武術的徒然草/(武術・武道)
- 2009/06/21(Sun) -
 梅雨らしい、良い雨が降っておりますな・・・・。

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 一刀流系の切落あるいは新陰流系の合撃に類する技というのは、両手操法である日本剣術諸派における、ある意味、基本かつ極意となる典型的な業であろう。

 若い頃は、こうした型もとにかく闇雲に、そして力ずくでやっていたものだから、理合もへったくれもないぶった叩き合い稽古だったのだけれど、最近ようやく、「なるほどこういうことか・・・」と、心底から得心することが多くなってきた。切り落す際に、きちんと拍子に乗れば何も力む必要はなく、まさに先達の言うところの「今の打ちが軽いと言われれば、さらに軽く打て」というのが、しみじみ実感できるというものだ。

 それもこれも、フィジカルや闘争心が落ちてきたおかげなのか?

 そう思うとやや、切ない気がしないでもない・・・。

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 武術・武道と掛け声というのは、切っても切れないものである。

 「気合(掛け声)とは、ある種武術的な術技のひとつである」というのは、以前、ブログで書いたところ、他流派の師範方にも好評をいただいた。

 有声にせよ無声にせよ、気合(掛け声)の伴わない業なり極めというのはないというのは、斯術に親しんだ者であれば、だれしもが得心する点であろう。

 そして気合にも、先の気合、対の気合、後の気合があるわけだが、手裏剣術における”(無声の)気合”は、基本的には”後の気合”となる。これがあるとないとでは、「一打の重みがまったく違うなあ」と、つくづく思うわけだ。

 武術・武道においては、特に初学の間にきちんと有声の気合を出してハラを練っておかないと、当然、無声の気合などできるわけないので、初心のうちは意識して、「気合を入れる」ことが大事である。

 しかし、「なんで大きな声を出さねばならないのですか?」という、ビギナーの素朴な質問に、論理的かつ科学的に答えることができない者が多いことから、「ぐだぐだ言わねえで、声だしゃいいんだよ!」という、なんとも体育会的な指導になってしまうことが少なくない。

 こういうオソマツサに、いいいかげん気がつかないと、せっかく武道が義務教育で必修化されたにもかかわらず、所詮は武術・武道など、脳みそが筋肉の人間の手慰み・・・、という社会的地位に甘んじてしまうことになりかねない。

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 また、頭の中が筋肉ではダメだけれど、おちょぼ口で「身体操作が・・・」とかばっかり言っている輩でもダメなわけです。

 こういう輩に限って、空手の町道場・茶帯クラス程度の前蹴り一発で、無様に悶絶してしまったりするわけで、やはりこの世界、ヘタレではいけません。

 武術も武道も、そこはやはり「武」なわけですから、とりあえず、自分の身ぐらいは守れなければなりませんし、現代武道の有段者なり、古流の目録持ちくらいになったならば、自分の身など守れて当たり前、自分以外の人も守れないようではお粗末である。

 もちろんそれは、単純に”ど突き合いで勝つ”というレベルでのことではない。

 そういうことをすると、現代社会では暴行罪とか傷害罪とか、決闘罪とかで後ろに手が回るわけで、現代の武術・武道人たるもの、関連法、ことに正当防衛や緊急避難の構成要件と、決闘罪の条文くらいは頭に叩き込んでおかなければなりませんな。

 ことに我々のように四十路ともなると、兵法=平法として、20年、30年学んできた武術・武道をいかさなければならないわけです。

 そういう意味で、『六韜』や『三略』、『孫子』ぐらは読んでおかねば、平成の武術・武道人はいえないでしょう。

 読書もまた、稽古です。

  (了)
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