われわれはなぜ、武人でありたいのか?/(武術・武道)
- 2010/03/26(Fri) -
 そもそもなにを好き好んで、われわれは、21世紀の今、手裏剣を打ったり、刀を振ったり、殴ったり、蹴ったり、投げたり、極めたり、etc…、剣呑なことをしているのだろうか?

 簡略に言えば、「なぜ武術・武道をたしなむのか?」。

 こうした根源的な問いは、折にふれて自問した方が良いであろう。

 そういう意味で、「古武術が永久に抱える歪み」 と題した、無冥流・松の間(http://www.mumyouan.com/k/matunoma.html)の最新の一文は、読む人によって激しい賛否両論があるだろうが、今の時代に武術・武道をたしなむ者であれば、一読する価値のあるものと思う。

 ことに執筆者である無冥流・鈴木崩残氏自身が、現代を代表する卓越した手裏剣術家である一方で、いわゆる武術・武道家ではないだけに、われわれ武術・武道人に突きつけられたその問いは、痛烈かつ根源的だ。

 禅的世界を深く極めた崩残氏による、日本の武術・武道界や武術・武道人に対する問いの厳しさに、個々がどう内省し自答するのかは、非常に興味深いものといえよう。


 さて、

 では、現代における武術・武道の目的はなにか?

 われわれが武術・武道を行ずる目的とはなにか?


 市村おもえらく、

武術・武道の目的は、稽古を通し「護身」「健身」「修身」を学び、結果として人格陶冶をめざす。

 これに尽きる。

 以下、簡単に思うところをつづってみたい。


■護身

 護身といっても、手裏剣で身を守れとか、日常生活で真剣を持ち歩け、などということではない。

 普段から手裏剣を持ち歩いたり、刀を携帯するような者は、そもそも、その段階で現代の武人として三流以下である。

 いや、それどころか、社会人としての常識を逸しているという点で、人間失格だ。

 徒手だろうが、武具を扱うものだろうが、武術・武道の研鑽による現代の護身術とは、稽古によって学んだ「先」や「間積り」、「位取り」などという、武術・武道の根源的な理合によって、自分と自分の周りの人々を守ることである。

 逆に言えば、「先」や「拍子」、「間積り」や「位取り」などといった理合を、頭と体の両方で理解していない者が、表面的な技を100も200も覚えたからといって、あるいは武器のたぐいをいくらもてあそんだからといって、護身術としては、何の役にもたたない。

 それどころか、むしろこうした技コレクターや、武器マニアは害悪であすらある。

 昔から、「生兵法はケガの元」とか、「キチガイに刃物」というではないか。

 ところがこういう輩に限って、「私は殺人術、必殺技を体得している」とか、「試合では勝てないが、実戦なら負けない」などと、ショッパイことを言うのである。

 「引かれ者の小唄」とはこのことだ。


 日常生活や対人関係における「先」と「拍子」、「間積り」や「位取り」。

 これこそが現代社会で有効な本当の護身術であり、先人の積み上げてきたこれらの貴重な実学を、体を通して学ぶのが武術・武道の稽古である。

 ゆえに、トラブルに巻き込まれた時点で「武道未熟」なのだ。

 その上で力及ばず、不本意にも身体的な危険や暴力に直面してしまった時には、必要最小限の武力(神武不殺)をもって、自分自身と周囲の人を、今直面している危険な情況から無事に回避・離脱させるのが、平成という時代に生きる武人の護身術である。

 こうした点で、「●●流より、××流の方が実戦的」だとか、「△△道より、◎◎術の方が、護身に役立つ」などという無意味な議論をする者がいまだにいるが、いやしくも日本の武術・武道であれば流儀や会派に限らず、その根本原理には必ず「先」、「拍子」、「間積り」、「位取り」といった概念があるわけで、きちんとした師につけば、流儀や会派による護身術としての優劣はほとんどない。

 ただし、日本の武芸十八般の中で、こうした武術的理合の教習体系が、未熟・未整理なものもある。

 そのひとつが、手裏剣術である。

 「武術としての手裏剣術」の、未成熟さや未体系化については本ブログでも度々論考している通りであり、今回のテーマとは離れるので、ここでは詳しくはふれない。


■健身

 身体の健康が、精神の健康に通じることは、言うまでもない。

 そして適度な運動が、心身の健康に有益なことも、またしかりである。

 武術・武道は、当然ながら体を動かして行ずるものなので、形稽古が中心の古流であろうが、試合や競技を重んずる現代武道であろうが、すくなくとも家でパソコンを2時間眺めているよりも、2時間なんらかの武術・武道の稽古をする方が健康増進の効果は高い。

 当たり前だ。

 ただし不適切な指導や、無意味なしごきなどがなければ、という前提であるが。
 
 健康は、すべての人間活動の根本であり、それを維持することは、万人の求めるものである。

 この万人が求める「健康でありたい」という願いに対し、武術・武道の稽古は、多いに貢献できるものだ。

 心身の健康促進のための生涯武術・武道の意義は、少子化と高齢化が同時かつ急激に進む今、ますます高まっているといえよう。


■修身

 日本の武術・武道は、室町時代の流儀発祥からはじまり、江戸時代の封建体制下で多いに花開いた。

 このため、稽古の一環である礼法や立ち居振る舞い、身の処し方などは、日本の伝統文化を体現しているものである。

 数ある日本の伝統文化の中でも、宗教、美術、工芸、芸能、建築、食、服飾、身体操作などを含めた、広範囲にわたる日本特有の伝統文化の総合的・全人的な体現という点では、茶道がその頂点にあることは論をまたない。

 しかし、武術・武道の末席を占める者として、われわれが行ずる武術・武道も、茶の湯に勝るとも劣らない「日本伝統文化の総合的体現」と誇りを持ちたい。

 総合的な日本文化を学び、実学としてそれを実践するということは、結果として人としての品位を高めることとなる。

 品位を高めること、これが修身である。

 逆にいえば、どんなに高段者だろうと、宗家だろうと、会派の長だろうと、その行為や言動が人として品位に欠けるような者は、「武道未熟」ということである。

 では、人としての品位とは、いったい何か?

 稽古を通して、それを模索すること。

 その結果として、人の品位を高めてゆくのが武術・武道である。

 
■護身・健身・修身の結果としての、人格の陶冶

 「武道の目的は、人格の陶冶にある」という言葉を、われわれは初学の頃から、うんざりするほど聞かされてきた。

 一方で残念ながら、武術・武道人でありながら、それどころか高段者や指導者でありながら、人格がまったく陶冶されていない者がいることも、われわれは知っている。

 根源的に、武術・武道は古来の殺生事を基盤としている。

 それゆえ武術・武道人は、逆説として「もののあわれ」や「惻隠の情」、「盛者必衰」、「無常観」、「謙譲の美徳」などという日本的精神のあり方を、稽古を通して一般の人以上にシビアに突きつけられ、感じ、そして思索するのである。

 本来の武術・武道は、こうした稽古のハタラキによって、おのずから人格が厳しく陶冶されるものなのだ。

 ところが、殺生事の魔力にとらわれて暴力に酔う者、利権と金に目がくらむ者、周囲におだてられ組織の小さな権力におぼれる者も少なくないのが現実である。

 「あの人も、昔は立派だったのだが・・・」

 四半世紀以上、武術・武道の世界にかかわってきて、何度、こんな台詞を聞いたことか。

 他流の師範方との対話でも、「本当に武術・武道は人格を陶冶しているか?」という話題になると、「必ずしもそうではない」、「実際のところ、陶冶されないのでは?」という本音を聞くことも多い。

 しかし私個人は、それでも日本の武術・武道には、人格を陶冶する力とそれを学ぶ階梯が、確かにあると信じている。


 さて、本来、人格を陶冶することだけが目的であるならば、なにも武術・武道である必要はない。

 ではなぜ、われわれは、「武術・武道を通して人格を陶冶したい」のか?

 簡潔にいえば、「なぜ、武人でありたいのか?」

 循環論法や禅問答めいてしまうが、結局はこうした「問い」を稽古という実践を通し心身で思索していくことが、武術・武道を通しての人格の陶冶なのだと、私は考えている。

(了)
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