手裏剣は「投げる」ものではない、「打つ」ものである/(手裏剣術)
- 2017/03/31(Fri) -
 言葉は、彼我の世界を規定する。

 「はじめに言葉ありき」とは『ヨハネによる福音書』の一節だが、我々人間は言葉があるからこそ、抽象的な概念や行為を実存として把握し認識することができる。



 武芸における手裏剣術では、古来から手裏剣は「投げる」ものではなく「打つ」ものとされてきた。

 いくつか古典の記述を拾ってみよう。

 「小笠原忠政、敵に胸板と肌との間を鑓にて突き返されたるが、忠政脇差を抜きて手裏剣に打ちたるに、敵ひるんで鑓を抜きたるによりて命助かりたり」(『大阪軍記』)

 「武村武蔵子は与左衛門と云いけり。父に不劣剣術の名人手裏剣の上手なり。川に桃を受けて打つに桃の核を貫きたり」(『幸庵対話』)

 「黒河内兼規、その手裏剣におけるも、小的を柱にかけ、一丈八尺を隔ててこれに打ち、一も過らず」(『会津藩教育考』)



 このように、手裏剣術に関する古典的な史料では、一部に「投げる」という記述も見られるが、ほとんどの場合「打つ」と表現されている。

 その理由はつまびらかではないが、たとえば杭は「打つ」という。あるいは釘も「打つ」と表現する。

 慣習として、先端のとがった棒状のものを何かに突きさす行為は「打つ」と表現することから、棒状あるいは短刀状の手裏剣についても、これを「打つ」と表現したのではなかろうか?



 もう1つ、これは手裏剣術ではないが、剣術の斬撃について、二天一流の宮本武蔵(手裏剣術についても名手であり、始祖のひとりでもある)は、その著書『五輪書』水の巻において、「打とあたると云事」という一文を記している。

一 打とあたると云事。
うつと云事、あたると云事、二つ也。
うつと云こゝろハ、何れのうちにても、
おもひうけて、たしかに打也。
あたるハ、行あたるほどの心にて、
何と強くあたり、忽敵の死ぬるほどにても、
これハ、あたる也。
打と云ハ、心得て打所也。吟味すべし。
敵の手にても、足にても、
あたると云ハ、先、あたる也。
あたりて後を、強くうたんため也。
あたるハ、さはるほどの心、
能ならひ得てハ、各別の事也。
工夫すべし。

(訳)
一 打つと当るという事
 打つということ、当るということ、(これは)二つ(別々のこと)である。
 打つという意味は、どんな打ちでも、しっかりと心得て、確実に打つということである。当るというのは、(たまたま)行き当るという程のことであり、どれほど強く当って、敵が即死してしまう程であっても、これは当るということである。打つというのは、心得て打つ場合である。(ここを)吟味すべし。
 敵の手でも足でも、当るというのは、まず、当るのである。(それは)当った後を強く打つためのものである。(だから)当るというのは、触る〔様子をみる〕という程のことであり、よく習得すれば、まったく別のことだ(とわかる)。工夫すべし。

 ~出典:「武蔵の五輪書を読む 五輪書研究会版テクスト全文 現代語訳と注解・評釈」(播磨武蔵研究会「宮本武蔵」ホームページhttp://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/g00.htmlより)~


 『五輪書』では、斬撃において「打つ」と「当たる」の違いを、主体である剣術者の意念の違いで分別している。

 手裏剣術においても、「打つ」(Strike)と「投げる」(Throw)とでは、術者の意識としてたいへん大きな違いがあり、それは区別すべき精神状態=心法である。

 あくまでも武技として手裏剣術を稽古するのであれば、一打をもって敵の死命を制するだけの気勢を込めた、「打ち」でなければならない。

 「投げる」という言葉・表現・行為には、こうした武芸としての、生死一如の厳しさが無いのである。



 遊戯やスポーツとしての的当てであれば、手裏剣は「投げる」ものであって構わない。しかし、それを武芸と位置付けるのであれば、手裏剣は必ず「打つ」ものでなければならない。

 特に手裏剣術の初学者は、この点を十分に踏まえて稽古に臨む必要がある。

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 ■引用・参考文献
 『五輪書』(宮本武蔵著・渡辺一郎校注/岩波文庫)
 『宮本武蔵の戦闘マニュアル 精解 五輪書』(兵頭二十八著/新紀元社)
 『手裏剣術』(染谷親俊著/愛隆堂)

 (了)
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