三和無敵流和力の伝書を読む(その1)-柳剛流突杖に関する考察/(柳剛流)
- 2016/09/29(Thu) -
 柳剛流の流祖である岡田惣右衛門奇良は、心形刀流のほかにいくつかの流派を学んでいるが、中でも柳剛流の術技体系に大きな影響を与えている流派に三和無敵流がある。

 三和無敵流は、柔術を中心に剣術・抜刀・杖術・薙刀・鎖鎌などで構成される総合武術で、金沢厚朴により江戸時代に創流された。元祖の居住地(常陸那珂郡水府中湊)の関係で、主に常陸国(現在の茨城県)に広まったが、その他、信州や相州にも伝承がみられる。

 今回、武術史家A氏のご好意により、同流の伝書類の写しをまとめてご寄贈いただいた。これらは「三和無敵流和力」のもので、長野県の松代に伝播した系統のものであるという。

 さて、これらの伝書類を読んでみると、柳剛流に関連するいくつかの興味深い記述をみつけることができた。



 まず、柳剛流突杖との関連について以下にまとめる。

 柳剛流では杖術を「突杖」と称し、角田伝では「三尺棒」とも呼ばれていた。

 ここで注意したいのは、別名「三尺棒」とも呼ばれた柳剛流の突杖だが、使用される杖の寸法は必ずしも三尺(約91cm)ではなかったのではないか? ということである。

 その理由としては、

1. 使用する杖について、厳密な寸法が伝わっていない。
2. 柳剛流突杖の形において、現代人の体格では三尺の寸法の杖を使うと成立しない技が含まれている

 以上の2点がある。

 そのため、これまではやむを得ず、一般的に普及している四尺二寸ほどの杖を稽古に使用していた。

 さて、ここで三和無敵流の伝書である。

 『三和無敵流和力目録 全』という伝書は、同流に伝えられている柔術から槍まで、すべての形の名称を網羅したものだ。

 この中には、「杖術表組」(24本)、「杖術奥組」(10本)、「長杖術」(4本)といった形の名称が示されているが、これらとは別に「突杖術」というものが6本ある。

 杖を使った武技において、「突杖」という名称は諸流には見られない珍しいものであり、これが柳剛流と三和無敵流で共通しているというのは、たいへん興味深い。

 その上で、岡田惣右衛門が柳剛流の創流以前に、三和無敵流を学んでいたことが事実であることからも、柳剛流の突杖は三和無敵流の突杖術が元になっている可能性が非常に高いと推測できる。

 一方で、両流の突杖術の形は、柳剛流が5本であるのに対し、三和無敵流が6本であること、また形の名称はすべて異なっている(一部に共通点を感じさせる名称もある)ことから、三和無敵流の突杖術を学んだ岡田惣右衛門が、それを取捨選択・整理統合したものが柳剛流突杖なのではないかと考えられるのである。

 そしてさらに重要な点は、三和無敵流の伝書には、突杖術で用いる杖の寸法が示されていることだ。

 伝書によれば、三和無敵流の突杖術で用いる杖は、「乳切」とされている。

 古流武術における杖は、一般的に術者の乳の高さを基準にするものと、眉の高さを基準にするものがある。

 乳の高さを基準とした杖は「乳切木」と呼ばれたが、後には杖の先に鎖分銅を付けた武具についても「乳切木」と呼ばれるようになったため、いささか紛らわしくなっているのは、ご存知の通りだ。

 では、三和無敵流伝書の突杖術で使われる「乳切」の杖とは、術者の乳の高さの杖であるのか、あるいは杖に鎖分銅を付けた乳切木であるのか、いったいどちらであろう?

 これについて、私は鎖分銅の付いた乳切木ではなく、術者の乳の高さの杖だろうと考える。

 その根拠だが、同伝書の「長杖術」の部分を見ると、長杖術という項目の下に、やや小さな文字で「六尺」と、寸法に関する添え書きが記されている。

 そして、これとまったく同じ体裁の書き方で、突杖術の項目の下にもやや小さな文字で「乳切」と添え書きされているのだ。

1609_三和無敵流伝書
▲『三和無敵流和力目録 全』に記されている突杖術。「乳切」という添え書きに注目



 「長杖術」の添え書きが、そこで使う武具の寸法である「六尺」を示しているのであれば、「突杖術」の添え書きも、そこで使う武具の寸法である「乳切」を示していると考えるのが妥当であろう。

 また、江戸時代の人の平均身長を155cmとすると、一般的な身体的比率で考えれば、乳切の高さの杖の長さは約108cmで、三尺五寸六分となる。

 三尺五寸六分の杖を、「三尺棒」と言い習わすというのは、特段、不思議なことではない。

 以上の点で、三尺棒の別名がある柳剛流突杖で使う杖の寸法は、術者の乳の高さの杖と考えることに違和感はない。


 さて、一方でもう1つの問題である、

「柳剛流突杖の形において、現代人の体格では、長さ三尺の杖では成立しえない技がある」

 という点については、どうであろうか?

 これについて、杖の長さが三尺(約91cm)では成立しない技も、杖の長さが各人の乳の高さであれば、打太刀と仕杖の身長に極端な差がない限り、十分に成立することが実技の検証で確認できた。


 さらに、以上の点を補強する材料として、

・ 上総国に伝わった古川貢伝の柳剛流切紙では、突杖を「乳根木」と称している。
・ 武州における柳剛流師範家のひとつである深井派の剣三世・深井源次郎は、常に三尺ほどの木太刀を「杖代わり」にして肌身離さず手放すことがなかったという。

 などの史料や口承も挙げられる。



 以上のように、三和無敵流の伝書解読とそれに基づいた実技の検証によって、

 柳剛流突杖で用いる杖(三尺棒)は、各術者の乳の高さの杖、いわゆる鎖分銅の付いていないタイプの「乳切木」であるということが、強く推測される。


 なお、柳剛流の実践者の立場から言うと、実際に柳剛流突杖を稽古する際には、打太刀と仕杖の間に身長差があることも少なくないので、杖の長さは自分の乳の高さ+4寸五分ほどあった方がより業を遣いやすいということも、ここに記しておく。

 (つづく)
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史料の誤読から生まれた、白井亨を祖とする「白井流手裏剣術」/(手裏剣術)
- 2016/09/27(Tue) -
■文末に追記を加えました(2016.9.28)


A様

 お問い合わせいただいた、白井流手裏剣術と白井亨の関係につきまして、私はこれまであまり気にしていなかったのですが、少々調べてみました。

 結論から申しますと、

天真白井流の白井亨を祖とする「白井流手裏剣術」なるものは、根岸流の3代目であった成瀬関次氏の史料の誤読によって生まれた、事実上の創作流儀である可能性が高く、白井亨とは関係が無い

 と思われます。

 まず、一般的に白井流手裏剣術は、成瀬氏が根岸流とともに伝え、その後、白上一空軒氏がその道統を受け継いだと認識されています(昭和60年発行『日本古武道振興会創立50周年記念 日本古武道大会パンフレット』より)。

 そこで、成瀬氏の著作『手裏剣』(昭和18年)を見ると、次のように記されています。

・昭和2年に根岸流の手裏剣を始めてから、他流として白井流を研究した。
・白井流は、ただその打ち方が伝わっているというだけで、詳しい伝統は不明である。
・『会津藩教育考』によれば、黒河内伝五郎が白井流手棒(ぼう)術というものを伝えており、それは手裏剣術と同時に用いたものらしい。
・黒河内の用いた手裏剣は、7~8寸の火箸のようなものだった。
・その投げ方は、右手に持ち肩に構えて踏み込みながら打ったとある。
・小銭の穴をねらって貫いたということから、近距離は直打で、遠距離は回転打であったろうと思われる。
・当時、江戸で行われていた白井流手裏剣術は、9尺以内直打、以上回転打であったといわれている。

 ここで重要なのは、

 1.成瀬氏は白井流を伝承したのではなく、独自に研究したこと。
 2.打ち方以外、伝統などは不明であることを明記していること。
 3.成瀬氏の白井流に関する知見は、そのほとんどが『会津藩教育考』によること。

 以上の3点です。

 そこで、国立国会図書館のデジタルライブラリで公開されている、昭和6年発行の『会津藩教育考』(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1276804/314)を確認しましたところ、意外なことが分かりました。

 同書によれば、確かに黒河内伝五郎は、白井流手棒(ぼう)術と、手裏剣術を教授しています。

 ところがその手裏剣術については、「流儀名は不明」と、しっかりと明記されているのです。

 つまり成瀬氏は、白井流手棒(ぼう)術の記述に引きずられて、それを教授している黒河内が指導している手裏剣術も白井流であろうと誤読しているのです。

 さらに同書には、

 「七八寸の鉄釘のごときものを右手に持ち肩に構え踏み込みながら擲つ術なり」

 とあるだけで、

 「近距離は直打で、遠距離は回転打であった」とか、「当時、江戸で行われていた白井流手裏剣術は、9尺以内直打、以上回転打であった」、あるいは「手棒(ぼう)術と手裏剣術を同時に行った」などという内容は、まったく記されていません。

 当然ながら、成瀬氏が『会津藩教育考』以外の文献や口承から、こうした具体的な打ち方などを知った可能性は完全には否定できませんが、少なくとも同氏執筆の『手裏剣』においては、白井流手裏剣術の来歴に関して『会津藩教育考』以外に、他の根拠となる具体的な出典は示されていません。

 さらにいえば、そもそも成瀬氏の誤解の元となった「白井流手棒(ぼう)術」なるものについても、『会津藩教育考』には流祖名や伝系などは一切記載されておらず、「白井」という表記・文字のみが天真白井流の白井亨と共通しているだけにすぎないのです。


 以上の点に加え、

・これまで確認されている白井亨や天真白井流等に関連する史料や伝書には、手裏剣術に関する記述が皆無である
・昭和18年発行の『手裏剣』以降、成瀬氏周辺から白井流手裏剣術の伝承や来歴、白井亨との関連などを明確にする史料が示されていない

 といった事実も加味すれば、繰り返しとなりますが、

白井亨を祖とする白井流手裏剣術なるものは、成瀬氏の資料の読み違いから生まれた、事実上の創作流儀であり、天真白井流や白井亨とはまったく関係がない

 という可能性が極めて高いと思われます。

 これについては、手裏剣術や天真白井流に造詣の深い甲野善紀氏も、以前から同じように指摘しているということを、今回、調べる中で初めて知りました。
  (http://www.shouseikan.com/zuikan1009.htm)

 以上、駆け足のレポートですので、完全に断定はできませんが、ご参考にしていただければと思います。


 それにしても今回のご質問について、仕事の合間にPCと手元の史料を2~3時間ほど調べただけで、このように定説を強く否定する情報が得られました。

 にも関わらず、一度広まってしまった間違い、しかも斯界の権威である先人や流派が発信する誤った情報というのは、容易には訂正されないのかと思うと、伝統を受け継ぐ者は自らがその伝統を一度は疑ってみるべしという教えの重要性を強く感じました。

 またこうした武道史・手裏剣術史における重要な誤りの可能性について、成瀬氏の伝系を受け継ぎ日本の伝統的手裏剣術を代表する名門である根岸流周辺の方々から、その後まったく検証や情報発信がされていないであろうということ。

 あるいは他流や現代会派も含めた手裏剣術修行者たちからも、前述の甲野氏の指摘以外、これまでなんら疑問が呈されてこなかったというのは、本来あるべき古武道の正しい継承と公正な研究という意味で、手裏剣術者たる私自身への自戒も込めて、いささか残念に思いました。


 今回の調査を通して改めて、 「過ちては則ち改めるに憚ること勿れ」という古語に、思いを致した次第です。
 
 
 手裏剣術伝習所 翠月庵
 瀬沼健司 謹識

■追記
 本日(2016.9.28)、取材で新宿に行ったおり、紀伊国屋に立ち寄って甲野善紀氏の『神技の系譜』という新刊を手にとった。

 この本には手裏剣術に関する記述があるというのは、以前、ツイッターで流れていた情報で知っていたのだが、実際に読んでみるのはこれが初めてで、想像以上にページを割いていたのは意外であった。

 そして、同書の手裏剣に関する章において、白井流手裏剣術に関する記述があり、甲野氏はそこでも改めて、「白井流手裏剣術と白井亨は無関係」との主張をされていたことは、ここに改めて記しておく。

 当然ながら本ブログの拙文は、本文内でも触れているように、甲野氏の一連の主張については事前に知らずに、予備知識なく調べた結果を書いたものであることは、改めて強調しておく。
 
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9月の本部稽古~柳剛流長刀、組打口伝、伝書講義、柳生心眼流/(武術・武道)
- 2016/09/26(Mon) -
 昨日は、国際水月塾武術協会本部での稽古であった。

 午前中は、柳剛流の稽古。

 小佐野先生より、八尺にもなる時代の物の、木製の大薙刀をお借りして長刀を稽古する。

 これほどの長さの薙刀だがバランスが驚くほど良く、実に使いやすい。打太刀が柳剛流特有の四尺の木太刀を使っても、この大薙刀であれば、間合負けすることなく、技がしっくりときまる。

1609_柳剛流長刀稽古
▲師に打太刀をとっていただき、柳剛流免許秘伝の長刀を稽古する。八尺の大薙刀
は、最高のバランスで実に遣い良い


 長刀の後は、免許口伝である「組討」を伝授していただく。

 術技については口伝のためここには書かないが、「なるほど、こうしたものなのか!」という、驚きと発見に満ちたものであった。


 昼食を挟んで午後はまず、伝書講義。

 今回は、先生所蔵の柳剛流切紙、柳剛流柔術目録、そして中将流の伝書を拝見し、解説をいただいた。

1609_柳剛流柔術目録
▲弘化年間、長州藩内で柳剛流柔術三代を称した高橋某の門人岡本藤蔵が、播磨の国の人
である肥塚要蔵に伝授した柳剛流柔術の目録。詳細はまた、稿を改めて


1609_中将流伝書
▲中将流の伝書に記された居合の図。古流ならではの抜き付けは、柳剛流の居合にも通じる


 午後の稽古は、柳剛流の剣術、居合、突杖をじっくりと。

 最後は、柳生心眼流の素振二十一ヶ条の中極・片衣から袖突までのご指導をいただき、本日の稽古は終了。


 稽古後は、先生にご同道させていただき、稽古場周辺にある味の名店で、名物の馬モツや馬刺し、串揚げを肴に杯を傾ける。

 先生のシーバスリーガル・ミズナラをいただき、調子に乗ってロックでガブガブ飲んでしまったため、後半は半分くらい記憶が飛び気味に・・・・。粗相が無かったなら良いのだが(汗)。

 今月も本部にて、充実した稽古とうまい酒と肴を堪能し、千鳥足のまま武州への帰路についた。

 (了)
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今月の新刊~その2/(身辺雑記)
- 2016/09/22(Thu) -
cover.jpg


 9月10日発行の新刊、『露天風呂 貸切風呂宿の宿2017』(マガジントップ発行)。
 http://mediapal.co.jp/book/5115/index.html

 このシリーズの原稿はここ数年、毎年書いており、今回私は20軒ほどの原稿を執筆。

 やっぱ温泉はいいやねえ。


 また、先月発行されたJTBの会員向け雑誌『ノジュール』に掲載した会津の鉄道旅の記事が、現在webで公開されている。

 https://www.nodule.jp/info/20160802/

 よろしければ、ご一読を。


 この旅で泊まった会津柳津温泉。

 今回初めて訪ねた温泉だったが、ここは映画『ジヌよさらば~かむろば村へ~』の舞台となったところであり、鄙びていて実によい風情の温泉地であった。




 また只見線に乗るのは今回が3回目だったが、思うにこの路線、遠からず廃線になる気がしてならないので、乗り鉄の皆さんは、早めに行っておいたほうがいいと思う。

 ただし、只見駅での乗り換えは3時間以上もあるから、そのつもりで。

 たしか『銀河鉄道999』で、旅において退屈な時をいかに過ごすかというテーマの話があったと思うが、そんな感じの時間が楽しめます。

 (おしまい)
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園部ひでを著『学校薙刀道』/(柳剛流)
- 2016/09/21(Wed) -
 昨日は神保町で、今週末から始まるインタビュー仕事の打ち合わせであった。

 帰路、せっかく神保町に来たので神田高山本店に立ち寄り、昭和11年発行の園部ひでを著『学校薙刀道』を購入した。

 園部ひでを(秀雄)といえば、いわずと知れた無敵の女武芸者であり、直心影流薙刀術の達人である。

 ところで直心影流薙刀術は、実は直心柳影流薙刀術であり、その成立には柳剛流が非常に色濃く関わっているというのは、本ブログでも以前ふれた。

 (『柳剛流・佐竹監柳斎と直心影流薙刀術』http://saitamagyoda.blog87.fc2.com/blog-entry-764.html

 現在、直心影流薙刀術を学でいる人は、こうした史実をどれくらい知っているのだろうか?


 ざっと目を通すと、本書に示されている「試合形」の1本目の受太刀(打太刀)の最終動作は、柳剛流の断脚之術そのものであるのが目を引く。

160920_175412.jpg


 私は薙刀については不案内で、術技としては柳剛流長刀しか知らないのだが、本書には直心影流薙刀術の練習形10本、試合形15本、短刀形5本の手筋が詳細に解説されているので、じっくり読み込んで柳剛流との関連などについて考察を深めていきたいと思う。

 なお、本書には「薙刀術流派」との章があり、柳剛流については以下のように記している。

 柳剛流
 岡田総右衛門奇良を以って祖述せられたものである。岡田総右衛門奇良は東北の人にして心形刀流を習ひ、後全国各地を歴遊して益々武技を磨き、努力漸くにして諸流の玄妙を知悉し、遂に跳斬の妙術を得て之を柳剛流といった。


 流祖の名前の表記や出生地についての誤りはあるが、一方で「遂に跳斬の妙術を得て之を柳剛流といった」との一文は、なかなかに意味深長であろう。

 (了) 

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ウィキペディアの柳剛流~その2/(柳剛流)
- 2016/09/20(Tue) -
 (2016.9.21、一部加筆・修正)


 ウィキペディアに掲載されている柳剛流の記事だが、最近またどなたかが内容を更新してくれたようだ。

 ちなみに、それは私ではないです、念のため。

 私はウィキペディアの編集の仕方がよく分からないので・・・・・・。


 さて、最近の修正では、我が国際水月塾武術協会に伝えられている角田伝の伝承に関しての記述が加えられた。

 仙台藩角田伝柳剛流は、第8代師範である小佐野淳先生のもと、国際水月塾武術協会本部をはじめ、同関西支部の山根章師範、そして不肖私が代表を務める埼玉支部にて伝承・指導をしている。

 この点がウィキペディアに明記されたことは、柳剛流を学ぶ者として、また国際水月塾武術協会の末席に名を連ねる者としても、たいへんうれしく存じます。

 ありがとうございました。



 さて最近、ご厚誼をいただいている武術史家A氏のご好意で、柳剛流柔術に関する非公開の貴重な論文や関係資料をまとまって譲っていただくことができた。

 A氏の調査・研究成果によれば、柳剛流各派の柔術は、その多くが基本的に楊心流系統の技法群である可能性が高く、天神真楊流の影響が非常に強いという。

 たとえば、柳剛流諸派の中で最も多くの柔術技法を伝えた石川派(立合17手、居取7手、手詰4手、裏手形18手)の技法を見ても、「鬼拳」や「膳越」、「壁添」や「袖車」など、天神真楊流と同じ技法名が数多く見受けられるという。

 また、柳剛流の有力分派である中山柳剛流は、柳剛流と天神真楊流を合わせた流派として知られている。

 以上の点から、柳剛流柔術の姿を、それなりに具体的にイメージすることができよう。

 なお柳剛流石川派の史料については、以前も本ブログで紹介させていただいたが、『文武館 第17号』(平成13年/文武館出版部)に掲載されている、島谷俊行氏の調査・執筆による「武州青梅の武術資料より-調査結果と保存について-」という記事に詳しいので、柳剛流に関心のある方は、ぜひ参照されたい。

 また昭和33(1958)年発行の、『盛岡藩 改訂増補 古武道史』(米内包方著)の巻末には、「各県に現存する諸流」として埼玉県に「柳剛流柔術 山岡長隆」の名前がある。

 私の調査では、この柳剛流柔術・山岡長隆の師は当時の埼玉県鳩ヶ谷警察署の剣術師範である高橋芳太郎であり、この高橋は中山柳剛流の師範である。

 そして、これは以前本ブログでも書いたかと思うが、山岡はもともと天神真楊流や真陰流柔術を修め、講道館の精錬証も持つ柔術家であり、柳剛流では、中山柳剛流の高橋師範から後継者とされ、昭和12(1937)年の「紀元節奉祝全国古武道大会」にも出場しているという(『ルックバックわらび』加藤隆義著/蕨市相撲連盟より)。


 さらに今回A氏からは、流祖・岡田惣右衛門奇良が、柳剛流の創流以前に学んだ三和無敵流の伝書類の写しを、大量に譲っていただくことができた。

 これがまた、柳剛流の稽古・研究者にとっては、まさに宝の山である!

 柳剛流の居合や突杖、柔術や長刀と、三和無敵流との関連性、さらに「虚実品別縦屈伸」といった両流に共通する免許口伝の内容に関する覚書など、柳剛流の稽古・研究者にとっては、まさに心臓がバクバクするほど(笑)興味深い内容の史料群となっている。

 これらの内容や検討結果についても、今後、本ブログに掲載していこうと思う。

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▲今回ご寄贈いただいた、柳剛流に大きな影響を与えた三和無敵流の伝書の一部

 (了) 
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備十五ヶ条フセギ秘伝/(柳剛流)
- 2016/09/18(Sun) -
 現在の先鋭的に競技化された剣道とは異なり、江戸期の剣術においては、形稽古主体の流派も撓打ちを重視した流派においても、構えを非常に重視したことは、以前、本ブログでも指摘した(「柳剛流の戦い方(その2)」)http://saitamagyoda.blog87.fc2.com/blog-entry-900.html)。


 このような構えの重要性に関して、柳剛流ではまず切紙において「備之伝」を学ぶ。

 これは剣術における構えについての教えで、上・中・下段から八艸(はっそう)、頓保(とんぼ)まで、15種類の構えで構成されている。

 さらに、これに対して目録で学ぶ「備十五ヶ条フセギ秘伝」は、備之伝で学んだ各構えに対し、合気を外して勝つための構えを示した教えであり、鍛錬法である。

 たとえば、相手が上段に構えた場合は我はこの構え、中段に構えた場合はまたこの構えと、備之伝で学ぶひとつひとつの構えに対して、備十五ヶ条フセギ秘伝で学ぶそれぞれの構えが対応している(詳細については、師伝によりここでは秘す)。

 稽古においては、打方が随時構えを変えていき、それに対して仕方は相手の構えに対応するフセギ秘伝で定められた構えで即座に応じられるよう鍛錬する。

 パッ、パッ、パッと次々に構えを変える相手に対し、こちらは即座に対応する構えをとるように稽古をするのだが、これがなかなか難しい。

 頭で考えて対応していると即座に対応できないどころか、思考と動作が躓くことでその後の対応がグダグダになってしまうこともある。

 立合において、「こうきたら、こう」などと考えて応じているようでは、お話にならないのはいうまでもないわけで、それはこの備十五ヶ条フセギ秘伝の稽古においても同じである。


 柳剛流ならではの相対稽古として、今後もさらに鍛錬に励まねばならない。

150505_右剣


 (了)
  
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柳剛流VS鉄人流/(柳剛流)
- 2016/09/16(Fri) -
 2013年に朝日新聞出版から発行された『剣術修行の旅日記 佐賀藩・葉隠武士の「諸国廻歴日録」を読む』(永井義男著)は、剣術を稽古する者であれば、必ず読んでおきたい好著だ。

 鉄人流の免許皆伝を受けた佐賀藩士・牟田文之助による、嘉永6(1853)年から2年間に渡る武者修行の旅の記録の実話である。

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▲江戸時代末期の武者修行の様子を知ることができる良書


 柳剛流を学ぶ者として、本書の中で気になるのが、牟田文之助と佐々木軍吾との立合だ。

 安政元(1854)年8月、白河藩を訪れた文之助は、藩の師範を務める三田大六の道場(流派不明)で、他流試合を行った。

 なお、当時の武者修行における他流試合は、現在の剣道における交換稽古による地稽古のようなもので、審判を立てずに自由攻防の稽古を行うような形式が主であったというのは、すでによく知られていることかと思う。

 さてこのとき、たまたま三田道場で稽古をしていたのが仙台藩士の佐々木軍吾である。

 佐々木の流儀は柳剛流。

 こうして、柳剛流対鉄人流の立合が行われた。

 脚斬りでそれと知られた柳剛流と、宮本武蔵伝来の二刀流である鉄人流との対戦に、列席していた白河藩士はもちろん、見物人たちも大喜びであったという。
 
 試合の結果については、2度試合をして「八二で自分が勝っていた」と文之助は自ら記録している。

 もっともこれは、地稽古の経験のある者であれば誰でも実感があると思うが、こうした場合、勝敗の感覚については往々にして自分に甘く相手に辛くなるものである。

 そう考えると、「八二で自分(文之助)の勝ち」というのであれば、実際には「六四の勝ち」くらいであろうか?

 ま、私はどうしても柳剛流剣士の立場で考えてしまうので、その点を差し引いても七三で文之助の勝ちというところが妥当なのかもしれない(苦笑)。

 ちなみに佐々木軍吾は当時26~27歳で、柳剛流は江戸で5~6年の間、稽古を積んだという。柳剛流の修行歴が5~6年ということは、当時の柳剛流における一般的な稽古階梯の進み方を考えると、おそらく目録であったと思われる。

 この時期は、江戸では岡田十内が本郷森川町に稽古場を開き、多くの門弟を指導していた時期である。また仙台藩においては、仙南では岡田(一條)左馬輔系の角田伝柳剛流が、仙北では野村大輔系の登米伝柳剛流が多いに興隆していた。

 佐々木軍吾の柳剛流が岡田十内系なのか、角田伝なのか、はたまた登米伝なのかはつまびらかではないが、これら3系統のいずれか、あるいはそれらのうち複数を横断的に学んでいたのではなかろうか。

 一方で牟田文之助は当時25歳。幼いころから父親の吉村市郎右衛門や内田庄右衛門に師事し、鉄人流の免許皆伝。ということは、修行歴は15年前後というところだろうか。

 こうして、断片的ながらも両者の剣術修行歴を見ると、撃剣における二刀流の優位性に加えて、剣士としての業前そのもので、文之助の方が佐々木よりも一枚上手であったのかもしれない。

 そう考えると両者の他流試合(地稽古)の勝敗は、やはり七三程度で文之助の勝ちだったというのが妥当かもしれない。


 いずれにしても柳剛流と鉄人流の立合、なんとも関心をそそる対戦であることは間違いない。


 (了)
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パソコン急死/(身辺雑記)
- 2016/09/15(Thu) -
 週が明けて仕事をしようと思ったら、Windows XPが急死した・・・・・・。


 ま、すでにサポートがとっくに終了したOS入りのボロパソコンを、いまだにだましだまし使っていた自分が悪いということは、重々自覚しているのであるが、それにしてもパソコンが動かないと、まったく仕事にならない。

 思えば、私がとある制作会社で旅行関係の書籍の編集者として仕事を始めたのは今から22年前の1994年。

 当時はまだ原稿は手書き(!)で、ワープロ原稿がようやく商業出版業界でも使われだした頃であった。

 その後、私は1996年にフリーランスとして独立し、2005年までワープロ(書院シリーズ)で原稿を書きまくっていたのだが(MS-DOSで入稿していた)、各社の担当編集者から「いい加減にパソコンにしてくれ(怒)!」との声が多数寄せられるようになり、ようやくパソコンを導入。

 以来、11年間で2台のソーテック製パソコンを使ってきた。

 その2台目が急逝したというわけだ。

 思えば、ソーテックって、もうないんだよねえ・・・。


 てなわけで、とにかくパソコンがないと原稿が書けない&入稿ができないので、すぐにでも新しいものを買わねばならないわけだが、なにしろ赤貧洗うが如しの六無斎ゆえ、金がない。

 そこでやむを得ず、アマゾンで中古のWindows 7の入ったヒューレットパッカードのデスクトップを超格安で購入。ようやく本日、接続が完了した。

 幸い、ちょうど仕事の境目で、書きかけの原稿もなく、直近の〆切もないので助かったのだが、壊れたパソコンには様々なデータが大量に保存されている。

 それらは、業者に出してサルベージするしかないかとげんなりしていたのだが、柳剛流をはじめとした武術関連の史料や画像などは、今年1月の段階ですべてCDーRにバックアップをとっていたので、ほぼすべてが無事であった。

 いや~、よかった、本気(マジ)で。

 外部記憶装置というのは、本当に大事だと思い知った47の秋であった。

 それにしても新しいパソコンって、読み込みがすげえ早いのね(爆)。

 つうか、どんだけ重いパソコン使ってたんだと、しみじみ思う・・・・・・。

 (おしまい) 
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今月の新刊/(身辺雑記)
- 2016/09/09(Fri) -
cover1610.jpg


 京都はそんなに詳しくないのだが・・・・(汗)。

 今回の『Discover Japan 2016年10月号』(http://discoverjapan-web.com/latest_issue/)では、宿の記事をちょびっと執筆。

 京都ブライトンホテル(P160~161)、KYOMACHIYA-SUITE RIKYU(P164)、HOTEL ANTEROOM KYOTO(P167)の3軒。

 どちらもオススメの宿です。

 (おしまい)
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10年目/(手裏剣術)
- 2016/09/06(Tue) -
1609_10年目


 どうも例年、必ず過ぎ去ってから気づくのであるが(苦笑)、先日、9月3日の稽古で、我が翠月庵は開庵から丸9年となった。

 そしてこれからは、いよいよ10年目に突入するわけだ。

 ま、だからといって、何が変わるというわけではなく、いままで通り粛々と、稽古を続けていくばかりである。

 これまたいつも思っていることだが、翠月庵の手裏剣術は、

 単なる的打ちではなく、

 伝統を詐称した珍奇な日本文化もどきでもなく、

 武芸の技を金儲けの道具にすることもなく、

 名誉欲や承認欲求を刺激して段位や資格を切り売りするでもなく、

 日本の伝統的な武術における「事」と「理」に則った、

 「生死一重の至近の間合からの渾身の一打」

 という、

 “武術としての手裏剣術”の錬成を目指し、淡々と稽古を続けていく所存である。


 ということで、10年目の翠月庵を宜しくお願い致します。

 庵主 謹識

 (了)
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「フクロウは見かけと違う」/(身辺雑記)
- 2016/09/05(Mon) -
 本日も夕方から、県立武道館で柳剛流の稽古in貸切。

 剣術では、流儀の四尺木太刀を遣うが、油断すると重さで振られてしまい姿勢が崩れる。

 逆に言えば、これを使って姿勢が崩れるということは、それだけ腰で木太刀が遣えていないということ。

 今日は特に、目録柳剛刀の「青眼左足刀」の際に、姿勢の崩れが気になったのでこれを集中して繰り返す。

 居合では、「右行」「左行」「後詰」の体の捌きに留意。

 長刀では剣術の稽古でバテてしまったのか、今日はいつもよりもフィジカルがきつい。7本の形を3セット繰り返しただけで息が上がる・・・。



 実は、10日ほど前から夏風邪をひいてしまい、これがなかなか治らず、あまり体調がよくないのである。

 仕事や稽古を休むほどではないが、微熱と喉の痛み、おまけに先週は結膜炎まで起こしてしまい、なんだかんだとぴりっとせず、だるさが抜けない。

 それでも今日は、朝から「本復かな」と思ったのだが、仕事を終える夕方頃には、再びひどい倦怠感。

 しかし、夕方から武道館が個人利用できるということだったので、補中益気湯を飲んで心身に渇を入れ、稽古に向かったという次第。

 

 帰宅後、あまり食欲がないので素麺で軽めの夕食を済ませ、酒を飲まずに(!)、抹茶を二服いただきながら『ウェイワード・パインズ 出口のない街 シーズン2』の最終回を鑑賞。「to be continued」なエンディングは、アメリカドラマのお約束か。

 そういえば、来年は『ツインピークス』の新シリーズがはじまるとか。「25年後に会いましょう」との約束が果たされるわけだ。

 また最近は、『マルホランド・ドライブ』がBBCが選ぶ21世紀最高の映画の第一位に選ばれるなど、デビッド・リンチファンとしてはうれしいニュースが続く。

 ま、「フクロウは、見かけと違う」ということで。


▲アルバム『Floating Into The Night』をはじめ、ジュリー・クルーズの全曲が、youtubeで聴けるような時代が来るとは、25年前は想像もつかなかった。なにげに我々は、21世紀の未来社会に生きているのだなあ

 (おしまい)
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他流の手裏剣を打つ/(手裏剣術)
- 2016/09/04(Sun) -
 当庵で柳剛流を稽古しているU氏は、夢想神伝流組太刀・居合の師範であり、下総周辺で伝承されてきた古流武術である不二心流についても深く研究をされている(http://www.geocities.jp/spirit_vision_lesson/index.html)。

 先日の稽古の際、U氏が不二心流の調査の際、F宗家よりいただいたという手裏剣を数種類、持ってきてくれ、試打をさせてもらった。

 剣のタイプは3種類で、1つは鍛造で香取神道流と同じ形の手裏剣、1つはステンレスの丸棒の片方の先端を削ったもの、1つはステンレスの丸棒の両端を削ったものであった。

 全長はいずれも5~6寸(16~18センチほど)、重さは80グラム前後というところであろうか(その場にメジャーやはかりがなかったので、おおよその見当である)。

 香取神道流タイプの剣は、本歌の香取の剣よりも、全長・重さともに一回り大きく、かなり打ちやすくなっている。実際に打って見ると、私も、また当庵筆頭であるY氏に打ってもらっても、4間直打までは簡単に通すことができた。

 これは、長さと重さが香取神道流の本歌の剣よりも大きく、重くなっているからであり、通常の香取の剣では直打で4間は、いささかやっかいである。

 そもそも、手裏剣というのは、軽ければ軽いほど、短ければ短いほど直打で打つのが難しくなるものなので、伝統的な形状はそのままに、長さや重さをサイズアップするというのは、1つの工夫である。

 もっとも、香取神道流の手裏剣術は、間合3間での使用が前提というので、4間、5間などといった中間間合は、そもそも考慮されていないのだから、それはそれで特に問題ないということだろう。

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▲今回、U氏からお借りして打った手裏剣については、不覚にも写真を撮りそこね
てしまいましたので・・・・。私が所持している、他流の手裏剣各種。下から明府真
影流、香取神道流、知新流、最上段は円明流。上から2番目は、当庵制定の25
年式翠月剣


 同様に、ステンレスの丸棒を削ったタイプの手裏剣2種も、4間まではとくに問題なく、私もY氏も直打で通すことができた。

 ただし、剣の両端を削って剣先にしているタイプのものは、剣尾と手之内の接触を重視する翠月庵の打ち方では、少々打ちにくいものであった。

 津川流の手裏剣や、あるいは白上一空軒氏考案の手裏剣も、このように剣体の両端に剣先があるタイプで、これらのものは、直打でも反転打でも、どちらの打法でも使えるようにとの工夫のために、このような形状になっている。

 しかし、そもそも直打で6~7間を通すことのできる手裏剣術者であれば、別段、反転打で打つ必要はないので、このような細工は不要であろう。


 今回、久々に他流の手裏剣を打ってみて思ったのは、やはり「手之内」と「離れ、そして「重心」の重要性である。

 この3つを融通無碍に使いこなすことができれば、重さや長さ、形状の異なる他流の剣でも、ある程度、咄嗟に打てるものだ。

 逆に言えば、少なくとも「武術としての手裏剣術者」を標榜するのであれば、たとえ他流の剣でも3間以内の近距離ならば、ある程度は咄嗟に的中させられなくてはなるまい。

 一方で、間合が4間を超えると、剣そのものの形状や重量、重心といった構造が、てきめんに刺中に影響するようになるという点も、改めて確認することができた。


 いずれにしても、「軽い剣、短い剣は、使いにくいなあ・・・・・」というのが、25年式翠月剣(全長255ミリ/身幅13ミリ/重ね6ミリ/重量144グラム)を正式としている、私個人の感想である。

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▲1本だけ手裏剣をもって立合いの場へと言われたら、やっぱ
りこれしかあるまい。円明流(竹村流)の短刀型手裏剣(長さ8
寸(約240ミリ)、元幅8分5厘(約25.5ミリ)、重ね5分(15ミ
リ)、重さ70匁(約262グラム))。ただしこの写しは、材料の鋼
材の関係で、重ねは約2分(6ミリ)、重さは約59匁(約224グ
ラム)となっている

 (了)
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埼玉県立武道館を利用する一部の剣道師範の資質は、「武道人」として極めて低級だと言わざるをえない/(武術・武道)
- 2016/09/01(Thu) -
 私は、年齢や性別や人種を問わず、無礼な奴が、本当に心の底からしみじみと大嫌いだ。

 ま、無礼な奴が好きだという人もあまりいないと思うが・・・。


 本日は、思ったよりも仕事が早く終わった。そこで埼玉県立武道館に電話すると、剣道場(第二道場)は夕方から個人使用可とのことなので早速稽古に行くこととする。

 本日も、武道館2階の第二道場の使用者は私一人!

 一方で、武道館1階にある主道場(アリーナ)では、剣道の月例稽古が行われていた。

 まずは柳生心眼流の基本と素振りで体を温めてから、柳剛流剣術、居合、突杖を稽古する。

 1時間ほどが過ぎ、小休止のあと、神道無念流の立居合の稽古を始めると、主道場での剣道の稽古が終わったようで、剣道の師範方が第二道場に入ってきた。

 この第二道場には見所(けんぞ)があり、その横が更衣室になっているので、剣道の師範たちはここで着替えをしているようだ。

 私が稽古場の正面右手、入り口脇の壁際にある大きな鏡に正対し、神道無念流の形を1本ずつ抜いていると、剣道の師範方はみな、私の横を十分な距離おいて通りすぎ、後ろを回って稽古場の中央から見所を抜けて更衣室に入っていく。

 刀を振るって稽古をしている他者の近くでとるべき、当然のたしなみである。

 ところが、そのうちの1人の師範が、なんと刀を振るっている私の目の前、私と壁の鏡の間を、鼻歌をうたいながら横切っていったのである!

 私と鏡との間の間合はわずか2間。

 飛刀術なら、百発百中の間合だ。

 そこで、刀を振るって立居合を抜いている私と壁の鏡の間を、繰り返すが鼻歌をうたいながら、横切っていったのだ。

 一瞬、「こいつ挑発しているのか、ああっ!?」とも思ったのだけれど、どうもそういう風ではないのである。

 この師範、殺気もなければ、闘争心なにも感じられない。さりとて、こちらを小馬鹿にしている風でもない。

 単に鈍感で、無神経なだけなようなのだ・・・・・・。


 それにしても、いやまったく、驚いたね、あたしは。

 もう35年も、いろんなところで武術・武道を稽古してきたが、こんな無礼で無神経な武道の師範というのは、なかなか出会えないもんだぜ。

 もちろん、そんなレベルの低い相手に影響されて貴重な稽古の質を落とすわけにはいかないので、平常心のまま何事もなったようにそのまま形の稽古を続けたのは言うまでもない。

 それにしても、あまりの無礼さと無神経さ、そして「場」の位や彼我の間積もりをまったく弁えない武道人としての質の低さ、あるいは公共の場の立ち居振る舞いとしての無様さから、私は剣道家ではないが、日本剣道の将来について暗澹たる気分になったよ、本気(マジ)で。

 このレベルの人物が、師範でござい、先生でございと、指導をする武道とは、果たしてどのようなものなのか?

 ちなみにもし、私の稽古場である翠月庵で、門下がこのような行動をとったら、その場でそく退席、謹慎である。

 あるいは、かつて私が稽古していた空手道の道場でこのようなことをしたら、五体満足で家には帰れないだろう。

 なによりも、稽古場で刀を振るっている人の太刀筋の線の先に、無神経に鼻歌交じりで歩いて入ってくるという、武道人としては到底ありえない無神経さ、鈍感さが、私にはまったく理解できない。

 たとえば、私があまりの怒りに一瞬我を忘れて、そのまま斬りかかってきたら、その剣道師範はいったいどうするのだろう?

 あるいは誤って(誤ったふりをして)、私が柄手を離してしまって、刀が飛んできたら?(私は、この間合での飛刀術なら、動的でも絶対にはずさない)

 あるいは目釘が折れて、刀身が飛んできたら・・・。

 ま、このおめでたい剣道のセンセイは、そんなことはつゆほども考えていないのだろう。


 まじめな話し、私には長年懇意にさせていただいている剣道家の武兄がいるので、あまりこういうことは書きたくないが、師範・先生と呼ばれる人物がこのレベルでは、

 少なくとも埼玉県立武道館を利用する一部の剣道師範の資質は、「武道人」として極めて低級だと言わざるをえない。

 まったく、心の底からしみじみと、残念である。

 (了)
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