上総伝柳剛流の興亡~『柳剛流剣術古武道史 千葉・東金編』を読む/(柳剛流)
- 2017/01/13(Fri) -
 辻淳先生の新著『柳剛流剣術古武道史 千葉・東金編』を読了した。

 本書は、上総国を中心とした房総に伝播した柳剛流剣士たちの記録である。


 房総においての柳剛流の一大根拠地は、上総国上谷村、現在の千葉県東金市周辺であったという。

 この地では今関登、古川貢、行川幾太郎、伊藤滝三郎といった若者たちが江戸に遊学し、柳剛流祖・岡田惣右衛門奇良に次いで東都での柳剛流興隆に大きな役割を果たした柳剛流二代師範・今井右膳(林右膳と同一人物)と、その子・今井亀太郎の門下となって柳剛流を学んだ。

 彼等は帰郷後、多くは地元で三代師範家となって柳剛流の指南に当たり、上総国上谷村周辺は柳剛流の一大勢力地になっていたという。

 そこに訪れたのが、かつて江戸にて流祖と立合い、破れてその門下に入った元小栗流の剣客・大塚治郎左衛門(?~1870)であり、流祖の直弟子である治郎左衛門は、以後この地に腰を据え、上総伝柳剛流の各師範家とともに、この地での柳剛流の普及に尽くした。

 上総伝柳剛流の大功労者である大塚治郎左衛門の事績については、従来ほとんどつまびらかではなかったのだが、辻先生の現地調査により、昭和57(1982)年、東金市内の無住の寺で、治郎左衛門の業績を記した石碑が発見され、ようやく明らかになった。

 半ば地中に埋もれたその石碑には、次のように記されていたという。


 先生、通称治郎左衛門、姓は大塚、三州牛窪の人なり。
 自ら幼きにして撃剣を好み、始めは小栗流の術を学ぶ。
 その術すこぶる熟し、東都に遊び、諸流と典(形)術を試し、先生の右に出る者少なし。
 たまたま柳の祖、岡田氏と術を較べ、自らその術に及ばざるを知る。
 先生に数年師事した後、両総の間に遊び、諸子弟を教授これにあきず。
 剣□□実に隠れた一君子なり。
 時に明治三庚午年二月二十三日病に瞑す。



 今井右膳門下の今関・古川・行川などの各師範家に、流祖の直弟子である大塚治郎左衛門を加えた上総伝柳剛流は、同じ時期に両総で興隆した不二心流と並んで、幕末の房総における剣術の一大流派として流名を響かせたという。


 また、上総伝柳剛流の師範家であった行川幾太郎の孫・民子は、柳剛流長刀を遣う女武芸者として知られ、後年は目黒で映画館を経営するなど、女性実業家としても活躍した。

 民子の使った柳剛流長刀の具体的な内容は伝わっていないが、同じ上総には柳剛流の大剣客・岡田十内の妻である鉄が創始した分派である柳剛心道流長刀が伝承されていたこともあり、行川民子の柳剛流長刀と、岡田鉄の柳剛心道流長刀との間に何か関係があったのではないか? などと想像の翼が広がるところだ。

 さらに行川幾太郎の弟子で、上総国正気村出身の剣客・東郷利平治は、新免正伝流(剣・居合・薙刀)の創始者として知られ、後に新潟や長崎、鹿児島で剣の指南を行った。

 あるいは上総伝柳剛流の師範家であった今関登や古川貢と同時代に、同じく上総から江戸へ出て今井右膳の元で学んだ伊藤滝三郎は、品川双葉町に道場を構え、文久3(1863)年には浪士隊に参加。その後は新徴組隊士となったところまでは記録が残されているが、その後の消息は明らかでないという。


 このように、幕末期に多いに栄え、数多くの剣客を輩出した上総伝柳剛流であるが、その後は流儀の継承者に恵まれず、明治の初めから中頃にかけて急速に衰退。大正、昭和、平成と時代は巡り、現在、その道統は全て絶えてしまった。

 いまや地元・東金市でも、かつてこの地が、断脚之術で雷名を轟かせた柳剛流という武芸の一大勢力地であったことを知る人は、ほとんどいない。

 このため、35年前に辻先生によって発見された大塚治郎左衛門の顕彰碑は現在は土と草の合間に埋もれ、柳剛流長刀の遣い手・行川民子の墓は無縁となりすでに解体・撤去されてしまったという・・・・・・。

 上総伝柳剛流の興亡は、武芸という身体文化がいかに失われやすく、儚いものであるのかをしみじみと感じさせる。


 ■引用・参考文献
 『柳剛流剣術古武道史 千葉・東金編』(辻淳著/剣術流派調査研究会)

 (了)
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