手裏剣は「投げる」ものではない、「打つ」ものである/(手裏剣術)
- 2017/03/31(Fri) -
 言葉は、彼我の世界を規定する。

 「はじめに言葉ありき」とは『ヨハネによる福音書』の一節だが、我々人間は言葉があるからこそ、抽象的な概念や行為を実存として把握し認識することができる。



 武芸における手裏剣術では、古来から手裏剣は「投げる」ものではなく「打つ」ものとされてきた。

 いくつか古典の記述を拾ってみよう。

 「小笠原忠政、敵に胸板と肌との間を鑓にて突き返されたるが、忠政脇差を抜きて手裏剣に打ちたるに、敵ひるんで鑓を抜きたるによりて命助かりたり」(『大阪軍記』)

 「武村武蔵子は与左衛門と云いけり。父に不劣剣術の名人手裏剣の上手なり。川に桃を受けて打つに桃の核を貫きたり」(『幸庵対話』)

 「黒河内兼規、その手裏剣におけるも、小的を柱にかけ、一丈八尺を隔ててこれに打ち、一も過らず」(『会津藩教育考』)



 このように、手裏剣術に関する古典的な史料では、一部に「投げる」という記述も見られるが、ほとんどの場合「打つ」と表現されている。

 その理由はつまびらかではないが、たとえば杭は「打つ」という。あるいは釘も「打つ」と表現する。

 慣習として、先端のとがった棒状のものを何かに突きさす行為は「打つ」と表現することから、棒状あるいは短刀状の手裏剣についても、これを「打つ」と表現したのではなかろうか?



 もう1つ、これは手裏剣術ではないが、剣術の斬撃について、二天一流の宮本武蔵(手裏剣術についても名手であり、始祖のひとりでもある)は、その著書『五輪書』水の巻において、「打とあたると云事」という一文を記している。

一 打とあたると云事。
うつと云事、あたると云事、二つ也。
うつと云こゝろハ、何れのうちにても、
おもひうけて、たしかに打也。
あたるハ、行あたるほどの心にて、
何と強くあたり、忽敵の死ぬるほどにても、
これハ、あたる也。
打と云ハ、心得て打所也。吟味すべし。
敵の手にても、足にても、
あたると云ハ、先、あたる也。
あたりて後を、強くうたんため也。
あたるハ、さはるほどの心、
能ならひ得てハ、各別の事也。
工夫すべし。

(訳)
一 打つと当るという事
 打つということ、当るということ、(これは)二つ(別々のこと)である。
 打つという意味は、どんな打ちでも、しっかりと心得て、確実に打つということである。当るというのは、(たまたま)行き当るという程のことであり、どれほど強く当って、敵が即死してしまう程であっても、これは当るということである。打つというのは、心得て打つ場合である。(ここを)吟味すべし。
 敵の手でも足でも、当るというのは、まず、当るのである。(それは)当った後を強く打つためのものである。(だから)当るというのは、触る〔様子をみる〕という程のことであり、よく習得すれば、まったく別のことだ(とわかる)。工夫すべし。

 ~出典:「武蔵の五輪書を読む 五輪書研究会版テクスト全文 現代語訳と注解・評釈」(播磨武蔵研究会「宮本武蔵」ホームページhttp://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.htmlより)~


 『五輪書』では、斬撃において「打つ」と「当たる」の違いを、主体である剣術者の意念の違いで分別している。

 手裏剣術においても、「打つ」(Strike)と「投げる」(Throw)とでは、術者の意識としてたいへん大きな違いがあり、それは区別すべき精神状態=心法である。

 あくまでも武技として手裏剣術を稽古するのであれば、一打をもって敵の死命を制するだけの気勢を込めた、「打ち」でなければならない。

 「投げる」という言葉・表現・行為には、こうした武芸としての、生死一如の厳しさが無いのである。



 遊戯やスポーツとしての的当てであれば、手裏剣は「投げる」ものであって構わない。しかし、それを武芸と位置付けるのであれば、手裏剣は必ず「打つ」ものでなければならない。

 特に手裏剣術の初学者は、この点を十分に踏まえて稽古に臨む必要がある。

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 ■引用・参考文献
 『五輪書』(宮本武蔵著・渡辺一郎校注/岩波文庫)
 『宮本武蔵の戦闘マニュアル 精解 五輪書』(兵頭二十八著/新紀元社)
 『手裏剣術』(染谷親俊著/愛隆堂)

 (了)
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Protect yourself at all times./(時評)
- 2017/03/30(Thu) -
 栃木県で雪山訓練中の高校生たちと教諭が雪崩に巻き込まれ、8人が亡くなる痛ましい事故が起きた。

 被害にあった方々のご冥福をお祈りします。

 そして残念なことに、この雪崩事故については、雪崩ビーコンなど装備の不備、雪崩が頻発することが知られていた斜面でのラッセル訓練の実施、事故発生からの救助要請の遅れなど、主催者側のさまざまな危機管理の甘さがが指摘されている。



 高校時代は山岳部に所属し、アラスカのユーコン川やタクラマカン砂漠、パミール高原など辺境の旅をしていた20代の頃、私はイギリスに本部を置く冒険教育機関アウトワード・バウンドの長野校で、野外教育者養成のための訓練コースに参加した。

 あれから26年が過ぎた今もしっかりと私の脳裏に刻まれているのは、「野外では常に、まず自己の安全を確保せよ」という教えだ。

 レジャーでもあるいは救助活動でも、アウトドアではまず自己(および自分たちパーティ)の安全確保を優先すること、これが大原則である。

 先駆的アルピニズムを行う一部の先鋭的登山家や、リスク覚悟で活動する冒険家を除いて、一般的な野外活動愛好家によるアウトドアでの事故の多くは、「自己の安全確保優先」という原則をおろそかにしたことが原因となって起こっていることがほとんどだ。

 今回の栃木の事故の場合、指導を行う人々、主催者や指導者に、こうした「安全確保」の意識が薄かったことが、根本的な原因にあるように思えてならない。



 春の雪山で表層雪崩が起きやすいのは、中堅どころのアウトドアズマンであれば常識的な知識であろう。

 その上で、訓練地域である当該スキー場では、彼らの滞在初日に事故現場とは別の場所ながら雪崩が発生していたこと。その後、夜間に大量の積雪がったことなどを勘案すれば、「このフィールドで自己および自己パーティの安全が確保できるのか」は、おのずから判断できたのではあるまいか?

 そしてなにより致命的なのは、指導者や訓練生たちが、雪崩ビーコンやゾンデ棒を装備していなかったことだ。

 近年、特に中高年のビギナー登山者の中に、ツェルトやコンパス、非常食などを携帯せず、フォースト・ビバークの知識・経験・装備がないままに山行に望み、遭難して低体温症や滑落などといった事故を起こす人たちがいる。

 野外活動において、「備えよ、常に(ロバート・ベーデン=パウエル卿)」は、アウトドアズマンの基本の「キ」だ。

 今回の事故では、雪崩ビーコンもゾンデ棒も未装備という状態でラッセル訓練を行うのに、当該地域は適切なのかを指導者たちは十分に検討したのだろうか?

 検討をしたとして、それは気象データや地域特性を考慮した、客観的で科学的な事実に基づく判断であったのか?

 主観的な思い込みによる、「ラッセル訓練ぐらい、大丈夫だろう」「スキー場だから、安全だろう」といった、安易な状況判断でなかったか?

 このあたりをきちんと検証した上で、単なる責任追及にすることなく、今回の教訓を活かして同じような事故を再び起こさないことが、事故で亡くなった方たちに対する、関係者たちの償いであり使命であろう。

 今回のケースでは、訓練を受ける学生たちは、指導者へ自己の安全を付託しているだから、「自己および自己パーティの安全確保」に対する責任は、指導者たちにあることは明白だ。

 この点について、指導者たちに認識の甘さがあったのが残念でならない。



 もう1つ、今回の事故に関連して思うのは、高校山岳部における活動規制についてだ。

 私が高校で山岳部に所属していた四半世紀前、冬山登山とロッククライミングは部活動としては禁止されていた。このため私は、地元の勤労者登山会に入会し、冬山登山とロッククライミングについて個人的に訓練を受けた。

 報道によれば、現在も高校生の部活では、冬山登山は原則禁止されているようである。

 ところが今回のケースでは、「冬山登山」の訓練ではなく、「春山登山」の訓練だということで許可され、長年に渡り実施されてきたのだという。

 思うに、こうした詭弁というか、規制の言葉尻をとらえた脱法的なやり方そのものが、今回のような痛ましい事故につながっているように思えてならない。

 たしかに3月は、季節的には「春山」であるが、フィールドとしての山岳は、いまだに積雪に包まれている。だからこそ、雪上訓練の場所となるわけだが、一方で冬の山よりも春の山は、はるかに雪崩のリスクが高い。

 こうした社会的要因と自然のリスク要因が混在する春の雪山というフィールドで、技術未熟な学生たちを対象に、雪上訓練を行うことは果たして適切なのか?

 むしろ、「高校生の冬山登山禁止」といった形骸化した規制を見直し、春山よりもリスクの低い冬季の適切な山域において、十分に安全確保をした上で雪上訓練をすべきだと私は思う。

 「危険だから教えない」という、きわめて日本的な思考があるゆえに、その建前の隙間をくぐるような姑息な条件での活動が、ひいては危機管理の低さ、状況認識の甘さにつながっているのではないか?

 雪山にせよ、ロッククライミングにせよ、夏山でもあるいは登山以外のあらゆるアウトドアスポーツにおいて、それが自然という存在を対象にする以上、そこには必ずリスクが存在する。

 だからこそ、リスクから目をそらしたり規制して若者たちを遠ざけるのではなく、熟練したベテラン指導者たちが万全の配慮をした上で、きちんとした指導と訓練を実施し、アウトドアにおける危機管理能力を育てていくべきだろう。

 こうした意味で、今回の事故により、若い人たちに対する野外教育訓練に関する規制が強まるようなことがあれば、それはむしろ次の事故の遠因になりかねない。

 リスクを恐れ、いたずらな規制で自然から若者たちを遠ざけるのではなく、それに対峙するための知恵と技術を、しっかりと指導するのが、私たち大人の役割だといえるだろう。

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 (了)
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雨月物語/(身辺雑記)
- 2017/03/29(Wed) -
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 上田秋成の『雨月物語』は、私の愛読書のひとつ。

 昭和28(1953)年、溝口健二作の映画『雨月物語』の京マチ子は、実に美しいなあと思う。

 あ、今、酔ってますよ・・・。

 ちなみに、この写真は、『羅生門』の京マチ子である。

 (おしまい)
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柳剛流の一人稽古/(柳剛流)
- 2017/03/28(Tue) -
 言うまでもないことだが、柳剛流に限らず日本剣術の稽古は、仕太刀と打太刀による相対での形稽古が学びの根本になる。

 しかし、日々の稽古においては、必ず稽古相手がいるとは限らない。ことに毎日の自主稽古では、どうしても一人稽古の頻度が高くなる。

 それでは柳剛流の一人稽古は、どのように行うべきか?

 まず、一人稽古の根本となるのが居合である。

 柳剛流居合は、他流の居合同様、座位という困難な姿勢から運刀を学ぶためのものであるが、加えて柳剛流特有の体捌きによって、強靭な下半身の力と腰のキレを体得することに眼目がある。

 直心影流(直心柳影流)薙刀の達人・園部秀雄は、その著書『学校薙刀』(昭和11年刊)において、柳剛流の業を「跳斬の妙術」と評しているが、この「跳斬」のための地力を錬るのが柳剛流居合なのだ。

 「向一文字」「右行」「左行」「後詰」「切上」という、シンプルな5本の居合をとことん錬ることで、柳剛流の真面目である「跳斬の妙術」を得られるのである。

 これらの居合で錬った地力は、たとえば剣術の基本となる「右剣」と「左剣」、あるいは当流極意と呼ばれる柳剛刀6本の形においても、十全に発揮される。

 逆説的に言えば、居合稽古による強靭な下半身の力と腰のキレなしには、柳剛流剣術の様々な業=術を、十分に使いこなすことはできないのである。



 柳剛流の一人稽古において、居合と並んで重要なのは「備之伝」と「備十五ヶ条フセギ秘伝」だ。

 「備之伝」は、当流において初学者が学ぶ15種類の構えの教えであり、「備十五ヶ条フセギ秘伝」は目録者が学ぶ15種の構えに対応する必勝の構えの教えだ。

 一人稽古においては、まず「備之伝」において正しい構えの姿勢やそれぞれの構えの意味、その構えからのあるべき太刀筋を知る。

 次いで「備十五ヶ条フセギ秘伝」を学んだ者は、それぞれのフセギ秘伝について、彼我の関係と接点、そしてそこからのあるべき太刀筋を学ぶのである。

 さらにこの段階では、それぞれの構えを通して、いわゆる「気押し」「気組み」を十分に錬ることも重要だ。

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▲今井右膳の子・亀太郎の門人であった松嵜直義が山田健三郎に明治23(1890)年に伝授した柳剛流切紙(水月塾本部所蔵)。この伝書では備之伝が10種に簡略化されているが、角田伝や武州伝の各派では多くの場合、備之伝は15種が基本となる


 このように、柳剛流の一人稽古は、切紙の段階では居合と備之伝、目録以上の者はこれらに備十五ヶ条フセギ秘伝を加えた3つがが基本となる。

 その上で、剣術や突杖、長刀の各形について、単独での形の復習を繰り返すことだ。

 さらに補助鍛錬として、いくつかの当流独自の素振りを加えるとよいだろう。


 武芸の学びにおいては、単独稽古と相対稽古は車の両輪だ。

 どちらかに偏ることなく、それぞれが有益に関連しあうよう稽古をしていくことが重要であろう。

 (了)
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『「通し狂言 伊賀越道中双六』/(身辺雑記)
- 2017/03/27(Mon) -
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 国立劇場50周年記念の最後の演目『「通し狂言 伊賀越道中双六』は、今日が千秋楽。

 荒木又右衛門の鍵屋の辻の決闘をモチーフしたこの芝居、吉右衛門のいぶし銀の芝居が光る名演であった。

 「大詰 伊賀上野 敵討の場」では、敵の種子島 を手裏剣一閃で打ち倒す、お約束の名場面も!

 又五郎の2役も見事。菊之助と吉右衛門の、義理の親子共演も見ごたえ十分であった。

 やっぱ歌舞伎は、国立劇場に限るね。

 歌舞伎座は・・・、ちょっと客席の雰囲気がスノッブなんだよなっと、国立劇場インターネット会員(NTJ)のオイラは思うわけだ(苦笑)。

 (おしまい)
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なぜ、いま岡田十内なのか?/(柳剛流)
- 2017/03/26(Sun) -
 どういうわけか、今年2月の戸田市立図書館のレファレンスだよりは、現在の戸田市出身である、我が柳剛流の代表的剣客・岡田十内の特集だ。


「岡田十内について調べるには」(戸田市立図書館レファレンスだより2月号)
https://library.toda.saitama.jp/pdf/sankou/refedayori/2017/02_okadajyuunai.pdf


 ま、柳剛流に関する情報が広く発信されるのは、流儀を伝承する者として喜ばしいかぎりであるが、それにしても、なんでまたいま、岡田十内なのか?

 謎は深まるばかりである(笑)。

 なお、ええかげん「りゅうごうりゅう」というルビをふるのは、やめてもらいたいものだ。

 正しくは「りゅうこうりゅう」である!!!

 (了)
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独座観念/(武術・武道)
- 2017/03/25(Sat) -
 桜田門外ノ変で討たれた井伊直弼は、居合に達した武人であり、侘び茶を深く極めた茶湯者でもあった。

 その著書『茶湯一会集』に、独座観念という教えがある。


 主客とも余情残心を催し、退出の挨拶終れば、客も露地を出るに、高声に咄さず、静かにあと見かへり出で行けば、亭主はなおさらのこと、客の見へざるまでも見送るなり、扨、中潜り、猿戸、その外戸障子など、早々〆立てなどいたすは、不興千万、一日の饗応も無になる事なれば、決して客の帰路見えずとも、取りかた付け急ぐべからず、いかにも心静かに茶席に立ちもどり、この時にじり上りより這入、炉前に独座して、今暫く御咄も有るべきに、もはや何方まで参らるべき哉、今日、一期一会済て、ふたたびかへらざる事を観念し、或は独服をもいたす事、この一会極意の習いなり、この時寂莫として、打語らうものとては、釜一口のみにして、外に物なし、誠に自得せざればいたりがたき境界なり


 これは武芸の稽古にも通ずる、深い心得ではなかろうか?

 稽古の後、木太刀や刀、手裏剣などに拭いをかけ、油を引き、磨きながら、今日の稽古のあれこれを想う。

 これもまた、武芸者のたしなみであり、楽しみでもある。

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▲稽古後、4尺4寸2分に及ぶ柳剛流の長大な木太刀に
油を引きつつ、本日の稽古に想いを致す


 (了)
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本復/(身辺雑記)
- 2017/03/24(Fri) -
 先週の体調不良は、どうもインフルエンザだったようである・・・・・・。

 週初めに発症し、週末には平熱となって、先週土曜の翠月庵の稽古は行ったものの、関節の痛みや体力の低下などで、その後もしばらく、仕事や稽古を控えつつ静養していた。

 結局、13日(月曜)の発症から10日ほどかけて、ようやくこの週末で、心身共に完全に回復したかなという感じである。

 このため自宅での稽古も、よくやく今日から再開。

 昼間、3000文字ほどのインタビュー原稿を執筆したあと、夜半刻ほどかけて、柳剛流の備之伝、備フセギ秘伝、剣術、居合、突杖、長刀をひと通りおさらいする。

 ごくごく軽い自宅での稽古であるが、心も体も実に心地よい。

 そして、「オレは柳剛流が好きなのだなあ・・・」と、しみじみ思う。



 若い頃、年配の先輩や先生方が、「武芸では養生も大切なのだ」などという話していると、正直、爺むさい話だナアなどと思っていたものだが、たかがインフルエンザですっかりココロもカラダも弱ってしまう歳になると、少しでも長く、稽古を続けるためには、己の体の養生が本当に大切なのだと思う。

 「無事、これ名馬」というのは、私の空手の師であった玄制流の土佐邦彦先生が度々おっしゃっていた言葉だが、知命の歳を目の前にすると、本当にそうなのだと実感する。

 そういう意味で、たとえば今日の取り組みで負傷した稀勢の里のケガが、大事ない事も心から祈っている。

 (おしまい)
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仙台藩角田伝柳剛流の技術体系の変遷について~予告編/(柳剛流)
- 2017/03/22(Wed) -
 柳剛流研究の史料として、まだ未見であった、『浅野弥惣太の記 : 柳剛流の剣士』(松岡泰二著/文芸角田(15).1981/5.角田氏文化協会)と、『柳剛流二代岡田左馬之輔の秘話』(松岡泰二著/文芸角田(32).1988/11.角田氏文化協会)という2点の文書を入手した。

 これらの内容については改めてふれようかと思うが、上記2点の史料を読み、その記述の事実関係や年月日などを確認するために、改めて仙台藩角田伝系の柳剛流の伝書類を精読する中で、その技術体系の流れと変革を改めて見直すことができた。



 大雑把に言えば、仙台藩角田伝の柳剛流は、流祖の直弟子であり2代を継承した岡田(一條)左馬輔の伝えた技法群が根本としてあるわけだが、実際に今現在、我々が伝承し稽古をしている角田伝柳剛流はそれとはかなり異なる部分があり、おそらく角田伝4代の泉冨次師範が江戸で岡田十内に学んだことから、岡田十内系の柳剛流の影響を強く受けていると考えられる。

 これは、岡田左馬輔直筆である複数の伝書に記されている切紙・目録・免許の内容と、明治~大正期に記された角田伝の伝書類、そして現在、我々が伝承している角田伝柳剛流の内容を突き合せた結果による、私なりの現時点での推論である。

 これについては、もう少し、史料を精査し検討を加えた上で、改めて考察をまとめたいと考えている。

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▲天保9(1838)年、岡田左馬輔が角田における一番弟子で、石川家の柳剛流師範となった戸田泰助に出した直筆の目録。『一條家系譜探訪 柳剛流剣術』一條昭雄/(私家版)より

 (了)
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フランク安田と柳剛流/(柳剛流)
- 2017/03/17(Fri) -
 27年前、私は学校を卒業してから3年間勤務していた警備会社を退職し、生まれて初めての辺境への旅へ出かけた。

 行き先は、アラスカ・ユーコン河である。

 たった3カ月間の気ままなヴァガボンドであったが、川辺に集落が点在するだけで、あとは半径数百キロの範囲内に人間が1人もいない無人地帯(ノーマンズ・ランド)の原野を放浪した日々は、今となっては忘れがたい青春の思い出だ。



 そもそも、なぜ地の果てのような極北のユーコン河を目指したのかといえば、当時心酔していたカヌーイスト野田知佑氏の影響と、フランク安田への憧れからであった。

 フランク安田(1868~1958)は、新田次郎の伝記小説『アラスカ物語』の主人公として知られる日系アメリカ人一世である。

 20歳でアメリカに渡ったフランク安田は、縁あってアラスカのバロー村にたどり着き、ここでイヌイットの一員として認められ家族を持つ。

 しかしある年、村で麻疹が大流行し病死者が続出。さらに鯨の不良が重なり、バロー村の住民たちは飢餓にさらされる。そこでフランク安田は、イヌイットたちの新たな安住の地を探すべく旅に出発。

 2年間に及ぶ過酷な原野での旅の末、ようやく村人が移住できる土地を見つけたフランク安田は、さらに3年の歳月をかけて200名余りの村人の移住を成功させる。

 アラスカの広大な原野において、これだけ大規模な移住を成功させたフランク安田の偉業は「奇跡」と称えられ、彼は「ジャパニーズモーゼ」あるいは「アラスカのサンタクロース」と呼ばれ、イヌイットたちの英雄となった。





 ところで、これはほとんど知られていないことだが、フランク安田は、仙台藩角田伝柳剛流と浅からぬ縁のある人物でもある。

 フランク安田の本名は、安田恭輔。宮城県石巻市の出身である。

 安田家は、代々医師の家系であり、父の安田静娯は医師で初代湊小学校校長、祖父の友琳は長崎蘭方医・漢学者であり武芸にも秀でた才人であった。

 この石巻の安田家近くにあったのが、柳剛流2代宗家・岡田(一條)左馬輔の指導する多福院門前の柳剛流岡田道場である。

 江戸での修行を終え、故郷の角田に柳剛流を伝えた左馬輔は、故あって後半生を石巻で過ごしている。このため石巻でも柳剛流は多いに興隆した。

 左馬輔の晩年頃、恭輔の祖父・安田友琳は40代前半、父・静娯は20代で、岡田家と安田家は、家族ぐるみでの親しい交際があったという。また、左馬輔の石巻における門下第一の逸材と言われた岡崎兵右衛門陳秀は、安田静娯と共に酒を酌み交わし詩を吟ずる盟友であった。

 こうした環境の中、幼少の安田恭輔は、武芸に通じた祖父の友琳から剣術の指南を受けていたといわれる。

 その剣術が何流であったのか明記された史料は確認できないのだが、上記のような岡田家と安田家の関係を見れば、それが岡田左馬輔直伝の仙台藩角田伝柳剛流であったろうことは、容易に想像できるだろう。

 さて不幸なことに、安田恭輔は16の年に両親を失う。

 3年後、19歳になった恭輔は、当時米国から帰国して横浜にいた岡田左馬輔の孫である左一郎(小輔)を頼る。

 岡田左一郎は、大柄だった祖父・左馬輔に対し、小柄であったことから「小さい左馬輔」と周囲から呼ばれ、このため「小輔」の名もあったという。

 戊辰の役では、仙台藩一門筆頭・角田石川家第14代当主・石川邦光に従い白河口の戦闘に参加、官軍と剣を交えた実戦経験を持つ柳剛流剣士である。

 左一郎は、自らを頼ってきた安田恭輔を快く受け入れ、アメリカ航路の見習い船員の職を斡旋する。

 しかもこの時、左一郎は18歳であった娘の秀を恭輔の許嫁とし、養子縁組をした上で渡航費などを負担し、恭輔をアメリカに送り出した。

 つまり安田恭輔、後のフランク安田は、渡米する前に、柳剛流宗家・岡田左馬輔の家系を受け継ぐ「岡田恭輔」となっていたのだ。

 ここまでくればほば間違いなく、若き日のフランク安田は、祖父やあるいは養父・岡田左一郎から、なんらかの形で柳剛流の剣を学んだであろうと考えるのが自然であろう。

 そして恭輔がその後無事帰国し、岡田秀と結ばれていれば、彼らの人生は静かで幸福なものとなっただろう。

 しかし「岡田恭輔」は、その後、二度と祖国に帰ることはなかった。

 アラスカの原野で波乱万丈の人生を送った末、「ジャパニーズモーゼ」フランク安田となった恭輔は、昭和33(1958)年1月、自らが開拓したアラスカ・ビーバー村で90年に及ぶ波乱の生涯を終える。

 許嫁であった岡田秀は、恭輔の渡米後、十数年間、彼の帰国を待ち焦がれていたというが、異国に旅立った恭輔からの音信はなく、後に角田出身の教師高橋敬治と結婚。昭和10(1935)年に63歳で亡くなったという。


 岡田秀とフランク安田との悲しい恋の結末は、千葉佐那と坂本龍馬との悲恋を彷彿とさせる、儚く切ないエピソードでもある。

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 ■参考文献
 『一條家系譜探訪 柳剛流剣術』一條昭雄/(私家版)
 『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』(森田栄/日本剣道史編纂所)

 (了)
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一瞬、アヴァロンが見えた気が・・・/(身辺雑記)
- 2017/03/16(Thu) -
 若い頃、老人がインフルエンザで亡くなるというような話を聞くに、「インフルエンザぐらいで死ぬもんかねえ・・・」などと思っていた。

 若さとはバカさだと、今はしみじみ思う。



 今週の月曜、朝から机について、ブログなど書きつつ、「なんだか、体の節々が痛むなあ。昨日の短棒の稽古のせいかしら?」などとのんきに考えていたところ、午後から悪寒もするようになり、これは風邪だと体温を測ると37度ちょっとの微熱である。

 幸い、今週は仕事の端境期でヒマなので、大事を取って早めに休むことにした。

 ところが症状は悪化するばかりで、翌火曜の朝には39度を超え、午後には39.99度を記録。

 もともと、子供の頃から風邪をひいてもあまり高熱が出るタイプではなかったので、「ああ、これってもしかして、オレの風邪人生で最高記録かも・・・」などと、もうろうとした意識の中で思う始末であった。

 それにしても、これくらいの高熱になると、関節や筋肉の痛みがはんぱではなく、ベッドで安静にして眠っていたいのだが、体が痛くて熟睡などとうていできない。

 あまりに腰や骨盤の両端部分が痛んで横になっていられないので、ベッドの上で正座をして座って意識朦朧としているのがいちばん楽だという、なんともいえない状態でひたすら体を休める。

 また、多少でも栄養を取らねばと思い、まったく食欲はないのだが、持ち合わせのレトルトの御粥を3食食べ、脱水を防ぐためにイオンウォーターを1日2リットル飲む。

 しかし、水曜朝になっても熱は下がらず、相変わらず39度台をキープ。発熱により体の痛みもこのあたりがピークで、腰はもちろん、昔、空手の稽古で切った左右のアキレス腱も激しく痛みだし、ついには正座もできず、ベッドの上でコーマポジションをとり、ひたすら時が過ぎゆくのを待つ。

 このまま熱が下がらないなら、病院に行かなきゃなと思うのだが、そもそもこの状態で自力で病院まで行く自信はなく、ヤモメ暮らし故、病院に連れて行ってくれる人もいないので、救急車を呼ばねばならんのだろうが、風邪で救急車ってのものなあ・・・なんかみっともないなあなどと、朦朧とした意識の中でのんきに考えている自分が、なんというかバカバカしい。

 そうこうしているうちに、夕方から急速に熱が下がり出し、夜には37度台にまで落ち着いた。このあたりで関節や筋肉の痛みも和らぎ、ようやく熟睡もできるようなる。

 そして今朝、目ざめると体温は36.5度と平熱に。体重計に乗ると、この3日間で2キロほど減っていた。しかし、体脂肪率は大幅に上がっており、これって筋肉が落ちたってことだよなと思うと、ちと悲しい・・・。

 熱は下がり、関節や筋肉の痛みもほぼ無くなったが、いまだになんとなく意識はふわふわした感じであり、手足に力が入らない。

 また右手の痙攣が断続的にあり、さっきペンでノートにメモを取ろうとしたところ、指がつってしまい、一時的に文字を書くことができなかった。

 ところが無常にも、今日は午後から都内でインタビュー取材があるので、昼には家を出なければならぬ。

 いやはやまったく過酷であるが、生きていくためにはしかたがない。


 それにしても、人間歳をとると、若い頃はどうということのなかった病気で命を落とすこともあるのだということは、この歳になるとしみじみ実感できる。

 そしてまた、ニュースなどで「老人の孤独死」が報道されるが、自分の最後も、ほぼ間違いなく孤独死なのだろうということは、すでに覚悟の上である。

 ただできることなら、どうせ孤独死なんだけれども、できれば季節は冬がいいなあ、夏はいやだなあと思う。

 真夏は、腐敗が速いだろうから。

 (おしまい)
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3月の水月塾本部稽古~柳剛流、伝書講義、甲陽水月流短棒術/(武術・武道)
- 2017/03/13(Mon) -
 昨日は水月塾本部での稽古。

 午前中は柳剛流。

 小佐野先生に打太刀を執っていただき、剣術、突杖、居合をご指導いただく。

 居合は通常、本部稽古の際は師の2尺7寸の居合刀をお借りして稽古しているのだが、今回はさらに長尺である2尺8寸の居合刀をお借りして稽古する。

 最初はその長さにやや戸惑ったが、本来、柳剛流居合は長尺刀で稽古すべきものだけに、慣れてくるとこの長さが形の動きになじんでくる。

 また、この居合刀は柄の長さも1尺2寸ほどあり、その長さ故、刀身とのバランスが絶妙で、実に遣い心地が良い。試みに、神道無念流立居合の形もいくつか抜いてみたが、これまた実にしっくりとくる。

 鍛錬用の居合刀として、いずれはぜひ、このサイズの差料を所有したいものだ。

1703_向一文字1


1703_向一文字2


1703_向一文字3


1703_向一文字4



 昼食の後は伝書講義。

 今回は、古文書をテキストに、花押に関する有職故実をご教授いただいた。

 花押を構成する各線やハネの意味はもちろん、陰陽五行や易との関連についても、大変興味深い示唆をいただいた。

170312_花押古文書



 午後の稽古は、水月塾制定の日本柔術・甲陽水月流の短棒術を、初伝から中伝まで20本、ご教授いただく。

 私は水月塾で学ぶまで、短棒術については系統だって稽古したことがなかったのだが、これがまた実に・・・・・・痛い(苦笑)。

 短棒術で極められると、その痛みは柔術の逆とも、あるいは打撃の痛みとも異なる、「骨に染み入る」ような痛みなのである。

 また柔術の逆では、経験上、どれくらい相手に効いているのかがある程度は分かるのだが、短棒術で捕りをやっていると、自分では大して効いていない感じでも、実は非常に激しく効いていることが多いようだ。

 加えて、素手の逆とはまったく違った、「何がなんだかよく分からない形で極められてしまう・・・・」という、短棒を使った技ならではの捕り口の数々は、たいへん興味深いものである。

 護身術という観点でも、たとえば小太刀の動きに基づいた警棒等の使用では、どうしても斬りの動き、つまり打撃になってしまい、対象に必要以上の障害を与えてしまう可能性を排除しきれない。

 一方で短棒術であれば、「骨がきしむほど痛い」にも関わらず、必要以上に相手を傷つけることがないというのも、たいへん優れている点であろう。

 短棒術、これはなかなか楽しいぞ! ・・・・・・痛いケド(笑)。

 (了)
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翠月剣・長剣の新作と、不二心流の手裏剣/(手裏剣術)
- 2017/03/12(Sun) -
 当庵で柳剛流と手裏剣術を稽古している宇田川氏が、稽古用に長剣と翠月剣を制作したということで、先日の稽古で試打させてもらった。

 どちらの剣も、これまで私たちが使っていた長剣や翠月剣とまったく同じ打ち心地であり、素晴らしい仕上がりである。

 ここ2年ほど、新規の手裏剣制作ができない状況が続き、新たに入門した人には翠月庵の手持ちの手裏剣を使ってもらっていたのだが、今後は同氏に制作を依頼できるようになり、ほっとしている。

170311_新翠月剣1
▲宇田川氏制作による25年式翠月剣


170311_新旧の翠月剣
▲新作の翠月剣(上)と、私が現在使っている翠月剣(下)


170311_翠月剣と長剣
▲私が使っている翠月剣(上)と、宇田川氏制作による長剣(下)。翠月庵では、まず長剣で直打の基本を体得し、その後、翠月剣での稽古を行う


 宇田川氏は当庵で柳剛流と手裏剣術を学ぶ一方、自身で幽玄会という団体を主催し、千葉県八千代市の教場で夢想神伝流と不二心流、合気剣杖を指導されている(http://www.geocities.jp/spirit_vision_lesson/index.html)。

 このため昨日の稽古では、不二心流の手裏剣を持ってきてくれたので試打させていただいた。

 不二心流の手裏剣は、香取神道流の手裏剣の形状をそのままにサイズアップしたような形である。

 秤が無かったので正確な重さは分からないが、おそらく70~80グラムほどはあるだろうか。これくらいの重さがあると、手裏剣もたいへん打ちやすい。

 しかし、この手裏剣は独特の形状から後ろ重心になっており、翠月庵の手裏剣術の基本となっている、無滑走2点打法で打つことはできないので、滑走打法で打つ。

 このため1間半~2間程度では問題ないが、3間以上で的中させるには少々の稽古と慣れが必要だ。

 もっとも総合武術である不二心流においては、小太刀を使った刀法併用手裏剣術として、この手裏剣を用いるとのことで、おそらく間合も3間以上は想定していないであろうから、このような中距離以上では打ちにくい後ろ重心の形状でも、あまり問題にはならないであろう。

170311_不二心流手裏剣
▲不二心流の手裏剣


 (了)
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スタンレー・プラニン氏の訃報に想う/(武術・武道)
- 2017/03/11(Sat) -
 『合気ニュース』の編集長であった、スタンレー・プラニン氏が、亡くなったとのこと。

 まずは同氏のご冥福をお祈り致します。


 私は同氏とは面識はなかったけれど、自分の武術歴の始まりが八光流柔術だったこともあり、いち読者として同氏が編集長を務めていた当時の『合気ニュース』は、愛読していた。

 しかし残念ながら、2009年頃からだろうか、同誌が自己啓発セミナーを精力的に主催している空手家のU氏が中心となるような形で、『合気ニュース』から『道』というタイトルの雑誌になって以来、あまりに偏向した内容から、まったく読まなくなってしまった。

 プラニン氏が編集長時代の『合気ニュース』は、合気会も養神館も、富木流も大東流も、ある種公平に扱う、バランスの良い編集方針の武術雑誌であったものが、U氏の広報誌になってしまった『道』誌は、教条的な道徳雑誌になってしまったことは、ある意味で日本の武術・武道史にとっても、たいへん大きな損失だったと言えるだろう。


 個人的な話をすると、私が手裏剣術の稽古場を開設した当時、U氏のセミナーに心酔している人が手裏剣の稽古に来ていたのだが、彼から聞く話があまりにバカバカしいものだったことから、(たとえばU氏は、電話で生徒に「気」なるものを入れ、それによって普通はできない業や体の動きができるようになる云々など)、たいへん残念な気持ちになったものである。

 「晩節を汚す」という言葉があるけれど、まことに残念なことだ、いろんな意味で。

 (了)
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空手道と柳生心眼流~縦猿臂と山勢巌構/(武術・武道)
- 2017/03/09(Thu) -
 昨日は空手の稽古。

 バッサイ大の形について、有級者へのマンツーマンでの指導を仰せつかる。

 私が担当したのは3級のAさん。

 形の途中にある掛手~腕どり~関節蹴りの一連の挙動と、形の後半に出てくる右掛手受けの際の運足が確実ではなかったので、この2点を丁寧に手直しする。

 分解においても、これらの部分はバッサイ大の特徴的な技なので、しっかりと理解してもらいたいところだ。



 稽古後半は、糸洲流のN先生より、松村ローハイをご指導いただく。

 これまでも何度か書いているが、ローハイは私の最も得意とする形だ。

 ただし、私のローハイは玄制流のローハイなので、松村ローハイとは細部がかなり異なる。しかしそこがまた、空手道の稽古として興味深い部分でもある。

 ローハイ以外にも、私が得意あるいは好みでよく打つ形は、ナイハンチやワンカンなど泊手系の形が多い。また個人的には、剛柔流の転掌の形を覚えたいのだが、教えてくれる人がいないので、甥っ子が大きくなったら教えてもらおうかと思っている。



 もっともここ最近は、体術の稽古は柳生心眼流がメインであり、普段は表・中極・落・切の素振り二十八ヶ条の稽古でいっぱいいっぱいで、なかなか空手の形稽古までは手が回らないのが現状だ。

 それにしても、柳生心眼流は実に興味深い。

 当身拳法とはいえ、空手道とはまったく理論も実技も異なるので、学ぶ1つ1つの術がすべて新鮮だ。

 また、一般的な日本柔術とは異なり、単独で行う形=素振りの稽古が基本になっているので、仕事の合間などほんのちょっとの時間があるときに、ラジオ体操代わりに形を打つことができのもありがたい。

 もっとも、中極で武者震いを連発すると頭がグルグル回ってちょっと気持ち悪くなり、切をやると呼吸困難で倒れそうになるのが玉に瑕だが・・・・・・(笑)。

 柳生心眼流については、全国各地で多くの方が稽古をされており、いまさら流儀の新参者である私がとやかく書くこともないのだが、個人的には稽古するほどに新たな発見があり、実に面白いのである。

 例えば肘当て。

 空手道における肘当ては、組手では使えないのでもっぱら形で稽古することになるのだが、私は個人的に肘技が好きで(チビなので・・・)、若い時分には胴プロテクターや防具を付けた地稽古で、相手の懐に潜り込んでの廻し猿臂や後ろ猿臂などをよく使って効果を上げていた。

 さらに落とし猿臂などもわりあい一生懸命工夫して、ある程度地稽古で使える得意技にしたつもりだが、唯一縦猿臂だけは、どうにも使いこなせるようにならなかった。

 縦猿臂とは、下から上に打ち上げる肘打ちのことだが、形でやるぶんにはどうということはないのだけれど、実際にこれを巻き藁やミット、サンドバック、そして人間の顎や水月などに実際に当てようとすると、意外に「芯でとらえて当てる」ことが難しいのだ。

 さてそこで、柳生心眼流における山勢巌構である。

 口伝を受けてこれを使うと、実に容易かつ確実に、縦猿臂がきまるのだ。

 いや、これには実に驚いた。

 それまでは空手道での経験から、少なくとも私という個人は、縦猿臂という技は一生遣えないのだろうなと諦めていたのだが、心眼流における山勢巌構の教えによって、サンドバッグやミット、そして人間を相手の稽古でも、確実に縦方向での肘当てを「効かせられる」ようになったのである。

 古流武術の体動と口伝、実に畏るべし。

 山勢巌構の技は、心眼流の特長的な技である重ね当や体当たりと並んで、個人的には必ず自分のものにしたい術技だ。


 空手は楽し、そしてさらに心眼流も楽し。

 (了)
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「力なき正義は無能であり、正義なき力は圧制である」/(身辺雑記)
- 2017/03/08(Wed) -
170307_タロット


 とある一件の成り行きについて、意味深長なマルセイユ版のご神託。

 3段に深掘りした結論が、「剛毅」「正義」「剣の2」のコンビネーションというのは、武芸者として実に腑に落ちる。

 そして表層・深層・真理の縦軸を貫くのが、「杯の女王」「剣の王」「剛毅」というのも、また深い。

  「力なき正義は無能であり、正義なき力は圧制である。
  力なき正義は反抗を受け、正義なき力は弾劾を受ける。
  それゆえ正義と力を結合せねばならない。」
                    (パスカル『パンセ』より)


 ということか。

 なるほどね。

 (おしまい)
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「一殺多生」の気組と、武芸者の「顔」/(武術・武道)
- 2017/03/07(Tue) -
 もう7年も前の封切作品なのだが、いまさらケーブルTVで映画『桜田門外ノ変』を鑑賞。

 思ったよりも面白く見ることができた。

 しかし私は平素から、『山上宗二記』と並んで井伊直弼の著書『茶湯一会集』や『閑夜茶話 』を愛読していることもあり、作中、井伊がステレオタイプ的な悪の権力者といったニュアンスを強調して描かれていたのは、作品のテーマ上やむを得ないとはいえ、少々鼻についた。



 それにしても史実によれば、襲撃グループ18名に対し彦根藩の行列は総勢60名と、人数的には襲撃側が圧倒的に不利でありながら、目的である井伊大老暗殺に成功したというのは、たいへんに興味深い。

 彦根藩側の供回りは柄袋を付けていたとか、こまごまとした要因はあれど、大老襲撃という決死の使命感を持った18名の刺客と、ルーチンワークの行列警護で緊張感に欠けた60名の従者たちとでは、攻者3倍ならぬ守備側3倍という決定的な戦力差も、まったく意味をなさなかったということか。

 これは桜田門外の変から遡ること159年前の「赤穂事件」において、およそ100人が守る吉良邸を47人で襲撃し、主君の仇討ちという本懐を遂げたケースにも共通する。

 つまるところ集団戦においては、2~3倍の戦力差は、彼我の士気の差によって克服可能であるという好事例である。

 もっとも、完全武装で闘志満々の相手が我の2~3倍もいたら、あっという間に叩き潰されるであろうこともまたしかり。

 だからこそ数で劣る側は必死にならざるをえないわけで、これこそまさに孫子の極意である「死兵」となるわけだ。

 ことほどさように、闘争における士気や闘志、つまり「気勢」「気組」の重要性は、あだやおろそかにしてはならぬ要因である。

 先の大戦末期の旧軍のような、狂信的かつ非合理的な精神論のみに頼るのは論外だが、一方でクラウゼヴィッツの『戦争論』では、兵士と国民の闘争心の重要性を強調している点も忘れてはならないだろう。



 小の兵法である武術・武道においてもこれは同様で、いたずらに精神論に偏って技術の向上や基礎的体力の涵養をないがしろにするのは論外だが、一方で、どんなに術が優れ体力があっても、彼我の闘争において「一人一殺」「一殺多生」の気組の無い術者は、必死の素人に敗れてしまうのもまた真理だ。

 下世話に言えば、「てめえ、ぶっ殺す!」といった気概の無い生ぬるい剣や拳では、町のチンピラにすら遅れをとってしまうことを肝に命じておくことも、武芸者には必要な初歩の嗜みであろう。

 ただし、少なくとも10年、20年稽古を続けてきた武術・武道人であれば、そういった闘志、気勢や気組というものは常に、あくまでも己の内に秘めておくべきことであるのは言うまでもない。

 それかあらぬか、齢40、50にもなっても殺気や闘志が表に出すぎてしまい、人相や目つきの極めて悪い武術・武道人を時折見かけるが、それは武芸者のあるべき姿として下手であることはもちろん、本来、人格の陶冶を目指すべき武道指導者として見ても、こうした御仁たちはどんなに業が優れていても、けして一流の武道指導者ではない。

 そういった手合いとは、お近づきにならないに限るというのは、私の36年の武術・武道人生と37年の占術人生から、断言してよいと思う。

 歳をとればとるほど、目つき顔つきには、その人の内面が出るものだ。

 では、お前の顔はどうかって?

 う~む、南無八幡大菩薩・・・・・・。

1703_茶碗
▲ま、そんなオッカナイ顔をしてないで、茶でも一服し給え


 (了)
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心の居着きを断つ/(武術・武道)
- 2017/03/06(Mon) -
 日曜は終日原稿書きで、今日は朝から都内で取材がある。

 そこで晩酌をしてさっさと寝ようと思ったのだが、夕方から呑んでウトウトしたものの、23時過ぎに酔いが醒めて目覚めてしまい、なんだかいまひとつ気分がさっぱりしない。

 そこで小半刻ほど、真剣で荒木流抜剣を抜く。

 私の差料は二口とも2尺1~2寸なので、居合の「術」の鍛錬にはいささか物足りず、もっと長い刀の方が適しており、2尺3寸5分と2尺4寸5分の稽古用の模造刀もあるのだが、心胆を練りたいときには、やはり真剣で稽古するに限る。

 おかげで、心のモヤモヤがすっきりとそぎ落とされた。

 さてそれでは、風呂に入って寝るとしよう。

hamon_1-2.jpg
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柳剛流突杖が投げかける、「術」としての問い/(柳剛流)
- 2017/03/05(Sun) -
 昨日の翠月庵の稽古では、柳剛流突杖の稽古が中心となった。

 これまで本ブログで度々指摘してきたように、総合武術である柳剛流において突杖のみが、他の剣術・居合・長刀とは非常に異なる業の使い方をするものとなっている。

 その理由についてはつまびらかではないが、長年に渡る錬磨が必要である剣術、その体動を補完する居合、そしてそれらの鍛錬によって完成した当流ならではの動きと技で駆使する長刀という一連の体系に対し、突杖のみは非常にシンプルで、良い意味で即物的かつ簡潔な技法構成である点から、おそらく突杖は即応的な護身技法として位置づけられているのではないか? という推論も、本ブログの過去記事に記してきた通りである。



 「ハジキ」、「ハズシ」、「右留」、「左留」、「抜留」の5本を徹底的に繰り返していると、これらの形はいずれも、たとえば往時の農家の次男坊・三男坊といった剣の素養のないであろう者が仕太刀をとっても、気力と体力と熱意があれば、ある程度短期間で「武技」として仕上がっただろうなと感じられる。

 一方で対剣という想定上、たとえば1本目の「ハジキ」における剣の捌きの難しさ、2本目の「ハズシ」における入身の究極的な厳しさなど、柳剛流突杖は一見素朴ながら、実は武技としてたいへん高度な「術としての問い」も、術者に投げかけているのである。

 このような流祖から示された「術として問い」を、理屈ではなく己の心身で紐解いていくことが、現代における古流武術修行の醍醐味のひとつだといえるだろう。

1703_本部所蔵切紙


 (了)
 
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翠月庵の手裏剣術/(手裏剣術)
- 2017/03/04(Sat) -
 翠月庵で柳剛流を稽古しているU氏が、先週から手裏剣術の稽古を始めた。

 一般的に手裏剣術の稽古は、古流でも現代流派でも、的から1間程度のごく近い間合から稽古を始める。そして徐々に間合を遠くしていくのだが、多くの場合、2間から2間半ぐらいのところで直打では刺さらなくなり、稽古の壁にぶつかる。

 このため「間合3間」というのは、ある意味で手裏剣術者のメルクマールであり、10歩の間合からの「板金を打つ心」(フルパワー)の打剣で、八寸的に六割以上の的中が錬士相当・目録(成瀬関次師著『臨戦刀術』より)という実力の目安であると言われる。



 そこで当庵では、初学者にいきなり3間直打から稽古を始めてもらう。

 しかも、長剣と重心理論に基づいた無滑走2点打法で打ってもらうために、女性も含めてほとんどの人が、稽古初日から何本かは3間直打で手裏剣を的に刺すことができるようになる。

 もちろん、間合い3間で「板金を打つ心」、つまり武術的に意味のある速度と威力がのった打剣ができるようになるには、数年の稽古が必要だ。

 それにしても、生まれて初めて手裏剣を打つ人に、稽古初日から直打で3間を通させる稽古場というのは、本邦でもなかなか無いのではなかろうか?

 とはいえ実は、「術」の稽古の本質という点では、最初から3間を通させるというのは、それほど大きな意味はない。

 しかし、重心理論に基づいた直打というものを確実に体感してもらうためと、3間という間合に気後れしないメンタルを養成するために、当庵ではできるだけ早い段階で、3間直打を実現してもらいたいと考えているのである。



 U氏の場合、稽古初日から3間直打はもちろん、実践的な間合である2間での「板金を打つ心」に近い打剣でも、3割前後の的中がみられ、さらに当庵では中級者向けの翠月剣でも、刺中が見られたのは少々驚きであった。

170225_手裏剣1
▲U氏による、逆体の構えから踏み込んで2間順体打ち、「板金を打つ心」での打剣


 もっともこれは、同氏が居合・剣術家として20年以上もの稽古を積み重ねてきていることから、体幹や運足、腕の振りなどが出来上がっているからこそであって、さすがにまったくの武術未経験者が、誰でも初日からここまで打てるわけではない。

170225_手裏剣術2
▲U氏の場合、長年の居合・剣術の修行で「体」と「力の統一の感覚」ができているので打剣の上達も早い



 さて、来月は恒例の苗木城での演武があるので、私もそろそろ気を入れて手裏剣を打たねばと思う、今日この頃である。


 (了)
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旅の仲間/(身辺雑記)
- 2017/03/03(Fri) -
 18歳で家を出て以来、かれこれ30年もやもめ暮らしをしている。

 おかげで鶏のから揚げやふろ吹き大根も作れるし、洗濯をしてキーピングで襦袢や浴衣をパリッと仕上げることもできる。掃除もそこそこはしているし、もっとも苦手だった繕い物も、人間として最低限のレベル(笑)はできるようになった。

 ま、運針などという概念を逸脱した、まるでジョン・ランボーが自分の腕の傷を木綿糸で縫うようなひどいもんだが、それでも稽古着の破れを繕ったり、ドアノブにひっかけて裂けた着物の袂の応急処置くらいはなんとかなる。


 先日、稽古帰りに、バックパックが破けてしまった。

 帆布製の丈夫なフレンチガイドパックなのだが、なにしろ今年でちょうど買ってから20年が過ぎた老兵なので、開口部下の帆布が10㎝ほど裂けてしまったのだ。

 思えばこれを買ったのは1997年。池袋の秀山荘であった。

 取材で2週間ほどボルネオに行くために購入したもので、以来、酷暑のシリア砂漠から極寒の北朝鮮金剛山まで、いつも私の背中にあり、ただ黙々と愛用のニコンF90とFM2/T、コクヨの野帳にトンボ消しゴム付き鉛筆2558-HBといった取材七つ道具を運んでくれたものだ。

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▲2010年1月、青春18きっぷの取材で、東京→長野→京都→東京を各駅停車で移動しながら取材をしたときのひとコマ



 しかしここ数年は、すっかり海外取材のオーダーも無くなり、このフレンチガイドパックはもっぱら稽古に行く際の稽古着入れ9割、国内旅行取材1割といった利用割合になっている。

 風雪にさらされてクタクタになったザックは、自分としてはようやくいい風合いになってきたなと思い、バックパッカーの若い人からも「いい感じにくたびれてきましたね」などと褒められるのだが、一般の人から見れば、ただの小汚いリュックサックなのだろう。


 そんなこんなで、このまま捨ててしまい、新しいザックに買い替えるのはあまりに忍びないので、昨夜、針と木綿糸をチクチクやり、破れた部分を縫い合わせた。

 それにしても、私の裁縫の腕があまりにひどいものだから、まるで引き攣れた傷跡みたいになっているわけだが、それはそれで味があるかななどと、個人的には思っている。

 これでまた、あと10年は使えるな。

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▲山賊の傷跡のようになったものの、これはこれで味があるのではないかと、個人的には思う


 (おしまい)
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マックイーンのMA-1/(身辺雑記)
- 2017/03/02(Thu) -
 過日、某所のバーで、隣の席に座った私よりも少し若いおじさん2人組が話していた。

 「今年の冬は、若い連中にMA-1が流行ったんだってよ」
 「へえ。オレなんか、トム・クルーズの『トップガン』見て以来、MA-1着てるんだ。にわかとはちがうぜ」

 なるほど、彼にとってMA-1は、トム・クルーズと『トップガン』なのか・・・。



 思えば、『トップガン』の封切は今から31年前の1986年12月、私が高校2年の冬であった。

 3学期になると、同級生がこぞって米軍航空隊のパッチが付いたMA-1やMA-1モドキのパチモンを着て街を歩いていたものだ。

 そんな中で私は、

 「けっ、ペタパタとワッペンなんか張りやがって。本当のMA-1は、『ハンター』でマックイーンが着てた、無地の緑のMA-1なんだよ・・・」

 と心の中でつぶやいていた。

 ま、よくいる面倒くさい思春期の男子だったわけです。



 スティーブ・マックイーンの遺作である『ハンター』の封切は1980年の冬で、私がテレビ放映でそれを観たのは、多分、中学生の頃だから、『トップガン』の封切よりも数年早い。

 映画の中で、マックイーン演じる現代の賞金稼ぎラルフ・パパ・ソーソンが着ているMA-1が実にかっこよく、コンバットマガジンの広告に出ていた中田商店の通信販売で、貯めに貯めたおこずかいを全額下ろして、アルファ社の無地のグリーンのMA-1を買ったのは、遠い日の思い出だ。

 もっとも中学生の体格で、しかも背の順で前から2番目のチビな私にサイズの合うMA-1はなく、仕方なくぶかぶかの無地のグリーンのMA-1を着ている私をみて近所のおばさんが、

 「あら、建築現場のお兄さんのジャンパー?」

 と言ったことは、いまでも私の心に深い傷を残している・・・・・・。

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▲映画『ハンター』でMA-1を着ているスティーブ・マックイーン。37年たっても、やっぱりカッコイイ



 そんなこんなでこの冬、ひさびさにMA-1でも着てみるかと、20年ほど前に池袋のサープラス・ショップで買った3着目のアルファのMA-1をクリーニングに出し、久々に着てみる。

 ジーンズにシャツ、グリーンの無地のMA-1を着て鏡に映っている私は、自分の脳内ではまちがいなく『ハンター』のスティーブ・マックイーンなのである。

 だがそんな私を見て、親しい人はこうのたまった。

 「なんか、工事現場のオジサンみたいだよ」

 ・・・・・・、ま、いいんだ、それ言われ慣れているから。


 (おしまい)
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抜付けの速さ/(柳剛流)
- 2017/03/01(Wed) -
 先日の本部稽古で師より、柳剛流居合の「後詰」における抜付けの遅さと、その原因となる体捌きについてご指導をいただいた。

 今晩の稽古では、それを念頭にじっくりと居合を抜く。

 加えて、「右行」や「左行」においても、「後詰」における体の転換の留意点をいかした抜付けを心掛けると、いままでよりも抜付けの速さが向上するように感じられる。

 当然ながらここで言う速さというのは、単なる鞘離れの速さではなく、形における一連の拍子としての「速さ」のことだ。


 もっとも、本部稽古では師より二尺七寸の刀をお借りして抜いているのにくらべ、今晩は拙宅の狭い室内に合わせて二尺一寸の我が無銘刀を用いての稽古ゆえ、速いと感じるのは、当たり前と言えば当たりである。

 六寸も長さが違えば、鞘離れにしても、形の拍子にしても、速く抜けるのは当然だろう(苦笑)。

 だからこそなおさら、即物的な鞘離れの速さではなく、形全体の拍子としての「速さ」を念頭に稽古をすることが重要だ。

1703_柳剛流居合

 (了)
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