柳剛流の実理~突杖/(柳剛流)
- 2016/05/30(Mon) -
 「柳剛流の精髄~右剣と左剣」、「柳剛流の鍛錬~居合」と続けて、表題の通り「柳剛流の実理~突杖」という一文を書こうと思ったのだが、去年の11月、本ブログに書いた突杖に関する記事が、まんまそのものの内容なのであった・・・・・・。

 「柳剛流の突杖」
 http://saitamagyoda.blog87.fc2.com/blog-entry-831.html



 ところで最近、Wikipediaの柳剛流のページを見たら、柳剛流の読み方が「りゅうこうりゅう」と修正されていた。

 ちなみに直したのは私ではありません、念のため。

 編集履歴をみると、今年の4月に修正されたようである。

 どうせならついでに、流祖の諱も「奇良」に修正してくれればよかったんだがなあと思うのは、私だけであろうか・・・・・・。

 (了)
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自省の一服/(身辺雑記)
- 2016/05/28(Sat) -
 酔っ払ってパソコンに向かうと、70~80年代の懐メロのyoutubeを、フェイスブックに貼り付けたがるのが私の悪い癖だ。

 そしてさらに泥酔すると、ブログで小林源文先生礼賛の駄文を書きたがるのは、もっと悪い癖である。

 書いた当人は、「ふむ、なかなか小じゃれた記事だわい、テヘペロ!」などとそのときは悦に浸るわけだが、夜が明けて、二日酔いで赤くなった目をこすりつつ己が書いた駄文を見ると、しみじみと生きているのが嫌になるのもまた、いつものことである。

 てな訳で、昨晩、カネマラをストレートでガブガブ飲んだ挙句に書いてアップした駄文は、今朝方削除しました。

 アクセスカウンターを確認したところ、3名の方がその駄文を見られたようですが、運が悪かったとあきらめてください・・・・・・。


 そんなこんなで、今晩はあまり深酒をしないようにと、朝から都内某所で国の社会保障制度改革関連のシンポジウムを取材した帰り、地元の焼き鳥屋で小江戸ビール漆黒を2杯、甕だし紹興酒のロック1杯で切り上げてしおらしく帰宅。

 そしてさきほど、心静かにお茶を一服いただいたところである。

160528_三島手3


 この三島手の茶碗、作家ものだが頃合の値段だったので購入。本日、拙宅に届いたものである。

 青磁や萩とならんで、三島手の器は私の好むところだ。

 独特の侘びた風情が好ましい。

160528_三島手2


 アルコールで弛緩した脳髄を、抹茶の濃厚なカフェインと葉酸が刺激し、適度に引き締めてくれるようである・・・・・・。

 とまあ、酔っ払ってないと駄文は駄文でも、こういうタッチになるわけです。

 お後がよろしいようで。

160528_三島手1

 (おしまい)
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柳剛流の鍛錬~居合/(柳剛流)
- 2016/05/27(Fri) -
 柳剛流(りゅうこうりゅう)には、「向一文字」「右行」「左行」「後詰」「切上」と、5本の居合が伝えられている。

 修行人はこれら5本の形を、切紙の階梯において学ぶこととなる。

 各形の具体的な体動については師伝のためここでは詳述しないが、以下にその特長や意義について考察してみよう。


 形の構成は実にシンプルであり、基本となるのは1本目の「向一文字」である。

 その後に続く2本目「右行」、3本目「左行」、4本目「後詰」は、いずれも基本的に「向一文字」を左右と後ろ方向に展開したものとなる。そして5本目の「切上」のみ、他の4本の形とは異なる運刀法となっている。

160527_左行
▲柳剛流居合「左行」


 先に本ブログで記した「柳剛流の精髄~右剣と左剣」という小文で、柳剛流剣術の「右剣」と「左剣」の2つの形の特長について、

 その「体捌き」は、剣術は元より居合や長刀においても、当流では全てにおいてこの独特の体捌きを用いる(突杖のみは別である)。これが柳剛流ならではの拍子の位を産み出し、また圧倒的な斬撃力の根本ともなる。

 と述べた通り、居合でもこの柳剛流特有の「体捌き」が用いられる。

 しかもそれは、剣術における立位よりもはるかに身体的に窮屈で負荷のかかる、座位で行われるのだ。

 さらに柳剛流居合では、抜付や斬下ろしの際、現代の居合諸流に多く見られるような、踵と尻を離して腰を立てた姿勢はとらない。必ず尻が後ろ足の踵の上に乗った折敷の姿勢で、抜付、受け、斬り下ろしを行う。

 これらの点に、柳剛流の居合形の大きな意義がある。

 剣術形よりも身体的に大きな負荷のかかる、古式に則った腰を立てない座位にて、さらに当流独特の体捌きを用いつつ運刀を学ぶことで、柳剛流ならではの拍子の位と強烈な斬撃力の根本となる、「地力」を徹底的に養うのである。

 また柳剛流の居合では、できるだけ長い刀での稽古が推奨される。

 私は残念なことに、現在、二尺一寸、二尺二寸、二尺三寸五分、二尺四寸の刀や模擬刀(居合刀)しか所持していないので、自宅での稽古ではこれらを用いて居合を遣うが、本部稽古の際には師の二尺七寸の差料をお借りして稽古を行っている。

 理想としては、三尺刀で柳剛流の居合を抜けるようになれば最良であろう。

 以上の考察から柳剛流における居合は、当流ならではの心身の土台を作り上げる最も重要な鍛錬法のひとつであるといって過言ではない。

 実際のところ私自身、慣れないうちは5本の形を一通り続けて行うだけで、下半身がぱんぱんになったものである。今でも、1時間以上続けて居合の形稽古だけを続けるのは、かなり厳しい(苦笑)。


 「居合は運刀を学ぶための鍛錬である」というのは言わずもがなだが、総合武術たる柳剛流の教習体系においては、特にそういった「鍛錬」の意味が強いといえるだろう。

 (了)
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柳剛流の精髄~右剣と左剣/(柳剛流)
- 2016/05/26(Thu) -
 柳剛流(りゅうこうりゅう)は、剣術・居合・突杖・長刀(なぎなた)、さらに殺活術なども備えた総合武術である。

 これらの技術体系の根幹となるのが、稽古者が最初に学ぶ、切紙の剣術形「右剣」と「左剣」だ。

160526_左剣
▲柳剛流剣術「左剣」。(打)小佐野淳師、(仕)瀬沼健司


 誤解を恐れずにいえば、柳剛流特有の術理を凝縮した流儀の精髄が、この2つの形であるといっても過言ではない。

 具体的な体動については師伝のためここでは詳述しないが、この2つの形には柳剛流を柳剛流たらしめる、以下の4つのポイントが全て含まれている。

1.独特の体捌き
2.拍子の位
3.断脚之術
4.上段対策

 (1)の「体捌き」は、剣術は元より居合や長刀においても、当流では全てにおいてこの独特の体捌きを用いる(突杖のみは別である)。これが柳剛流ならではの拍子の位を産み出し、また圧倒的な斬撃力の根本ともなる。

 一般的に柳剛流というと断脚之術ばかりが注目をされるが、じつはそれ以上に当流で重要なのが、この体捌きなのだ。

 (2)の「拍子の位」は武術にとって欠かせないものであるが、柳剛流の「右剣」と「左剣」では、その独特の体捌きを活用する形で、緩急を備えた拍子の位が明確に形を打つ者に示される。

 (3)の「断脚之術」は、いまさら言うまでもない。流祖・岡田惣右衛門奇良が編み出した、当流の真面目だ。

 (4)について、巷間、「脚斬りの弱点は、上段への斬撃である」などと言われる。それはそれでたしかに事実ではあるが、流祖はそのようなことは十分承知の上で、断脚之術を編み出した。その証が「右剣」と「左剣」2つの形に示されている、対上段攻撃の口伝であり体動である。


 このように「右剣」と「左剣」の形には、当流を稽古する上で必要な術と理が濃密に凝縮されており、入門者はまずこの2つの形をみっちりと稽古することで、柳剛流ならではの体動と術理を習得するのだ。

 その上で目録の段階では、流祖自らが伝書上で「当流極意」と称した柳剛刀の形6本を学び、流儀の術をさらに深めることができるのである。

 その証拠に、たとえば目録で学ぶ柳剛刀の一手である「青眼右足刀」や「青眼左足刀」、「中合剣」の3本の形は、ある意味で切紙で学ぶ「右剣」と「左剣」の応用変化・実戦用法といってよい。

 あるいは当流の免許秘伝である長刀の形も、「右剣」と「左剣」、そして居合形で練りに練った体捌きをもってこそ自在に操れるものであると、実際に長刀の形を打つことで強く感じることができる。


 古流武術では、最初に学ぶ形に自流の極意となるエッセンスが凝縮されていることが少なくない。

 我が柳剛流においても、こうした道理が当てはまるのだといえるだろう。

 (了)
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本部にて柳剛流の稽古/(柳剛流)
- 2016/05/24(Tue) -
 一昨日の日曜は、水月塾本部での稽古であった。

 師に打太刀をとっていただき、柳剛流の剣術・突杖・居合・長刀の形を行ずる。

 どうも私は、柳剛刀の一手である「中合剣」の足捌きを誤りがちで、目下、これが大きな課題だ。この形単体では特に問題はないのであるが、一連の剣術形を続けて行っていると、この「中合剣」の足捌きをどうも誤りがちなのである・・・・・・。

 また剣と杖いずれも、間合の取り方において打方と近くなりがちなクセを師に正していただく。とかく相手に接近したがるのが、私の悪い傾向だ(苦笑)。

 居合では二尺七寸の刀をお借りして、一本目の形「向一文字」での足捌きと斬り下ろしの際の太刀筋について、手直しをしていただいた。


 稽古後半は、水月塾制定日本柔術、初伝逆投を二手、中伝逆取を一手、ご指南いただいた。

 柳剛流だけでなく、日本柔術の稽古も楽しく興味深い。自在に当て、投げ、極める稽古は、武器術とはまた異なるフィジカルな感覚、さらに直接的な護身術の鍛錬としても、やりがいがあるものだ。


 稽古後、師より仙台藩角田伝柳剛流、切紙の印可をいただいた。

 身の引き締まる思いとともに、さらに当流の精進と調査・研究を進めなければならぬと心に誓った次第である。

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 (了)
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伊豆の神道無念流/(武術・武道)
- 2016/05/20(Fri) -
 4月下旬から5月中旬まで、長らく伊豆に滞在していた間も流れ武芸者としての本性が抑えきれず、母の介助や看取りの合間に病院の屋上などで柳剛流や柳生心眼流の稽古をしていた。

 さすがに手裏剣は打たなかったが、われながら業の深いもんである・・・・・・(苦笑)。

 そんな中、修善寺にある書店の郷土史コーナーで、『伊豆の郷土研究 第22集』(田方地区文化財保護審議委員連絡協議会/平成9年)という論文集を見つけた。

 その中に、旧韮山町(現在の静岡県伊豆の国市)在住の大原美芳氏による「幻の精武館(韮山における神道無念流)」という記事が記載されていたので、以下に紹介したい。

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▲19年前にまとめられた論文なので、追加調査をしてみるのも面白いかもしれない


 伊豆韮山の代官であり、幕末における西洋砲術の第一人者であった江川太郎左衛門英龍(担庵)といえば、庶民から「世直し江川大明神」と呼ばれるほどの名代官として、伊豆地方ではその名を知らぬ者のない大偉人である。

 その担庵だが、文政元(1818)年、江戸にて神道無念流・岡田十松の門下となり後に免許を許されていることは、武術関係者のほかには意外と知られていない。

 そして、この岡田十松門下で担庵の兄弟子であったのが、幕末を代表する大剣客である斉藤弥九郎(篤信斎)である。

 篤信斎は、担庵の命により大塩の乱に揺れる大阪の探索に出向いたり、担庵とともに刀剣商に扮して甲州の民情視察に赴くなど、手代(政治顧問)としても多いに活躍をしたことでも知られている。

 この篤信斎には、妻・岩との間に六男一女の子息があった。

 長男の新太郎は廻国武者修行で名を馳せ、後に「弥九郎」の名を襲名した。また三男の歓之助は、「突きの鬼歓」の異名をとった幕末の有名剣客である。

 篤信斎の息子と言えば、この長男と三男が良く知られているが、残りの4人の息子たちのことはほとんど語られることがない・・・・・・。

 さて、幕末から明治にかけて、江川担庵の本領である伊豆韮山に「精武館」という道場を構え、神道無念流の指南を行ったのが篤信斎の四男・斉藤四郎之助善孝である。

 四郎之助が、いつ誰の招きによって伊豆韮山に来訪し、道場を構えて神道無念流を指南するようになったのかについて、はっきりしたことは分かっていない。しかし担庵と篤信斎の関係を考えれば、双方の命を受けての伊豆での剣術指南であったことは容易に想像できる。

 また四郎之助の「精武館」は韮山のどこにあり、どれくらいの門弟が稽古をしていたのかについても、詳細は時代の波間に隠れてしまい明らかにはなっていない。

 しかし現在、担庵の旧家臣の家に神道無念流の目録が2つ、当地の名主であったS家に目録、順免許、免許の3つの伝書が伝えられている。このうちS家の順免許と免許には、伝授者として四郎之助の名が記されており、また免許の伝書には「精武館」の名を見ることができる。

 これらの伝書の記載と当地に残る戸籍関係の書類から、少なくとも元治(1864)元年から明治22(1889)年までの25年間、四郎之助は韮山に在住し、神道無念流の指南をしていたことが分かる。

 その後、伊豆韮山から大阪へ転居した四郎之助とその家族の行く末は、なにも知ることができないという。

     *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  

 私は現在、小佐野淳先生より仙台藩角田伝柳剛流と合わせて、八戸藩伝神道無念流立居合も学んでいる。

 思えば今から120年以上前、我が故郷である伊豆地方で神道無念流が指南されていたこと、そしてその業を今、伊豆で生まれ育った自分が稽古していることを思うと、いささか感慨深いものがある。


 なお大原氏の記述によれば、四郎之助の父である篤信斎は、「斉藤弥九郎」と改名する以前は岩島伝九郎と名乗っていたという。そして伊豆韮山の本立寺には、酒の徳利の形をした「伝九郎墓」という墓碑が残されている。

 この墓碑には、「秋詣道場」「天保七年九月二十四日」という文字とともに、次のような狂歌が記されているという。

 「花の世に酒にくらしてついにまた実のなるはても徳利になる」


 その上で大原氏は、この墓碑について次のように記している。

 「この墓は一般の人の死後の墓ではない。刻されている文字から判断すると、天保七年九月二十四日、秋に道場に来た。酒好きの伝九郎は酒をたち、これからは伝九郎ではなく斉藤弥九郎として生きていく。伝九郎から弥九郎にかわる記念碑のように思われる」


 ■参考文献
 『伊豆の郷土研究 第22集』(田方地区文化財保護審議委員連絡協議会/平成9年)
 『戊辰物語』(東京日日新聞社会部編/岩波文庫/昭和58年)

 (了)
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ローハイ/(武術・武道)
- 2016/05/19(Thu) -
 約1ヶ月半ぶりに空手道の稽古へ。

 基本と移動でこってりと絞られた後、糸州流のN先生にバッサイ大と松村ローハイをご指導いただく。

 ローハイは、空手道の形の中で、私が最も得意とし最も好きな形である。

 とはいえ私のローハイは玄制流の鷺牌(ローハイ)なので、指定形の松村ローハイとは趣がかなり異なり、そこがまたたいへんに興味深い。

 N先生は古流の空手に造詣の深い方なので、たとえば背刀受けからの巻き込みの分解などについて、「実際にはこのように・・・」などと、刺激的(?)な分解のご指導がいただけるので、私は毎回楽しみにしている。

 この空手教室は県連が主催するもので、指導される先生方は糸東流、剛柔流、糸州流、玄制流などさまざまだ。このため、異なる流儀の先生による指導が受けられるのが、私のような流れ武芸者にとっては大きな魅力だ。

 さらに、この教室の一般部の稽古者の中では私が最上位の段位のため、上記のN先生に限らず、分解や約束組手などの指導の際には私が各先生方の受けを仰せつかることが多く、さまざまな流派の先生の技を直接受けることができることが、貴重な学びの機会となっている。

1605_ローハイ182
▲玄制流の鷺牌。それにつけても、これがすでに9年も前とは・・・・・・


 1時間半の稽古を終えて、家路に着く。

 こうして少しずつ、日常生活を取り戻していかねば。

 (了)
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再び日常へ/(身辺雑記)
- 2016/05/13(Fri) -
 昨日、母の葬場祭と火葬祭、十日祭を済ませ、本日、武州の草庵に戻ってきた。

 これでまた、普段通りの生活となる。

 危篤から看取り、死去から野辺の送りまで3週間に渡る日々であったが、家族として心残りのない時間を過ごすことができた。


 明日は一ヶ月ぶりに、翠月庵の稽古だ。

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▲母が生まれ育った修善寺を流れる狩野川から城山を望む

 (了)
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A Prayer for the Dying/(身辺雑記)
- 2016/05/08(Sun) -
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 17日間、末期がんで死につつある母の病室で過ごした。

 終末期鎮静で昏睡となり、すでに10日以上わずかな水分のみしか摂取していないものの、いまだ心臓の鼓動は止まらず、深く眠ったまま枯れつつある母を病床に残し、今日、武州の拙宅に戻る。

 最後の別れの言葉、麻酔による昏睡、無意識ながらも訴える夜毎の苦悶、献身的かつプロフェッショナルな医師や看護師たちの姿、21時から5時までの長い夜、マスクから流れる酸素の音だけが響く病室で読むサン=テグジュペリ、急激な酸素濃度の低下とその度の覚悟、肉親の間の軋轢と葛藤と娘たちの涙。そして、死にゆく者への祈り。

 次に母に逢うのは、息を引き取った後となるだろう。


「ポーラよ、奇妙な戦争だねえ。淋しい、深いブルーの戦争だねえ。わたしはちょっと迷ってしまった。年を取ってこの奇妙な国を見つけたんだもの・・・。いいや、こわくなんかない。ちょっぴり悲しいだけさ」  ~『アラスへの飛行』(アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ)~

 (了)
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