柳剛流における君子の教え/(柳剛流)
- 2017/07/27(Thu) -

一、 武者身を脩るの儀なけは聊も争心可有事なかれ、争心有者は必喧嘩口論に及へは亦刃傷に至らんも難計、武道を学人は心の和平なるを要とす、去は短気我儘なる人は却而武道を知らさるをよしとす、大抵人之行ひ正敷して其上に武有はよし、行い正しあらさる時武有は人をも害あるのみならず、己をも害する事出来者也
                          ~天保7年に記された、柳剛流の起証文より~




 柳剛流に限らず、古流でも現代武道においても、武術・武道を志す者には粗暴のふるまいや言動がきつく戒められてきた。

 「武人たるもの、君子たれ」というのは、万古不易の教えであり、志すべき「道」である。

 それではなぜ、武人は君子であるべきなのか?

 理由はごくシンプルなものだ。

 一つは、無用に敵対者を作らないため。

 もう一つは、武力を持った者に課せられる規範意識、ノブレス・オブリージュゆえである。



 己に酔って粗暴で攻撃的な言動を繰り返す者は、無用に敵対者を増やし、いつか必ず寝首を掻かれるであろう。

 また、規範意識の欠如した武人は、世の中の大多数の人々にとっては、今も昔も「はた迷惑で粗暴な、反社会的人物」以外のなにものでもない。

 武術・武道における古今の名人・高手たちは、こうした人の世の道理を知り、実感していたからこそ、皆が異口同音に「武人は君子たれ」と教え諭してきたのであろう。

 つまり「武人は君子たれ」という教えは、単なる表面的な道徳的キャチフレーズではなく、武術・武道に携わる者が、己の身の破滅を避けるために必須の、行動指針としての「道」なのだ。



 ところが残念なことに、「武人は君子たれ」という先人の知恵を、嘲笑うかのような言動を繰り返す武術・武道関係者もいる。

 彼らが、諸人の恨みを集めたあげくに思わぬところで寝首を掻かれたり、多くの人から軽蔑されるのは、それは止むをえまい、自業自得だ。

 一方で、こうした一部の武術・武道関係者の浅はかな、あるいは反社会的な行為が、武術・武道そのものの在り様までをも辱めているのは、斯界の末席を汚す者として、たいへん遺憾に思う。

 しかし振り返ってみれば私自身も、若気の至りから無益な諍いを起こしてしまったり、言わぬで良いことを口にして友との関係を失ってしまったこともある。

 五十路を前にして、これらの愚行を思い返せば慚愧に堪えないし、自分の無知蒙昧さに恥じ入るばかりだ。

 だからこそ己自身や門下に対して、改めて「武人は君子たれ」と諭していかねばと思う。



 柳剛流においては、江戸の昔から、冒頭に記した起請文以外にも様々な伝書において以下のように記し、粗暴のふるまいや軽率な言動を戒め、身を慎むよう諭している。

 「この術をもって無益な殺害をなす者においては、直に天地の神、摩利支天の罰をこうむるべきなり」(柳剛流起請文)

 「平日に話しするとも真剣も 思いて言葉大事とぞ知れ」(柳剛流剣術切紙巻)

 「それ兵法は、心の妙徳なり」(柳剛流剣術目録巻)

 「それ剣柔者は、身を修め心を正すをもって本となす」(柳剛流殺活免許巻)

 「この術をもってたやすく闘争に及ぶは我が党の深く戒めることなり」(柳剛流殺活免許巻)

 「当流を修めんと欲する者は先ず心を正すをもって要と為す」(柳剛流殺活免許巻)

 「何の道にあらずして弁舌博覧に勝るを意に信とするにあらず」(柳剛流剣術免許巻)



 流祖以来の流儀の「掟」からも、柳剛流を修行する者は、粗暴のふるまいや言動を慎まねばならない。

  (了)
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