温故知新のバランス感覚と科学的論理性/(武術・武道)
- 2010/02/17(Wed) -
 梅の花が見ごろを迎える一方で、春を目の前にした厳しい寒さが続いている。

 ことに野趣あふれる野天道場である当庵は、例年のことながら、この時期はたいへんに寒い。

 しかも、手裏剣術の稽古というのは、それほどフィジカル的に激しいものではないので、なかなか身体が温まらないし、冷え切った状態でいきなり全力で打剣するのもよろしくない。そこで、居合や抜刀術、あるいは剣術の稽古などで、身体を十分にあたためてから、ということとなる。


 そんななか、最近、とある書籍で某流の居合の資料を拝見し、鞘離れについてつらつらと考えた。

 私が最初に学んだA流では、逆袈裟での抜き付けの際は、右手を柄にかけて抜きはじめる段階で、鞘を返して(天神差しの状態)抜けと教えられた。一方で、後年学んだB流では逆袈裟でも、鞘離れから切先を飛ばすような抜き付けでも、「鞘は返すな」と教えられた。

 市村おもえらく、これはどちらが良いとか悪いとかいうものではなく、流儀ごとの戦術・戦略の違いであるので、本質的に優劣はない。同様に、こうした事例は、なにも居合・抜刀術に限らず、剣術でも体術でも、あるいは手裏剣術でもよくあることだ。

 たとえば、私が稽古した剣術は、C流もD流も、柄の握りは右拳と左拳の間を非常に広く(拳2つ分以上)とる流儀であったが、逆に「左右の拳の間は指2本分程度」という流儀もある。

 体験的に言えば、両拳の間を広くとると、剣先での巻き落としだとか、剣を打ち合わせた状態からの変化(剣の操作)が、比較的容易である。このため、木太刀で積極的に打ち合うような組太刀の多い流儀などでは、比較的広い柄の握りの流儀が多いのではなかろうか。

 一方で、このように柄の握りが広い場合、柄に対して中心(なかご)の飲み込みが浅い拵の場合、斬りの稽古(試斬)の際に、柄が折れやすくなる、つまり打ち合った際に柄が折れやすい、というデメリットがある。一度実際に、畳表を斬る際に、柄が折れたケースを見たことがあるが、あれは本当に危ない・・・。

 そういう意味で、本身や居合刀を使った稽古が中心となる居合術の流儀では、比較的柄の握りの両拳の幅は狭いように思われる(あくまで一般論として)。


 ことほどさように、その流儀の戦略や戦術、思想が違えば、鞘離れにしても柄の握りにしても、いずれも日本剣術の根幹となるような重要な点であるにもかかわらず、これだけ違いが出るものであり、その違いは単純な優劣で評価できないものなのだ。


 さて、では、これが手裏剣術についてはどうか?

 たとえば分かりやすいのは、「軽量剣か重量剣か?」という対比があろう。

 これについても、おのおのの流儀の戦略と戦術、思想によって、それぞれの言い分があろうし、それについての優劣は、本質的には意味がないだろう。私個人も武術的な視点から考えて、軽量剣には軽量剣のメリット・デメリットを感じるし、重量剣にしても同じである。

 しかし、明らかに(物理法則上)不合理な形(形状・重量)の剣というのも実際見受けられるし、少なくとも「武術」と名乗るにはあまりに非力な剣というのもある。

 これらについては、流儀としての戦略や戦術、思想を云々する以前に、根本的に武芸としての意味(機能と威力)を消失しているという点でいかがなものかと思うわけだが、一方で、「ではなんで、わざわざこんな形にしたんだろうか?」というナゾも深まるのである。

 ここで、「いやじつは、この一見使えない剣には、口伝があって、それを知ればオソルベキ威力を発揮するのだ。その口伝とは・・・」などとアオルと、達人幻想満載の人々には大うけするのだろうが・・・。

 実際のところは先人が試行錯誤の過程で、あまり深く考えないでできた形だったりすることも、少なくないのではないか? と愚考するのは、現代手裏剣術家たる私の古流に対するヒガミというわけではない(笑)。


 古人の知恵や技術に敬意を払うのはとても大切なことだし、実際に驚くべき「術」があったであろうことは否定しないが、そうした思い入れが行過ぎると、妄信の果てにカルト化が始まってしまう。そういう実例が、今の日本の武術・武道界に少なくないのも、また事実なのである。

 大切なのは、温故知新のバランス感覚と、それを担保するための科学的な論理性、そしてなにより日々の実践、つまり地道で合理的な稽古の積み重ねなのではないだろうか。

(了)
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