「一殺多生」の気組と、武芸者の「顔」/(武術・武道)
- 2017/03/07(Tue) -
 もう7年も前の封切作品なのだが、いまさらケーブルTVで映画『桜田門外ノ変』を鑑賞。

 思ったよりも面白く見ることができた。

 しかし私は平素から、『山上宗二記』と並んで井伊直弼の著書『茶湯一会集』や『閑夜茶話 』を愛読していることもあり、作中、井伊がステレオタイプ的な悪の権力者といったニュアンスを強調して描かれていたのは、作品のテーマ上やむを得ないとはいえ、少々鼻についた。



 それにしても史実によれば、襲撃グループ18名に対し彦根藩の行列は総勢60名と、人数的には襲撃側が圧倒的に不利でありながら、目的である井伊大老暗殺に成功したというのは、たいへんに興味深い。

 彦根藩側の供回りは柄袋を付けていたとか、こまごまとした要因はあれど、大老襲撃という決死の使命感を持った18名の刺客と、ルーチンワークの行列警護で緊張感に欠けた60名の従者たちとでは、攻者3倍ならぬ守備側3倍という決定的な戦力差も、まったく意味をなさなかったということか。

 これは桜田門外の変から遡ること159年前の「赤穂事件」において、およそ100人が守る吉良邸を47人で襲撃し、主君の仇討ちという本懐を遂げたケースにも共通する。

 つまるところ集団戦においては、2~3倍の戦力差は、彼我の士気の差によって克服可能であるという好事例である。

 もっとも、完全武装で闘志満々の相手が我の2~3倍もいたら、あっという間に叩き潰されるであろうこともまたしかり。

 だからこそ数で劣る側は必死にならざるをえないわけで、これこそまさに孫子の極意である「死兵」となるわけだ。

 ことほどさように、闘争における士気や闘志、つまり「気勢」「気組」の重要性は、あだやおろそかにしてはならぬ要因である。

 先の大戦末期の旧軍のような、狂信的かつ非合理的な精神論のみに頼るのは論外だが、一方でクラウゼヴィッツの『戦争論』では、兵士と国民の闘争心の重要性を強調している点も忘れてはならないだろう。



 小の兵法である武術・武道においてもこれは同様で、いたずらに精神論に偏って技術の向上や基礎的体力の涵養をないがしろにするのは論外だが、一方で、どんなに術が優れ体力があっても、彼我の闘争において「一人一殺」「一殺多生」の気組の無い術者は、必死の素人に敗れてしまうのもまた真理だ。

 下世話に言えば、「てめえ、ぶっ殺す!」といった気概の無い生ぬるい剣や拳では、町のチンピラにすら遅れをとってしまうことを肝に命じておくことも、武芸者には必要な初歩の嗜みであろう。

 ただし、少なくとも10年、20年稽古を続けてきた武術・武道人であれば、そういった闘志、気勢や気組というものは常に、あくまでも己の内に秘めておくべきことであるのは言うまでもない。

 それかあらぬか、齢40、50にもなっても殺気や闘志が表に出すぎてしまい、人相や目つきの極めて悪い武術・武道人を時折見かけるが、それは武芸者のあるべき姿として下手であることはもちろん、本来、人格の陶冶を目指すべき武道指導者として見ても、こうした御仁たちはどんなに業が優れていても、けして一流の武道指導者ではない。

 そういった手合いとは、お近づきにならないに限るというのは、私の36年の武術・武道人生と37年の占術人生から、断言してよいと思う。

 歳をとればとるほど、目つき顔つきには、その人の内面が出るものだ。

 では、お前の顔はどうかって?

 う~む、南無八幡大菩薩・・・・・・。

1703_茶碗
▲ま、そんなオッカナイ顔をしてないで、茶でも一服し給え


 (了)
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