自覚的に望むこと/(武術・武道)
- 2017/07/14(Fri) -
 現代おける武術・武道が志向すべき目的のひとつが、日本古来の武技の鍛錬を通じての「人格の涵養」にあることは論を待たない。

 一方で、少なくない武術・武道関係者が内心、「本当に武術・武道で人格が涵養されるのか、はなはだ疑問だ・・・」と思っていることもまた事実であろう。

 実際のところ、武術・武道の世界には、妬みや嫉みによる誹謗中傷、自己愛や承認欲求が肥大化してしまった者同士の争いなどが絶えず、体罰や金銭面のトラブルなどもたびたび耳にする。



 考えてみるに、武術・武道というある意味で特殊な芸事の世界も、結局は現代における日本社会の縮図である以上、私たちの身の回りにある「世間」という社会に、立派な人、普通の人、迷惑な人、反社会的な人などがそれぞれ存在しているのと同じように、武術・武道の世界にも立派な人、普通の人、迷惑な人、反社会的な人などが同じような比率で存在しているのだろう。

 だからこそ往古、殺人術としてあった武技が、ある種の嗜みや楽しみ、娯楽としての一面を持つ技芸に転化していった江戸時代頃から、「どうせ武芸を習うのであれば、それによって未熟で愚かな己の人柄を磨いていこう! いや、磨けるといいんじゃないの?」というような、倫理的な志向が発生してきたのではなかろうか。

 こうした流れの延長線上に、現在の武術・武道が志向すべき「武技の鍛錬による人格の涵養」があるのだろう。

 そう考えると、「武術・武道では人格を涵養できない」のではなく、まずは「武術・武道をもって、人格を涵養したい」と自覚的に望むことが大切なのではなかろうか?

 そもそも、自ら「武技の鍛錬を通して人格を涵養したい」と望んでいない人が、武芸を学んだとて人格が涵養されるわけがない。

 だからこそ、他者に武技を指南する立場にある指導者は、自らの身を慎むことは言うまでもないが、門下・門弟に対しても「武技の鍛錬を通して人格を涵養せよ」と、折に触れて教導しなければならない。

 このような指導者による門下への明確な動機付けが無いゆえに、人格の涵養されていない武術・武道人が、飽きることなく次々と生み出されてしまうのであろう。



 古流武術の起請文の多くには、「他流を誹るなかれ」「他流と争うなかれ」といった条文が必ず含まれている。

 あるいは現代武道の道場訓でも、多くの流儀・会派に「血気の勇を戒めること」「恥を知ること」といった一文がある。

 こうした教えは、処世術としては護身のための端的な行動指針であり、倫理的には武技による人格完成への第一歩なのだ。

 ひるがえって己自身を鑑みれば、愚かで未熟で弱い自分だからこそ、「武技の鍛錬を通じ、昨日よりも今日の自分が、少しでもより良い武人でありたい」と自覚的に望み、己を戒めねばならないと思っている。

 「武徳」への道のりとは、そのようなものではないだろうか。


 「よく、ありのままを受け入れて欲しいというけれど、怠けている状態をありのままとは言わないの。畑の大根だって食べてもらうには泥を洗って、皮をむいて切り分けて、ちゃんと手間をかけないと人前に出せないのと同じ。ありのままの自分を受け入れろということは、土の付いたままの大根を食べなさいといういうようなことですよ」(美輪明宏)

 (了)
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