柳剛流剣士ゆかりの古刹・三学院~岡田十内と伴門五郎(その1)/(柳剛流)
- 2016/12/23(Fri) -
 過日、柳剛流研究のフィールドワークに関して、「武州・蕨の三学院に、柳剛流剣士ゆかりの碑がある」との情報をいただいた。

 拙宅から蕨までは、電車で移動してもさほどの距離もなく、半日の余裕もあれば現地を訪ねることができるのだが、師走のバタバタでそれもままならず。

 やむなく、アームチェア・ディクティブよろしく手元の史料とネット、そして電話を駆使して予備取材を進める。



 まず、柳剛流の研究には欠かすことのできない辻淳先生の著作『戸田剣術古武道史』を紐解くと、三学院は柳剛流を代表する剣客であり幕末の江戸における大師範家であった岡田十内叙吉の菩提寺であり、その墓があることが分かる。

 また、十内の門弟で、彰義隊の幹部として上野戦争で戦死を遂げた幕臣・伴門五郎(貞懿)の碑があるのも、この三学院である(墓は谷中の全生庵にあり)。この石碑は、昭和43(1968)年に門五郎の百年忌に建立されたものだという。

 上記の点を確認すべくネットで検索をかけると、門五郎の碑に関しては、郷土史愛好家の方々の探訪記などがいくつかヒットした。

 次いで、実際に寺に電話をかけて話を聞いてみると、副住職が対応してくださり、確かに同寺には岡田十内の墓や伴門五郎の碑があり、時間があれば石碑について案内することも可能であるが、年末年始で多忙のため、年が明けて松が取れたころに改めて連絡の上、訪ねてほしいとのことであった。



 さて、岡田十内と伴門五郎との関係であるが、十内が残した全5巻の門弟帳(第2巻は近年遺失)である『神文帳』を確認すると、安政2(1855)年正月17日に「伴門五郎」の名がある。このとき門五郎、16歳である。

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▲岡田十内の門弟帳に記された、伴門五郎の署名(『戸田剣術古武道史』より転載、以下同)


 ここで話が脱線すると、伴門五郎が岡田十内に入門する半年ほど前、安政元(1854)年閏7月22日には、後に仙台藩角田伝柳剛流4代となる泉冨次師範が十内に入門している。

 泉師範は嘉永元(1848)年17歳の時に、角田で柳剛流3代の斎藤数衛師範の門に入り、同4(1851)年20歳の時に切紙を受領。さらに3年の修行をへて、23歳の時に江戸へ出て岡田十内に入門し、すぐに目録を許された。

 その後、およそ1年間の江戸での修行を終えて安政2(1855)年に十内の元を辞し、上総、下総、常陸、磐城の諸国を武者修行して角田に帰国。同時に斎藤師範より免許皆伝の印可を受けている。

 それにしても、目録受領から免許皆伝の印可まで、わずか1年であったというのはたいへんに興味深い。

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▲岡田十内の門弟帳には、我が仙台藩角田伝柳剛流4代である泉冨次先生の署名もみられる


 そしてさらに話を脱線させると、伴門五郎入門の2年後である安政4(1857)年には、一刀正伝無刀流の開祖であり、上野戦争の際には彰義隊と官軍との武力衝突回避に尽力し、おそらく彰義隊幹部であった門五郎とも折衝を行ったであろう幕臣・小野鉄太郎、後の山岡鉄舟が岡田十内に入門している。

 明治以降、多くの柳剛流剣士が、山岡の無刀流に移籍あるいは兼習したというのも、もともと山岡が岡田十内門下として柳剛流を学んでいたことに起因しているのだろう。

 さて、話を伴門五郎に戻せば、門五郎の入門は安政2(1855)年だが、それをさかのぼること13年前の天保13(1842)年、岡田十内の46番目の弟子として『神文帳』に名前が記されているのが伴経三郎貞栄、門五郎の義父である。

 つまり岡田十内は、伴経三郎、門五郎と、親子二代に渡る柳剛流の師であったということだ。

 現在の武道修行でも、父が通っていた師の道場に息子も通うという話はよくあるが、同じようなことが江戸後期の剣術の世界にもあったというのは、なにやら親近感を感じるエピソードだ。

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▲岡田十内門弟帳の冒頭部分


 さてさて、このままでは話がどんどん脱線してしまい、収拾がつかなくなってしまいそうなので(苦笑)、とりあえずは年明け、松が取れた後に、三学院を実際に訪ねてみようと思う。

 ■引用・参考文献
  『戸田剣術古武道史』(辻淳/剣術流派調査研究会)
  『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』(南部修哉)
  『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』(森田栄)
  「柳剛流岡田十内門弟帳の研究」(大竹仁)/『戸田市立郷土博物館研究紀要 第7号』

 (了)
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