300回/(身辺雑記)
- 2016/02/28(Sun) -
 先週末、翠月庵での稽古から帰ってきて、掲示板の稽古日誌を書こうと思ったら、今回で通算300回目の稽古であった。

 稽古場ではいつも通りに手裏剣術と、今回は私は神道無念流の立居合を集中して行っていたので、特別普段と変わることもなく粛々と稽古を終えたのだけれど、それはそれ、庵主としては「300」という数字はそれなりに感慨深いものがある。

 8年半で300回というのは、月平均で約3回ということで、まあ実感としてもそんなもんだったろうなという感じだ。

 自分自身の稽古は、基本毎日行うことを心がけているので(といっても実際は、多忙や外出および泥酔などでサボる日も少なくないので、年間で平均すると150日~200日弱というところだが・・・・・・)、稽古場での稽古が月平均3回というのは、ちょっと少ないかなとも思う。

 しかし、何しろ手裏剣術の稽古というのは、近所の体育館の個人使用枠や、地元の公園の隅などではできないので、いたしかたないともいえよう。


 ところで当庵は、個人のお宅の庭の一角をお借りしている野天道場なのであるが、私はこの環境が気に入っている。

 武術・武道の稽古というと、一般的には板の間の稽古場、あるいは最近では体育館の武道場やコートというイメージが普通だろう。時代劇などでも、いかにも「道場」といった屋内での稽古が描写されている。

 ところが江戸の昔は、試合剣術が興隆した幕末になってさえも、地方の流儀の多くは野天で行うことが多かったという。

 実際、たとえば柳剛流深井派の稽古場は、3間×3間半ほどのスペースであったというので、とても何人もが同時に稽古できるような広さではない。このため多くは、広い庭などで稽古をしていたと考えられる。

 野天道場のよいところは、運足や「場の次第」についての学びが多いことだ。

 それほどデコボコしていない地面でも、ちょっと小石があるだけで板の間のようなすり足はできないことが実感できる。あるいは、よく「太陽を背にして云々」といった心得があるが、夕暮れ時など、本当に西日に向かうと、まぶしくて何も見えない。

 風の日、雨の日、ぬかるみや露にぬれた草地の滑りやすさ、あるいは股立を取ることの実用性などは、管理された板の間の稽古場では、なかなか実感できないのではなかろうか。

 ・・・・・・、というのは多分にやせ我慢が混じった感想だけれども(笑)、ガルパンおじさん風に言えば、

 「野天稽古はいいぞ」

 ということで、また来週から400回目、500回目の稽古を目指して、粛々と励んでいこうと思う。

150905_153819.jpg


(おしまい)
 
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柳剛流の「奥義」「極意」/(柳剛流)
- 2016/02/26(Fri) -
 ここのところ柳剛流に関して、「どこそこの記述の、あれこれが間違っている・・・」などということを度々書いている。

 先にも記したけれど、正しい情報の啓発・継承・流布のために、よかれと思ってやっているのだけれど、一方で重箱の隅をつつくように人さまの誤りをあげつらうというのも、なんだか自分がひどく卑しい人間になったようで、気力がなえることも少なくない(苦笑)。

 大前提として武芸については、私は自分を研究者ではなく修行人だと思っているので、稽古≧調査・研究というスタンスは墨守しなければと、日々自戒している。

 というわけで、今回は「術」に関する話を少々。


 先日のブログで、とあるweb上の柳剛流に関する記事について、誤りや真偽不明の記述を指摘した。

 その中で、当流の「奥義」や「極意」に関する部分があり、それについても誤りだと指摘したのだけれど、これについてはもう少し説明が必要かと思う。

 まず、そもそも「極意」「奥義」とは何を言うのだろうか? たとえば『大辞林』は、次のように定義している。

 ごくい【極意】
 学問や技芸で,核心となる事柄。奥義。 「剣の-を授かる」 「 -を極める」


 くだんのwebの記事には、「その極意は「断脚」と言う相手の脛を払う剣技」「此の流派の奥義は相手の臑を払う「跳び斬り」」という記述があったので、これについて私は、「断脚之術は当流技法の根幹のひとつではあるが、いわゆる極意や奥義ではない」と批評を加えた。

 これについて、改めてより正確に述べると、

「柳剛流の奥義・極意とは、断脚之術=脚斬りという現象ではなく、その原理である」

 ということだ。

 ゆえに、必ずしも相手の脚を斬ることだけが、当流の勝口ではない。その原理=体動を用いて、脚を斬ることもあれば、正面を斬ることもある。小鬢や首を斬ることもあれば、腰を斬ることもあるのだ。

 こうした点で、「断脚之術が当流の奥義・極意である」というweb上の筆者氏の記述は、正確ではないが、まったく見当違いというわけでもない。当たらずとも遠からずであるということは、この筆者氏の名誉のために明記しておこう。


 断脚之術は、柳剛流の根幹を成す技法である。

 だからこそ流儀の教習体系において、入門者が一番最初に学ぶ「右剣」「左剣」という2つの形の勝口は脚斬りとなっており、流祖は意図してこのような体系を定めたのだろう。

 これら初学の形で学ぶ断脚之術の原理=体動は、そのまま居合形や目録で学ぶ「柳剛刀」と総称される6本の剣術形(飛龍剣、青眼右足刀、青眼左足刀、無心剣、中合剣、相合剣)につながり、さらに免許秘伝として伝授される長刀(なぎなた)の遣い方にも十分に活かされるのである。

 実際、当流の長刀を稽古をしていると、「なるほど、切紙や目録の剣術や居合で学んだ断脚之術の原理が、このように長刀の術理として発揮されるのか!」と明確に実感することができる。

 このような、技法体系全体に共通する原理=体動こそが、当流の奥義であり極意なのだ。

 なお、「極意・奥義」ではなく、当流の「秘伝」ということであれば、たとえば目録で学ぶ「備十五ヶ条フセギ秘伝」「二刀伝」「小刀伝」など、あるいは免許で学ぶ長刀のほか「一人剛敵」「法活」「五眼」といった口伝が、それに当たるであろう。

1602_中合剣
▲柳剛流剣術「中合剣」。(打)小佐野淳先生、(仕)瀬沼


 ところで余談ながら、流儀に共通する原理=体動という点で非常に興味深いのは、当流に伝わる杖術であり別名・突之刀法あるいは乳根木とも称される「突杖」である。

 剣術・居合・長刀に共通する当流の原理を考えると、どういうわけかこの突杖だけが、そこから逸脱しているのだ。

 具体的に、どのように逸脱しているのかについては、実技・師伝に関することなのでここでは秘する。

 それにしても、現在柳剛流の杖術のみを伝承している流儀・会派が各地に複数あるという点も含めて考察すると、総合武術たる柳剛流の術技体系の中で、杖だけが当流の根幹となる共通原理から逸脱しているというのは、なんとも意味深長だ。

 これについては私なりの推論があるのだけれど、それはまた別の機会にて。

 (了)
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柳剛流に関する真偽不明の記事/(柳剛流)
- 2016/02/24(Wed) -
 柳剛流に関しては近年、実際に流儀を伝承し、かつ稽古と調査・研究を両立している立場からの情報発信がほとんどなかった。

 このため、書籍やwebなどで見られる柳剛流に関する情報の多くは、実技をまったく知らない人が資料だけに基づいて述べた的外れなものであったり、あるいは司馬遼太郎氏の小説に代表されるフィクションの記述に基づいた偏見に満ちたものがほとんだった。

 このため、さまざまな誤りや誤解、あるいは偏見が、あたかも事実のように流布されているのはとても残念なことである。


 もっとも、こうした誤りは近年に始まったものではない。

 たとえば、天保14(1843)年の『新撰武術流祖録』にある柳剛流の記述には、すでに誤りがある。

 また、江戸から明治にかけて柳剛流の剣士たち自身によって建てられた、幸手や角田、石巻にある流祖の顕彰碑にも、いくつもの誤った記述がみられる。

 あるいは明治40(1907)年発行の『雑誌并見聞録』や、同7(1918)年発行の『吉田村史』などの、柳剛流研究にとってたいへん貴重な郷土史の1次資料、昭和40年代に発行された『埼玉県郷土辞典』や『埼玉県教育史』などにも事実誤認が少なくない。

 こうした誤謬を少しずつでもよいから訂正し、正しい情報を記録として残していくことも、古流の武芸を学び次代に伝承する者の社会的な使命であろう。


 さて、私は今まで知らなかったのだけれど、無料ホームページサービスの草分け的存在だという「フリーティケットシアター」というのがあるそうなのだが、それが来月いっぱいで全サービス終了、サイト閉鎖になるそうな。

 で、この「フリーティケットシアター」のホームページに、なにやら辞典風の記述で、柳剛流についてまとめているページがあり、それがwebで「柳剛流」と検索すると、結構上位で出てくるのである。

 ところがその内容は、間違いや真偽不明の情報だらけで、まさに「びっくりポンだす!」。

 まあ、3月いっぱいで消滅してしまうということなのでよいのかもしれないが、せっかくなのでここに引用し、「負の記録」として残しておこうかと思う。

~以下、引用~

柳剛流
 江戸時代後期の剣客・岡田総右衛門奇良(よりよし)が開いた剣術流派。
 彼は武州葛飾郡惣新田に生まれ、心形刀流伊庭軍兵衛に剣を学んだ後、諸国を遍歴。川辺の柳が強い風に吹かれながらも倒れないのを見て翻然として悟り、江戸に帰って神田お玉ヶ池に柳剛流道場を開いた。その極意は「断脚」と言う相手の脛を払う剣技であり、当初防ぐ手段を持たなかった他流派は悉く敗北したと言われている。柳剛流は江戸・関東を中心に大いに流行し、門弟の数は一時四千人を数えた。
 しかし二代目月島左馬之介の代に至って北辰一刀流門下の千葉栄次郎が対策を編み出すと、その不格好さを嫌われて衰退してしまい、お玉ヶ池を立ち退いて神楽坂の筑土八幡前に道場を移す事となった。確かに、恥も外聞も無くひたすら相手の臑ばかり切りつけるというのは格好の良い事ではないが、実戦剣術を求めるやくざ等には根強い人気が残り、例えば清水次郎長等はこの流派である。有名な門弟には、上述の清水の他にも幕臣の松平上総介忠敏が居る。
 此の流派の奥義は相手の臑を払う「跳び斬り」。此の流派では稽古の際には跳び斬りの練習用に臑当てを付け、使用する刀も定寸より二寸長く、其の分に諸刃の刃を備えた特殊な剣を使い、刃を返さずに切り返す。
(「フリーティケットシアター」ページより。http://page.freett.com/sukechika/ishin/kaisetsu/ryuugou.html)

~以上、引用終わり~


 さて、いったいどこから訂正したらよいか・・・。

 それよりなにより、この一文を書いた奇特な人は、いったいどんな資料を参考にして書いたのか、なぞは深まるばかりである。

 では、この文章に関して、ぱっと見てあきらかな誤りや真偽不明の内容部分を列挙し、それぞれに疑問や訂正を加えてみよう。


1.「江戸時代後期の剣客・岡田総右衛門奇良」←正しくは、流祖の名は「惣」右衛門。
2.「心形刀流伊庭軍兵衛に剣を学んだ後」←正しくは、流祖の師は大河原右膳。
3.「その極意は「断脚」と言う相手の脛を払う剣技」←断脚之術は当流技法の根幹のひとつではあるが、いわゆる「極意」ではない。
4.「他流派は悉く敗北したと言われている」←出典は?
5.「二代目月島左馬之介」←この人、誰?
6.「その不格好さを嫌われて」←出典は?
7.「衰退してしまい」←、むしろ明治にかけて、ますます興隆してるんですが・・・。
8.「お玉ヶ池を立ち退いて神楽坂の筑土八幡前に道場を移す事となった」←出典は?
9.「恥も外聞も無くひたすら相手の臑ばかり切りつける」←出典を!
10.「実戦剣術を求めるやくざ等には根強い人気が残り←出典・・・・・・は?
11.「例えば清水次郎長等はこの流派である」←・・・・オネガイシマス、出典を?
12.「此の流派の奥義は相手の臑を払う「跳び斬り」」←脚斬りは当流の根幹技法だが、「奥義」ではない。
13.「使用する刀も定寸より二寸長く」←嗚呼、出典・・・・・・?
14.「其の分に諸刃の刃を備えた特殊な剣を使い」←使いません。
15.「刃を返さずに切り返す」←切り返しません。

 ・・・・・・、ふう。

 要するにこの記事は、そのほとんどが間違い、あるいは根拠不明の伝聞に基づいて書かれたもののように思われる。

 もちろん、私は柳剛流に関するあらゆる資料を確認しているわけではないので、上記記事の出典不明の部分は、どこかに根拠となる質の高い資料があるのかもしれない。

 そうれあれば、ぜひ確認してみたいと思う。

 たとえば、清水の次郎長が柳剛流をたしなんでいたという記述は、私も以前、あるところで目にしたことがあり、いずれ真偽の確認をしてみたいなと思っていたテーマではある。

 しかし、それ以外の出典不明の部分については、ほとんど根拠のない伝聞なのではないかというのが私の正直な感想だ。


 なにはともあれ、記録となる文章を書くときには、出典や引用・参考文献はしっかり明記しようぜ。ほんと、たのむよマジで。

 ■参考文献
 『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』森田栄/日本剣道史編纂所
 『幸手剣術古武道史』辻淳/剣術流派調査研究会
 『戸田剣術古武道史』辻淳/剣術流派調査研究会

 (了)
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柳剛流の名称の由来についての疑問(その5)/(柳剛流)
- 2016/02/23(Tue) -
 さて、柳剛流の名称と「根をしめて~」の古歌との関係の話がようやくひと段落したところで、実際に根拠のある流名の由来について、いくつか述べておきたい。

 現在、流祖・岡田惣右衛門奇良の顕彰碑は、石巻、幸手、角田と全国で3ヶ所確認されている。このうち石巻と角田の石碑には、それぞれ流名の由来が記されている。

 曰く、

 「一家之法名曰柳剛流善以剛柔不可偏廃也(「柳剛流祖岡田先生之碑」。嘉永元(1848)年建立。宮城県石巻市)

 「一家法名曰柳剛流易所謂柔能制剛是猶柳枝之向風欲撓不撓欲断不断也」(「柳剛流開祖岡田先生之碑」。明治35(1902)年建立。宮城県角田市)


  流祖の没後22年目に建立された嘉永元年の石巻の碑文を意訳すれば、「剛柔の偏りを廃して柳剛流と称した」という、シンプルなものであろう。

 これに対して、それからさらに半世紀後に建立された角田の碑文を意訳すれば、「易経のいうところの柔よく剛を制すのごとく、柳の枝の風に向かい、よくしなり折れぬことをもって柳剛流と称した」ということになろう。

 なお蛇足ながら、『易経(周易)』を人生哲学の最高峰として長年学んでいる者として一言訂正しておくと、「柔能制剛」という故事の正しい出典は、易ではなく『三略』である。さらにその元は『老子』にある。『易経』そのものには、「柔能く剛を制する」といった具体的な文言はない。

 また、武州系の柳剛流師範家であった岡安家には、製作年月日不明の「柳剛流岡田先生画像記」が伝来しており、ここにも角田の碑文とほぼ同じ由来が記されている。


 それでは当流の伝書類には、流儀名の由来はどのように書かれているのだろうか?

 まず、流祖直筆の貴重な伝書である『石川家文書』の目録や免許には、「当流者元来心刀形流也」とした上で、次のように記されている。

 「有志深此術数年修行諸国試廣諸流以得其妙所故始而號柳剛流」(柳剛流剣術目録)

 「予此術有志年久諸国修行而始得其妙處也故今改号柳剛流」(柳剛流剣術免許巻)


 このように流祖直筆の伝書には、特段、流儀名の由来は記されておらず、単に「諸国を修行して得るところがあったので、柳剛流と名を改めた」と記すのみである。

 また柳剛流正統二代目である、角田伝の一條左馬輔が書いた切紙や目録、免許など複数の伝書類にも、私が確認したことのあるものには、流儀名の由来に関する具体的な記述は特になかった。

 一方で武州系第三世代の有力師範家である岡安派の伝書には、流儀名の由来がかなり具体的に書かれている。

 「一日泛舟於江水乍見柳枝舞風頓然有所悟躍然曰我術亦与柳枝同一理耳蓋進而未嘗進也退而未嘗退也、一動一静来去都隋風而無所自礙嗚呼陰陽剛柔之理於是乎尽矣是即我流名所由而起也」(明治33[1900]年、岡安派免許)

 「有感柳枝弱而能強也」(大正11[1922]年、岡安派切紙)

 このように流儀名の由来について、もっともイマジネーション豊かに記しているのが岡安派の免許の特徴であり、上記の免許のほか、明治17年、明治35年発行の他の免許でも、ほとんど同じ記述がある。

 それにしても、「ある日、舟を浮かべて柳の枝が風に舞うのを見て、云々」と情景描写をし、「嗚呼!」と感嘆まで記してしまうというのは、いささか情緒過多なのではなかろうか(苦笑)。

 一方で、同じく武州系第三世代の有力な師範家であった岡田十内系の免許や目録類には、こうした流儀名の由来に関する具体的・情緒的な記述は見当たらないようである。


 以上、顕彰碑や伝書などの資料を総合的に勘案すると、最も妥当な当流の流儀名の由来は、

 「柳の枝の風に折れぬ柔能く剛を制するの心を以って柳剛流と号し」
               (森田栄先生著『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』より)


 ということになろう。

 その上で、「根をしめて~」云々の古歌や、「ある日、舟をうかべて~」などといったというディティールに関する話は、後年に付け加えられたものではないかと思われる。


 なお参考までに、埼玉大学の山本邦夫教授や、その後を受け継がれ埼玉県の武術史を調査・研究された同大の大保木輝雄教授は、当流の流儀名に関して、母体となった心形刀流にある二刀の一手「柳雪刀」の教えが関連しているのでないかという指摘をしている。

 「柳雪刀」は仕太刀が正二刀に構え、打太刀が我の左の小刀を打ち落とした刹那、踏み込んで右手の大刀にて斬るという業であり、松浦静山はその著書『剣攷』で、「これ必勝の機にして其刀の隕る柳上の雪狂風の之を払ふに似たり。知る可し。先哲の名を以って形容するを」と記している。

       *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  

 柳剛流の流儀名の由来について、5回にわたって考察してきた。

 このテーマについては、より正確を期するために角田伝や武州伝はもちろん、西国に伝播した紀州藩田丸伝、あるいはその他の地域にもあるであろう伝書や碑文、奉納額その他の記述を、さらに調査する必要があるだろう。

 が、とりあえずは今回をもって、本ブログでの私の考察はひと区切りとしたい。


 ■引用・参考文献
 『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』森田栄/日本剣道史編纂所
 『幸手剣術古武道史』辻淳/剣術流派調査研究会
 『綱嶋家の剣術について』山本邦夫/浦和市郷土博物館研究調査報告書第七集
 『浦和における柳剛流剣術』山本邦夫/浦和市史研究第二号
 『埼玉県の柳剛流-その1-』大保木輝雄/埼玉大学紀要 体育学篇第14巻
 『一條家系譜探訪 柳剛流剣術』一條昭雄/私家版
 『角田地方と柳剛流剣術-郷土が誇る武とその心-』南部修哉/私家版
 『深井家文書』

 (了)
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本部稽古/(武術・武道)
- 2016/02/22(Mon) -
 昨日は、水月塾本部での稽古であった。

 小佐野先生より、柳剛流と水月塾制定日本柔術のご指導いただく。

 稽古後のお楽しみは、小宴。

 師と明石支部代表の西躰さんとともに、極上の馬モツとしぼりたて原酒(これがまた、実に旨い!)をいただきながら、武術談義に花が咲く。

 稽古はもとより、こうした語らいの中に、たくさんの学びがある。

160221_富士山
▲本部道場付近にある展望地より、霊峰・富士を望む

 (了)
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心の叫び/(身辺雑記)
- 2016/02/20(Sat) -
 仕事中、ホチキスの針がなくなると、「アパーム!!!! 弾もってこい!!!!」と心の中で叫ぶのは私だけだろうか・・・・・・。

1602_アパーム

 (おしまい)
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柳剛流の名称の由来についての疑問(その4)/(柳剛流)
- 2016/02/18(Thu) -
 さて、長々と書いてきた「柳剛流の名称の由来についての疑問」は、今回でとりあえずひと区切りつけたいと思うのだが、どうなることやら・・・・・。


 まず、「柳剛流の流儀名の由来について、 『根をしめて 風にまかする柳見よ なびく枝には 雪折れもなし』という古歌から付けられたという、真偽の定かでない説が流布している」という件について。

 前回は、昭和48(1973)年発行の森田栄先生著『日本剣道史第十号 柳剛流研究(その1)』にある記述を綿谷雪氏らが参照し、『武芸流派大辞典(増補改訂版)』に掲載。それによって、この話が一般に流布したのではないかという推論を行い、その確認のためには、まずは『武芸流派大辞典』の初版本を確認する必要があると述べた。

 そして先日、本ブログを読んでくださっている、さる武術関係の方が、『武芸流派大辞典』初版本についての情報を寄せてくださり、それにより上記の推論が相当程度補強された。


 さっそく、『武芸流派大辞典』初版本の記述と、増補改訂版の記述を比較していただきたい。

■初版本
柳剛流(剣、薙刀、居合、柔、棒、杖)
祖は岡田総右衛門希良である。一に惣右衛門、または十内とも称した。名は奇良ともある。武州葛飾郡惣新田の人。はじめ心形刀流を伊庭軍兵衛直保に学び、各地を遍歴して諸流の玄妙を知り、臑を斬ること(跳び斬り)を始めて、一流をなした。幕府親藩一橋家の師範となり、また神田お玉ヶ池に道場を建てた。文政九年九月二十四日死、六十二歳。牛込の幸国寺に葬る。陸前角田郡角田の石川家演武場師範泉富次らが、遺徳碑を角田長泉寺前に建てた(仙台大人名辞典・松坂と剣道)。仙台地方・三河・伊勢等にひろくおこなわれた。(以下、系図)

■増補改訂版
柳剛流 (剣、薙刀、居合、柔、棒、杖 )
祖は岡田総右衛門寄良(奇良・希良)。一に総右衛門、十内と称す。明和二年三月十五日、武州葛飾郡惣新田に生まれた。はじめ新形刀流を伊庭軍兵衛真保(※瀬沼注)の門人大河原有膳有曲に学び、各地を遍歴して三和無敵流四代広沢 源右衛門長喜に従学し、さらに当流( 山本流 )を学び、相手の臑(すね)を斬ること(跳び斬りという)をはじめて一流を創始した。古歌の (根をしめて風にまかする柳見よ、なびく技には雪折れもなし)の意によって柳剛流と号した。幕府の親藩(御三卿の一)一橋家の師範となり、また神田お玉ガ池に道場を建てた。 文政九年九月二十四日死去、六十三歳。  牛込の幸国寺に葬る。陸前角田郡の一条馬之介信忠が、二代目を継いで岡田姓を名乗った。作馬之介は磐城国伊具郡桜村の人。 はじめ同郡角田の館善内に学び、次いで岡田総右衛門に柳剛流を学んだ。 柳剛流二代目を 継いでから帰郷し、角田の石川家演武場師範泉富次らが、遺徳碑を角田長泉寺の前に建てている (「仙台大人名辞書」 「松坂と剣道」)。 仙台他方・三河・伊勢等にひろくおこなわれ、私が小年時代に神戸市で学んだ柳剛流などは、播州竜野藩伝の終未期のもので、もはや脚防具も用いず脚を薙ぐこ ともなかったけれど、竹刀で相手の脚元の道場の床板を、ひどい音を立てて乱打し、相手の動転に乗じて直ぐに入身にとびこむような荒っぽいやり方であった。

※この増補改訂版の記述は、webで拾ったものなので、入力ミスであろうと思うが、正しくは「真保」ではなく「直保」である。 



 このように、初版本では「根をしめて~」云々の話は記載されていないのが、増補改訂版ではこの逸話が加えられている。

 また、増補改訂版では、そのほかにも、流祖の名前、心形刀流のほか三和無敵流や当流(山本流)を学んだこと、二代目を一條左馬輔が継承して岡田姓を名乗ったこと、さらに綿谷雪氏(山田忠史氏?)自身の体験として龍野藩伝柳剛流の逸話などが加筆されている。

 なお、今回情報を提供してくださった方のお話では、『武芸流派大辞典』の前身となった昭和38年発行の『武芸流派辞典』でも、柳剛流に関する記述は『武芸流派大辞典』初版本における最初の括弧内の「柔」がないだけで、その他は同じ文章であるという。


 ここでたいへん重要なのは、「根をしめて~」の逸話だけでなく、流祖の師に関する記述が初版本と増補改訂版で変わっていることだ。

 初版本では、流祖が心形刀流を学んだのは「伊庭軍兵衛直保」となっている。しかしこれが、増補改訂版では伊庭の門人である「大河原有膳有曲」と修正されている。

 古くから流祖の師は、さまざまな資料において伊庭軍兵衛直保とされていた。しかしこれは誤りであり、正しくはその門人である大河原有膳有曲であったという事実を、調査研究によって最初に指摘したのが森田栄先生であり、その情報を掲載したのが『日本剣道史第十号 柳剛流研究(その1)』なのである。

 その上で、それぞれの資料の発行年を比較すると、次のようになる。

1.『武芸流派辞典』/昭和38(1960)年
2.『武芸流派大辞典』初版本/昭和44(1969)年
3.『日本剣道史第十号 柳剛流研究(その1)』昭和48(1973)年
4.『武芸流派大辞典』増補改訂版/昭和53(1978)年

 こうした各資料の発行年を勘案した上で、『武芸流派大辞典』の増補改訂版において、流祖の師についての誤りが正しく修正されている点からも、綿谷氏らが森田先生の記述を参考にして加筆をしたことが強く推察されるのである。


 というわけで、私の現時点での推論の帰結はやはり、

 柳剛流の流儀名の由来について、 「根をしめて 風にまかする柳見よ なびく枝には 雪折れもなし」という古歌から付けられたという、真偽の定かでない話が流布している。これは、『日本剣道史第十号 柳剛流研究(その1)』の記述が始まりであり、それに基づいてこの話を記載した『武芸流派大辞典(増補改訂版)』によって、広く知られるようになった。

 ということになる。

 あとは、この件について、森田先生はいまだご健勝で活躍されているので、直接先生に質問をすることで結論がつくのであろうが・・・・・・。

 しかし武道史研究の大先達であり、すでにかなりご高齢でもある先生に、

「柳剛流の流儀名の由来について、 『根をしめて 風にまかする柳見よ なびく枝には 雪折れもなし』という古歌から付けられたという、真偽の定かでない話が流布しています。これは先生が『日本剣道史第十号 柳剛流研究(その1)』に、そのように書かれたために広がってしまったのだと思うのですが、いかがでしょう?」

 などと詰問するというのは、いささか憚られるのである。

 このように感じてしまうのは、私が柳剛流の研究者ではなく実践者であること、つまり学究の徒ではなく修行人であるゆえの限界かもしれない。

 長幼の序というのは、なかなかハードルが高いやね。

 というわけで、「根をしめて~」の件についは、ほぼこのような経緯だったのであろうということで、考察はひと区切りをつけようかと思う。


 それにしても結局今回も、最も信頼できる流儀名の伝承についての話題に到達することができず・・・・・・。

 次回こそ、最終回にしたいものだ。

 なんてったって、この一文を書くだけでも、調べ物の時間も含めるとえらい時間と手間がかかるのである。そんな暇があったらカネになる原稿を5~6本も書いたほうが、老いて寝たきりの両親の介護や難病の治療費の足しになるってなもんだ。

 ま、とかなんとかいいながら、自分が好きでやってるんだから、しょうがないやね(苦笑)。

 (了)
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閑話にて/(身辺雑記)
- 2016/02/16(Tue) -
 「柳剛流の名称の由来についての疑問」は、次回の「その4」で終了する予定だが、その前にちょっと休憩。

 今日は(正確には昨日ですな・・・)、終日、伝票とにらめっこをして、確定申告の書類作りに忙殺されていた。

 書類が完成し、軽く晩酌をしてから「ウォーキングデッド シーズン6」の第9話を鑑賞。その後、神道無念流の立居合と、柳剛流の備之伝・備フセギ伝の稽古を少々。

 すると、すでに日付が変わって久しく、これから「その4」を書く気力を喪失した次第・・・・・・。

     *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  * 

 それにしても、昨年の売り上げは大幅減収であった。

 まあ、定期ものの新聞記事や、某県大手自動車販売店の広報誌など、去年は結構大口の仕事が立て続けに終わってしまったり、なにより出版業界はすでに斜陽ゆえ、年々原稿料が右肩下がりとなっている影響も大きい。

 その割に、仕事が暇だったという感覚が無いどころか、むしろ忙しかった感が強いのは、単価が下がった分、原稿の数をこなさなければならないからである。

 20年前は1ページ1万2000円だった原稿が、いまや3000円とか4000円で依頼が来る時代なのだ。いやホント、マジですぜ。

 過日、某有名出版社の経営トップのおひとりと話をする機会があったのだが、その人からも「もう紙(の出版)は、終わりですね・・・」という言葉が出たほどだ。

 とはいえ、すでに四半世紀もこの仕事をしてきて、いまさら異業種へ転職するというわけにもいかないだろうし、そもそもフリーの取材記者など、これほどツブシの利かない商売もないだろうしな(苦笑)。

 沈み行く船の中でハラを据えて、ひとつの産業の終焉を見据えていくしかあるまい。

     *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 先日、能登出張のおり、小さな輪島塗りの片口を買った。

 私は緑色がたいへん好きで、着物をはじめ身の回りの品物の多くを、緑系の色でそろえている。

 なんてったって、翠月庵ですから(笑)。

 逆に赤をはじめとした暖色系の色はあまり好きではなく、身の回りにそういう色合いの品物はほとんどない。

 ただし、漆器と刀の鞘だけは別で、これらについては朱色のものが大好きだ。

 朱という色は、日本では縄文時代から使われている、たいへん古い色なのだという。 「血」を思わせるその色合いに、古代人はなにか呪術的な力を感じていたのかもしれない。

 さてこの片口、酒器として使うにはいささか小ぶりなので、酒盗や雲丹など珍味を盛り込む器として使おうと思う。

 梅が咲いて、あとひと月ちょっとすれば、桜だねえ・・・・・・。

1602_片口
▲最近は横着をして携帯のカメラでばかり写真を撮っているので、たまにはまじめに一眼レフのデジカメにて。谷崎の『陰影礼賛』を意識して(笑)、ストロボはたかず地灯りのみで撮ってみた。もうちょっとアンダーでもよかったか

 (おしまい)
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柳剛流の名称の由来についての疑問(その3)/(柳剛流)
- 2016/02/15(Mon) -
 このブログの記述は、完成された論文や最終調査報告ではなく、そのときそのときの論考や調査・研究で感じたこと・分かったことをつらつらと書いている、ある意味で「速報集」「調査・考察メモ」的なものだ。

 そういう意味で、ここに書いたことが完全無欠の定説であるなどとは私自身まったく思っていないし、私の記述に誤りや勘違い、勇み足も少なくないかと思う。それらに関しては、間違いが分かればそのつど明確に訂正してきたし、今後もそのように対応する所存だ。

 その上で柳剛流に関しては、実践者として鍛錬を続けつつ、いずれは実技を継承する者の立場から、流史や体系などについてより正しい情報を取りまとめ、web上で公開するなり、あるいは私家版でかまわないので書物としてまとめ、国会図書館に収めたいと考えている。

 なにしろ、いまだに流祖・岡田惣右衛門奇良と岡田十内叙吉が混同されていたり、「返す刃で脛を薙ぐ」とか、「突いて突いて、突きまくる」とか、棒術も伝承されているといった、当流に関する誤った情報が広く流布し、一歩間違えればそれが定説になりかねないからだ。

 また柳剛流に関しては、「下賎な百姓剣法」や「卑怯・下劣な技」などといったネガティブなイメージも色濃く、そういうものもできるだけ啓発していければと考えている。

 というような、私の所存的な書き出しでなぜ今回の記事がはじまるのか・・・・? ま、ある種のイイワケです、はい。



 前回記事にて私は、

 「柳剛流の流儀名の由来について、 『根をしめて 風にまかする柳見よ なびく枝には 雪折れもなし』という古歌から付けられたという話が流布している。これは、『武芸流派大辞典』の記述に基づいた説であろう」と書き、その上で 「では綿t谷氏らは、この話を誰からどのように聞いたのか?」

 と疑問を呈した。

 さてそこで、今日も今日とて、日曜日だというのに口唇ヘルペスの治療やニキビの予防法などといった生業のための雑文を書きつつ、休憩中につらつらと柳剛流に関する資料を読んでいた。

 公刊されている柳剛流のまとまった資料としてもっとも古く、現代の柳剛流研究の先駆けとなったのは、本ブログでもたびたび紹介している森田栄先生著『日本剣道史第十号 柳剛流研究(その1)』である。

 本書は昭和48(1973)年に発行されたもので、その後の山本邦夫教授による柳剛流研究も、あるいは辻淳先生の武州系柳剛流に関する膨大かつ詳細な調査報告群にしても、この『日本剣道史第十号 柳剛流研究(その1)』が大きな礎になったことは間違いない。私も当然ながら、本書は常に手元に置いて、折を見て読むようにしている。

 当然今回、「柳剛流の名称の由来についての疑問」というテーマで一文をまとめてみようと思った際、『日本剣道史第十号 柳剛流研究(その1)』にも目を通しておいた。

 同書P3には、

 「(流旨)柳の枝の風に折れぬ柔能く剛を制するの心をもって柳剛流と号し、変化自在、殊に脚を断つ術を独創す」

 と記されている。

 この一文は、後で詳しく紹介するが仙台藩角田伝柳剛流が伝承された宮城県角田市にある長泉寺にて、明治35(1902)年に建てられた「柳剛流開祖岡田先生之碑」の文言に基づいた流名の由来であり、、他の石碑や古文書の記述などと比較しても、もっとも妥当で信憑性のある当流流名の由来といえるものだ。

 この角田の石碑をはじめ、石巻にある嘉永元(1848)年建立の「柳剛流祖岡田先生之碑」、武州系柳剛流師範家の大家・岡安家に伝えられる製作年月日不明の「柳剛流岡田先生画像記」、武州系の一部伝書でも、当流の流儀名の由来は、同様の内容が記されている。

 一方で、「根をしめて~」の古歌から云々という記述は、上記の資料その他には、まったく見当たらないのだ。


 という点から今回の一連の記事を書きはじめ、いまのところ「根をしめて~」の話は、『武芸流派大辞典』の綿谷氏らの言説がはじまりではないか? という仮説にいたったというのが、前回記事の趣旨である。

 そうなると、綿谷氏(山田忠史氏?)が稽古した竜野藩伝柳剛流に関する資料を当たらないと、このあたりの真偽や根拠は分からないなあなどと思いつつ、本日も森田先生の『日本剣道史第十号 柳剛流研究(その1)』を、なんということもなく斜め読みしていた。

 するとだ。

 同書のP4に、以下のような記述があるではないか!!


 「そして、古歌の、根をしめて風にまかする柳みよ、靡く枝には雪折れもなし、という柳の枝の柔を以って風や雪に折れぬ、即ち柳の柔にして剛なる心をとって柳剛流と号したものと思われます」


 なんとまあ、最初からの見落としかよ・・・・・・。

 この『日本剣道史第十号 柳剛流研究(その1)』の発行は昭和48(1973)年であり、先に引用した『武芸流派大辞典』の増補改訂版の発行が昭和53(1978)年。そして、『武芸流派大辞典』の初版は昭和44(1969)年である。

 ということは、『武芸流派大辞典』の初版に、「根をしめて~」云々の話が掲載されていなければ、この件の本ボシは、『日本剣道史第十号 柳剛流研究(その1)』という可能性が、きわめて濃厚になる。

 おまけに本書は、以前本ブログでも指摘したけれど、これもやはり柳剛流に関する典型的なデマというか間違いのひとつである、「脚を薙いで、避けられたらそのまま刀の背の刃で斬る」という説の出所であり、その他にも、武術の非実践者ゆえの誤謬が少なくない資料なので、ある意味で要注意でもあるのだ。


 というわけで、またまた訂正すると、

 柳剛流の流儀名の由来について、 「根をしめて 風にまかする柳見よ なびく枝には 雪折れもなし」という古歌から付けられたという話が流布している。これは、『日本剣道史第十号 柳剛流研究(その1)』の記述に基づいた説であろう。

 というのが、現時点での有力な仮説である。

 さてこうなると、『武芸流派大辞典』の初版の内容を、なんとしても確認しなければならない。

 いつ国会図書館に行こうかねえ・・・・・・。

 (つづく)
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柳剛流の名称の由来についての疑問(その2)/(柳剛流)
- 2016/02/14(Sun) -
 柳剛流という流儀名について、根拠のある由来はどこにあり、それはどのようなものなのだろうか?

 それを示そうと思うのだけれど、その前に、しつこいようだがもう一度、山本教授の文言に立ち戻ってみたい。

 なぜなら、そこに私自身、違和感があるからである。

 前回の記事では、一部文章を省略したのだが、以下はセンテンス全文を引用しよう。


 惣右衛門奇良が、弟子に出した印可の目録には
 「根をしめて 風にまかする柳見よ
    なびく枝には 雪折れもなし」
 の古歌が必ずといってよいほど記載されているが、ここからヒントを得て流名としたともいわれているが、いずれにしても、臨機応変の太刀遣いを旨とし「外剛内柔」の「躰」を形成することにあったといえよう。
  「浦和における柳剛流剣術」(昭和62〔1987〕年)より


 惣右衛門奇良が、門弟たちに与えた印可の巻物中に、
古歌
  「根をしめて 風にまかする柳見よ
    なびく枝には 雪折れもなし」
を記述しているが。この古歌をヒントを得て「柳剛流」と名づけたといわれているが、その意味は臨機応変なる太刀使いを旨とし、「外剛内柔」の「躰」を形成することにあったと考えられる。
 「綱嶋家の剣術について」(昭和55〔1980〕年)より



 さて、ここで重要なのは、山本教授はいずれの記述でも、柳剛流の名称について、「根をしめて~」の古歌にヒントを得てつけられた「といわれている」と記述している。

 つまり、この古歌が流儀名の元となったというのは、あくまでも伝聞であるということであり、山本教授自身の見立て・意見ではないということである。

 武州系の伝書に、流祖直伝の伝書がほとんどなく、それを含めても、私が確認した伝書類には「根をしめて~」の古歌の掲載はないという点は揺るがないが、上記のように山本教授の文言をよく読むと、そもそも「根をしめて~」の古歌が、当流の名称の起源であるという説は、山本教授自身の説ではなく、それ以外の誰かの説であり、あくまでも山本教授はそのような伝聞があると書いているということになる。

 そういう意味で、前回記事で、「おそらくこれは、埼玉の武道史を研究されていた故山本邦夫埼玉大学教授の記述に基づいた説であろう」と書いてしまったのは、私の勇み足であった。

 ではそもそも、「根をしめて~」の古歌が、柳剛流の名称の起源であると指摘したのは、いったい誰なのだろうか? 山本教授は、すでに鬼籍に入られて久しく、それを聞くこともできない・・・。

 そんなこんなで、どうしたものかとwebをつらつら見ていると、ふとある記事が目についた。

 それは言わずと知れた、綿谷雪・山田忠史編集による『武芸流派大辞典』の一文であった。以下に引用しよう。


柳剛流 (剣、薙刀、居合、柔、棒、杖 )
祖は岡田総右衛門寄良(奇良・希良)。一に総右衛門、十内と称す。明和二年三月十五日、武州葛飾郡惣新田に生まれた。はじめ新形刀流を伊庭軍兵衛真保の門人大河原有膳有曲に学び、各地を遍歴して三和無敵流四代広沢 源右衛門長喜に従学し、さらに当流( 山本流 )を学び、相手の臑(すね)を斬ること(跳び斬りという)をはじめて一流を創始した。古歌の (根をしめて風にまかする柳見よ、なびく技には雪折れもなし)の意によって柳剛流と号した。幕府の親藩(御三卿の一)一橋家の師範となり、また神田お玉ガ池に道場を建てた。 文政九年九月二十四日死去、六十三歳。  牛込の幸国寺に葬る。陸前角田郡の一条馬之介信忠が、二代目を継いで岡田姓を名乗った。作馬之介は磐城国伊具郡桜村の人。 はじめ同郡角田の館善内に学び、次いで岡田総右衛門に柳剛流を学んだ。 柳剛流二代目を 継いでから帰郷し、角田の石川家演武場師範泉富次らが、遺徳碑を角田長泉寺の前に建てている (「仙台大人名辞書」 「松坂と剣道」)。 仙台他方・三河・伊勢等にひろくおこなわれ、私が小年時代に神戸市で学んだ柳剛流などは、播州竜野藩伝の終未期のもので、もはや脚防具も用いず脚を薙ぐこ ともなかったけれど、竹刀で相手の脚元の道場の床板を、ひどい音を立てて乱打し、相手の動転に乗じて直ぐに入身にとびこむような荒っぽいやり方であった。
(武芸流派大辞典 -昭和五十三年- 1978 Version - p. 911-912).webより引用



 武術史考察の超初歩的資料たる、『武芸流派大辞典』については、実は私はまったく盲点であった。

 というもの、この書籍、数年前に知人に貸したきり、その人と交流がなくなり本書の行方もそのままになっていたのである。しかも、この『武芸流派大辞典』、時代背景を考えれば労作だとは思うのだが、正直言って誤謬や誤記が多く、公証の根拠としては、正直当てにならないと思っていたこともあり、本書の柳剛流に関する記述、いままでまったく読んだことがなかったのである。

 ゆえに、上記の引用は、ネットで拾った引用の孫引きのため、もしかしたら、引用間違いの可能性もあるのだが、とりあえず今手元に原籍がないので、以下、webで拾った孫引き引用の内容を元に論考する。


 思うに、この『武芸流派大辞典』の増補改訂版の発行が昭和53(1978)年であり、冒頭引用した山本教授の 「浦和における柳剛流剣術」の発表が昭和62(1987)年、 「綱嶋家の剣術について」が昭和55(1980)年の発表であることから、「根をしめて~」の古歌が、柳剛流の名称の由来であるという言説の発端は、おそらく『武芸流派大辞典』の記述によるものなのであろう。

 となると、

 柳剛流の流儀名の由来について、 「根をしめて 風にまかする柳見よ なびく枝には 雪折れもなし」という古歌から付けられたという話が流布している。これは、『武芸流派大辞典』の記述に基づいた説であろう。

 というのが、より正確な論考となるであろう。

 それにしても、この『武芸流派大辞典』の柳剛流に関する記述、ひどいもんである(苦笑)。

 「根をしめて~」の古歌の話以前に、流祖と岡田十内を混同させているのは、言語道断である。また、名前の「惣」という字が間違っている。さらに流儀の実技に「棒」が加えられているが、柳剛流には棒術は無い。また、当流二代目の一條左馬輔の名前も、一部誤記されていると、なんだかなあという感じである。

 しかし一方で、編者自身が稽古したという、龍野藩伝柳剛流に関する記述は興味深い。もっとも、当流の業の根幹ともいえる脚斬りが、ここまで形骸化していたということは、同氏が学んだ時点での竜野藩伝柳剛流は、現代剣道に飲み込まれ流祖が伝えた当流の根幹をすでに失って久しかったということが見て取れる。

 いずれにしても、柳剛流の流儀名が、「根をしめて~」の古歌に由来するという話は、当流の履歴を伝える石碑や伝書には(私が確認した限り)まったく記載がない点から、『武芸流派大辞典』の記述がその説の始まりであるという可能性が極めて高いだろう。

 では綿谷氏らは、この話を誰からどのように聞いたのか?

 これは、たとえば龍野藩伝の柳剛流の伝書などが発見され、そこにそのような記述があれば根拠となるのだろうが・・・・・・。

 (つづく)
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柳剛流の流儀名由来についての疑問(その1)/(柳剛流)
- 2016/02/12(Fri) -
 柳剛流の流儀名の由来について、 「根をしめて 風にまかする柳見よ なびく枝には 雪折れもなし」という古歌から付けられたという話が流布している。

 おそらくこれは、埼玉の武道史を研究されていた故山本邦夫埼玉大学教授の記述に基づいた説であろう。

 たとえば山本教授は、以下のような論考をしている。



 惣右衛門奇良が、弟子に出した印可の目録には
  「根をしめて 風にまかする柳見よ
    なびく枝には 雪折れもなし」
 の古歌が必ずといってよいほど記載されているが、ここからヒントを得て流名としたともいわれているが、(以下略)
  「浦和における柳剛流剣術」(昭和62〔1987〕年)より


 惣右衛門奇良が、門弟たちに与えた印可の巻物中に、
古歌
  「根をしめて 風にまかする柳見よ
    なびく枝には 雪折れもなし」
を記述しているが。この古歌をヒントを得て「柳剛流」と名づけたといわれているが、(以下略)
 「綱嶋家の剣術について」(昭和55〔1980〕年)より



 また、今手元にないのだが、確か『埼玉武芸帳』や『埼玉剣客列伝』といった山本教授の代表的な著作でも、同じことが書かれていたと記憶する。

 さて、ここで私は疑問なのだが、これまで私が確認した柳剛流の伝書では、切紙・目録・免許、いずれの伝書にも、この 「根をしめて 風にまかする柳見よ なびく枝には 雪折れもなし」という武道歌は、ひとつも記載されていないのである。

 たとえば、流祖直筆の目録および免許の伝書として知られる、石川家に伝えられた伝書には、この武道歌はどちらにも記載されていない。

 ところでここで1つ。

 以前、私は本ブログにて、「現在、流祖直筆の伝書は、石川家にある宮前華表太が伝えた目録と免許しか確認されていない」と書いたが、これは訂正しておきたい。

 本日、『幸手剣術古武道史』や『戸田剣術古武道史』の著者で、武州系柳剛流研究の第一人者である剣術史家の辻淳先生とお話をすることができたのだが、その際、先生にこの件を確認したところ、「石川家の資料以外にも、流祖直筆の伝書はあるだろう」とのことであった。

 ただし先生自身は、石川家の伝書以外、流祖直筆の伝書は「見たことがない」とのことであった。

 というわけで正しくは、

 「現在、流祖直筆の伝書は、石川家にある宮前華表太が伝えた目録と免許以外、ほとんど確認されていない」

 ということになろう。

 ついては流祖直筆の伝書について、上記の石川家文書以外に見たことがある方、あるいは何かご存知の方は、ご教授いただけるとうれしく存じます。


 さて、いずれにしても疑問なのは、「根をしめて~」の武道歌の記載についてである。

 山本教授の言を正しいとすると、石川家伝来の伝書以外に、複数の流祖直筆の伝書があり、そこには必ず「根をしめて~」の古歌が記載されているということになる。

 ところが、その山本教授の先行研究を受けて、武州一帯の柳剛流伝書を最も多く探し確認しているであろう辻先生が、石川家の資料以外、流祖直筆の伝書を見たことがない。

 そしてまた、石川家資料の伝書には「根をしめて~」の武道歌は、一切記載されていない・・・。

 はたして山本教授は、どこで「根をしめて~」の武道歌が記載されている、流祖直筆の伝書を見たのであろうか?

 しかも「必ずといってよいほど記載されている」ということは、その古歌が記載されている流祖直筆の伝書はひとつではなく、複数存在するということになるのだが・・・?


 なおちなみに、流祖以降、第二世代、第三世代の柳剛流師範家が書いた伝書類には、私が確認できた範囲内では、「根をしめて~」の武道歌を掲載しているものは、存在しないのである。

 当然ながら、私がこれまで確認している伝書の数はごく限られたものだ。ざっと数えると切紙が8つ、目録が10、免許が6つ程度なので、他に「根をしめて~」の武道歌が記載された柳剛流の伝書があることは否定できない。

 けれど正直、「あるのかなあ・・・?」と疑問を強くしている。

 そして、この「根をしめて~」の武道歌が記載された伝書がないのだとすれば、そもそも柳剛流の流儀名が、この武道歌をヒントに付けられたという説そのものが破綻することになる。

 それでは柳剛流という流儀名について、根拠のある由来はどこにあり、それはどのようなものなのだろうか?

 (つづく)
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飲み屋における「位取り」と「拍子」の重要性/(身辺雑記)
- 2016/02/11(Thu) -
 昨日は、日帰りで能登まで行って、口腔ケアに関するインタビューをしてきた。

 北陸新幹線に初めて乗ったのだが、いやまったく便利なもんだね。

 これまでは金沢や富山で取材となると、羽田から飛行機でのアクセスがメインだったのだが、北陸新幹線のおかげで拙宅の最寄り駅から、なんと乗り換え1回で金沢に着いちまうのである。

 長生きはするもんだ。


 七尾の病院で16時から所要1時間のインタビューを終え、金沢駅で1時間ほど乗り換え待ちの時間があることから、簡単に夕食にしようと駅中にある居酒屋に入る。

 時間も限られているので、ちゃちゃっと済まそうとカウンターに座り、手取川の生と寒鰤の刺身、地魚のしんじょう揚げ、ノドグロのへしこを頼む。

 すぐに手取川とガラスのぐい飲みが出てくるが、それだけ・・・。ここは突き出しのない店のようだ。

 ま、最近は突き出しはいらないなどという、風流を解さない酒飲みや下戸の客も少なくないと聞くのでしかたがないが、オーセンティックな酒呑みとしては、まずは突き出しでその店の料理のレベルを吟味しつつ、とりあえず出された酒を飲みながら料理の到着を待つというのが、本来の酒呑みの王道であろう。

 そういえば市谷に「かど」という割烹があるのだが、ここに入ったら突き出しに干し柿の白和えを出してきて、これがまた獺祭の大吟醸に驚くほどマッチして、「これは、うまい!」と唸ったものだ。


 さて、カウンターで突き出しもなく、さりとて頼んですぐに料理が出てくるものでもなかろうから、やむをえずすきっ腹のまま手取川をちびちびと飲んでいるのだが、待てど暮らせど料理が出てこない。

 店内は、祝前日の18時ということで、7割くらいの込み具合である。

 おまけに、私の後に入店してカウンターに座った左右の客には、料理が次々と運ばれてくる。

 待つこと約30分。

 しかし、いまだに何も料理が出てこず、私の右隣の客などは、私の後に入店したにもかかわらず、刺し盛りと焼き魚、生ビールを一杯飲んで、帰っていった。

 また左隣に座った、関西弁コテコテの若いカップルは、やはり私の後から入店したのに、チューハイを飲みながら楽しそうに漁師めし定食とあふれ海鮮丼を食べている・・・・。

 肴どころか突き出しもないまま、酒だけをあてがわれて小半刻。

 酒も飲み干してしまったので、しかたなくお運びの姐さんをよんで、かくかくしかじかと伝えると、1分とたたずに鰤刺しとしんじょう揚げが出てきた。

 その際、ぼそぼそっと「お待たせしました・・・」と一言。

 おいおい、そこは、「たいへんお待たせしました。申し訳ございません」だろう?

 こうなるともう、味も何も、うまくもなんともない。結局、ノドグロのへしこは電車の時間に間に合わないのでキャンセルする。

 さらに、会計を済ますとこの店は、「お客様お帰りで~す!」「ありがとうございましたぁ!!」とスタッフ全員の斉唱で送るのがお作法らしいのだが、なぜか私には声がかけられなかった・・・・。

 ったく、てめえら脚斬るぞ、ゴラァあああああ!!!!!!!!!(怒)。

 と内心怒髪天をつきながら、しかし真っ当な社会人のたしなみとして無言で店を後にした私は、やむなくキオスクで菊姫のワンカップと蛍烏賊の燻製を買い、肩を落としてとぼとぼと上りの北陸新幹線に乗り込んだのであった。


 それにしてもだ、駅中の店、しかもビジネスパーソンにとって北陸出張のハブ駅たる金沢駅の中にある店なんだからさ、客は基本、電車の乗り換え前提で立ち寄るわけで、そういう立地にある店ってことを考えれば、まずはなによりオペレーションを優先しろや、このタコ助! っと思うのは、けして傲慢ではないと思う。

 場の位取りや拍子というのは、武芸に限らず飲食業でも重要なのだと、件の店の店長や経営者を板の間の稽古場で正座させながら4時間ぐらい説教してやりたいと、しみじみ思った北陸出張であった。


 なお、わが地元・武州に帰りついた際、拙宅最寄り駅の駅中にある(埼玉県民の心のふるさと)日高屋に入り、餃子にチャーハンを注文したら、あっという間に調理されて熱々が出てきたぜ!

 やっぱ駅中の飲食店ってのは、こうでないとな。 

 (おしまい)
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この故に鬼神の情状を知る/(身辺雑記)
- 2016/02/09(Tue) -
160208_133034.jpg
▲昨日の日筮は晋六五で、粛々と進め。武芸と同様、占断も上達の秘訣は多筮だ



 最近は横着になり、よっぽどのことがないと筮竹は捌かず、もっぱら八面賽を振る。それどころか、無筮立卦での占断でも事足りることが少なくない。


 私あまり病占は好きじゃあないんだが、必要に迫られてある人について占断。

 賁初九。

 之卦は艮為山で艮の重卦。 

 病占で八卦の艮は、悪性腫瘍を指すことが多い。

 賁は初期の悪腫。初爻という点からも、病いは初期。

 卦象を見れば、外卦の艮で病勢は抑えられており進行は遅いが、病巣は内でたぎっている。

 之卦の艮は重卦なので、がんは2つ。あるいは先の展望も、ゆっくりと1つ山を越えてまた次に山。つまり初期治療での完治は難しい。急激な病状の悪化はないが、長く厳しい療養になりそうである。

 なんだかなあ・・・・・・。


 易は天地と準う。故に能く天地の道を弥綸す。
 仰いでもって天文を観、俯してもって地理を察す。
 この故に幽明の故を知る。
 始めを原ね終りに反る。故に死生の説を知る。
 精気は物を為し、游魂は変を為す。
 この故に鬼神の情状を知る。                  
                        (繋辞上伝)


 (了)
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板金を打つ心/(手裏剣術)
- 2016/02/07(Sun) -
 立春になったこともあってか、稽古場の寒気もいささか緩んできた。

 何があるわけではないが、春が近いというのは心躍る。


 例年、的の取替えは、まず新年後の稽古始めの頃に行うのだが、今年はなんとなく替え損ねてもう1か月もたってしまったので、昨日、的用のジョイントマットを取り替えた。

 このマット、尺貫法でいうと1尺4寸的ということになる。通常は、さらに内径として8寸四方にガムテープを張って内的とするのだけれど、今回は精度を高めようと内的は6寸四方とした。

 これは本ブログでも何度も書いていることだが、根岸流の成瀬関次師曰く、

 「10歩(3間強)の間合で8寸的に6割の的中ができるようになれば、現代武道で言うところの錬士・5段相当」

 とのことであり、これが現代においても手裏剣術者の実力の目安の1つである。

 仮にも手裏剣術稽古の看板を掲げる以上、このレベルの打剣は、最低限維持していかねばと己を戒めている。

 また、この10歩で8寸的6割というのは、精度のために“置きにいく打剣”ではなく、知新流で言うところの「板金を打つ心」、つまり一打必倒の気勢を込めたフルパワーの打剣でなければならない。

 つまり、渾身の打剣での10歩・8寸・6割ということだ。

 しかも、ここで打つのは、30グラムや50グラムの非力な削闘剣ではない。全長255ミリ・重ね6ミリ・重量144グラムで刃のある、短刀型手裏剣である。

160206_155609.jpg
▲昨日の稽古にて。3間半、逆体・直打にて、板金を打つ心で6寸的を打つ。5打中、4本必中、1本はすでに刺さっている手裏剣の剣尾に当たってはじかれ失中


 常時、渾身の打剣での10歩・8寸・6割、そして5間・一尺・5割。

 このレベルをクリアしなければ、「生死一重の至近の間合からの、渾身の一打」という、私の理想の打剣への扉は開きがたいであろうと自省している。

 (了)
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「伊勢柳剛流教場津武道研修会」について/(柳剛流)
- 2016/02/05(Fri) -
 過日、いつもの通り柳剛流について調べていると、昨年10月に名古屋で行われた日本古武道振興会による演武に関するパンフレットのPDFがあった。

「名古屋まつり協賛 日本古武道大会」
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:u2dQnoH-k2gJ:www.nagoya-festival.jp/wp-content/uploads/2015/09/61_kobudo.pdf+&cd=181&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

 これをつらつらと見ていると、巻末の「道場及び教場所在地」という一覧に、

 「伊勢柳剛流教場津武道研修会」


 という一文があり、所在地は「三重県津市結城会館内」となっている。

 ただし、このパンフレットでは他の流儀会派はいずれも代表者氏名が掲載されているのだが、この伊勢柳剛流教場津武道研修会に関しては、代表者氏名の記載がない。会の名称と、番地もない所在地の名称のみの記載なのである。

 そこでとりあえず所在地の「三重県津市結城会館」というのをネットで検索してみると、ヒットするのはなぜか斎場だ・・・・・・。


 三重の柳剛流といえば、紀州藩田丸伝を伝える三村先生の養心館道場が知られているが、その連絡先は三重県松坂市となっている。

 となると、この伊勢柳剛流教場津武道研修会というのは、また別の会派なのか、あるいはこちらも三村先生の系統の教場なのか?

 また、この伊勢柳剛流教場津武道研修会は、現在も活動をしているのか、あるいは休会状態なのか? その辺りもこの資料を見るだけではつまびらかではない。

 ま、古武道振興会に直接問い合わせれば早いんだろうけれど、日本古武道協会と違い、振興会って連絡先とか問い合わせ窓口とかが、よく分からんのだよねえ・・・・・・。


 以上、なにかご存知の方は、情報提供やご指摘をいただければ幸いです。

 (了)
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備十五ヶ条フセギ秘伝/(柳剛流)
- 2016/02/04(Thu) -
 多忙ゆえ外で稽古ができず、やむを得ず今晩はリビングにて木太刀を取る。

 鏡に映る己を相手に、柳剛流備之伝、そして備十五ヶ条フセギ秘伝を復習。

 彼の構えと我の構え、その関係性から生じる太刀筋と勝口を学ぶ。

 200年以上も前、流祖は何ゆえこのような有構の方程式を編み出したのか?
 
 その意味に想いを馳せつつ、己の影を斬る。

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 (了)
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柳剛流奇譚~發花杖/(柳剛流)
- 2016/02/02(Tue) -
 柳剛流に関する話題だが、今回はいささか趣が異なる。

 ま、有体に言えば、R18めいた話しなのである。


 本ブログにて以前、「もう1つの仙台藩伝柳剛流」(http://saitamagyoda.blog87.fc2.com/blog-entry-849.html)という記事を掲載した。そこで、仙台藩登米伝柳剛流の伝承において大きな役割を示した人物として、吉田勝之丞秀興をごく簡単に紹介した。

 幕府御家人の子として生まれた吉田勝之丞は、江戸・神田の在で8歳の時に流祖・岡田惣右衛門奇良に入門。その後6年ほどで流祖が病没したため、さらに流祖の高弟であった佐野宇右衛門昌爵や吉井三郎正乗に師事し、当流の蘊奥に達したという。

 しかし故あって江戸を去り浪人となった勝之丞は、上方から東奥を巡歴。35歳の時、登米郡佐沼在住の柳剛流剣士である半田卵啼の食客そして師となり、以後、56歳で亡くなるまでの21年間、登米地方を中心に柳剛流を教授した。

 この間、勝之丞は南部支藩・小笠原家に招かれて遠野地方で柳剛流を指南したり、あるいは江戸に戻るなど、佐沼を拠点としながらも、各地で出張教授を行ったと伝えられている。


 さて、この吉田勝之丞の次男・熊三郎は、江戸両国薬研堀にて1821(文政4)年に生まれた。長じるとともに父の直伝にて柳剛流の達者となり、15歳となった1836(天保7)年からは伊勢に3年間武者修行し、江戸に戻ってからは柳剛流の若手剣客として名を上げたという。

 1845(弘化2)年、彼は瓜生家の養子に入り、瓜生政和となる。その後、人情本作家である松亭金水の門弟となり、梅亭金鵞(ばいてい きんが)として幕末から明治にかけて、滑稽本や人情本、啓蒙書や諷刺小説の作者として人気を得た。


 さて、ここから話はいささか艶っぽくなっていくのだが、剣客作家・梅亭金鵞は、どういう経緯分からないが、創作活動の一環(?)なのか、はたまた個人的な趣味嗜好からか、發花杖(はっかじょう)なる道具を考案している。

 柳剛流で「杖」といえば、別名・突之刀法ともいわれる「突杖」の術が真っ先に思い浮かぶわけだが、この發花杖、そのような武張った道具ではない。

 なんと、サディズム用の責具なのだという・・・・・・。

 1953(昭和28)年10月に発行された『奇譚クラブ』という、いわゆるカストリ雑誌に「奇具研究」(村田誠一)という記事があり、ここで梅亭金鵞考案の發花杖なる道具が解説されているのである。

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 その記事によると、

 「まづ竹のふしをぬきてやわらかき糸をかくのごとくあなをあけたる中へいるべし」
 「右の図の如く二本こしらへて是を用ふ也其法ぼうしばりのごとくし図のごとく行うべし」

 とのことである。

 ではこの道具、どのような用途に使うかというと・・・・・(以下、自粛。お察しください)。


 それにしても、東奥に其の名を轟かせた柳剛流を代表する剣客の子であり、自身も江戸で名を成した剣士が大衆作家となり、しかも没後60年になって、責具の開発者として再びその名前を時代に残すとは・・・・・・。

 人間とその「性」とは、なんとも不思議で滑稽なものだと、しみじみ思う。


 ■参考文献・URL
 『奇譚クラブ』昭和28年10月号/http://nawa-art.com/backnumber/1950/195310/01/195310_01.html
 『梅亭金鵞』https://kotobank.jp/word/%E6%A2%85%E4%BA%AD%E9%87%91%E9%B5%9E-112946
 『梅亭金鵞』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%85%E4%BA%AD%E9%87%91%E9%B5%9E
 『發花杖』http://smpedia.com/index.php?title=%E7%99%BC%E8%8A%B1%E6%9D%96
 『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』森田栄/日本剣道史編纂所

 (了)
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