生兵法は大ケガのもと/(武術・武道)
- 2017/02/07(Tue) -
 とある時代劇作品で有名な漫画家さんで、独自の「実戦武術」を行っているという方がいる。

 このセンセイが動画で、

 「空手の蹴りはモーションが大きく遅いので、(自己流?の柔術の)素早い手技には通じない、云々」

 みたいなことを言っていた・・・・・・。

 この程度の事にいちいち反論することもないだろうし、また多くの武術・武道人もそう思っているからこそ、この方の発表しているちょっと人様に公開するのはいかがなものか? というレベルの、結構な数になる「実戦武術」動画なるものにも、いちいちモノ申す人がいないのだろう。

 ま、お年寄りは大切にしなきゃあならん。

 またこのセンセイは、「日本の古流武術はみんな形骸化していて、云々」「私はいつでも立合う」みたいなことをweb上で公言しているのだが、古流を稽古している者の中にも血の気の多いのがいるので、たとえばかつての柳龍拳事件のようなことにならなければいいのだがと、他人事ながら心配になる。


 それにしても、「(空手の)蹴りはモーションが大きくて遅いから役に立たない」というのは、いくらなんでもいただけない。

 どうもこのセンセイ、これまで本格的に武術・武道の稽古をしてきたわけではなく、創作活動にともなう独自研究が中心のようなので致し方ないのだろうが、少なくとも「武芸における速さ」という概念については、認識を改めた方が良いだろう。

 そのほうが、作品の内容にも深みが出るんじゃないかな?

 そもそも武芸の対敵動作における「速さ」というのは、拳足や刀などの単純なスピードではなく、

 意思と感情を持った彼と我との間における、拍子や位という概念を伴った「相対的な速度」である

 ということを、このセンセイはご存じ無いし、体験したことも無いのだろう。

 これは、観念的な約束稽古や仲間内だけのぬるい自由攻防のみに終始し、気を入れた形稽古や地稽古、互いに本気で勝敗を決しようとする試合稽古などを行っていない人たちが陥りがちな、典型的な思い込みのひとつである。


 「一見ゆっくりなのに、かわせない」

 「動きは見えているのに、避けられない」

 あるいは逆に、

 「一見スピードはあるが、十分にかわせる」

 「そのものの動きは早くて見えないが、簡単に避けられる」


 こうした技や動きというのは、普通に稽古を積んできた武術・武道人であれば、空手家でも剣道家でも柔道家でも、柔術家でも剣術家でも居合術家でも、多くの人が地稽古や試合稽古、あるいは非打ちのような応用的な形稽古でなどでも、何度となく実感し体験することだ。

 それかあらぬか、「蹴りはモーションが大きく遅いから役に立たない」というのは、中学生の格闘技談義レベルで、あまりにも痛々しい。

 たとえば私は、空手道については市町村レベルの選手権大会組手一般男子有段者の部2~3回戦負け程度の、どこにでもいる無名の中年有段者で、もう6年も試合に出ていないナマクラだが、それでも一連の「実戦武術動画」を見るかぎり、このセンセイに蹴り技を入れることは容易いだろう。

 もちろん頼まれても、そんなことはしないけれども(苦笑)。

 たしかに一義的には、蹴り技は手技に比べればモーションが大きく、足が動く速度は手が動く速度よりも遅い。

 しかし、武芸における対敵攻防というのは、単に拳足や武具の速度が速い・遅いというレベルのものではなく、相対的なものなのだ。

 本来、まっとうな武術・武道人はこういった武芸の道理を、厳しく緊張感のある、時には痛みや苦痛もともなう稽古を積み重ねることで、理屈ではなく「身体知」として獲得していくわけだが、おそらくそういった経験が無いであろう70歳を超えるご老人に、経験と理解を求めようというのも酷なことだろう。



 最近、武芸に関するネット動画などが普及したこともあってか、現実世界での厳しい稽古を通してではなく、「動画を見た」「ネットで読んだ」「話を聞いた」といったバーチャルな体験と知識、あるいは仲間内のなれ合いのようなぬるい稽古の経験だけで武術・武道を語る「頭でっかちな人」が、これまで以上に増えてきたように感じるのは私だけだろうか?

 本当に強く実力のある人は、あまり多くを語らない。そして、むやみに他者や他流を批判しない。

 これは、時に愚行を犯しがちな私自身への戒めであり、武術・武道に携わる者に求められる普遍的な素養でもある。

 確かな稽古を伴わない生兵法は、大ケガのもとであろう。

 (了)
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