。

 目録に記載されている剣術形は合計で7本。ただし残念なことに、本資料では目録の全文の掲載はなく、写真も文章も一部のみの解説のため、これら7本の形の名称は一部分しか確認できない。

 そのうち「青眼右足刀」と「青眼左足刀」の2本は、武州系諸派や角田伝と同様である。しかし、掲載されている写真にはその他に「破先刀」「相知刀」「中道別剣」の3つの剣術形の名称が見える。これらの形は、流祖直伝の目録伝書には見られるが、武州系諸派や角田伝ではあまり見られないものである。

 また目録記載の二刀伝と小太刀は、いずれも口伝とのみの記載であり、個々の形の名称は記載されていないとのことである。

1601_多気図毒2


 免許伝書については、眼の大事(武州系での五眼口伝のことと思われる)、極秘伝(武州系の一心という口伝と同様と思われる)、長刀秘伝、甲冑当、活法となっているという。

 ここで本資料では、

 「甲冑当と活法は他系には見られず、田丸系独自のようである」

 との一文があるが、これは明らかな間違いであることを指摘しておきたい。

 武州系諸派の免許にも甲冑当や活法は複数の伝書に記載されており、また仙台藩角田伝では活法が実伝として伝承され、現在も国際水月塾武術協会にて伝えられている。

 

 本資料では、森島楠平から田丸伝を受け継いだ村林長十郎の用いた武具についての記載も眼を引く。

 村林長十郎が使っていた柳剛流の木刀は、全長106㎝(3尺4寸9分)、反り1.5cm(5分)とのこと。掲載されている写真が柄部分のアップのみで、鍔の有無は判別できない。しかし、全長と反りを考えると、おおむね現在の剣道などで用いる一般的な大刀と変わらない形・サイズであるようだ。

 この点、武州系の深井柳剛流師範家に伝わる、直刀型で長さは全長129~134cm(4尺2寸5分~4尺4寸2分)の独特な木刀は、異彩を放っているといえよう。

 さらに村林長十郎が使っていた長刀は、全長185cm(6尺1寸)、刃長は35.4cm(1尺1寸6分)、反りは2.5cm(8分)であるという。全長6尺と、長刀としてはやや短めのものを使っていたというのも、またたいへん興味深い。

 本資料には当流の稽古には欠かせなかったであろう脛当てについても写真と解説があり、素材こそ当時のものだが、形状やサイズは現在のなぎなたで用いられるものとほとんど変わらないものであったことが分かる。

1601_多気図録3


 以上、多気町郷土資料館特別企画展『郷土の剣術柳剛流と日本の武道』の図録から、私にとって新しい知見となった部分をざっと取りまとめた。

 なお紀州藩田丸伝柳剛流は、現在も三重県松坂市にて、三村幸夫先生・三村幸也先生によって伝承されているとのことである。

 (了)
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感染症対策/(医療・福祉)
- 2016/01/23(Sat) -
 今週は、ず~~~~っと、一般読者向けに感染症を解説する原稿を書きまくっていた。

 手足口病、プール熱、黄熱病、とびひ、マイコプラズマ肺炎、RSウイルス、溶連菌、季節性インフルエンザ、新型インフルエンザ、ノロウイルス、おたふくかぜにみずぼうそう。本日は早朝から重症熱性血小板減少症候群(SFTS)を書き上げ、ただいま入稿終了したところである。

 それにしても、世界はウイルスや細菌であふれているのだねえ。

 執筆のために厚労省や消費者庁、自治体などのペーパーを見ていると、いろいと興味深いことがある。

 たとえば昨年10月に消費庁が行った調査では、食事の前に手を洗わない人が52.6%、そしてトイレの後に手を洗わないという不浄の輩が15.4%もいるという。

 きったねえなあ・・・。

 そんでもって、この時期はノロちゃんの流行時期なわけで、これに感染した人のウンチには、1グラム(1キログラムではない、念のため)中に数億個のノロウイルスが含まれている。一方で、こいつは人の口からたった10~100個入るだけで感染しちまうというオソロシイものなのだ。

 とりあえず、トイレの後はちゃんと手を洗おうや、ほんとマジで頼む。

 あと、「咳エチケット」、これはもっと啓蒙が必要だ。

 この時期、都内などに出ると、電車の中でコンコン、クシュクシュ、ハクションしていながら、マスクをしていない輩が実に多いのは、本当に不快である。

 菌飛ばすな、菌を!!

 学校はもちろん、企業や地域でも、「咳エチケット」(http://idsc.tokyo-eiken.go.jp/diseases/flu/cover-cough/)をもっと教育すべきだろう。

1601_感染症
▲感染症対策について熱く語るエルンスト・フォン・バウアー氏



 最近あまり騒がれなくなったが、新型インフルエンザの大流行(パンデミック)は、今も変わらず人類の恐怖である。厚労省の推計では、いったん流行が始まると、国民の25%320万人が発症し、17万~64万人が死亡すると想定されている。

 このため流行が始まった場合、可能な限り外出せず自宅に留まるようにとされており、感染症対策の専門家はそのために家庭でも2か月分の食料や水の備蓄を推奨している。

 って、2か月分・・・・?

 それは無理だろ、多分。

 普通の家庭では、そんな量の食料や飲料水を置いとく場所がそもそもねえよ!

 ということで、国は2週間分の備蓄を推奨している。ま、2週間分でも、かなり厳しいと思うけどな。



 西日本を中心に国内でも感染が広がっている、ダニが媒介する重症熱性血小板減少症候群(severe fever with thrombocytopenia syndrome: SFTS)。国立感染症研究所によれば、2013年の国内での初確認以来、過去にもさかのぼって調査したところ、今月6日現在で169名が感染し、うち45名が死亡しているとのこと。これはかなり高い死亡率である。

 でもって個人的にびっくりだったのは、SFTSと同様にマダニが媒介する感染症である「つつが虫病」の患者が、今も毎年400件ほど報告されているということだ。つつが虫病なんて、とっくに制圧されているのかと思ったが、いまだにこんなに感染者がいるとは思わなかった。


 というわけで、インフルエンザもノロも、これからシーズン本番ですが、皆様、恙無く・・・。

 (おしまい)
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柳剛流の目録口伝-二刀伝について/(柳剛流)
- 2016/01/21(Thu) -
 この記事は、当初は「心形刀流剣術家の著作にみる、真剣刀法中の断脚之術(その4)」として書こうと思っていたのだが、本ブログの前回記事が免許の口伝に関することだったこと、また内容的にも独立させた方がよいと考え、連載記事としてではなく、単独記事とした次第。

 よって、「心形刀流剣術家の著作にみる、真剣刀法中の断脚之術」は、前回の(その3)で最終回となるのであしからず。



 金子愛蔵著『武道教育 剣道二百二拾本勝太刀之法』(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860492)に示された220本の太刀筋のうち、「後の先」の部最後の13本は対二刀の勝口となっている。

160121_図版
▲後の先の第九十八以降の太刀筋は、対二刀の勝口が示される


 これらの勝口を分類すると、喉・胸・胴・小手への向突きが4本、受け流してからの斬撃が5本、転身して捌いての斬りが3本。そして残る1本は「敵両刀ヲ以ッテ甲手ヘ打込来レハ弛シテ敵ノ頭上ヲ斬ル」とある。

 「弛シテ」というのが分かりにくいが、「弛める」ということであれば、相手の両刀での打込みを構えを弛めて抜き正面を斬るという理解でよいだろう。



 さて、ここで話は柳剛流の二刀伝に移る。

 柳剛流は、その母体となった心形刀流と同様に二刀の勢法が流儀の体系に組み込まれている。当流の二刀勢法は目録の段階で伝授されるものであり、流祖直伝という石川家に伝わる目録を見ると、以下の8本の形が示されている。

■二刀
・上段防
・青光刀
・不乱刀
・青眼破
・車水刀
・利支剣
・心剛刀
・鷹羽剣

 これらの二刀勢法は、田丸伝柳剛流に現在まで伝承されているという。

 ただし、村林正美先生の記した「柳剛流剣術の特色」(武道学研究22-2/1989)を読むと、現在、田丸伝を伝承されている三村幸夫先生は、先代の清水誓一郎先生より二刀や小太刀の技法を伝承していたが、上記二刀の形の名称は伝えられていなかったという。



 柳剛流の伝承において目録での教授内容は、時代を下るとともに簡略化される傾向にあり、またその内容も伝承する諸派によって異同が多いということは、本ブログでもたびたび指摘している通りである。

 その上で全般的な傾向としては、目録での技法体系は「柳剛刀」と称される以下の6本が基本となる。

・飛竜剣
・青眼右足刀(角田伝では青眼右足頭、以下カッコ内は角田伝の表記)
・青眼左足刀(青眼左足頭)
・無心剣
・中合刀(中合剣)
・最合刀(最合剣)

 これに二刀伝、小刀伝、槍・長刀入伝、備十五ヶ条フセギ秘伝が伝授されることが、最も一般的なようだ。

 今回の記事では、この中で二刀伝に注目しているわけだが、先に示したように流祖直伝の伝書では、二刀の勢法は8本の形の名称が明示されているのに対し、たとえば武州で最も多く目にする機会のある岡田十内系や岡安禎輔系などの目録では、二刀については単に「二刀伝」という記述のみであることがほとんどである。

 ここで注意したいのは、武州系の柳剛流において、目録で伝授されていた二刀伝は、勢法=形として伝承されていたのか、あるいは形ではなく純粋な口伝として伝承されていのかが、目録を読むだけでは判然としないということだ。

 たとえば仙台藩角田伝系の最初期の目録伝書を見ると、一條左馬輔が出した複数の目録では、二刀に関しては「二刀伝 青眼破 口伝」とのみ明記されている。

 その上で、現在私が学んでいる一條左馬輔以来の仙台藩角田伝柳剛流の実伝では、現在、目録の二刀伝は口伝としての伝授のみあり、勢法=形としての伝承はない。


 以上の点を整理すると、


■柳剛流の二刀伝について
1.流祖直伝の段階では、目録の二刀伝は、勢法=形8本の伝授であった。
2.田丸伝では、これらの勢法=形がそのまま伝えられ、現在まで伝承されている(ただし名称は一時失伝。本数も8本すべて現存かは不明)。
3.伝播最初期の角田伝では、「二刀伝 青眼破 口伝」として、形の名称は明記されていない。
4.武州系統の伝では、「二刀伝」とのみの記述で、形の名称は伝書に明記されず。
5.現在の角田伝では、「二刀伝」としては口伝のみの伝授で、勢法=形の伝承はない。

 ということである。

 以上の点からひとつ仮説を立ててみると、

 「角田伝の柳剛流では当地に伝播したかなり早い時期から、目録の二刀伝は口伝のみの伝授に収れんされていたのではなかろうか?」

 ということである。

 一方で、田丸伝の柳剛流では、二刀伝の形名称は失いつつも、勢法そのものは現在まで伝承されてきた。

 となると、武州系の柳剛流各派において目録に示された二刀伝は口伝のみの伝授だったのか? はたまた形の伝授も伴ったものであったのか?

 武州系統の柳剛流がことごとく失伝してしまって久しい今、なぞは深まるばかりである・・・・・・。



 さて、現在の仙台藩角田伝柳剛流の「二刀伝(口伝)」では、我が二刀の場合の勝口はもとより、相手が二刀の場合の「フセギ伝」も伝授される。

 これらの具体的な内容については、流儀の口伝のためここでは秘する。

 しかし、冒頭で紹介した心形刀流・金子愛蔵の示す対二刀の勝口の数々を読むと、「なるほど!」と大いに腑に落ちるのであった。


 ■参考文献
 「幸手剣術古武道史」剣術流派調査研究会/辻淳
 「柳剛流剣術の特色」(『武道学研究』第22巻第2号 1989年)/ 村林正美
 「一條家系探訪 柳剛流剣術」私家版/一條昭雄

 (了)
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柳剛流の免許口伝/(柳剛流)
- 2016/01/18(Mon) -
 昨日は水月塾本部にて、終日、師より個別教授にてご指導をいただき、新たに柳剛流の免許口伝である「一人ノ合敵 口伝」と活法の伝授をいただいた。



 柳剛流免許の教授項目は諸派によって多少の異同があるが、伝書類を比較すると多くの場合、まず「長刀秘伝」の技法があり、それに加えて、

一、七ツ死
一、甲冑当
一、組打
一、一人剛敵
一、法活

 の五ヶ条の口伝が伝授されるのが一般的である。

160118_114332.jpg
▲岡安禎輔が明治33(1900)年に伊藤正守に出した柳剛流剣術免許
 (『幸手剣術古武道史』辻淳著より)


 ここで1つ、これら免許口伝に関して興味深い点がある。

 現在、流祖・岡田惣右衛門奇良直伝の伝書というのは、石川家に伝えられている一巻しか確認されていないはずだが、その免許伝書には長刀秘伝が記載されているのみで、その他の技法に関する記述はない。

 同様に、当流二代目である一條左馬輔直伝の免許伝書にも、(現在、私が確認している範囲内では)記載されているのは長刀秘伝のみで、その他の技法は書かれていない。

 しかしこれが、岡田十内や岡安禎輔など柳剛流の第三世代師範家が出した伝書を確認すると、長刀秘伝に加えて上記の口伝五ヶ条が記載されるようになるのである。

 さらに、たとえば岡田十内派では「手詰伝」という柔術技法が加えられていたり、岡安派では先にブログで紹介した「五眼」の口伝や死穴十三ヶ条、野戦の心得などの兵学の項目も加えられている。また伝書によっては、「毒薬大秘方扇之秘伝」や「霊方一寿散」といった薬物の調合法が伝えられているものも見受けられる。

 従来の研究では、流祖が三和無敵流を学んだことから、当流には柔術や殺法が加えられたとするのが定説であるが、このように現存する免許伝書を見ると、流祖や正統二代目である一條左馬輔直伝の免許伝書には殺法等に関する記述がなく、第三世代の師範家の記した免許伝書には記述があるというのは、どういうことなのか?

 このミッシングリンクを解明するには、当流第二世代の師範家たちが書いた伝書類の精査が必要になろう。

 いずれにしても柳剛流免許皆伝書は、時代が下がるほど技法・口伝の継承項目が増える傾向にあり、これは目録伝書に記載される技法が時代を下るとともに少なくなることと対照的である。



 今回、師より伝授をいただいた仙台藩角田伝の「一人ノ合敵」は、文字は一部異なるが武州系柳剛流など他派の免許皆伝書にみられる「一人剛敵」と同一のものであろう。

 この口伝は、私にとっては個人的にたいへん衝撃的というか、印象的というか、武術人としての因果・因縁を強烈に感じさせてくれるものであった。

 それがどのようなものなのか、具体的なことは当流の口伝ゆえ秘するが、「こんな巡り合わせがあるのか!」と、私としては万感の思いここにありといった内容であった。

 この世には、そして武芸の世界には、にわかには信じがたい「必然」というものがあるのだなあと、心からしみじみ思った次第である。



 活法について、これは以前本ブログで説明したかと思うが、剣術稽古時に組討などで卒倒することがあることから角田伝では活法が伝承されてきたということで、今回、四種の活の伝授をいただいた。

 個人的には、これまでの武術・武道人生で何度も卒倒させられた経験があり(若いころは、荒っぽい稽古をしてきたもんだ・・・)、そういった点からも今回伝授を受けた古流の活法は、たいへん学びの深いものであった。

(了)
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心形刀流剣術家の著作にみる、真剣刀法中の断脚之術(その3)/(柳剛流)
- 2016/01/15(Fri) -
 続いて、明治36(1903)年発行の金子愛蔵著『武道教育 剣道二百二拾本勝太刀之法』(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860492)から、今回は「後の先」の勢法に示された脚斬りに関連する太刀筋を見てみよう。


■後ノ先
第二十八 右足ヲ外ヨリ打チ込ミ来ルトキハ右足ヲ退キ八文字踏ミ左肩ヲ袈裟掛ケニ斬ル
第二十九 右足ヲ内ヨリ打チ込ミ来ルトキハ右ノ甲手下ル故ニ敵ノ胸ヲ突ク
第三十三 右足ヲ内ヨリ掃ヒ来ルトキハ右足ヲ退キ八文字ニ踏ミ頭上ヲ斬ル
第三十四 右足ヲ内ヨリ掃ヒ来ルトキハ右足ヲ退キ半体ニナリ左手ヲ以テ右ノ肩ヲ斬ル
第三十七 頭上ヘ打チ込ミ来ルトキハ右ヘ受ケ流シテ右ノ足ヲ外ヨリ斬ル
第三十八 頭上ヘ打チ込ミ来ルトキハ左ヘ受ケ流シテ足ヲ内ヨリ斬ル
第四十二 胴ヘ打チ込ミ来ルトキハ右ヘ受ケ流シテ右ノ足ヲ外ヨリ斬ル
第七十九 敵ヨリ頭上ヘ打込ミ来レハ右ヘ受流シテ足ヲ斬ル
第八十  敵ヨリ頭上ヘ打込ミ来レハ左ヘ受流シテ足ヲ斬ル
第八十五 敵ヨリ右ノ足ヘ打込来レハ右ノ足ヲ八文字踏テ敵ノ頭上ヲ斬ル
第八十六 敵ヨリ足ヘ打込来レハ右ノ足ヲ引キ半体ニシテ左ノ手ニテ頭上ヲ斬ル
第八十七 敵ヨリ足ヘ打込来レハ右ノ足ヲ引キ半体ニシテ右ノ肩ヲ斬ル
第八十八 敵ヨリ足ヘ打込来レハ右ノ足ヲ八文字ニ踏テ左ノ肩ヲ斬ル
第百〇二 敵両刀ヲ以テ頭上ヘ打込来レハ受流シテ敵ノ足ヲ斬ル



 第28~29・32~34は、相手がこちらの脚を斬ってきたときの対処である。

 続いて第37~38で、本書にして初めて相手の脚を斬る勝口が示され、以後、第42・79・80・102でも脚斬りでの勝ちとなる。脚を斬って勝つ勢法はこの6本で、本書に示された220本の太刀筋のうちの2.7%。いずれも相手の斬撃を受け流してから脚を斬るというもので、すべて後の先の業である。

 いまひとつ分かりにくいのは、たとえば

・第三十七 「頭上ヘ打チ込ミ来ルトキハ右ヘ受ケ流シテ右ノ足ヲ外ヨリ斬ル」
・第七十九 「敵ヨリ頭上ヘ打込ミ来レハ右ヘ受流シテ足ヲ斬ル」

 は、どのように違うのかが判然としないことだ。

 同様に、

・第三十八 「頭上ヘ打チ込ミ来ルトキハ左ヘ受ケ流シテ足ヲ内ヨリ斬ル」
・第八十  「敵ヨリ頭上ヘ打込ミ来レハ左ヘ受流シテ足ヲ斬ル」

 も、違いが判然としない。

 37や38が、相手の足を斬る方向を明示しているのに対し、79や80は方向を明示していないので、79や80は、37や38と同じ状況での逆方向からの斬りということなのだろうか?

 はたまた単に全体の勢法の数を、ごろの良い220本にするための員数合わせなのか、いまとなっては定かではない・・・。


 いずれにしても、本書では脚を斬っての勝口は、すべて後の先になっているというのは、先の先の業としては、脚斬りはあまり適していないということの表れだろう。

 多くの人が理解しているように、脚への斬撃は我の上段に隙ができる。また相手が真っ向正面や袈裟に斬ってきて相打ちになった場合、こちらの方が致命傷になる蓋然性が高い。

 ゆえに脚斬りの太刀筋は、後の先、つまり相手を崩す、あるいは相手の脚を斬ることのできる作りの用いるのが最も安全かつ効果的であるということだ。

 こうした戦略は仙台藩角田伝柳剛流の形=業にも明確に示されており、当流の形に示された脚への斬撃はいずれも後の先、しかも脚を斬る前段階での作りや崩しが必須となっている。


 もう1つ、本書の後の先の勢法を見ると、いかに脚斬りを防ぐかという点についての方法が具体的に示されていることにも注目したい。

 千葉周作の「自分の足の踵で自分の尻を蹴るように・・・」といったもの以外にも、本書で示されているカウンターでの斬撃は、対脚斬り業として考察する価値が高いといえよう。

 個人的に興味深いなと思ったのは、「第二十八 右足ヲ外ヨリ打チ込ミ来ルトキハ右足ヲ退キ八文字踏ミ左肩ヲ袈裟掛ケニ斬ル」で、これは相手の左肩以外にも小手を斬るなり押さえるすると、より効果的になるのではなかろうかと思う。

 (了)
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心形刀流剣術家の著作にみる、真剣刀法中の断脚之術(その2)/(柳剛流)
- 2016/01/11(Mon) -
 明治36(1903)年発行の金子愛蔵著『武道教育 剣道二百二拾本勝太刀之法』(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860492)から、まずは「先の先」の勢法に示された脚斬りに関連する太刀筋を見てみよう。

■先々ノ先
第四十  敵ノ足ヲ斬ルト見セテ敵ノ右ノ肩ヲ斬ル
第四十一 敵ノ足ヲ斬ルト見セテ敵ノ左ノ肩ヲ斬ル
第四十二 敵ノ足ヲ斬ルト見セテ敵ノ頭上ヲ斬ル
第四十五 敵ノ足ヲ斬ルト見セテ敵ノ右ノ小鬢ヲ斬ル
第四十六 敵ノ足ヲ斬ルト見セテ敵ノ左ノ小鬢ヲ斬ル
第六十六 敵ノ足ニ隙アリト見トメテ打込際ニ拒(ふせ)ゲハ頭上ヘ斬込ム
第六十七 敵ノ足ニ隙アリト見トメテ打込際ニ拒(ふせ)ゲハ右ノ肩へ斬込ム
第七十五 上段ヨリ足ヘ往クト見セテ小鬢ヘ斬込ム
第七十六 上段ヨリ足ヘ往クト見セテ左ノ小鬢ヘ斬込ム
第七十七 上段ヨリ足ヘ往クト見セテ右ノ肩ヘ斬込ム
第七十八 上段ヨリ足ヘ往クト見セテ左ノ肩ヘ斬込ム
第七十九 上段ヨリ足ヘ往クト見セテ頭上ヘ斬込ム


 まず第40~42、45~46は、いずれも敵の足(脚)を斬ると見せて、左右の肩、正面、左右の横面を斬るとしているが、 「どのように脚を斬ると見せるのか?」についてが判然としない。

 しかし続く75~79が、「上段より足へ行くと見せて・・・」とあるということは、40~42・45~46では、仕太刀の構えは上段ではないと判断できる。

 そこで仮に、仕太刀が中段や下段に構えているとすれば、そこから小袈裟に脚を斬るようにして相手を誘い、その拍子で肩や面、横面などを斬るとすればよいのではなかろうか。

 次に、第66~67では、「敵の足に隙ありと認めて打ち込む際に防げば・・・」とある。これは特に難しい判断は必要なく、脚に打ち込んで相手に受けられたところで、二の太刀で正面または右肩に斬り込むという理解でよいだろう。

 第75~79は、すべて「上段より足へ行くとみせて・・・」となっている。この場合、実際に初動で脚に斬り付けつつ太刀筋の軌道を変えるというのは合理的ではないので、軽い挙動や視線を送るなど「気で誘い」脚を斬ると見せて、その他の部位を斬るという理解が適切ではないか。


 これらはいずれも、体術に転換して考えてみると、より理解しやすいともいえる。

 たとえば、第40の「敵の足を斬ると見せて敵の右の肩を斬る」や45の「敵の足を斬ると見せて右の小鬢を斬る」は、左の下段蹴りからの右逆突き、第41や46は、左下段蹴りからの左刻み突きなどというように応用できる。つまり、打撃における初歩的な対角線攻撃と同様の理合となるわけだ。

 私など伝統派空手道の試合では、左構えから先をとって前拳で相手の前拳を押さえて潰しつつ、左の足払いからの逆突き、あるいは逆ワン・ツウーといったコンビネーションをよく使ったものだが、これらの動きを剣にすれば上記の太刀筋と同じ理合になる。

 もう1つ、ここで留意しておきたいのは、本書で金子が教える太刀筋では、「先の先」の業には最終的に脚を斬ることで勝つものがないということだ。

 一方で、この後で解説する「後の先」の太刀筋では、最終的に相手の脚を斬って勝つ業が複数示されている。

 これについては脚斬りという勝口を考える上で、慎重に検討を加えるべき点であるように私には感じられる。

 (つづく)
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稽古始め/(身辺雑記)
- 2016/01/09(Sat) -
1601_稽古始め


 本日は翠月庵の稽古始め。

 小春日和の中、手裏剣術と柳剛流の稽古に汗を流しました。

 今年もまた、粛々と稽古を続けて参りましょう。

 翠月庵主

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心形刀流剣術家の著作にみる、真剣刀法中の断脚之術(その1)/(柳剛流)
- 2016/01/06(Wed) -
 国立国会図書館のデジタルコレクションにて、明治36(1903)年発行の金子愛蔵著『武道教育 剣道二百二拾本勝太刀之法』(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/860492)という書籍が公開されている。

 金子愛蔵は、心形刀流8代目伊庭軍兵衛秀業の弟子を称している人物で、大正11(1922)年に発生した大輝丸事件の首謀者であり、『ステッキ術』の著者としても知られる江連力一郎に、杖術を教授した人物としても知られている。

 金子の記した『武道教育 剣道二百二拾本勝太刀之法』は、真剣立合の攻防合計220パターンを、「先ノ先」と「後ノ先」の2つに大別して解説したものだ。

 その内容はたとえば、

「(先ノ先)第六十五 敵ノ左ノ小鬢ニ隙アルト見トメテ打込際ニ拒(ふせ)ゲハ右ノ小鬢ヘ斬込ム」
「(後ノ先)第三十 左上段ニ構エントスルトキハ胸ヲ突ク可シ」

 といったように、彼我の攻防をたいへん簡潔な記述でまとめたものの箇条書き集である。

 これらは純粋な心形刀流の業というわけではないだろうが、幕末から明治にかけて同流を学んだ剣士が記した、真剣刀法のパターン集としてみるとたいへんに興味深い。

1601_図版
▲『武道教育 剣道二百二拾本勝太刀之法』には、このような図解も一部掲載されている


 さて、本書の著者である金子が修めた心形刀流は、柳剛流の母体となった流儀である。そこで、本書に記された真剣刀法の中で、仕太刀あるいは打太刀が脚を斬る業をピックアップしてみた。

 その結果、先の先の業12本、後の先の業14本、合計26本の脚斬りに関する勢法があり、これは本書に示された全220本の勢法中の11.8%となる。

 個人的には、これは想像以上に多い数だと感じた。以下、それらの記述をまとめて示そう。


『武道教育 剣道二百二拾本勝太刀之法』にみる断脚之術

■先々ノ先
第四十  敵ノ足ヲ斬ルト見セテ敵ノ右ノ肩ヲ斬ル
第四十一 敵ノ足ヲ斬ルト見セテ敵ノ左ノ肩ヲ斬ル
第四十二 敵ノ足ヲ斬ルト見セテ敵ノ頭上ヲ斬ル
第四十五 敵ノ足ヲ斬ルト見セテ敵ノ右ノ小鬢ヲ斬ル
第四十六 敵ノ足ヲ斬ルト見セテ敵ノ左ノ小鬢ヲ斬ル
第六十六 敵ノ足ニ隙アリト見トメテ打込際ニ拒(ふせ)ゲハ頭上ヘ斬込ム
第六十七 敵ノ足ニ隙アリト見トメテ打込際ニ拒(ふせ)ゲハ右ノ肩へ斬込ム
第七十五 上段ヨリ足ヘ往クト見セテ小鬢ヘ斬込ム
第七十六 上段ヨリ足ヘ往クト見セテ左ノ小鬢ヘ斬込ム
第七十七 上段ヨリ足ヘ往クト見セテ右ノ肩ヘ斬込ム
第七十八 上段ヨリ足ヘ往クト見セテ左ノ肩ヘ斬込ム
第七十九 上段ヨリ足ヘ往クト見セテ頭上ヘ斬込ム

■後ノ先
第二十八 右足ヲ外ヨリ打チ込ミ来ルトキハ右足ヲ退キ八文字踏ミ左肩ヲ袈裟掛ケニ斬ル
第二十九 右足ヲ内ヨリ打チ込ミ来ルトキハ右ノ甲手下ル故ニ敵ノ胸ヲ突ク
第三十三 右足ヲ内ヨリ掃ヒ来ルトキハ右足ヲ退キ八文字ニ踏ミ頭上ヲ斬ル
第三十四 右足ヲ内ヨリ掃ヒ来ルトキハ右足ヲ退キ半体ニナリ左手ヲ以テ右ノ肩ヲ斬ル
第三十七 頭上ヘ打チ込ミ来ルトキハ右ヘ受ケ流シテ右ノ足ヲ外ヨリ斬ル
第三十八 頭上ヘ打チ込ミ来ルトキハ左ヘ受ケ流シテ足ヲ内ヨリ斬ル
第四十二 胴ヘ打チ込ミ来ルトキハ右ヘ受ケ流シテ右ノ足ヲ外ヨリ斬ル
第七十九 敵ヨリ頭上ヘ打込ミ来レハ右ヘ受流シテ足ヲ斬ル
第八十  敵ヨリ頭上ヘ打込ミ来レハ左ヘ受流シテ足ヲ斬ル
第八十五 敵ヨリ右ノ足ヘ打込来レハ右ノ足ヲ八文字踏テ敵ノ頭上ヲ斬ル
第八十六 敵ヨリ足ヘ打込来レハ右ノ足ヲ引キ半体ニシテ左ノ手ニテ頭上ヲ斬ル
第八十七 敵ヨリ足ヘ打込来レハ右ノ足ヲ引キ半体ニシテ右ノ肩ヲ斬ル
第八十八 敵ヨリ足ヘ打込来レハ右ノ足ヲ八文字ニ踏テ左ノ肩ヲ斬ル
第百〇二 敵両刀ヲ以テ頭上ヘ打込来レハ受流シテ敵ノ足ヲ斬ル


 いずれの勢法も最低限の簡素な説明であるが、脚斬りあるいは対脚斬りの技術研究には、たいへん貴重な資料であるといえるだろう。

 なお、ここで注意しておきたいのは、著者の金子は、これらの業をあくまでも「真剣勝太刀之法」という真剣刀法の手筋として記述しており、撃剣(竹刀試合)の業とはっきりと区別している点である。

 金子は本書で次のように語る(以下、すべて意訳)。

「真剣の立合は、竹刀の試合とは大いに異なり、一撃をもって勝敗を決し、死生が分かれる。このため真剣の立合では、竹刀試合のように彼我が接して打ち込み、あるいは受け止めるようなことなどできない。必ず先の先をとるか、後の先を取ることが必要である」

「竹刀試合においては鍔競合いがあるが、真剣立合ではほとんど稀である。お互い容易に接近せず、双方がおおむね切先と切先の間3~4尺を隔てて、たとえそれ以上接近することがあっても、すぐにまた離れてしまうものだ」

「真剣立合においては、相手の剣を受け止めることはない。必ず受け流して、すぐに斬り返すべし。単に受け止めるだけで、すぐに斬り返さないと、そこの隙が生じて斬り込まれる」


 次回以降は、先に示した個々の脚斬り・対脚斬りの真剣刀法について技術的な検討を加えるほか、本書に記された二刀の勢法についても、柳剛流の視点から考察してみたいと思う。


■参考ブログ
「酒徒行状記」/江連力一郎と心形刀流(2015.7.2)
http://d.hatena.ne.jp/syuto-yoshikaze/
 
 (つづく)
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他者に向けた刃は、己にも向かう/(武術・武道)
- 2016/01/05(Tue) -
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 教科書的に正しい怠惰な正月を送っていたため、昨晩が今年の稽古始めであった。

 二尺二寸の市原長光で、小半刻ほど柳剛流居合の形を打ったのだが、どうも納刀がしっくりいかない。つらつらと考えていて思い当たったのは、無意識のうちに心身が真剣に対して「ビビッて」いて、動きが固くなっているのではないか? ということである。

 昨年年末は思うところがあって稽古用の居合刀を主に使っていたので、考えてみるとここ3週間近くこの長光を使って稽古をしていなかったのである。このため無意識の内に、体が固くなっているのが納刀の際に強く感じられたようだ。

 抜き付けや二の打ちの斬撃などでは、こうした「固さ」を感じることはなかったのだが、切先や刃がこちらを向く納刀の時に心身が居着くというのは、われながら興味深いものである。


 他者に向けた刃は、己にも向かう。

 その刃の威を忘れず、しかし怖れることなかれと実感した次第。

 (了)
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呑新睡春/(身辺雑記)
- 2016/01/03(Sun) -
 今年の正月は、呑んでは眠り、目覚めるとひと風呂あびてまた呑み、そしてまた眠り目覚めれば風呂に入るという、実に贅沢かつ充実した日々を過ごした。

 これぞ日本のお正月、酒呑みに生まれて良かった。

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▲元日の朝、御屠蘇と焼き椎茸で目覚めの一献。酒器は、大切な一献には欠かせない萩焼の大家・十二代田原陶兵衛作、箱書き付きの逸品である


 元日は午後から、都内の甥っ子の家に呼ばれて新年会。ご馳走をいただきつつ、4歳児とプロレス、相撲、チャンバラの三十番勝負で、伯父さんはヘロヘロに・・・。

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▲昨年から剛柔流空手道の稽古を始めた甥っ子と記念の一枚。伯父さんは流派が違うので、大きくなったら転掌の形を教えてくれたまえ


 2日は地元の神社へ初詣。私は行列ってやつが大嫌いなのだが、正月ぐらいはしおらしく並び、今年一年の武運長久と無病息災、商売繁盛を祈願する。

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▲地元である旧宿場の鎮守の神社。小ぢんまりとした社で、普段からよく参拝する


 初詣の後は、すぐ近くにあるデパートの初売りへ。地下の食品売り場で樽酒の量り売りがやっていたので、早速1本購入。売り手の姐さんが、なみなみとついでくれた。ありがたし。

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▲樽香も芳しい、樽酒の量り売り。銘柄は越後の越の誉だという


 せっかくなので、同じデパート内にある和雑貨店で、三島手の馬上杯を1つ購入。見込みに翠色のギヤマンがかぶせてあり、酒をそそぐとほんのり翡翠色になるのがなんとも雅だ。

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▲愛用の根来の片口に樽酒を満たし、新しい杯で一献。淡く染まる翡翠色がいい。なにしろ翠は、“オレの色”だ(笑)


 正月2日も3日も、杯を傾けながら、寒鰤やらラフテーやら、河豚やら鯊やらと好きな肴をつまみつつ、兵頭二十八師の『新しい武士道』や『新解 函館戦争』などをつらつらと再読。

 そのまま、いつの間にか酔ってうとうととひじ枕で眠ってしまい、目覚めるとひと風呂浴びて、また杯を傾けるを繰り返す。

 嗚呼、これぞ至福のひと時・・・・・・。

 日本の正月は、いいねえ。

 (おしまい)
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もうひとつの仙台藩伝柳剛流/(柳剛流)
- 2016/01/03(Sun) -
 私が学んでいる仙台藩角田伝の柳剛流は、流祖・岡田惣右衛門奇良の門下で2代目を継承した一條(岡田)左馬輔信忠以降の伝系である。この系統の柳剛流は、左馬輔が仙台藩石川家の剣術師範となったことから、同家の領地であった角田や丸森など、いわゆる仙南地域で伝承されてきたものだ。

 一方で、この角田伝とはまったく系統を異にする柳剛流が、同じ仙台藩の旧登米郡を中心とした仙北地域で伝承されていた。

 以下、この仙台藩登米伝の柳剛流について、森田栄先生の名著 『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』から簡単に紹介したいと思う。



 仙台藩登米伝柳剛流は、岡田惣右衛門の直弟子と伝えられる加賀藩浪人・野村大輔秀房が最初にこの地に伝えたものという。文化14(1817)年、半田盛仲(号・卵啼)が野村の弟子となり、登米郡佐沼の自宅に稽古場を開設、多くの門弟を育成し、邑主の亘理清胤に招聘されて剣術師範となった。

 弘化4(1847)年、卵啼の稽古場を、流祖最晩年の直弟子であった幕府御家人・吉田勝之丞秀興が来訪。当時すでに53歳であり多くの門人を擁していた卵啼は勝之丞の技量にほれ込み師事。以後、20年以上に渡り勝之丞はこの地で柳剛流の指南を続けた。ちなみに勝之丞は長身の偉丈夫で、三尺二寸の大刀を帯びていたという。

 登米伝柳剛流の大家であった半田卵啼の剣の道統は、養嗣子の八兵衛盛好、その三男であった又右衛門盛勝と三代に渡って続き、佐沼地方の剣道宗師と称えられた。

 さらに、八兵衛盛好の次女・ロクを娶った佐々木直吉の子・三治も、吉田勝之丞、八兵衛盛好、又右衛門盛勝と、歴代の登米伝の師範について柳剛流を学び免許皆伝を受け、後年、登米郡撃剣会長や宮城県立佐沼中学校撃剣教師を歴任する。口承によれば、三治が居合の稽古に用いた刀は、三尺八寸もあったという。

 明治から昭和にかけて活躍した、登米伝柳剛流最後の代表的剣士が沼倉清八である。

 清八は14歳で武道を志し、吉田勝之丞の孫弟子に当たる高橋要治に柳剛流を学ぶ。さらに白石栄之助について柳生心眼流も稽古し、後年、両流の免許を受けるに至る。19歳の年、3年間に渡る全国武者修行の旅に出て、その後さらに京都の武徳会本部で5年の修行後、同会主任教授に着任。

 昭和5(1930)年、43歳にして剣道七段教士、さらに最晩年の昭和34(1959)年には八段範士となったが、その5ヵ月後にこの世を去った。行年72歳、法名は柳剛院清剣範秀居士とされ、石森山安永寺に葬られた。


 なお登米伝柳剛流の実技については、数年前まで宮城県で伝承されていたという柳剛流柔術が、上記沼倉清八の碑文などからも登米伝柳剛流のものだと推測される。

 一方で剣術や居合、突杖や長刀などについては、現在あるいは近年まで実伝が残されていたのか、すでに失伝して久しいのかつまびらかではない。


■参考文献
『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』森田栄/日本剣道史編纂所
『一條家系譜探訪 柳剛流剣術』一條昭雄/(私家版)

 (了)
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謹賀新年/(身辺雑記)
- 2016/01/01(Fri) -
             140906_155800.jpg


 新年、あけましておめでとうございます。

 本年も、手裏剣術伝習所 翠月庵/国際水月塾武術協会埼玉支部を宜しくお願い致します。


 翠月庵主 拝

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