8月の本部稽古~柳剛流木刀、小笠原流伝書、鎖分銅/(武術・武道)
- 2016/08/29(Mon) -
 昨日は、水月塾本部での稽古であった。

 午前中は、4尺を超える柳剛流の木刀を使っての剣術からはじまり、突杖、居合、長刀の稽古。

 小佐野先生に、剣術から長刀までご指導をいただく。

 なお、柳剛流木刀の詳細については、水月塾本部のブログ「柳剛流の木刀」(http://japanbujut.exblog.jp/26127215/)を参照されたし。

 実際にこの木刀を使って形稽古を行うと、最初は間合に若干戸惑ったものの、慣れてくると非常にしっくりとくる。そして、武具の違いと体の動きや感じ方との、微妙で繊細な関係性を実感することができる。

 流儀に伝わる武具を使ってこその、「なるほど、そうだったのか!」という実感と発見は、ある意味で古流武術を稽古することの醍醐味のひとつといえるだろう。


 昼食をはさんで午後、まずは史料講義として、師が所蔵されている小笠原流の伝書を拝見、解説をしていただいた。

 この伝書は、各種武具と五行との照応に関するもので、太刀や脇差、薙刀や槍などの武具の各部分に八百万の神仏が配され、それぞれの武具に木火土金水の五行が当てはめられているというものだ。

 私は周易や気学を少々かじっているので、五行の照応や相生・相尅は多少は分かるが、それらと武具との関係というのは、また非常に興味深い。

 以下、師にご許可がいただけたので、一部を紹介しよう。

160828_小笠原流伝書1


160828_小笠原流伝書2


160828_小笠原流伝書3


 面白いなあと思うのは、こうした東洋哲学における照応が、周易からはじまり漢易をへて、さらに道教が加わって成立した"五行”という「ファイリングシステム」によって整理されているのに対し、西洋ではユダヤ教のカバラからはじまり中世の薔薇十字団をへて、さらに19世紀末から20世紀の間に興隆した魔術結社によって成立した"生命の樹”という「ファイリングシステム」によって整理されているという類似点だ。

 まあ、カバラと密教との類似点などという高尚かつ剣呑な話題は、私のような街角の流れ武芸者にはいささか荷が重いテーマなのであまり深追いはせず、せいぜい早九字でも切るか五芒星追儺の儀の励行で、身辺を清浄にしておく程度にとどめておこう。


 午後は、柔術稽古の一環として、水月塾制定の鎖分銅の形を二手、教授していただく。

 私は昔から、鎖分銅という武具にはいろいろと疑問があった。

 たとえば、

1.鎖分銅は捕方の武器というが、こんなもんでひっぱたかれたりしたら、怪我するか悪くすれば死んじまって、生け捕りが目的の捕縛武器にはならんだろう!?

2. 隠し武器というが、鎖分銅って見た目凶悪っぽいし、そもそもこんなもんそのままジャラジャラと腰にぶら下げていたり、手に持っていたら、ものすごい武器持ってますよアピールで、ぜんぜん隠し武器ぢゃないじゃん! 

3.振り回して使う打撃武器と考えると、こんなに扱いにくい武器はないんじゃなかろうか。私だったら二尺の鎖分銅よりも、同寸の短棒や警戒棒を選ぶね(キリッ

 といった具合である。

 しかし、師より口伝を交えて形を教授していただくと、「なるほど、そういうことか!」と、目からうろこが5枚ほどはがれた。

 何事も、師伝によって実際に学んでみないと分からないものだとしみじみ実感した次第。

160828_分銅鎖
▲古流の伝統に則った鎖分銅


 (了)
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遠きにありて/(身辺雑記)
- 2016/08/26(Fri) -
 最後の遺品整理のため、再び伊豆へ。

 不要な物品をすべて処分し、捨てられないものは武州の拙宅へ送る。

 1日に路線バスが2本しか通らない山奥にぽつんとある、2棟しかない小さなこの団地で私が暮らしたのは、11歳から19歳までの8年間。

 高校生の頃は、ここから早朝、1時間歩いて最寄り駅へ向かい、そこから各駅停車を乗り継いで東京へ行き、武芸を学んだりしたものだ。

 母はここで、36年間暮らしていた。



 片付けを終えて部屋から出て、外で一息つくと、夏の終わりらしい少し乾いた感じの青空がまぶしい。

 すると突然、35年前の記憶がよみがえった。

 1981年の夏のある日、12歳の私はここに座り、団地の壁と夏の空を眺めながら、FMのラジオドラマを聴いていた。

 タイトルは、「Summer of 81」。

 内容はもう忘れてしまったが、タイトルだけは鮮明に覚えているのが不思議だ。

 いずれにしても、もうこの団地を訪れることはないだろう。



 ふるさとは遠きにありて思ふもの
 そして悲しくうたふもの
 よしや
 うらぶれて異土の乞食となるとても
 帰るところにあるまじや
 ひとり都のゆふぐれに
 ふるさとおもひ涙ぐむ
 そのこころもて
 遠きみやこにかへらばや
 遠きみやこにかへらばや
 ~小景異情-その二~(室生犀星)

160825_114954.jpg

 (了)
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無銘の源良近/(身辺雑記)
- 2016/08/23(Tue) -
 ヤフオクで、源良近が出ていて、「オッ!?」っと思ったのであるが、残念ながら無銘の極めである。

 http://page24.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/q126496817

 私は日本刀鑑賞については、まったくの素人だけれど、それにしても、「極め」をはじめとした日本刀鑑賞独特の世界観というは、ちょっとどうかと思うことが少なくない。

 たとえばよく言われる、「改めて研磨して鑑定に出すと、出世しますよ」とかいうのも、どうかと思う。

 ぢゃあ、"出世”する前の作者名やら時代やらはいったいなんだったんだと思うのは、私だけではあるまい。

 また、極めはあくまでも極めであり、結局は「推測」なわけで、いわば箱書きも所持者の伝承も何も判然としない茶碗を、なり・ころ・ようすだけで、「これは長次郎ですね(キリッ」というようなものなわけだ。

 まあ、極めに関しては、極める人も、極めてもらう人も、「極めとはそういうもの(こと)」という共通認識があればいいのだろうけれど、そうでないと、いろいろと気持ち的な面で、問題が起こってしまうのではなかろうか?


 そんなこんなで、このヤフオクの源良近、二尺三寸一分は、素人目には「ちょっと長いかなあ・・・」とも思うのだが、以前、二尺五寸越えの良近も見たことがあるので、なんともね。日本刀の世界は、難しいもんです。

 それにしても、源良近と江村は、いつかは手に入れたいもんだが・・・・・・。

 ま、今晩、我が愛刀、市原”監獄”長光を撫して、心を慰めるしかあるまいね(笑)。

 (おしまい)
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埼玉県立武道館で、柳剛流を稽古する/(柳剛流)
- 2016/08/21(Sun) -
 昨日は雨で定例稽古が中止になったのだが、どうにも稽古をしないと気分がぱっとしない・・・。

 そんななか、夕方ふと埼玉県立武道館のHPを見たところ、本日は夕方から夜まで個人利用可とのこと!

 拙宅から武道館までは歩いて行ける距離なので、早速訪ねてみると他に利用者はなし。そこで、夜まで武道場をひとり占めし、一人稽古に汗を流す。

 見所(けんぞ)のある、板張り・245坪(810㎡)の本格の武道場を、360円で使い放題である(笑)。

 稽古場のど真ん中ででひとり黙想後、まずは柳生心眼流の基礎と素振りで体をほぐす。

 その後、柳剛流の剣術、突杖、居合、そして長刀を、たっぷりと時間をかけて稽古する。

 たった一人での占有使用のため、照明は半分しかつけてもらえないのだが、逆にその薄暗さが集中力を増す。

 壁に設えられた、大きな全面ガラスの前で剣や長刀を振るっていると、なにやら己自身と立合っているような錯覚すら感じられる。

 小休止は、稽古場のど真ん中で、ひとり静座しながら息を調える。

 稽古のしめは、八戸藩伝神道無念流立居合。

 裂帛の掛け声とともに12本の形を抜き終われば、ちょうど2時間が過ぎて、時刻は閉館15分前。

 そこで黙想し、稽古を終えた。



 さて、この県立武道館で、定期的に柳剛流の指導や稽古ができれば最高なのだが、実際のところ、それは難しい。

 まずコストの問題。

 ここは団体利用だと使用料が1回3時間半で5960~6780円と、かなり高額である。

 毎週必ず稽古に来る生徒が10人、いや、せめて5人もいてくれればなんとかならないでもないが、なにしろ当庵の門下数は現在わずか●名(お察しください)であり、しかも全員、県外在住者。さらに稽古に来るのも、皆、毎週ではなく月1~2回と不定期なので、この料金での定期的な団体利用は、赤貧洗うが如しの流れ武芸者である私には、到底無理である(爆)。

 また料金の安い個人利用も、ここでは使用を希望する日の2日前にならないと、その日に個人利用ができるかどうかが確定しないため(3日前まで団体利用の受付をしているゆえ)、定例稽古場として、事前に門下に告知した上での使用ができない。そうなると、県外在住の社会人に(県内の人でもそうだが)、2日前になって突然「明後日、稽古をします!」といっても、スケジュールが立てられないだろうし、それでは定例の稽古場とはならない。

 あくまでも定例の稽古場というのは、決まった日時に必ずそこで稽古が行われており、その時間にそこに稽古に行けば、いつでも稽古ができる場所でなければならないのではあるまいかと、私は思う。

 そしてまた、この武道館はアクセスが非常に悪い。

 最寄り駅から歩くと約30分ほどかかり、にもかかわらず、夕方以降はバスも走っていないのである。このため夕方から夜間は、自家用車のある人でないと、たいへん利用しにくいのである。

 そしてなによりも、ここでは、手裏剣術の稽古ができない・・・(涙)。

 ま、これはほとんどすべての武道館や体育館が、床などの破損の可能性や、備品(的)の留置不可などにより、手裏剣術の稽古は受け入れてくれないんだけれども。

 (そういう意味でも、現在の翠月庵の稽古場の家主様には、本当に感謝をしております)

 そんなこんなで、拙宅から「スープの冷めない距離」にありながら、県立武道館を定例稽古の場所とするのは難しいというのは、以前からすでに分かっていた。



 とはいえ、埼玉における武道の殿堂である県立武道館で、武州・埼玉発祥の古流武術である柳剛流をはじめ、埼玉にゆかりの深い流派である神道無念流などの稽古を行うというのは、ある種、形而上の意味のある行為だと、私は感じている。

 そのような意味、いや「願い」も込めて、今後は折に触れて、稽古に利用していこうと思う。

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▲やっぱり屋根付き、板張りの稽古場はいい!
 って、昨日と言ってる事が・・・(お察しください)


 (了)
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晴耕雨読/(身辺雑記)
- 2016/08/20(Sat) -
 今日は朝から雨。

 「翠雨」を雅号にしているくらい、個人的に雨は大好きなのであるが、こと稽古と取材に関しては、雨というのは好ましくない。

 なにしろ当庵は野天道場のため、雨が降ると稽古ができないのである・・・・・・。

 その上で、当庵の門下は全員県外在住者(!)であり、皆さん片道2~3時間もかけて稽古に来るため、天候がよくない場合は、稽古を実施するか、中止にするのかの判断は、当日の午前中に判断して連絡しなければならない。

 一応、10~11時までには判断をし、出席予定者に連絡するようにしているのだが、中途半端な天気の場合、ぎりぎりまで判断に迷う。

 なにしろ、高い交通費を払って来てもらって、稽古場には着いたが稽古はできないというのは、たいへん申し訳ない。

 一方で、多忙な日々の中、せっかく時間を作ってくれたのに、当日になって急遽中止というのもたいへん申し訳ない。

 ということで、天気の悪い日はぎりぎりまで、「やるか」「やらないか」の判断に難渋するわけだ。


 野天道場というのは、こうしたデメリットがある反面、屋内の道場稽古では実感することのできない、武芸のリアルを実感しながら稽古ができるのが大きなメリットだ。

 その最大のポイントは、運足である。

 よく言われることだが、屋外では、床張りの道場でよく行われるような、滑るような摺り足はできない。これはてきめんに感じることで、凹凸のある地面はもちろん、かなりよく整地された平らな地面でも、踏むまで気づかないような小さな石ころが1つあるだけで、屋内道場風の滑らかな摺り足の場合、運足が滞ったり拍子が乱れたりする。

 それどころか、結構つまづく人も少なくない。

 こうした運足の乱れや滞りは、武芸の立合いでは致命的なものだが、野天で稽古をしたことの無い人には、なかなか実感できないのではあるまいか。

 「足のはこびやうの事、つまさきを少しうけて、きびすを強く踏むべし。足づかいは、ことによりて大小・遅速はありとも、常にあゆむがごとし」

 と、『五輪書』にあるが、まったくその通りだと実感できる。


 また、武術の教えに、「屋外では太陽を背にせよ」とか、「風上に立て」などといものがある。

 これらもまた、野天稽古ではしみじみ実感できることだ。

 朝や夕暮れ間近など、日差しが斜光の場合、太陽が視線に入る位置に立ってしまうと、本当に相手や的が見にくくなる。あるいは風の強い日などは、風上に立つのが圧倒的に有利だ。

 そのほかにも、朝露にぬれた草地はたいへん滑るとか、ぬかるんだ地面ではリズミカルなフットワークは使えないとか、股立ちは必ずとった方がいいとか、着装で大事なのは足ごしらえだ、などというのは、野天稽古でないとなかなか感得できないことであろう。


 というわけで、本日はこれから酒でも飲むか、シン・ゴジラでも見に行くか、いやいや、家で稽古か・・・・・・。

 泣く子と雨には、かないません。

無邪気な雨


 (おしまい)
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古い稽古用薙刀/(武術・武道)
- 2016/08/19(Fri) -
 柳剛流長刀(なぎなた)の稽古用に、木製の男薙刀を探しているのだが、なかなか頃合のものが見つからない。

 本部の稽古では、師が所蔵されている、実に素晴らしい時代の物の木製男薙刀をお借りしているのだが、自宅や翠月庵での稽古では、やむをえず全日本なぎなた連盟規格の木製なぎなたを使っている。

 男薙刀に比べると、女薙刀は細く軽いので、稽古に使うには今ひとつものたりないのであるが、特注して製作する経済的余裕もないので、オークションや骨董店などで、気長に時代の物を探そうと思っている。


 そんななか先日、オークションで古い木製薙刀が目に留まった。

 残念ながら細身の女薙刀であるが、全長6尺とやや短く、それなりの時間を経てきたようで木の風合いも、画像で見る限りなかなかに渋い飴色になっている。

 値段も小遣い程度であったので、落札してみた。

 昨日、拙宅に届いたのでさっそく手に取ってみるが、やはり細く、軽い(苦笑)。

 全日本なぎなた連盟規格の木製なぎなたと比べても、柄の太さはひと回り細く、全長が1尺短いこともあって相当に軽い。

 しかし、この「ひと回り細い柄の太さ」というのが、逆にこの薙刀が現在の連盟規格ではないという証拠であり、それなりに時代を経てきたものであるという根拠にも思える。

 また、木地の色合いは予想通りの好ましい飴色で、石突部分などを見ても、かなり長い年月に渡って使われてきたであろうと想像できる。

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▲木製の薙刀というのは、刃部のシェイプがグッとくる


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▲長い時が刻まれたであろう、飴色の木地がいい


 往時の女学校で、襷姿も凛々しい乙女らが、この長刀を取って稽古に励んでいたのであろうか・・・・・・・。

 書き物部屋の窓から晩夏の入道雲を眺めながら、ふとそんな情景が浮かんで消えた。

201608_長刀
▲大河ドラマ『八重の桜』で、黒木メイサ氏が演じた中野竹子。
会津戦争では娘子軍を率い、薩長軍を相手に奮戦した。辞世
は、「もののふの猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ我が身な
がらも」

 (了)
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カルミナ・ブラーナ/(身辺雑記)
- 2016/08/16(Tue) -
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 今日は旧盆の送り火。

 夜が更けて、しとしとと降る雨の音を聞きながら、手慰みにカードを手繰る。


おお、運命よ
月のように姿は変わる
常に満ち常に欠ける
不快な世もつらいのは一時
次には気まぐれに喜びを与え、人の心を弄ぶ
貧困も権勢も氷のごとく溶かし去る

恐ろしく虚ろな運命よ
運命の車を廻らし
悪意のもとにすこやかなるものを病まし
意のままに衰えさせる
影をまといヴェールに隠れ
私を悩まさずにはおかない
なす術もなく汝の非道に
私の裸の背をさらすとしよう

すこやかなるものも美徳も
運命は私から追いやり
苦しめ思うがままにさいなむ
今こそためらわず
弦をかき鳴らせ
強き者すら打ち倒す運命の一撃に
皆の者よ、私とともに泣くがよい

 「CARMINA BURANA」 より




 (おしまい)
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平成28年度 手裏剣術講習会・夏季納涼会・合同稽古/(手裏剣術)
- 2016/08/15(Mon) -
 先の週末の2日間は、毎年恒例となっている、戸山流居合抜刀術美濃羽会 中津川稽古会の皆さんとの手裏剣術講習会・納涼会・合同稽古を行った。

 朝7時、武州の拙宅を出て、青春18きっぷで中央本線から中央西線を経ておよそ8時間かけて中津川へ。

 到着後、まずは中津川稽古会の皆さんを対象に手裏剣術講習を実施。

 今回は長剣を使って2間前後で、「板金を打つ心」での打剣をしてもらう。

 夕方からは納涼会として、バーベキューを満喫。

 いつものごとく、私は泥酔、そして就寝・・・・・・。

 2日目は中津川稽古会の皆さんとともに、相対稽古で汗を流す。

 稽古後昼食を済ませ、中津川を後に帰路に着く。


 O先生をはじめ、中津川稽古会の皆さん、今年も楽しい時間を過ごさせていただき、ありがとうございました。

 次回は年末の忘年会&合同稽古でお会いしましょう!

 (了)
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下総に息づく「治国安民」の剣、不二心流/(武術・武道)
- 2016/08/12(Fri) -
 先月から当庵で柳剛流の稽古を始めたU氏は、夢想神伝流組太刀を本義に自らの教場で各種武術の指導に当たっている方だが、合わせて古流武術である不二心流の研究をされているという。

 私は基本的に、頭の中は柳剛流と手裏剣術でいっぱいいっぱいなので、まったく不勉強で知らなかったのだが、不二心流は幕末の下総を中心に隆盛を誇った坂東の名流儀であるという。


 そこで少し調べてみたところ、工学院大学の数馬広二教授の『幕末関東における不二心流についての研究―その特徴と社会的役割― 』という論文が公開されており、早速読んでみた(https://www.jstage.jst.go.jp/article/budo1968/21/3/21_22/_article/-char/ja/)。

 本論文によれば、不二心流は島原藩士中村一心斎が、文政元(1818)年に開いた武術であるという。

 当流の特徴は、剣術を中心とした総合武術であり、かつ農村の貨殖(経済復興)を目指し、「謄」や「気」、「養気錬丹」の法など心法を強調することによって、稽古者=農民に必須の修身鍛錬となっていたという。

 武芸の修練によって「農村社会の復興」を目指したという不二心流の思想は、ある意味で昭和62(1987)年に日本武道協議会が定めた「武道憲章」(http://www.nipponbudokan.or.jp/shinkoujigyou/kenshou)に見られる、武技の鍛錬を通じて個々人の人格を陶冶し、ひいては社会全体の安寧向上を志す、「武道」の意義の先駆けともいえよう。

 (ただし「武道」が、実際に人格の陶冶と社会の安寧向上に寄与できているのかについては、また別の問題であるが・・・・・・)

 この点について数馬氏は、次のように指摘する。

~以下、引用~

 (不二心流が行っていた養気錬丹会と称する稽古の)必要性については、一心斎が以下のように述べている。

 夫れ兵法の要は、治国安民に止る。何んぞ戦闘の為のみならんや。鳴呼、大任有る者は深く之を思へ。伏義、神農、黄帝は身のたけ八万余丈の神聖也。故に無為の化、不言の政也。其八万余丈の大人となるには、予が錬丹の術にして、長生不死の神術なり。

 つまり、兵法というものは、「戦闘」の為(小なる兵法)にあるのでは無く、「治国安民」の為(大なる兵法)にあるとしており、これを遂行する為の実践方法として「錬丹術」を位置付けているのである。 

~以上、引用終わり~


 その上で数馬氏は、当時の農村の現状や社会状況を考慮・検討した上で、

 「中村一心斎は、不二心流を契機に門人となった農民を啓蒙し、農村復興の指導を目指したのであろう。そのことがまさに、不二心流の理念を実現することだった」(前掲論文より)

 と、結論付けている。


 中村一心斎によって不二心流が起こされた文政元(1818)年といえば、我が柳剛流の流祖・岡田惣右衛門奇良は54歳。すでに柳剛流を起こし、神田お玉が池の道場で数多くの門人を育成していた。

 あるいは流祖の高弟である松田源吾義教は、後に武州における柳剛流の大師範家となる岡安禎助(英斎)や、藤堂家江戸藩邸で北辰一刀流の千葉栄次郎や鏡心明知流の桃井左右八郎(後の4代目春蔵直正)と立合い「断脚之術」の妙技を見せた押見光蔵の師であるが、この年に自身の生家があり流祖生誕の地にもほど近い、武州葛飾郡佐左衛門(現在の埼玉県北葛飾郡杉戸町)に柳剛流の道場を開設している。

 さらに、幕末を代表する柳剛流の剣客・岡田十内叙吉は、血気盛んな20代半ばであり、刃傷沙汰で耳を斬られて己の未熟を知り、改めて剣の修行を志したのがこの頃であった・・・・・・。

 このように、群像劇風に不二心流と柳剛流の当時の様相を俯瞰してみるのもまた、古流武術の稽古・研究の醍醐味である。



 U氏によれば、現在も不二心流は2系統の宗家によって、千葉県内で伝承されその剣脈が保たれているという。

 詳しくは、氏のホームページを参照されたい(http://www.geocities.jp/spirit_vision_lesson/index.html


 ■引用・参考文献
 『幕末関東における不二心流についての研究―その特徴と社会的役割― 』(数馬広二/武道学研究Vol. 21 (1988-1989) No. 3 p. 22-31 )
 『幸手剣術古武道史』(辻淳著/剣術流派調査研究会)
 『戸田剣術古武道史』(辻淳著/剣術流派調査研究会)
 『柳剛流』(幸手市剣道連盟編)

 (了)
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“剣客商売”の余禄/(身辺雑記)
- 2016/08/11(Thu) -
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 翠月庵では、稽古に際して1人1回1000円の参加費を納めていただいている。

 この会費は、稽古場の維持費や的などの消耗品費に当てているのだが、例年赤字であり、不足分は私の持ち出しだ。

 ま、金儲けのために稽古場を開いているわけではないので、赤字だからといって会費の値上げなどは考えておらず、さりとて道場運営を黒字化するために、しゃかり気になって人集めをしようとも思ってはいない。

 易に曰く、「我童蒙を求むるにあらず。童蒙来たりて我に求む」であり、武芸もまた、そういうものであるべきだと私は思う。

 ゆえに本ブログとホームページ以外では、特段道場の宣伝などはしていないが、チラシぐらい作って駅などに掲示したりしたほうがいいのかなあとも思うのだが、なんだかんだと腰が重い。

 闇雲に宣伝をして、武器マニアや忍者オタク、コスプレ厨みたいなのが来ても厄介だし(そういう問い合わせが時折ある・・・)、そうでなくとも手裏剣術は難しく、しかも地味なので、ほとんどの者が稽古を始めても1年も続かないのだ。

 3間でそこそこ打てるようになると、ようやく手裏剣術の稽古に面白みが出てきて、4間を通せるようになると「術」の醍醐味が感じられるようになるのだが、大概の人が2間前後であきらめて、稽古を止めてしまうのである。

 (なお車剣であれば、初めての人でも3~4間を通すのは楽勝である。投げりゃあ刺さるのだから。実際数年前、フジテレビの『笑っていいとも』というテレビ番組の依頼で関係者に手裏剣術を指導したところ、元野球部だというAD氏は車剣で6間を通した)

 そこで当庵では、古流諸派や他の現代流派に比べ、はるかに短期間に3間で(とりあえず)刺せる教習体系で指導をしているのだが、それでも「武術としての打剣」をものにするには、やはり最低でも2~3年はかかる。

 この9年間で、定例稽古や個人指導、講習会などで、延べ人数にするとざっと300人くらいに手裏剣術を指導してきたが、そのうち4間以上を通せた者は、6人しかいない。

 しかもその6人のうちの4人は、他流や自己流で、当庵入門時にはすでに3間を通していたので、私の指導の元でゼロから始めて4間を通せるようになった人は、これまでたった2人しかいないということになる。

 これはまあ、私の教え方がヘタクソなのかもしらんが、 以前、ある人が、「手裏剣術は100人入門しても、3年続くのは1人いたらよい方だね」と言っていたが、私も感覚的にそのように思う。

 一方で、心得や他の武芸との併習ではなく、表芸として「手裏剣術者」を名乗るのであれば、やはり最低でも5間は通せないと恥ずかしいし、武術として学ぶからには板金を打つ心(フルパワーの打剣)での3間直打はクリアしてほしいものだ。

 いずれにしても、手裏剣術を表看板にした“剣客商売”というのは、経験上、あまり儲かるものではない・・・・・・(苦笑)。



 とまあ、そんな閑古鳥の啼く稽古場の庵主とはいえ、この時期になるとお中元をいただく事がある。

 ことに旨い酒なんぞをいただくと、有体に言えばたいへんうれしい。

 というわけで本日の晩酌では、当庵のYさんからいただいた武州の地酒である「限定醸造吟醸造り 純米酒 飯能風土記」を呑む。

 ふっくらとした旨味のある酒で、ほのかな酸味が杯をすすめさせる。

 リオ・オリンピックの熱戦を見ながら、防州の竹輪やゴーヤを肴に杯を重ねていると、いつの間にかうとうととしてしまい、目覚めればもうこんな時間だ。

 網戸の外からは、虫の音が聞こえる。

 考えてみれば、今年初めて聞く秋虫の鳴き声だ・・・・・・。

 (おしまい)
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今月の新刊-その2/(身辺雑記)
- 2016/08/10(Wed) -
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 ある意味、「旅」することが仕事なので、休日は家で静かに酔っ払っているのが最高の幸せだ。

 この時期は、すっきり冷やした無銘の地味な本醸造に、とき芥子を加えた水茄子なんぞがあれば、ブラウニング翁の謳うがごとく、「すべて世は、事も無し」である・・・・・・。



 先週末、翠月庵の稽古が終わってから昨日まで、3日間の夏休みだったのだが、冷房が程よく効いた拙宅で、終日酔っ払いながらテレビでリオ・オリンピック観戦三昧。

 柔道、大野の巴投げは、見事だったねえ。

 あと、「Twist prince」は、一体何回ひねっているんだ!?


 ということで、まだまだオリンピックの激闘は続くわけだが、そんなときに手元に置いておくと、リオがより楽しめるのが『 Discover Japan 2016年9月号』(エイ出版社)である!

 今月の特集は、「オリンピックの「遺産」と「革新」。

 なかでも、P94-97にある 「リオデジャネイロ大会の注目競技をおさらい」という記事は、絶対に見逃せない!! 

 聞くところによれば、この道24年の熟練の取材記者S氏が、過酷な二日酔いによる頭痛と手裏剣の打ち過ぎによる肘の痛みと闘いながら、渾身の気合を込めて書いた記事だそうな。

 なにはともあれ、全国の書店または密林へ急げ!!!

 (おしまい)
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今月の新刊/(身辺雑記)
- 2016/08/05(Fri) -
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 先月行った、会津取材の記事が掲載されている50代からの旅と暮らし発見マガジン『ノジュール』(JTBパブリッシング)が好評発売中!

 といってもこれ、定期購読のみの雑誌です。

 詳しくはこちらへ↓
 http://www.nodule.jp/


 もう1つ、『旅と鉄道 9月号』(朝日新聞出版)。こちらは、全国の本屋さんで発売中。

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 私は、P102-104の「この夏、訪ねてみたい日本一をめぐる旅」を執筆。

 ちなみに、日本一長い駅名は、南阿蘇鉄道高森線の「南阿蘇水の生まれる里白水高森」駅、日本一短い駅名はJR紀勢本線の「津」駅である。

 なお「津」駅は、世界一短い駅名でもある。


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 こちらはフリーペーパーの『るるぶFREE』(JTBパブリッシング)。

 ここでは、「那須・塩原を愛する ステキな人&逸品」を執筆、そして撮影もしました。久々に、オレのニコン&85mm f1.8レンズが唸ったゼ!

 詳しくはこちら↓
 http://www.rurubu.com/free/nasu.asp

 そのほか専門誌関連では、訪問看護関連の雑誌の依頼で、群馬のPEG(Percutaneous Endoscopic Gastrostomy : 経皮内視鏡的胃瘻造設術)連携パスを運用している医師・看護師の座談会記事を執筆。定期ものの医療経営者向け雑誌では、日本医師会長や全国老人保健施設協会会長などへのインタビュー、さらにリオオリンピック絡みのスポーツ解説記事やら、スマホアプリ用に能楽や座禅など日本の伝統文化に関する解説記事などを執筆。

 この春は、親の看取りで湯水のように金を使い、ほとんど貯金を使い果たしてしまったので、7月は結構まじめに働いたよ。

 ま、小さなことからコツコツと。

 (おしまい)
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宿酔の朝/(身辺雑記)
- 2016/08/04(Thu) -

「宿酔の朝」 萩原朔太郎

泥醉の翌朝に於けるしらじらしい悔恨は、病んで舌をたれた犬のやうで、魂の最も痛痛しいところに噛みついてくる。夜に於ての恥かしいこと、醜態を極めたこと、みさげはてたること、野卑と愚劣との外の何物でもないやうな記憶の再現は、砒毒のやうな激烈さで骨の髓まで紫色に變色する。げに宿醉の朝に於ては、どんな酒にも嘔吐を催すばかりである。ふたたびもはや、我等は酒場を訪はないであらう。我等の生涯に於て、あれらの忌忌しい悔恨を繰返さないやうに、斷じて私自身を警戒するであらう。と彼等は腹立たしく決心する。けれどもその日の夕刻がきて、薄暮のわびしい光線がちらばふ頃には、ある故しらぬ孤獨の寂しさが、彼等を場末の巷に徘徊させ、また新しい別の酒場の中に、醉つた幸福を眺めさせる。思へ、そこでの電燈がどんなに明るく、そこでの世界がどんなに輝やいて見えることぞ。そこでこそ彼は眞に生甲斐のある、ただそればかりが眞理であるところの、唯一の新しい生活を知つたと感ずるであらう。しかもまたその翌朝に於ての悔恨が、いかに苦苦しく腹立たしいものであるかを忘れて。げにかくの如きは、あの幸福な飲んだくれの生活ではない。それこそは我等「詩人」の不幸な生活である。ああ泥醉と悔恨と、悔恨と泥醉と。いかに惱ましき人生の雨景を蹌踉することよ。



 飲みすぎたときには、パソコンに向かっちゃあならんといつも思うのだが、飲むほどについつい楽しくなり、そしてさらに酔って感傷的になり、翌朝読めば、なんとも小っぱずかしいことを書き連ねている己の姿を突きつけられ、呆然としてしまうわけだ。

 バカはしななきゃあ、治らねえなあ・・・・・・。

 (おしまい)
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Festival of the Dead /(身辺雑記)
- 2016/08/03(Wed) -
 重たい原稿を書き終わって、晩酌をしながらひと休み。

 考えてみると、昨日と一昨日は、修善寺のお盆だった。

 死んだお袋も、初めての里帰りか。

 ということは、今日は此岸の立ち寄りついでに、伊豆から武州の拙宅に立ち寄るかもしらんね。


 遺品整理で見つけた、グレンリベットを空けて、戯れにカードを手繰る。

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 あ、来てたんだ。

 まあ、今晩はゆっくりしてきなよ。

 (おしまい)
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遅咲きの剣客、柳剛流・岡田十内/(柳剛流)
- 2016/08/02(Tue) -
 武術稽古と共に流儀の史料などを調べていると、平成の今を生きる自分と先人との間に、近しさや奇妙な縁を感じることがある。



 柳剛流を代表する剣客であり、また当流で最も著名な人物のひとりに岡田十内がいる。

 岡田十内叙吉は、今から222年前の寛政6(1794)年、武蔵国足立郡下戸田村元蕨(現在の埼玉県戸田市下戸田)で、医師・岡田静安の子として生まれた。

 本格的に剣を志したのは20代半ば過ぎからと比較的遅く、江戸に出て柳剛流の門を叩いたのは30歳前後になってからだという。

 十内は江戸で、柳剛流の流祖・岡田惣右衛門奇良と、その高弟であり江戸で最も柳剛流を普及させた大師範家・今井右膳(旧名・林右膳)の元で修行を積み、30代後半で師の今井から当流の免許を受けた。

 その後、藤堂和泉守や阿倍伊勢守の江戸屋敷における剣術師範などを経て、天保12(1841)年、48歳の時に本郷森川町に自分の道場を開く。


 道場の開設からおよそ25年間にわたり、十内は記録に残っているだけで1200人前後の門人を育てており、その門人帳には、後に一刀正伝無刀流を開く、若き日の山岡鉄舟の名も記されている。

 また上野戦争において官軍と一戦を交え、薩長に坂東武者の矜持を示した彰義隊には、十内門下である江戸や武州在住の柳剛流剣士の数が少なくない。

 彰義隊頭取で陸軍調役並でもあった伴門五郎をはじめ、同隊八番隊長でその後函館まで転戦し官軍と戦い続けた寺沢正明、頭取で第二黒隊長の織田主膳、本営詰組頭・第三白隊副隊長で函館まで従軍した秋元寅之助、第二青隊伍長でやはり函館まで戦い続けた加藤作太郎など、隊の幹部から将校、下士官クラスにいたるまで、十内門下の柳剛流剣士の名前を何人も見ることができる。

 なお彰義隊十一番隊長の横山(加藤)光造は、十内の弟子とよく間違われるが、正しくは松田源吾門下の柳剛流剣士であるという。

 さらに蛇足ながら、彰義隊といえば幕府の旗本・御家人を中心に、江戸在住の佐幕派の各藩士たちも含めた武士によって構成された諸隊のひとつである。

 その幹部や各隊指揮官、下士官などに数多くの柳剛流剣士がいたという事実は、柳剛流に対する「百姓剣法」や「ケレン剣術」、「外道・卑怯の業のため武士階級には疎まれた」などといった根拠のない言い伝えやイメージが、いかに誤解と偏見に満ちた誤ったものであるのかを示す、重要な「ファクト」のひとつといえるだろう。


 さて、上野戦争勃発時75歳であった十内は、寛永寺での戦闘にこそ参加しなかったが、「自分の弟子は彰義隊に300人、官軍には200人いる」と案じ、元蕨の自宅から上野に向かおうとした。

 しかし、折からの洪水による濁流で江戸へ向かう途中の川を渡ることができず、そのうちに戦闘は官軍の勝利に終わってしまったと伝えられている。

 それから3年後の明治4(1871)年11月28日、十内は元蕨の実家で78年の生涯を閉じた。その法名は、「剣心無動信士」となっている。



 岡田十内の事跡をたどってみると、20代から剣を志して30代で流祖の門をたたき、48歳で自分の道場を開いたなど、当時の剣客としてはもちろん、今の感覚で考えても、かなりの遅咲きの武芸者であることが分かる。

 奇しくも私は今年、数えで48歳となった。

 われながら相当なこじつけだとは思うものの(苦笑)、十内が自分の道場を開いたのと同じ年齢で、私も師より柳剛流の教授を許されたということに、時空を超えたささやかな親近感を感じる。

 また十内の家系をさかのぼると、岡田家は古くは本橋家と称した一族であり、南北朝時代には故あって伊豆国修善寺に一族で身を隠したことがあると伝えられている。

 伊豆国修善寺といえば私のふるさとであり、当家の先祖は平安時代の末からこの地にあったと伝えられていることから、もしや私の先祖と十内の先祖との間に、何かの交流があったとしても不思議ではない・・・・・・かもしれない(笑)。

 そんな歴史浪漫に想いが馳せられることも、また、古流を学ぶ上での楽しみのひとつといえるだろう。

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▲岡田十内の肖像画( 『埼玉の剣術-神道無念流・甲源一刀流・柳剛流-』より)


 ■引用・参考文献
 『幸手剣術古武道史』(辻淳著/剣術流派調査研究会)
 『戸田剣術古武道史』(辻淳著/剣術流派調査研究会)
 『雑誌并見聞録』(小林雅助著)
 『埼玉の剣術-神道無念流・甲源一刀流・柳剛流-』(戸田市立郷土博物館編)

 (了)
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