指導する側の使命~「術」の言語化を通して/(武術・武道)
- 2009/10/04(Sun) -
 幸いなことに、我が翠月庵にも、手裏剣術などという単調な武芸について、定期的に学びに来てくださる会員さんたちがいる。また、遠く離れた地域ながらも、厚誼を結んでくださり、当庵の手裏剣術を体験し、学んでくださる方々がいる。

 たいへんありがたいことです。

 これは社交辞令ではなく、20年、25年と比較的長い期間武術や武道を学び、多少なりとも人様に技術を指導させていただけるような立場になると、本当に心の底から感じることである。

 なぜならば、他人に技を教えるということは、自分自身にとって、実に得がたい貴重な稽古だからだ。これは道徳じみた観念論ではなく、実感である。

 そこで他人に技術を教えるためには、自分ができることはもちろんだが、その術の構造を自身が論理的に、また科学的に理解し、それを整理し、他者に分かりやすく伝えることができなければならない。

 それができて初めて、「先生」とか「指導員」と呼ばれるわけであり、単に自分が使えるだけでは、ただの「上手い人」に過ぎないのである。

 ところがどうも、この世界には、指導すべき技を客観的かつ合理的に説明することができず、意味不明の観念論や感覚論を振りかざす人がいるようである。

 さて、困ったもんですな(笑)。

 私から言わせれば、説明できない、相手に伝わらない、理解されないというのは、武芸の指導者としては、「遣えない」のと同義である。

 人様に伝わるような説明ができず、そのための努力もしないのであれば、自分ひとりで稽古をしておればよろしい。わざわざ金をとって他人様に教え、しかもその技術を広めようとするならば、きちんと他人に分かるように説明する、教える、そしてできるように育てる、これが筋であろう。

 それとも、言語化否定派の人々は、実は人に教えるのではなく、「自分が上達するための踏み台」として、初心者や生徒さんたちを利用しているのだろうか? それとも、月謝というお布施を運んできてくれる、カネヅルくらいに思っているのか?

 いやしくも指導者・員として名乗りをあげているのであれば、自分以外の誰かを、きちんと責任を持って「遣えるように育てる」義務があり、そのためには、言語化された分かりやすい説明が必須になるわけだ。

 野球で言えば、「ミスター」と、「ノムさん」の違いです。



 ちなみに当庵では、これまで稽古に参加された方の9割(女性も含む)が、稽古初日で三間での直打刺中を、最低1打は実現している。

 もちろん、武術的にはヘロヘロな打剣であり、あるいは限りなくまぐれに近い刺中であり、「とりあえず刺さった!」という程度である。しかし一方で、これはどこの手裏剣道場でも簡単に実現できることではない、とも自負している。

 まあ当庵では、初心者も稽古初日からいきなり三間直打で稽古を始めてもらうので、当たり前といえば当たり前なのだが。

 これは当庵の手裏剣術が、「無冥流の重心理論」という、きわめて明確かつ合理的な技術論を基礎にしている事が大きい(※1)。この点で、手裏剣術における重心理論という、画期的かつ科学的な技術論を、従来の武術・武道の理論や経験に負わず、ほぼ完全な独自研究でまとめ上げた無冥流・鈴木崩残氏の業績は、日本の武術・武道史はもちろん、世界の格闘技術史に残るものだと言っても過言ではないと私は考えている。

 その上で、ここはいささか自画自賛になるけれども、翠月庵には、この無冥流の重心理論を元に、武術としての手裏剣術を実際に学んでもらうための独自の指導体系があり、指導においてはそれをできるだけ分かりやすく言語化し、実技を見せ、稽古に参加する皆さんに術の本質が伝えられるよう、日々精進している。

 だからこそ当庵では、従来から手裏剣術者にとって最初の大きなハードルであった、「三間の壁」を越える、直打の短期習得を可能にしているわけだ。

 一方で、一部の武術・武道人は、わりあい安易に「不立文字」とか、「体で感じろ」とかいう説明を弄するけれど、その多くは、単に己の体で起こっていることを客観的に把握し、それを言語化する能力が欠如しているに過ぎない。

 ゆえにこの手の人々は往々にして、説明能力の欠如を「身体操作」とか「気」とか、「神」とか「愛」とか、よくよく考えると意味不明なのだが、しかしなんとなくありがたみがあるような、摩訶不思議な日本語表現やたとえ話で、術の指導・解説をごまかしているのだ。

 これがいわゆる、「口(くち)合気」というやつです(笑)。

 さらに言えば、この手の指導者と、それに嬉々として盲従する信者たちで構成される集団というのは、もうある種のカルトであるといっても過言ではありますまい。

 「理屈ヌキデ、先生ヲ、信ジナサイ」というのだから・・・。

 いや、ドコとか、ダレとか、言いませんよ(笑)。

 さて、なにかと揚げ足を取りたがる輩のためにあらかじめ明言しておくけれども、当然ながら武術・武道には、どうしても言葉にできない部分が厳然としてある。

 んなこたあ私も、重々、承知だ。

 すべての技芸、あるいはそこで起きている体と心の動きを、完全無欠に全部、客観的に言語化することなど、できないに決まっている。

 当たり前デス(笑)。

 ではなぜ、古来、多くの武芸者たちが、その「言葉にできないもの」を、伝書や道歌や口伝などで、可能な限り「言葉にしようと」努めてきたのか?

 安易に言語化を否定する者にかぎって、こうした先人の業績を理解していないのは、嘆かわしいことだ。とりあえず『兵法家伝書』や『五輪書』なら、平成の世では本屋さんで500円くらいで売っているのだから、自分で買って、最後まできちんと読んでみるとよい。

 市村おもえらく、武の先人たちは、それまで言葉にされることのなかった、武術における技術=闘争の論理的構造とその普遍性を、可能なかぎり明らかにしたいと志した。それによって、往々にして偶然性で人の生死が左右される個と個の闘争という不条理から脱却し、勝つも負けるも必然という武術的な境地にたどり着きたい・・・、そう願ったのだろう。

 これはある種、勝った負けた、斬った斬られた、殺した殺されたを、有史以来、延々と繰り返してきた無数の武人たちの、集合無意識としての、祈りでもあったのかもしれない。

 だからこそ、室町の昔から江戸時代まで、日本語という言語自体がいまだ構造的に未成熟であった時代にもかかわらず、多くの先人たちは、武芸の理合の理論化や言語化という難題に挑んだのだし、その後、日本語という言語が成熟した現在も、その営みは続けられるべきなのである。



 剣術でも柔術でも、拳法でも空手でも、初学・初級の人が学ぶ技術の多くは、経験を積んだ真面目な武術・武道人であれば、「きちんと日本語で説明できる」ものであるし、それが説明できないようでは優れた指導者とは到底言えまい(※2)。

 少なくとも、私がこれまで教えを受けてきた多くの師や先輩、あるいはご厚誼をいただいている武友の皆さんは、いずれも明確で分かりやすい言語=指導を行っていたし、今も行っている。そういう方々との縁があったこと自体、私は恵まれていたのだし、その恩返しをするのが、自分の務めであるとも考えている。

 そのために、常に明確で分かりやすい指導や説明を心がけ、自分が上達するのはもちろん、他者をも上達させなければならない。なぜなら、それが指導する側に立った者の使命なのだから。


 ところで、言語化を否定するわりに、書籍や雑誌、あるいはブログやホームページなどで、延々と自身のご説や自流の強さを語りたがる人が時折いるけども、それって矛盾してないかね?

 技や理合は言葉にできないが、自己主張のための言語化と、信者集めの宣伝はいくらでもしたいということか。

 いやまったく、商魂たくましいことですな…。

(了)

※1
翠月庵の手裏剣術は無冥流の重心理論を基礎としている。しかし本ブログでも以前何度か記しているが、当庵の教習体系や修練の目的は、投剣術全体の理論研究を目的としている無冥流とは異なる体系にあり、あくまでも両者は同一でないことに、ご留意いただきたい。

※2
一方で、武術・武道の多くが、「初学者のための最初の一手が、実は自流の奥義でもある」、としている点を、中級以上の武術・武道人は見過ごしてはならない! これは古流に限らず、現代武道でも同様である。
スポンサーサイト
この記事のURL | 武術・武道 | ▲ top
| メイン |