10月の本部稽古~日本柔術、柳生心眼流、柳剛流、伝書講義、水月の当て/(武術・武道)
- 2016/10/31(Mon) -
 昨日は、水月塾本部での稽古。

 まずは小佐野先生より、日本柔術(甲陽水月流)の中伝逆取、同逆投のご指導をいただく。

 次いで柳生心眼流。

 中極の打込から落の表までを教えていただく。素振の形は表→中極→落と進むごとに、難易度が高くなり難しさを実感するが、一方でその術理の奥深さをしみじみと感じることができる。

 稽古の最後は、柳剛流。

 師に打太刀を執っていただき、剣術と長刀の形をみていただいた。


 さて稽古後は、本部稽古の際のお楽しみである、師による伝書講義。

 今回は、『死活伝之巻』についてご講義をいただいた。

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 本伝書は、楊心流大江専兵衛より起倒流深井派の深井勘右衛門に伝えられた系統のもので、天保年間に山田貞六郎から小倉祐輔に伝授されている。

 ここで注目したいのは、武術・武道関係者であれば知らない人はいないであろう、いわゆる「3年殺し」について明記されていることだ。

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 伝書の巻末、急所図の後に、

 「伝にいわく、水月はいったん生きても3年を越えず」

 と記されている。

 つまり、水月の当てで仮死に至った場合、活法でいったん蘇生しても、3年以内には死に至るということであろう。

 「3年殺し」といえば武術・武道関係者はもとより、筋肉少女帯の歌の歌詞になっているぐらい、よく世間で知られたものだが(ま、筋少がどの程度、世間的に普遍性を持っているのかについては、議論の余地があるが・・・)、古文書に記された一次資料は、ほとんど見ることがないのではあるまいか?

 生理学的・医学的に、いわゆる「3年殺し」が実現可能かどうかは別として(医療を専門としている記者として、個人的には意図しての厳密な3年殺しというのは不可能と思われる)、五行思想や経絡理論を背景に、そのような教えが現実に江戸時代の武芸において、秘伝として伝承されていたということは、たいへんに興味深い事実である。

 その後、伝書講義に関連して、師より改めて水月の当ての実技に関する留意点などについてご指導をいただいた。



 水月の当てといえば、その昔、空手道の稽古を始めたばかりの頃、地稽古で何度となく悶絶させられたものである。

 1999年頃はまだ、伝統派空手道も今ほど厳密な寸止めではなく、試合などでも主審によっては、特に中段の突き蹴りなどほとんどフルコンタクトで当てないと有効打として取ってもらえないことが少なくはなく、普段の稽古では「当て止め」が当然であった。

 そこでカウンターのワン・ツーなどを不用意に食らうと、最初の左刻み突きで意識が上段に持っていかれた上で思い切り右の中段逆突きが水月に入るものだから、さすがに試合中ではそういうことはなかったけれど、道場での地稽古では先輩や師範方に、しょっちゅう悶絶させられた。

 おまけに、拳サポをしてこれをやられると、素手の時以上にボディに効くんだよねえ・・・・・・。

 それを考えると、ボクサーやフルコン系の空手家の方々の打たれ強さというのは、本当に大したものだと思う。

 こういう荒っぽい稽古は、若い武術・武道人にとってはたいへん重要なものだけれど、私のような知命を目前にした老兵には、医学的にオススメすることはできず、というか、もうそういう稽古はちょっとやりたくない・・・・・・(爆)。

 いやほんと、意識をそらされた時の水月の当ては、実に効くもんです。

 (了) 
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アクエリアンタロットに缶入りが登場!/(身辺雑記)
- 2016/10/28(Fri) -
 たしか『神曲』では、占い師はあの世で首を後ろ向きにされちゃうんだっけ?

 神に背いて、未来をのぞこうとした罪でな・・・・、ふふふ。


 アクエリアンタロットといえば、デビッド・パラディーニ作の20世紀を代表する傑作タロットとして、人気の高いデッキだ。

 11歳の時、アレクサンドリア木星王師の著作でタロットに触れた当時、伊豆の山里で野猿のような暮らしを送っていたコギタナイ子供である私にとって、アクエリアンタロットはまさに、憧れの舶来品であった。

 あれから30有余年。

 いまや立派な屋根裏のニセ占い師となった私は、このデッキを愛用しているわけだが、なんとこの秋、最近流行の缶入りポケットサイズバージョンが登場したというではないか!

 そこで先日、押っとり刀で購入した次第。

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▲去年あたりから、タロット業界では缶入りポケット版がちょっとしたブームである。左がアクエリアンタロット、右はPCS画のスミス‐ウェイト版


 従来のアクエリアンタロットは、その抒情的な絵柄とは対照的に、とにかくカードのサイズがでかいので、手の小さい私にはいささか使い勝手が悪かった。

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▲通常版は、かなりカードのサイズがでかい


 またタロットでの占断においては、カットよりもむしろシャッフルの方が重要なわけだが、通常版のサイズの場合、かなり広いテーブル上でないと、十分にシャッフルができないという難点がある。

 この点で、ウェイト版にしてもマルセイユ版にしても、ポケットサイズのデッキは、比較的狭いテーブルやカウンターの上などでもシャッフルがしやすいため重宝しており、最近では出先ではもちろん、自宅でもほとんどこうしたポケット版のデッキでしかカードでの占断はしていない。

 そんな中で、アクエリアンタロットの缶入りポケット版が発売されたというのは、じつにうれしい驚きであった。

 さて本日、デッキが到着。さっそく手にとってみる。

 サイズはまさにちょうどよい。

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▲今回の缶入りポケット版は、二回りくらい小さくなった


 一方で紙質は、例えばイタリアのロ・スカラベオ社のカードに比べると、いささか劣り、いかにも紙っぽい感じでそれほどよくはない。実占用としてはこんなもんでも十分であろうが、やっぱりちょっと手触りが安っぽいんだよな。

 あと500円高くてもいいから、もう少しコシのあるしっかりとしたプラスチック系の紙質にしてもらえば、さらに愛着が持てるのだが・・・、ま、しゃあない。

 不思議なもので、アンバーな色合いのアクエリアンタロットは、秋から冬にかけて、妙に使いたくなるカードだ。

 さて、本日の運勢は・・・・・?

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▲タロットとアストロダイスでは、「卜」と「卜」ではないかって? 私の場合、実占においてタロットでは即断しにくい時節について、アストロダイスでみるようにしている

 (おしまい)  
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三和無敵流和力の伝書を読む(その3)-柳剛流長刀と免許口伝に関する考察/(柳剛流)
- 2016/10/26(Wed) -
 これまで2回に渡り、三和無敵流和力の伝書を読みながら、同流と柳剛流の突杖や居合についての関連性について考察した。

 今回は一連の考察の最終回として、表題の通り長刀と免許の口伝について触れてみようと思う。


 柳剛流の長刀は、免許の階梯で伝授される当流の秘伝であり、流祖自ら、 

 「秘伝の長刀を伝授の上の者は、諸流剣術多しと雖も負くる事これ有るまじく候」

 と記しているものである。

 それでは流祖・岡田惣右衛門奇良は、どのような経緯で長刀を学び、それを基に柳剛流の秘伝たる長刀術を編み出したのだろうか? 

 その経緯については、文章はもちろん口伝・口承の類にも詳しくは伝えられていない。ただ、その形=術が伝えられているのみである。

 そこで突杖や居合と同様に、長刀においても三和無敵流の影響を考えたいのだが、残念なことに三和無敵流の薙刀表・裏合計26本は失伝しており、その実技を柳剛流長刀と比較することができない。

 また伝書に記されている形の名称を見ても、柳剛流との明らかな共通点を見出すことはできなかった。

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▲三和無敵流の伝書に記された、薙刀の形名


 この点について、今回、三和無敵流の伝書をはじめとした各種の史料を提供してくださった研究家のA氏は、

 「岡田惣右衛門が三和無敵流以外から長刀や杖・棒を学んだ形跡がないことから、柳剛流の長刀と突杖は、ほぼそのまま三和無敵流から継承されていると思われる」

 と指摘してれくた。

 これについては私もそのように思うのだが、なにしろ突杖や居合のように伝書の記述に両流の関係を感じさせる共通点があるというわけでもなく、実技も検証のしようがないので、確固たる根拠がないのが残念である。



 その上でもう1つ、今回、三和無敵流の伝書を読んで驚いたのは、柳剛流の免許伝書に記されている口伝とまったく同じ記述が三和無敵流にあり、しかもその口伝の内容が伝書に事細かに解説されているということであった。

 古流武術の多くには、口伝を伝授されなけれなまったく理解不能な言葉や図象がよく見られる。

 柳剛流においてもそれは同様であり、その1つに、

 「虚實品別縦屈伸」

 という、いささか謎めいた口伝がある。

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▲流祖直筆と伝えられる、石川家伝来の伝書(写し)に記された免許口伝 「虚實品別縦屈伸」


 この口伝は免許の伝授に際して授けられるもので、仙台藩角田伝柳剛流の免許伝書はもとより、岡田十内派の免許伝書、さらには現存する唯一の流祖直筆の伝書と言われる宮前華表太が石川良助に出した免許巻にもはっきりと記されている。

 一方で、岡田十内派と並んで武州随一の勢力を誇った岡安派の免許伝書には(私が見た限りでは)、この口伝は記されていないようだ。

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▲仙台藩角田伝柳剛流の免許伝書に記された「虚實品別縦屈伸」


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▲岡田十内派の免許伝書に記された「虚實品別縦屈伸」


 この口伝が、『三和無敵流諸術詳解巻』の「詳解口訣」という一節に記されており、しかもその内容がこと細かに解説されているのである。

 「虚實品別縦屈伸」の具体的な内容については、やはりこれも師伝のためあえて秘するが、それにしても柳剛流の免許口伝とまったく同じ文言が三和無敵流にあり、あまつさえそれについての詳しい解説が残されていたというのは、大変興味深いことであった。

 その経緯を常識的に考えれば、岡田惣右衛門は三和無敵流を学ぶ中で、その教えである 「虚實品別縦屈伸」という口伝に深く感じることがあり、それをそのまま自分が興した流儀である柳剛流の免許口伝としたのであろう。

 この事実ひとつをとっても、三和無敵流が柳剛流に極めて大きな影響を与えたことが分かる。

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▲三和無敵流の伝書に記されている、「虚實品別縦屈伸」についての解説


 これもやはりA氏から寄贈していただいた、『盛岡藩 改定増補 古武道史』(米内包方著/昭和33年)を紐解くと、「各県に現存する諸流」として、宮城県には柳剛流・沼倉清八先生(登米伝)の名前があり、神奈川県には三和無敵流・鈴木時次郎師範の名前がある。

 それから58年が過ぎた平成の今、我が柳剛流はかろうじて命脈を保っているものの、その親流儀のひとつである三和無敵流は断絶してしまったというのは、重ね重ね残念である。
 
  
 ■引用・参考文献
  『幸手剣術古武道史』(辻淳/剣術流派調査研究会)
  『戸田剣術古武道史』(辻淳/剣術流派調査研究会)
  『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』(南部修哉)
  『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』(森田栄)

 (了) 
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平成28年度 柳剛忌/(柳剛流)
- 2016/10/24(Mon) -
 本日は旧暦の9月24日、柳剛流祖・岡田惣右衛門奇良の祥月命日である。

 今回も流祖の生家であるA家の皆様にご挨拶の上、墓参にお邪魔した。

 墓前に線香を手向けて合掌しながら、流祖の没後190年となった今も流儀を守り、その業と心を次代に繋げるべく、微力ながら奮闘していることを報告した。


 墓参を済ませ、A家でお茶をいただき近況などを報告した後、歩いて小半刻ほどの西関宿にある柳剛流の顕彰碑を訪ねた。

 この、「柳剛流祖岡田先生之碑」については、以前、本ブログで紹介したが(『柳剛流祖岡田先生之碑』/http://saitamagyoda.blog87.fc2.com/blog-entry-860.html)、現地を訪ねるのは今回が初めてである。

 簡素な、というよりも正直、いささか荒れ果てたといったほうがよいような神社の境内に、その顕彰碑はあった。

1610_石碑


 堂宇の痛み方とは対照的に、この「柳剛流祖岡田先生之碑」は今も堂々たる姿で建っていた。

 石に刻まれた文字もはっきりと読むことができる。

1610_石碑2


 そこに記されている内容は、次の通りである。


 柳剛流祖岡田先生之碑

 先生江戸の人。諱、奇良、惣右衛門と称す。
 その剣法巍然也。独立変動神の如し。
 世に勍敵無く一家を立て法命を柳剛流と曰う。
 剛を取って柔を偏廃すべからず也。誉望に振るへ
 海内、四方の士争って門を造る。余の師
 林右膳はかって先生に従い数年学ぶ。才芸
 超倫。善くその統を継ぐ。余、右膳に従って業を受け
 故に、その祖恩を感じ石を建て表顕す。其の美しきか如く。
 この資、余の門人智久興時等の力あり。
  慶応紀元乙丑夏六月
  石渡義行謹記 喜多徳書 

 (碑裏面)

 石渡義行門人
 新井竹蔵菅原元吉
 村井正七藤原勝任
 喜多村幸兵衛源富易
 智久宗兵衛源興時
  三吉
  巳之助
  万吉
  圓蔵
  千太郎
  新太郎
  銀次郎
  石工 針谷壽老米
 


 この顕彰碑が建てられたのは、今から151年前の慶応元年であると思うと、それもまた感慨深い。

 ここでもしばし碑の前にぬかずきながら、柳剛流の興隆を祈念した。

 (了) 
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高野佐三郎と柳剛流~その3/(柳剛流)
- 2016/10/22(Sat) -
 『高野佐三郎 剣道遺稿集』(スキージャーナル社)に記された、「衰微した柳剛流」という記述の誤謬に関して、前回までの記事で、柳剛流剣士・押見光蔵と千葉栄次郎・桃井春蔵との他流試合の結果についての誤り、また「卑怯」という理由で龍野藩において柳剛流が途絶えたというデマについて反証した。

 次に、高野は柳剛流について、

・相手にのみ脛当てを付けさせて、自分は付けなかった。
・これは、「お前は打たせろ、俺はお前を打つぞ」というやり方であり、「相手を打つからには、自分も打たれる覚悟がなければならない」と苦情が出て、それから自分もつけるようになった。

 と記しているが、これについても、ある種の意図に基づいた悪質な印象操作ではないかと、私は推測している。

 その根拠だが、例えば江戸時代後期にはすでに、剣術諸流では防具を付け、竹刀を用いての打合い稽古(現在の剣道でいうところの地稽古)は、流派の垣根を超えて広く行われていた。

 一方でそれは、現代の剣道のように竹刀や防具など用具の規格が統一されておらず、戦い方についてもかなり流派色が強いものであったようだ。

 たとえば、突きや胴打ちを用いない神道無念流では、時代がかなり下るまで竹刀稽古でも胴を着けなかったというのは、有名な話である。

 同様に柳剛流では、相手の脚を斬る断脚之術が流派の術技の根幹であるために、竹刀稽古では脛当てを用いていたのもよく知られている。

 さてそこで、高野が言うように柳剛流の剣士は、他流の剣士との竹刀稽古の際に、相手に脛当てを着けさせて自分は着けず、「お前は打たせろ、俺はお前を打つぞ」などと言って試合稽古に臨んだというのは本当なのだろうか?

 まず第一に、「お前は打たせろ、俺はお前を打つぞ」、などという不公平な試合稽古を、しかも他流試合で行うというのは、そもそも常識的にどうかしている。

 そんな不公平な試合(互角稽古)に応じるというのは、江戸時代だろうと平成の今だろうと、普通に考えてありえないことだ。

 実際に、流派の垣根を超えた共通のルールや共通の防具の規格がなかった江戸時代においても、他流試合では彼我で使う防具の種類を合わせたり、打突部位を申し合わせるなどして、できるだけ公平な状況で試合稽古を行うことが、剣術家としての心得であったということが、天保から文久のころに活躍した神道無念流剣士・武藤七之介の試合剣術テキストである『神道無念流剣術心得書』に、はっきりと記されている。

 また同書には、流派ごとの戦い方の特徴や、対戦する際のコツが書かれており、そこには柳剛流についても記されているというのは、以前、本ブログで紹介した通りである。

 そしてそこには、「柳剛流の剣士は他流の脚を打つが、他流の剣士には自分の脚を打たせない」などということは、一言も書かれていない。

 もし当時の柳剛流の試合ぶりが、高野が言うように、「お前は打たせろ、俺はお前を打つぞ」などという、それこそ卑怯なものであったなら、当然、武藤七之介はそれを記していただろう。

 さらに、柳剛流に伝わる口承や逸話においても、試合において、「お前は打たせろ、俺はお前を打つぞ」などとういう話は、柳剛流の大勢力地であった武州でも、あるいは二代目以降の柳剛流の本拠地である角田においても、一切聞いたことがなく、伝わってもいない。

 以上の点から、高野の記述は何らかの意図のある印象操作としか思えないのである。

 では、なぜそのような印象操作を高野が行ったのだろうか?

 そこには2つの理由があると考えられる。

 これは試合や自由攻防のある武術・武道を稽古したことのある者ならだれでも経験していることだと思うが、地稽古や試合稽古のような相対稽古において、一方が防具を付け、一方が防具を付けないで対峙したとする。

 この場合、防具を付けた側は、相手が無防具だけにになんとなく打ち込みにくい気分になり、一方で防具を付けていない側は安心して十全に相手に打ち込むことができる。

 このため、防具を付けている側よりも、防具を付けていない側の方が、むしろ心理的に有利になるということがある。

 空手道の地稽古や試合稽古などで、上位者が下位者にのみ防具を付けさせることで、むしろ心理的に相手をコントロールして優位に立ち、結果としてボコボコにしてしまうなどということは、割合よくあることだ。

 また、弟子にブラスナックルを握らせた上で自分に殴りかからせ、これを捌くデモンストレーションをしていた自己啓発セミナーの先生がいたが、これなども上記と同様の典型的な心理戦術である。


 さて話を柳剛流に戻す。

 江戸時代から明治にかけて、柳剛流剣士は試合稽古において面・小手・胴に加え、脛も打つことから、防具として脛当ても使っていた。しかし他流では、脛を打つことは一般的ではなかったので、当然ながら防具の脛当ても持っていないわけだ。

 その上で、柳剛流の剣士と他流の剣士が試合稽古をした場合どうなるか?

 当然ながらまずはじめに、脛打ちをありとして試合をするのかを申し合わせるだろう。その上で、脛打ちありの試合となれば、防具として脛当てを着けなければならない。

 この場合、試合をする場所が柳剛流の稽古場であったなら、他流の剣士はだれかの脛当てを借りればよい。しかし、柳剛流の道場でない所での試合となれば、柳剛流の剣士以外は脛当てをもっていないという状況になろう。

 そうなれば当然、柳剛流の剣士が、「では自分の脛当てを貸すから、あんたが着けてくれ。その上で、お互いに脛打ちありで試合をしよう」ということになるだろうことは、容易に想像できるし、おそらくそういうことが他流試合が盛んに行われていたころには、多々あっただろう。

 そうなると、柳剛流剣士の側にはそのような意図がなかったとしても、上記の防具有りの者対防具無しの者との対戦とまったく同じ、「心理的な不均衡」が発生し、結果として申し合わせ(ルール)ではお互いに脛打ちありなのにもかかわらず、脛当てを着けない柳剛流剣士の方が有利になるということが多々あったであろうことも、これまた容易に想像できるのである。

 そして中には、こうした心理戦術を意図的に活用し、試合を有利に進めようとした柳剛流の剣士もいたであろう。

 こうした経験、あるいは伝聞などから、高野は柳剛流の剣士たちが相手にだけ脛当てを着けさせて、あたかも「お前は打たせろ、俺はお前を打つぞ」などと、卑怯なルールを強要して立合ったなどと、吹聴するに至ったのではないかと私は考えている。


 そしてもう1つ、高野がこうした柳剛流のイメージを毀損するさまざまな印象操作を行ったそもそもの動機は、自らの道場である明信館の勢力拡大のためだったと考えられるのだ。

 埼玉県秩父出身の高野は、明治23(1890)年に秩父に戻り、明信館を設立する。これは戦前の大日本武徳会設立の5年前だ。

 以降、高野は埼玉県浦和をはじめ、埼玉県内各地に明信館の支館を次々と設け、勢力を急激に拡大させていくわけだが、その勢力拡大エリアの多くが、柳剛流の勢力範囲でもあった。

 当時すでに、高野の名声は天下に鳴り響いており、さらにそれに前後しての大日本武徳会設立、その下で統一化された剣道が興隆していく中、武州各地の柳剛流道場が次々と高野の明信館支部に鞍替えしていったという事実は、意外に知られていない。

 なおこうした変遷は、辻淳先生の一連の著作である『郷国剣士伝』に詳しい。

 このように、数多くの柳剛流剣士たちとその稽古場を明信館に鞍替えさせていった高野は、当然ながらできるだけ自身の一刀流、あるいは近代的な武徳会流剣道の優位性をできるだけ喧伝し、一方で鞍替させた門下たちの旧流である柳剛流を非難することに、意識的かあるいは無意識的にかは別としても、それなりに積極的だったであろう。

 今回取り上げた高野の、「衰微した柳剛流」という一文は、このような意図の延長線上で書かれた典型的なものと言えよう。



 近代剣道の大立者となり、「昭和の剣聖」とまで言われた高野佐三郎は、いわば現代における剣術・剣道史の「巨大な権威」である。

 その権威が自ら記し、あるいは述べただろう、柳剛流へデマや誹謗中傷の数々は、高野の死から66年が過ぎた今も、容易には解きがたい呪縛となっている。

 たとえば司馬遼太郎が描くところの、「蕨の百姓剣法で、卑怯な脛打ちを多用する、あか抜けない剣術流儀である柳剛流」といったステレオタイプの誹謗中傷も、その文脈を遡れば高野の印象操作に行きつくというのは、さすがに剣聖と言われた先人に対して無礼だろうか?

 いずれにしても、こうした根深い呪縛をほんのわずかずつでも解いていくことが、8世代を経て流祖・岡田惣右衛門の「業」を受け継ぐことを許された、柳剛流剣士たる己の務めなのかもしれない・・・・・・。

 流祖の190回忌となる祥月命日を2日後に控えた今夜、私はそんなことをしみじみと考えている。


 ~打つ人も打たるる人も打太刀も
                心なとめず無念無心そ~(柳剛流免許 道歌より)



 ■引用・参考文献
  『高野佐三郎 剣道遺稿集』(堂本昭彦/スキージャーナル社)
  『幸手剣術古武道史』(辻淳/剣術流派調査研究会)
  『戸田剣術古武道史』(辻淳/剣術流派調査研究会)
  『郷国剣士伝 第2号 高野佐野三郎・明信館の謎 川田谷村明信館と桶川、北本での柳剛流』
  (辻淳/剣術流派調査研究会)
  『雑誌并見聞録』(小林雅助)
  「吉田村誌」/『幸手市史調査報告書 第十集 村と町・往時の幸手』(幸手市教育委員会編)
  『試合剣術の発展過程に関する研究-「神道無念流剣術心得書」の分析-』(長尾進)
  『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』(南部修哉)
  『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』(森田栄)
  『剣術修行の旅日記 佐賀藩・葉隠武士の「諸国廻歴日録」を読む』(永井義男/朝日新聞出版)

 (了)
 
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剣に身を沿わせる/(柳剛流)
- 2016/10/20(Thu) -
■柳剛流稽古備忘録

 ここ最近、どうも目録・柳剛刀の一手である「青眼左足刀」の際、軸とバランスが微妙に崩れてしまうのが気になっていた。

 そして本日、繰り返しこの形を稽古している中、ふとしたタイミングでピタッと運刀と身勢が極まるようになった。

 その後、木太刀を振るいながら自己検証するに、どうも稽古に使う木太刀を長木刀に代えて以来、「青眼左足刀」の際に体捌きが先走って、木太刀の動きとのバランスが崩れていたようである。

 今日の稽古で実感できたのは、「青眼左足刀」では自分の感覚的には体捌きよりも0.2拍子ほど早く木太刀を走らせる、いわば剣に身を沿わせるような体捌きで動くと、軸とバランスと拍子がピタリと合うことである。

 面白いことに他の形(業)では、体捌きと木太刀の振りは、感覚的にはまったく同時の一拍子で極まるのであるが・・・・・・。

 この違いの理由の検討はまだできていないのだが、まずは現象として、最近の課題であった「青眼左足刀」の際の身勢の崩れが修正できるようになったのは、本日の稽古での大きな気づきであった。

 (了)
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高野佐三郎と柳剛流~その2/(柳剛流)
- 2016/10/18(Tue) -
 藤堂家および中川家の江戸屋敷において行われた、柳剛流・押見光蔵の一連の試合について、前回記事の確認と補足をしておく。

 まず4月2日に藤堂邸で行われた北辰一刀流の千葉栄次郎との対戦については、「論外」とあり、双方の手数や勝敗については、なにも記されていない。そして5月1日に中川邸で行われた試合においては、1:15で、千葉の勝利となっている。

 これについて、森田栄先生の労作『日本剣道史 第10号 柳剛流研究 その1』には次のような記述がある。

 しかし異説があって、最初は栄次郎物の見事に脚を打たれ、、押見試合之れで終わりを告げたるに、栄次郎強って再試合を望み、思案工夫師説のごとくにして押見の脚切りを防いだともいいます。

 一方で高野佐三郎の記述では、まず押見と千葉が対戦し、押見が圧勝。それを見ていた桃井が、押見と立ち会って圧勝。その後、千葉が押見との再試合を望んで圧勝という筋書きになっている。

 この点について、上記4月2日の押見対千葉の対戦における「論外」との試合結果が大いに気になるところであるが、この『試合勝負附』以外には、伝聞に基づいた話しか伝わっていないため、真偽は闇の中である。

 いずれにしても、高野が記述しているように押見が桃井に完敗し、さらに千葉にも完敗したというのは、前回の記事で示した1次資料である『試合勝負附』に記された対戦結果を見ても明らかな間違いであり、実際には押見は、千葉には完敗したものの、桃井には僅差での惜敗であったというのが真実である。


 次に、6.の「それを見た、柳剛流の何某の主人であった脇坂候は、剣道で足を狙うのは卑怯である。以後、自分の藩では柳剛流は学ばないとし、その何某という柳剛流の剣客はクビになった」という話について。

 ここでいう脇坂候とは、試合の行われた年から、播磨龍野藩第9代藩主で龍野藩脇坂家11代である、脇坂安宅であろう。そして、たしかに龍野藩といえば、柳剛流が伝播した西国の藩としてよく知られている。

 では高野が言うように、嘉永2(1849)年の他流試合によって、藩主自らが柳剛流を卑怯と批判し、龍野藩における柳剛流の剣脈が断たれたというのは、はたして事実なのだろうか?

 これは、龍野藩に関連する記録を当たるまでもない。

 『武芸流派大事典』の著者である綿谷雪氏は、同書の柳剛流についての項で次のように記している。

 私が小年時代に神戸市で学んだ柳剛流などは、播州竜野藩伝の終未期のもので、もはや脚防具も用いず脚を薙ぐこ ともなかったけれど、竹刀で相手の脚元の道場の床板を、ひどい音を立てて乱打し、相手の動転に乗じて直ぐに入身にとびこむような荒っぽいやり方であった。

 ちなみに綿谷氏の生年は明治36(1903)年であり、「少年時代」というのを仮に12歳とすれば、大正4(1915)年となるわけで、少なくとも明治末期から大正初期にかけてまでは、形態はかなり変質したとはいえ、龍野藩伝柳剛流は彼の地で脈々と受け継がれていたわけだ。

 こうした事実からも、「藩主から卑怯と批判されて剣脈が絶えた」というのは、真っ赤な嘘ということになる。

 しかも、そもそも押見光蔵は藤堂家の家来であり、脇坂家の者ではないのだから、高野の記述は二重に、さらに言えば試合そのものについても、藤堂家および中川家で行われたものを「紀州家」と誤って記述しているのだから、高野は三重において事実とは異なる記述をし、それを後世に伝えているのだ。

 こうした事実無根の風説は、柳剛流を修行する者としては、本当に困った、いやたいへん迷惑な話しである。


 次に、冒頭に示した高野の記述の3.~4.について。

 高野は、

3.相手にのみ脛当てを付けさせて、自分は付けなかった。
4.これは、「お前は打たせろ、俺をお前を打つぞ」というやり方であり、「相手を打つからには、自分も打たれる覚悟がなければならない」と苦情が出て、それから自分もつけるようになった。

 と記している。

 これらについても間違いというか、柳剛流を批判するための、ある種の印象操作に近いデマゴーグである可能性が高いのではないかと、私はみている。

 それはなぜか? 次回にまとめようと思う。

 (つづく)
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高野佐三郎と柳剛流~その1/(柳剛流)
- 2016/10/14(Fri) -
 高野佐三郎といえば、いまさら説明するまでもない、昭和の剣聖と呼ばれた現代剣道の大立者である。

 過日、書店でふと、『高野佐三郎 剣道遺稿集』(スキージャーナル社)を手に取ってパラパラとめくってみたところ、6ページ、2節にわたって柳剛流について書かれていた。

 しかも、その見出しが振るっていて、「衰微した柳剛流」とある。

 そこで高野が書いていることを要約すると、

1.柳剛流は、岡田十内(総右衛門寄良)が元祖である。
2.試合では長い竹刀で、上段に構え足を打つ。
3.相手にのみ脛当てを付けさせて、自分は付けなかった。
4.これは、「お前は打たせろ、俺をお前を打つぞ」というやり方であり、「相手を打つからには、自分も打たれる覚悟がなければならない」と苦情が出て、それから自分もつけるようになった。
4.尾張大納言の大寄せの際、柳剛流の何某が、千葉栄次郎、桃井春蔵と試合をした。
5.その試合で、柳剛流の何某は、千葉にも桃井にも完敗。
6.それを見た、柳剛流の何某の主人であった脇坂候は、剣道で足を狙うのは卑怯である。以後、自分の藩では柳剛流は学ばない」とし、その何某という柳剛流の剣客はクビになった。
7.このため今は、柳剛流をやる人はほとんどいない。

 というような内容が記されている。


 さて、昭和の剣聖に対して、私ごとき平成に生きる市井の無名者がこんなことをいう言うのもなんだが、これらの記述は間違いが多く、ある意味で筆者たる高野の文言からは悪意すら感じられる。


 まず1.について、柳剛流の流祖・岡田惣右衛門奇良と、その孫弟子である岡田十内叙吉を混同していることや、流祖の出生地を間違えていることについては、まあ情報の少ない時代故、しかたないとしよう。

 次に、4~7の「尾張大納言の大寄せ」の事実関係について、辻淳先生の著作『戸田剣術古武道史』から見てみよう。

 柳剛流剣士と北辰一刀流・千葉栄次郎との試合の逸話は、よく知られたものであるが、その出典の多くが、明治17(1884)発行の『千葉周作先生直伝・剣術名人法』高坂昌孝著、あるいは同年発行の『剣法秘訣』広瀬真平であると考えられる。

 なお、これらの著作は、あくまでも当該試合に関する二次資料であり、厳密な試合の記録ではない。しかも、著者である高坂も広瀬も、いずれも北辰一刀流の剣客である。

 一方で近年の研究により、この柳剛流剣士と千葉栄次郎との試合に関する一次資料が発見されている。

 それが、明治時代の宮廷や警視庁における剣術を長年にわたって調査・研究してきた山下泰治氏が発見した『試合勝負附』という史料である。

 この『試合勝負附』は、嘉永2(1849)年閏4~6月まで、伊勢津藩主藤堂和泉守と豊後岡藩主中川修理太夫の江戸屋敷で行われた、諸流派合同の他流試合、約70試合に関する記録である。

 ここに、藤堂和泉守の家来で、柳剛流松田源吾の門人である押見光蔵と、千葉栄次郎や4代目桃井春蔵を含めた複数の剣客たちとの試合結果が以下のように記されている。


 四月二日 藤堂邸
                  押見光蔵
              論外   対
                  千葉栄次郎

 五月朔日 中川邸
              七本 押見光蔵
                    対
              二本 木藤平治(鏡心明智流・桃井門人)

              七本 押見光蔵
                    対
              一本 宮城丹波造(中西派一刀流・中西門人)

              十本 押見光蔵
                    対
              無   笹岡槌太郎(直心影流・小幡門人)

              四本 押見光蔵
                    対
              六本 香取政治郎(北辰一刀流流・千葉門人)

              一本  押見光蔵
                    対
              十一本 千葉栄次郎

              四本 押見光蔵
                    対
              五本 桃井左右八郎(後の四代目桃井春蔵直正

 


 柳剛流剣士と北辰一刀流の天才剣士・千葉栄次郎との試合に関する一次資料は、いまのところこの『試合勝負附』しか見つかっていない。

 このことから、上記、高野のいう「尾張大納言の大寄せ」というのは、実はここに記されている藤堂家および中川家での試合のことだったのであろう。

 そしてこの試合では、確かに柳剛流の押見は千葉栄次郎に1対15で大敗しているが(これについては異説があるり後述する)、一方で桃井左右八郎(春蔵)には、4対5の僅差で敗れているのだ。

 しかし高野の著述では、柳剛流の何某は、まず桃井と対戦して何本も打ち込まれて大敗し、その後さらに千葉にも続けて完敗するという話にすり変わっているのである。

 なおちなみに、この試合が行われた嘉永2(1849)年は、高野が生まれる13年も前の話だ。

 このように、柳剛流剣士と千葉栄次郎との試合とその周辺に関する高野の記述は、伝聞によるものであり、とても正確な記述とは言えないのである。

 それは6.の「それを見た、柳剛流の何某の主人であった脇坂候は、剣道で足を狙うのは卑怯である。以後、自分の藩では柳剛流は学ばないとし、その何某という柳剛流の剣客はクビになった」という話も同様で、やはりこれも誤謬、あるいは悪意に基づいたデマに過ぎないと思われる。

 (つづく)
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掛け声/(武術・武道)
- 2016/10/11(Tue) -
 世間様は3連休とのことだったが、六無斎たる私は、原稿書きやら、わずか1か月でお亡くなりになったパソコンの再設置など、いつも通りのあわただしい3日間であった。

 このため、翠月庵の定例稽古も休みにしたのだが、その代わりに日曜と月曜の夜は、いずれも埼玉県立武道館で自主稽古を行った。

 いつもなら、広々とした第二武道場を独り占めでの稽古となるだが、3連休ということもあってか、珍しく日曜夜も月曜夜も、いずれも同じ2人の方が先客として居合の稽古をしていた。

 見るともなくみたところ、この方々は全剣連居合か、あるいは無双直伝英信流か夢想神伝流のようだが、実際のところ、そのあたりの区別は私にはさっぱり分からない・・・・・・。


 さて、先客の稽古の邪魔にならないよう、彼らから十分に離れた道場の最奥の一角で、まずは準備運動も兼ねて、柳生心眼流の素振り21カ条の表7本、そして先の本部稽古で師より伝授していただいた中極3本の形を打つ。

 広々とした稽古場で、腹の底から、「トッ!」「ハッ!」「ヤッ!」と存分に掛け声をかけながら打つ形は、実に爽快だ。

 続いて、柳剛流。

 剣術、居合、突杖、長刀を、これまた存分に、「エイ!」「ヤッ!」「トッ!」と掛け声をかけつつ、何度も形を繰り返す。

 最後は、神道無念流立居合。

 こちらも、「エイ!」「ヤッ!」「トッ!」の裂帛の掛け声をかけながら、12本の形を抜く。

 
 このブログでもたびたび触れているとおり、私は武芸における掛け声というのは、ある種、形而下的な実体を持った実効性のある武技のひとつだと考えている。

 それゆえ、掛け声をかけるべき技は、己の全身全霊を込めて掛け声をかけるよう心がけている。

 ゆえに、まあ有体に言えば、他人様からすると、かなりうるさいかと思う。

 だからこそ、思う存分に掛け声がかけられる武道館の道場での稽古はありがたい。なにしろ、拙宅の室内や、周辺の屋外では、近所迷惑も考えて無声での稽古にならざるをえないのである。

 その点、翠月庵の行田稽古場は、屋外ながらも存分に掛け声をかけられるのは、たいへんにありがたいことだ。


 さて、私を含めて3名しかいない、ひと気のない広々とした武道館の道場で、思う存分に掛け声をかけながら、長木刀や剣、杖や長刀を振るった私は、実に爽快な稽古を満喫させていただいたわけだが・・・・・・。

 その間、道場の反対側では、先客の2人の居合道家が、無声で静かに静かに、稽古を続けていた。

 思うにたぶん、私の掛け声が、さぞかし喧しかったのではないかと思う。

 とはいえそれは、けして嫌がらせなどではないので、そのあたりはご寛恕いただきたく、お願い申し上げ奉り候。

 (了)
 
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書きたいことはいろいろあれど・・・・・・/(身辺雑記)
- 2016/10/07(Fri) -
 多忙である。

 一昨日は、厚生労働省で局長インタビュ-、昨日は楽天本社でインタビュー×2名。その合間に、温泉宿の原稿を書いては入稿、書いては入稿・・・・・・。

 五十路も目前となると、この程度の忙しさでも、体にこたえる。

 もっとも、この春から、ずっと毎月の売り上げが前年度比減だったので、10月からの第四四半期は、ちょっと根を詰めて稼がねばならぬ。 


 そんなこんなで今週は、日々の稽古の時間を作るだけでいっぱいいっぱいで、腰を落ち着けてブログを書く余裕もない。

 とりあえず、

・三和無敵流和力の伝書を読む(その3)-柳剛流長刀と免許口伝に関する考察
・高野佐三郎の柳剛流のdisりっぷりと、その誤り
・ヤフオクで落札した稽古用長刀のインプレ
・近所の人から、四式陶製手榴弾や高級桐下駄をもらった話し
・刀屋が店の奥から出してきた未登録の満鉄刀

 などといった記事を書こうと材料は用意できているのだが、今週はどれも執筆に手がつかないかもしらん。


 ま、何はともあれ、とりあえず寝ます。

 オヤスミナサイzzzzzzz。

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▲ヤフオクで落札し、本日届いた稽古用の男薙刀(上)。真ん中はなぎなた連盟制定
のもの。下は、やはりヤフオクで落とした昔の児童向け(?)稽古用薙刀

 (おしまい)
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今月の新刊、その他・・・/(身辺雑記)
- 2016/10/03(Mon) -
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▲『大人の癒し宿2017 西日本編』 (メディアパルムック)。20軒くらい書いたかな・・・・・



 今月の新刊デス。よろしく。ま、印税ではないんだけどな。

 先週まで、「なんだか最近、売り上げが少ないのう・・・。そろそろ営業とかしないとダメかなあ・・・」などと思っていたのだけれど、気づいてみれば、10月の仕事はもういっぱいいっぱい。

 今日も12時間以上も机に座って、宿の原稿3本を執筆し、先日行ったインタビューのテープ起こしをひたすら行う。

 加えて今週は、インタビューが2本、宿原稿があと8本、インタビュー原稿の〆切が2つ。

 過酷である。

 ま、人間万事塞翁が馬ということでしょうか。

 とりあえず、ちょっと稽古してから寝ますzzzzzzz。

 (おしまい) 
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三和無敵流和力の伝書を読む(その2)-柳剛流居合に関する考察/(柳剛流)
- 2016/10/02(Sun) -
 柳剛流と三和無敵流との関連について、次に検討してみたいのが居合である。

 流祖・岡田惣右衛門は、心形刀流を修行の後に、廻国修行での諸流の研鑽をへて、柳剛流を創始したが、その居合に関しては心形刀流の影響やよすがはほとんど見られない。しいて言えば、逆手での納刀が共通している程度であろう。

 これまで本ブログでも何度か示してきたように、柳剛流の居合は切紙の段階で学ぶ、わずか5本の形のみで構成されている。

 しかもその内容は、実践的な用法というよりも、柳剛流ならではの体を養成し、かつその体の使い方(体捌き)を学ぶための、明確な鍛錬形といった要素が強い。

 それでは、これらの居合形は、いったどこから来たのか?

 そこで興味を引くのが、三和無敵流なのである。

161002_三和無敵流伝書
▲『三和無敵流和力目録 全』に掲載されている、抜刀表組の形


 前回の記事でも触れたように、総合武術である三和無敵流には、柔術を中心として実に様々な武技が含まれており、しかもその手数は柔術だけでも500手を超える。それらについて、『三和無敵流和力目録 全』に掲載されているものを列記すると、次のようになる。

・和力(柔術)/表・裏合計520手
・剣術/表・裏合計139本
・杖術/表・奥合計34本
・抜刀/表・裏・相手附・奥合計41本
・薙刀/表・裏合計26本
・術手(十手)/19本
・小具足/17手
・突杖術(乳切)/6本
・鎖鎌術/9本
・長杖術(六尺)/4本
・槍術/長刀合・奥の形12本
・その他/縛縄、竹刀業等

 これらの中で、柳剛流居合との関連で特に注目したいのが、抜刀の表組の形だ。

 三和無敵流の抜刀は表組6本、裏組16本、相手附12本、奥組7本の合計41本がある。この中でも、表組6本の形の構成と名称は、柳剛流居合と非常に類似しているのである。

■柳剛流居合
・向一文字
・右行
・左行
・後詰
・切上
         以上、5本

■三和無敵流抜刀 表組
・向一文字
・右剣
・左剣
・躰剣
・陽剣
・後詰 左右
         以上、6本



 三和無敵流抜刀の実技については、失伝してしまっているので、どのようなものだったか実態は不明であるが、伝書に記載されている形名からは、柳剛流居合との極めて強い類似性が確認できる。

 一本目にある「向一文字」と「後詰」は、両流とも形の名称は完全に一致している。

 また柳剛流の「右行」と「左行」に対して、三和無敵流の「右剣」と「左剣」は、「行」と「剣」という文字が異なるのみである。

 三和無敵流の「躰剣」と「陽剣」がどのようなものであったのかは分からないが、他の形の名称が両流ともにこれだけ類似しているということは、柳剛流の「切上」に類似の形が、三和無敵流の「躰剣」または「陽剣」であったのではないかと考えるのは、それほど飛躍した推測ではないだろう。



 以上、繰り返しになるが、三和無敵流の実技が失伝しているために、術技に関する詳細な覚書や手控えなどが出てこないかぎり決定的に断言することはできないが、両流の居合(抜刀)の形名称や本数、構成などを比較すると、柳剛流居合に三和無敵流抜刀(表組)が、強い影響を与えていることは間違いはない。

 おそらく流祖・岡田惣右衛門は、自らが学んだ三和無敵流抜刀の形の中でも、最初に学ぶ表組の一連の形を特に選び、これをさらに整理統合することで、自流である柳剛流の体系に取り込んだのではないかと考えられる。

 (つづく)
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