手裏剣術の演武/(手裏剣術)
- 2016/03/30(Wed) -
 春の恒例である、苗木城武術演武会が、10日後に迫ってきた。

 苗木城での演武は今年で5回目となるが、手裏剣術の演武というのは何回やっても緊張するものだ。

 思えば、自分が初めて手裏剣術の演武を行ったのは、2007年に行われた香取神宮での奉納演武だった。このときは、約50人の居合術家たちの前で、2間打ちや刀法併用手裏剣術を行った。

1603_香取演武
▲9年前の香取神宮奉納演武。打剣の構えも使っている手裏剣も、今とはまったく異なっている


 以来、演武や講習会、出張指導や交流稽古などで、何度となく人前で打剣を披露しているが、何度やっても慣れるということはない。

 なにしろ手裏剣術の演武は、刺さるか刺さらないかが一目瞭然、ごまかしのまったくきかないものである。おまけに見る人は、必ず百発百中だと思っているので、一打でも失中すると術者の心は多いに乱れる。

 また、これは手裏剣術を稽古した者にしか分からないことだが、打剣というのはたいへんにメンタル面の影響が大きいもので、他者の視線の有無だけでも、離れや押さえなどの操作が大きな影響を受けるのだ。

 だからこそ手裏剣術者にとって、演武はある種の「真剣勝負」であり、絶対に欠かすことのできない修行の一環なのである。

 ところが、なかには失中で恥をかくことを怖れて、衆人環視の中での演武を避けようとする手裏剣術者もいる。

 思うに、不特定多数の、しかも武術の素人の前でさえ打剣を披露したことがないという手裏剣術者は、しょせんは嘴の黄色いヒヨコ、いわば道場剣法のレベルである。

 素人ではなく、一定の業前を持つ他流の武術家たちの前で術を披露するだけの「胆(ハラ)」が備わって、ようやく手裏剣術者として一人前というところだろう。

 私はこれまで、普段の稽古では4~5間を楽々と通す有名手裏剣流派の師範たちが、公衆の面前での演武では1間半や2間で失中するのを何度も見てきた。同様に自分自身も、普段は4~5間で稽古しているにもかかわらず、演武ではたかが1間半や2間で何度も失中した経験がある。

 ことほどさように、手裏剣術とはごまかしのきかない、難しい、厳しい武術なのである。

 だからこそプレッシャーの多い、人前での演武は、手裏剣術者の大切な修行なのだ。

 失中を怖れることなく、どのような場所でも我が天真をこの一剣に込めて、生死一重の間合から渾身の一打を打ち込むのである。

 これこそが、手裏剣術における「直通の位」への入り口となるだろう。

2012.4.14_苗木城武術演武会1
▲4年前の苗木城での演武。


               「打つ人も打たるる人も打太刀も
                     心なとめす無念無心そ」 (柳剛流 道歌)


 (了)
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柳剛流の奉納額(その2)/(柳剛流)
- 2016/03/28(Mon) -
 埼玉県東部にある春日部市は、かつては日光街道粕壁宿として栄えた古い宿場町だ。

 現在は、これといった特徴のない、首都圏にはよくある郊外のベッドタウンだが、市内を流れる家康入府以前の利根川である大落古利根川の岸辺に立つと、なんとなく往時の面影を感じることができる。

1603_利根川
▲小渕橋から望む大落古利根川


 埼玉県内で確認されている2つの柳剛流の奉納額のうち、氷川女体神社のほかにもう1つが、この大落古利根川にほど近い小渕観音にあるという。

 北春日部駅から歩いて大落古利根川を渡り、しばらく進むと住宅に囲まれた木立の中に小渕観音があった。

 鎌倉時代に創建されたというこの古刹は、7体もの円空仏を納めていること、あるいは『奥の細道』の旅の際、芭蕉と曽良が宿泊した場所として知られるが、ここに柳剛流の奉納額があることは、ほとんど知られていない。

1603_小渕観音
▲本尊の観世音菩薩が、古利根川大洪水で小渕に流れ着いたことから、正嘉2(1258)年に創建されたと伝えられる小渕観音


 早速、本堂の周囲を歩いてみると、堂宇正面から見て左手の壁面に位置する軒下に、柳剛流の奉納額がしっかりと掲げられているのが確認できた。

 ただし、前回紹介した氷川女体神社の奉納額の件ではないが、この奉納額は長年の風雪風雨によって、完全に額文が消えてしまっており、その文面はまったく判別することができない。

 事前に辻淳先生著の『幸手剣術古武道史』に掲載されていた写真を確認しておいたのですぐに分かったが、そうでなければこれが柳剛流の奉納額だとは、誰にも分からないであろう。

 大きさは畳一畳以上はあろうかという立派なもので、 よく見ると額の中央に奉納する二本の木太刀を掛ける刀掛があり、それによってかろうじてこの額が、武術関連の奉納額であることが認められる。

1603_小渕観音奉納額1
▲小渕観音にいまも掲げられる柳剛流奉納額。記されていた額文は、完全に消えている


 この奉納額は、柳剛流の流祖・岡田惣右衛門奇良生誕の地である武州葛飾郡惣新田(現在の埼玉県幸手市)において、門人数千人と称えられた柳剛流岡安派の剣1世・岡安禎助源正明(英斎)が、慶応2(1866)年に献じたものだ。

 なぜそれが分かるのかというと、今は文字が完全に消えてしまっている奉納額だが、幸いなことに大正7(1918)年にまとめられた筆書きの郷土史『吉田村誌』に、その額文が書きとめられているからである。

 『吉田村誌』は平成13(2001)年に発行された『幸手市史調査報告書 第十集 村と町・往時の幸手』(幸手市教育委員会発行)に収録されており、さらにこれを元にした額文の翻刻が、『幸手剣術古武道史』にも掲載されている。

1603_小渕観音奉納額4
▲『幸手剣術古武道史』に掲載されている額文の翻刻


 額文には、流祖が精進・研究の上で柳剛流を号したと記し、その道統は松田源吾源義教から岡安英斎へ、いずれも流祖同様武州惣新田の師範に受け継がれたこと。その上で、今や岡安英斎の門人は「数百数千」に及ぶ興隆ぶりであるとし、剣二口とともにこの額を掲げると記されている。

1603_小渕観音奉納額2
▲二口の木太刀が掛けられていたであろう刀掛が、額の中央上部に見える


 流祖の生家からわずか半里にある豪農の子として生まれた岡安英斎(1827-1909)は、18歳で松田源吾に入門、26歳で免許を受けた。その後、地元に複数の道場を構えつつ、自らは約10年に渡る廻国武者修行を行ったという。

 口承によればこの武者修行の際、英斎は柳剛流二代宗家である岡田(一條)左馬輔が柳剛流を伝えた陸前まで足を伸ばし、当地の柳剛流剣士たちと試合をして負ける事がなかったと伝えられている。

 これは、武州で暮らしながら角田伝の柳剛流を学ぶ私にとって、たいへん親近感を感じるエピソードだ。

 武州葛飾郡惣新田にあった英斎の道場「聖武館」は、間口4間半、奥行き3間で、生涯に育てた門人は3,000人に達したという。その興隆ぶりは、明治12(1878)年に聖武館で3日間にわたって開催された撃剣会に、柳剛流や直心影流の剣士など416人が集まったという逸話からもうかがえる。

 岡安英斎は、同時代に主に江戸で教線を張った岡田十内に勝るとも劣らない、武州伝柳剛流を代表する剣客のひとりといえるだろう。



 ところで、ひとしきり柳剛流奉納額の写真を撮った後、つらつらと観音堂を拝観していると、なんともう1つ武術の奉納額があるではないか!

 しかもこちらは、本堂正面の軒下という、いわば「一等地」に掲げられ、額文は刃物で刻んだ跡に墨などを入れていることから文字もはっきりと残っており、奉納用の木太刀も二口が掲げられているたいへん立派なものだ。

 おまけに奉納された年も、柳剛流の奉納額と同じ慶応2年である。

 これに比べると、長年の風雨で額文はすべて消え去り、掲げられていた木太刀も無くなってしまっている柳剛流の奉納額が、なんとも寂しく思える。

 ちなみにこの立派な奉納額は、神道無念流のものであった。

1603_小渕観音奉納額3
▲柳剛流の奉納額に比べると、たいへん保存状態が良く立派な神道無念流の奉納額


 柳剛流と神道無念流は、興隆した時代も地域も重複・隣接していることから、武州で柳剛流の調査をしていると神道無念流の関係資料に出会うことが少なくない。

 また私は、小佐野淳先生に仙台藩角田伝柳剛流と併せて八戸藩伝神道無念流の立居合もご指導いただいているので、これもまた不思議な縁だなあと感慨深いものがある。



 江戸後期から明治・大正の武州において、柳剛流と神道無念流は互いに流勢を競い合った。

 しかし時が平成に移った現在の武州・埼玉では、神道無念流については今も複数の教場があり稽古者も少なくないと聞くのに比べ、我が柳剛流は幸手に教場が1つあるのみで稽古者も数えるほどしかいないというのは残念なことだ。

 武州伝と角田伝とで系統は異なるとはいえ、国際水月塾武術協会本部にて小佐野淳先生より柳剛流を学び、しかも埼玉で暮らしている私は、今後、流祖生誕の地である武州・埼玉で、柳剛流の伝承と普及にどのような貢献ができるのだろうか?

 そんなことを改めて考えさせられた、柳剛流奉納額の探訪であった。


 ■参考文献
 『幸手市史調査報告書 第十集 村と町・往時の幸手』(幸手市教育委員会編)
 『幸手剣術古武道史』(辻淳著)

 (了)
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柳剛流の奉納額(その1)/(柳剛流)
- 2016/03/26(Sat) -
 武術の奉納額は、流儀の繁栄と武運長久を願って寺社仏閣に献じられたものである。

 柳剛流の奉納額は現在全国で3つが確認でき、1つは三重県、残りの2つはいずれも埼玉県にある。そこで、埼玉県内にある柳剛流の奉納額がどのような状態なのか現地を訪ねてみた。

 まず1つは、さいたま市緑区にある氷川女体神社である。

1603_氷川女体神社1
▲大宮氷川神社・中山神社と合わせて、武蔵国一宮となる氷川女体神社


 山本邦夫氏が昭和55(1980)年に執筆した『綱嶋家の剣術』という資料によれば、ここには幕末から昭和にかけて現在の埼玉県浦和地区で5代に渡って柳剛流を伝えてきた師範家・綱嶋家が、大正2(1913)年に献じた奉納額があるという。

 資料によると、その奉納額は綱嶋家3世の綱嶋喜助元教またはその長男で剣4世の俊平元光が献じたもので、中央に2本の木太刀が掛けられた額には、60名におよぶ綱嶋師範家の門人の名前が記されている。

1603_山本氏資料
▲山本邦夫氏執筆の『綱嶋家の剣術』に掲載されている奉納額の写真


 氷川女体神社は、JR武蔵野線東浦和駅からバスで10分、徒歩8分ほどの場所にある。周辺は静かな住宅地で、その中にこんもりと樹木が茂った一角が残され、ここに寛文7(1667)年に江戸幕府4代将軍徳川家綱によって再建された本殿がある。

 歴史を感じさせる建物をぐるりと回りながら観察するも、柳剛流の奉納額らしきものは見つからない・・・。

1603_氷川女体神社2
▲本殿の軒下には、文字が完全に消え去ったやや小さめの奉納額らしきものが1つあるだけだ


 神社の関係者だという男性に話を聞いてみると、「以前はそういう奉納額があったが、文字が消えて読めなくなってしまったので、はずして屋内にしまってある」という。

 それを見ることができますかと問うと、「公開はしていない」とのことであった。

 それにしても、奉納額を外して非公開にする理由が、「文字が読めなくなったから」というのは、いかがなものか。

 仮に文字が読めなくなってしまったとしても、もともと献じられている場所に、奉納された時のまま掲げておくのが、歴史的文化財の本来のあるべき姿ではなかろうか?

 かつて、大宮氷川神社の神職・岩井兵部は柳剛流深井派で剣を学び、その名は万延の『武術英名録』に記載されるほどであったというのに、今となっては流儀の貴重な遺産である奉納額を、「文字が消えたから、しまっている」と、木で鼻をくくったような対応というのは、草葉の陰で岩井も泣いていることだろう。

 氷川女体神社に奉納された額について、山本氏執筆の資料では、記載されている門人の名前が採録されているのみで、その他の記述の翻刻などはなく、今回の現地訪問で詳しい内容を知りたかったのだが、残念ながら無駄足に終わってしまった。

 これについては後日、当該自治体の教育委員会など文化財保護等を担当する部署に、現状の保管状況や記録の有無などを改めて問い合わせてみようと思う。



 氷川女体神社に奉納額を献じた柳剛流師範家・綱嶋家は、初代である綱嶋武衛門尉源元治が、流祖・岡田惣衛門奇良の高弟である松田源吾義教から柳剛流を学んで以来、剣5世となる綱嶋猪吉光降まで、およそ140年に渡って柳剛流を受け継ぎ浦和地区で教線を張ってきた。

 しかし現在、その道統を受け継ぐものは残念ながら一人もいない・・・・・・。

 なお現在、綱嶋家には、天保2(1838)年に松田源吾が綱嶋武衛門に出した「柳剛流剣術目録巻」や「神文帖」が、『綱嶋家文書』として残されているという。

 この「柳剛流剣術目録巻」は、流祖の直弟子である第二世代の柳剛流師範である松田源吾が記した貴重な資料である。

 そこには「当流柳剛刀也」として、飛龍剣、清眼右足刀、清眼左足刀、無心剣、中合刀、相合刀の6本、さらに口伝・秘伝として小刀伝、二刀伝、槍・長刀入身秘伝、備十五ヶ条フセキが記されている。

 柳剛流の目録での教授内容は、各世代や地域によって異同が少なくないのだが、この松田源吾の記した目録の教授内容は、武州系の柳剛流第三世代の師範家である岡安派や岡田十内派、あるいは仙台藩角田伝の各伝書と完全に一致しており、術技や口伝の異同や増減はまったく無い点は、注目すべきであろう。



 このように、氷川女体神社での柳剛流奉納額の確認は空振りに終わってしまったが、埼玉県内にはもう1つ柳剛流の奉納額がある。

 これを確認すべく、浦和から春日部に向かった。

 ■参考文献
 「綱嶋家の剣術について」山本邦夫(浦和市立郷土博物館研究調査報告書 第七集)

 (つづく)
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修了式/(武術・武道)
- 2016/03/23(Wed) -
 本日は県立武道館主催の空手道教室の、平成27年度の修了式であった。

 稽古の後、ちびっ子たちや壮年の初心者の方々への、昇級の証書や修了証書の授与式が行われた。皆さん、それぞれに喜びの表情を浮かべていたのが印象的であった。

 ちなみに私はもう、空手道では昇段をするつもりはない。

 なにしろ日々の稽古や研究は、古流武術と手裏剣術で手一杯だ。

 おまけにアラフィフともなると、人生の残り時間にも限りが見え隠れしてくるので、それらの時間はすべて古流武術と手裏剣術の稽古に注ぎたいと思っている。

 ゆえに、空手道はあくまでもたしなみということで、私は永遠の弐段でいいのだ(笑)。

 とはいえ、あまり腕が錆付くのも癪なので、週一回のこの教室での稽古は、今後も細く長く続けていきたいと思っている。


 修了式前の稽古では、久々に糸州流のN先生にバッサイ大を見ていただき、さらに分解解説の際には受けを拝命。揚げ突き、関節蹴りからの投げなどの受けを取らせていただく。こういう機会が、とても勉強になる。

 古流武術や手裏剣術とはまた違った意味で、やはり空手道の稽古も楽しいものだなと、しみじみ実感した春の夜であった・・・・・。

 (おしまい)
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『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』を読む(その3)/(柳剛流)
- 2016/03/17(Thu) -
 今回の『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』で最も興味深い点の一つは、新たに著者の南部修哉氏が入手した、昭和14(1939)年に、旧制角田中学校剣術師範・斉藤龍三郎が記した『柳剛流剣術免許巻』と『柳剛流殺活免許巻』、および『起請文』が全文掲載されていることである。

 免許巻に記載されている内容は、以下の通りである

1.前文
2.武道歌
3.眼之大事
4.極意秘伝「一心」(口伝)
5.長刀秘伝
6.毒蒜大秘法扇之秘伝
7.一方靈蘓散
8.七ツ死(口伝)
9.甲冑当(口伝)
10.組討(口伝)
11.一人之剛敵(口伝)
12.活法(口伝)

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 これら免許巻の記載内容について、たとえば武州で伝承されていた岡安派師範家が明治~大正時代に出した免許巻と比べても、内容はほぼすべて一致している。

 一方で、同じ角田伝柳剛流の免許巻でも、角田伝の祖である岡田左馬輔が嘉永元(1848)年に戸田泰助や菅野孝三郎に出した免許には、1.前文と5.長刀秘伝しか記載されていない。

 また、流祖・岡田惣右衛門奇良直筆の免許といわれる石川家文書では、免許の記載は1.前文と2.武道歌、4.極意秘伝「一心」(口伝)、5.長刀秘伝のみの記載となっている。

 これは以前も本ブログで指摘したことだが、柳剛流の伝書は全般的な傾向として、切紙は各派・各時代での記載内容の変動が非常に少なく、目録は時代が下るとともに記載内容が簡略化され、免許は時代が下るとともに記載内容が増えていく傾向にある。これは、今回本書に掲載された伝書を見ても同様であることが確認できる。

 こうした傾向について、たとえば免許巻については、時代が新しくなるごとに秘伝が付け加えられてきたのか、あるいは名称などは免許に記載されていなかったものの、当初から伝承されてきた口伝が次第に文字として掲載されるようになったのか? そのあたりの事実については、もはや定かではない。


 ところで、本書に掲載された免許巻で特筆できるのは、「毒蒜大秘法扇之秘伝」と「一方靈蘓散」について、その内容が伝書に詳しく書かれていることである。

 この2つの薬方については、たとえば明治21年に佐藤戸一郎(旧制角田中学校二代目剣術師範)から我妻利一郎が受けた免許巻にも、同じように名称だけでなく内容を解説する記載がある。

 一方で、武州系の岡安師範家の出した免許では、毒蒜大秘法扇之秘伝の記載はなく、「霊方一寿散」という気付け薬の名称のみが記載されている。この霊方一寿散が、角田伝の一方靈蘓散と同じものであるかはつまびらかではない。また同じ武州系でも、岡田十内が出した免許巻には、こうした薬方の記述は見当たらないようである。

 では「毒蒜大秘法扇之秘伝」と「一方靈蘓散」の具体的な内容はどのようなものか?

 ナイショである!

 ・・・・・・・・・。

 と、もったいぶるわけではないが、あまりなんでもかんでもネットで公開するのも何なので、興味のある方は図書館へ行って本書を探し一読されたし。

 さわりだけ記せば、「毒蒜大秘法扇之秘伝」は生物毒の抽出法とその使い方についての口伝であり、「一方靈蘓散」は究極の気付け薬についての説明である。

 こうした薬方について、科学的妥当性はさておき、ひとつの伝統文化としてそれを伝えていくことにも意味があるといえるだろう。

 (了)
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『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』を読む(その2)/(柳剛流)
- 2016/03/15(Tue) -
 さて、南部修哉氏の著書『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』は、初版に加えて新たな資料に基づき、仙台藩角田伝柳剛流の祖である柳剛流二代目宗家・岡田(一條)左馬輔信忠の事跡について、さらに正確な記述が加えられた。

 これにより、従来あまり明確ではなかった左馬輔の生涯が一段と鮮明になったのは、本書の大きな功績である。

 左馬輔は柳剛流二代目の襲名後、ふるさとの角田へ帰郷し石川家の剣術師範となるが、その後、遺恨による真剣での立合が原因で角田を出奔、石巻で隠棲することとなる。

 これまで、その後の左馬輔の足跡は明らかではなかったのだが、本書では石巻隠棲後も左馬輔が年に1度角田を訪れ、主家である石川家に贈答品を届けていたことなどが、古文書の調査に基づいて解説されている。

 また本書では、角田における柳剛流稽古の総本山とも言える成教書院や、その流れを受けついだ旧制角田中学校における歴代柳剛流師範の事跡、さらに昭和30年代に著者自身が在籍していた宮城県立角田高等学校(旧制角田中学校)剣道部のことなども詳しく記されており、江戸後期から明治、大正、そして昭和という時代の流れの中で、角田地方の柳剛流が興隆し、しかし次第に剣道に変遷し失われていく様子が詳しく記されている点も非常に興味深く、資料的価値もたいへん高い。

 さらに本書は、著者である南部氏の父君で柳剛流の目録受領者であった南部雄哉氏やその周辺の人々、そして著者自身の歩みも含めた家族史・個人史でもあり、あるいは昭和の角田地方に関する郷土史の面もある。

 こうしたヒューマンな部分の記述も、柳剛流という武術によって著者と縁をいただいた私としては、たいへん興味深く拝読させていただいた。


 このように本書は、ごく近年まで角田地方で継承され、地域で育まれてきた角田伝柳剛流の歴史を俯瞰し、先人の事績を網羅的にたどることのできる、きわめて貴重な剣術史資料である。

 これは個人的な考えだが、これまでの柳剛流研究においては、森田栄著『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』、山本邦夫著『埼玉武芸帳-江戸から明治へ』、辻淳著『幸手剣術古武道史』・『戸田剣術古武道史』、以上の4冊が、流儀研究の基礎的重要資料であった。

 これに加えて、南部氏の『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』は、第五のそして最新の重要資料であると断言できる。

 さらに言えば、実技として仙台藩角田伝の柳剛流を受け継ぎ稽古をしている修行人である私としては、本書は他の基礎資料以上に重要な一冊であり、今後も長く枕頭の書となることが確信できる。

 なお本書は私家版であるが、角田市図書館ほか、関係の資料館などに寄贈されているとのことなので、柳剛流に関心のある方は、必ず一読されることをおすすめする。


 次回は本書に新たに掲載された。、旧制角田中学校剣術師範・斉藤龍三郎が記した『柳剛流剣術免許巻』について紹介する。

160315_011345.jpg

 (本文中、一部敬称略)

 (つづく)
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刀法併用手裏剣術/(手裏剣術)
- 2016/03/13(Sun) -
 昨日は水月塾本部にて、師に柳剛流をはじめとした古流の稽古を丸1日、たっぷりとつけていただいた。稽古後は師と関西支部長のY師範と3人での小宴。

 杯を傾けるごとに、武術談義に花が咲く。なんとも楽しいひと時であった。

 そして本日は、午後から翠月庵にて手裏剣術の稽古。まさに武術三昧の週末である。


 今日から当庵で正式に稽古を始めたA氏は、手裏剣術についてはすでに4~5間を通す業前があり、平行して古流の剣術や居合の稽古もしており、さらに現代武道の有段者でもあることから、当庵の刀法併用手裏剣術を主に学びたいとの希望で入会した。

 そこで本日は、みっちりと刀法併用手裏剣術を指導する。

 興味深いもので、普段は手裏剣で5間を通し剣術や居合の素地もあるA氏だが、刀法併用手裏剣術となると2間でも失中が目立つようになり、抜付や斬り下しにも乱れが出る。

 帯刀する、刀を構える、あるいは打剣の前後に操刀があるというだけで、打剣動作が普段よりも心身ともにより複雑になるため、2間というどうということもない間合でも剣が刺さらなくなるわけだ。同様に、打剣という動きがあるゆえに、刀の操作や運足などが乱れる。

 だからこそ、刀法併用での打剣の稽古が重要になるのである。

 こうした「武術としての手裏剣術」の理合は、剣術や居合などの武術を十分に稽古しておかないと理解できない。ゆえに当庵では以前から手裏剣術のみではなく、必ずなんらかの武術を併習することをすすめているし、それができない人のために、当庵の手裏剣術の稽古体系にも剣術や抜刀術を組み込んで指導しているのである。


 いずれにしても、私は単なる的打ちだけにとどまらない、さりとて「雪合戦」のような模擬手裏剣の当てっこなどにも堕さない、生死一重の至近の間合からの渾身の一打を理想とした、「武術としての手裏剣術」の稽古が重要だと考えるし、そういう稽古を続けていきたいと思う。

 そして刀法併用手裏剣術の稽古は、こうした「武術としての手裏剣術」の習得に欠かすことのできない、重要な階梯のひとつなのである。

 (了)
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『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』を読む(その1)/(柳剛流)
- 2016/03/11(Fri) -
 本日は3月11日。

 5年前の震災で亡くなられた方々に心から哀悼の意を表し、現在も避難生活を強いられている皆さんにお見舞いを申し上げます。



 さて、以前本ブログにて、柳剛流に関する最も新しい資料として、2014年11月に上梓された南部修哉氏著『角田地方と柳剛流剣術-郷土が誇る武とそのこころ-』という書籍を紹介した。

 先日、南部氏から、前著に大幅な加筆を加えた増補・改訂版を上梓したので、当庵にご寄贈くださるとのご連絡をいただいた。

 そして昨日、3月6日に完成したばかりだという、南部氏著の『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』を受け取った。

160311_030028表紙
▲仙台藩角田伝柳剛流の第一級資料である、南部修哉氏著『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』


 本書は、宮城県角田地方に伝承された柳剛流に関する史実や資料を取りまとめた前著の増補・改訂版である。

 内容は、柳剛流宗家二代目である岡田(一條)左馬輔信忠をはじめ、三代目斉藤数衛、四代目泉富次、五代目泉丁三郎など、仙台藩角田伝柳剛流の主な人物の経歴をはじめ、柳剛流の流儀紹介、流祖の事跡、角田・石川家における柳剛流伝承の経緯、明治以降の角田における柳剛流の事跡などがたいへん詳しく記載されており、現状においての角田伝柳剛流の第一級の資料となっている。

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▲流祖の経歴はもとより、藩政時代の成教書院からはじまり、旧制角田中学校、そして戦後の角田高等学校に至るまでの、仙台藩角田伝柳剛流の事跡がまとめられている


 今回の増補・改訂では、角田伝の祖である岡田左馬輔の事跡について、さらに掘り下げた調査結果が示され、現時点で岡田左馬輔に関する最も信頼できる調査資料となっている。

 また今回、前著の発行後に南部氏が入手された角田伝柳剛流の免許巻・殺活免許巻とその読み下し文の全文が新たに掲載されており、私のような実技の修行を主とする者にとっては、本当に興味深く参考になるものとなっている(詳しくは次回以降で触れる)。

160311_030231免許
▲斉藤龍五郎が昭和14(1939)年に、旧制角田中学校最後の剣術師範であった斉藤龍三郎から受けた柳剛流免許。長刀や五眼伝、七ッ死や一人之剛敵といった口伝のほか、薬物の調合法や使用法も記されている


160311_030526殺活免許
▲上記免許と同様に斉藤龍五郎が受けた殺活免許巻


 さらに今回加筆された、第7章の「大張は柳剛流剣術の里」という一文は、まさに私が学ぶ角田伝についての直接的な記述であり、大張地区には6つの柳剛流剣士の頌徳碑があることなど、じっくりと拝読させていただいた。

 そのほか、今回の増補・改訂版では、日本の戦史や刀剣史についての記述も大幅に加筆され、読み応えのあるものとなっている。


 さて、本書の詳しい内容については次回以降、紹介していくが、まず最初に今回の増補・改訂版で目を引いたのは、柳剛流の呼称についてである。本書の第三章「柳剛流剣術とは」の冒頭には、次のように記されている。


 まず「柳剛流」の呼称であるが、多くの武術書では「りゅうごうりゅう」となっているが、角田地方では、「りゅうこうりゅう」といっていた。
 前回の初版では、武術書に倣って「りゅうごうりゅう」としたが、今回は角田地方の呼称にしたがって、「りゅうこうりゅう」に書き直した。


 本書の筆者である南部修哉氏の父君である南部雄哉氏は、角田伝柳剛流の目録受領者であり、その伝書は本書にも掲載されている。また修哉氏ご自身も、昭和30年代には成教書院の伝統を受け継ぐ宮城県角田高等学校剣道部(前身は旧制角田中学校であり、明治から昭和初期までの歴代剣術師範はすべて柳剛流の免許皆伝者であった)に在籍されていたとのことである。

 このような経歴を持つ南部氏が、本書で明確に「角田地方では、柳剛流を“りゅうこうりゅう”と呼称していた」と記述している事実はたいへん重い。

 これにより、私の師で角田伝を伝承した小佐野淳先生の証言、武州系である岡田十内の末裔から話を聞いたという剣術史家の辻淳先生の証言、故山本邦夫埼玉大学教授の記述、流祖直伝の伝書を伝える石川家文書に記された振り仮名、そして本書の南部氏、以上いずれにおいても、柳剛流の呼称は「りゅうごうりゅう」ではなく「りゅうこうりゅう」であったこととなる。

 以上の点から、少なくとも仙台藩角田伝柳剛流については、その呼称は「ご」とにごらない、「りゅうこうりゅう」であると断言してよいかと思う。

 これで長年の謎がひとつ、氷解した。

 (つづく)
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規範意識/(武術・武道)
- 2016/03/10(Thu) -
 最近、試斬で有名なS流のM氏が、真剣を模擬刀と偽って航空機の手荷物に預けようとし、それが原因でトラブルになったと自らのブログで公表した。その上で、航空会社を非難しているとのことである。

 当該のブログやそれに関する一連のツイッターなどを読んで思うのは、航空会社の日本刀の取り扱いの是非以前に、そもそも人として、このような嘘をついてはいけないということだ。

 「理屈はどうあれ、嘘はまずい」という批判に対して、M氏は「日本刀の航空機持ち込みの手続きの簡略化という目的のためなら、嘘をついて武具を運搬するという手段も正当化される」という主張のようである。

 このように、目的のためには違法・脱法な手段も正当化されるというのは、武術人以前に社会人としての規範意識が極めて低いと思わざるを得ない。

 かつて、捕鯨反対を主張するために、運送会社に不法侵入して鯨の肉を盗み出して逮捕された環境保護活動家がいたが、目的のために手段を選ばないという点で、今回の主張とよく似ているように思う。

 また今回、M氏が嘘をついた理由は、「東京の稽古場から関西の稽古場への移動に遅れそうになった。日本刀を預ける手続きには時間がかかるので、真剣を模擬刀と偽って預けようとした」とのことだが、これもまったく理由にならない。

 そもそもM氏は試斬家として著名であり、しかも刀剣商を生業としている人なのだから、真剣を所持した上での飛行機を使った移動は何度もしており、十分に慣れているはずだ。

 だからこそ、真剣を手荷物に預けるのは煩雑で時間がかかると、経験から知っていたわけだ。

 ならば、そもそもなぜ、そうした時間を見込んでの移動スケジュールを組まなかったのか?

 ビジネスの世界では、誰しもが厳しいスケジュールの中で長距離の移動をこなし、1日に何回もの商談や営業を行っている。こんなことは、誰しもがやっている当たり前のことだ。

 私は武道を行動科学とする野中日文先生に私淑しているが、先生のお言葉を借りれば、M氏の今回の行動は時のアセスの失敗であり、生活行動における拍子の位が未熟だったということであろう。

 自分のスケジュール管理が未熟で、移動が遅れそうになったから、真剣を模擬刀と偽って手荷物に預けようとした。それがばれて職員とトラブルとなったので、空港内で声を荒げたら警察を呼ばれた。航空会社は無礼で不勉強だ、反省しろ! というのがM氏の主張だが、誰がどう聞いてもこれは単なる逆ギレだ。

 ご本人は「日本刀を愛するゆえに・・・」と主張しているようだが、むしろこうした脱法行為や迷惑行為が、武術をたしなむ者や日本刀愛好家に対する社会からの評価をいたずらに下げているということに、なぜ気づかないのかが不思議である。


 もう1つ、今回の出来事に関連して残念だったのが、M氏と親しいというwebでは名の知れた武術人たちが、M氏の行動を諫めることなく、むしろ同調して航空会社批判に論点をすりかえたり、なんとなく取り繕うようなコメントをしていたことだ。

 こういう出来事だからこそ、友の誤った行動を諫めるのが、武友のとるべき道なのではなかろうか?

 武術に関わる者として、含蓄深く勉強になる彼らのブログやツイッターの記事を以前から楽しみに読んできた者としては、節義をゆがめて身内をかばうような姿勢に、正直ガッカリしてしまった。


 人は誰も過ちを起こす。

 誰しもが聖人君子ではなく、至らない点もある。バカをやっちまうこともあれば、つい気がたってしまうこともあろう。

 お恥ずかしいことだが、私だってしょっちゅうある。

 しかし、「公的な嘘はつかない」とか、「弱者に暴力を振るわない」とか、「無害な他人を攻撃しない」といった、公共善に基づいた最低限の規範意識は社会人には必須のものであり、守らなければならない基本的なルールである。

 愚かで至らない人間のひとりとして、時にそれを逸脱してしまったとしたら、頭を冷やして素直に、

 「自分がバカでした。迷惑をかけてごめんなさい」

 と謝るべきであろう。

 あるいは親しい誰かがそんなことをしたら、

 「あんた、間違ってるぞ。反省しろよ」

 と諫言してやるべきであろう。

 愚かなことばかりして生きている未熟な私は、少なくともそのようにありたいと心がけている。

 脱法行為を指摘され、嘘に逆ギレを重ねるというのは、まっとうな社会人として失格であるし、現代の武人としてとるべき兵法=行動科学としても下手(げて)中の下手だ。

 武術・武道以前に、まずは人として「心を修める」ことが必要であろう。

 (了)
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本日の稽古備忘録/(柳剛流)
- 2016/03/10(Thu) -
 これは柳剛流に限ったことではないが、当流の剣術にせよ突杖にせよ、また長刀にしても、重要なのは我と彼との接点なのだなと実感する。

 それは時に接触している彼我の武具であったり、あるいは離隔状態での軸線であったりもするわけだが、いずれにしても互いの間積りと拍子、そして位を含めた接点の攻防こそが術の核であり、それを学ぶための象徴的な記号が「形」なのだ。

 一方で柳剛流の居合の形は、対敵技法としての実体はもちろんあるが、その形を打つ大きな目的は「柳剛流的な体」を作るための鍛錬的意味合いがかなり強いなと感じる。


 そして、なぜ柳剛流では切紙の階梯において剣術形が「右剣」と「左剣」の2本しかないのに対し、居合形は5本、突杖の形も5本もあり、それらを併せて学ばせるのだろうか?

 柳剛流を稽古する者は、この点について考察を深めておく必要がある。

150505_左行
▲柳剛流居合 「左行」

 (了)
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柳剛流のふるさと、幸手の銘酒(その2)/(柳剛流)
- 2016/03/08(Tue) -
1603_酒2


 柳剛流の祖・岡田惣右衛門奇良の故郷である、幸手の地酒「豊明」。

 先に紹介した「富士 初緑」が吟醸酒だったのに対し、こちらは純米酒である。

 純米だけに、しっかりとした「重み」のある味わいで、飲み口は芳醇甘口。しかし雑味がないので、料理と合わせるとグイグイいける。

 どれくらいグイグイいけるかというと、 さばの塩焼きと酒盗と大根の味噌炒めを肴に、一人で四合瓶を一刻もかからず空けてしまったほどである。


 いやまったく、幸手の酒は旨いなあ。

 ■石井酒造株式会社
 http://www.ishii-syuzo.jp/home.html

 (不定期に、つづく)
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念のため申し上げておきますが、柳剛流は甲源一刀流の「裏術」ではありません/(柳剛流)
- 2016/03/04(Fri) -
 SF警察ならぬ、「柳剛流」警察の翠月庵です。

 ついに柳剛流は、他流の「裏技」にされてしまいました・・・・・・、うぅぅ(涙)。



【柳剛流】(りゅうごうりゅう)
足斬りの法を得意とする、甲源一刀流の裏術。


「隆慶わーるど・別館」より
http://yoshiok26.p1.bindsite.jp/bekkan/kenjutsu/pg227.html




 ・・・・・・・・・・・・。

 それにしても、ひどい。

 何が悲しくて我らが柳剛流が、甲源一刀流の裏技になってしまうのか。

 このページ、作家の故・隆慶一郎氏の公式ホームページの別館とのこと。そして本サイトはすでに閉鎖されている模様である。

 まあ故人のページだし、武術人ではなくフィクションを描く小説家の記述なので、しょうがないっちゃあしょうがないんだろうけど・・・・・・、それにしても甲源一刀流の裏技というのは、あまりにもひどすぎるではないか!

 (注:甲源一刀流そのものに対して他意はありません、念のため)

 このホームページでは、

 「資料に基づいた記述を心掛けておりますが、考証を目的とした解説ではありませんので真偽については、各人それぞれの判断に委ねます」

 との一文がある。

 それにつけても、故人、しかも著名な作家に対して失礼なのは承知の上で言わせてもらえば、


 そもそも、どんな資料に基づいてんだ、このタコ助がぁぁ!!!!!!

 脚斬るぞ、こんチクショウ!!!!!!



 というのが、柳剛流の修行人であり、物書きの端くれでもある私の心の叫びである。

 「個人の判断に委ねる」とかいう、言い訳以前の問題だぜ、いやほんとマジで。シバリョウにしてもこの人にしても、無名ならまだしも著名なだけに、より罪深いんだよなあ。


 そういえば、最近の時代小説や格闘漫画で、主人公や登場人物が柳剛流の遣い手であったりするのがいくつかあるようだけれど、オソロシクて私は読んでいない。

 問題なのは、創作物の記述を史実と勘違いする人が少なくないことで、一般の人はもちろん、中には武術関係者でも、事実とフィクションを混同している人がいるから困る。

 以前、ある武術関係者と宮本武蔵に関連する話題になった際、その人物は『小倉碑文』どころか、相当脚色がされているであろう『二天記』も参照したことがなく、そもそも『五輪書』すら読んでおらず、テレビドラマや映画とシバリョウ先生のトンデモ本『真説 宮本武蔵』だけで、武蔵を論じていたのには閉口したものだ。

 また時折、手裏剣術関係者で、刀法併用の手裏剣術に関して、「武蔵が宍戸梅軒を倒したときに、云々」とかいう人が結構いるのだが(白上一空軒先生の罪は大きいね・・・)、

 「宍戸梅軒って誰? 梅軒とか誰なの? 梅軒!? はぁ!? まじですかぁ!?」

 っと、ナンギン(※)のキャバクラのお姐さんばりに、息もつかせず二刻ぐらい問い詰めたくなる私は、心の狭い人間なのだろうか。 

 ロマンをロマンとして語るのはいいのだけれど、少なくとも古流武術に実際に関わる者は、公においてフィクションと史実はきちんと区別するべきであろう。


 それにしても、「卑怯」とか「みっともない」とか「百姓剣法」とか言われるのは慣れているが、もはや他流の裏技呼ばわりですぜ・・・・・・。



(※注)ナンギン
 新宿や池袋辺りでは客引きが禁止されて久しいが、ここではいまだに路地に入ると色っぽいお姐さん達が沿道にズラリと並び、道行く酔っ払いの袖を引いたりオイデオイデをする、江戸の新吉原やハマの黄金町もびっくりの、武州・埼玉最大の魔境・・・もとい歓楽街。正しくは、大宮南銀座という。
 翠月庵の前身の道場が大宮にあった2006年頃、私もよく稽古帰りにナンギンで飲んだものだが、最近はすっかりご無沙汰である。あそこには、焼き蛤のうまい小料理屋があってねえ・・・・・・。

 (了)
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柳剛流のふるさと、幸手の銘酒(その1)/(柳剛流)
- 2016/03/03(Thu) -
1603_酒


 柳剛流の流祖・岡田惣右衛門奇良は、武州葛飾郡惣新田、現在の埼玉県幸手市に生まれた。


 さて、東武日光線幸手駅から歩いて10分ほどの場所に蔵を構える石井酒造は、創業天保11(1840)年という歴史ある酒蔵である。

 天保11年といえば、すでに流祖は鬼籍に入った後だ。

 しかしその後、流祖生誕の地であるここ幸手では、直門の師範家である松田源吾が江戸とこの地を往復して数多くの優れた柳剛流剣士を育成し、あるいは松田の弟子で柳剛流第三世代の師範家として門人は3000人にも達したという、武州における柳剛流の大家・岡安英斎が活躍してきた。

 とすれば、あるいは彼らも、石井酒造の醸した酒を飲んだかもしれない・・・・・・。


 今宵、杯を傾けたのは、石井酒造謹製の「富士 初緑」の吟醸。

 淡麗辛口で、クセのないすっきりと味わいがいい。

 素直で、旨い酒だ。

 「初緑」という名前も、柳の新緑を思わせる、好ましいものである。

 250年の時空を超えて、流祖生誕の地に思いを馳せながら、しみじみと杯を傾けるのは、まさに至福のひと時である。

 ■石井酒造株式会社
 http://www.ishii-syuzo.jp/home.html

 (不定期に、つづく)
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卜占一閃/(身辺雑記)
- 2016/03/02(Wed) -
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 神託。

 果敢ニ立チ向カウモ、精神ノ疲労ニ警戒セヨ。重圧ノ向コウニハ、剣ノ閃キアリ。

 粛々ト、術ト理ノ高ミヲ目指スベシ。



 昨日から机にかじりついて、2016年診療報酬改定に関する、厚生労働省課長へのインタビュー原稿15枚を執筆。

 日付が変わる前に、ようやく入稿。

 もう脳細胞がくたくたなので、晩酌してさっさと寝ちまおうかと思ったのだが、手なぐさみの卜占一閃、こんな神託が出てしまったら、今日も古流の稽古はサボれまい。空手の稽古は、もう1ヶ月もサボっているのだが(苦笑)。

 というわけで入稿を済ましてから、柳剛流の剣・杖・長刀をひとさらい。

 嗚呼、それにしても多忙なり・・・・・・。


 「せめて日に六度の勤抜てよし
            つもりつもりて後は自在そ」(柔新心流居合習伊呂波歌より)

 (おしまい)
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