9.11/(時評)
- 2009/09/14(Mon) -
 この週末は、9.11関連のドキュメントや映画を意識して見ていた。

 9.11という事象をどう捉え、どう理解していくのかは各人の思想や思考、人生経験などによってもさまざまであろう。

 私個人としては、民間人を対象にした無差別攻撃は、米軍だろうがアルカイダだろうが、旧軍だろうが人民解放軍だろうが、いつの時代にも変わらない武人の矜持に反した下劣な行為であり、民主主義の根幹となるべき近代的自我にも即さない愚行であると考えている。

 近代軍事学が言うところの「総力戦」の一環としての、「戦略爆撃」に代表される民間人を対象にした攻撃は、結果としてその目的達成(敵国の継戦意欲の破壊)にはなんら効果がないということは、ドイツでも、日本でも、旧ユーゴでも証明されている客観的な事実である。

 また官憲や軍しか攻撃対象にしていなかった時代のIRAが、ある程度広範な大衆の支持を受けたのに対し、無差別爆弾闘争を行って以降の彼らの行為は、単なる無差別殺人となり、結果、大衆の支持を失っていったことも理解しておくべきであろう。

 だからこそ、21世紀の民族闘争においては、アルカイーダをはじめとした旧態以前の暴力と脅迫を手段するテロ組織の愚劣さや不毛さが際立つ一方で、サパティスタ民族解放軍のような、新しい時代の知性を感じさせる民族解放闘争が注目されるのだろう。


 ところで、9.11の後、一部で「非戦」という言葉が盛んに用いられたことを、覚えている人はどれくらいいるだろうか?

 当時、私はこの「非戦」という言葉の、奇妙で、陳腐で、甘ったれた語感に、なんともいえない不快感を感じたものである。

 いかにも、いつでも当事者意識を持たない、常に安全な圏外から空疎な理念をおちょぼ口で唱えるような、ふにゃけた日本人が言いそうな言葉ではないか。

 「反戦」というなら、まだ分かる。

 そこには、戦争に反対する、という主体的な意思が感じられるからだ。

 しかし、なぜ「『非』戦」なのか?

 戦争を否定したい? 拒否したい?

 否定しようが、拒否しようが、戦争は、現実にそこにあるのだ。

 世界中の人々が、WTCが崩れてゆく様子を通して、それを知ったのではないか?

 どんなに見えないふりをしても、疾病や貧困は、まちがいなくこの世に存在しているのと同じように、戦争という害悪も、まちがいなく今、この世界に存在しているのである。

 その戦争という害悪を、「軍事力」によって防ごうとするのか、それとも反戦運動で防ごうとするのか? それはもう、各自の方法論にすぎない。

 しかし「非戦」という言葉から発せられるのは、「嫌なこと、恐ろしいことからとにかく目をそらしたい」、ただそれだけの、甘ったれた感傷ばかりなのである。

 いわば、ロハスといいながら、エアコンの効いた高級レストランで、有機野菜のサラダを食べている人々のような、偽善と欺瞞、それと同じ種類の臭いがするのだ。


 少なくとも、いくつかの紛争をこの目で見た者としては、そんなふにゃけた感傷では、戦争はなくならないと断言しておこう。

 あれから8年。

 少しは、日本人も変わったのだろうか?


 (了)
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