武士道考、あるいは「武人」とは何か/(時評)
- 2009/10/23(Fri) -
 アフガニスタンでは、米軍の無人攻撃機プレデターがアルカイダの掃討に活躍している21世紀。

 なにを好き好んでやっとうや手裏剣の稽古などに精を出すのか、我ながら酔狂だとは思う。

 おかげで時折、「市村さんのお宅は、代々侍の家柄だとか?」などと質問されることもある。

 うちの実家は、室町末期から安土・桃山時代までは伊豆の地侍であった。一族の中からはゲーム『信長の野望』ではおなじみのインテリ系弱キャラ(ご先祖さま、スミマセン・・・)、板部岡江雪斎さんが出ているけれど、この方は姓の通り、うちの一族から出て板部岡家の養子になってしまったので、うちの本家自体は江戸時代以降、百姓になった。

 なので、めんどくさいから、「あ、百姓の出ですヨ」と答えるようにしている。

 武士とか侍といった言葉の定義はなんともあいまいで ある時代に帰農した侍とか、国人と呼ばれる地侍の場合、どうなるのか? そもそも、21世紀の今となっては、先祖の出自や家系など、まったく意味はないし。
 

 さて、同じようなあいまいさを持っている概念が、「武士道」というやつである。

 武術・武道関係者や右翼系の御仁には、わりあい簡単に「武士道は・・・」とか、「武士道たるもの」とか言う人もいうけれど、「で、あんたの言う武士道とやらは、いったい何時代の、どんな土地の、どのような武士道なのかね?」と、小1時間ほど問い詰めてみたい気もしないでもない。

 このあたりの問題については、兵頭二十八師の著書『武侠都市宣言』(四谷ラウンド/絶版)や『あたらしい武士道』(新紀元社)、『予言 日支宗教戦争』(並木書房)、以上の3冊を読んでもらえば、十分に理解できるはずである。というか、現代の武人たるもの、この3冊は絶対にはずせない必読の書である。私にとっては生涯変わらぬ座右の書であり、1人でも多くの人に、死ぬまでに1度はぜひに読んでほしい名著だ。

 端的に言えば、現在のネットウヨクや脳みそ筋肉系の保守民族主義者がいうところの「武士道」などは、所詮は日清戦争以後、軍部主導で作られた人為的付け焼刃の陳腐な精神論に過ぎず、21世紀の世界に生きるわれわれは、人類史を俯瞰した上での近代的自我を背景にした”あたらしい武士道”を構築しなければならない、ということである。

 では、そのあたらしい武士道とはなにか?

 兵頭師の本を買って読みましょう。

 1ついえることは、ふんどし姿で据え物をぶった斬るのが武士道ではありません(爆)。

 そういうわけで、私は平素から武人としての徳(武徳/アテレー)や規範(ノブレス・オブリージュ)という問題はよく考え、できればそれに恥じないよう生きてゆきたいと願っているけれど、いわゆる江戸時代的な、あるいは戦前に提唱された「武士道」という精神論を、自分が生きてゆくための規範と考えたことはないし、これからもないだろうと思う。

 なにしろ、伊豆の百姓の子孫なんだから(笑)。


 ではなんで、お前は自分や他の武術・武道関係者を「武人」と称するのか? という批判もあるかと思う。

 たしかに辞書を見ると、「武人」という言葉は、『武士、軍人、いくさびと』(大辞泉/小学館)と書かれている。しかし私としては、

 「武術・武道をたしなむ人、あるいは武術・武道が指向する社会的価値観を是とする人」

 という意味で「武人」という言葉を使っており、そこには身分としての武士や職業としての軍人というニュアンスはないわけです。

 畢竟、私の言う「武人」という言葉をより厳密に表現するなら、本来は「武芸者」という言葉のほうがより日本語として正しいのかもしれない。ただ21世紀の今、自分を「武芸者」と称するのはあまりに滑稽かつ陳腐なので・・・ね。

 ブログのタイトルにしか使えないでしょ。

 また「武芸者」となると、武術・武道を稽古している人だけに意味が限定されてしまうため、あえて定義のあいまいな「武人」という言葉を使っているわけです。

 では、武人の守るべき徳とは何か?

 「卑怯なまねはしない」
 「公的なうそはつかない」
 「友人を裏切らない」

 これは私の十代の頃からの、理想とする人間規範なのだけれど、その後成人して以来、北は北極から南はボルネオのジャングルまで、あるいはパレスチナの地雷原から北朝鮮の聖山まで世界各地を旅し、国会議員から国立大学の名誉教授あるいは前科持ちの板前から日雇いの土木作業員まで、あらゆる階層の人々と接し話をしてきた上で、地域も国も、時代も性別も、階級も人種も超越した、人間として最も普遍的な徳目ではないかと思う。

 (逆説的に言えば、卑怯なまねばかりして、公にした約束をすぐに破るうそつきで、あまつさえ友達を裏切るような人間は、どんな時代でも、どんな国でも、どんな人種でも、男女の別なく、あらゆる社会で尊敬されず、愛されもしないわけ。当たり前ですね・・・。しかし、では本当に自分は、卑怯なまねをせず、公的なうそをつかず、友人を裏切らずに生きてきたのか? これは、自分自身への厳しい問いでもあるわけです)

 上記の3つの規範を漢文風に表現すれば、

 「勇」 「義」 「仁」

 の三徳となろう。

 ゆえに、武術・武道をやっていようが、いまいが、人生という過酷な現実の中で、「勇」、「義」、「仁」という3つ徳を実現したいと「願う人」は、誰もが武人なのだと、私は思っている。

 だから、私にとっては、平山子龍もラビア・カーディル女史も、ダライ・ラマ14世も井上伝蔵も、桜井よしこも岡村昭彦も、すべて皆、はるか高みをゆく武人なのである。

(了)

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