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流祖・岡田惣右衛門の貌/(柳剛流)
- 2018/10/16(Tue) -
 柳剛流祖・岡田惣右衛門奇良(よりよし)とは、如何なる人物であったのだろうか?

 文献での最も古い史料のひとつは、天保14(1843)年刊行の『新撰武術流祖録』であり、そこには、

「柳剛流  岡田惣右衛門奇良 東武の人なり。始めに心形刀流を習い、後に諸州で修行、而して脚を撃つことの妙を得る。潜して柳剛流という。文政九戌年九月死す。門人多し」

 とある。

 しかしこの記述は、流祖の没後17年が過ぎた時ものだ。

 現在、私が知る限り、流祖の履歴を記した最も古い史料は、『奉献御寶前』という古文書である。

 これは、流祖存命中の文政3(1820)年に作られた奉納額の写しであると伝えられる。

 しかし、そもそも写しの元となった奉納額が何処に奉納されていたのか、奉納額が現存するのかなどが定かではない。

 そういう意味で、今も実物が現存しており、だれもが確認できる、最古の岡田惣右衛門の事績を伝える史跡・史料が、石巻市大門崎にある「柳剛流祖岡田先生之碑」という頌徳碑だ。

 しかもこの碑は、柳剛流二代宗家で仙台藩角田伝柳剛流の祖である岡田(一條)左馬輔が、流祖・岡田惣右衛門を顕彰するために、師の逝去から22年後の嘉永元(1848)年に、自ら建立したものである。

 つまりこの頌徳碑は、岡田惣右衛門から直接薫陶を受け、師の苗字を賜り2代目を継承した人物が、直接知る師の遺徳を偲んで建立し、その功績を後世に伝えたという意味で、たいへんに貴重なものなのだ。

 そこに刻まれている岡田惣右衛門の事績を抜粋すると、次ように記されている。


 先生は江戸の人、諱は奇良(よりよし)、総右衛門と称す。初め伊庭直保に従い、心形刀流を学び、つとに其奥を窮む。

 而して未だ自ら慊(あきた)らず、遂に海内を経歴してあまねく時の名家に問う。輙(すなわ)ち、往きて其技を較べ、又従いて其理を講究す。

 資性の美、加うるに積累の功を以てして、変動すること神の如く。

 独得の妙、一世勍敵無し。

 顧みておもえらく、諸家の法は観る可しと雖も、要は皆議す可く有り。吾は我を愛するによらざるを得ざる也と。

 因って一家の法を立て、命(なづ)けて柳剛流と曰う。

 蓋し剛柔偏廃する可からざるならん。

 既にして誉望益々震い、四方の士争いて其門に造るは、百川の巨海に帰するが如し。

 而して伊勢三河の両国、即ち先生淹留すること年有り。故を以て門人尤も多し。

 脚を斫(き)る之術、是より先の諸家未だ嘗て講ぜざる所にして、先生意を以て之を剏(はじ)め、特に其妙を極む。

 文政丙戊九月、享年七十。病にて家に於いて終わる。

 爾後、海内其遺法循習する者、日増月盛。嗚呼、亦偉なるかな。

 (「柳剛流祖岡田先生之碑」より、一部抜粋)




 以上の碑文を見ると、4つの大きな誤りが見られる。

 1.流祖の名前が総右衛門になっている(正しくは、惣右衛門)。

 2.流祖の生誕地が「江戸」となっている(正しくは、武州葛飾郡惣新田〔現在の埼玉県幸手市〕)。

 3.流祖の師を伊庭直保としている(正しくは、直保の弟子である大河原右膳)。

 4.逝去時の年齢を70歳としている(正しくは62歳)。

 しかし、直接流祖から薫陶を受け、しかもその後継者に指名され、師より苗字までも受領した弟子である岡田左馬輔が、自ら建立し、当然ながらその際に撰文について直接校閲したであろうことから、この碑文に記された岡田惣右衛門の姿や人となりは、現存している記録の中では、最もその実像に迫ったものといって過言ではないだろう。


 この碑文では特に、

1.当時から柳剛流の興隆地が伊勢・三河と認知されていたこと(※伊勢では現在も紀州藩田丸伝柳剛流が、養心館道場・三村幸夫先生によって伝承されている)

2.「斬足之法」「断脚之術」、いわゆる脚斬りについて、明確にそれが流儀の真面目であることを明言していること

3.「柳剛流」という流儀名の由来について、巷間に流布されている誤った言説(「根をしめての古歌、云々」「柳の枝が川面を打つ、云々」)に関連する記述が一切ないこと

 以上の3点に注目をしたい。



 1点目について。

 私たちが稽古・継承しているのは、岡田左馬輔からの伝承を受け継ぐ仙台藩角田伝の柳剛流であり、左馬輔以後、仙台藩筆頭家老であった石川家中の剣術流儀の第一は柳剛流となり、あるいは石川家の領地であった丸森一帯では、集落ごとに柳剛流師範家がいるほどの興隆をみせた。

 また江戸府内や武州では、当時すでに複数の柳剛流師範家が、「門人数千余人」と言われるほどの教線を張っていた。

 にもかかわらず、この頌徳碑では、

而して伊勢三河の両国、即ち先生淹留すること年有り。故を以て門人尤も多し。



 と、あえて記している。

 それだけ伊勢や三河は岡田惣右衛門にゆかりの深い地域であり、柳剛流が盛んであったということだろう。

 私自身は、東海地方の柳剛流についてはほとんど知見を得ていないのだが、江戸府内や武州、角田・丸森以上の興隆というのであれば、相当な史料や史跡、口承などが残されているのではなかろうか?

 この部分のフィールドワークは、今後の課題の一つである。



 2点目について。

 柳剛流の術技の真骨頂が脚斬りにあることは言うまでもない。当時からそれを、柳剛流の伝承者や修行人たちが、誇りを持って自覚していたということが、この碑文の、

脚を斫(き)る之術、是より先の諸家未だ嘗て講ぜざる所にして、先生意を以て之を剏(はじ)め、特に其妙を極む。



 という一文から、強く感じられる。

 剣技としてあるいは武技として、「断脚之術」は、なんら恥じるものではない。

 脚斬りの技を「卑怯な技である」とか、「喧嘩剣法」などと揶揄するのは、司馬遼太郎の創作物語を歴史的事実と勘違いしている粗忽者か、あるいは剣の理・武術の理を知らない未熟者である。

 我々、現代の柳剛流修行者も誇りを持って、この流祖直伝の「斬足之法」を練磨し、後世に伝えていかなければならない。



 3点目について。

 これは本ブログでこれまでもたびたび指摘していることだが、柳剛流の流儀名の由来について、「根をしめて~」の古歌がどうだとか、「柳の枝が川面を打つ様子を見て~」などといった情報は、この碑文には一切記されていない。

 ただ、

顧みておもえらく、諸家の法は観る可しと雖も、要は皆議す可く有り。吾は我を愛するによらざるを得ざる也と。因って一家の法を立て、命(なづ)けて柳剛流と曰う。蓋し剛柔偏廃する可からざるならん。



 と、端的に叙述されているのみである。

 少なくとも私が知る範囲内では、「根をしめて~」の古歌云々、あるいは柳の枝が川面を打つの様子云々といった記述は、この碑文はもとより、その他の信頼のおける一次史料では、一切見たことがないことは、ここで改めて、そして何度でも強調しておきたいところだ。

 それにしても、一度世間に広まってしまった誤りや誤解は、容易には訂正することができないものだと、しみじみ思う。

 しかし可能な限り、こうした誤りを訂正するよう努めるのも、今の世で柳剛流を継承する者の重要な使命のひとつだと言えるだろう。


1706_柳剛流「右剣」
▲仙台藩角田伝 柳剛流剣術 「右剣」



■引用・参考文献
『日本剣道史 第十号 柳剛流研究(その1)』森田栄/日本剣道史編纂所(1973年)
『一條家系譜探訪 柳剛流剣術』一條昭雄/私家版(1996年)
『幸手剣術古武道史』辻淳/剣術流派調査研究会(2008年)
『増補・改訂 宮城県 角田地方と柳剛流剣術-日本剣道史に残る郷土の足跡-』/南部修哉/私家版(2016年)


 (了)
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